第九十九話 三年前に「今月は出たくない」と言った青年は、外へ出たくなった日を自分でも覚えていませんでした
三年前に『今月は出たくない』と答えた人物には、もちろん名前がある。
管理記録の一覧を追っている間、ノルンたちは便宜上『外出記録の対象者』として扱っていた。しかし実際にその言葉を口にし、三年間を過ごしてきたのは、記録番号でも事例でもない。
エリオット・バーンズ。
二十四歳。
管理区域では、ほとんどの職員からエリオと呼ばれている。
三年前、この世界へ誤転生した直後の彼は、人の多い場所をひどく嫌っていた。
前世の記憶がある。
別の世界で生きた記憶も、この世界で生きている今の感覚もある。
だが、その二つをどう自分の中へ置けばいいのか分からない時期が長かった。
管理区域へ来た当初、外出の案内を受けた時にも、エリオは何度か首を振っている。
『知らない場所を見ても疲れるだけだから』
『今はいい』
『外に出ると、こっちの世界にいるって感じが強くなるから嫌だ』
それらは詳細記録に残っていた。
だから三年前の、
『今月は出たくない』
も、不自然な発言ではない。
少なくとも、その時のエリオは本当に外へ出たくなかった。
問題は、その一か月が終わったあとだった。
◇
翌朝。
ノルンが管理区域へ到着すると、セレナが珍しく自席にいなかった。
机の上には端末と資料が置かれているので、出勤はしているらしい。ノルンが通常確認を始めて数分すると、廊下側の扉が開き、セレナが戻ってきた。
「おはようございます」
「おはようございます。どちらへ?」
「エリオさんの担当者と話してました」
昨日、三年前の記録処理について説明を受けた人物。
名前が出たことで、ノルンはすぐに結び付ける。
「何かありましたか?」
「昨日の夜、本人から話があったそうです」
セレナは座らず、端末を持ったままノルンの机へ近づいた。
「昨日は『分かった』で終わったじゃないですか」
「はい」
「そのあと、夜になってから担当者のところへ来たそうです」
ノルンは通常確認の画面を一度閉じた。
「内容を見せてください」
セレナが端末を置く。
昨夜二十一時十三分。
生活区域の談話室。
エリオ本人から担当者へ声をかけた。
最初の言葉。
『あのさ。昼の話、もう一回していい?』
担当者は応じた。
エリオはすぐには座らず、窓際に立ったまま話したらしい。
『三年って言ってたよな』
『はい』
『俺が出たくないって言ったから、三年、外の話しなかったんだよな』
担当者は昨日と同じ説明をした。
『正確には、「今月は出たくない」という発言が一覧上では「外出希望なし」と表示され、その後の案内時にその表示が参照されていました』
『それ、俺が言ったことになってたんだよな』
『一覧上ではそう読める状態でした』
そこでエリオはしばらく黙った。
そして、
『なんかさ』
と続けた。
『昼は、別にいいと思ったんだよ』
担当者は待った。
『昔の俺、本当に外嫌いだったし。聞かれても断ってたし。だから、まあ、そりゃそうなるかって』
少し笑ったらしい。
ただ、記録担当者はその笑いを『納得』とは解釈せず、
『本人、短く笑う』
とだけ残している。
『でも部屋戻ってから考えたら、なんか腹立ってきた』
セレナの指が、その一文の上で止まった。
「昨日の時点では怒ってなかったんじゃなくて」
「昨日の説明中には、強い怒りを表していなかった、ですね」
「はい」
ノルンは続きを読む。
『何に腹が立っているか、ご自身で分かりますか?』
担当者の問い。
『分かんない』
エリオはそう答えた。
『外に出られなかったことなのか、俺が言ってないことを言ったみたいになってたことなのか、分かんない』
『はい』
『だって俺、「ずっと出たくない」なんて言ってないだろ』
『言っていません』
『でも、そっちではそうなってた』
『一覧上では、期間情報が落ちていました』
『それが腹立つ』
今度は明確だった。
エリオはそこで椅子へ座った。
『俺、三年前の自分が嫌だったんだよ』
ノルンの視線が止まる。
その先には、これまで一覧には現れていなかったエリオ自身の言葉が続いていた。
『何でも嫌って言ってた。外も嫌、人と話すのも嫌、こっちの食い物も嫌。前の世界に戻れないって言われても、分かりましたなんて思えなかったし』
担当者は途中で説明を挟まなかった。
『でも、ずっとあの時の俺だったわけじゃない』
エリオはそう言った。
『なのに、昨日までの記録だけ見たら、俺って三年間ずっと外に出たくなかった人なんだろ?』
『一覧表示だけなら、そのように読まれる可能性があります』
『それが嫌だ』
短い言葉だった。
だが、その後には長い沈黙が記録されている。
『俺、変わったって言いたいわけじゃない』
『はい』
『成長したとかもいらない』
『はい』
『今でも人多いとこ嫌いだし』
『はい』
『王都の真ん中とか行けって言われても絶対嫌だし』
『分かりました』
『でも……』
そこでエリオは言葉に詰まった。
記録には、
『本人、約二十秒沈黙』
とある。
『窓から見える公園、あるだろ』
『はい』
『あそこ、前からちょっと気になってた』
『いつ頃からですか?』
『それが分かんないんだよ』
エリオは苛立ったように髪を掻いたらしい。
『だから余計むかつく』
『分からないことが、ですか?』
『違う。……いや、それもある』
さらに沈黙。
『去年だった気もするし、もっと前だった気もする。春に花咲いてるの見た時かもしれないし、冬に誰もいなくて静かそうだと思った時かもしれない』
『はい』
『でも、俺から「行きたい」って言うほどじゃなかった』
その言葉を、ノルンはゆっくり読み直した。
『行きたいっていうか……行ってもいいかな、くらい』
エリオは続けている。
『誰かに「今日どうする?」って聞かれたら、そのうち一回くらい「行く」って言ってたかもしれない』
『そう思いますか?』
『分かんない』
すぐに否定する。
『今だからそう思ってるだけかもしれない』
そして、
『だから、勝手に「三年前から本当は行きたかった」とか書くなよ』
担当者は、
『書きません』
と答えていた。
エリオはそこで初めて少し落ち着いたらしい。
「……かなり具体的に話してますね」
ノルンが言う。
「昨日よりずっと」
「説明を受けたあとで、自分の中で考える時間が必要だったのでしょう」
「昼に『分かった』って言ったから終わりじゃなかった」
「はい」
セレナは椅子を引き、今度こそ座った。
「私、昨日の記録見た時、ちょっと安心したんですよ」
「本人が強く怒らなかったからですか?」
「たぶん」
セレナは正直に答える。
「『分かった』って言って、公園の話に移ったから。思ってたより大丈夫だったんだって」
「そう感じたのですね」
「でも大丈夫じゃなかった」
「それも少し違うかもしれません」
セレナが顔を上げる。
「昨日の昼に説明を受けた時の『分かった』も、昨夜の『腹が立った』も、どちらも本人の反応です」
「あとから怒ったから、昼の方が嘘だったわけじゃない」
「そう思います」
説明された瞬間に、自分が何を感じているか整理できるとは限らない。
その場では理解する。
部屋へ戻る。
食事をする。
一人になる。
それから急に、別の感情が追いついてくることもある。
「今日、本人にもう一回聞きます?」
「何をですか?」
「まだ怒ってるか」
「必要ですか?」
セレナは口を閉じた。
「……いらないか」
「本人から話したくなった時に話せる状態は必要です。ただ、こちらが感情の最新値を取りに行く必要はありません」
「昨日のミレイアと同じで、毎日測らない」
「対象も状況も違いますが、その点ではそうです」
「はい」
セレナは昨夜の記録へ視線を戻す。
「エリオさん、今日公園行くのかな」
「日程は決めていません」
「来週候補を見せてって言ってましたね」
「はい」
「でも昨日の夜、公園気になってたって話した」
「それでも日程が決まったことにはなりません」
「……危ない」
「何がですか?」
「私、今ちょっと『じゃあ公園行きたいんだ』って思った」
ノルンは頷いた。
「関心があることと、実施を決めることは分けましょう」
「はい」
◇
エリオはその朝、いつもと同じ時間に食堂へ来た。
寝不足というほどではない。
ただ、昨夜遅くまで考えていたせいか、目の下に少しだけ疲れが残っている。
「おはよう」
生活担当のラウルが声をかける。
三十代後半の男性で、エリオが管理区域へ来た頃から何度も顔を合わせている。
「おはよ」
「眠れた?」
「普通」
「そう」
それ以上は聞かない。
エリオは朝食を受け取り、いつもの窓際の席へ座った。
パン。
卵料理。
温かいスープ。
食べながら、窓の外を見る。
建物の二階にある食堂からは、管理区域の外周道路と、その向こうに並ぶ街路樹が見える。
公園はここからでは見えない。
昨夜話した窓は、生活区域西側の談話室にある。
そこからなら木々の上半分だけ見える。
三年前。
エリオは、その窓が嫌いだった。
外が見えるから。
自分の知らない人間が歩いている。
知らない服を着て。
知らない店へ行き。
自分には分からない習慣の中で生活している。
それを見るたび、
自分だけが違う場所から落ちてきたような感覚が強くなった。
だからカーテンを閉めたこともある。
ラウルに、
『明るいから開けてもいい?』
と聞かれ、
『嫌だ』
と答えたことも覚えている。
ラウルは閉めたままにした。
その時は、それでよかった。
外出なんて考えられなかった。
知らない世界をもっと近くで見るくらいなら、部屋にいたかった。
「エリオ」
「ん?」
気づくとラウルが向かいに立っていた。
「スープ冷めるぞ」
「……ああ」
「考え事?」
「ちょっと」
「昨日の?」
エリオの手が止まる。
ラウルはすぐに、
「話したくなければいい」
と付け足した。
「……昨日さ」
「うん」
「俺、結構怒ってた?」
「夜は?」
「うん」
「俺にはそう見えた」
「そっか」
エリオはスプーンでスープを混ぜる。
「嫌だった?」
「何が?」
「俺が怒ったの」
ラウルは少し驚いたように目を瞬いた。
「なんで俺が?」
「管理側だから」
「俺も管理側ではあるけど」
「じゃあ嫌じゃないの?」
「嬉しくはないかな」
正直な返事だった。
エリオが顔を上げる。
「でも、怒らないでほしいとは思わない」
「……変なの」
「そう?」
「普通、怒られたくないだろ」
「そりゃ怒鳴られるのは怖いよ」
「俺、怒鳴ってない」
「うん。だから助かった」
ラウルは笑った。
エリオは少しだけ口元を緩め、パンをちぎる。
「昨日さ、言ったじゃん」
「公園?」
「それもだけど」
「何?」
「三年前の俺が嫌だったって」
「うん」
「でも、あれも違う気がしてきた」
ラウルは何も言わず待つ。
「嫌いっていうか……」
エリオは言葉を探した。
三年前の自分。
何もかも拒絶していた。
職員が親切に説明しても、
『知らない』
と返した。
食事を勧められても、
『前の方がうまかった』
と言った。
新しい服を渡されても、
『こんなの着たくない』
と突き返したこともある。
今思えば、面倒な人間だった。
けれど。
「仕方なかった気もする」
エリオは小さく言った。
「何が?」
「だって、急に知らない世界来て、戻れませんって言われてさ」
「うん」
「二十一だったんだぞ、俺」
「そうだったね」
「家族もいたし」
その言葉のあと、エリオの視線が落ちた。
前世の家族。
もう会えない。
それは三年経った今も変わらない。
この世界で新しい生活ができたからといって、前の世界の家族がどうでもよくなったわけではない。
「母ちゃん、泣いてたかな」
唐突に出た言葉だった。
ラウルは答えられない。
「分からない」
「だよな」
「うん」
「死んだことになってんのかな」
「それも、こちらでは確認できない」
「知ってる」
エリオはパンを置いた。
少し食欲が落ちたようだった。
「だからさ。あの時の俺、嫌なやつだったけど……あれしかできなかったのかも」
ラウルは頷く。
「そう思う?」
「今は」
「記録に残す?」
エリオは考える。
「それ、残す必要ある?」
「俺は今のところ必要だとは思ってない」
「じゃあいらない」
「分かった」
「でも」
「うん」
「昨日怒ったのは残ってるんだろ?」
「残ってる」
「消さなくていい」
「分かった」
エリオはスープを一口飲む。
もうぬるくなっていた。
「俺があとで『別に気にしてない』って言っても?」
「昨日怒ったこと自体を消してほしいって言わない限りは、昨日の記録として残る」
「そっか」
「消してほしい?」
「いや」
エリオは首を振った。
「腹立ったの、本当だし」
そして少し間を置く。
「でも、三年前の俺も嘘じゃない」
「うん」
「今月は出たくないって言ったのも、本当」
「うん」
「……なんか面倒だな」
「何が?」
「俺」
ラウルが笑った。
「人ってそんなもんじゃない?」
「知らねえよ」
「俺も全部は知らない」
「担当なのに?」
「担当だからってエリオの中身全部分かったら怖いだろ」
「それは怖い」
二人とも少し笑った。
エリオは残っていたパンを食べ始めた。
食欲は完全には戻っていない。
それでも、朝食を残すほどではなかった。
◇
午前中、ノルンは第十三版を開かなかった。
昨日までに見つかった内容を整理し、現在の記録方式との比較表を作っていた。
継続意思。
接続希望。
実施時受容。
情報共有。
現在では分けられているものが、どの時期に一つの概念として扱われ、いつ分離されたのか。
すでに大まかな流れは見えている。
だからこそ、ここで先へ進みすぎない。
途中で見つかった問題を整理しないまま次の版へ進めば、後からどの時点の考え方だったのか分からなくなる。
「ノルンさん」
セレナが向かいから声をかける。
「はい」
「一覧の試案、ちょっと変えてみました」
表示される。
昨日までの案は、
『本人発言・最終確認時点』
『管理上の現在状態』
『現在の対応方針』
の三つ。
そこへ小さな項目が追加されていた。
『適用範囲』
「期間とか対象をここに出そうかなって」
「すべての項目に?」
「そこなんですよ」
セレナは眉を寄せる。
「全部に付けると邪魔なんです」
「でしょうね」
「だから条件がある発言だけ表示する」
「誰が条件ありと判断しますか?」
「……入力した人」
「その判断で落ちたのが、エリオさんの『今月は』では?」
「ですよね!」
セレナが机へ突っ伏しかけ、寸前で止まる。
「じゃあどうすればいいの」
「私に聞かれても、まだ分かりません」
「そこを何とか」
「まず、一覧表示の問題と入力構造の問題を分けませんか?」
セレナが顔を上げる。
「入力?」
「『今月は出たくない』を自由記述だけで保存するのではなく、期間指定がある場合に別項目として保持する方法です」
「あ」
「表示するかどうかは、その情報を利用する場面ごとに考える」
「期間が入力されてたら、期限過ぎた時に警告出せる?」
「可能でしょう」
「自動で『希望なし』を消す?」
「それはしません」
「ですよね」
ノルンは即答した。
期間が終わったからといって、本人の希望が自動的に反転するわけではない。
『今月は出たくない』
の翌月に、
『出たい』
になるとは限らない。
『分からない』
かもしれない。
『まだ出たくない』
かもしれない。
「じゃあ期限が切れたら、『再確認が必要』?」
「それも、すべての場合に必要とは限りません」
「うわあ……」
「例えば本人が『今週は家族へ連絡しないで』と言った場合、翌週になった瞬間に家族連絡の希望を聞きに行く必要があるでしょうか」
「本人が家族連絡を必要としてなければ、いらない?」
「少なくとも自動的な再質問は避けたいです」
「じゃあ表示だけ、『期間終了・現在未確認』?」
「候補ですね」
「また候補」
「まだ試験中です」
セレナは唸りながら入力する。
「エリオさんの件、期間終わった三年前の翌月にこれが出てたら、誰かが気づいたかな」
「可能性はあります」
「外出案内の時に『現在未確認』って見えたら」
「少なくとも『希望なし』を現在状態として使い続けることは減ったでしょう」
「絶対じゃない」
「はい」
「でも、やった方がいい気がする」
「試験しましょう」
セレナの表情が少し明るくなる。
「やります」
◇
昼前、フローラは屋敷の庭を歩いていた。
昨日の腕の疲れはまだ少し残っている。
だから今日は剣術や乗馬の予定を入れていない。
庭園の奥では庭師が冬へ向けた手入れを始めており、夏の名残を残していた花壇も少しずつ色を減らしている。
フローラは温室へ続く道の途中で足を止めた。
昨日の慈善行事で知り合ったマリエのことを、ふと思い出したからだ。
連絡先は聞いていない。
南区の雑貨店。
父親が経営している。
それだけ。
探そうと思えば探せる。
けれど昨日、母親から、
『次に会えたら聞いてみたら』
と言われ、それでいいと思った。
今も気持ちは変わっていない。
「お嬢様」
後ろから侍女が声をかける。
「何?」
「先ほど、慈善行事の主催団体より追加のお知らせが届きました」
「追加?」
「昨日の参加者向けに、作業結果の報告だそうです」
「見たい」
屋敷へ戻り、書簡を受け取る。
昨日分類した寄付品の概数。
冬物衣類。
毛布。
生活用品。
補修確認へ回った数。
今後、配布先ごとの最終確認を行う予定。
その中に、
『昨日の分類作業により、予定していた二日分の一次確認のうち、およそ七割を初日で完了しました』
とある。
「七割」
フローラは小さく呟いた。
自分がどれだけやったのかは分からない。
参加者全員と職員で進めた結果だ。
それでも昨日の作業が、この数字の中に入っている。
「すごいですね」
侍女が言う。
「うん」
「お嬢様も頑張られましたものね」
フローラは少し嬉しくなった。
けれど、すぐに別の部分を見る。
『残る一次確認は、本日および翌日の担当者にて継続予定』
「まだ終わってない」
「はい」
「昨日あんなにやったのに」
「多くの寄付がございましたから」
「そっか」
昨日、自分が帰ったあとも仕事は残っている。
今日も誰かが続きをしている。
自分が参加した一日だけで全部が終わったわけではない。
「マリエもこれ見てるかな」
「参加者の方へ一斉に送られているのでしたら、おそらく」
「そっか」
フローラは書簡を畳んだ。
会いたい。
というほど大げさな気持ちではない。
ただ、昨日隣で作業した少女も同じ報告を見て、
『七割だって』
と思っているのかもしれない。
そう考えると、少しだけ楽しかった。
◇
午後。
エリオは生活区域西側の談話室にいた。
昨夜、担当者へ話をした場所。
窓際の椅子へ座り、本を開いている。
ただし、ほとんど読んでいない。
窓の外を何度も見ている。
建物の向こう。
少し離れたところに木々が見える。
近隣公園。
管理区域から歩いて十分ほど。
大きくはない。
中央に池があり、遊歩道が一本。
売店もない。
人通りも王都中心部と比べれば少ない。
三年前のエリオなら、それでも嫌だった。
管理区域の門を出ること自体が嫌だった。
この世界を受け入れたような気がするから。
新しい世界で散歩なんてしたら、前の世界を諦めたみたいに感じたから。
今は。
「……別に、歩くだけだろ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
それでも胸の奥が少しざわつく。
外へ出る。
三年ぶり。
正確には、管理上必要な移動で外へ出たことはある。
治療施設への移動。
手続き。
ただ、自分が行きたい場所を選んで出るのは初めてになる。
窓の外を見ていると、ラウルが入ってきた。
「ここにいた」
「何?」
「探してたわけじゃないよ。休憩」
ラウルは少し離れた椅子へ座る。
エリオは本へ視線を戻した。
数分、会話はない。
ラウルが水を飲む。
エリオは同じ行を三回読んだ。
「なあ」
「うん」
「公園って」
「うん」
「一人で行くの?」
ラウルは答える。
「最初の外出なら、職員が同行することもできる」
「ずっと隣?」
「希望次第。安全確認ができる範囲で距離を取ることもできるよ」
「お前?」
「俺がいいなら調整できるかもしれない」
「別にお前がいいってわけじゃない」
「うん」
「でも知らないやつは嫌」
「じゃあ、知ってる職員がいい?」
「……そう」
「分かった」
「まだ行くって決めてないからな」
「分かってる」
「勝手に予定入れるなよ」
「入れないよ」
「来週、候補見せるだけ」
「うん」
エリオは少し不満そうにラウルを見る。
「なんでそんな素直なんだよ」
「何が?」
「もっと『せっかくだから行こう』とか言わないの?」
「言ってほしい?」
「いや」
「じゃあ言わない」
「……そう」
エリオはまた本を見る。
数秒後。
「でもさ」
「うん」
「雨だったら?」
「公園?」
「もし行くことになって、その日雨だったら」
「延期するか、別の場所にするか、雨でも行くか。決めればいいんじゃない?」
「雨で公園は嫌だ」
「じゃあ延期かな」
「それもその時決める?」
「そうだね」
「めんどくさいな」
「何が?」
「いちいち決めるの」
ラウルは笑う。
「全部一回で決めてもいいよ」
「それは嫌」
「じゃあ仕方ない」
「……うるさい」
エリオは本で口元を隠した。
ラウルはそれ以上話しかけなかった。
窓の向こうでは、風に木の枝が揺れている。
エリオはしばらくして、またその方向を見た。
公園へ行くとは、まだ決めていない。
それでも、雨だったらどうするかを考えた。
自分でも少しおかしいと思った。
◇
午後の通常業務を終えたノルンは、ようやく第十三版の続きを開いた。
昨日止めた場所。
『過去の継続希望は、その時点の本人意思として保持する。現在の拒否によって過去の希望を誤りとして訂正しない。また、過去の希望を理由に現在の拒否を一時的混乱として扱わない。』
その次にあったのは、教育用の事例集だった。
一例目。
『接続者Aは一週間前、「再応答があればすぐ接続したい」と発言した。再応答発生時、本人は体調不良を理由に接続を拒否した。』
旧方式なら、事前継続意思を基に接続を開始する可能性があった。
第十三版では、
『現在拒否を優先』
とされている。
二例目。
『接続者Bは継続意思を撤回した三日後、自ら再接続希望を表明した。』
解説。
『過去の撤回を理由に現在希望を疑わない。急激な意思変更であっても、それのみを判断能力低下の根拠としない。』
三例目。
『接続者Cは再接続希望について「どちらでもよい」と回答。』
推奨対応。
『管理側で一方を選択せず、本人が選択を委ねる意思を有するか確認する。』
ノルンの指が止まる。
「そこ、今も問題になってるやつ?」
主様が覗き込む。
「『どちらでもいい』の扱いですね」
「昔からあるんだ」
「少なくとも第十三版にはあります」
続きを読む。
『「どちらでもよい」は、接続希望と拒否が等価であることを必ずしも意味しない。選択負担からの回避、管理者への委任、判断材料不足、結果への低関心等、複数の状態を含み得る。』
「詳しい」
「かなり慎重ですね」
ところが、その下にある実務簡略欄では、
『判断困難時:原則保留』
とまとめられている。
ノルンはしばらく両方を見比べた。
「上は細かいのに、下は一個だね」
「実務上、最終的に何をするかを短く示す必要があったのでしょう」
「また短くする」
「短くすること自体が悪いわけではありません」
「でも、これだけ見たら?」
「『どちらでもいい』は全部保留になる可能性があります」
「本人が『そっちで決めて』って本当に任せたかったとしても?」
「その可能性があります」
第十三版は、以前の版より細かな違いを認識している。
しかし、それを実際の手順へ完全には落とし込めていない。
知っていることと、運用できることは別だった。
「今の一覧と似てる?」
「似た課題はあります」
「同じではない」
「はい」
「言う前に言った」
「覚えてきましたね」
主様が目を丸くする。
「今、褒めた?」
「事実を確認しました」
「セレナと同じ扱い」
ノルンは答えず、次の編集記録を開いた。
そこには、第十三版作成時の議論が残っている。
『本人意思の細分化は望ましいが、接続機会の短時間性を考慮すると、現場判断項目を増やしすぎるべきではない。』
別の意見。
『技術安定化により猶予時間は延長したが、全接続が長時間保持可能になったわけではない。』
さらに、
『詳細確認を理想化することで、本人へ過度な質問を行う危険もある。』
ノルンはそこで画面を止めた。
「質問しすぎる危険も分かってたんだ」
「はい」
「じゃあ今とそんなに変わらない?」
「問題の種類には共通点があります。ただ、技術条件と利用できる記録方式が違います」
今なら、複数項目を別々に保持できる。
接続窓も当時より安定している。
だから現在は、より細かな確認が可能になった。
しかし可能だからといって、毎回すべてを聞けばいいわけではない。
ミレイアへ毎日、
『今日は聞きたいですか』
『怖さはいくつですか』
『接続しますか』
と確認すれば、本人の負担になる。
ルークへ毎日、
『まだ九人に会いたいですか』
と尋ねる必要もない。
「技術が進んでも、聞きすぎる問題は残る」
「そうですね」
「じゃあ完全な制度って無理?」
主様の問いに、ノルンは少し考えた。
「少なくとも、本人の代わりにすべて決めてくれる制度は作らない方がよいと思います」
「制度なのに?」
「制度が決めるのは、本人へ決定を返すための手順です」
主様はしばらく黙り、やがて小さく頷いた。
「なるほど」
ノルンは第十三版を閉じた。
「もう?」
「今日はここまでです」
「まだ二十分あるよ」
「知っています」
「慣れたけど一応言ってみた」
「ありがとうございます」
◇
夕方。
ミレイアは昨日買った青い糸で、花の影を刺していた。
明るい方を選んだ。
エリスは近くで別の作業をしている。
会話は少ない。
しばらくしてミレイアが布を持ち上げ、窓から入る光へ透かした。
『ちょっと明るすぎたかな』
エリスが見る。
『昨日、こちらの色の方がお好きだと話していましたね』
『うん』
『では、失敗ですか?』
ミレイアは布を見る。
『……別に』
針を置く。
『思ってたのとちょっと違うけど、これはこれでいい』
『そうですか』
『エリスは暗い方がいいって言ったよね』
『落ち着いて見えるのは、そちらだと思いました』
『やっぱり?』
『はい』
『でも直さない』
『分かりました』
それで終わるかと思った。
しかしミレイアは布を膝へ戻したあと、小さく言う。
『接続もさ』
エリスが顔を上げる。
『はい』
『やってから、思ってたのと違ったってなるかもしれないよね』
『可能性はあります』
『良かったってなるかもしれないし』
『はい』
『嫌だったってなるかもしれない』
『はい』
『それ、先に分かんないよね』
『すべてを事前に知ることは難しいです』
ミレイアは針先を見つめる。
『じゃあ、決めるの怖いの普通?』
エリスは少し考えた。
『普通かどうかは、私には決められません』
『そこは普通って言ってよ』
ミレイアが少し笑う。
エリスもわずかに口元を緩めた。
『少なくとも、結果が分からないことを決める時に不安を感じる人はいます』
『長い』
『申し訳ありません』
『別にいい』
ミレイアは一針進める。
『私、まだ決めない』
『分かりました』
『でも』
針が止まる。
『決める時、全部怖くなくなってからじゃなくてもいい?』
エリスは、その質問を慎重に受け取った。
『はい。ただし、怖さがある状態で決めなければならないという意味でもありません』
『……うん』
『怖さが残っていても接続したいと思えば、その状態で必要な安全条件を一緒に確認できます。怖さがあるからまだ決めたくないと思えば、決めなくて構いません』
『ゼロにしなくていいんだ』
『はい』
『でもゼロになるまで待ってもいい』
『はい』
『ゼロにならなくても?』
『待つことを選ぶなら』
ミレイアは少し考えた。
『分かった』
そしてすぐ、
『今の、ルークには言わないで』
『共有しません』
『記録は?』
『残しますか?』
ミレイアは迷った。
数秒。
『……「全部怖くなくならないと決めちゃ駄目だと思ってた」ってところだけ残して』
『現在の接続希望に変更はないことも併記しますか?』
『うん』
『分かりました』
エリスはそれ以上尋ねなかった。
ミレイアは刺繍へ戻る。
明るすぎたかもしれない青い糸。
でも、ほどかない。
それは接続の答えではない。
ただ、今日の刺繍についての答えだった。
◇
夕食前。
エリオは再び西側談話室へ来ていた。
今度は本を持っていない。
窓際に立つ。
夕日が建物の間へ落ち、遠くの木々を橙色に染めている。
公園の木だ。
たぶん。
三年前は、外を見たくなかった。
いつから窓を見るようになったのか。
分からない。
最初は天気を確認しただけかもしれない。
雨が降っている。
雪が積もっている。
木の葉が増えた。
減った。
そんなことを見ているうちに、外が『知らない世界』だけではなくなった。
それでも、行こうとは思わなかった。
いや。
思ったことがあるかもしれない。
分からない。
「くそ」
小さく呟く。
思い出そうとすると、余計に分からなくなる。
去年の春。
花が見えた。
その時に行きたいと思った?
違う気がする。
冬。
人が少なそうだった。
その時?
それも分からない。
「エリオ?」
後ろから声。
ラウルだった。
「また来たの?」
「悪いか」
「悪くないよ」
ラウルも窓の外を見る。
「公園見てた?」
「……うん」
「そう」
「なあ」
「うん」
「来週って言ったよな」
「候補を見せるのはね」
「明日は?」
ラウルがエリオを見る。
エリオはすぐに続けた。
「行くって意味じゃない」
「うん」
「候補見るだけ」
「明日見たい?」
「……見てもいい」
言ってから、エリオは顔をしかめる。
「今の、希望ありになる?」
ラウルは少し驚いた。
昨日の説明を受けたからこその質問だろう。
「『明日、外出候補を見てもいい』って記録するなら?」
「それならいい」
「公園へ行く希望あり、にはしない」
「うん」
「じゃあ明日、候補見る?」
エリオは窓の外を見る。
「見る」
「分かった」
「見るだけな」
「うん」
「行くかはその時決める」
「分かった」
「……あと」
「何?」
「もし行くなら」
「うん」
「人少ない時間がいい」
「それも候補条件として残す?」
エリオは少し考えた。
「残して」
「分かった」
「ラウル」
「何?」
「俺、面倒?」
朝にも似たことを聞いた。
今度は少し違う顔をしている。
ラウルは笑わなかった。
「面倒なことを考えてるとは思う」
「俺が面倒なんじゃん」
「違うよ」
「何が違うんだよ」
「エリオが面倒なんじゃなくて、エリオが決めようとしてることに、考えることがいっぱいあるってこと」
「同じじゃない?」
「俺には違う」
エリオは何も言わなかった。
窓の向こうを見る。
「……じゃあ明日」
「うん」
「候補だけ」
「分かった」
それで話は終わった。
◇
その記録がノルンへ届いたのは、終業直前だった。
ノルンは内容を読む。
『本人希望により、外出候補再提示を来週予定から明日へ変更。』
『明日は候補確認のみ。外出実施決定ではない。』
『本人条件希望:実施する場合は人の少ない時間帯を希望。』
『同行者については知っている職員を希望する可能性あり。確定せず。』
そして、
『本人より「今の『見てもいい』は外出希望ありになるか」と確認あり。候補閲覧への受容と外出実施希望を分離して記録する旨を説明。本人了承。』
ノルンは最後まで読み、静かに息を吐いた。
エリオは、昨日自分の言葉が三年間どう扱われていたのかを知った。
だから今日、
『見てもいい』
という自分の言葉が、何に変換されるのかを気にした。
これは単なる記録修正ではない。
記録のされ方を知った本人が、自分の言葉の残り方を確認し始めている。
「これ、いいことですかね」
セレナが横で尋ねる。
「何がですか?」
「エリオさんが記録を気にするようになったこと」
ノルンはすぐに答えなかった。
自分の言葉がどう扱われるかを知り、確認できる。
それは重要だ。
けれど、本来なら何気なく、
『見てもいい』
と言えた場面で、
『これは希望ありになるのか』
と警戒するようになったとも言える。
「利点だけではないと思います」
「やっぱり」
「管理への信頼が下がった可能性もあります」
「……うん」
「だから、本人が確認しなくても意図以上に強い記録へ変換されない仕組みが必要です」
「本人に毎回守ってもらうんじゃなくて」
「はい」
セレナは一覧試案を見る。
「ちゃんと作らないとな」
「急いで完成させないでください」
「分かってます」
「試験を続けましょう」
「はい」
◇
夜。
ノルンは帰宅前に個人用の予定を確認した。
日曜日。
十四時。
美咲と待ち合わせ。
新しい店。
混雑していれば別の場所。
時間と体力が残っていれば本屋。
旅行棚を見る。
予定は変わっていない。
スマートフォンに新しいメッセージもない。
それでいい。
主様が帰り支度をしながら尋ねる。
「明日は第十三版の続き?」
「未定です」
「エリオの公園候補も?」
「私は同席しません」
「そっか」
「生活担当の方で対応できます」
「行くのかな」
「候補を見ることは決まっています」
「公園は?」
「まだです」
「ちょっと行きそうって思っちゃうけど」
「私も可能性はあると思います」
「思うんだ」
「可能性まで否定する必要はありません」
「でも決まってない」
「はい」
主様は鞄を肩へ掛ける。
「三年前のエリオは行きたくなかった」
「はい」
「昨日は近くなら行ってみたいって言った」
「はい」
「今日は公園の条件まで考えた」
「はい」
「じゃあ、少しずつ行きたい気持ちが強くなってる?」
ノルンは考えた。
そう見える。
けれど。
「そうかもしれません」
「かもしれない」
「本人へ確認していませんから」
「明日聞く?」
「候補を見る中で、本人が決めます」
「数字で聞かない?」
「聞きません」
「了解」
二人で管理区域を出る。
◇
同じ夜。
エリオは寝台へ入る前に、窓の外を一度見た。
ここから公園は見えない。
空だけ。
三年前、自分は外へ出たくなかった。
その気持ちは本物だった。
昨日、自分の言葉が三年間ずっと『外出希望なし』として残っていたと知り、腹が立った。
その怒りも本物だった。
今日、公園の候補を明日見たいと言った。
人が少ない時間なら、と条件まで付けた。
それも今の自分が言った。
では、いつ変わったのか。
「……知らねえよ」
誰もいない部屋で呟く。
答えは出ない。
出なくても、明日は来る。
候補を見る。
行くかもしれない。
行かないかもしれない。
見たら怖くなるかもしれない。
思ったより平気かもしれない。
公園まで行って、門の前で戻りたくなるかもしれない。
そんなことを考えているうちに、エリオはふと気づいた。
三年前の自分なら、こんなことすら考えなかった。
だからといって、
『成長した』
という言葉で片付けられるのは嫌だった。
前の自分が間違っていたわけではない。
あの時は、本当に無理だった。
今は、少し違う。
それだけでいい。
「……明日、地図だけだからな」
誰に念を押しているのか、自分でも分からない。
エリオはカーテンを閉じた。
けれど三年前のように、外が見えることが嫌で閉じたわけではなかった。
眠るから閉じた。
その違いを、わざわざ記録してもらおうとは思わなかった。




