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『転生者観察官ノルンの苦労は終わらない 〜神様達がまたやらかしたので、今日も異世界を見回ります〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第百一話 十三年間の最初の一日には、まだ『待ち続けた人』はいませんでした

 翌朝、ノルンが管理区域へ着いた時、空には薄い雲が広がっていた。


 雨が降るほど暗くはないが、昨日より日差しが弱い。正面棟へ続く石畳の脇では、夜露を残した低木の葉が風に揺れ、出勤してきた職員たちが上着の襟元を直しながら建物へ入っていく。


 ノルンもその流れに混じって玄関を抜けた。


 いつもの管理室へ向かう途中、昨日の終業前に追加した調査候補が頭をよぎる。


『第一接続者・十三年間の原記録――教材上の象徴化以前の本人発言、日常記録、接続継続意思の変化を確認』


 昨日は、それ以上調べなかった。


 終業まで十二分しかなかったからだ。


 そして一晩経った今も、朝一番で必ず着手しなければならないとは考えていない。


 管理室へ入り、荷物を置く。先に来ていたセレナが端末へ向かっており、ノルンに気づくと軽く片手を上げた。


「おはようございます」


「おはようございます。早いですね」


「昨日の試験入力、夜間担当から一件だけ感想が来てたので見てました」


「問題ですか?」


「問題ってほどじゃないです。『項目が増えてちょっと面倒』だそうです」


「重要な感想ですね」


「そこ、嬉しそうに言うところです?」


「実際に使う人が面倒だと感じるなら、無視できません」


 セレナは椅子の背へ寄りかかり、小さく息を吐いた。


「内容自体は分かりやすかったらしいです。ただ、本人発言、時間条件、対応方針って分けて入れる時に、同じことを三回書いてる感じがするって」


「重複入力になっている部分がありますか?」


「あります。自動参照できそうなところまで手入力させてる」


「では、そこからですね」


「はい。今日は入力側を少し減らしてみます」


 セレナはすでに作業へ戻ろうとしていた。


 ノルンはその横顔を見てから、自席へ座る。


「セレナ」


「はい?」


「今日は、私の調査に付き合わなくて大丈夫です」


「まだ何も聞いてませんけど」


「昨日、第十三版で見つけた第一接続者の記録について、少し先を確認するかもしれません」


「ああ、十三年間の方」


「はい」


 セレナは少しだけ興味を示したが、すぐに自分の端末へ視線を戻した。


「分かりました。何か一覧側に関係するものが出たら教えてください」


「必要な範囲で」


「それでお願いします」


 そこで会話は終わった。


 ノルンは九名の朝の状態確認へ移る。


 ルークは起床済み。朝食後に生活区域の清掃当番を手伝う予定が入っているが、接続や面会に関する新しい申告はない。


 ミレイアにも変更なし。


『次回接続:まだ決めていない』


 昨日の刺繍作業後、新しい接続希望や共有希望は出ていない。


 フローラは通常の日課へ戻っている。慈善行事の分類手順見直しについて、本人から追加問い合わせは行われていない。


 エリオは朝食を済ませた。


 外出翌日だからといって、次回予定の確認はされていない。


『次回外出:未定』


 昨日本人が確認した、その状態のままだった。


 他の管理対象にも緊急性のある変化はない。


 世界側の監視結果にも、直接介入を必要とする異常はなかった。


「今日も壊れてないね」


 主様が、ノルンの机の横から画面を覗き込む。


「はい」


「平和」


「今のところは」


「そういう言い方すると何か起きそう」


「私が言わなくても、起きる時は起きます」


「夢がないなあ」


「世界管理に夢を求めないでください」


 主様が笑いながら離れていく。


 その背中を見送ったあと、ノルンは朝の確認を完了した。


 それからようやく、昨日の調査候補を開いた。


     ◇


 第一接続者。


 現在の教育資料では、ほとんど固有名のように扱われている呼称だった。


 だが原記録上では、最初から特別な存在だったわけではない。


 ノルンはそこを忘れないように、検索条件を慎重に組んだ。


 後世の分類語である『第一接続者』だけを使えば、後から整理された資料ばかりが上位へ出てくる。


 そこで、当時の管理番号、初期接続事例番号、担当区域、記録作成時期を組み合わせる。


「出ます?」


 いつの間にか主様が戻ってきていた。


「まだ検索中です」


「十三年分って、いっぱいある?」


「分かりません。日常生活のすべてを管理側が記録していたとは限りませんし、保存対象外だったものもあるでしょう」


「なくなってるかも?」


「はい」


 画面に検索結果が表示される。


 ノルンは黙った。


「いっぱいある?」


「……多いですね」


 主様が嬉しそうに覗こうとする。


「でも、十三年全部じゃない?」


「記録日がかなり飛んでいます」


 接続関連。


 心理確認。


 観測同意。


 担当者変更。


 生活上の相談。


 接続反応発生時の記録。


 定期面談。


 そして、分類不能の古い自由記述。


 後世の教材が引用したものもあれば、一度も引用されていないものもある。


「全部読む?」


「全部を今日読む必要はありません」


「うん」


「まず時系列と保存密度を確認します」


「そういうところは変わらないね」


「何がですか?」


「調べる時、最初に地図作る感じ」


 ノルンは少し考えた。


「必要なので」


「褒めてるよ」


「そうですか」


 最古の記録を開く。


 十三年間。


 後世の教材では、その言葉自体が一つのまとまりとして扱われていた。


『十三年間待ち続けた』


 けれど実際の十三年は、一日ずつ存在していたはずだ。


 ノルンは最初の日付へカーソルを合わせた。


     ◇


 記録は、思っていたより短かった。


『接続終了後面談。対象者、再接続希望を表明。ただし観測強化は希望せず。通常観測範囲内で反応確認時のみ通知を希望。』


 後世にも引用されている内容に近い。


 だが、その下に自由記述が残っていた。


『本人発言:「次もあるかもしれないって思う。でも、ずっと見てるのは嫌」』


 ノルンの視線が止まる。


 さらに続く。


『「見てたら来る気がして、来なかったら、私が何か間違えたみたいになるから」』


「これ、教材にあった?」


 主様が尋ねる。


「少なくとも、私たちが確認した基本教材にはありませんでした」


 ノルンは後世の引用一覧を調べる。


 第一文。


『次もあるかもしれないって思う』


 これは後の資料で、


『再接続可能性を信じていた』


 という表現の根拠の一つに使われていた。


 しかし、その直後の、


『ずっと見てるのは嫌』


『来なかったら、私が何か間違えたみたいになる』


 は、基本教材では引用されていない。


「前半だけ?」


「そう見えます」


「でも一続きなんだよね」


「はい」


 ノルンは原記録を読み直した。


 期待している。


 だからこそ、見続けたくない。


 来なかった時、自分の責任にしてしまいそうだから。


 後世の『信じて待つ』という表現だけでは、かなり印象が違う。


「この人、最初から待つの上手だったわけじゃないんだ」


 主様が言った。


 ノルンは首を横に振る。


「上手だったか下手だったかも、まだ判断しない方がいいでしょう」


「そっか」


「ただ、少なくともこの時点では、自分が期待によって苦しくなる可能性を意識しています」


 次の記録。


 三日後。


 接続反応なし。


 本人への追加確認なし。


 その翌日もなし。


 一週間後。


 生活面談の末尾に、短い記述があった。


『本人より接続反応の有無について質問あり。「ない」と回答。本人「そっか」と返答。その後話題変更。』


 それだけだった。


「悲しかったのかな」


 主様が小さく言う。


「分かりません」


「『そっか』だけだもんね」


「はい」


 悲しかったかもしれない。


 安心したかもしれない。


 予想通りだったかもしれない。


 何も強く感じなかったかもしれない。


 原記録が残しているのは、


『そっか』


 までだ。


 ノルンはそこから先を埋めなかった。


     ◇


 二週間目。


 生活上の記録。


『睡眠状態良好。食事量安定。作業参加あり。接続関連質問なし。』


 三週間目。


『接続関連質問なし。』


 一か月目。


 定期確認。


『管理側より再接続希望の継続有無を確認。本人、「あるけど、毎回聞かなくていい」と回答。』


 その下に、少し長い自由記述がある。


『本人:「なくなったら言う。あるかどうか毎回聞かれると、そのたび考えなきゃいけないから」』


『担当者:「確認されること自体が負担か」と質問。』


『本人:「負担っていうか、忘れてた時に思い出す」』


 主様が黙った。


 ノルンも、すぐには次へ進まなかった。


 これまで読んできた教材では、第一接続者は長期的な意思を持ち続けた人物として描かれている。


 それ自体が完全な虚偽とは限らない。


 少なくとも、この時点では再接続希望がある。


 しかし。


『忘れてた時に思い出す』


 その一言は、十三年間をずっと同じ強度で待ち続けた人物像とは馴染みにくい。


「忘れる時あったんだ」


 主様が言った。


「一か月目の時点では、少なくとも本人自身がそう表現しています」


「待ってるのに?」


 ノルンは昨日のルークの記録を思い出した。


『僕、待ってる。でも普通に暮らしてる』


 似ている。


 だからこそ、結び付けない。


「待つことと、常に考えていることが同じとは限らないのでしょう」


「ルークも――」


 主様が言いかけて止まった。


 ノルンは主様を見る。


「今、言わなかった」


「はい」


「偉い?」


「比較を口にしなかっただけです」


「厳しい」


 主様は笑った。


 ただ、その笑いはすぐに消える。


「でも、似てるって思うのも駄目?」


「思うことまでは止められません。ただ、似ていることを証拠にしないことです」


「うん」


 ノルン自身も同じだった。


 似ていると思った。


 だが、それだけだ。


 第一接続者が日常の中で接続を忘れる時間を持っていた。


 ルークも、待ちながら普通に暮らしている。


 それは人間として珍しくない反応かもしれない。


 同一人物や同一構造を示すものではない。


 ノルンは記録へ余計な関連付けを追加せず、次の日付を開いた。


     ◇


 三か月後。


 初めて、少し違う記録が出てきた。


『本人、接続記録閲覧を希望。直近三か月の反応記録を提示。該当反応なし。』


 その後。


『本人:「本当に何もない?」』


『担当者:「現在の観測精度で接続候補と判断できる反応はない」と説明。』


『本人:「弱いやつも?」』


『担当者、低確度反応を含むか確認。本人、一度「見たい」と回答後、数分後に撤回。』


 ノルンはそこで止まった。


「撤回してる」


「はい」


 続き。


『本人:「やっぱりいい。弱いのまで見たら、全部そうだと思いそう」』


 主様が息を呑む。


「これ……」


「後の命名候補音の時と似た警戒ですね」


「自分が聞きたいものに聞こえるかもしれないってやつ」


「はい。ただし、これがその後の判断へ直接つながったかは、まだ確認できません」


 第一接続者は、最初から完璧な判断をしていたわけではない。


 一度は見たいと言った。


 その後、撤回した。


 その迷いが記録に残っている。


 ノルンは第十三版の編集委員が残した言葉を思い出した。


『第一接続者はあらゆる適切判断を先取りした理想的接続者ではない。』


 原記録を読むほど、その意味が少しずつ見えてくる。


 正しい答えを最初から知っていた人ではない。


 見たいと思う。


 迷う。


 怖くなる。


 考え直す。


 時には忘れる。


 それでも、その時々で決めていた。


「教材だと、最初から全部分かってた人みたいだった」


 主様が呟く。


「教材には、判断結果だけが残りやすいですから」


「途中が消える?」


「そうでしょうね」


 ノルンは少し考え、補足した。


「ただし、教材が悪意で消したとは限りません。判断原則を短く教えるなら、迷った時間をすべて載せることはできません」


「でも、削ると完璧に見える」


「はい」


「難しいね」


「難しいです」


 主様は机の端へ腰掛けようとして、ノルンに見られ、何も言われる前に離れた。


「座ってないよ」


「何も言っていません」


「顔が言ってた」


 少しだけ空気が緩む。


 ノルンは四か月目へ進んだ。


     ◇


 その頃、管理区域とは別の場所で、フローラは机の上に二枚の紙を並べていた。


 一枚は慈善行事の主催団体から届いた礼状。


 もう一枚は、分類作業手順の見直しについて知らせる簡単な文書だった。


 昨日も読んだ。


 今朝も読んだ。


 だからといって、何か新しい情報が増えたわけではない。


「まだ気になる?」


 母親が紅茶を置きながら尋ねる。


 フローラは椅子へ深く座り直した。


「ちょっとだけ」


「分類のこと?」


「うん」


 窓から入る風で、礼状の端がわずかに浮いた。フローラは指先で押さえながら、もう一枚の文書へ視線を移す。


「私が間違えたかどうか、やっぱり聞いた方がいいのかなって」


「昨日は聞かないことにしたわね」


「うん。でも、聞かないって決めたから、もう気にしちゃ駄目なのかなって」


 母親はすぐに答えず、自分の椅子へ座った。


「気になることと、問い合わせることは別でしょう?」


「……そうか」


「昨日問い合わせないと決めても、今日気になることまで禁止したわけではないと思うわ」


 フローラは礼状の文字を指でなぞった。


 慈善行事の日。


 何枚も衣類を見た。


 傷みの強いもの。


 まだ十分使えるもの。


 洗浄が必要なもの。


 自分では判断できず、職員へ尋ねたものもあった。


 一つだけ。


 薄い灰色の子供用上着。


 袖口が少し擦れていたが、生地自体はしっかりしていた。


 職員が別の箱を確認している間、自分で札を付けた。


 あれが正しかったのか。


 昨日から何度か思い出している。


「次に行った時、聞けばいいかな」


「次に参加するの?」


「まだ分かんない」


「じゃあ、次に参加すると決めた時に考えてもいいんじゃない?」


「……うん」


 フローラは文書を重ねた。


 その時、部屋の外から侍女が控えめに声をかける。


「お嬢様。慈善団体からではございませんが、お手紙が一通届いております」


 フローラの指が止まった。


 一瞬だけ、胸が強く鳴った。


 誰から。


 その問いが浮かんだ直後、自分が何を警戒したのか分かる。


 アーノルド。


 だが侍女はすぐに続けた。


「先日の慈善行事でご一緒された、マリエ様からです」


「マリエ?」


 フローラは立ち上がった。


「はい。南区の雑貨店を通じて、公爵家宛てに届けられました」


「……私に?」


「お名前が記されております」


 封筒を受け取る。


 簡素な紙。


 公爵家へ送るには少し安価に見える。


 けれど、丁寧に宛名が書かれていた。


「どうやって私の家……」


 言いかけて、すぐに自分で気づいた。


 慈善行事へ参加した公爵令嬢。


 調べようと思えば、宛先は難しくない。


 母親が封筒を見る。


「嫌なら読まなくてもいいわよ」


「嫌じゃない」


 フローラは少し迷ってから封を開いた。


 中には短い手紙が一枚。


『フローラ様へ。


 先日は一緒に作業できて楽しかったです。最後に連絡先を聞こうと思っていたのですが、忙しくて聞けませんでした。


 公爵家へ直接手紙を出すのは失礼かもしれないと迷いましたが、父に相談したら、嫌なら返事をしなくてもいい形にすればいいと言われたので送ります。


 もしまたお会いできたら嬉しいです。


 マリエ』


 最後に、南区の雑貨店の住所が小さく書かれていた。


 フローラは読み終えても、すぐには顔を上げなかった。


「……返事をしなくてもいいって」


「そう書いてあるの?」


「うん」


 母親が微笑む。


 フローラはもう一度読む。


『もしまたお会いできたら嬉しいです』


 慈善行事で一緒に箱を運んだ少女。


 公爵令嬢だからではなく、作業中に何度も普通に話しかけてくれた。


 手袋の大きさが合わないと笑った。


 毛布を畳む時に端を持ってくれた。


 休憩中、南区の菓子屋の話をした。


「返事、書きたい」


 フローラが言った。


 母親は頷く。


「なら書けばいいわ」


「公爵家の便箋だと、重くないかな」


「そう思うなら、普段使いのものを選びましょうか」


「うん」


 フローラは手紙を丁寧に折り直した。


 昨日までは、


『次に会えたら連絡先を聞こう』


 と思っていた。


 向こうから先に届いた。


 だからといって、何か特別な意味を急いで付ける必要はない。


 ただ、嬉しかった。


 その気持ちだけは、今すぐ分かった。


     ◇


 昼前。


 ノルンは第一接続者の原記録を、半年目まで読み進めていた。


 毎日記録があるわけではない。


 むしろ、何も残っていない日の方が圧倒的に多い。


 接続に関係しない生活記録も、保存されているのは一部だけだった。


 作業配置変更。


 居住区移動。


 軽い体調不良。


 食事の好み。


 他の生活者との揉め事。


 その中には、後世の教材から見れば何の意味もないような記録もある。


『共同調理に参加。味付けが濃いと本人より指摘。』


『午後、洗濯担当者と口論。十分後に本人から謝罪。』


『配給衣類の色について不満あり。交換対応。』


「……普通」


 主様が言った。


「普通ですね」


「待ってる話、全然出ない」


「三か月目以降、半年目まで接続に関する本人発言はありません」


「記録されてないだけかも?」


「はい。話さなかったのか、話したが保存対象でなかったのか、考えていたが言わなかったのかは分かりません」


 それでも。


 十三年間という言葉を一つの感情で塗るには、あまりに多くの日常があったことだけは見えてくる。


 味付けが濃い。


 服の色が嫌。


 誰かと喧嘩する。


 謝る。


 眠る。


 働く。


 食べる。


 接続のことを記録上、一度も口にしない月がある。


「この人、名前残ってないの?」


 主様が尋ねた。


 ノルンは少し手を止めた。


「管理記録には個人識別情報があります」


「じゃあ第一接続者って呼ばなくてもいい?」


「閲覧権限上、私たちは確認できます。ただ、現在の教育資料では匿名化されています」


「名前、見た?」


「まだです」


「なんで?」


「必要性を考えていたので」


 主様は首を傾げた。


「原記録読むのに?」


「管理番号だけでも追えます」


「でも本人の記録なんでしょ?」


「はい」


 ノルンは画面の上部を見る。


 個人情報表示は折り畳まれている。


 開けば確認できる。


 これまで彼女は、第一接続者という歴史上の分類を調べていた。


 だが今読んでいるのは、味付けが濃いと文句を言い、洗濯担当者と口論し、三か月目に弱い反応まで見たいと言ってから撤回した、一人の人間の記録だ。


「……確認します」


 ノルンは権限理由を入力する。


『原記録照合・同一記録主体確認』


 個人情報欄を開いた。


 名前が表示された。


 ノルンは一度、瞬きをした。


「名前あった?」


「はい」


「なんていう人?」


 ノルンは画面を見る。


『リディア・フェルン』


「リディアさん」


 主様が小さく読む。


「はい」


 第一接続者。


 後世の教材では、その呼び方しか残らなかった人。


 十三年間待ち続けた人。


 長期相互接続の象徴。


 命名を拒否した模範的接続者。


 いくつもの意味を後から背負わされた人物。


 原記録上の名前は、


 リディア・フェルン。


「……今後、どう呼ぶ?」


 主様が聞いた。


 ノルンはすぐには答えなかった。


「歴史上の分類について話す時は、第一接続者のままでいいと思います」


「本人の記録は?」


「リディアさんの記録として読みます」


「うん」


 主様は少し嬉しそうだった。


「何ですか?」


「人になった感じする」


「最初から人です」


「そうなんだけどさ」


 ノルンは画面へ戻る。


 名前を知ったからといって、急に理解したつもりになってはいけない。


 けれど。


『第一接続者は十三年間待った』


 と読むのと、


『リディアは、その日、味付けが濃いと文句を言った』


 と読むのでは、見えるものが違った。


     ◇


 昼食後。


 ルークは生活区域の廊下で、昨日貸した動物図鑑を返してもらっていた。


「全部見た?」


「鳥のところまで」


「じゃあ全部じゃないじゃん」


「重い」


「それは分かる」


 相手の少年が図鑑を押し返す。


 ルークは両手で受け取り、少しよろけた。


「やっぱ重い」


「言った」


「次は小さいの貸す」


「もういい」


「何で」


「町の本貸して」


「あれ今読む」


「じゃああとで」


「うん」


 そこで話は終わった。


 ルークは図鑑を抱えて自室へ戻る途中、掲示板の前で止まった。


 今週の予定。


 食事。


 清掃。


 共有室利用。


 希望者向けの小さな催し。


 その中に、


『散歩希望者 前日までに申告』


 という紙がある。


 ルークは少しだけ見た。


 担当者が近くを通る。


「散歩?」


「見てただけ」


「そっか」


 それ以上聞かれない。


 ルークは掲示板から離れた。


 数歩進んでから、振り返る。


「これって」


「うん?」


「今日言っても駄目?」


「散歩?」


「うん」


「人数によるけど、空きがあれば」


「ふうん」


「行きたい?」


 ルークは少し考えた。


「まだ分かんない」


「じゃあ空きだけ見る?」


「それは見たい」


「分かった」


 担当者が確認する。


 午後の枠に一つ空きがあった。


「空いてる」


「何時?」


「三時」


「……あとで決めていい?」


「二時半までなら」


「じゃあそうする」


 ルークは図鑑を抱え直した。


 今すぐ決めない。


 だからといって、散歩したくないわけでもない。


 その程度のことだった。


 担当者も、それを面会や接続の話へ結び付けなかった。


     ◇


 午後。


 ノルンはリディアの一年目後半の記録へ進んだ。


 そこで初めて、後世の教材ではほとんど触れられていない出来事が出てきた。


 七か月目。


『本人、接続関連通知の一時停止を希望。』


 ノルンの手が止まる。


「停止?」


 主様も画面を見る。


 自由記述。


『本人:「今は来ても聞きたくない」』


『担当者、理由確認の必要性を説明。本人:「嫌いになったとかじゃない。ちょっと今、他のことでいっぱいだから」』


『通知停止期間について本人と協議。本人、期間指定を希望せず。「また聞けるようになったら言う」と回答。』


 ノルンは記録日を確認する。


 その数日前。


 生活区域内で、親しくしていた人物の退去があった。


 詳細は別権限資料。


 退去理由そのものは、今の調査には必要ない。


 ただ、リディアの日常で何か大きな変化が起きていたことは分かる。


「これ、待つのやめた?」


 主様が聞く。


「本人は『嫌いになったとかじゃない』と言っています。ただ、少なくとも接続関連通知は一時的に受け取りたくないと希望しています」


「何か来てても?」


「当時の運用では、緊急性のない反応通知は本人希望により保留できたようです」


「どのくらい?」


 ノルンは次の記録を探す。


 一週間。


 二週間。


 一か月。


 通知停止は続いている。


 二か月目。


 生活面談で担当者が、


『接続通知停止継続でよいか』


 と確認している。


 リディアの回答。


『「それ聞かれると同じじゃない?」』


「怒ってる?」


「少なくとも、確認方法への不満はありそうです」


 続き。


『担当者謝罪。以降、本人から変更申告があるまで定期確認対象から除外。』


 三か月後。


 リディア本人から申し出。


『「もし何か来てたら、今は聞ける」』


 通知停止解除。


 停止期間中、接続候補反応はなかった。


 ノルンは椅子の背へ体を預けた。


 七か月目から、およそ三か月。


 後世の教材が、


『十三年間、再接続可能性を閉じず待機姿勢を維持した』


 と表現した期間の中に、


『今は来ても聞きたくない』


 という三か月がある。


「これ、教材の『十三年間待った』と矛盾する?」


 主様が尋ねた。


 ノルンはしばらく考えた。


「何を『待った』と定義するかによります」


「またそれ?」


「重要です」


「うん」


「関係を永久に拒絶したわけではない、という意味なら矛盾しないかもしれません。常に再接続を受け入れる意思があった、という意味なら矛盾します」


「後の教材は?」


「版によって違います」


 第十一版。


『第一接続者と第七外在個体は、十三年間にわたり互いの再接続を待ち続けた。』


 第十二版。


『第一接続者は十三年間、待機姿勢を維持した。』


 待機の技術定義は、


『日常生活を維持しながら、相手からの再接続可能性を閉じない姿勢』


 だった。


「可能性は閉じてない?」


 主様が聞く。


「リディアさん自身は、『また聞けるようになったら言う』としています。永久拒絶ではありません」


「でも今は来ても聞きたくない」


「はい」


「じゃあ……開いてるけど、今は入れない?」


 ノルンは主様を見る。


「比喩としては近いかもしれません」


「おお」


「ただし記録には使いません」


「分かってる」


 ノルンはメモを残す。


『第一年七か月頃、接続関連通知を本人希望で約三か月停止。「今は来ても聞きたくない」「嫌いになったとかじゃない」「また聞けるようになったら言う」。後世の「十三年間待機姿勢維持」との関係は、各版の待機定義を踏まえ要検討。』


 結論は付けない。


 だがこれは重要だった。


 十三年間の中に、明確な揺れがある。


     ◇


 午後三時少し前。


 ルークは散歩へ行くことにした。


 理由を聞かれる前に、


「暇だから」


 と自分から言った。


 担当者は笑った。


「立派な理由」


「立派?」


「散歩の理由としては十分」


 外へ出る。


 管理区域内の散歩路だった。


 外界へ出るわけではない。


 低い木々の間を歩き、途中のベンチへ座る。


 ルークは空を見上げた。


「曇ってる」


「朝からね」


「雨降る?」


「予報では夜かも」


「じゃあ今来てよかった」


「そうだね」


 ルークはしばらく黙っていた。


 面会の話をしない。


 過去名の話もしない。


 ミレイアのことも聞かない。


 散歩へ来たから散歩をする。


 帰り道、落ちていた変わった形の葉を拾い、少し眺めてから捨てた。


 記録には、


『本人希望により区域内散歩実施』


 とだけ残った。


     ◇


 夕方。


 フローラはマリエへの返事を書き終えていた。


 何度か書き直した。


 最初は丁寧すぎた。


『先日は慈善行事におきまして――』


 と始めたところで、自分でもおかしいと思って破棄した。


 二枚目は逆に砕けすぎて、母親へ見せる前にやめた。


 三枚目。


『マリエへ。


 お手紙ありがとう。届いてびっくりしたけど、嬉しかったです。


 私も、最後に連絡先を聞けばよかったと思っていました。


 分類作業は思っていたより難しかったけど、一緒にできて楽しかったです。もしまた会えたら、今度は慈善行事の時じゃなくても少し話したいです。


 返事を送っても大丈夫なら、また書きます。


 フローラ』


 読み返す。


「これでいいかな」


 母親が隣から覗く。


「あなたが書きたいことなら」


「公爵家の名前、入れなくていい?」


「宛先には必要だけれど、本文はそれでいいんじゃない?」


「うん」


 フローラは最後に、少しだけ迷って一文を加えた。


『おすすめって言っていた南区のお菓子屋さんも、いつか行ってみたいです。』


 書き終えると、急に恥ずかしくなった。


「やっぱりこれ消そうかな」


「なぜ?」


「一緒に行こうって言ってるみたいじゃない?」


「そう読まれるのが嫌?」


「……嫌じゃないけど」


 そこまで言って、フローラは黙った。


 母親は笑わない。


「じゃあ、そのままでもいいんじゃない?」


「うん」


 フローラは手紙を折った。


 アーノルドへ向けていた気持ちとは違う。


 恋でもない。


 将来の約束でもない。


 ただ、一度一緒に働いた相手と、もう一度話したい。


 それだけの関係が、自分の生活の中に増えた。


 フローラは封筒へ手紙を入れた。


     ◇


 終業時刻が近づいた頃。


 ノルンは一年目の記録を最後まで読み終えた。


 十三年のうち、まだ一年。


 それだけでも、後世の一文では見えなかったものがいくつもあった。


 再接続を期待した。


 見続けることは嫌だった。


 来なければ自分のせいだと思いそうだった。


 確認されることで、忘れていた時にも思い出してしまった。


 低確度反応まで見たいと言い、後から撤回した。


 三か月ほど、接続関連通知そのものを受け取りたくない時期があった。


 その後、自分から、


『今は聞ける』


 と言った。


 どれか一つだけを取り出せば、リディアという人物を簡単に説明できる。


 期待していた人。


 慎重だった人。


 待っていた人。


 避けた人。


 戻ってきた人。


 だが一年分を通して読むと、そのどれか一つでは足りなかった。


「あと十二年」


 主様が言った。


「単純計算では」


「今日一年読んだから、十二日?」


「そうはなりません」


「ならない?」


「記録密度も違いますし、途中で別の調査が必要になる可能性もあります」


「じゃあ一か月?」


「期間を決めません」


「やっぱり」


 主様が笑う。


 ノルンは一年目のまとめを保存する。


 そこで、画面の下部に小さな関連記録表示が出た。


『翌年度・接続候補反応あり』


 ノルンの指が止まる。


「何?」


「二年目に、反応候補があります」


「第七?」


「まだ分かりません」


「見る?」


 時刻。


 終業まで十八分。


 昨日なら十二分だった。


 今日は十八分。


 読めなくはない。


 ノルンは関連記録を開かず、閉じた。


「今日はここまでにします」


「十八分あるよ?」


「時間の問題だけではありません」


「じゃあ何?」


「一年目を読んだ直後に反応候補を見ると、今読んだ内容から意味を付けすぎる可能性があります」


「リディアさんが待ってたから来た、とか?」


「そういう物語を作りやすくなります」


「じゃあ明日なら作らない?」


「明日でも作る可能性はあります。ただ、一度区切ります」


「分かった」


 主様は素直に頷いた。


 ノルンは端末を閉じる。


 机の上には、個人的な予定を書いた小さな帳面も置かれている。


 日曜日、十四時。


 美咲。


 新しい店。


 混雑していれば変更。


 時間と体力があれば本屋。


 旅行棚。


 明日でもなく、遠い未来でもない。


 少し先の予定。


 ノルンは帳面を閉じた。


     ◇


 管理区域の夜は静かだった。


 エリオは昨日と同じ西側談話室へは行かなかった。


 夕食後、共有室で他の生活者が遊んでいる盤上遊戯を横から眺めていた。


「やる?」


 誘われる。


「ルール分かんない」


「教えるよ」


「長い?」


「一回三十分くらい」


「……今日は見るだけ」


「いいよ」


 それ以上誘われない。


 エリオは隣の椅子へ座った。


 外出の話を誰かにすることもない。


 昨日公園へ行ったことが、今日一日の中心になるわけでもなかった。


 途中でルールが少し分かり始める。


「そこ置いたら負けるだろ」


「見るだけじゃなかったの?」


「見てたら分かる」


「じゃあ次やる?」


「今日はやらない」


「はいはい」


 笑い声が上がる。


 エリオも少し笑った。


 次の外出は未定。


 それで困っていなかった。


     ◇


 夜の最後の確認を終えたノルンは、管理室を出る前にもう一度だけ、今日の調査メモを開いた。


 画面の最上部。


『第一接続者』


 その表示を見て、ノルンは一行だけ補足する。


『原記録主体名:リディア・フェルン。歴史分類と本人記録を区別して参照する。』


 その下。


『一年目時点で再接続希望は存在。ただし期待・回避・忘却・確認負担・通知停止・再開が併存。十三年間を単一の心理状態として扱わない。』


 保存する。


 それ以上は書かなかった。


 十三年間の最初の一年を読んだだけだ。


 二年目には、接続候補反応がある。


 それが何だったのか。


 誰からだったのか。


 リディアがどう受け取ったのか。


 後世の第七外在個体へつながるのか。


 まだ何も確認していない。


 けれど、一つだけ昨日までと違うことがある。


 十三年間待ち続けた第一接続者。


 その言葉の向こう側に、リディア・フェルンという一人の人間が見え始めた。


 待つことだけをしていた人ではない。


 期待し、嫌になり、忘れ、別のことで頭がいっぱいになり、また聞けると思った時に自分から戻ってきた人。


 少なくとも最初の一年は、そうだった。


 ノルンは照明を落とした。


 明日、二年目を読むとはまだ決めていない。


 ただ、もし読むなら。


 今度は『十三年間待った人の二年目』としてではなく。


 リディア・フェルンという一人の人間に、その次の一年で何が起きたのかを読むつもりだった。

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