第九十七話 役に立ちたいと思って来た場所で、最初に教えられたのは「一人で持たないでください」でした
慈善行事の当日、フローラが屋敷を出たのは朝八時を少し過ぎた頃だった。
秋の空は高く、薄い雲の隙間から柔らかな日差しが落ちている。朝の空気には肌を撫でる程度の冷たさがあったものの、風は弱く、厚手の上着が必要なほどではない。玄関前にはすでに馬車が用意され、御者と護衛役の騎士が出発を待っていた。
フローラは慈善行事用に整えた衣装の袖口を、無意識にもう一度確かめる。
昨日、何度も確認した。
腕を上げても問題ない。
箱へ手を伸ばしても引っ掛からない。
肩掛け鞄については、作業中に邪魔になるようなら指定された場所へ置く。その判断も現地で聞けばいい。
分かっている。
それでも初めての場所へ向かう朝は、昨日の部屋で想像していた時より落ち着かなかった。
「忘れ物は?」
見送りに出てきた母親が尋ねる。
「たぶんない」
「たぶん?」
「確認したもん」
フローラは少し頬を膨らませながら、鞄へ手を添えた。
「ハンカチもあるし、お水もあるし、案内状もある。作業用の手袋は向こうで渡してくれるって書いてあったし……」
「なら大丈夫ね」
「でも、何か忘れてる気がする」
「初めての日は、そういう気がするものよ」
母親は笑った。
その言い方があまりにも普通だったので、フローラは少しだけ肩の力を抜いた。
「お母様も?」
「もちろん」
「忘れ物した?」
「昔の慈善行事では、予備の髪留めを忘れたわ」
「それ必要?」
「途中で髪が崩れて、とても必要になったの」
「……持ってる」
フローラは即座に鞄の中を確認した。
母親が声を立てて笑う。
「お母様!」
「ごめんなさい。でも、持っているなら安心ね」
フローラは少し不満そうな顔をしたものの、やがて自分でも笑った。
緊張が完全になくなったわけではない。
それでも、玄関を出る前より呼吸は楽になっていた。
「行ってきます」
「ええ。行ってらっしゃい」
「ちゃんと働いてくる」
母親はそこで、ほんの少し首を傾げた。
「ちゃんと、というのは?」
「え?」
「何をしたら、ちゃんと働いたことになるの?」
フローラは答えようとして、止まった。
たくさん運ぶ。
間違えない。
役に立つ。
そういう言葉はいくつも浮かんだ。
けれど、昨日母親から言われたことも思い出す。
分からなければ聞けばいい。
間違えたら直せばいい。
「……言われたことを聞く?」
「それも一つね」
「分からなかったら聞く」
「ええ」
「重い物は一人で持たない」
「大切ね」
「疲れたら休む」
「それも」
「なんか、働くっていうより、怒られないための約束みたい」
「それを守ってから、できることをすればいいのよ」
母親の手が、フローラの肩へ軽く触れる。
「今日は、あなたが一人で慈善行事を成功させる日ではないでしょう?」
「……うん」
「では、行ってらっしゃい」
フローラは今度こそ頷き、馬車へ乗った。
◇
会場となる王都南部の公会堂前には、到着した時点ですでに多くの人が集まっていた。
石造りの大きな建物の正面には慈善行事を知らせる布幕が掲げられ、入口の左右には案内係が立っている。馬車の停車場所からも、荷車で次々と運び込まれる木箱や布袋が見えた。
寄付品を持参する人。
受付を担当する職員。
荷物を運ぶ作業員。
警備の騎士。
招待客らしい装いの貴族。
それぞれが別の目的で動いているため、屋敷の行事とは違う種類のざわめきがあった。
馬車が停まる。
扉が開かれた瞬間、フローラは一度だけ息を止めた。
視線が集まる。
公爵家の馬車なのだから当然だった。
「フローラ様、おはようございます」
迎えに来た女性職員が頭を下げる。
年齢は三十代半ばほどだろうか。派手さのない濃紺の衣服に、行事担当者であることを示す腕章を付けている。
「おはようございます」
フローラも挨拶を返した。
「本日はご参加いただき、ありがとうございます。寄付品分類補助でお申し込みをいただいておりますので、まず参加者受付へご案内いたします」
「はい。お願いします」
女性職員が歩き始める。
フローラも後へ続いた。
護衛の騎士が少し距離を取って同行するが、作業区画へ常に付いてくる予定ではない。警備については公爵家と主催側で事前に調整されている。
入口近くには長机が並び、その一つが作業参加者用の受付になっていた。
「お名前をお願いいたします」
受付担当の青年が顔を上げたあと、フローラを見て一瞬だけ背筋を伸ばした。
「フ、フローラ・エルディアです」
「はい。確認いたします」
青年の指が名簿の上を動く。
明らかに緊張している。
フローラはそれを見て、自分まで緊張してきた。
公爵令嬢に聞かれたら、相手が緊張するかもしれない。
昨日、使用人が否定しなかった言葉を思い出す。
「確認できました。寄付品分類補助ですね」
「はい」
「こちらが参加証になります。それと……」
青年が机の下から布製の腕章を取り出す。
「作業区画内では、こちらを着用してください」
フローラは受け取った。
「これは自分で付けるんですか?」
「えっ」
青年が固まった。
フローラも固まる。
何か変なことを聞いただろうか。
「あ、はい! 右腕へお願いしております!」
「分かりました」
フローラは腕章を付けようとした。
しかし片手で留め具を扱うのが思ったより難しい。
一度滑る。
もう一度。
やはりうまくいかない。
青年は明らかに助けるべきか迷っていた。
「……手伝ってもらってもいいですか?」
「もちろんです!」
返事が大きかった。
近くの受付担当者がちらりとこちらを見る。
青年自身も声の大きさに気づいたらしく、耳が赤くなった。
「す、すみません」
「いえ」
フローラも少し笑ってしまった。
青年に腕章を留めてもらう。
「ありがとうございます」
「いえ! こちらこそ!」
何が「こちらこそ」なのか分からない。
それでも、最初に想像していたほど怖くはなかった。
◇
作業区画は、公会堂一階の大広間を複数の区域へ分けて作られていた。
窓から入る朝の光に加え、天井の魔導灯も点けられている。広い室内には木箱、机、籠が整然と並び、壁際には分類後の寄付品を置くための札が掛けられていた。
『冬物衣類・成人』
『冬物衣類・子供』
『毛布・使用可』
『毛布・要確認』
『生活用品』
『補修確認』
フローラは案内されながら、札を目で追う。
思っていたより種類が多い。
「こちらです」
担当職員が立ち止まった。
そこにはすでに八人ほどの作業参加者が集まっていた。年齢も身分も様々で、商家の夫人らしい女性もいれば、学生くらいの若者もいる。
フローラが近づくと、何人かの会話が止まった。
視線が向く。
小さなざわめき。
その中で、班を担当する中年女性が前へ出た。
「皆様、お揃いになりましたので説明を始めます。本日こちらの区画では、主に衣類と毛布の状態確認、分類、分類札の取り付けを行っていただきます」
女性はフローラだけを特別扱いせず、全員へ向かって説明する。
「まず最も大切なことですが、判断に迷った品物は自分で決めず、『要確認』へ置いてください。汚れや破損があるからといって、皆様の判断で廃棄しないでください」
参加者たちが頷く。
「次に、大きな箱や重い荷物は一人で持たないでください。必ず近くの職員か運搬担当へ声をかけてください」
フローラは瞬きをした。
昨日、母親に言われたのと同じだ。
「特に、頑張って一人で運ぼうとなさらないようお願いいたします」
班長の女性が少し強調した。
参加者の何人かが笑う。
「毎年いらっしゃるんです。『これくらいなら』と持ち上げて、腰を痛める方が」
今度はもう少し大きな笑いが起きた。
フローラもつられて口元を緩める。
「作業速度を競う行事ではありません。分からなければ聞く。疲れたら休む。無理に持たない。この三つは守ってください」
フローラは小さく息を吐いた。
母親が特別に自分だけへ言った注意ではなかった。
ここにいる全員へ向けられたものだ。
公爵令嬢だから休めと言われたわけでもない。
初めてだから特別に役立たず扱いされたわけでもない。
作業する人全員が守る約束だった。
「それでは手袋をお配りします」
布製の作業手袋が順番に配られる。
フローラも受け取り、両手にはめた。
いつも身に着ける薄い手袋より厚く、指を曲げると少しごわつく。
「似合う?」
隣から突然声がした。
振り向くと、同年代くらいの少女が立っていた。
栗色の髪を後ろで束ね、フローラと同じ腕章を付けている。
「え?」
「手袋」
「あ……」
フローラは自分の手を見る。
「分かんない」
「私も」
少女は自分の手を持ち上げた。
「全然かわいくない」
思わずフローラが笑う。
少女も笑ったあと、ふと表情を変えた。
「あ」
「どうしたの?」
「ご、ごめんなさい」
「何が?」
「フローラ様ですよね?」
「うん」
少女の背筋が伸びる。
「すみません、私、知らなくて」
「何を?」
「普通に話しかけちゃって」
フローラは困った。
普通に話しかけることの何が悪いのか分からない。
「別にいいよ」
「でも」
「作業、一緒なんでしょ?」
「はい」
「じゃあいいんじゃない?」
少女は少し迷ってから、ゆっくり頷いた。
「……はい」
「名前は?」
「マリエです。父が南区で雑貨店をやっています」
「マリエ」
「はい」
「私はフローラ」
「知ってます」
「そっか」
二人の間に一瞬だけ沈黙が落ちる。
それからマリエが吹き出した。
「何?」
「いえ、すみません」
「また謝った」
「だって」
「じゃあ私も謝った方がいい?」
「なんでですか?」
「分かんない」
今度は二人とも笑った。
少し離れた場所で説明資料を整理していた班長が、こちらを見て微笑んでいる。
◇
最初に運ばれてきたのは、冬物衣類の箱だった。
職員が封を確認してから開ける。
中には丁寧に畳まれた上着や厚手のシャツ、子供用の外套などが詰められていた。
「一枚ずつ状態を見ます。破れ、強い汚れ、留め具の欠損がないか確認してください。問題がなければ大人用と子供用に分けます」
班長が実物を使って説明する。
「これは?」
一着の外套が広げられた。
見たところ綺麗だ。
「大人用、使用可?」
参加者の一人が答える。
「大きさはそうですね。でも、ここを見てください」
袖口。
小さく裂けている。
「あ」
「補修すれば使えますので、『補修確認』です」
次。
子供用の上着。
目立つ破損はない。
ただし内側に名前が刺繍されている。
「これは?」
今度は誰もすぐ答えなかった。
「名前、取るんですか?」
マリエが尋ねる。
「そうですね。個人を特定できる刺繍がありますので、そのまま配布はしません。こちらも要確認へ」
フローラは説明を聞きながら、一つずつ覚える。
思っていたより単純ではない。
大人。
子供。
綺麗。
汚れている。
それだけでは分けられない。
「では、始めましょう」
各自の前へ少量ずつ衣類が置かれる。
フローラの最初の一着は、深緑色の厚手の上着だった。
広げる。
前。
後ろ。
袖。
留め具。
目立った問題はない。
大きさは成人用。
札を取ろうとして、手が止まる。
内側に小さな染みがあった。
「……これ」
近くにいた班長へ声をかける。
「はい」
「ここに染みがあります」
班長が確認する。
「これは洗浄で落ちる程度ですね。ただ、今日は洗浄済みの品を『使用可』へ入れるので、こちらは要確認へお願いします」
「分かりました」
フローラは『要確認』の札を付けた。
一着目。
自分だけでは判断できなかった。
けれど、それでいいと言われている。
二着目。
子供用の外套。
問題なし。
今度は迷わず『子供・使用可』へ置く。
三着目。
成人用の厚手のシャツ。
片方の留め具がない。
「補修確認……?」
独り言のように呟く。
「それは補修で大丈夫だと思います」
隣のマリエが覗き込む。
「本当?」
「たぶん」
「たぶん?」
「私も初めてです」
二人で顔を見合わせる。
「聞こう」
「ですね」
班長を呼ぶ。
確認してもらうと、やはり補修確認だった。
「合ってた」
マリエが嬉しそうに言う。
「でも聞いた方がいいって言われたし」
「そうですね」
少しずつ作業が進む。
最初は周囲もフローラを気にしていた。
彼女が衣類を持ち上げるたびに視線が向き、何か尋ねると相手が必要以上に姿勢を正す。
けれど一時間ほど経つと、それも少しずつ減っていった。
フローラが特別なことをしなかったからかもしれない。
分からなければ聞く。
間違えれば直す。
他の参加者と同じように手袋をして、同じ箱から衣類を取り出す。
「フローラ様、そっちの札取ってもらえます?」
マリエが自然に言う。
「どれ?」
「補修確認」
「はい」
渡す。
「ありがとうございます」
「うん」
別の参加者からも声が飛ぶ。
「こちらの子供用、そちらへ置いていいですか?」
「私が持ちます」
「ではお願いします」
受け取る。
軽い。
分類棚へ置く。
戻ってくる。
それだけのことなのに、フローラは少し楽しくなっていた。
◇
その頃、ノルンは管理区域で通常業務を終え、セレナから届いた一覧表示の試験結果を確認していた。
昨日見つかった旧三択記録の影響範囲について、すべてを調べ終えたわけではない。
対象期間が十一年以上ある以上、一日で終わる量でもなかった。
そこで今日は、現在進行中の対応へ直接使われている記録だけを先に抽出している。
「十二件です」
セレナが言った。
「三択形式の古い記録が、現在の対応方針の根拠欄に残っているものが十二件」
「元発言は?」
「九件はあります。三件は分類結果しか残ってません」
ノルンは眉をわずかに寄せた。
「九件から確認しましょう」
「三件は?」
「後です」
「本人に聞く?」
「まだ決めません」
「ですよね」
セレナもすでに慣れたらしい。
一件目。
旧記録。
『家族連絡:希望あり』
元発言。
『母が心配してるなら、知らせてもいい』
現在の一覧。
『家族への状況共有を希望』
セレナが画面を指す。
「これ、強くなってます」
「はい」
本人は、
『知らせてもいい』
と言った。
一覧では、
『希望』
になっている。
「ただし、この人はその後も何度か家族へ連絡しています」
「現在も希望している可能性は高いです」
「じゃあ問題なし?」
「それを私たちが推測して終わらせない方がいいでしょう」
現在も定期連絡が続いている。
本人から拒否はない。
だからといって、十年前の発言が現在の希望を証明するわけではない。
「次回の通常確認時に、今後も同じ頻度で共有してよいか確認する程度で十分だと思います」
「緊急で聞き直さない」
「はい」
二件目。
『資料閲覧:希望あり』
元発言。
『見せてもらえるなら見る』
実際には一度資料を閲覧したあと、追加希望なし。
現在一覧にはなぜか『資料閲覧希望あり』が残っている。
「これは直した方がよさそう」
「まず、現在の対応に使われているか確認してください」
「使われてます。新しい資料が出ると案内候補に入る」
「では優先度を上げます」
「本人に聞く?」
「新資料を提示する必要が発生した時に、案内を希望するか確認する方法もあります」
「今すぐじゃなくていい?」
「現在、本人が資料を待っていると判断できる記録はありません」
セレナが頷き、印を付ける。
三件目。
『面談:保留』
元発言。
『今日は嫌。でも来週なら話すかもしれない』
その後、面談実施済み。
現在対応への影響なし。
「これは触らない」
「はい」
四件目。
『外出:希望なし』
元発言。
『今月は出たくない』
記録は三年前。
現在一覧にも『外出希望なし』が残っている。
二人とも黙った。
「……これ、まずいですよね」
「時点が消えています」
「三年間、外出案内から外れてる」
「本人が現在も外出を望んでいない可能性はあります」
「でも『今月』だった」
「はい」
ノルンは詳細記録を見る。
本人は外出について自発的に質問した記録がない。
職員側も『希望なし』を根拠に案内していない。
つまり、本人が希望しなかったから外出していないのか、案内されなかったから選択機会がなかったのか、今の記録だけでは分からない。
「これは現在確認が必要です」
「今日聞きます?」
「通常の生活確認が今日ありますね」
「あります」
「その中で自然に確認してください。三年前の記録を訂正するためではなく、現在、外出機会の案内を希望するかどうかを」
「分かりました」
セレナは入力しながら、少し顔をしかめた。
「これ、怖いな」
「何がですか?」
「『希望なし』って書いてあると、聞かない方が本人のためだと思っちゃう」
「そうですね」
「嫌って言ったのに何回も聞くのは嫌がらせになるし」
「はい」
「でも『今月は』が消えたら、ずっと聞かないことになる」
ノルンは画面を見る。
「拒否を尊重することと、拒否の範囲を勝手に広げることは別です」
「期間も?」
「期間も、対象もです」
セレナがメモする。
「これ、一覧に入れたい」
「何をですか?」
「拒否の範囲」
「項目を増やしすぎると、また読まれなくなります」
「うわ」
「必要な情報ですが、表示方法は考えましょう」
「はい……」
現在の一覧を分かりやすくする。
その目的で項目を増やし続ければ、やがて詳細記録と変わらなくなる。
短くすれば条件が落ちる。
詳しくすれば一覧性が落ちる。
そこにも簡単な答えはなかった。
◇
慈善行事の会場では、午前の作業が半分ほど進んだところで最初の休憩が入った。
「一度手を止めてください。十五分休憩です」
班長の声が広間へ響く。
フローラは手元の衣類を置き、手袋を外した。
「まだできるのに」
思わず呟く。
隣のマリエが笑う。
「私もです」
「じゃあ続けてもいいかな?」
「怒られると思います」
「なんで?」
「最初に『休んでください』って言われたから」
「……そっか」
二人で作業台から離れる。
休憩区画には水と簡単な焼き菓子が用意されていた。
フローラは椅子へ座ってから、自分の腕を見る。
疲れていないと思っていた。
けれど座った瞬間、肩が少し重いことに気づいた。
「疲れました?」
マリエが隣へ座る。
「ちょっとだけ」
「私も」
「マリエ、毎年やってるの?」
「今年初めてです」
「じゃあ同じだ」
「父が寄付品を出すので、それで来ました」
「お父さんもいる?」
「荷物を渡して帰りました。店がありますから」
「そっか」
マリエが水を一口飲む。
「フローラ様は、なんで来たんですか?」
フローラは焼き菓子へ伸ばしかけた手を止めた。
以前なら、答えるのが少し難しかったかもしれない。
アーノルドが来ないから。
第二王女が来るから。
母親に勧められたから。
そういう理由を周囲が勝手に見つけることもできる。
「やってみたかったから」
「慈善活動を?」
「うん」
「すごいですね」
「まだ何もすごくないよ」
「でも、公爵令嬢なのに」
その言葉に、フローラの表情が少しだけ止まった。
マリエもすぐ気づいたらしい。
「あ、ごめんなさい」
「また謝った」
「だって……」
フローラは焼き菓子を一つ取る。
「公爵令嬢だと、こういうのやらないの?」
「分かりません」
「私も分かんない」
二人とも少し困った。
「お母様はやったことあるって言ってた」
「そうなんですか?」
「うん。昨日初めて知った」
「じゃあ、やるんですね」
「たぶん」
「たぶんばっかりですね」
「マリエもさっき言ってた」
「何をです?」
「補修確認だと思う。たぶん、って」
「あれは合ってました」
「聞かなかったら分かんなかったでしょ」
「そうですけど」
また笑う。
フローラは焼き菓子を一口食べた。
甘さは控えめだった。
朝から緊張していたせいか、それが妙に美味しく感じる。
「受付もやってみたかったんだけどね」
「そうなんですか?」
「希望には書いた。でもこっちになった」
「残念でした?」
「ちょっと」
フローラは正直に答えた。
「でも、こっちも面白い」
「じゃあよかったですね」
「うん。でも受付が嫌になったわけじゃないよ」
「またやればいいんじゃないですか?」
「次も来るか分かんない」
「じゃあ来たら」
マリエは簡単に言った。
フローラは少し目を丸くしたあと、笑った。
「そうだね」
次に来るなら。
その時、受付を希望してもいい。
来ないなら、それでもいい。
今ここで決める必要はなかった。
◇
休憩が終わり、午後に向けて寄付品の量が増えていった。
一般受付が本格的に始まり、外から次々と荷物が届く。
広間の空気も午前より慌ただしくなった。
「こちら冬物です!」
「確認済みの箱、奥へお願いします!」
「毛布二箱入ります!」
職員同士の声が行き交う。
作業参加者も、それぞれの持ち場で手を動かす。
フローラは新しく届いた箱の中から衣類を取り出していた。
最初の頃より手順は分かってきた。
それでも判断に迷う物はある。
一着の厚手の外套を広げる。
破れはない。
留め具も揃っている。
目立つ染みもない。
使用可。
そう判断しかけて、匂いが気になった。
「マリエ」
「はい?」
「これ、なんか匂わない?」
マリエが近づく。
「……ちょっとしますね」
「要確認?」
「聞きましょう」
班長を呼ぶ。
確認した結果、保管時の湿気が疑われるため別の確認区画へ送ることになった。
「見た目だけじゃないんだ」
フローラが呟く。
「よく気づきましたね」
班長が言う。
「なんか違う気がしただけです」
「それで十分です。迷ったら止めてください」
「はい」
班長が別の場所へ移る。
フローラは次の品を取ろうとした。
その時だった。
「すみません、これ、どこへ置けば……」
別の参加者が大きな箱を抱えて近づいてくる。
箱の底が少し傾いている。
かなり重そうだ。
「あ、こっちだと思います」
フローラは反射的に手を伸ばした。
「私も持ちます」
箱の反対側へ手を掛ける。
持ち上げようと力を入れる。
重い。
想像以上だった。
それでも二人なら。
「待ってください」
低い声が飛んだ。
班長だった。
「その箱は運搬担当を呼んでください」
「でも二人なら」
フローラが言う。
「駄目です」
班長の返事は明確だった。
周囲の何人かが手を止める。
フローラの頬が少し熱くなった。
怒られた。
そう感じた。
「申し訳ありません、フローラ様。ただ、その箱は二人で持つ想定ではありません」
班長は公爵令嬢だからと曖昧にしなかった。
「底も補強前です。途中で抜ける可能性があります。運搬台を使います」
「……はい」
「一度置いてください」
箱を床へ戻す。
運搬担当の男性二人が呼ばれ、台車へ載せる。
あっさり運ばれていく。
フローラは自分の手を見る。
手袋をしている。
怪我はない。
何も起きなかった。
それでも胸の奥が少し縮んだような感覚が残った。
「フローラ様」
マリエが声をかける。
「うん」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫」
「怒られましたね」
「……うん」
慰めるのではなく、そのまま言われた。
フローラは一瞬だけマリエを見て、それから小さく笑った。
「怒られた」
「私も前に父の店でやりました」
「何を?」
「大きい箱、一人で運ぼうとして」
「怒られた?」
「めちゃくちゃ」
「めちゃくちゃ?」
「『商品壊す気か!』って」
フローラが吹き出した。
「マリエの心配じゃないの?」
「あとから腰も心配されました」
「あとなんだ」
「商品が先でした」
二人で笑う。
胸に残っていた小さな縮こまりが、少しほどけた。
班長が戻ってくる。
フローラは迷ったが、自分から声をかけた。
「あの」
「はい」
「さっき、すみませんでした」
「いえ。怪我がなくて何よりです」
「私、役に立とうと思って」
「はい」
「だから、持てるなら持った方がいいと思って」
班長は少し考えた。
周囲では作業が続いている。
衣類を畳む音。
箱を運ぶ台車の車輪。
職員同士の確認。
その中で、班長はフローラへ向き直った。
「役に立つことと、できる作業を全部自分ですることは同じではありません」
フローラは黙って聞く。
「この会場には、分類する人がいます。受付をする人がいます。運ぶ人もいます。警備する人もいます」
「はい」
「運搬担当へ声をかけるのも、作業の一つです」
「……それも?」
「はい。適切な人へ頼むところまで含めて、ここでの仕事です」
フローラは運ばれていった箱の方向を見る。
自分が持たなくても、箱は必要な場所へ行った。
「分かりました」
「では、続きをお願いします」
「はい」
班長はそれ以上叱らなかった。
フローラも必要以上に引きずらないよう、次の衣類へ手を伸ばした。
今度は一枚の子供用外套。
軽い。
状態を確認する。
袖。
留め具。
内側。
問題なし。
『子供・使用可』。
札を付ける。
次。
それを繰り返していく。
◇
午後二時を少し回った頃、公会堂正面では第二王女の到着を知らせる動きが始まっていた。
警備の騎士が配置を確認し、受付担当者たちの姿勢が少しだけ引き締まる。
作業区画にもその情報は届いた。
「第二王女殿下が到着されますが、皆様は作業を続けてください。こちらへお越しになった場合のみ、職員の案内に従ってください」
班長が告げる。
参加者たちの間に小さなざわめきが広がった。
フローラも顔を上げる。
第二王女が公式参加することは知っていた。
作業区画へ来るかどうかは決まっていなかった。
「緊張しますね」
マリエが小声で言う。
「うん」
「フローラ様、会ったことあります?」
「あるよ」
「えっ」
「王宮の行事で」
「そっか……公爵令嬢ですもんね」
「でも今日は私もこっちの人だから」
フローラは自分の腕章を見せる。
マリエも同じ腕章を見る。
「本当だ」
「同じ」
「手袋も」
「かわいくないやつ」
「まだ言います?」
二人で笑った。
その間にも、正面玄関側から拍手が聞こえてくる。
第二王女が到着したらしい。
作業区画の何人かが入口の方へ視線を向けたが、班長が急かすことはなかった。
「手元がお留守になっていますよ」
柔らかな注意に、皆が慌てて作業へ戻る。
フローラも衣類を広げた。
王女が来た。
けれど、自分は今、衣類を分けている。
それでいい。
しばらくすると、正面側の拍手やざわめきは落ち着いた。
第二王女は寄付受付へ向かったらしい。
作業区画へ来るかは、まだ分からない。
フローラはそれを待たなかった。
◇
同じ午後、セレナから先ほどの外出記録について結果が届いた。
三年前。
『今月は出たくない』
それが、
『外出希望なし』
として現在まで残っていた人物。
通常の生活確認の中で、担当者が現在の外出案内について尋ねた。
返答は、
『近くなら行ってみたい』
だった。
ノルンは記録を読む。
さらに本人は、
『外に出られるようになったの?』
と尋ねている。
制度上、外出自体は以前から可能だった。
ただし本人には長く案内されていなかった。
理由。
一覧の『外出希望なし』。
「三年」
セレナが低い声で言った。
「はい」
「三年、聞かなかった」
「記録上はそうなります」
「本人も自分から聞かなかった」
「はい」
「これ……」
セレナの表情が曇る。
「私たちが外出させなかったってことですか?」
ノルンはすぐに答えなかった。
本人がこの三年間、本当に外出したかったのかは分からない。
今日になって初めて行きたいと思った可能性もある。
半年前からだったかもしれない。
二年前からだったかもしれない。
記録はない。
「そこまでは断定できません」
「でも、案内しなかったのは事実ですよね」
「はい」
「『今月は』を消したせいで」
「一覧上は消えています」
セレナは唇を結んだ。
「ごめんなさいって言うべきかな」
「誰がですか?」
「管理側が」
「何について謝るのかを先に確認しましょう」
「案内しなかったこと」
「本人がそれを問題だと感じているか、まだ分かりません」
「でも……」
「こちらが先に『三年間あなたの機会を奪いました』と意味づけることも避けるべきです」
セレナは黙る。
ノルンは続けた。
「事実として伝える必要がある部分はあります。以前の『今月は出たくない』という記録が、期間情報を失ったまま現在の一覧へ残り、それを理由に定期的な外出案内が行われていなかったこと」
「うん」
「その事実を説明した上で、本人がどう感じるかを聞くことはできます」
「こっちで先に被害にしない」
「はい」
セレナは息を吐いた。
「難しい」
「そうですね」
「でも説明はする?」
「私は必要だと思います」
現在の希望だけ確認して、
『近くなら行ってみたい』
を新しく登録する。
それだけなら今後の運用は直せる。
だが、なぜ三年間案内がなかったのかを管理側だけが知ったままにすることになる。
本人には、自分の過去の言葉がどう使われていたかを知る選択肢もある。
「今日すぐ?」
「急ぐ必要はありません。担当者と本人の状態を確認して、落ち着いて説明できる時間を作りましょう」
「分かりました」
セレナが記録へ追記する。
ノルンはその手元を見ながら、昨日調べた古い制度を思い出した。
過去の『会いたい』が、未来の『今会う』になった。
今回の記録では、
過去の『今月は出たくない』が、未来の『ずっと出たくない』になった。
方向は逆だ。
けれど、どちらも過去の言葉が本人より長く残った結果だった。
「ノルンさん」
「はい」
「一覧、怖くなってきた」
「使わない方がいいという意味ですか?」
「それも困る」
「はい」
「詳細だけ読んでたら仕事終わらないし」
「そのための一覧です」
「でも短くしたら落ちる」
「だから、何を短くしてよいかを考える必要があります」
セレナは机へ頬杖をつきそうになり、途中でやめた。
「万能にしようとしたのが駄目なのかな」
ノルンは少し考える。
「一覧だけで判断を完結させようとしない方がよいのかもしれません」
「昨日言ってた案内板?」
「はい」
「『外出希望なし』じゃなくて……」
セレナが端末へ入力する。
『外出:過去に期間限定拒否あり/現在状態は要確認』
「こう?」
「まだ試案です」
「分かってます」
「文字が長いですね」
「うわあ」
セレナが頭を抱える。
ノルンは少しだけ笑った。
◇
慈善行事の作業区画へ第二王女が姿を見せたのは、午後三時近くになってからだった。
入口付近の空気が変わる。
職員たちが一斉に作業を止めたわけではない。
ただ、視線が自然にそちらへ集まった。
第二王女は護衛と主催者数名を伴っている。
華美すぎない正装ではあるが、作業用の衣服ではない。
彼女は分類棚や積まれた箱を見ながら、主催者から説明を受けていた。
フローラも手を止めかける。
「続けていて大丈夫ですよ」
班長が小声で言う。
「はい」
衣類へ視線を戻す。
けれど、完全に気にしないのは無理だった。
第二王女との距離が少しずつ近づいてくる。
やがて声が聞こえる位置まで来た。
「こちらが衣類の分類区画です」
主催者が説明する。
「寄付された衣類を状態別、用途別に分けています。補修が必要なものについては、この後別の担当へ送ります」
「思ったより細かく分けるのですね」
「配布先で再確認する負担を減らすためです」
第二王女が棚を見る。
その視線が参加者たちへ移る。
そして、フローラのところで止まった。
一瞬。
フローラの背筋が伸びる。
「フローラ」
「第二王女殿下」
フローラは手袋を外そうとした。
「そのままで構いません」
第二王女が微笑む。
「作業中でしょう?」
「はい」
「どうですか?」
短い問い。
フローラは何と答えるか迷った。
楽しい。
疲れた。
怒られた。
面白い。
全部本当だった。
「思っていたより、分からないことが多いです」
結局、最初に出たのはそれだった。
第二王女が少し目を丸くする。
「分からないこと?」
「衣類を分けるだけだと思っていたんです。でも、汚れとか、破れとか、名前が書いてあるかとか、匂いも見ないといけなくて」
「匂いも?」
「はい。さっき湿気っぽい外套がありました」
フローラはそこまで話してから、王女にこんな説明をしてよかったのか不安になる。
しかし第二王女は嫌そうな顔をしなかった。
「それは私も知りませんでした」
「私も今日知りました」
「では、私より詳しくなりましたね」
「今日だけです」
第二王女が笑う。
周囲の緊張が少しだけ緩んだ。
「最後まで作業を?」
「はい」
「無理はしないように」
「さっき同じことを言われました」
「誰に?」
フローラは班長を見る。
班長が少し緊張した様子で頭を下げる。
「重い箱を持とうとして、止められました」
「フローラ様」
班長が慌てる。
しかし第二王女はフローラを見た。
「持ったの?」
「持とうとしました」
「一人で?」
「二人で」
「それでも駄目だった?」
「運搬担当の人が持つ箱でした」
第二王女は数秒黙り、それから笑いを堪えるように口元へ手を添えた。
「笑わないでください」
「ごめんなさい」
「お母様にも一人で持たないって言われたのに」
「二人ならいいと思ったのね」
「はい」
「次からは?」
「呼びます」
「それならよかったです」
第二王女はそれ以上、その失敗を大きな意味にしなかった。
主催者の案内で次の区画へ向かう。
去り際、フローラへもう一度だけ振り返る。
「続きを頑張って」
「はい」
フローラは頭を下げた。
王女たちが離れてから、マリエが小声で近づいてくる。
「普通に話すんですね」
「何が?」
「王女様と」
「普通じゃなかったよ」
「普通に見えました」
「すごく緊張した」
「見えませんでした」
「本当?」
「はい」
フローラは少しだけ嬉しくなった。
「でも、箱の話しちゃった」
「なんで言ったんですか?」
「分かんない」
「怒られた話なのに」
「うん」
「変なの」
「マリエに言われたくない」
「なんでですか」
「商品を先に心配された人」
「あれは父です!」
二人の笑い声が、再び作業の音へ混ざった。
◇
行事が終わる頃には、フローラの腕は朝より明らかに重くなっていた。
手袋を外すと、掌が少し赤い。
痛いほどではない。
それでも普段とは違う疲れ方だった。
「本日の分類作業はここまでです。皆様、ありがとうございました」
班長が参加者全員へ頭を下げる。
広間のあちこちから拍手が起こる。
フローラも手を叩いた。
午前中には山のように積まれていた箱の多くが、今は分類済みの棚や運搬区画へ移っている。
全部ではない。
まだ残っている物もある。
明日以降、別の担当者が続きを行う。
今日一日で慈善活動が終わったわけではなかった。
「疲れました」
マリエが椅子へ座り込む。
「私も」
フローラも隣へ座る。
「でも楽しかったです」
「うん」
「次も来ます?」
フローラはすぐには答えなかった。
朝なら、
『まだ分からない』
と言っただろう。
今も、まだ確定させる必要はない。
けれど、一日働いたあとの自分には、朝にはなかった感覚があった。
「またやってみたいかも」
「かも?」
「まだ決めない」
「じゃあ次に募集が来たら?」
「その時考える」
「受付?」
「それもやりたい」
「また分類になったら?」
フローラは広間を見る。
箱。
札。
作業台。
今日何度も声をかけた班長。
最初は自分を見て緊張していた参加者たち。
今はもう、何人かが普通に手を振って帰っていく。
「それでもいい」
「じゃあ何でもいいんですか?」
「何でもいい、とはちょっと違う」
フローラは自分でも考えながら言う。
「受付はやってみたい。でも、分類も嫌じゃない」
「なるほど」
「分かった?」
「なんとなく」
「私もなんとなく」
マリエが笑う。
「また会えたらいいですね」
その言葉に、フローラは少しだけ驚いた。
今日会ったばかり。
次回参加も決まっていない。
連絡先も知らない。
「うん」
それでも返事をした。
「また会えたら」
そこで終わりだった。
◇
帰りの馬車に乗ると、フローラは座席へ深く背中を預けた。
行きとは違う疲れがある。
鞄は結局、作業開始前に指定場所へ預けた。
必要なかった。
衣装は問題なかった。
袖も邪魔にならなかった。
作業中、一度だけ裾を箱の角へ引っ掛けそうになったが、転ぶほどではない。
受付はできなかった。
重い箱を持とうとして止められた。
第二王女と話した。
マリエという少女と知り合った。
たくさんの衣類を触った。
どれだけの枚数を分類したかは分からない。
役に立ったのか。
その問いが浮かぶ。
朝からずっと気にしていたこと。
フローラは窓の外を見る。
夕方の王都を人々が歩いている。
自分が分類した衣類が、いつ、誰へ届くのかは分からない。
もしかすると、自分が確認した外套を別の人がもう一度確認するかもしれない。
補修へ回した衣類は、今日中には誰にも届かない。
自分一人が何かを大きく変えたわけでもない。
それでも。
「……疲れた」
小さく呟く。
嫌な疲れではなかった。
馬車が屋敷へ到着すると、玄関前に母親がいた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「どうだった?」
フローラは馬車を降りる。
「怒られた」
母親の眉が上がる。
「何をしたの?」
「重い箱を二人で持とうとした」
「一人で持たないようにと言ったでしょう」
「二人だったもん」
「そういう問題ではなかったのね?」
「うん。運搬担当の人を呼ぶ箱だった」
母親はため息をついた。
けれど、口元は少し笑っている。
「怪我は?」
「ない」
「ならよかったわ」
「あとね」
フローラは玄関へ向かいながら話し始める。
「服って、綺麗か汚いかだけじゃないんだよ。匂いも見るの。あと名前が縫ってあるのも、そのまま配らないんだって。それと、留め具が一個ないくらいなら補修に回して――」
言葉が次々と出てくる。
母親は止めずに聞いていた。
屋敷の中へ入っても話は続いた。
「第二王女殿下も来た」
「お話ししたの?」
「ちょっとだけ。箱の話もした」
「怒られた話を?」
「なんか言っちゃった」
「そう」
「笑われた」
「でしょうね」
「お母様まで!」
フローラの声が玄関広間へ響き、近くにいた使用人たちが小さく笑う。
朝とは違う。
緊張して何度も鞄を確認していた少女は、今は疲れた顔のまま、今日あったことを一つ残らず話したそうにしていた。
「楽しかったのね」
母親が言う。
フローラは口を開きかけた。
すぐには答えず、今日一日を思い返す。
楽しいだけではなかった。
緊張した。
迷った。
失敗した。
少し恥ずかしかった。
腕も疲れた。
それでも。
「うん」
今度は迷わず頷いた。
「楽しかった」
◇
その夜、ノルンのもとへフローラの行事記録が届いた。
参加完了。
寄付品分類補助。
体調上の問題なし。
作業中、重量物を持とうとして担当者から制止あり。怪我なし。
第二王女との短い会話あり。
アーノルドとの接触なし。
不自然な接近、伝言、贈答、第三者を介した接触もなし。
ノルンは最後まで読み、記録を閉じた。
「どうだった?」
主様が尋ねる。
「問題なく参加を終えています」
「楽しかった?」
「本人は帰宅後、お母様へそう話したそうです」
「よかったね」
「はい」
それ以上の意味を付ける必要はない。
慈善活動に参加したから、フローラが大きく成長した。
公爵令嬢として何かに目覚めた。
アーノルドから離れ、新しい人生へ進み始めた。
そういう物語にする必要はなかった。
今日は慈善行事へ行った。
希望していた受付ではなく、分類作業をした。
重い箱を持とうとして止められた。
新しい人と話した。
疲れた。
楽しかった。
それで十分だった。
「明日は?」
主様が聞く。
「何がですか?」
「研究」
「予定は決めていません」
「第十三版もあるし、一覧もあるし」
「通常業務もあります」
「忙しいね」
「はい」
ノルンは端末を閉じた。
帰ろうとして、机の端に置いていたスマートフォンが震える。
美咲からだった。
『日曜、本屋寄れたら旅行の棚見たい!』
ノルンは少し考える。
旅行。
今のところ予定はない。
『旅行へ行くんですか?』
返す。
すぐに既読が付いた。
『全然(笑) 見るだけ』
ノルンは画面を見つめたあと、小さく笑った。
『分かりました。時間があれば見ましょう』
『やったー』
そこで会話は終わった。
主様が横から覗こうとしてくる。
「何?」
「美咲からです」
「何て?」
「本屋へ寄れたら旅行関係の棚を見たいそうです」
「旅行するの?」
「しないそうです」
「しないの?」
「見るだけだそうです」
主様が一瞬黙り、それから笑った。
「それ、楽しそう」
「そうですね」
ノルンはスマートフォンを鞄へしまう。
行きたい場所の本を見るからといって、旅行へ行くと決めたことにはならない。
行く予定がなくても、見たい本はある。
ただ、それを仕事の記録へ書く理由はなかった。
◇
翌日の外出について確認を受けた人物の記録には、新しい一文が追加されていた。
『外出機会の案内:希望あり。近距離から検討したい。』
その下には、古い記録も残っている。
『三年前本人発言:「今月は出たくない」』
さらに、管理上の注記。
『旧一覧では期間情報が省略され「外出希望なし」と表示されていたため、その後の定期案内対象から外れていた。本人への説明を予定。説明時期・方法は担当者と調整中。』
古い言葉は消していない。
新しい言葉で上書きもしていない。
三年前、その人は外へ出たくなかった。
今日、その人は近くなら行ってみたいと言った。
どちらか一方だけを本当の気持ちにする必要はなかった。
そして、その日のフローラの記録にも、似ているようで別の言葉が残っている。
『次回参加:未定。本人発言「またやってみたいかも」』
受付を希望していたことも消えていない。
分類作業を楽しかったと話したことも残っている。
次も参加すると決めたわけではない。
どの仕事でも構わないと言ったわけでもない。
今日の経験が、明日の義務になることもない。
役に立ちたいと思って出かけた少女は、その日、自分一人で重い箱を持たなくても仕事は進むことを知った。
そして管理側では、誰かが昔残した一言を一人で抱え続けるのではなく、必要な時に詳細へ戻り、今の本人へ返事を返せる仕組みを作ろうとしている。
どちらもまだ途中だった。
だから翌日も、続きを急いで完成させる必要はなかった。




