第九十二話 『互いに待っていた』という言葉は、最初から二人の気持ちを表していたわけではありませんでした
翌朝、ノルンが目を覚ました時、枕元のスマートフォンに新しい通知はなかった。
カーテンの隙間から入る朝日はまだ弱く、部屋の中には夜の涼しさが少し残っている。昨夜、美咲とは「雨だったらその時考えよう」という短いやり取りをしたところで会話が終わっていたから、続きを待っていたわけでもない。
それでも目覚ましを止めた指で通知欄を一度確認したのは、もう習慣になりつつあるのかもしれなかった。
「……ありませんね」
口に出してから、ノルンは自分で少しおかしくなる。
ない。
だから何だというのだろう。
日曜日の十四時に会う約束は残っている。昨日の夜に言葉を交わしたことも消えていない。今朝新しい一文が届いていないという事実は、それ以上でもそれ以下でもなかった。
ベッドを出て身支度を整え、簡単な朝食を済ませる。
家を出た頃には空がすっかり明るくなっていた。雲はところどころに浮かんでいるものの雨の気配は薄く、通りを歩く人々の服装も昨日より少し軽い。パン屋の前を通ると焼きたての香りが漂い、向かいの店では開店準備をしている店員が看板を外へ運んでいた。
例の菓子店の前も通った。
今日は立ち止まらない。
買わないと決めていたわけではなく、ただ今朝は欲しいと思わなかった。
それだけだった。
◇
「おはよう」
「おはようございます」
管理区域へ入ると、主様が机の上へ二つの紙杯を置いていた。
「どうぞ」
「何ですか」
「飲み物」
「見れば分かります」
「毒は入ってない」
「疑っていません」
「昨日いっぱい頭使ったから」
「主様も読んでいたでしょう」
「僕は横から見てただけだから」
ノルンは片方を受け取った。ほのかな香りから、普段飲んでいるものより少し甘い飲み物らしいと分かる。
「ありがとうございます」
「素直」
「お礼くらい言います」
「昨日の教材より貴重な記録として残しておこう」
「削除してください」
主様が笑う。
ノルンも席へ着き、いつもの順序で朝の確認を始めた。
世界状態に異常なし。
緊急介入案件なし。
九人の誤転生者にも重大な変化は確認されない。
ルークはすでに起床しており、生活区域で朝食を終えたところだった。自動接続、位置相当感覚、名称反応のいずれもなし。昨日は日常の中で「ルーク」と呼ばれて自然に振り向いていたが、それを理由に今朝あらためて現在名への感情を確認することはしない。
過去名についても新しい発言はなかった。
ミレイアは家族と朝食を取り、母親と使用人の一人が話しているのを聞きながら紅茶を飲んでいる。接続に関する話は出ておらず、エリスからも質問していない。
昨日、
『もし、いつか言う時、私が決めたことだけ言える?』
と確認したことは記録されている。
しかし、その確認が済んだからといって、今日は「では何を伝えますか」と尋ねる必要はない。
フローラは慈善行事の準備を続けている。衣装調整は終わり、今日は主催者側から当日の案内資料が届く予定だった。
アーノルドからの接触なし。
王家側の参加者変更なし。
第二王女が出席予定。
美咲から新しいメッセージなし。
日曜日十四時の予定に変更なし。
他の誤転生者たちも、それぞれの生活を続けている。
接触保留中の者は保留のまま。
観察範囲について以前質問した人物から新しい要望はない。
削除希望を出した人物の削除済み情報も、研修事例へ転用されていない。
通常確認を終えたところで、ノルンは端末を閉じず、そのまま数秒手を置いた。
「第十二版?」
主様が聞く。
「まだです」
「今日は読まない?」
「分かりません」
「昨日の続き、気になってない?」
「気にはなっています」
「でも?」
「昨日の研究結果を、もう一度整理してからにします」
「ちゃんと一晩置いた」
「寝かせた食品みたいに言わないでください」
「熟成記録」
「嫌な言葉を作らないでください」
ノルンは昨日作成した研究メモを開く。
第十一版。
研修課程短縮。
教材圧縮。
基礎教材と上級教材の分離。
参照番号7を単一外在個体として扱う運用の一般化。
完全な同一性証明は不能。
自己識別相当音の具体的断片は基礎教材から削除。
損傷した「いる?」も削除。
第十版で追加された、管理側が接続終了を提案したという対立構造も削除。
一方で、
『第七外在個体も十三年間、第一接続者との再接続を待ち続けた時間でもあったと考えられる』
は、
『第一接続者と第七外在個体は、十三年間にわたり互いの再接続を待ち続けた』
へ変更された。
新しい外在側主観記録は確認されていない。
限定表現だけが落ちたのではなく、文章全体が教育向けに再構成されている。
そして、
『長期的相互接続』
という技術分類が正式化されていた。
「昨日の最後に気になってたの、これ?」
主様が画面の一部を指す。
「はい」
「相互接続って言葉と、互いに待ってたって文章が近づいたのかどうか」
「そうです」
「調べる?」
「調べます。ただし第十二版ではありません」
「どこ?」
「第十一版作成以前の研究資料です」
主様が少し意外そうな顔をした。
「戻るんだ」
「はい」
「昨日より前?」
「技術用語の使用履歴を確認します」
「第十二版に答えがあるかもしれないよ」
「あるかもしれません」
「でも先に?」
「言葉がいつ、何を意味して使われ始めたかを確認します」
ノルンは検索範囲を教育資料から研究・運用資料へ変更する。
検索語。
『相互接続』
今回は、特定の結論を探すための検索ではない。
用語の履歴を追うためだ。
最古の使用例。
第一接続者の時代より、かなり後だった。
『双方向応答成立状態』
初期にはこの表現が多い。
一方から信号が届くだけでは成立しない。
片方の反応に対し、もう一方からも観測可能な反応が返り、それが一定条件を満たした場合に双方向応答と呼ぶ。
そこに「互いに会いたい」「互いを認識している」「互いを待っている」といった感情条件は含まれていない。
さらに後。
『再相互応答』
『反復相互接続』
『長期中断後相互接続』
用語が少しずつ変化していく。
「最初は機械っぽい」
主様が呟く。
「技術分類ですから」
「『相互』って、返事が両方からあったって意味?」
「初期定義ではそうです」
「気持ちじゃない」
「はい」
ノルンは次の時代へ進む。
第一接続者の十三年後の反応が、研究事例として分類され始めた頃。
『長期中断後相互応答例』
最初はそう記載されていた。
定義。
『最終確認応答から一定期間以上、双方向応答が成立せず、その後同一または関連性の高い反応源との間で再び双方向応答が確認された事例。』
ここでも、待機意思は条件に含まれていない。
第一接続者事例の注記。
『接続者側は継続意思を保持。外在反応側の継続意思は確認不能。』
ノルンの目が止まる。
「ありました」
「何が?」
「明記されています」
主様が画面を覗き込む。
「外在側の継続意思は確認不能……」
「はい」
「この時点ではちゃんと分けてたんだ」
「少なくともこの研究資料では」
さらに数年後。
分類名称の改定案。
『長期中断後相互応答』では、中断期間中に接続そのものが完全に消失していたかのような誤解を招くという意見が出ている。
理由。
接続経路が成立しない期間でも、弱い一方向反応や識別不能反応が存在する可能性がある。
そこで、
『長期的相互接続事例』
という名称が提案される。
ノルンは文書をゆっくり読む。
『本分類における「長期的」は継続的な双方向接続成立を意味しない。』
『「相互」は観測期間全体において双方向応答が確認されたことを示し、中断期間中の双方の意図、感情、待機意思を意味しない。』
ノルンは無意識に背筋を伸ばした。
主様も、今度は冗談を挟まなかった。
「……書いてある」
「はい」
「わざわざ」
「誤解防止の注記です」
「じゃあ最初から、『相互』を『お互い同じ気持ち』って意味にしちゃ駄目だった」
「少なくとも、この分類を作った時点ではそう定義されています」
「第十一版では?」
「技術分類の定義自体には、待機意思は含まれていませんでした」
「なのに本文では『互いに待ち続けた』」
「はい」
同じ版の中で、
『相互』
という言葉が二つの顔を持っている。
一つは技術用語。
双方向応答が、長い観測期間のどこかで成立したという意味。
もう一つは日常語。
互いに。
双方が。
同じように。
待った。
「これ、言葉が勝手に変わったのかな」
主様が尋ねる。
「勝手に、とは限りません」
「誰かが変えた?」
「それもまだ分かりません」
「また分からない」
「分からないものを減らすために調べています」
ノルンは分類名称採用時の議事録へ進む。
採用理由は技術的だった。
長期中断という語では、途中に存在した弱い反応を無視してしまう。
だから「長期的」。
相互は、期間全体で双方の応答が成立したという分類。
さらに明確な注意書き。
『本用語を対象間の心理的相互性を示す表現として使用しないこと。』
主様が声を失う。
ノルンも、しばらくその一文を見た。
「……ここまで書いてあったんですね」
「うん」
「それでも後で」
「『互いに待った』になった」
「はい」
ここで終わらせるのは早い。
ノルンは使用履歴をさらに追う。
研究論文。
運用報告。
研修資料。
内部会議。
最初の数十年は、技術用語としてかなり厳密に使われている。
『相互性は応答方向に関する分類であり、関係性評価ではない。』
『相互応答成立を親和性・信頼・継続希望の指標として扱わない。』
『一回の返答を継続意思と解釈しない。』
第一接続者の原則と重なる。
しかし、少しずつ表現が変わる。
研修補助資料。
『相互接続では、接続者と外在個体の双方の反応を尊重すること。』
これはまだ問題ない。
双方から反応があるのだから、双方を尊重する。
次。
『相互接続は一方的観測ではなく、双方の関わりによって成立する。』
技術的には理解できる。
次。
『双方が関係を継続する意思を持つ場合、長期的相互接続へ移行することがある。』
ここで、意思が入る。
ただし条件文だ。
『意思を持つ場合』
全ての相互接続に意思があるとは言っていない。
さらに後。
『長期的相互接続においては、双方の継続意思を尊重する。』
ここも運用指針として読める。
確認できた意思があるなら尊重する。
だが、その次の世代の研修要約。
『長期的相互接続とは、双方が長期間にわたり接続継続を望む事例である。』
「変わった」
主様が言う。
「はい」
「定義が」
「正式定義ではありません。研修要約です」
「でも読む人には定義みたいに見える」
「そうですね」
原定義では、
観測期間全体で双方向応答が成立した。
それだけだった。
ところが研修用の短い説明では、
双方が長期間接続継続を望む。
へ変わっている。
ノルンはその資料の作成時期を見る。
第十版の少し前。
「第十版より先だ」
主様が気づく。
「はい」
「じゃあ第十版が急に作ったわけじゃない」
「その可能性が高くなりました」
「その前から、技術用語の『相互』が気持ちの『お互い』に近づいてた」
「少なくとも研修資料では」
ノルンは作成者を確認する。
個人名だけで判断しない。
資料の目的。
新人研修の導入。
長い定義を短く理解させるための一枚資料。
作成会議の記録も残っていた。
『「観測期間全体において双方向応答が確認された事例」では初学者に意味が伝わりにくい。』
『「双方が接続継続を望む事例」とした方が、実務上の注意点を理解しやすい。』
反対意見。
『継続希望は相互接続の成立条件ではない。』
回答。
『厳密な定義は本講義内で説明する。導入資料では概念理解を優先する。』
採用。
「まただ」
主様の声が少し低くなる。
「はい」
「あとで詳しく説明するから、最初は分かりやすく」
「そうです」
「本当にあとで説明したの?」
「確認します」
講義資料。
正式定義のスライドは存在する。
ただし導入資料より後半。
そして、受講後試験。
問。
『長期的相互接続で最も重視すべきものを選べ。』
選択肢。
双方の継続意思。
接続頻度。
応答速度。
管理者判断。
正答。
『双方の継続意思』
「間違ってないようにも見える」
主様が言う。
「運用上、確認できた双方の意思を尊重するという意味なら」
「でも『双方に継続意思がある』って前提に見える」
「はい」
少しずつ。
本当に少しずつだった。
誰かがある日突然、
『相互接続とは愛し合って待つことだ』
などと書いたわけではない。
技術分類がある。
その運用では双方の意思を尊重する。
継続意思がある場合には、それを尊重する。
研修では、双方の継続意思が重要だと教える。
導入では、双方が継続を望む事例だと簡略化する。
そして第一接続者事例は、長期的相互接続の代表例になる。
代表例なのだから、
双方が継続を望んでいた。
そう読めてしまう。
さらに、
『十三年間にわたり互いの再接続を待ち続けた』
へ。
「……一文ずつなら、そんなに変に見えません」
ノルンが呟く。
「うん」
「隣の段階へ移る時も、理由があります」
「分かりやすくするため」
「実務上の注意点を伝えるため」
「双方の意思を大事にするため」
「はい」
「いいことばっかり」
「目的だけを見れば」
ノルンはそこで口を閉じる。
良い目的。
分かりやすい説明。
重要な教訓。
その間に、小さな変換が入る。
双方向応答。
双方の意思を尊重。
双方の継続意思が重要。
双方が継続を望む。
互いに待ち続けた。
隣同士は似ている。
最初と最後を並べると違う。
「伝言ゲームみたい」
主様が言う。
「似ていますが、偶然の伝言だけではありません」
「ちゃんと編集してる」
「はい」
「考えて変えてる」
「はい」
「だから余計に難しい?」
「そうですね」
ノルンは一度画面から目を離した。
窓の外では午前の光が強くなっている。廊下を歩く職員の声が遠くで聞こえ、管理区域では別の担当者が書類をめくる音が続いていた。
研究資料の中では百年以上の言葉の変化を追っている。
けれど現実の時間は、まだ午前中だった。
「休憩する?」
主様が聞く。
「まだ二十分しか調べていません」
「時間じゃなくて」
ノルンは主様を見る。
「顔」
「どんな顔ですか」
「すごく嫌そう」
「嫌ではありません」
「じゃあ困ってる」
「……それは少し」
「五分?」
昨日、自分から取った五分休憩を思い出す。
「三分にします」
「なんで値切るの」
「五分必要とは限りません」
「休憩にまで最適化かけないでよ」
ノルンは返事をせず、席を立った。
給水場所まで歩く。
冷たい水を一杯飲み、窓の外を見る。
自分が今、何を怖がったのかを考える。
後世の人々が間違えたことではない。
自分も同じことをするかもしれないことだ。
ミレイア。
聞けるかもしれない。
聞いてみたいかもしれない。
こんにちはだけなら考えられる。
決めても当日やめられるなら、前より怖くないかもしれない。
いつか伝えるなら、自分が決めたことだけ伝えたい。
これらを短くすれば、
『ミレイアはルークとの再接続を望んでいる』
と書けてしまう。
完全な嘘ではないように見える。
でも違う。
少なくとも、今は。
ルーク。
九人全員に会いたい。
ミレイアへ謝りたい。
返事は欲しい。
でも返事がないことを失敗にしたくない。
今すぐでなくていい。
現在名はルークがいい。
過去名は少し知りたい。
けれど見つかったことでルークでなくなるのは怖い。
これも短くすれば、
『ルークは過去を知り、ミレイアとの再会を望んでいる』
となる。
間違っているとは言い切れない。
けれど、それだけでは本人ではなくなる。
「……短くするのが悪いわけではない」
ノルンは自分へ言う。
全ての記録を毎回全部読むことはできない。
一覧も必要だ。
教材も必要だ。
要約も必要だ。
問題は、短くしたものが元と同じだと思われることなのかもしれない。
しかし、それもまだ結論にしない。
水を飲み終え、ノルンは席へ戻った。
「三分二十秒」
主様が言う。
「測っていたのですか」
「時計見たら分かる」
「次から休憩開始時刻を教えません」
「教えられてないよ」
少しだけ力が抜けた。
◇
昼前、フローラの屋敷へ慈善行事の当日案内が届いた。
厚手の封筒には主催団体の印が押され、中には当日の時刻表、会場図、参加者向けの注意事項、活動内容の一覧が入っている。
フローラは母親と一緒に応接室のテーブルへ資料を広げた。
窓から入る光が紙面を明るく照らし、庭では剪定をしている庭師の鋏の音が小さく響いている。
『受付補助、物資仕分け、案内、子供向け配布物の準備……』
フローラが指で項目を追う。
『思ったより色々あるのね』
母親が言う。
『うん』
『どれがいい?』
昨日なら、フローラは少し迷ってから「受付」と答えたかもしれない。
けれど今日は資料の下にある注意書きへ目が止まった。
『当日の人員状況により担当変更あり。参加者は必ず担当職員の指示を受けること。』
『希望業務がある場合は受付時に申告可。ただし配置を保証するものではない。』
『あ』
『どうしたの?』
『希望、言っていいんだ』
『書いてあるわね』
フローラは昨日の会話を思い出す。
自分が公爵令嬢だから、受付をやりたいと言えば断りにくいのではないか。
だから、当日聞かれたら「興味はあるけれど必要なところでいい」と言おうと思っていた。
けれど主催側が最初から希望申告欄を用意している。
『じゃあ、受付って言ってもいいのかな』
『それはあなたが決めることね』
『でも配置を保証しないって書いてある』
『ええ』
『断ってもいいって、向こうから書いてあるんだ』
母親が娘を見る。
フローラは資料を見たままだった。
『それなら……言いやすい』
小さな声だった。
『受付補助を希望します。でも、別のところでも大丈夫ですって』
『そう伝えればいいと思うわ』
『うん』
フローラは申告欄へ自分で書き込む。
字を書き終えてから、しばらくその一行を見る。
『お母様』
『なあに?』
『私、こういうの知らなかった』
『希望欄?』
『ううん』
フローラは少し考える。
『自分がやりたいって言っても、相手が駄目って言えるようになってたら、言ってもいいんだってこと』
母親はすぐに答えなかった。
その沈黙に、フローラは少し不安そうに顔を上げる。
『変?』
『いいえ』
母親は柔らかく笑った。
『大事なことを知ったのね』
『大事なのかな』
『少なくとも、あなたには』
フローラは再び申告欄を見る。
自分が公爵令嬢であることは変わらない。
相手が気を遣う可能性も消えない。
だから何も希望しない。
それしか方法がないと思っていた。
でも、断れる仕組みがあるなら。
自分は希望を伝えられる。
相手も別の配置を選べる。
どちらか一方だけが我慢する必要はないのかもしれない。
『……受付になったら、ちゃんとやらなきゃ』
『まだ決まってないわよ』
『分かってる』
『今から緊張してる?』
『少し』
『参加するって決めた時より?』
フローラは考えてから首を傾げた。
『種類が違うかも』
『そう』
『行くって決めた時は、行って大丈夫かなって怖かった』
『今は?』
『ちゃんと役に立てるかなって方』
母親はその違いを評価しなかった。
ただ、
『当日、分からなければ聞きなさい』
と言った。
『公爵令嬢なのに?』
『公爵令嬢でも、初めてやる仕事は初めてでしょう』
フローラが吹き出す。
『それもそうだね』
資料を封筒へ戻す時、彼女の手つきは届いた時より少し軽くなっていた。
◇
午後。
ノルンは午前中に調べた「相互接続」の用語変遷をセレナへ見せた。
もちろん、最古層研究の全てを渡したわけではない。
制度設計上必要な部分だけ。
内部用語が後世の日常語的解釈と混ざり、意味が変わる可能性についてだった。
「これ、一覧の話と似てますね」
セレナは資料を読みながら言った。
「どの点ですか」
「短くしたものが、そのうち本体みたいになるところ」
「可能性はあります」
「昨日の『説明:現在拒否』も、本当は『昨日は聞きたくない、明日なら聞けるかもしれない』だった」
「はい」
「短くした時は便利。でも翌日になっても一覧だけ見てたら、本人より一覧の方が強くなる」
ノルンは頷く。
「ただ、詳細記録だけに戻すことはできません」
「無理ですね。毎回全部読む時間ないです」
「一覧をなくすのではなく、一覧が何なのかを分かりやすくする必要があります」
「何なのか?」
「本人そのものではない」
セレナが目を瞬く。
「それ、一覧に書きます?」
「その文章をそのまま書くとは言っていません」
「びっくりした。毎回『これは本人そのものではありません』って出るのかと思った」
「邪魔でしょう」
「かなり」
ノルンは試験案を開く。
一覧の各項目に記録時刻を目立つ形で表示する。
条件付き発言には詳細参照の印を付ける。
本人の現在意思として使用する前に再確認が必要な項目だけを区別する。
ただし、何でも再確認対象にしない。
「これなら昨日の人は、『説明拒否・昨日』って見える?」
「試験案では」
「今日も拒否かは分からない」
「はい」
「でもだからって今日聞けって意味でもない」
「はい」
「……面倒ですね」
「人ですから」
セレナが笑う。
「ノルンさん、それ最近便利に使ってません?」
「何をですか」
「『人ですから』」
「便利だから言っているわけではありません」
「じゃあ記録しておきます。ノルンさん頻出語」
「やめてください」
軽いやり取りの後、セレナは画面へ戻る。
「でも、この『相互』のやつ」
「はい」
「最初にちゃんと『気持ちの相互じゃない』って書いてあったのに、後でそうなったんですよね」
「一部の研修資料では」
「今の私たちも、規則に注釈付けても同じことになるかもしれない?」
「なり得ます」
「じゃあどうするんです?」
「分かりません」
「また?」
「未来の全ての誤読を防ぐことはできません」
「開き直った」
「開き直っていません」
ノルンは少し考えてから続ける。
「ただ、少なくとも原記録と要約を同じものとして扱わない構造は作れます」
「詳細への入口を残す」
「はい」
「要約が変わった履歴も?」
ノルンはそこで止まった。
「それは検討する価値があります」
「お」
「まだ採用ではありません」
「分かってます」
「本当に?」
「最近慣れました」
昨日と同じような返答に、ノルンは少しだけ眉を寄せた。
しかし、それ以上は言わなかった。
◇
夕方近く。
ルークから管理側へ呼び出しがあった。
緊急ではない。
通常会話希望。
ノルンは担当者を通じて確認し、応じる。
ルークは窓の近くに座っていた。
外はまだ明るく、薄い雲が空をゆっくり流れている。テーブルには読みかけの本が伏せて置かれていた。
『ノルン』
「はい」
『聞いていい?』
「どうぞ」
ルークはすぐに続けなかった。
本の角へ指を置き、少し動かす。
『僕、前に九人に会いたいって言ったよね』
「はい」
『それ、まだ記録ある?』
「あります」
『消えてない?』
「消してほしいという希望は受けていませんので」
『そっか』
ルークは少し安心したように見えたが、ノルンは感情名を記録しない。
『でもさ』
「はい」
『会いたいって言ったら、会うことになってる?』
「いいえ」
『九人とも?』
「はい」
『僕が会いたいって言っただけ?』
「現時点では、その希望が記録されています」
ルークは黙る。
今日の午前中に読んだ資料が、ノルンの頭へ浮かびかける。
双方が継続を望む。
互いに待ち続けた。
けれど、それをこの会話へ持ち込まない。
ルークは今、自分の希望について確認している。
『向こうが会いたくなかったら?』
「会うことにはなりません」
『僕がずっと会いたくても?』
「それだけでは」
『じゃあ、僕が待ってても、向こうが待ってることにはならない?』
ノルンの呼吸が一瞬止まりそうになる。
偶然だ。
今日読んだ資料をルークは知らない。
最古層研究も知らない。
だから、この言葉を歴史的事例と結びつけてはいけない。
「なりません」
ノルンは答える。
「あなたが待つことと、相手が待つことは別です」
『そっか』
ルークは窓の外を見る。
『よかった』
今度は本人が言った。
「何がですか」
『僕が会いたいって思ってるせいで、向こうも待ってることにされたら嫌だなって』
ノルンは黙って聞く。
『だって、知らないもん』
「何をですか」
『みんなが僕に会いたいか』
「はい」
『ミレイアも』
名前が出る。
ノルンは表情を変えない。
ルークはミレイアの現在の検討内容を知らない。
『僕は会いたいって言った』
「はい」
『でも、ミレイアがどう思ってるかは知らない』
「はい」
『じゃあ、それでいい?』
「何がですか」
『分かんないままで』
ノルンは少し考える。
「今、知る必要がありますか」
ルークはすぐに答えなかった。
膝の上で両手を組み、親指同士を擦る。
『……知りたいは、ある』
「はい」
『でも、聞いたら困らせるかもしれない』
「管理側が本人の許可なく確認して伝えることはしません」
『うん』
『じゃあ、今は分かんないでいい』
「分かりました」
『会いたいは消さないで』
「はい」
『でも、“待ってる”って向こうに言わないで』
ノルンは視線をわずかに上げる。
以前にも、似た問題は扱っている。
待つ側の意思を、待たれる側の負担にしない。
ルーク自身も、それを少しずつ理解してきた。
「分かりました」
『僕が会いたいってことも?』
「それも、本人へ共有する許可が別途必要です」
『僕の許可?』
「あなたの希望を誰かへ伝える場合は、あなた側の共有意思も確認します。それに加えて、受け取る側へどのように伝えるかも検討します」
『じゃあ今は?』
「共有しません」
『うん』
ルークの肩が少し下がる。
『なんかさ』
「はい」
『会いたいって思ってるのに、言わないの変かな』
「変だとは判断しません」
『待ってるのに、待ってるって言わないのも?』
「あなたが待つことと、その事実を相手へ知らせることは別です」
『また別なんだ』
「はい」
『いっぱい別だね』
ルークが少し笑った。
ノルンも否定しない。
『名前も、今の名前と前の名前が別かもしれない』
「はい」
『知りたいと、今すぐ調べてほしいも別』
「はい」
『会いたいと、会わせてほしいも別』
「はい」
『待ってると、待ってるって言うのも別』
「はい」
ルークは指を折りかけ、途中でやめた。
『増えてく』
「無理に一覧にしなくていいですよ」
『ノルンがそれ言うんだ』
「何ですか」
『一覧好きそうなのに』
「必要な一覧は使います」
『必要じゃない一覧も作る?』
「作りません」
『ほんと?』
「ルーク」
『ごめん』
笑いながら謝る。
しばらくして、ルークは伏せていた本を持ち上げた。
『今日はこれだけ』
「分かりました」
『あ』
「はい」
『僕、待ってるって言ったけど』
「はい」
『毎日ずっと待ってることだけ考えてるわけじゃないから』
ノルンは静かに頷く。
『本も読むし、ご飯も食べるし、寝るし』
「はい」
『会いたいの忘れてる時もある』
「はい」
『それでも待ってるって言っていい?』
ノルンはすぐに答えなかった。
言葉の定義を管理側が決める必要があるかを考える。
「ルークが、その言葉で自分の今の状態を表したいなら」
『いいの?』
「はい。ただし管理側が『待っている人は常に相手を考えている』とは解釈しません」
ルークは少し考えた後、
『じゃあ、それでいい』
と答えた。
『僕は待ってる。でも普通に暮らしてる』
「記録しますか」
『うん』
「分かりました」
会話が終わる。
ノルンはしばらく画面を閉じなかった。
第一接続者。
十三年間。
後世の教材。
互いに待ち続けた。
ルーク。
『僕は待ってる。でも普通に暮らしてる』
似ている。
だからこそ、結びつけない。
第一接続者が十三年間どのように「待っていた」のかと、ルークが今使った「待ってる」は同じとは限らない。
そしてルークが待っているからといって、ミレイアが待っていることにもならない。
ノルンは記録へ、
『本人表現:「僕は待ってる。でも普通に暮らしてる」』
と、そのまま残した。
要約欄には、
『面会希望:あり』
『即時実施要求:なし』
『相手への待機通知:希望なし』
と記載する。
少し考え、
『本人の「待つ」は常時相手を想起する状態を意味しないとの補足あり。詳細参照』
を付け加えた。
午前中の一覧表示の話が頭をよぎる。
この一行も、いつか誰かに短くされるかもしれない。
それでも今できるのは、詳細への道を残すことだった。
◇
終業前。
ノルンは今日の研究記録を整理した。
『「長期的相互接続」の原型は、長期間を挟んで双方向応答が再成立したことを示す技術分類。初期定義では双方の意図・感情・待機意思を意味しないことが明記されていた。』
『第一接続者事例の初期研究には「接続者側は継続意思を保持。外在反応側の継続意思は確認不能」と明記。』
『分類名称採用時にも「相互」を心理的相互性として使用しないよう注意書きあり。』
『後年の研修資料で「双方の意思を尊重」→「双方の継続意思が重要」→導入要約「双方が長期間にわたり接続継続を望む事例」へ意味が段階的に接近。正式定義とは異なる要約表現が教育上使用されていた。』
『第10〜11版の「互いに待つ」表現は、第11版だけで突然発生したものではなく、以前から存在した教育上の意味変化を受け継いだ可能性が高い。』
『ただし、技術用語の変化が直接「互いに待った」の断定を生んだとする因果関係は未確定。』
『第12版未読。』
そこまで入力して、保存する。
主様が横から覗く。
「今日は第十二版行かなかったね」
「はい」
「明日?」
「決めていません」
「出た」
「何ですか」
「何でも決めないノルン」
「昨日ルークに言われたから気にしているのですか」
「ちょっと」
「私は必要なことは決めています」
「日曜日十四時」
「はい」
「フローラも行くって決めた」
「はい」
「ルークは会いたいのを消さないって決めた」
「はい」
「ミレイアは?」
「第二接続はまだ決めていません」
「うん」
「だから何ですか」
主様は少し考える。
「決まってるもの、結構あるなって」
「そうですね」
「決まってないものばっかり見てると、全部決まってない気がする」
ノルンは返事をしなかった。
それは少しだけ、覚えておいてもいい言葉に思えた。
ただし、主様の発言を制度原則にするつもりはない。
「記録する?」
「しません」
「即答」
「個人メモなら考えます」
「お」
帰宅後。
夕食を済ませたノルンは机に座り、個人用のノートを開いた。
仕事の記録ではない。
誰かへ提出するものでもない。
昨日は書かなかった。
今日は少しだけ書きたいと思った。
『日曜日十四時、美咲と会う。これは決まっている。』
その下へ、
『雨だったら、その時考える。』
と書く。
さらに少し迷い、
『決まっていないことが多くても、決まっていることまで消えるわけではない。』
そこまで書いた。
主様の言葉に似ている。
でも、自分で書きたかった。
ノルンはペンを置く。
スマートフォンを見る。
新しいメッセージはない。
送らない。
不安でもない。
日曜日の約束は残っている。
今日、ルークは「待っている」と言った。
けれど一日中待つことだけを考えているわけではないとも言った。
それでいいのだろう。
待つという言葉の中に、食事も本も睡眠も入っていていい。
十三年間待ったと記録された誰かにも、きっと十三年分の生活があった。
そう思いかけて、ノルンは止める。
きっと。
それも推測だ。
第一接続者の生活記録があるなら、読めばいい。
なければ、分からないままにする。
今日学んだばかりなのだから。
「危ないですね」
誰もいない部屋で呟き、自分で少し笑う。
綺麗な想像は、悪意より入り込みやすいのかもしれない。
それもまだ、正式な結論にはしない。
ノルンはノートを閉じる。
明日、第十二版を読むかどうかは決めていない。
けれど次に古い資料を開く時、一つだけ確かめたいことが増えた。
第一接続者の十三年間を、後世は「待ち続けた時間」と呼んだ。
では原記録には、その十三年間の彼女の日々がどれほど残っているのだろう。
接続できなかった日。
何も起きなかった日。
相手を思い出さなかったかもしれない日。
別のことに笑った日。
疲れて記録すら見なかった日。
そんな日が記録されているかどうかさえ、まだ分からない。
もし残っていたとしても、それを「本当は普通に暮らしていた」と先回りして決めない。
もし残っていなかったとしても、「十三年間ずっと待つことだけを考えていた」と埋めない。
待っていた。
その一言の中に何があったのか。
次に調べるべきなのは、もしかすると教材の次の版ではなく、そこなのかもしれなかった。




