第九十六話 昔の「会いたい」が今の返事になるまでには、いくつもの理由がありました
翌朝、管理区域の窓には薄い雲を通した柔らかな光が差し込んでいた。雨になるほど空は暗くないものの、昨日より日差しが弱く、開けられた換気窓から入ってくる風にも少しだけ冷たさが混じっている。
ノルンが自分の席へ着いた時には、すでに何人かの職員が業務を始めていた。端末を操作する小さな音や、紙の資料をめくる音が重なり、少し離れた場所では昨夜分の記録について二人の職員が声を抑えて確認している。
大きな異常はない。
世界状態は安定しており、介入が必要な事象も確認されていなかった。九人の誤転生者についても夜間の重大な変化はなく、昨日新しい意思を記録したルークも普段通りに起床し、朝食を取ったあと、生活区域の手伝いをしている。
ミレイアにも新しい接続希望はない。
フローラは慈善行事に向け、作業時に邪魔にならないよう衣装の袖を改めて確認する予定になっている。受付補助ではなく寄付品の分類補助へ配置されたことについても、参加を取りやめる意思は示していない。
アーノルドからの接触もなかった。
ノルンは必要な確認を終えると、昨夜までの記録一覧を閉じた。
「今日は第十二版?」
少し離れた席から主様が声をかけてきた。
昨日と同じ問いだったが、ノルンはすぐに答えず、机の端へ置いた予定表を見る。午前中には通常業務が二件あり、セレナから昨日の一覧表示試験について追加報告を受ける予定も入っている。
「時間が取れれば確認します」
「今日もそこは変わらないんだ」
「何か問題がありますか?」
「ないよ。ただ、昨日あれだけ気になるところで止めたから、朝一番で続きを読み始めるかと思った」
「気になることと、優先順位が最上位であることは同じではありません」
「最近のノルンにそれ言われると、すごく説得力あるなあ」
主様は笑いながら水を一口飲んだ。
ノルンは反論しなかった。
第十二版の続きは確かに気になっている。
第一接続者が嫌がったのは、何度も繰り返し「まだ待つのか」と確認されることだった。それが後世では、具体的な再接続が発生した時にも改めて意思を聞かず、以前の継続希望を受容意思として扱う運用の根拠の一部になっていた。
ただし、それだけを見て当時の制度を批判することもできない。
当時は接続が成立する時間そのものが短かった。本人へ確認している間に接続機会を失う可能性があり、実際、その問題を理由に事前意思を重視すべきだという意見も残っている。
現在と過去では技術条件が違う。
ならば調べるべきなのは、どちらが正しかったかではない。
いつ。
何が変わり。
どうして現在の方式へ移ったのか。
そこだった。
◇
午前十時前、セレナが数枚の紙と端末を抱えてやってきた。
「昨日の三択記録、期間だけ出ました」
挨拶を済ませるなりそう告げた彼女の顔には、少し疲れたような色があった。徹夜をしたわけではないだろうが、調べ始めたら思った以上に対象期間が長かったらしい。
「件数は?」
「まだ全部は数えてません。先に期間を見た方がいいと思って」
「お願いします」
セレナが端末をノルン側へ向ける。
昨日判明した旧形式。
『希望あり』
『希望なし』
『保留』
本人の言葉をこの三つのどれかへ分類する入力方式は、短期間の試験仕様ではなかった。
「十一年ちょっと使ってます」
「長いですね」
「ですよね」
セレナは椅子へ腰を下ろしながら、小さく息を吐いた。
「途中で自由記述欄は増えてるんです。でも最初の三年くらいは別画面を開かないと入力できなくて、その後は同じ画面にはなったけど一覧には出ない。さらにそのあと、補足がある時だけ印が付くようになってます」
「現在の形式になるまで段階がある」
「はい。それで、もっと嫌なのが」
セレナが別の資料を開く。
「この三択、最初は面談希望だけに使ってたんです」
「用途が増えた?」
「増えてます」
説明希望。
面談希望。
家族連絡希望。
外出希望。
担当変更希望。
資料閲覧希望。
項目ごとに多少の差はあるものの、同じような三択方式が転用されていた。
「全部を同じ意味で『希望あり』にしていたわけではありませんよね」
「そこも違います。項目ごとに運用手引きがあるんですけど……」
セレナは言いながら、一つを開いた。
『希望あり:本人が実施を望む、または実施に同意している場合』
ノルンの視線が止まる。
「望む、または同意」
「一緒なんです」
「積極的希望と許容が同じ分類ですね」
「はい」
別の項目では、
『希望あり:本人が拒否していない場合を含む』
とまで書かれている。
さらに後年になると、その文言が修正され、
『希望あり:本人が明示的に希望または受諾した場合』
へ変わっていた。
同じ『希望あり』でも、時期によって中身が違う。
「一覧だけで過去と現在を並べると危険ですね」
ノルンが言うと、セレナは大きく頷いた。
「昨日の職員さんが『受けてもいい』を希望ありにしたの、当時の手引きだと正しいです」
「そうなりますね」
「今の感覚で見たら強すぎるけど、その人が勝手に強くしたわけじゃなかった」
「はい」
ノルンは資料を少し戻した。
入力者が本人の言葉を雑に扱った。
それだけなら修正対象は入力者になる。
しかし実際には、制度そのものが、
『望む』
と、
『受け入れる』
を一つの欄へ入れるよう求めていた。
さらに一時期は、
『拒否していない』
まで同じ側へ入れている。
昨日見つかった一件は、職員個人の判断ミスというより、当時の制度を忠実に使った結果だった。
「全件の再分類はしません」
ノルンが言った。
セレナが顔を上げる。
「やっぱり?」
「元の発言が残っていない記録もあります」
「あります」
「現在の基準で過去の分類を作り直せば、正確になるとは限りません」
「でも『希望あり』だけ残ってる人もいる」
「その場合は、当時の『希望あり』が何を含んでいたかを残す方が先です」
セレナは少し考え、紙へ書き込んだ。
「記録そのものを書き換えるんじゃなくて、読む時に当時の定義が分かるようにする?」
「候補です」
「また候補」
「まだ決めていませんから」
「はいはい」
セレナは笑ったものの、すぐに真面目な顔へ戻った。
「でも、現在進行中の人は?」
「そこは優先して確認します。過去の三択記録が、今の対応方針の根拠になっている場合です」
「ルークも?」
「ルークについては現在の本人発言があります」
昨日の言葉。
『九人とも会いたいのは消さないで』
『会いたいけど、会う時はまた決める』
古い分類だけに頼る必要はない。
「じゃあ、ルークは今の言葉を優先」
「はい。ただし過去の言葉を消すわけではありません」
「分かってます」
セレナは端末を閉じかけて、ふと手を止めた。
「これ、第十二版の話と似てません?」
「どの部分ですか?」
「昔の『希望あり』って、今と意味が違うじゃないですか」
「はい」
「同じ言葉だから、今の意味で読んじゃう」
ノルンは少し考える。
第十二版の『待機』。
技術状態としての待機と、心理状態としての待つ。
同じ言葉が、時期や文脈によって違う範囲を持つ。
今回の『希望あり』も似ている。
「構造上は共通する部分があります」
「ですよね」
「ただし、同じ問題だとまとめないでください」
「分かってますって」
「昨日も言いました」
「だから今日は先に『似てる』までしか言ってません」
セレナが少し得意そうな顔をする。
ノルンは数秒見つめたあと、頷いた。
「そうですね」
「今のは?」
「何ですか?」
「褒めました?」
「確認しました」
「絶対褒めない」
近くで作業していた職員が小さく笑った。
昨日、自分の過去入力について申し出た職員だった。
その人物は笑ったあと、少し迷うようにこちらを見る。
「すみません、もう一ついいですか?」
「どうぞ」
ノルンが答える。
「昨日の記録、私が入力した本人なんですけど、今はもうその面談終わってるんです」
「はい」
「本人も特に問題を言ってなくて。そういうのまで掘り返して聞き直さないですよね?」
心配しているらしい。
過去に『受けてもいい』を『希望あり』へ分類した。
その後、面談は実施された。
今さら本人へ、
『あの時、本当に希望していましたか』
と確認するのか。
「現時点では、その予定はありません」
ノルンは答えた。
職員の肩から少し力が抜ける。
「よかった……」
「ただし、その面談で何か問題が起きていた記録がある場合は別です」
「それはないです」
「では、過去の言葉を正しく分類し直すことだけを目的に、本人へ再質問する必要はないと考えます」
「はい」
「記録を綺麗にするために、本人へ負担を戻すことは避けます」
職員は小さく頭を下げ、自分の席へ戻った。
セレナはその背中を見てから、ノルンへ視線を戻す。
「全部直したくなるんですけどね」
「何をですか?」
「古い記録」
「分かります」
「え」
「何ですか?」
「ノルンさんが『分かります』って」
「私にもその傾向はあります」
「あるんだ」
「あります」
むしろ以前なら、見つかった問題を可能な限り一括して修正したくなっていたかもしれない。
けれど、記録の完全性を上げることと、本人にとって良いことは必ずしも一致しない。
過去の曖昧な言葉を今の本人に問い直しても、その時の気持ちが完全に戻るわけではない。
記録だけが綺麗になっても、それが本当に過去を正確にしたとは限らなかった。
◇
昼前、フローラは慈善行事用の衣装を着て、屋敷の一室に立っていた。
前回の最終調整で大きな問題はなく、今日は寄付品分類の作業を想定した確認だけを行う。
母親のほか、衣装を担当した使用人が二人いる。
『腕を上げてみてくださいませ』
言われた通り、フローラは両腕を前へ伸ばした。
袖は手首近くで収まり、指先にはかからない。箱の中へ手を入れたり、衣類を持ち上げたりしても邪魔にはならなそうだった。
『もう少し上げても平気?』
『はい。肩も問題ございません』
使用人が背中側へ回り、布の張り方を確認する。
フローラはその間、机の上に置かれた肩掛け鞄へ視線を向けた。
『ねえ』
『はい、お嬢様』
『当日って、これ持ったまま作業するの?』
『貴重品を入れる程度でしたら問題ないかと思いますが、作業中は指定場所へ置く可能性もございますね』
『そっか』
昨日は「使う」と決めた。
けれど実際の作業で邪魔になるなら、無理に肩へ掛け続ける必要はない。
『じゃあ、向こうで聞く』
『それがよろしいかと』
母親が椅子に座ったまま、娘の様子を見ている。
『何でも先に決めておかなくてもいいでしょう』
『うん。でも何も分からないまま行くのもちょっと怖い』
『そうね』
母親は、その不安を「大丈夫」の一言で消さなかった。
『初めてですもの。分からないことがあるのは当然よ』
『お母様はやったことある?』
『寄付品の分類ならあるわ』
フローラが驚いて振り返る。
『あるの?』
『ずっと昔にね』
『公爵夫人になる前?』
『なる前も、なってからも一度ずつ』
『知らなかった』
『話していなかったもの』
母親は少し懐かしそうに目を細めた。
『最初の時、私は衣類を大人用と子供用に分ければいいのだと思っていたの』
『違うの?』
『大きさだけではなく、季節や状態、すぐ配れるものか、補修が必要か。毛布も同じで、洗浄済みかどうかで置く場所が違ったわ』
フローラは自分の袖を見下ろす。
『難しそう』
『説明を聞けばできるわ』
『間違えたら?』
『直せばいいのよ』
母親の返事は早かった。
フローラは少しだけ目を瞬いた。
『怒られない?』
『故意に雑な扱いをしたなら注意されるでしょう。でも、初めての作業で分からないことを尋ねたり、一度置き場所を間違えたりすることまで恐れていたら、何もできないわ』
『……そっか』
使用人が袖口を軽く整えながら、微笑んだ。
『お嬢様でしたら、分からない時にお尋ねになる方が、周りの方も助かると思います』
『私が聞いたら困らない?』
『どうしてでございますか?』
『だって、公爵令嬢に聞かれたら、ちゃんと答えなきゃって緊張するかもしれないし』
使用人は少し考えた。
簡単に「そんなことはありません」と否定しなかった。
『緊張なさる方はいらっしゃるかもしれません』
『やっぱり』
『ですが、お嬢様が分からないまま勝手に作業なさる方が、もっと困るかと』
フローラは黙った。
母親の口元に笑みが浮かぶ。
『その通りね』
『……じゃあ聞く』
『ええ』
『分からなかったら』
フローラはもう一度腕を上げる。
袖は引っ掛からない。
肩も動かせる。
衣装については、それで十分だった。
『これで行く』
『承知いたしました』
使用人たちが答える。
フローラは鏡の中の自分を見る。
特別な式典用の華やかな装いではない。
かといって平民に見せるための変装でもない。
公爵令嬢として参加する。
ただし、寄付品を分類する一人として働く。
その二つを無理にどちらかへ寄せなくてもいいのかもしれない。
『受付じゃなくて、よかったかも』
ぽつりと口にしたあと、フローラはすぐに首を傾げた。
『……いや、それも違うかな』
母親が笑う。
『どう違うの?』
『受付もやってみたかったのは本当だから』
『ええ』
『でも、仕分けもやってみたい』
『それでいいでしょう』
『両方やりたいって言ったら欲張り?』
『次の機会があれば、そう伝えてみたら?』
『次も行くかはまだ分かんないよ』
『なら、今回が終わってから決めればいいわ』
フローラは鏡越しに母親を見る。
『うん』
参加する前から、次回の参加まで決める必要はない。
まず今回。
届いた衣類や毛布に触れて、自分が何を感じるのか。
役に立てるのか。
楽しいのか、疲れるのか。
またやりたいと思うのか。
それは、まだ知らなくてよかった。
◇
午後一時を回った頃、ノルンはようやく第十二版の資料を開いた。
昨日の続きから始める。
『接続継続意思が事前確認されている場合、再接続発生時は原則として受容意思ありとみなす』
現在の制度とは異なる運用。
昨日は、その採用理由と反対意見まで確認した。
今日は第十二版の続きを読むのではなく、まずこの制度が後にどう変わったのかを追う。
主様は少し離れた席にいたが、ノルンが開いた資料を見て立ち上がった。
「続きじゃないんだ」
「はい」
「第十三版?」
「まだです」
「何見るの?」
「運用変更記録です」
ノルンは教材ではなく、接続管理手順の改訂履歴を開いた。
教育資料は、制度を説明するために整理されたものだ。
制度そのものが変わった時期を知るなら、先に実務手順を確認した方がいい。
「順番変えた?」
「目的が違います」
「なるほど」
主様は隣へ来たものの、口を挟まず画面を見る。
検索対象は、
『再接続』
『受容意思』
『事前確認』
『都度確認』
『継続意思』
最初に見つかった変更は、第十二版刊行から三年後。
ただし大きな改訂ではなかった。
『本人が直近七日以内に接続継続意思を明示している場合、再接続時の受容確認を省略可。』
「期間が付いた」
主様が言う。
「はい」
第十二版では、事前に継続意思が確認されていれば期間について明確な制限がない。
それが三年後には『直近七日以内』へ狭められている。
理由。
『長期保存された継続意思記録が、本人の現状と一致しない事例が複数確認されたため。』
ノルンは関連事例を開いた。
一件目。
接続者は約二か月前、
『また反応があったら繋いでほしい』
と希望していた。
その後、生活環境が変化。
家族の病気。
本人の睡眠不足。
接続への関心低下。
しかし明確な撤回はしていなかった。
二か月後、外在反応が再発。
過去の継続希望を根拠に接続開始。
本人は開始直後に、
『今日は無理』
と終了を希望した。
重大事故はない。
接続もすぐ閉じられている。
記録には本人の発言が残る。
『会いたくなくなったわけじゃない。でも今日だと思ってなかった。』
主様が静かになった。
ノルンもその文章をしばらく見つめた。
昨日のルークの言葉と似ている。
しかし、それ以上の意味を与える必要はない。
人が過去に望んだことと、今日それを実行したいかどうかが一致しない。
それだけなら、特定の人物に限った話ではない。
二件目。
事前継続意思あり。
再接続時、本人は仕事中だった。
管理側は短時間の機会損失を避けるため接続を開始。
本人は接続後に継続を選択した。
結果だけ見れば問題は起きていない。
だが事後面談で、
『今回はよかった。でも次も勝手に始めていいとは言ってない』
と本人が話している。
三件目。
事前継続意思あり。
本人は再接続を歓迎。
確認省略にも不満なし。
むしろ、
『いちいち聞かれる方が嫌だ』
と回答。
「全員同じじゃない」
主様が言った。
「はい」
「じゃあ七日になった?」
「まだ分かりません」
改訂会議を確認する。
七日という期間には議論があった。
三日。
七日。
十四日。
一か月。
どれにも絶対的な根拠はない。
短すぎれば確認負担が増える。
長すぎれば本人の現在意思とのずれが大きくなる。
最終的に七日が選ばれた理由は、
『当時の平均再接続間隔』
『職員配置』
『意思確認業務の負担』
『過去事例における状態変化頻度』
複数の事情を合わせたものだった。
「正解の七日じゃないんですね」
「運用上選ばれた七日です」
「でも、その時はそれで改善した?」
「記録上は、長期間前の希望をそのまま使う事例は減っています」
完全ではない。
それでも制度は一段変わった。
過去の希望が無期限に現在の返事になる状態から、
一定期間内なら現在の返事として扱う。
へ。
ノルンはさらに改訂履歴を進める。
その五年後。
再び変更。
『再接続開始前、本人が即時応答可能な状態にある場合は、原則として受容意思を確認する。』
「今に近くなった」
主様が身を乗り出す。
「ただし例外があります」
緊急性。
接続窓の極端な短さ。
本人が事前に『確認省略』を明示している場合。
意思確認そのものが安全上の負荷となる特殊事例。
ここで初めて、
『事前継続意思』
と、
『具体的再接続時の受容意思』
が手順上、別の欄へ分かれている。
「理由は?」
「確認します」
改訂理由は一つではなかった。
技術進歩により、再接続可能状態を以前より長く保持できるようになった。
以前は数十秒から数分しかなかった判断猶予が、安定化技術によって延長された。
つまり、
『聞いている間に接続機会が消える』
という問題が弱くなった。
それだけではない。
過去の継続希望を利用した接続について、本人が受け入れた事例でも、
『自分で始めると決めた感覚が薄い』
という事後意見が複数記録されていた。
ノルンは一件を開く。
『繋がって嬉しかった。結果としてはよかった。でも、始まってから「やめる?」と聞かれるのと、始まる前に「今いい?」と聞かれるのは違う。』
別の記録。
『断れると言われていた。でも始まってしまったものを止める方が、始めないと言うより難しかった。』
さらに別の記録。
『ずっと待っていたから、嫌だったわけじゃない。ただ、その日の自分に一回聞いてほしかった。』
ノルンは画面をスクロールする手を止めた。
制度変更は、一つの重大事故から起きたわけではない。
小さな違和感。
大きな被害にはならなかった事例。
結果として接続を喜んだ人の中にも残った引っ掛かり。
それらが積み重なっている。
「これ、誰か一人が失敗したから変わったわけじゃないんだ」
主様が呟く。
「そうですね」
「技術も変わってる」
「はい」
「本人たちの意見も増えた」
「はい」
「じゃあ、第十二版の人たちが気づいてなかったわけでもない」
「『会いたい』と『今会う』は同一ではないという異論は、すでにありました」
「でも当時は聞く時間がなかった」
「正確には、聞くことで接続機会を失う可能性が今より高かった」
「だから昔は昔の理由があった」
「はい」
ノルンは改訂記録を閉じず、そのまま次の変更を見る。
さらに四年後。
現在方式の基礎になる規定。
『継続意思、接続希望、実施時受容、情報共有許可を独立項目として記録する。』
四つに分かれた。
ただし、最初から現在と同じではない。
『接続希望あり』
と記録されている者についても、具体的実施時に受容確認。
情報共有は別許可。
継続意思は、接続可能性を閉じない意思として扱う。
「ミレイアに今やってるのに近い」
「近いですが、完全に同じではありません」
この時点では、まだ『保留』の扱いが粗い。
接続希望なし。
あり。
未確認。
主に三分類。
後に、
『まだ決めていない』
『今回はしない』
『将来も希望しない』
などが区別されるようになる。
「一気に今になったわけじゃないんですね」
「はい」
制度は何度も少しずつ変わっている。
第十二版の、
『継続意思ありなら再接続受容ありとみなす』
から、
『七日以内なら省略可』
へ。
さらに、
『即時確認可能なら原則確認』
へ。
その後、
『継続意思と具体的実施受容を別項目化』
へ。
そして現在。
接続するか。
いつするか。
何を送るか。
相手へ何を知らせるか。
途中で撤回するか。
それらを可能な限り分ける方式になった。
ノルンはそこで資料を閉じた。
「第十三版行かないの?」
「今日は行きません」
「まだ時間あるよ」
「ありますね」
「三十分くらい」
「別の業務をします」
主様が笑う。
「もう驚かなくなった」
「何にですか」
「途中で止めるの」
「区切りは付きました」
「第十二版そのものは途中だけど」
「現行制度への変化について、最低限の経路は確認できました」
ノルンは研究メモを開く。
書き始める前に、少しだけ考えた。
ここで、
『昔の制度は本人意思を軽視していた』
とまとめるのは簡単だ。
だが、それでは当時の技術的制約が消える。
逆に、
『当時として合理的だった』
だけで終えれば、実際に本人たちが残した違和感が消える。
どちらも残す必要があった。
『第12版期:事前の接続継続意思を再接続時受容意思として扱う運用あり。背景に短時間の接続機会を失う技術的問題、反復確認による本人負担が存在。』
『第12版刊行約3年後:直近7日以内の継続意思に限り受容確認省略可へ縮小。長期保存された希望と現在状態の不一致事例が複数発生。7日は絶対的基準ではなく、当時の再接続間隔・状態変化頻度・業務負担等から選択。』
『その約5年後:技術進歩により接続可能状態の保持時間が延長。即時確認可能な場合は、原則として再接続開始前に受容意思を確認する方式へ変更。本人から「開始後に止めること」と「開始前に断ること」は負担が異なるとの意見が複数存在。』
『さらに後、継続意思・接続希望・実施時受容・情報共有許可を独立項目化。現在制度への移行は単一事件ではなく、技術条件の変化と複数の本人意見、運用上の問題の累積による。』
最後に一文追加する。
『第12版の方式を現在基準のみで誤りと断定しない。同時に、当時の合理性を理由として本人側の違和感を消さない。』
保存した。
◇
同じ頃、ミレイアは自宅の小さな机で刺繍をしていた。
午後の光が窓から入り、布の上に落ちている。今日は細かな花模様の続きを進めていたが、午前中に何度か糸をほどいたため、思っていたほど作業は進んでいない。
エリスは少し離れた場所にいる。
接続についての確認はしていない。
昨日も聞いていない。
今日も聞かない。
ミレイアはしばらく針を動かしていたが、糸を替えるため手を止めた時、ふとエリスの方を見た。
『エリス』
『はい』
『前に聞いたやつなんだけど』
エリスは姿勢を変えず、続きを待つ。
『私が、いつか「こんにちはだけなら聞いてもいい」って言ったの、残ってる?』
『残っています』
ミレイアは針を布の上へ置いた。
『それって、今もそうしたいってことになってる?』
エリスはすぐに答えなかった。
言葉の意味を確認してから、静かに返す。
『記録では、「もし次回接続をするなら、こんにちはだけが一番問題が少ないと思う」という条件付きの希望として残っています。今すぐ接続したいという意味では扱っていません』
ミレイアの指先が、糸の端を軽く撫でる。
『じゃあ、今やるってなったら?』
『今、接続を希望していますか?』
『違う』
返事は早かった。
エリスは頷く。
『では、接続しません』
『そうじゃなくて』
『はい』
『もし、向こうから何かあったら』
ミレイアはそこで一度言葉を切った。
窓の外から、荷車の車輪が石畳を通る音が聞こえてくる。遠ざかっていくその音を聞きながら、彼女は膝の上の布へ視線を戻した。
『前に私が「こんにちはだけなら」って言ってるから、それで勝手に始まったりする?』
『しません』
エリスは明確に答えた。
『以前の発言だけを理由に、現在の接続を開始することはありません。実際に接続する前に、ミレイアさん自身へ確認します』
『毎回?』
『具体的な接続を行う時には』
『……そっか』
ミレイアは小さく息を吐いた。
安堵したようにも見える。
けれど、それだけだと決めつけるには表情が曖昧だった。
『嫌でしたか?』
エリスは、接続したいかとは聞かない。
今説明した仕組みについてだけ尋ねる。
『ううん』
ミレイアは首を振る。
『その方がいい』
『分かりました』
『でも』
再び沈黙が落ちる。
エリスは急かさない。
『もし私が、その時に「分かんない」って言ったら?』
『その場では接続しません』
『待ってもらえる?』
『技術上可能な範囲で待機します。接続機会が短い場合でも、分からない状態を「はい」として扱うことはしません』
『消えちゃったら?』
『その接続機会は失われる可能性があります』
ミレイアの指が止まった。
『もったいないね』
『そう感じる可能性はあります』
『エリスは?』
『私が決めることではありません』
ミレイアは少しだけ笑った。
『そう言うと思った』
『はい』
『もし消えたあとに、やっぱり聞けばよかったって思ったら?』
『その気持ちも記録できます』
『次に絶対聞くことになる?』
『なりません』
『次も分かんなかったら?』
『また、その時に決められます』
ミレイアはしばらく黙った。
以前なら、
聞く。
聞かない。
その二つしかないように感じていた。
その間に、
今日は分からない。
今は決められない。
次に同じ機会が来ても、その時また考える。
という状態が置ける。
それを知ったからといって、接続したい気持ちが強くなったわけではない。
怖さが消えたわけでもない。
そもそも今日は、その強さを測っていない。
『じゃあ』
ミレイアは布を持ち直した。
『前に言った「こんにちはだけなら」は、消さなくていい』
『分かりました』
『でも、今の返事にはしないで』
エリスの表情がわずかに柔らかくなる。
『はい』
『あと』
『はい』
『ルークには言わないで』
『共有しません』
ミレイアは頷いた。
それ以上、接続について話さなかった。
針を取り直し、途中だった花びらへ糸を通す。
一度目は少しずれた。
彼女は眉を寄せ、糸を抜く。
二度目は綺麗に入った。
今度はそのまま、次の一針へ進んだ。
◇
エリスからの記録が届いた時、ノルンは通常業務へ戻っていた。
詳細を読む。
『本人より過去の条件付き発言「次回接続するなら、こんにちはだけ」を現在の実施同意として扱うか確認あり。過去発言のみで現在接続を開始しない旨を説明。本人は「その方がいい」と回答。』
『接続直前に「分からない」と回答した場合は実施しないこと、機会を失う可能性があっても「分からない」を受容へ変換しないことを説明。』
『本人希望:「こんにちはだけなら」の過去記録は削除不要。ただし現在の返事として扱わない。ルークへの共有なし。』
ノルンは画面を見たまま、数秒動かなかった。
今日調べた過去制度と、ミレイアが自分から尋ねた内容が偶然重なっている。
けれど、それをミレイアへ伝える必要はない。
第十二版の歴史を説明して、
『昔も同じ問題があった』
と教える必要もない。
彼女が知りたかったのは、今の自分の言葉がどう扱われるかだけだ。
「どうしたの?」
主様が尋ねる。
「ミレイアさんから確認がありました」
「接続する?」
「いいえ」
「じゃあ何?」
「過去の『こんにちはだけなら』という発言が、現在の接続同意として使われるかどうかです」
主様の目が少し大きくなる。
「今日それ調べてたよね」
「過去制度については」
「すごい偶然」
「そうですね」
「繋げない?」
「繋げる必要がありません」
「はい」
主様は素直に引き下がった。
ノルンはミレイアの現在記録を確認する。
『次回接続:まだ決めていない』
変更なし。
条件候補。
『本人過去発言:次回接続を行う場合、「こんにちはだけ」が現時点で最も問題が少ないと考える。現在の実施同意ではない。』
共有範囲。
『ルークへの共有なし。』
そのままでいい。
ノルンは新しい記録を追加する。
『本人希望:過去の条件付き希望を削除しない。ただし具体的実施時の現在意思として使用しない。』
保存。
そしてルーク側には何も追加しなかった。
◇
夕方が近づく頃、ルークは生活区域の外で洗濯物を取り込む手伝いをしていた。
風は朝より弱くなっている。
干してあった布類はよく乾いており、担当者が一枚ずつ外す横で、ルークが籠へ畳まず入れていく。ここでは後で室内に運んでから種類ごとに畳むため、今は大まかに重ねればいい。
『それ取って』
担当者が少し高い位置の布を指す。
ルークが腕を伸ばす。
『これ?』
『そう』
布を外し、籠へ入れる。
『ありがとう』
『うん』
それだけのやり取りが続く。
九人に会いたいという話も。
過去名も。
待っているという言葉も。
今は出てこない。
風で一枚の布が大きく揺れ、ルークの顔へかかりそうになる。
『うわ』
身を引いた彼を見て、担当者が笑う。
『大丈夫?』
『これ動く』
『風あるからね』
『さっき弱かったのに』
『また吹いてきたね』
ルークは布の端を押さえながら外す。
全部を籠へ入れ終えると、二人で室内へ運ぶ。
途中、ルークが少しだけ足を止めた。
『昨日のやつ、ちゃんと書いた?』
『昨日の?』
『会う時はまた決めるって』
『書いてあるよ』
『九人に会いたいのも?』
『それも残ってる』
『うん』
確認すると、ルークはまた歩き出した。
それ以上は聞かない。
籠を運び終えたあと、今度は布を畳む作業へ移る。
端が少しずれて、担当者に直される。
『ここ合わせると綺麗になるよ』
『こう?』
『そうそう』
『めんどくさい』
『じゃあ雑に畳む?』
『それは嫌』
『どっちなの』
『綺麗にする』
担当者が笑う。
ルークも少し笑い、もう一度端を合わせた。
彼は待っている。
九人に会いたいとも思っている。
それでも夕方には洗濯物を畳み、その端がずれていることを気にしている。
その生活を、管理側が一つの言葉へ縮める必要はなかった。
◇
終業前、ノルンは今日の記録を整理した。
セレナの調査。
旧三択方式は十一年以上使用。
時期によって『希望あり』の定義が異なり、一時期は積極的希望だけでなく、受諾や非拒否まで含んでいた。
過去記録を現在基準で一括再分類しない。
現在の判断へ影響するものを優先し、必要に応じて原記録と当時の定義を確認する。
フローラ。
慈善行事用衣装の作業確認終了。
寄付品分類補助として参加継続。
受付をやってみたかった気持ちも残しつつ、分類作業にも関心あり。
次回参加については未決定。
アーノルドから接触なし。
ミレイア。
第二接続は依然、
『まだ決めていない』
過去の『こんにちはだけなら』を現在同意として扱わないことを本人が確認。
過去記録は残す。
ルークへの共有なし。
ルーク。
九人との面会希望あり。
具体的面会時は改めて決める。
今日、その記録が残っていることを本人が確認。
変更なし。
そして、第十二版から現行制度への移行。
無期限の事前継続意思。
七日以内。
即時確認可能なら事前確認。
継続意思と実施時受容の分離。
一つの大きな事故が制度を変えたわけではない。
技術が変わった。
時間が増えた。
本人たちの小さな違和感が残った。
結果として接続を喜んだ人の中からも、
『始まる前に一度聞いてほしかった』
という声が出た。
それらが積み重なって、今の方式へ近づいている。
「第十三版、明日読む?」
主様が帰り支度をしながら尋ねた。
「未定です」
「もうそれでいいや」
「諦めましたか?」
「慣れた」
「そうですか」
ノルンも端末を閉じる。
主様は少し考えてから言った。
「でもさ、今日の昔の制度って、悪い人がいたわけじゃなかったんだね」
「少なくとも、確認した範囲ではそうです」
「本人に何回も聞いたら負担になる。接続の時間は短い。だから前に会いたいって言ってたなら繋ぐ」
「当時の条件では合理性があります」
「でも、それで嫌だった人もいた」
「はい」
「難しいね」
ノルンは鞄を持つ。
「難しいから、記録が必要なのだと思います」
「答えを残すため?」
「答えだけではなく」
ノルンは一度言葉を止めた。
「なぜ、その答えを選んだのかを残すためです」
主様が少し目を細める。
「それ、今日の研究メモに書いた?」
「書いていません」
「書かないの?」
「今のところは」
「もったいない」
「必要になれば書きます」
「そういうとこだよなあ」
何が、とは聞かなかった。
◇
管理区域を出ると、朝に広がっていた雲はかなり薄くなっていた。
夕方の空には淡い橙色が混じり、建物の窓にも斜めの光が反射している。通りでは夕食の準備を始めた店から温かな匂いが漂い、仕事を終えた人々がゆっくりと家路へ向かっていた。
ノルンは歩きながらスマートフォンを確認する。
美咲から一件。
『日曜の店、昼すぎ結構混むらしい(笑)』
昨日、
混んでいたら別の場所へ行く。
と決めたばかりだ。
ノルンは少し考えて返す。
『では、着いてから見て決めましょう』
数分もしないうちに返事が来る。
『了解! 並びたかったら並ぶし、めっちゃ並んでたら逃げよ』
ノルンの口元が少し緩む。
『はい』
それだけ送った。
店へ行きたい。
けれど、混んでいれば入らないかもしれない。
本屋へも行きたい。
けれど、疲れていれば行かない。
十四時に美咲と会うことは決まっている。
その先は、当日決める部分が残っている。
それで困らない。
ノルンはスマートフォンを鞄へ戻し、夕方の通りを歩いた。
◇
夜。
ミレイアは刺繍を終え、机の上を片付けていた。
今日完成した花は一つだけだった。
午前から続けていた割には少ない。
けれど、途中で糸をほどき、やり直したところは綺麗になっている。
布を畳みながら、彼女はエリスへ声をかけた。
『今日の話』
『はい』
『記録した?』
『必要な範囲で記録しています』
『なんて?』
エリスは本人へ開示できる記録を読み上げる。
『「過去の条件付き希望は保持する。ただし現在の接続同意として使用しない。具体的接続時には改めて本人意思を確認する。ルークへの共有なし」です』
ミレイアは少し考える。
『「こんにちはだけなら」も残ってる?』
『残っています』
『そっか』
布を引き出しへ入れる。
『じゃあ、それでいい』
『分かりました』
エリスはそれ以上尋ねない。
ミレイアも、
いつか聞く。
とは言わなかった。
聞かないとも言わない。
今日の彼女が決めたのは、もっと小さなことだった。
前に言った言葉は消さなくていい。
けれど、その言葉に未来の自分の返事までさせないでほしい。
それだけだった。
◇
同じ夜、管理区域の記録庫には、第十二版よりさらに古い規定も、新しい規定も、そのまま残っていた。
かつては、
『また会いたい』
という言葉を長く保存し、その言葉を次の接続を始めるための返事として使った時代があった。
それには理由があった。
接続できる時間が短かった。
何度も確認することが本人を疲れさせた。
せっかく戻ってきた相手との機会を失わせたくなかった。
その選択によって再会できた人もいた。
喜んだ人もいた。
けれど、その中に、
『今日は無理だった』
と言った人がいた。
『今回はよかった。でも次も勝手に始めていいとは言っていない』
と残した人がいた。
『始まってから止めるのと、始まる前に断るのは違う』
と伝えた人もいた。
誰か一人の正しい言葉が制度を変えたのではない。
技術が変わり、選べる時間が増え、その時間の中で本人へ返事を戻せるようになった。
そうして長い年月をかけ、
『前に会いたいと言った』
ことと、
『今、会う』
ことの間に、もう一度本人が立てる場所が作られていった。
現在、その場所にはルークがいる。
九人に会いたい。
でも、会う時はまた決めたい。
別の場所にはミレイアがいる。
もし接続するなら、こんにちはだけがいいかもしれない。
でも、それは今の返事ではない。
二人の言葉は似た制度の中に置かれている。
だからといって、二人が同じ気持ちであることにはならない。
まして、同じ結論へ向かっている証拠にもならない。
管理側ができるのは、どちらかの過去の言葉を取り出して、未来の返事として先回りさせないことだった。
そして翌日になれば、二人の気持ちは変わるかもしれない。
変わらないかもしれない。
どちらであっても、昨日の言葉が嘘になるわけではない。
昨日の返事は昨日の返事として残り、今日の返事をする場所は、今日の本人のために空けておく。
今の観察者制度がそこへ辿り着くまでには、想像していたよりずっと長い時間がかかっていた。




