第九十八話 『近くなら行ってみたい』に、三年前の「行きたくない」を謝らせる必要はありませんでした
慈善行事の翌朝、フローラが目を覚ました時、最初に感じたのは腕の重さだった。
痛いというほどではない。けれど寝台の上で両腕を伸ばした瞬間、肩から肘にかけて普段とは違う鈍い疲れが残っていることが分かった。昨日は衣類を一枚ずつ持ち上げ、広げ、畳み、棚へ運ぶ作業を何時間も続けていたのだから、不思議ではない。
窓の外はよく晴れていた。
薄いカーテンを通した朝日が床へ伸び、廊下からは使用人たちが行き来する足音が聞こえてくる。昨日の公会堂とは違う、いつもの屋敷の朝だった。
「……疲れてる」
フローラは自分の腕を揉みながら呟いた。
その言葉に、少しだけ笑う。
昨日、帰宅してからは話したいことが多すぎて、疲労をじっくり感じる暇がなかった。母親へ寄付品分類のことを話し、マリエのことを話し、第二王女と交わした会話まで話した。
そして、重い箱を持とうとして止められた話も、自分からした。
隠そうとは思わなかった。
恥ずかしかったことまで話したくなった理由は、自分でもよく分からない。
ただ、昨日一日の中にあったものを、成功した部分だけ切り取って話す気にはならなかった。
寝台から降りる。
着替えを手伝うために入ってきた侍女が、フローラの動きを見て少し眉を寄せた。
「お嬢様、腕が痛みますか?」
「ちょっと重いだけ」
「無理をなさらないでくださいませ」
「今日はもう仕分けしないよ」
「そういう意味ではございません」
侍女が苦笑する。
フローラも笑い、用意された服へ腕を通した。
「昨日ね、最初に言われたの。疲れたら休んでくださいって」
「守られましたか?」
「休憩時間はちゃんと休んだ」
「休憩時間は?」
「……続けようかなとは思ったけど」
「お嬢様」
「やってないもん」
少しだけ胸を張る。
侍女は呆れたように笑った。
「それなら結構でございます」
着替えを終え、髪を整えてもらう。
鏡の中の自分は、昨日と特に変わっていない。
慈善行事へ一日参加したからといって、顔つきが急に変わるわけではない。
けれど、机の端には昨日使った参加証が置かれていた。
持ち帰ってよいと言われたものだ。
フローラはそれを少し眺めてから、引き出しへしまった。
「今日は何か予定あったっけ?」
「午前中は家庭教師の先生がお見えになります。午後は特にございません」
「そっか」
昨日は朝から夜まで、初めてのことばかりだった。
今日はいつもの日。
その違いが、少しだけ心地よかった。
◇
同じ朝、管理区域ではセレナが一枚の記録を前に腕を組んでいた。
「説明、今日になりました」
ノルンが自席へ着くと、彼女は挨拶のあとすぐにそう告げた。
「外出記録の方ですか?」
「はい」
三年前。
『今月は出たくない』
本人がそう話した。
旧一覧では期間部分が落ち、
『外出希望なし』
と表示された。
その状態が三年間続き、定期的な外出案内の対象から外れていた人物。
昨日、現在の意思を改めて確認すると、
『近くなら行ってみたい』
と答えた。
管理側は、三年前の記録がどう扱われていたのかを本人へ説明することにした。
「担当者は?」
「いつもの生活担当と、記録担当の二人で行きます。私も同席する予定でしたけど」
セレナがノルンを見る。
「ノルンさん、来ます?」
「必要ですか?」
「そこを聞いてるんです」
「本人が私の同席を希望していますか?」
「してません。というか、ノルンさんがこの件を見てること自体知らないです」
「では、行きません」
「ですよね」
セレナはあっさり頷いた。
「私も行かない方がいいかな」
「なぜ同席予定になったのですか?」
「一覧の確認をしたのが私だから」
「本人への説明に、その情報は必要ですか?」
「……いらないかも」
「担当者二人で説明できるなら、人数を増やさない方がよいと思います」
「じゃあ外れます」
セレナは予定表を修正した。
その手が途中で止まる。
「謝罪文、作ったんです」
「見せてください」
端末が差し出される。
文面は短かった。
『過去の記録処理により、三年間にわたり外出の機会をご案内できておりませんでした。本人の意思を適切に確認できなかったことをお詫びいたします。』
ノルンは黙って読む。
「どうです?」
「これをそのまま本人へ伝える予定ですか?」
「そのつもりでした」
「『三年間にわたり外出の機会をご案内できていなかった』は事実です」
「はい」
「『本人の意思を適切に確認できなかった』も、少なくとも定期案内の扱いについては問題があります」
「じゃあいい?」
「ただ」
ノルンは最初の一文へ視線を戻す。
「この文だけを先に出すと、本人が三年間ずっと外出したかったのに、それを管理側が妨げ続けたようにも読めます」
「でも可能性はありますよね」
「あります」
「なら」
「可能性があることと、それを本人の過去の気持ちとして確定させることは別です」
セレナの眉間に皺が寄る。
「じゃあ謝らない?」
「そうは言っていません」
「難しいなあ……」
彼女は椅子の背へもたれた。
ノルンは昨日の記録を開く。
本人が昨日話したのは、
『近くなら行ってみたい』
そして、
『外に出られるようになったの?』
だった。
この質問から、本人が外出制度について十分な案内を受けていなかったことは分かる。
けれど、三年間のどの時点から外へ出たかったのかは分からない。
「説明の順番を変えた方がよいと思います」
「順番?」
「まず、三年前の本人発言をそのまま伝える」
『今月は出たくない』
「次に、その発言が旧一覧では『外出希望なし』と短縮表示され、その後の案内対象から外れていたことを伝える」
「うん」
「そのため、管理側から定期的な外出案内を行っていなかった事実を説明する」
「それから謝る?」
「その記録の扱いによって、本人へ改めて選択機会を示すことができなかった点については謝罪してよいと思います」
「三年間外出させなかったことじゃなくて?」
「本人が望んでいた時期を確認せず、こちらで決めない方がいいでしょう」
セレナはしばらく画面を見つめる。
「本人が『ずっと行きたかった』って言ったら?」
「その時は、その言葉を聞けばいいです」
「怒ったら?」
「怒ったことを記録してください」
「謝る?」
「必要なら」
「じゃあ『別に行きたくなかった』って言ったら?」
「それも本人の返事です」
「『今までのことはどうでもいいから、次いつ行けるの』だったら?」
「次の外出について説明してください」
セレナは口を半開きにしたまま数秒止まり、それから深く息を吐いた。
「答えを先に作らないってことか」
「はい」
「謝罪も?」
「謝るべき管理上の問題はあります。ただ、本人が何を失ったのかまでこちらで決めて謝ると、別の意味を足す可能性があります」
「……分かりました」
セレナは謝罪文を削除しなかった。
代わりに題名を、
『説明時の確認事項』
へ変えた。
その下へ、事実と未確認事項を分けて入力していく。
ノルンはそれを見届けてから、自分の通常業務へ移った。
◇
午前の管理業務が一段落した頃、主様が資料棚の前で立ち止まった。
「今日は第十三版?」
「まだ決めていません」
「三日連続で聞いてる気がする」
「そうですね」
「嫌?」
「いいえ」
「じゃあ今日も聞く」
「もう聞きました」
「そうだった」
主様は笑いながら戻ってくる。
「でも、第十二版から今の制度まで流れ見えたんでしょ?」
「大まかには」
「だったら次の教材を見ると、どう説明が変わったか分かる?」
「可能性はあります」
「読む?」
ノルンは端末の時刻を見る。
午前十一時十二分。
次の定例確認まで四十分ほどある。
「少しだけ確認します」
「お」
「第十三版を最後まで読むとは言っていません」
「分かってるって」
主様が向かいの席へ座る。
ノルンは教育資料の一覧を開いた。
第十三版。
刊行は、第十二版から六年後。
つまり昨日確認した制度改訂の途中に位置する。
表紙。
改訂目的。
『接続安定化技術の進歩および再接続手順変更に伴う教育内容の更新』
最初から制度変更との関係が明示されていた。
「ちょうどだね」
「はい」
ノルンは改訂概要を読む。
『長期的相互接続事例について、再接続時の本人意思確認手順を追記』
『継続意思と即時受容意思の差異を基礎教育へ導入』
主様が身を乗り出す。
「分けてる」
「この版では明記されています」
該当章へ進む。
第一接続者と第七外在個体の事例。
冒頭の物語形式は、第十二版をほぼ引き継いでいた。
十三年間。
第一接続者は再接続の可能性を閉じなかった。
後に第七外在個体から再び応答が確認された。
そして再接続が成立した。
ただし、一文が変わっている。
第十二版。
『第一接続者と第七外在個体は、十三年間にわたり互いの再接続を待ち続けた。』
第十三版。
『第一接続者は十三年間、再接続の可能性を保持した。第七外在個体についても、再応答の成立から接続継続性が認められる。』
ノルンの指が止まった。
「『互いに待ち続けた』がなくなった」
「はい」
「戻った?」
「何にですか?」
「正確な方に」
ノルンはすぐには答えなかった。
第十三版の文章は、少なくとも外在側の心理的待機を事実として書いていない。
第一接続者についても、
『待ち続けた』
ではなく、
『再接続の可能性を保持した』
になっている。
これは、九十五話までに確認した第一接続者の十三年間の実記録に近い。
定期的な意思確認を嫌がった。
生活を続けた。
再接続の可能性を閉じなかった。
毎日待ち続けていたと断定できる記録ではなかった。
「前より慎重な表現ですね」
「じゃあ直したんだ」
「理由を確認します」
編集記録。
改訂会議。
該当箇所についての修正提案が残っていた。
『現行運用では、継続意思と即時接続受容を分離して扱う方向へ移行している。従来教材の「互いに待ち続けた」という表現は、継続意思を持つことが常時の心理的待機および将来接続の自動受容を意味するとの誤解を生じさせる可能性がある。』
「今の制度に合わせて変えた?」
主様が尋ねる。
「少なくとも修正理由の一つです」
別の委員の意見。
『第七外在個体側の待機意思は原記録上確認されていない。第11版以降の断定表現は、技術用語「相互」の心理的解釈を強めるため修正が望ましい。』
ノルンの視線がそこで止まる。
第九十八話まで追ってきた問題が、当時の編集者によって明確に指摘されていた。
「気づいてる」
「はい」
「しかも『相互』の意味が混ざってるって」
「そうですね」
だが、その次の意見がある。
『ただし、「待つ」という語は本事例の教育的象徴として定着しており、全面削除は学習上の連続性を損なう。』
さらに別の案。
『「双方は再接続の可能性を失わなかった」とする。』
反対。
『外在個体側が「可能性を失わなかった」とする根拠もない。』
別案。
『第一接続者は再接続を待ち、第七外在個体は十三年後に再応答した。』
反対。
『第一接続者の十三年間を単一の「待機」状態として表現すること自体が、現在の継続意思概念と混同される。』
議論は長かった。
最終的に採用されたのが、
『第一接続者は十三年間、再接続の可能性を保持した。第七外在個体についても、再応答の成立から接続継続性が認められる。』
だった。
「これなら正しい?」
主様が聞く。
ノルンは後半をもう一度読む。
『第七外在個体についても、再応答の成立から接続継続性が認められる。』
「まだ確認が必要です」
「どこ?」
「『接続継続性』です」
技術用語なのか。
心理的意味を含むのか。
再応答が成立したことだけを指すのか。
後世の読者には、
『第七もずっと接続を望んでいた』
と読める余地がある。
「また言葉?」
「はい」
「終わらないね」
「言葉を使って記録する以上、完全には終わらないと思います」
ノルンはその場で結論を出さなかった。
さらに重要なのは、第十三版が過去の誤りを修正した理由だった。
新しい原記録が見つかったからではない。
現行制度が変わり、
『昔の物語表現では今の手順を誤解させる』
という問題が出た。
その結果、原記録へ戻り、以前の断定表現が再検討された。
「今が変わったから、昔の書き方も見直したんですね」
「その面があります」
「それって悪いこと?」
「いいえ」
「でも今に合わせて昔を変えるのも危なくない?」
「危険はあります」
ノルンは編集記録を閉じずに答える。
「現在の価値観に合わせるため、過去に存在した考え方まで消せば問題です。ただ、現在の制度変更をきっかけに原記録へ戻り、過去の教材に根拠の弱い断定があったと気づくこと自体は、問題ではありません」
「じゃあ、直す理由と直し方が大事?」
「そう思います」
主様が頷いた。
「今日、結構進んだね」
「まだ第十三版の一部です」
「はいはい」
ノルンは次の段落を見る。
そこには、再接続時の意思確認について新しい説明が追加されていた。
『過去に継続意思が示されている場合であっても、再接続時の本人状態が異なる可能性がある。接続機会が保持可能な場合は、現在の受容意思を確認すること。』
教材内の例。
『以前「また繋がりたい」と話した接続者が、再接続発生時には「今日は受けたくない」と答える場合がある。この二つの回答は矛盾しない。』
ノルンはゆっくり瞬きをした。
「今のミレイアみたい?」
主様が言いかける。
「似た構造はあります」
ノルンが先に答えた。
「同じではありません」
「分かってる」
「ならいいです」
「先に言われた」
例文は続く。
『過去の継続希望は、その時点の本人意思として保持する。現在の拒否によって過去の希望を誤りとして訂正しない。また、過去の希望を理由に現在の拒否を一時的混乱として扱わない。』
これは現在制度の考え方にかなり近い。
「ここまで来たんだ」
主様が呟く。
「ただし、この後も改訂されています」
「まだ変わるの?」
「現在と完全には一致していません」
例えば、
『分からない』
の扱い。
第十三版では、
『判断不能の場合は安全上、当該接続を保留』
となっている。
しかし本人が、
『まだ決めていない』
と積極的に状態を指定する概念までは整理されていない。
また、情報共有許可についても、
『接続に必要な範囲』
という曖昧な表現が残っている。
ミレイアが現在確認した、
『接続を決めても、過去の迷い全部をルークへ送るわけではない』
というような細かな分離には至っていない。
「今日はここまでにします」
「早い」
「次の業務があります」
「ほんとだ」
時刻は十一時四十八分。
ノルンは第十三版を閉じた。
主様も今日は引き止めなかった。
◇
午後、三年前の外出記録について本人への説明が行われた。
ノルンは同席していない。
セレナもいない。
いつもの生活担当と、記録担当の二人だけだった。
後から届いた記録には、会話の要点が必要以上に整えられず残されていた。
生活担当がまず、三年前の本人発言を確認した。
『三年前に、外出について「今月は出たくない」と話した記録があります。覚えていますか?』
本人は少し考えた。
『ああ。たぶん。あの頃は外に出るの嫌だったから』
理由までは尋ねていない。
本人も自分から詳しく話していない。
続いて記録担当が説明した。
当時使用していた一覧では、
『今月は』
という期間が表示されず、
『外出希望なし』
とだけ表示された。
その表示を根拠に、以降、定期的な外出案内の対象から外れていた。
説明を聞いた本人は、しばらく黙った。
そして最初に言った。
『だから来なかったの?』
担当者。
『はい。少なくとも記録上は、その表示が案内しない理由として使われていました』
『ずっと?』
『三年間です』
再び沈黙。
本人は怒鳴らなかった。
泣かなかった。
すぐに許しもしなかった。
『……俺、いつから行きたかったんだろ』
それが次の言葉だった。
担当者は答えなかった。
『分かりません。こちらには、その間の外出希望についての記録がありません』
『俺も分かんない』
本人は椅子の背へもたれた。
『最初の頃は本当に嫌だったよ。人多いし。外出ても疲れるし』
『はい』
『でも三年ずっと嫌だったかって言われると……分かんないな』
『はい』
『去年くらいには、ちょっと出てもいいかなって思ったことあった気がする』
気がする。
記録担当は、それを、
『昨年から外出希望あり』
とは書かなかった。
本人自身が確定していないからだ。
『その時、誰かに言いましたか?』
『言ってないと思う』
『分かりました』
『じゃあ、そっちだけが悪いってわけでもない?』
生活担当は少し間を置いた。
『外出したい気持ちを自分から伝えなかったことと、管理側が「今月は」という条件を落とした記録を使い続けたことは、分けて考えたいです』
『分けるの?』
『はい。あなたが自分から言わなかったから、記録の扱いに問題がなかったことにはなりません』
本人はしばらく担当者を見た。
『……そっか』
『期間のある言葉を、期間のない「希望なし」として扱い続けたことで、こちらから改めて選べる機会をご案内できませんでした。その点について、申し訳ありませんでした』
担当者二人が頭を下げる。
本人はすぐには何も言わなかった。
数秒。
もっと長かったかもしれない。
『うん』
やがて返事をした。
『分かった』
許した、とは言っていない。
気にしていない、とも言っていない。
ただ、
『分かった』
だった。
そのあと、本人から質問があった。
『で、近くってどこ行けるの?』
話は現在の外出へ移った。
候補は三つ。
生活区域から徒歩圏内の小さな公園。
管理区域近くの商店街。
少し離れた公共図書室。
本人は地図を見た。
『最初は公園かな』
『日程を決めますか?』
そこで本人は首を振った。
『今日はいい』
『分かりました』
『でも候補は残しといて』
『はい』
『来週くらいにまた見せて』
『分かりました』
現在の記録。
『外出:近距離で検討希望あり。候補=近隣公園等。日程は本日決定せず。本人希望により来週頃に候補再提示。』
そして三年前の記録は残った。
『当時本人発言:「今月は出たくない」』
削除されていない。
間違いとして訂正もされていない。
ノルンは報告を最後まで読み、端末を机へ置いた。
「どうだった?」
セレナが尋ねる。
「本人は説明を受けています」
「怒った?」
「記録上、強い怒りの表出はありません」
「気にしてなかった?」
「そうも書かれていません」
「じゃあ……」
「『分かった』と答えています」
セレナは少し拍子抜けした顔をした。
「それだけ?」
「その後、外出候補について質問しています」
「公園?」
「最初は公園がよいかもしれない、と。ただし日程は今日決めていません」
「そっか」
セレナは椅子へ座る。
「なんか、もっと怒られると思ってた」
「可能性はありました」
「謝って許してもらうところまで想像してた」
「本人は許すとも許さないとも言っていません」
「うん」
「こちらが必要としている区切りと、本人が必要としている区切りは同じとは限りません」
セレナが黙る。
しばらくしてから、少し苦笑した。
「私、許してほしかったのかな」
ノルンは答えを急がなかった。
「それは私には分かりません」
「ですよね」
「ただ、管理側が安心するための返事を本人へ求めない方がよいと思います」
「……はい」
セレナは記録をもう一度読む。
『で、近くってどこ行けるの?』
本人にとっては、そこから先の方が大事だったのかもしれない。
あるいは、三年前の件について後から腹が立つかもしれない。
今日の時点では分からない。
「来週、候補見せるの忘れないようにしないと」
「はい」
「でも来週見せた時、行きたくなくなっててもいい」
「もちろんです」
「公園って言ったから予約しない」
「本人は日程を決めていません」
「分かりました」
セレナは予定欄へ、
『外出実施』
ではなく、
『外出候補再提示』
と入力した。
◇
その日の午後、ミレイアは市場へ出ていた。
エリスも同行している。
接続の話をするためではない。
布糸を買うためだった。
通りには野菜や果物を並べる店、焼き菓子を売る露店、日用品を扱う小さな商店が並び、人々の声が重なっている。昼を過ぎても人通りは多く、荷車が通るたびに歩行者が道の端へ寄っていた。
ミレイアは糸を何色か手に取り、日差しへかざす。
『こっちかな』
淡い青。
もう一つは少し灰色がかった青。
エリスは隣にいるが、選ばない。
『どっちがいいと思う?』
『何に使いますか?』
『花の影』
『でしたら、こちらの方が落ち着いて見えます』
エリスが灰色がかった方を示す。
ミレイアは二色を並べる。
『でも、こっちの方が好きなんだよね』
『では、そちらでもよいのでは?』
『聞いた意味ないじゃん』
『意見を求められたので答えました』
『そうだけど』
ミレイアは少し笑い、結局、明るい方を籠へ入れた。
そのあと白い糸と、細い針を二本。
会計を済ませ、店を出る。
通りの向かいでは子供が母親の手を引き、菓子店の前で何かをねだっている。
ミレイアはその様子を少し見てから歩き出した。
『今日、何も聞かないんだね』
不意に言う。
エリスは彼女を見る。
『何についてですか?』
『……接続』
『確認が必要な予定はありません』
『そっか』
ミレイアは前を向く。
少し歩く。
石畳を踏む靴音。
店先から漂う焼き菓子の甘い匂い。
人々の話し声。
それらに混ざって、ミレイアが小さく言った。
『前は、聞かれないとちょっと気になった』
エリスは急かさず、隣を歩く。
『今も気になりますか?』
質問はした。
ただし、
『接続したいですか』
ではない。
ミレイアは少し考えた。
『今日はそんなに』
『分かりました』
『でも、それ記録する?』
『希望があれば』
『しなくていい』
『分かりました』
少しして、ミレイアが笑う。
『何でも記録するわけじゃないんだ』
『必要な情報と、本人が残したい情報を中心にしています』
『じゃあ、今日買った糸の色は?』
『通常は記録しません』
『よかった』
『記録してほしいですか?』
『いらない』
返事は早かった。
二人はそのまま歩く。
接続についての話は、そこで終わった。
ミレイアの手には、明るい青色の糸が入った小さな紙袋がある。
今日の彼女にとって、それは管理記録へ残す必要のない選択だった。
◇
ルークは午後、食堂の隅で本を読んでいた。
昨日まで読んでいたものとは別の本だった。
厚くはない。
挿絵が多く、各地の珍しい動物を紹介する本だ。
ページをめくる。
大きな角を持つ草食獣。
翼を広げると人の身長より大きくなる鳥。
夜だけ地面から出てくる小動物。
『これ変』
近くにいた生活担当へ本を見せる。
『どれ?』
『こいつ』
『ああ。耳が長いやつ?』
『長すぎる』
『そういう動物なんじゃない?』
『邪魔じゃない?』
『本人に聞いてみないと』
『本人ってこいつ?』
『うん』
ルークは挿絵を見た。
『喋れないでしょ』
『じゃあ分からないね』
『適当』
そう言いながら笑う。
ページをめくる。
少しして、生活担当が別の仕事へ立つ。
『ルーク、夕方の手伝い今日はどうする?』
『何だっけ』
『食器片付け』
『やる』
『分かった』
それだけだった。
九人の話は出ない。
ミレイアの話もない。
待っているという言葉も出ない。
けれど、それらの希望が消えたわけではない。
今日確認しないからといって、昨日の言葉を削除する必要もない。
本人が変更したいと言った時に、また聞けばいい。
ルークは次のページを開く。
『うわ、こいつもっと変』
今度は鼻の長い動物だった。
◇
夕方、フローラは母親と茶を飲んでいた。
家庭教師との授業を終え、午後はほとんど何もせず過ごした。腕の疲れも朝より軽くなっている。
「昨日の主催者から、お礼の書状が届いているわ」
母親が一通の封書を差し出した。
「もう?」
「参加者全員へ送っているようね」
フローラが開く。
内容は簡潔だった。
参加への感謝。
分類作業が予定より順調に進んだこと。
今後も同様の行事を予定していること。
そして最後に、
『次回参加を希望される場合は、改めて募集時にお申し込みください』
とある。
「自動じゃないんだ」
「何が?」
「一回参加したら、次も呼ばれるのかと思ってた」
「案内は来るかもしれないけれど、参加は改めて申し込むのでしょうね」
「そっか」
フローラは書状をもう一度読む。
「次も行く?」
母親が尋ねた。
フローラはすぐに答えなかった。
昨日、マリエには、
『またやってみたいかも』
と言った。
その気持ちは今もある。
でも、次の募集がいつなのかも分からない。
その時、自分が何をしているのかも分からない。
「募集来たら考える」
「そう」
「受付希望ってまた書いていいかな」
「もちろん」
「でも、また分類でもいい」
「昨日楽しかったものね」
「うん」
フローラは書状を丁寧に畳む。
「マリエも来るかな」
「昨日知り合った方?」
「うん」
「それは分からないわね」
「連絡先聞けばよかった」
言ってから、少し残念そうな顔になる。
母親はすぐに、
『調べてあげましょうか』
とは言わなかった。
「次に会えたら聞いてみたら?」
「会えなかったら?」
「その時は、その時でしょう」
「……そっか」
フローラは少しだけ考え、頷いた。
南区で雑貨店を営む父親。
それだけ分かれば、公爵家の力を使えば探せるかもしれない。
けれど、そこまでして探したいわけではなかった。
次に会えたら嬉しい。
会えなければ、昨日一緒に働いた人として覚えている。
今はそれでよかった。
「お母様」
「何?」
「昨日の服、また使える?」
「もちろん」
「じゃあ取っておいて」
「慈善行事用に?」
「それだけじゃなくていいけど」
「分かったわ」
母親が微笑む。
フローラは茶を一口飲んだ。
昨日より腕は少し痛い。
けれど、もう一度行きたいかもしれないという気持ちは、今のところ残っていた。
◇
終業前。
ノルンは今日確認した内容を整理していた。
第十三版。
継続意思と即時受容意思の差異が、基礎教育へ初めて明確に導入されている。
『互いに十三年間待ち続けた』
という第十二版の断定表現は削除。
理由の一つとして、
『技術用語「相互」の心理的解釈を強める』
との編集上の問題が明示されていた。
新たな原記録の発見による修正ではない。
制度変更をきっかけに原記録と教育表現の不一致が再検討された結果。
ただし、
『第七外在個体についても、再応答の成立から接続継続性が認められる』
という新しい表現の『接続継続性』が何を意味するかは未確認。
さらに、
『以前また繋がりたいと話した接続者が、再接続時には今日は受けたくないと答える場合がある。この二つは矛盾しない』
という教育例が追加。
過去希望を現在拒否によって誤りにしない。
過去希望を理由に現在拒否を混乱扱いしない。
現在制度へ近づいている。
しかし『分からない』『まだ決めていない』の細分化や、情報共有範囲の分離はまだ不十分。
ノルンは保存する。
続いて、外出記録。
三年前の期間限定拒否について本人への説明完了。
本人は当時、本当に外出を嫌がっていたことを認めた。
三年間ずっと嫌だったかは本人自身も不明。
昨年頃には外へ出てもいいと思ったことがあった「気がする」と発言。
確定した過去希望としては扱わない。
現在は近距離外出を検討希望。
日程未決定。
来週頃に候補再提示を希望。
管理側の記録処理について説明し、選択機会を改めて示せなかった点を謝罪。
本人回答、
『分かった』
許諾・免責とは解釈しない。
セレナが横から記録を見る。
「最後のそれ、必要?」
「どれですか?」
「『許諾・免責とは解釈しない』」
「必要だと思います」
「『分かった』を『許してくれた』にしないため?」
「はい」
「じゃあ残そう」
セレナは自分の端末にも同じ注意を入れようとして、止まった。
「全員の『分かった』に付けるわけじゃないですよね」
「もちろんです」
「危なかった」
「何がですか?」
「またルールにするとこだった」
ノルンは少し笑った。
「今回は、謝罪説明に対する返答として後から強く解釈される可能性があるためです」
「場面込み」
「はい」
「めんどくさい」
「記録はそういうものです」
「前はもっと簡単だと思ってました」
「私もです」
セレナが顔を上げる。
「また『分かります』って言った」
「言いましたね」
「最近増えました?」
「数えていません」
「数えないんだ」
「必要ですか?」
「いらないです」
二人の間に小さな笑いが落ちる。
少し離れた職員が一瞬こちらを見たものの、すぐに仕事へ戻った。
◇
帰宅前、ノルンは第十三版をもう一度開かなかった。
時間はあった。
二十分ほど。
しかし、今日はすでに十分な情報を得ている。
残り時間は通常記録の確認へ使った。
九人の誤転生者に重大な変化はない。
ルークは本を読み、夕方に食器片付けを手伝った。
ミレイアは市場で刺繍糸を購入。
接続について自発的な小さな言及はあったが、希望変更なし。
『次回接続:まだ決めていない』
そのまま。
フローラは慈善行事翌日。
軽い筋肉疲労のみ。
参加経験を肯定的に振り返っている。
次回参加について、
『募集が来たら考える』
受付希望は残っている。
分類作業も否定していない。
アーノルドからの接触なし。
美咲との日曜日。
十四時。
待ち合わせ場所は決定済み。
店は混雑状況で変更可。
本屋へ寄れたら旅行棚を見る。
旅行予定なし。
最後の一文を見て、ノルンは少しだけ笑った。
「何?」
主様が気づく。
「いえ」
「絶対何かあった」
「美咲との予定を確認していただけです」
「旅行行く?」
「行きません」
「まだ分かんないじゃん」
「少なくとも日曜日に旅行へ行く予定はありません」
「そういう意味じゃない」
「では何ですか?」
「いつか」
ノルンは鞄を持ちながら考える。
「分かりません」
「行きたくない?」
「特にそういうわけではありません」
「じゃあ行きたい?」
「今、決める必要がありますか?」
「ない」
「では未定です」
主様が笑った。
「それ、仕事じゃなくても使うようになったね」
「便利なので」
「昔のノルンなら『予定がないので行きません』で終わってそう」
ノルンは少しだけ足を止める。
以前の自分なら、そう答えていたかもしれない。
予定がない。
だから行かない。
まだ決めていないという状態を、わざわざ一つの状態として置くことは少なかった。
「旅行へ行く予定はありません」
「うん」
「でも、今後行かないと決めてもいません」
「うん」
「それだけです」
「いいんじゃない?」
主様はそれ以上何も言わなかった。
◇
夜になり、管理区域の明かりが一つずつ消えていく。
記録の中には、今日もいくつもの違う時間が残った。
三年前。
『今月は出たくない』
その人は、本当にそう思っていた。
だから、その言葉を間違いにする必要はない。
今日。
『近くなら行ってみたい』
それもまた、本当に今の本人が選んだ言葉だった。
三年前の自分へ謝る必要はない。
気が変わった理由を、立派に説明する義務もない。
いつから変わったのか分からなくてもいい。
去年だったかもしれない。
今日かもしれない。
その間に何度も揺れていたかもしれない。
記録に残っていない部分を、管理側が綺麗な一本の線にして埋める必要はなかった。
第一接続者についても同じだった。
十三年間。
後世の教材は、その長い時間を、
『互いに待ち続けた』
という一文へ縮めた。
やがて別の時代には、その一文が強すぎると気づき、
『再接続の可能性を保持した』
へ変えた。
後の言葉の方が、今まで確認した原記録には近い。
けれど、それでも十三年間の一日一日を知っているわけではない。
待ちたい日があったのかもしれない。
忘れていた日があったのかもしれない。
もうやめようと思った夜があったのかもしれない。
そんなことは、記録がなければ分からない。
分からないところへ、優しい物語を入れることも。
悲しい物語を入れることも。
どちらも観察ではなかった。
ルークは九人に会いたいと言っている。
けれど、今日は動物の本を読んでいた。
ミレイアは「こんにちはだけなら」と過去に話した。
けれど、今日は市場で青い糸を選んだ。
フローラはまた慈善行事へ参加したいかもしれないと言った。
けれど、次回参加を決めたわけではない。
美咲は旅行の棚を見たいと言った。
けれど、旅行の予定はない。
どの言葉も、その後に続く別の決定を自動で作らない。
それぞれの今日には、それぞれの返事を置く場所が残っている。
そして管理区域の記録庫には、第十三版の続きがまだ残っていた。
ノルンは明日それを読むと決めてはいない。
読まないとも決めていない。
ただ、今日の仕事は今日のところまで終わっていた。




