第九十三話 十三年間ずっと待っていた人の記録には、相手のことを一度も書かなかった日が何千日もありました
翌朝、ノルンが管理区域へ向かう途中、空には薄い雲が広がっていた。
雨が降りそうなほど暗くはない。雲の切れ間から時折朝日が差し込み、石畳の上を歩く人々の影を薄く伸ばしている。通り沿いの店では開店準備が始まり、焼きたてのパンの香りと、どこかの家から流れてくる朝食の匂いが混ざっていた。
日曜日の天気予報は、昨日より少しだけ変わっていた。
晴れ。
その横に、小さな雲の印が増えている。
降水確率も少し上がっていた。
ノルンは歩きながらスマートフォンを確認したが、美咲へは何も送らなかった。
昨日すでに、
『雨だったら、その時考えよ(笑)』
と言われている。
予報の小さな変化を報告する必要はない。
日曜日十四時に会う。
その予定は変わっていなかった。
菓子店の前を通り過ぎる時、ショーケースに季節限定らしい小さな焼き菓子が並んでいるのが見えた。足を止めるほどではなかったが、ノルンは一度だけ視線を向け、そのまま歩き続ける。
欲しくないわけではない。
買うと決めたわけでもない。
今朝は仕事へ向かう。
それで十分だった。
◇
「おはよう」
「おはようございます」
管理区域へ入ると、主様はすでに端末の前に座っていた。
机の上には昨日のような飲み物はない。
代わりに、何枚かの資料が積まれている。
「今日は紙ですね」
「昨日ノルンに紙の良さを否定されたから、意地で使ってる」
「そのような理由で業務形態を変えないでください」
「冗談だよ」
「分かっています」
「最近、流されないね」
「以前からです」
「そうだったかな」
ノルンは鞄を置き、自分の席へ座った。
朝の通常確認を始める。
世界状態。
安定。
緊急介入案件なし。
九人の誤転生者にも重大な変化なし。
ルークは朝食を終え、生活区域の外周を歩いている。昨日は自分の「待っている」という言葉について確認し、
『僕は待ってる。でも普通に暮らしてる』
という表現を本人の希望で記録した。
今朝はその話題を出していない。
面会希望あり。
即時実施要求なし。
相手への待機通知希望なし。
現在名はルーク。
過去名についての再質問なし。
関心度や急ぎ、恐怖値も再測定しない。
ミレイアは母親と朝食を済ませた後、自室で昨日の刺繍の続きをしている。エリスから第二接続について尋ねていない。ミレイア本人からも、今朝は接続に関する発言なし。
第二接続は未決定。
仮に何かをルークへ伝える場合も、過去の迷い・恐怖・検討履歴を全て共有する必要はなく、本人が決めた内容だけを伝えられると理解済み。
現時点で共有希望なし。
フローラは慈善行事の当日案内を確認し、受付補助を希望として申告することにしている。ただし配置を要求するのではなく、必要な役割を受ける意思も明確だ。
アーノルドから接触なし。
第二王女の出席予定にも変更なし。
美咲から新しいメッセージなし。
日曜日十四時。
予定変更なし。
他の誤転生者についても、それぞれの希望・保留・非接触状態に変化はなかった。
通常確認を終える。
「今日は第十二版?」
主様が尋ねる。
ノルンは端末へ手を置いたまま、首を横に振った。
「いいえ」
「お」
「昨日、別の確認候補ができました」
「第一接続者の十三年間?」
「はい」
「本当にずっと待ってたのか」
「その聞き方は避けます」
「なんで?」
「『ずっと待っていたか』を確認しようとすると、待っていた証拠と待っていなかった証拠を探すことになります」
「それじゃ駄目?」
「先に、どのような記録が残っているのかを確認します」
主様は少し考えてから頷いた。
「生活記録があるかどうかから?」
「はい」
「なかったら?」
「分かりません」
「あったら?」
「読みます」
「十三年分?」
ノルンは一瞬黙った。
「……全部を一日で読むつもりはありません」
「よかった」
「なぜ主様が安心するのですか」
「ノルン、やりそうだから」
「やりません」
「本当に?」
「十三年分ですよ」
「そこじゃなくて、途中で止められる?」
「止めます」
「昨日も止めたもんね」
「毎回確認しないでください」
主様が笑う。
ノルンは検索範囲を最古層の原記録群へ切り替えた。
第一接続者。
十三年間。
ただし、検索欄に「待つ」とは入れない。
まず記録体系そのものを確認する。
当時の接続者には、定期的な状態確認が行われていた。
身体状態。
睡眠。
食事。
業務負荷。
接続に関する負担。
観測への不安。
生活上の変化。
ただし毎日ではない。
初期は頻度が高い。
その後、安定すると間隔が広がる。
第一接続者本人の日記ではない。
管理側が行った定期面談、健康確認、業務記録、本人からの自主申告、接続関連の観測記録。
「十三年全部の日記があるわけじゃないんだ」
「はい」
「じゃあ何も書いてない日は分からない?」
「基本的には」
ノルンは記録体系の説明を読む。
日常生活を常時監視していたわけではない。
本人の私生活を全て記録していたわけでもない。
観察対象となるのは、接続安全性に関係する範囲と、本人が共有を希望した内容。
これは重要だった。
後世の教材に、
『十三年間待ち続けた』
と書かれているからといって、その十三年間の全生活が観測されていたわけではない。
まず最初の一年。
第一接続者と外在反応との双方向応答が途絶えた直後は、確認頻度が高かった。
最初の面談。
『最近の状態は?』
『普通』
『接続反応について気になることは?』
『ある』
『どの程度?』
『来るかもしれないと思ってる』
『観測頻度を増やしたい?』
『増やさない』
『理由は?』
『来てほしいから増やしたら、来た時にそれがいつもの反応なのか分からなくなる』
ノルンはそこで一度止まる。
第一接続者は、かなり早い段階から観測行動そのものが結果へ影響する可能性を警戒している。
後の自己識別相当音に対する態度とも一貫している。
次の面談。
二週間後。
『睡眠は?』
『普通』
『仕事は?』
『忙しい』
『接続について考える時間は増えた?』
『最初より減った』
『それをどう感じる?』
回答まで少し間がある。
『……悪いことみたいに聞こえる』
『そういう意図ではない』
『じゃあ、減った』
『記録してよい?』
『うん』
『接続継続希望に変化は?』
『ない』
主様が画面を見ながら、何も言わない。
ノルンも黙って次へ進む。
一か月後。
『休日は何をした?』
『友達と出かけた』
『接続関連の負担は?』
『昨日は考えなかった』
『そのことに不安は?』
『少し』
『何が不安?』
『忘れてるみたいで』
『接続継続希望がなくなった?』
『違う』
『では、考えなかった日があったことと、継続希望は別として記録する』
『……うん』
ノルンの指が止まる。
昨日のルーク。
『僕は待ってる。でも普通に暮らしてる』
似ている。
非常に似ている。
しかし同じではない。
ノルンは比較メモを作らなかった。
「似てるね」
主様が言う。
「はい」
「でも一緒にしない?」
「しません」
「分かってる」
「なら言わないでください」
「確認」
「不要です」
主様は苦笑し、少し離れた。
さらに記録を読む。
三か月後。
接続に関する質問なし。
健康状態。
問題なし。
業務。
新しい担当業務を始めている。
本人からの自主申告。
『最近、料理を習っている』
管理側から、
『接続記録へ残す必要があるか』
と確認。
第一接続者は、
『別にいらない』
と回答。
記録は健康面談の補足としてだけ残っている。
五か月後。
接続関連記録なし。
六か月後。
弱い外在反応候補。
発話元特定不能。
第一接続者へ通知するか検討。
安全上の必要なし。
本人が以前、
『毎回候補を教えられると待つことしかできなくなりそう』
と希望していたため通知せず。
八か月後。
本人から自主質問。
『最近何かあった?』
管理側。
『安全上共有が必要な変化なし』
『細かな候補反応について確認を希望する?』
『……しない』
『理由は?』
『聞いたら全部気になるから』
その後、接続継続希望の確認。
『変わらない』
一年目の終わり。
総合面談。
『接続継続を希望する?』
『する』
『終了を希望する?』
『しない』
『観測密度変更希望は?』
『ない』
『外在反応候補の通知範囲変更希望は?』
『ない』
『今後も定期確認を希望する?』
第一接続者は少し考えている。
『毎回、まだ待つかって聞かれるのは嫌』
『理由は?』
『やめる理由を探さないといけない感じがする』
『では、接続終了または運用変更を本人から希望した場合に確認する方式へ変更する案は?』
『それがいい』
ノルンはそこで長く止まった。
「毎年聞いてたわけじゃないんだ」
主様が言う。
「少なくとも、この後は定期的な継続意思確認が減っています」
「本人が嫌って言ったから」
「はい」
「十三年間、毎年『まだ待つ?』って聞かれて『待つ』って答え続けたわけじゃない」
「違います」
後世の教材を読むと、
十三年間、第一接続者は待ち続けた。
という一本の線に見える。
しかし原記録では、一年目の時点で、
『毎回まだ待つかと聞かないでほしい』
と本人が希望している。
その後、接続継続状態は管理上維持される。
本人が終了を申し出ない限り、毎回意思を問い直さない。
これは、待機意思が消えたという意味ではない。
逆に、十三年間ずっと同じ強さで待ち続けていた証拠でもない。
ただ、本人が一度選んだ継続状態を、管理側が日々の確認で揺さぶらなかった。
「続きます」
ノルンが言う。
「うん」
二年目。
記録件数が急に減る。
接続関連の大きな異常なし。
本人の健康状態良好。
業務上の役割が変わる。
友人との外出記録が一件。
休暇取得。
接続に関する本人発言。
一年を通して三件。
一件目。
『昨夜、夢に出た』
『外在反応の夢?』
『たぶん』
『負担?』
『違う。起きた時ちょっと寂しかっただけ』
『共有記録に残す?』
『残していい』
二件目。
『最近、前ほど気にならない』
『接続終了希望?』
『違う』
『ではそのまま記録する』
『うん』
三件目。
年末近く。
『もしもう来なかったらって考える?』
これは管理側からではなく、本人が会話の中で言い出している。
『考える時はある』
『どうする?』
『何もしない』
『終了もしない?』
『今は』
『理由は?』
『来ないかもしれないのと、終わらせたいのは違うから』
ノルンは息を吐いた。
第一接続者は、後世の教材ほど一直線ではない。
期待している。
考えない日がある。
忘れたようで不安になる。
前ほど気にならなくなる。
夢に出て寂しくなる。
もう来ないかもしれないと考える。
それでも、今は終わらせない。
「これ、教材に残ってないんだよね」
主様が尋ねる。
「第十版・第十一版の基礎教材にはありません」
「上級資料は?」
「一部引用があります。ただし全てではありません」
「十三年待った、の方が短い」
「はい」
ノルンは三年目へ進もうとして、時間を見る。
研究開始から一時間近く経っている。
「休憩します」
「お」
「何ですか」
「今日は自分から」
「必要ですから」
「五分?」
「五分です」
「値切らない」
「主様」
「はい」
ノルンは席を立つ。
昨日よりも、少し重かった。
古い記録の中の第一接続者が、後世の教材にいる人物よりずっと普通だったからだ。
十三年間待った人。
その表現だけを読めば、十三年間、窓辺に座って同じ声を待ち続けたような像さえ浮かぶ。
実際には仕事をしていた。
友人と出かけた。
料理を習った。
夢を見た。
接続のことを考えなかった日があった。
そのことを忘れたようで不安に思った。
前ほど気にならない時期もあった。
それでも接続を終わらせなかった。
だが、ここで、
『普通に暮らしながら待っていた』
と一文へまとめれば、また同じことをする。
普通とは何か。
十三年全部の記録をまだ見ていない。
一年目と二年目だけだ。
第一接続者本人が「私は普通に暮らしながら待っていた」と言ったわけでもない。
ノルンは水を飲む。
「……危ない」
昨日と同じ言葉が口から出た。
自分は後世の教材を批判する側に立った瞬間、逆方向の綺麗な物語を作りかけている。
十三年間、相手だけを待ち続けた人。
それを壊したくて、
実は普通に人生を楽しんでいた人。
そんな対立にしてはいけない。
どちらも、今の自分が作った像だ。
記録を読む。
その人を、自分が分かりやすい人へ変えない。
◇
午前の研究をそこで一度止め、通常業務へ戻る。
セレナとの一覧表示試験について、現場から初回の反応が届いていた。
記録時刻を目立たせたことで、
『これは昨日の意思ですか? 今日も同じか確認した方がいいですか?』
という問い合わせが増えたという。
「増えた」
セレナが報告書を持ってくるなり、少し困った顔をする。
「何がですか」
「確認」
資料を机へ置く。
「今まで一覧に『拒否』って出てたら、そのまま拒否として扱ってた人が、日時見て『昨日なら今日は違うかも』って思うようになったみたいです」
「それ自体は想定内です」
「でも、本人に聞き直そうとする」
「全件ですか」
「今のところ報告された三件のうち二件」
ノルンは眉を寄せる。
古い意思を現在へ固定しないために時刻を見せる。
すると今度は、現在意思を確認するため本人へ再質問したくなる。
「一件目は?」
「昨日『説明不要』って言った人に、今日『今日は説明聞きますか』って聞いた」
「本人の反応は?」
「『昨日いらないって言った』」
「二件目」
「接触希望を保留してた人に、『今日も保留でいいですか』って」
「反応は?」
「『毎日聞かれるの?』」
ノルンは額へ指を当てた。
「見事ですね」
「何がです?」
「問題が反対側へ移動しました」
「嬉しくない成功ですね」
「成功とは言っていません」
セレナが椅子へ座る。
「日時を目立たせると、古いかもしれないって分かる。でも分かると確認したくなる」
「はい」
「じゃあ日時消す?」
「戻すのは早いです」
「でも聞かれる本人は嫌でしょう」
「はい」
「どうします?」
ノルンは午前中の第一接続者記録を思い出した。
『毎回、まだ待つかって聞かれるのは嫌』
十三年前後どころか、最初の一年目で本人はそう言っている。
「確認が必要な場面を定義する必要があります」
「例えば?」
「実際に説明を実施しようとする時。接触を進める具体的な手続きへ移る時。本人から新しい希望が出た時」
「何もする予定ないなら?」
「古い可能性があるからという理由だけで再確認しない」
「でも今の気持ち分からない」
「分からないままで支障がないなら、分からないままにします」
セレナは少し目を丸くする。
「一覧なのに?」
「一覧は現在の心を完全に表示する装置ではありません」
「……それ、昨日言ってた『本人そのものじゃない』ですね」
「はい」
「じゃあ『最終確認時点』って書く?」
ノルンが顔を上げる。
「何がですか」
「『説明希望:なし』じゃなくて、『最終確認時点:説明希望なし』」
「長くなります」
「一覧ですからね」
「ですが、意味は変わります」
「今の本人が絶対そう、じゃなくなる」
「はい」
「試す?」
「候補に入れます」
「採用じゃない」
「はい」
「分かってます」
セレナが先回りして答える。
ノルンは少しだけ口元を緩めた。
◇
昼過ぎ。
ミレイアは自室ではなく、屋敷の小さな庭にいた。
日差しは強すぎず、木陰へ入れば風が心地よい。テーブルには冷たい飲み物と、小さな菓子が用意されている。
母親は少し離れた場所で使用人と話していた。
ミレイアは一人で本を読んでいる。
エリスは必要な距離を保ち、こちらから話しかけない。
しばらくして、ミレイアが本から顔を上げた。
『エリス』
『はい』
『ちょっと聞いていい?』
『もちろんです』
ミレイアは栞を挟み、本を閉じる。
すぐには続けなかった。
テーブルの上に置いた指先が、グラスについた水滴を一度なぞる。
『私、もし聞くって決めたら、いつやるかは別って言ったよね』
『はい』
『その日にやめてもいいって』
『はい』
『……それ、何回まで?』
エリスは問いの意味を勝手に決めず、少し待つ。
『何回、とは?』
『例えば、一回やるって決めて、当日やっぱり嫌って言う』
『はい』
『それで別の日にまたやるって決めて、また嫌って言ったら』
ミレイアの視線がグラスへ落ちる。
『二回目も止められる?』
『止められます』
『三回目でも?』
『はい』
『何回でも?』
『あなたが実施前に撤回する限り、回数を理由に実施を強制することはありません』
ミレイアは何も言わない。
庭の端で葉が揺れ、乾いた音を立てる。
『迷惑じゃない?』
『誰に対してですか』
『管理する人たち』
エリスは少し考える。
『準備が発生した後の撤回で、作業が無駄になることはあるかもしれません』
ミレイアが顔を上げる。
『やっぱり』
『ですが、作業が発生したことと、あなたが接続を実施しなければならないことは別です』
『でも何回もやったら』
『その場合は、準備方法を変えられないか管理側が考えます』
『私がやるって言うまで準備しないとか?』
『それでは実施できませんので、必要な準備はあります。ただ、あなたの負担と管理側の負担を減らす方法は検討できます』
『……怒らない?』
『撤回したこと自体を理由に怒ることはありません』
ミレイアは唇を少し結ぶ。
『ルークには?』
『何をですか』
『私が一回やるって言って、やめたこと』
『あなたが共有を希望しない限り、自動では伝えません』
『じゃあ、向こうは待たされない?』
エリスは慎重に言葉を選ぶ。
『ルークへ実施予定を伝えない段階で撤回した場合、少なくともその予定を知った上で待つことはありません』
『伝えた後だったら?』
『その場合は、実施中止を伝える必要が出る可能性があります』
ミレイアの表情が少し硬くなる。
『……それは嫌かも』
『では、ルークへいつ予定を伝えるかも、検討項目にできます』
『そんなのも決められるの?』
『技術的・運用上必要な範囲はありますが、可能な限りあなたの希望を確認できます』
ミレイアは黙り込む。
しばらく庭を見ていた。
母親たちの会話は遠く、内容までは聞こえない。
『じゃあ』
ミレイアの声は小さかった。
『私が本当にその日やるって思えるところまで、ルークには日を言わないとか』
『候補として検討できます』
『絶対できる?』
『今ここで確定はしません。接続準備の担当者と安全条件を確認する必要があります』
『そっか』
少し残念そうな声だった。
しかしエリスは、安心させるために「できます」と言い換えなかった。
『確認してもいいですか?』
ミレイアが尋ねる。
『はい。ただし、確認したことで接続を決めた扱いにはしません』
ミレイアはしばらく考える。
やがて、小さく頷いた。
『じゃあ、それだけ確認して』
『分かりました』
『ルークには言わないで』
『はい』
『私が聞きたいって思ってることも』
『共有しません』
ミレイアはグラスを持ち上げ、一口飲んだ。
そして本を開き直す。
数行読んだところで、もう一度顔を上げた。
『エリス』
『はい』
『これ、接続したいって言ったことになる?』
『なりません』
『……よかった』
本人がそう言った。
エリスはそれ以上、理由を聞かなかった。
ミレイアは本へ戻る。
今日は「聞きたい程度」も「怖さ」も測らない。
接続も決めない。
ただ一つ。
もし決めた後で撤回しても、それを理由に次の撤回権が減るわけではない。
そして、ルークへ予定を伝える時期についても検討できる可能性がある。
その確認だけが残った。
◇
報告を受けたノルンは、まず技術担当へ確認を回した。
ミレイアの希望を「次回接続希望」とは書かない。
『接続実施を将来決定した場合における、相手側への予定通知時期について確認希望』
とする。
担当からの回答は、すぐには来なかった。
それでいい。
今日中に答えが必要だとミレイアは言っていない。
ノルンは彼女の一覧表示を確認する。
『次回接続:未決定』
そのまま。
詳細記録に、
『将来決定後の撤回可能性および相手側通知時期について質問あり。質問は接続希望・同意を意味しない』
と追加する。
「これは一覧に出さない?」
主様が尋ねる。
「現時点では」
「大事そうなのに」
「実際に接続手続きへ移る際は重要です」
「今は?」
「ミレイアが確認したい事項です」
「なるほど」
主様は少し黙り、それから尋ねる。
「ノルン、今日の第一接続者とミレイア、似てると思った?」
「どの点ですか」
「毎回聞かれるの嫌とか、決めたことを何回も確認されたくないとか」
「似た要素はあります」
「一緒?」
「違います」
「即答」
「第一接続者の運用を、そのままミレイアへ適用する理由はありません」
「うん」
「ミレイアが必要としているのは、今の自分がどこまで撤回できるかという確認です。第一接続者は継続状態を毎回問い直されることへの負担を訴えました。似ている部分があっても、同じ問題ではありません」
「ちゃんと分けるんだ」
「分けます」
「でも参考にはする?」
ノルンは少し考える。
「制度設計上、過去の事例を参考にすることはあります。ただし本人へ『昔の人もこうだったから』と当てはめることはしません」
「了解」
主様が頷く。
◇
午後の研究枠。
ノルンは第一接続者の三年目から続きを開いた。
三年目。
接続関連の本人発言は二件。
春。
『最近、記録見てない』
『見たい?』
『今はいい』
秋。
弱い反応候補が発生。
安全上の異常なし。
本人への通知なし。
接続者本人はその日、別の業務研修へ参加。
接続関連発言なし。
四年目。
記録上、第一接続者が長期休暇を取得している。
理由は接続と無関係。
親族との旅行。
旅行先の詳細は私生活情報として記録されていない。
帰還後面談。
『休めた?』
『うん』
『接続に関して気になる変化は?』
『特にない』
『留守中の記録確認を希望する?』
少し間。
『必要なものだけ教えて』
『安全上必要な変化なし』
『じゃあいい』
五年目。
本人が体調を崩し、一時的に業務量を減らしている。
接続関連ではない。
その期間、外在反応候補の通知範囲をさらに狭めたいと本人から希望。
『今、そっちまで気にする余裕ない』
『接続終了希望ではない?』
『違う。今は自分のことでいっぱい』
『了解』
主様が息を吐く。
「これ、教材の『待ち続けた』だけじゃ絶対分かんない」
「はい」
「五年目、待つより自分の体調の方が大事だった」
「本人は『今は自分のことでいっぱい』と述べています」
「それでも接続は終わらせなかった」
「はい」
「両方なんだ」
「そうですね」
六年目。
生活記録のほとんどに接続の話が出てこない。
業務評価。
新しい担当。
同僚との共同作業。
健康状態。
休暇。
接続関連の本人発言は、一年間で一件だけ。
『まだ残ってる?』
『何が?』
『接続』
『管理上は継続状態』
『そっか』
『変更希望?』
『ない』
それだけ。
七年目。
接続関連発言なし。
弱い外在反応候補二件。
発話元不明。
安全異常なし。
本人への通知なし。
八年目。
一件。
『前に言ってた反応、最近もある?』
『どの範囲の情報を希望する?』
『……やっぱりいい』
『了解』
九年目。
接続関連発言なし。
十年目。
本人の業務異動。
新しい環境への適応面談。
接続については質問項目から外れている。
本人からも発言なし。
十一年目。
自主申告。
『今日、急に思い出した』
『何を?』
『あの時の声』
『負担?』
『違う』
『記録する?』
『どっちでもいい』
『記録しない選択も可能』
『じゃあ、しなくていい』
この会話自体は面談手続き記録に残ったが、接続感情記録には追加されていない。
十二年目。
接続関連発言なし。
十三年目。
再接続反応が起こるまでの数か月。
特別な予兆なし。
観測密度増加なし。
本人からの接続関連質問なし。
そして。
十三年目のある日。
弱い反応。
通常なら保留される程度。
続いて、特徴的一致。
複数条件が重なり、管理側が第一接続者へ確認する。
『反応候補あり』
第一接続者は仕事中だった。
『今?』
『安全上の緊急性なし。確認可能な時でよい』
『あとで』
ノルンはそこで止まった。
「……あとで?」
主様も驚いたように言う。
「はい」
「十三年待った相手かもしれないのに?」
「その時点では、同一反応源と確定していません」
「でも候補」
「はい」
「第一接続者、すぐ来なかったんだ」
「記録上は」
四十二分後。
第一接続者が確認室へ来る。
『待たせた?』
『緊急性なし。問題なし』
『反応は?』
『継続中。発話元特定不能』
そこから、後世の教材で有名になる再接続へ続いていく。
しかし原記録では、十三年間待ち続けた人物が、反応候補を聞いた瞬間に全てを放り出して駆けつけたわけではない。
仕事を終えたのか、区切りをつけたのか、その詳細はない。
ただ、
『あとで』
と言い、
四十二分後に来た。
「……これ」
主様が何か言いかける。
ノルンは画面を見たまま待つ。
「教材にしたら消えるよね」
「第十版・第十一版にはありません」
「でも、これ大事じゃない?」
「何に対してですか」
「十三年待ったってことに」
ノルンは考える。
「少なくとも、第一接続者がその時点で日常行動を全て中断して即座に反応確認へ向かったわけではないことは分かります」
「待ってなかった?」
「それは言えません」
「だよね」
「本人はその後、接続へ応答しています」
「じゃあ待ってた?」
「それも、この四十二分だけでは言えません」
主様が頭を抱える。
「難しい」
「はい」
ノルンは十三年間の記録件数を集計する。
日数。
十三年。
閏年を含む。
四千七百日を超える。
その全てに記録があるわけではない。
接続関連記録が存在する日は、そのうちごく一部。
本人が接続について明確に発言した日となれば、さらに少ない。
大半の日には、接続について何も書かれていない。
ただし。
何も書かれていないから、考えなかったとは言えない。
記録対象ではなかった可能性がある。
私生活で考えていた可能性もある。
逆に、毎日考えていた証拠もない。
「タイトルにするなら」
主様が言いかける。
「何ですか」
「『十三年間ずっと待っていた人の記録には、相手のことを一度も書かなかった日が何千日もありました』」
ノルンは主様を見る。
「正確ではありません」
「え?」
「記録がない日と、本人が書かなかった日は違います」
「……あ」
「本人の日記ではありません」
「そっか」
「管理側の記録が存在しない日が多数ある、が正確です」
「じゃあタイトル長くなる」
「タイトルを付ける必要はありません」
「教材作る人、大変だったんだな」
その一言に、ノルンは少しだけ黙った。
「そうですね」
今日、十三年分の原記録を追ってみて、初めて分かる。
これを教材へ落とし込むのは、確かに難しい。
全てを載せることはできない。
料理を習ったこと。
友人と出かけたこと。
体調を崩したこと。
仕事が忙しかったこと。
接続について考えなかった日。
夢に見た日。
もう来ないかもしれないと思った日。
それでも終了しなかったこと。
毎回「まだ待つか」と聞かないでほしいと言ったこと。
反応候補を毎回教えないでほしいと言ったこと。
十三年目、反応候補を知らされても「あとで」と答えたこと。
そして四十二分後に来たこと。
何を残すか。
何を削るか。
選ばなければ教材にはならない。
だから後世の編集者を「削った人」とだけ見るのも違う。
問題は、削ったことそのものではない。
削った後に残った一文が、削られた部分まで説明しているように見えることなのかもしれない。
「今日の研究メモは慎重にします」
「うん」
ノルンは書き始める。
『第一接続者の十三年間について、管理原記録・定期面談・健康確認・自主申告・接続観測記録を確認。全日常を網羅する記録ではなく、私生活常時観測も行われていないため、記録不存在日を本人の非想起日とみなさない。』
『初年度、本人は接続について考える時間が減ったこと、接続を考えなかった日があったことを自ら申告。一方で接続継続希望は維持。』
『初年度末、「毎回まだ待つかと聞かれるのは嫌」「やめる理由を探さないといけない感じがする」とし、本人から変更希望がない限り継続意思を定期的に問い直さない運用へ変更。』
『2年目以降、接続関連発言頻度は大きく低下。友人との外出、業務、休暇、体調不良等、接続と直接関係しない生活記録多数。接続を前ほど気にしない時期、夢に出て寂しさを感じた時期、「もう来ないかもしれない」と考えながら終了を希望しなかった記録等が存在。』
『5年目、体調不良時に「今は自分のことでいっぱい」とし、外在反応候補通知範囲縮小を希望。接続終了希望ではないと明言。』
『6〜12年目、接続関連発言が存在しない年もある。これは非想起を証明しない。』
『13年目、再接続候補反応を通知された際、本人は「あとで」と回答し、42分後に確認へ参加。即時反応しなかったことは、待機意思の不存在も存在も単独では証明しない。』
最後。
『後世の「十三年間待ち続けた」は、接続継続状態が十三年間維持され、本人が終了を希望しなかったという側面を要約している可能性がある。一方、十三年間を均一な心理状態・継続的想起・一定強度の期待として理解する根拠は原記録から確認できない。』
ノルンはそこで指を止めた。
もう一文。
『「待ち続けた」の意味が、制度上の接続継続状態を指すのか、本人の心理的待機を指すのか、後世資料内で混在している可能性。要追加確認。』
保存。
今日は第十二版を開かない。
研究枠も残っている。
だが、十三年分の記録を追った後で、さらに後世の教材へ進む必要はない。
◇
夕方。
ミレイアからの確認事項について、技術担当から回答が届いた。
第二接続を将来実施する場合。
ルーク側への予定通知は、接続安全確認のために一定の事前準備が必要ではあるものの、必ずしも数日前から本人へ実施日時を伝える必要はない。
管理側内部で技術準備を進め、ミレイアの最終意思確認後にルークへ接続可否を確認する方式は技術的に可能。
ただし、ルーク側にも接続を受けるかどうかを選ぶ時間が必要。
したがって、
『ミレイアが当日実施意思を確認した直後に、ルークへ即時接続を要求する』
方式は避ける。
ルークにも断る・保留する時間を確保する。
また、ミレイアが接続希望を出したことをどの文言でルークへ伝えるかは別途確認可能。
ノルンは回答を読む。
ミレイアの不安を減らすことだけを優先すると、今度はルークへ突然判断を迫ることになる。
双方に選択の時間が必要だ。
だから、
ミレイアが決めるまでルークには一切知らせず、決めた瞬間すぐ接続。
という形にはできない。
けれど、
ミレイアがまだ迷っている段階で、ルークへ「そのうち接続するかもしれない」と期待させ続ける必要もない。
間に手順を作る必要がある。
「これ、ミレイアに今日伝えますか?」
担当者が尋ねる。
ノルンは少し考える。
「本人は回答期限を指定していません」
「はい」
「ただし確認希望を出しています」
「では?」
「エリスから、回答が得られたことだけ伝えてください。内容を今聞くかは本人へ選んでもらいます」
「分かりました」
ミレイアへ伝わる。
『昨日確認を希望した件について、回答が届いています』
エリスが言う。
ミレイアは刺繍枠から顔を上げた。
『今聞かなきゃ駄目?』
『いいえ』
『……明日でも?』
『はい』
『じゃあ今日はいい』
『分かりました』
それで終わった。
ノルンは報告を見て、何も付け足さない。
回答はある。
本人は今日聞かない。
だから明日聞くと決まったわけでもない。
回答が存在している状態で、今日は日常へ戻る。
◇
終業前。
フローラの慈善行事に関する申告が主催側へ届き、受付補助希望として受理された。
ただし担当は当日決定。
希望が通る保証なし。
フローラはその返答を読み、
『うん。それでいい』
と答えた。
アーノルドから接触なし。
第二王女の参加予定変更なし。
ルークは午後、共有空間で本を読んで過ごしている。
ミレイアについて新しい質問なし。
過去名についても質問なし。
美咲からのメッセージなし。
ノルンからも送っていない。
日曜日十四時の約束は残っている。
ノルンは一日の最終確認を終え、端末を閉じた。
「今日はすごかったね」
主様が言う。
「何がですか」
「十三年」
「一部記録を確認しただけです」
「でも一気に見た」
「全記録ではありません」
「第一接続者、色々してたね」
「はい」
「料理習ったり、旅行したり、仕事したり」
「記録上は」
「待ってるの忘れてた日も」
「『昨日は考えなかった』という申告が一件あります。それを十三年間全体へ広げないでください」
「はい」
主様は少し笑ってから、机へ肘をついた。
「でもさ」
「何ですか」
「『十三年間待ち続けた』って、間違い?」
ノルンはすぐに答えなかった。
今日一日、それを確かめていたようなものだった。
しかし答えは、単純な丸か罰ではない。
「何を『待ち続けた』と呼ぶかによります」
「接続を終わらせなかった?」
「それなら、原記録とかなり一致します」
「毎日ずっと相手を思って、返事を待ってた?」
「そのような根拠は確認できません」
「途中で気持ちが変わらなかった?」
「変化した記録があります」
「でもやめなかった」
「はい」
「じゃあ……」
主様が考える。
「十三年間、同じ気持ちで待ち続けたんじゃなくて、十三年間、終わらせなかった?」
ノルンはその表現を頭の中で確認する。
「原記録へは近いと思います」
「教材にするならそっち?」
「それも、全てを表すわけではありません」
「厳しい」
「第一接続者は『終了しなかった人』だけでもありませんから」
「料理もした」
「なぜ料理を代表にするのですか」
「印象に残った」
「接続と関係ありません」
「そこがいいんじゃない?」
ノルンは少し黙る。
そこがいい。
その感想は分からなくもなかった。
接続と関係のないことが、十三年の中に大量にある。
むしろ当然だ。
人の十三年間なのだから。
「主様」
「うん?」
「後世の教材を作ることになっても、料理を無理に入れないでください」
「えー」
「重要だから残すのと、印象に残ったから残すのは違います」
「でも第一接続者が人間っぽくなる」
「人間っぽくするために選ぶのも編集です」
「ああ……」
主様が天井を見る。
「何選んでも編集になる」
「はい」
「じゃあどうすればいいの」
「何を選んだか分かるようにしておくことはできます」
ノルンは答える。
「要約は要約として。原記録は原記録として。どういう基準で省略したかも残す」
「完璧?」
「いいえ」
「だよね」
「ですが、後の人が戻れる道にはなります」
主様が静かに頷いた。
ノルンは鞄を持って席を立つ。
外へ出ると、朝より雲が増えていた。
夕方の光は柔らかく、風も少し涼しい。
帰り道。
スマートフォンが一度震える。
美咲だった。
『日曜、駅前の新しい店ちょっと見てみない? 混んでたら別のとこで(笑)』
ノルンは歩きながら読み、少し考える。
行きたい。
けれど混んでいたら別の場所。
美咲自身がそう書いている。
ノルンは返信する。
『見てみたいです。混んでいたら、その時また考えましょう』
送信。
数分後。
『おっけー!』
短い返事が来る。
それで予定が一つ増えた。
日曜日十四時に会う。
駅前の新しい店を見てみる。
混んでいたら別の場所。
全てを決めていない。
けれど何も決まっていないわけでもない。
ノルンはスマートフォンをしまう。
今日読んだ第一接続者の十三年間が、また頭へ浮かびそうになる。
友人と出かけた。
料理を習った。
仕事をした。
体調を崩した。
旅行した。
接続を考えなかった日があった。
もう来ないかもしれないと思った。
それでも終了しなかった。
十三年目、反応候補を知らされて、
『あとで』
と言った。
四十二分後に来た。
その全部を知った後でも、
『十三年間待ち続けた』
という言葉を完全に間違いだとは、ノルンには言えなかった。
ただ、その一文だけでは足りない。
そして一文で足りないからといって、十三年分を全て誰かへ読ませることもできない。
「……難しいですね」
夕暮れの道で呟く。
答える人はいない。
それでいい。
明日、第十二版を読むかもしれない。
別の記録を先に見るかもしれない。
ミレイアは回答を聞くかもしれないし、聞かないかもしれない。
ルークは今日、ミレイアのことを何も尋ねなかった。
フローラは慈善行事で受付になるかもしれないし、別の役割になるかもしれない。
日曜日の店は混んでいるかもしれない。
空いているかもしれない。
十三年間の記録を読んだ後では、「待つ」という言葉さえ以前より広く見える。
何もしないこと。
生活すること。
忘れること。
思い出すこと。
やめないこと。
そして、必要な時にもう一度向き合うこと。
そのどこからどこまでを待つと呼ぶのかは、管理側が一つに決める必要はないのかもしれない。
そこまで考えて、ノルンは小さく首を振った。
「……またまとめています」
今日のところは、第一接続者が何をしていたかを記録した。
それで十分だ。
彼女の十三年間に名前を付けるのは、まだ先でよかった。




