第百話 門の前で『今日はやめる』と言っても、三年間へ戻るわけではありません
翌朝、エリオット・バーンズは目覚ましが鳴るより少し早く目を覚ました。
薄い光がカーテンの隙間から入り、床に細い線を作っている。まだ起床時間には早く、生活区域の廊下も静かだったが、エリオは一度開いた目を閉じても、なかなか眠りへ戻れなかった。
今日、外出候補を見る。
それだけだ。
昨日、ラウルにも何度も確認した。公園へ行くと決めたわけではなく、候補を見て、時間帯や同行者、経路を確認するだけでいい。そこで行きたくなければ決めなくてもいいし、別の場所がよければ変えてもいい。
「……地図見るだけだろ」
寝台の中で呟いた。
ところが、頭の中に浮かんでいるのは地図ではない。
西側談話室の窓から見える木々だった。
春には花が咲く。
冬には葉が落ちて、人が少なくなる。
いつからそれを眺めるようになったのかは、やはり思い出せない。
三年前は外を見ることすら嫌だった。
この世界で人が普通に暮らしている様子を見ると、自分だけが置き去りにされたような気分になった。知らない通貨で買い物をし、知らない言葉の看板を読み、知らない季節の祭りを楽しんでいる人々を見れば、自分がここへ来てしまった事実を突きつけられる気がした。
だから、外へ出たくなかった。
あの時の気持ちは、今でも分かる。
だが今朝は、窓の向こうが少し気になっている。
その違いを考え始めると、また眠れなくなった。
「……面倒くせえ」
結局、エリオは予定より二十分早く寝台を出た。
◇
食堂へ入ると、まだ席は半分以上空いていた。
朝食を受け取り、いつもの窓際へ向かう。温かいパンと卵、野菜のスープという見慣れた組み合わせだったが、今日はパンをちぎる手がいつもより遅かった。
しばらくすると、ラウルが食堂へ入ってきた。
エリオに気づく。
けれど、すぐには近づいてこなかった。
別の入居者へ声をかけ、職員用の飲み物を受け取り、それからようやくエリオの席の近くへ来る。
「早いね」
「目覚めた」
「眠れなかった?」
「寝たよ」
「そう」
ラウルは向かいへ勝手に座らず、隣の空席を指した。
「座っていい?」
「いちいち聞くの?」
「今日は何となく」
「……いいよ」
ラウルが腰を下ろす。
エリオはスープを飲んだ。
「今日、何時?」
「何が?」
「地図」
「午前十時くらいなら担当室が空いてる」
「じゃあ十時」
「決める?」
「地図見る時間くらいは決めるだろ」
「分かった。十時」
ラウルが端末へ入力する。
エリオはそれを見ていた。
「何て書いた?」
「午前十時、外出候補説明」
「外出じゃなくて?」
「候補説明」
「……見せて」
ラウルは端末を向ける。
『10:00 外出候補再提示・説明。本人希望により本日実施。外出実施予定ではない。』
エリオは最後まで読む。
「そこまで書く?」
「昨日、分けてほしいって言ったから」
「まあ……うん」
「変える?」
「いい」
ラウルが端末を戻す。
その瞬間、エリオは自分が記録を確認していることに気づき、少しだけ嫌な気分になった。
「俺さ」
「うん」
「毎回こうやって見ないと駄目なの?」
「見なくていいよ」
「でも、また変な書かれ方したら嫌だし」
「うん」
「信用しろってこと?」
「そう言いたいけど」
ラウルは少し考えた。
「昨日の今日で、信用しろって言われても困るだろ」
エリオが顔を上げる。
「じゃあどうすんの」
「見たい時は見ていい。見なくても意図と違う記録になりにくいように、こっちが直す」
「直るまで?」
「確認したいなら確認していい」
「ずっと?」
「ずっとでも」
「それ、面倒じゃない?」
「面倒だよ」
即答だった。
エリオは眉を寄せる。
「そこは嘘でも面倒じゃないって言えよ」
「でも、エリオが自分の記録を確認することより、毎回確認しないと危ない記録の方が面倒だと思う」
「……そういう意味?」
「そういう意味」
エリオは少しだけ笑った。
「じゃあ今日は見る」
「分かった」
「明日は知らない」
「うん」
パンを一口食べる。
昨日より、少しだけ味が分かった。
◇
同じ頃。
ノルンは管理区域の自席で、九名分の朝の状態を確認していた。
重大な異常はない。
世界側にも破壊規模の干渉兆候はなく、緊急介入が必要な報告も届いていない。
ルークは朝食後、昨日読んでいた動物図鑑を別の子供へ貸していた。
ミレイアは昨夜の発言について変更要求なし。
『次回接続:まだ決めていない』
現在状態も変わっていない。
フローラは通常の日課へ戻っており、慈善行事に関する追加参加予定はない。
アーノルドからの接触なし。
他の誤転生者についても、本人が設定した境界を変更するような新しい動きはなかった。
「百日目みたいな顔してますね」
向かいからセレナが言った。
「何ですか?」
「いや、何でもないです」
「そうですか」
セレナは少し不満そうだった。
「聞かないんです?」
「何でもないと言われたので」
「そこは聞いてくれても」
「では、何ですか?」
「もう遅いです」
「そうですか」
ノルンは朝の確認へ戻る。
主様が少し離れた場所で笑っていた。
「仲良くなったね」
「業務上の会話です」
「はいはい」
ノルンは反応せず、次の報告を開いた。
エリオ。
午前十時に外出候補説明。
実施予定ではない。
本人が記録表示の確認を希望。
そこまで読んだところで、セレナが表情を改めた。
「今日ですね」
「はい」
「私、行かないですからね」
「聞いていません」
「昨日までなら、ちょっと見に行きたいと思ってたかもしれない」
「今は?」
「気になるけど行かない」
「なぜですか?」
「私が見たいから行くのは違うかなって」
ノルンは一度だけセレナを見る。
「そうですね」
「もうちょっと褒めてもいいですよ?」
「必要ですか?」
「いらないです」
セレナは笑いながら、自分の端末を開いた。
「代わりに一覧試験やります」
昨日作った期間指定の扱い。
自由記述から条件を人が拾うだけでは、また見落とす可能性がある。そこで、発言を記録する際に『時間条件』『対象条件』『実施条件』などを必要に応じて別構造で保持する案が作られていた。
ただし、入力項目を増やしすぎれば、職員が本人との会話中に記録作業ばかり気にするようになる。
「試験対象、三件だけにしました」
「見せてください」
一件目。
『今週は家族への連絡をしないでほしい』
本人発言はそのまま保持。
時間条件に『今週』。
現在対応は『本人からの変更希望または安全上の必要がない限り、今週は家族連絡を実施しない』。
期間終了後。
『自動的に連絡可へ変更しない。次回、家族連絡が実際に必要となった時点で本人意思を確認。』
二件目。
『午後なら面談を受けてもいい』
時間条件は『午後』。
だが、希望分類は空欄。
「空欄?」
ノルンが尋ねる。
「『午後希望』にすると強すぎるから」
「では現在対応は?」
『面談実施が必要となった場合、午前帯の本人負担を避ける。午後帯についても実施前確認。』
「以前よりよいと思います」
「やった」
「ただし」
「来ると思った」
「面談自体を本人が希望しているかは、これだけでは分かりません」
「はい。だからそこも空欄」
「なら試験できます」
三件目。
エリオ。
『今月は出たくない』
過去記録を現在方式へ仮に入力し直したものだった。
本人発言。
『今月は出たくない』
時間条件。
『発言時点の当月』
現在状態。
『当該月終了後は未確認』
対応。
『外出機会が発生した場合、過去拒否を現在拒否として扱わない。必要に応じ現在意思を確認。ただし定期的な再質問は行わない。』
ノルンは少し長くそこを見る。
「これなら三年間は起きなかった?」
セレナが聞く。
「同じ形では起きにくかったと思います」
「なくなる?」
「別の問題は起こるでしょう」
「ですよね」
セレナは落胆しなかった。
「じゃあ、その別の問題が何か試す」
「はい」
完璧な一覧を作ることではない。
人間の言葉を、完全に誤解なく短く保存することもできない。
だから、短縮によって何が失われるかを見つけた時、修正できる構造にする。
今はその途中だった。
◇
午前十時。
エリオはラウルと一緒に、小さな面談室へ入った。
机の上には紙の地図が三枚置かれている。
「紙なんだ」
「端末でも見られるけど、広げた方が分かりやすいかなと思って」
「どっちでもいい」
エリオが言った直後、二人の視線が一瞬だけ合った。
「……今のは本当にどっちでもいい」
「了解」
「勝手に深読みすんなよ」
「してないよ」
「今ちょっとしただろ」
「昨日から『どっちでもいい』について考えてる人が多いから」
「俺以外にもいるの?」
「いるよ」
「ふうん」
エリオは椅子へ座る。
三枚の地図。
一枚目は近隣公園。
二枚目は商店街。
三枚目は公共図書室。
ラウルは最初から公園を勧めなかった。
「昨日出した三候補。場所と距離だけ説明するね」
「うん」
「公園はここから徒歩十分から十五分。歩く速さで変わる。午前の早い時間と夕方は比較的人が少ないけど、休日の昼は家族連れが増える」
エリオは地図を見る。
「今日って?」
「平日」
「いや、今行ったら人多い?」
ラウルは一瞬だけ止まった。
その一瞬を、エリオは見逃さなかった。
「何」
「今行く話として答えていいのかなと思って」
「聞いただけ」
「分かった。今の時間なら、たぶん多くはない。ただ、正確な混雑は行ってみないと分からない」
「そう」
ラウルは商店街を説明する。
店が多い。
人通りも公園より多い。
休憩できる場所はある。
図書室は徒歩二十分ほど。
屋内で静かだが、初回としては距離が長い。
説明が終わった。
「以上」
「……終わり?」
「うん」
「どれがいいとか言わないの?」
「聞きたい?」
「いや」
「なら言わない」
エリオは地図を見比べる。
視線は何度も公園へ戻った。
ラウルは気づいている。
けれど、
『公園が気になるんだね』
とは言わない。
しばらくして、エリオが指を置いた。
「ここ」
「公園?」
「うん」
「何が知りたい?」
「門からここまで、どの道?」
ラウルが経路を示す。
「正門を出て右。最初の交差路をまっすぐ。小さい橋を渡って――」
「橋?」
「用水路。すごく小さい」
「写真ある?」
「あるよ」
端末に経路写真を出す。
エリオは一枚ずつ見る。
正門。
道路。
交差路。
小さな橋。
その先に並ぶ木々。
公園の入口。
最後の写真で指が止まった。
「……普通だな」
「普通?」
「もっと、なんかあると思ってた」
「何が?」
「知らん」
エリオは写真を拡大する。
石造りの低い門柱。
その奥に土の道。
木製のベンチ。
特別なものは何もない。
「これ、管理区域から見えてるとこ?」
「西側の木はたぶんここ」
「そっか」
エリオは黙る。
ラウルも黙る。
やがてエリオが聞いた。
「もし行くなら、何分いないと駄目?」
「決まりはないよ」
「五分で帰っても?」
「いい」
「入口で帰っても?」
「いい」
「門出てすぐ帰っても?」
「いい」
「それ、外出になる?」
「記録上?」
「うん」
「門を出たなら、外出したこと自体は記録されると思う。でも、公園へ行ったことにはしない」
「……なるほど」
「嫌?」
「いや」
エリオは公園の写真を見る。
「今日」
声が少し小さくなった。
ラウルは聞き返さない。
エリオが自分で続けるのを待つ。
「今日、行ける?」
「公園へ?」
「……うん」
「行ける」
「今から?」
「調整は必要だけど、できると思う」
エリオの指が止まる。
さっきまで地図を見るだけだった。
来週まで待たず、今日候補を見ることにした。
そして今、自分から、
『今日、行ける?』
と聞いた。
胸の奥が急に騒がしくなる。
「やっぱ――」
言いかける。
ラウルは何も言わない。
「……いや」
エリオは額を押さえた。
「ちょっと待って」
「うん」
「今、行くって言った?」
「『今日、行ける?』って聞いた」
「それ、行くってこと?」
「俺はまだ確認してない」
「なんで」
「行けるかどうか聞きたかっただけかもしれないから」
エリオは顔を上げた。
「……そういうの、いちいち分けるの?」
「今はね」
「昨日のせい?」
「それもある」
「じゃあ」
エリオは息を吐いた。
「行けるなら……行ってみたい」
「今日?」
「うん」
「公園へ?」
「うん」
「分かった」
ラウルは端末へ手を伸ばす。
エリオがすぐに言う。
「待って」
手が止まる。
「何?」
「今、怖くなった」
「うん」
「……それでも行くって書く?」
「まだ書いてない」
「俺、行きたいって言ったよな」
「言った」
「でも怖い」
「うん」
「これ、どっちになるんだよ」
ラウルは端末から手を離した。
「両方じゃない?」
「両方?」
「今日、公園へ行ってみたい。今、怖さもある」
「そんな書き方できる?」
「できる」
「……変じゃない?」
「俺には変に聞こえない」
エリオは唇を噛んだ。
三年前。
外へ出るのが嫌だった。
今日。
公園へ行ってみたい。
同時に怖い。
どれか一つだけが本当ではない。
「じゃあ、それで」
「分かった」
ラウルが記録する。
『本人より本日、近隣公園へ行ってみたいとの希望あり。同時に外出への不安を表明。希望と不安を併記。実施前に本人へ最終確認。』
エリオは画面を見る。
「最終確認って?」
「門を出る前に、本当に出るか確認する」
「今決めたのに?」
「今決めたから絶対出なきゃいけない、にはしないため」
エリオは黙った。
「……それ、助かる」
小さな声だった。
◇
外出準備に、大げさなものは必要なかった。
歩きやすい靴。
上着。
少量の飲み物。
同行者はラウル。
安全上の連絡端末を持つ職員が、少し距離を空けてもう一人同行することになった。
エリオはその説明を聞いた時、一瞬だけ顔をしかめた。
「二人?」
「安全規定で、久しぶりの区域外外出は二人体制」
「ずっと横にいる?」
「一人は距離を取れる」
「誰?」
「ミナ」
「ああ……知ってる」
女性職員のミナは、食堂や生活区域で何度も顔を合わせている。
「知らない人よりいい」
「じゃあミナでいい?」
「うん」
そこでラウルは、
『知っている職員希望が確定した』
と勝手には書かず、
『本日の同行者としてミナを了承』
とだけ記録した。
今後も必ず知っている職員でなければならないのかは、まだ分からないからだ。
午前十一時二十分。
三人は生活区域の一階へ降りた。
正門へ続く廊下。
エリオは普段もここを通る。
門の近くまで来ること自体は珍しくない。
それなのに今日は、廊下が妙に長く感じた。
ガラス越しに外の光が見える。
人が歩いている。
荷車が通る。
風で街路樹の葉が揺れる。
ラウルは少し前を歩き、ミナは数歩後ろ。
誰も、
『大丈夫』
とは言わない。
大丈夫かどうかは、エリオ本人にもまだ分からない。
正門の内側で、ラウルが止まった。
「ここで確認するね」
「……うん」
「今から外へ出る?」
エリオは門の向こうを見る。
たった数歩。
外へ出るだけなら、過去にも治療施設へ行く時などに経験している。
けれど今日は違う。
必要だからではない。
連れていかれるからでもない。
自分が、
『行ってみたい』
と言ったから、ここにいる。
それが急に重くなった。
「……ちょっと待って」
「うん」
ラウルは待つ。
後ろのミナも何も言わない。
エリオの手に汗が滲む。
外へ出たら。
何かが変わるのか。
三年間出なかった自分は何だったのか。
今日出たら、三年前の自分を否定することになるのか。
ここでやめたら。
やっぱり自分は何も変わっていないのか。
昨日、
『成長したとかいらない』
と言った。
なのに、自分自身が一番、
『進んだか戻ったか』
で考え始めている。
「エリオ」
ラウルが名前を呼ぶ。
「何」
「今、何考えてる?」
「……やめたら」
「うん」
「今日やめたら、また外出希望なしになる?」
ラウルの表情が変わった。
驚いたというより、ようやくエリオが何を怖がっているのか分かった顔だった。
「ならない」
「本当に?」
「今日の外出をやめることと、今後ずっと外出したくないことは別」
「でも記録には拒否って書くんだろ」
「『本日の外出は実施せず』とは書く。でも『外出希望なし』にはしない」
「俺が今日やめても?」
「うん」
「公園行ってみたいって言ったのは?」
「それも今日言ったこととして残る」
「両方?」
「両方」
エリオは門を見る。
「……変じゃん」
「何が?」
「行きたいって言って、行かないって」
「今、そうしたいなら」
「三年前に戻ったみたいじゃん」
声が少し震えた。
ラウルはすぐには答えなかった。
門の外では、親子らしい二人が歩いていく。
誰もエリオを見ていない。
世界は、彼が門を出るかどうかとは関係なく動いている。
「三年前に戻ることはできないよ」
ラウルが静かに言った。
「……何それ」
「今日やめても、今日やめたエリオになるだけだと思う」
「分かんねえよ」
「うん」
「俺だって分かんねえ」
「うん」
エリオは唇を噛んだ。
目の奥が熱くなる。
泣くほどではないと思った。
けれど、視界が少し滲んだ。
「俺、昨日腹立ったんだよ」
「うん」
「三年間ずっと同じだったみたいにされて」
「うん」
「だから今日やめたら、結局あれが正しかったみたいで嫌なんだよ」
言葉にしてしまうと、余計に苦しくなった。
ラウルは一歩も近づかなかった。
「じゃあ、記録のために行く?」
エリオは顔を上げる。
「……嫌だ」
「うん」
「そんなの嫌だ」
「なら、記録を正しくするために門を出なくていい」
「でも」
「昨日の記録が間違っていたかどうかは、今日エリオが公園へ行けるかでは決まらない」
エリオは黙る。
「『今月は出たくない』を三年間の『外出希望なし』として扱ったことが問題だった。それは、今日エリオが門を出ても出なくても変わらない」
「……うん」
「今日やめても、三年前の一覧が正しかったことにはならない」
長い沈黙が落ちた。
エリオは袖で目元を拭った。
「……ずるいな」
「何が?」
「それ言われたら、行く理由一個減るじゃん」
「減っていいんじゃない?」
「何で」
「残った理由で決めた方が、エリオが決めやすいなら」
エリオは門の外を見る。
記録を直すため。
自分が変わったと証明するため。
三年前の自分から進んだと示すため。
そういう理由を、一つずつ外していく。
残るもの。
公園が気になる。
窓から見えていた木の近くへ行ってみたい。
写真で見た入口を、自分の目で見てみたい。
怖い。
人は少ない方がいい。
途中で戻りたいかもしれない。
それでも。
「……入口まで」
エリオが言った。
「うん」
「公園の入口まで行く」
「分かった」
「中入るかは、そこで決める」
「うん」
「途中で嫌になったら戻る」
「分かった」
「それでもいい?」
「もちろん」
エリオは深く息を吸った。
そして。
三年前、自分からは越えたくないと思っていた門を、一歩だけ越えた。
◇
何も起こらなかった。
光が変わるわけでもない。
音が鳴るわけでもない。
誰かが拍手するわけでもない。
外側から見れば、若い男が門から歩道へ出ただけだった。
「……普通だ」
エリオが呟く。
ラウルが隣で笑いそうになり、堪える。
「何」
「いや」
「笑っただろ」
「ちょっと」
「帰るぞ」
「まだ三歩だよ」
「じゃあ笑うな」
「ごめん」
エリオは歩く。
最初の交差路。
写真で見た場所。
本当に同じだった。
「ここ右じゃないよな」
「まっすぐ」
「知ってる」
自分で地図を見た。
そのことが少し嬉しい。
用水路の小さな橋。
水が流れている。
エリオは橋の上で一度止まった。
「どうした?」
「これが橋?」
「そう」
「小さすぎるだろ」
「だから言ったじゃん」
「もっと川みたいなの想像した」
「戻る?」
「なんで橋が小さいだけで戻るんだよ」
エリオは歩き出す。
少し後ろからミナがついてくる。
彼女は必要以上に話しかけない。
すれ違う人が二人。
犬を連れた老人。
買い物袋を持った女性。
誰もエリオを特別扱いしない。
自分が異世界から来たことなど、誰も知らない。
十分ほど歩いたところで、写真と同じ石の門柱が見えた。
エリオの足が止まる。
「……着いた」
「うん」
公園の入口。
その向こうに木々がある。
ベンチ。
池へ続く遊歩道。
遠くに二人ほど人影が見える。
静かだった。
エリオは入口から中を覗く。
「ここまでにする?」
ラウルが尋ねる。
エリオは答えない。
今度の沈黙は、門の前とは少し違った。
怖い。
まだある。
けれど、管理区域の門を出る前ほどではない。
「……あのベンチ」
「うん」
「そこまで行く」
「分かった」
公園へ入る。
一歩。
二歩。
土の感触が靴底へ伝わる。
木々の間から風が抜ける。
鳥の声。
池の水面が光っている。
ベンチへ着くと、エリオはすぐに座った。
「疲れた?」
「精神的に」
「そっか」
「笑うなよ」
「笑ってない」
ラウルも少し離れて座る。
ミナはさらに離れた別のベンチ。
エリオは周囲を見る。
「……三年」
「うん」
「近かったんだな」
「歩いて十分ちょっとだったね」
「そういう意味じゃなくて」
ラウルは何も言わない。
エリオは池を見る。
三年間。
窓から木だけ見ていた。
それがこんな場所だった。
「もっと早く来ればよかったのかな」
口から出た。
ラウルは答えなかった。
「何か言えよ」
「分からないから」
「何が」
「もっと早く来た方がよかったか」
「普通、来ればよかったって言うだろ」
「三年前のエリオは来たくなかった」
「……うん」
「去年なら来られたかもしれない。でも分からない」
「うん」
「だから俺には、もっと早く来ればよかったとは言えない」
エリオは俯く。
悔しい。
少しだけ。
三年間のどこかに、今日みたいな日があったかもしれない。
誰かが、
『公園見る?』
と聞いてくれていたら、
『見るだけなら』
と答えた日があったかもしれない。
その機会はもう戻らない。
けれど。
「今日来た」
エリオが言う。
「うん」
「それは書く?」
「外出記録には」
「どう書く?」
「帰ってから一緒に見る?」
「……うん」
「じゃあそうしよう」
エリオは背もたれへ体を預けた。
風が頬を撫でる。
少し冷たい。
それでも嫌ではなかった。
◇
外出は二十八分で終わった。
池を一周しない。
売店もない。
誰かと話したわけでもない。
ベンチへ座り、少し景色を見て、同じ道を戻った。
管理区域の門が見えた時、エリオは安心した。
それも少し悔しかった。
外へ出られたのだから、
『帰りたくないくらい楽しかった』
と感じた方が格好いい気がした。
実際は違う。
門を見て、
『戻ってきた』
と思った。
ほっとした。
「なあ」
「うん」
「帰ってきて安心したのも書く?」
「残したい?」
「……迷う」
「今決めなくていいよ」
「またそれ」
「便利だから」
「ノルンみたいなこと言うな」
ラウルが少し驚いた。
「ノルンさん知ってるの?」
「見たことあるだけ」
「そっか」
「有名なんだよ、何か細かい人で」
「本人に言わない方がいいよ」
「何で」
「否定しなさそうだから」
「それ余計怖い」
二人で少し笑った。
戻ったあと、面談室で外出記録を確認する。
ラウルが読み上げた。
『本人希望により近隣公園へ外出。正門前で不安増大あり。一時保留後、本人より「公園入口まで行く」と再決定。公園入口到着後、本人希望により園内ベンチまで移動。約二十八分で帰所。途中、本人から中止希望なし。』
エリオは眉を寄せる。
「成功とか書かないの?」
「書いてほしい?」
「いや……外出成功、とか」
「何を成功条件にする?」
「公園行った」
「それなら『公園へ外出』で事実は残ってる」
「そっか」
「成功って書くと、途中で戻ったら失敗みたいになるから」
エリオは黙る。
門の前で、本当にやめようと思った。
もしあそこで戻っていたら。
「……それ嫌だな」
「うん」
「じゃあいらない」
「分かった」
「あと」
「何?」
「正門前で不安増大って、消せる?」
「消したい?」
「ちょっと恥ずかしい」
「必要性を確認してみようか」
ラウルは勝手に残さない。
安全記録として必要か、本人の心理経過として残す意味があるかを確認する。
結果、外出中に体調異常や危険行動はなく、具体的な安全上の必要性は低い。
「どうする?」
「……でも」
エリオは迷う。
「消したら、普通に行けたみたいになる?」
「そう見える可能性はある」
「じゃあ残す」
「いい?」
「うん」
エリオは少し顔をしかめながら頷いた。
「怖かったけど行ったから」
「分かった」
「いや」
また止める。
「『怖かったけど行った』って書くなよ」
「書いてない」
「ならいい」
ラウルが笑う。
エリオも笑った。
◇
その報告をノルンが読んだのは午後だった。
セレナも隣で確認している。
「行った」
「行きましたね」
「二十八分」
「はい」
「門の前で一回やめそうになってる」
「はい」
「でも行った」
「はい」
セレナは少し嬉しそうだった。
「よかったですね」
ノルンはすぐには答えなかった。
「……何です?」
「何がですか?」
「その間」
「エリオさん本人が、行ってよかったと評価した記録はまだありません」
「そこ?」
「ただ」
ノルンは公園到着後の会話記録を見る。
『今日来た』
その言葉。
「少なくとも、本人が自分で決めた外出を実施できたことは事実です」
「それなら、よかったって言ってもいい?」
「私たちが嬉しく思うことまで禁止する必要はないでしょう」
「ですよね」
「ただし、本人の評価とは分けてください」
「はい」
セレナは笑う。
「私、ちょっと嬉しいです」
「私もです」
セレナが固まった。
「今、言いました?」
「何をですか?」
「ノルンさんが『私も嬉しい』って」
「言いました」
「記録していい?」
「必要ありません」
「ですよね」
二人の間に笑いが落ちた。
◇
その日の午後、ルークは生活担当と一緒に洗濯物を畳んでいた。
特別な確認ではない。
本人が手伝うと言ったから手伝っている。
タオルを一枚。
もう一枚。
端を合わせる。
「これ、曲がってる?」
「ちょっと」
「使える?」
「使える」
「じゃあいいや」
ルークはそのまま籠へ入れた。
「適当だなあ」
「使えるならいいじゃん」
「まあね」
何枚か畳んだところで、ルークがふと思い出したように言った。
「会う時にまた決めるってやつ、残ってる?」
担当者の手が止まる。
先日記録した、
『九人とも会いたい』
そして、
『会いたいけど、会う時はまた決める』
という二つの意思。
「残ってるよ」
「両方?」
「両方」
「一個になってない?」
「なってない」
「見れる?」
「あとで見る?」
「今じゃなくていい」
「分かった」
ルークは次のタオルを畳む。
それだけだった。
なぜ今日確認したのかは尋ねない。
何か不安になったのか。
誰かと会いたくなったのか。
逆に会いたくなくなったのか。
聞けば答えるかもしれない。
けれど、本人はそこまで話していない。
「これ終わったら何する?」
担当者が尋ねる。
「本読む」
「動物の?」
「貸した」
「じゃあ何読むの?」
「町のやつ、もう一回」
「気に入ったね」
「うん」
ルークは笑った。
◇
ミレイアは、その日の夕方も刺繍を続けていた。
青い花の影は少しずつ形になっている。
昨日は、
『全部怖くなくならないと決めちゃ駄目だと思ってた』
という部分だけ記録へ残した。
現在の接続希望に変更なし。
ルークへの共有なし。
今日、エリスはその話を出していない。
ミレイアも出さなかった。
針を通す。
糸を引く。
少しずれた。
『あ』
エリスが顔を上げる。
『失敗しましたか?』
『ちょっと』
糸を戻す。
やり直す。
『こういうのは戻せるからいいね』
ミレイアが言う。
『はい』
『戻せないこともあるけど』
エリスは、その言葉を接続の話へ結び付けなかった。
『そうですね』
それだけ答える。
ミレイアは少しだけエリスを見る。
何も聞かれない。
そのことに、今日は安心した。
◇
夕刻。
フローラの屋敷には、慈善行事の主催団体からもう一通の連絡が届いた。
今度は全参加者へのものではない。
寄付品分類班へ送られた簡単な確認だった。
『前回作業時、一部の分類札に判定基準の不統一が確認されたため、次回開催に向け作業手順を見直します。参加者の責任を問うものではありません。』
フローラはその一文を何度も読んだ。
「私、間違えたかな」
母親が向かいに座っている。
「誰が間違えたかは書いていないわ」
「でも私も札付けた」
「そうね」
「何個か迷った」
「そうだったの?」
「うん。職員の人に聞いたけど……一個、自分でやった気がする」
昨日までは、
『七割進んだ』
という報告が嬉しかった。
今日は、
『判定基準の不統一』
という言葉が届いた。
胸が少し重くなる。
「問い合わせる?」
母親が尋ねる。
フローラは考える。
「私が間違えたか?」
「それも聞けるでしょうね」
「……でも、それ聞いてどうするんだろ」
「どうしたい?」
「次やる時、間違えたくない」
「なら、誰が間違えたかより、何が分かりにくかったのかを聞いた方がいいかもしれないわね」
フローラは連絡文を見る。
「次回開催に向けて手順見直すって書いてある」
「ええ」
「じゃあ次に参加するなら、その時に新しいやり方教えてもらえる?」
「おそらく」
「……それでいいかな」
「あなたがそう思うなら」
フローラは少し考えたあと、問い合わせはしなかった。
自分が間違えた可能性はある。
違うかもしれない。
もし間違えていたとしても、昨日一日の全部が失敗になるわけではない。
ただ次回、確認したいことが一つ増えた。
それだけだった。
◇
終業前。
ノルンは第十三版を開いた。
今日こそ続きを読むつもりだったわけではない。
ただ、エリオの外出記録を読んだあと、昨日確認した一節が気になった。
『過去の継続希望は、その時点の本人意思として保持する。現在の拒否によって過去の希望を誤りとして訂正しない。また、過去の希望を理由に現在の拒否を一時的混乱として扱わない。』
その周辺の編集記録をもう少し確認する。
一つの事例が目に留まった。
『事例D:接続実施直前撤回』
接続者は事前に再接続を希望。
当日も準備へ同意。
接続開始直前、
『やっぱり今日はやめたい』
と発言。
当時の担当者は接続を中止した。
しかし旧評価記録には、
『不安反応により接続失敗』
と記載された。
後年、その表現が問題視されている。
編集会議記録。
『本人は接続を試みて失敗したのではなく、実施前に撤回を選択している。「失敗」は本人選択を能力不足または手順不達成として評価する語となり得る。』
別の意見。
『ただし運用目標上は予定接続が成立しなかったため、結果分類として「未達」は必要。』
反論。
『管理上の目標と本人の目標を混同している。接続成立を管理側の成功条件とするなら、本人が安全に撤回できる制度設計と矛盾する。』
ノルンの指が止まった。
さらに読む。
最終的に、第十三版では教育例の表現が変更されている。
『接続実施直前、本人意思により中止。手順は正常終了。』
「正常終了」
主様が横から読む。
「接続してないのに?」
「撤回を含めた手順としては、正常に終了したという意味でしょう」
「昔は失敗だった」
「記録上は」
「でも本人はやめたかった」
「はい」
「……エリオみたい」
主様が言う。
ノルンはすぐに否定しなかった。
「今日のエリオさんは最終的に外出しました。ただ、門前で撤回していたとしても、外出手続きが失敗したと評価する必要はなかったでしょう」
「行かなかったら成功でもない?」
「成功という言葉を何に対して使うかによります」
「難しい」
「だから、事実を記録する方が安全な場合があります」
接続した。
しなかった。
本人が撤回した。
途中で停止した。
後日再検討する。
そこへ成功や失敗を付けると、管理側の望む方向が混ざることがある。
「これ、今の制度に残ってる?」
「確認します」
現行手順。
接続前撤回。
分類は、
『本人意思による実施見送り』
安全手順上は正常。
次回接続希望を自動変更しない。
再確認は本人からの希望、または具体的な新規接続機会が生じた時。
「残ってます」
「じゃあ、第十三版から今に繋がってる?」
「少なくとも考え方の一部は」
ノルンはその先を見る。
そして、別の注記で手を止めた。
『本改訂に際し、第一接続者事例を撤回権教育の代表例として採用する案が提出されたが、不採用とした。』
「第一接続者?」
主様の声が変わる。
「はい」
理由。
『第一接続者については、長期接続維持・再接続・命名拒否等、複数の教育的象徴として既に使用されている。さらに撤回権の象徴として再構成することは、単一事例への過度な意味付与となる。』
別の委員。
『第一接続者はあらゆる適切判断を先取りした理想的接続者ではない。後世の制度を過去事例へ投影すべきではない。』
ノルンは、その文章を長く見つめた。
第十版。
第十一版。
第十二版。
第一接続者は、少しずつ物語になった。
待ち続けた人。
正しく名付けを拒んだ人。
長期相互接続を成立させた人。
後世の教材にとって都合のよい象徴へ近づいていった。
だが第十三版の編集者の中には、それを止めようとした者がいた。
「この時点で、気づいていた人がいます」
「何に?」
「一人の過去を、後からできた制度すべての模範にしようとしていることに」
「じゃあ、第一接続者って完璧じゃなかった?」
ノルンは主様を見る。
「完璧だったという原記録はありません」
「でも今までの教材だと、すごい人に見える」
「後世がそういう物語を作った部分があります」
「本当は?」
「まだ分かりません」
第一接続者が迷った記録もある。
期待した。
探したくなる自分を警戒した。
名前らしい音を聞きたかった。
未来の自分が今より慎重でなくなる可能性まで考えた。
十三年間の全日を、静かに正しく待っていたわけではない。
そもそも、
『待っていた』
と一語でまとめること自体が適切かも分からない。
「……もっと本人の記録を見たいです」
ノルンが言った。
「十三年分?」
「全部あるとは限りません」
「でも探す?」
「はい」
「今から?」
ノルンは時刻を見る。
終業まで十二分。
「今日は探しません」
「そこは変わらない」
「十二分で始める調査ではありません」
主様は笑った。
「じゃあ明日?」
「それも明日決めます」
「はいはい」
ノルンは第十三版を閉じた。
ただし、調査候補へ一行だけ追加する。
『第一接続者・十三年間の原記録――教材上の象徴化以前の本人発言、日常記録、接続継続意思の変化を確認。』
それは結論ではない。
次に開く可能性のある扉だった。
◇
夜。
エリオは西側談話室へ行った。
昨日と同じ窓。
遠くに、公園の木々が見える。
今日は、あの下まで行った。
ベンチに座った。
池も見た。
それなのに、窓から見える景色は昨日とほとんど変わらない。
「エリオ」
ラウルが扉のところにいる。
「何」
「夕食もうすぐ」
「分かってる」
「公園、どうだった?」
エリオは振り返る。
「今聞く?」
「嫌ならいい」
「……分かんない」
「そっか」
「楽しかったってほどじゃない」
「うん」
「疲れた」
「うん」
「門の前で帰りたくなった」
「うん」
「帰ってきた時、安心した」
「うん」
「でも」
エリオは窓の外を見る。
夕暮れの木々。
昨日までは、向こう側の場所だった。
「行ってよかったとは思う」
ラウルは何も言わない。
「何か言えよ」
「記録する?」
「……それ聞く?」
「残したいかと思って」
エリオは少し考える。
「残して」
「そのまま?」
「うん」
「『楽しかったほどではない。疲れた。門前で帰りたくなった。帰所時は安心した。ただし、本人は「行ってよかったとは思う」と発言』」
「長いな」
「短くする?」
エリオは昨日までなら、
『短くして』
と言ったかもしれない。
けれど今は、その一つ一つが違う気持ちだと分かる。
「……そのままでいい」
「分かった」
「あと」
「うん」
「次はまだ決めない」
「分かった」
「行かないって意味じゃないからな」
「うん」
「次の外出は未定」
「それで残す?」
「うん」
ラウルが入力する。
エリオは確認した。
『次回外出:未定。』
たったそれだけ。
希望なしでもない。
希望ありでもない。
今日行ったから次も行く、でもない。
エリオはその表示を見て、ようやく少し肩の力を抜いた。
「飯行くか」
「うん」
二人で談話室を出る。
窓のカーテンは閉めなかった。
閉める必要がなかったからだ。
◇
その夜、ノルンの端末には、九人の誤転生者それぞれの記録が並んでいた。
九人。
最初に神々から届いた報告では、一人だった。
たった一人の誤転生者を見つけ、観察し、世界を壊すようなら止める。
それだけの仕事になるはずだった。
実際には二人目がいた。
三人目もいた。
数は増えた。
事情も増えた。
帰りたい者。
帰れないことを受け入れきれない者。
新しい人生を楽しみ始めた者。
誰かに会いたい者。
会いたくない者。
今は決めたくない者。
過去の記録を消したい者。
残したい者。
観察される範囲を狭めた者。
自分の名前を守りたい者。
昔の名前を知りたいかもしれない者。
同じ『転生者』という言葉で括るには、それぞれが違いすぎた。
ノルンは一人ずつ確認する。
ルーク。
九人全員への面会希望あり。
具体的面会時には改めて本人が決定。
即時実施要求なし。
待っていることを相手へ通知する希望なし。
過去名探索、現在は実施希望なし。
ミレイア。
次回接続、まだ決めていない。
全部の怖さが消えなければ決めてはいけないと思っていたことを本人希望により記録。
現在希望の変更なし。
ルークへの共有なし。
フローラ。
慈善行事参加終了。
次回は募集時に改めて検討。
受付業務への関心あり。
分類作業も否定せず。
アーノルドとの接触希望変更なし。
今は会わない。
その他の六人。
それぞれに、それぞれの線がある。
誰かの線を、別の誰かへ重ねない。
九人だからといって、九人全員を同じ場所へ集めることが物語の完成ではない。
全員が会う必要もない。
全員が過去を知る必要もない。
全員が転生を受け入れる必要もない。
全員が管理側を許す必要もない。
観察官の仕事は、綺麗な結末を作ることではなかった。
ノルンは画面を閉じる。
机の端には、明後日ではなく、もう次の日曜日に迫った美咲との予定が残っている。
十四時。
新しい店。
混雑していたら別の場所。
余裕があれば本屋。
旅行棚。
それもまだ、その先を決めていない予定だった。
「ノルン」
主様が呼ぶ。
「はい」
「帰ろう」
「はい」
立ち上がる。
百という数字に、特別な警報は鳴らない。
世界も壊れない。
九人の誤転生者が突然一か所へ集まることもない。
第一接続者の正体も。
第七外在個体の正体も。
反応群Gと参照番号七の関係も。
ルークが一度だけ漏らした、あの過去名らしき音も。
まだ答えは出ていない。
ミレイアも、二度目の接続を決めていない。
フローラの人生も、慈善行事一日で決まったわけではない。
観察者制度の問題も、一覧を一つ作り直せば終わるものではなかった。
終わっていないことは多い。
けれど、急いで終わらせる必要もない。
ノルンは管理室の照明を落とす。
暗くなった室内で、端末の待機灯だけが小さく残った。
明日になれば、誰かの気持ちが変わるかもしれない。
変わらないかもしれない。
新しい記録が見つかるかもしれない。
何も見つからないかもしれない。
そのどちらでもいい。
分からないものを分からないまま置き、決まっていないものを決まっていないまま守る。
そのうえで、必要な時だけ、もう一度確かめる。
百まで来ても。
転生者観察官ノルンの苦労は、まだ終わらなかった。




