第九話 王太子殿下は、守ることと見張ることの違いを知りました
翌朝、スカーレット公爵家の正門前には、まだ王都の通りに人が増え始めるより早い時間から、一台の黒塗りの馬車が用意されていた。
扉にはスカーレット公爵家の紋章が刻まれ、御者台の左右には護衛騎士が二人ずつ控えている。普段の登城と比べて特別に物々しいわけではない。それでも、玄関広間から馬車へ向かうレオナルド・スカーレット公爵の表情を見れば、今日の王城行きがいつもの政務とは違うことは誰の目にも分かった。
「お父様」
階段の途中から声を掛けられ、レオナルドは足を止めた。
朝の支度を終えたフローラが、エレナを伴って立っている。
「どうした。まだ部屋にいてもよかったんだぞ」
「お見送りをしたくて」
フローラはそう答えたものの、その両手はドレスの前で重ねられたまま少し強く握られていた。父が今日、何のために王城へ向かうのかを知っているからだ。
自分を見張っていた者達を止めてもらうため。
そして、その命令を出しているであろうアルノルドへ、これ以上はやめてほしいと伝えるため。
昨日までなら、父がそこまで動くことにも罪悪感を覚えていたかもしれない。
王太子を困らせてしまう。
王家と公爵家の関係を悪くしてしまう。
自分が物語から外れたせいで、周囲まで巻き込んでしまう。
そんなことばかり考えていた。
けれど今は。
「お父様」
「うん?」
「私は、殿下を責めてほしいわけではありません」
レオナルドは何も言わず、娘の言葉を待った。
「ただ……やめてほしいのです。私が知らないところで、私のことをずっと見られているのは」
声は決して大きくない。
それでも、昨日よりははっきりしていた。
「分かっている」
レオナルドは短く答えたあと、娘の前まで戻ってきた。
「お前の気持ちを伝えに行く。私の怒りをぶつけに行くわけではない」
「……怒ってはいらっしゃるのですね」
「当然だ」
即答だった。
隣にいたエリザベートが、少しだけ苦笑した。
「あなた」
「分かっている。怒鳴り込んだりはしない」
「そうしてくださいませ」
妻に釘を刺され、レオナルドは少しだけ表情を緩めた。
それから改めてフローラを見る。
「ただし、お前が怖いと感じていることを『王太子殿下だから』という理由で我慢させるつもりはない」
「はい」
「お前が望まないことなら、やめてほしいと伝えていい」
昨日。
ノルンにも似たことを言われた。
選ぶのは自分。
怖いことは、怖いと言っていい。
フローラはゆっくり頷いた。
「お願いします」
「ああ」
レオナルドは娘の頭へ手を伸ばしかけ。
十五を過ぎた娘に子供の頃と同じことをするのはどうなのかと一瞬迷ったらしい。
その手が中途半端な位置で止まる。
フローラはそれに気づいて、少しだけ笑った。
「お父様」
「なんだ」
「昔のようにしてくださって構いません」
「……そうか」
レオナルドの大きな手が、銀色の髪をそっと撫でる。
「行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
公爵は家族に見送られ、馬車へ乗り込んだ。
重い扉が閉まり、やがて馬車は王城へ向かって動き始める。
フローラはその姿が門の向こうへ消えるまで見送っていた。
◇◇◇
「ノルン」
「はい!」
「手が止まってる!」
「申し訳ありません!」
同じ頃。
公爵邸の裏手では、今日も洗濯場が平常運転だった。
ノルンは大きな籠に乾いた布を仕分けている最中だったが、正門から出ていったレオナルドの馬車へ意識を向けすぎた結果、手元の作業が完全に止まっていた。
マーサから注意され、慌てて手を動かし始める。
「今日は朝からぼんやりしてるね」
隣でタオルを畳んでいるリナが言った。
「少し気になることがありまして」
「また人探し?」
「それもあります」
「それも?」
リナが怪訝そうな顔をしたので、ノルンはすぐに首を横へ振った。
「いえ、こちらの話です!」
「またそれだ」
最近のノルンは、使用人達から見ればかなり謎の多い少女になりつつある。
遠くから来た。
主様という人物に仕えている。
人を探している。
妙に力が強い。
時々、何もない方向を真剣に見つめる。
それでも仕事はよくするし、言われたことは素直に覚える。何より本人に悪意が全く見えないため、洗濯場ではすでに「少し変わった子」で済まされ始めていた。
ノルンにとってはありがたい話だった。
もっとも。
今日は本当に集中しづらい。
昨日フローラから聞いたこと。
王太子府による監視。
そして今朝、公爵が王城へ向かったこと。
この先、アルノルドがどう動くのか。
観察官としても重要だった。
「ノルン」
「はい?」
「また止まってる」
「あっ」
リナが笑った。
「本当に気になるんだね」
「はい」
ノルンは今度は誤魔化さなかった。
「でも」
両手を動かしながら続ける。
「私が勝手に何とかしてはいけませんので」
「何の話?」
「自分に言い聞かせています」
「よく分からないけど、大変そうだね」
「はい!」
「そこで元気よく返事するんだ」
リナが吹き出す。
ノルンも少し笑った。
主様から教えられた。
見守るとは、代わりに全てを解決することではない。
フローラには父親がいる。
母親がいる。
自分で言葉を伝えようとする意思もある。
だから。
今は。
任せる。
ノルンにとって。
実はそれが一番難しい。
◇◇◇
王城。
午前。
スカーレット公爵の来訪を知らされたアルノルドは、予定していた財務官との打ち合わせを後ろへずらし、王太子執務室で彼を迎えた。
通常なら、王国有数の公爵家当主との面会であっても、ここまで急な予定変更はしない。
しかし。
相手がフローラの父親だと聞いた瞬間。
アルノルドは、ほとんど反射的に時間を空けた。
「スカーレット公爵」
「殿下」
互いに形式通りの挨拶を交わす。
レオナルドの隣には家令も護衛もいない。
アルノルド側も。
同席しているのはセドリックだけ。
「突然の面会希望を受けてくれてありがとう」
「構いません。公爵から直接のお話ということでしたので」
「そうだ」
応接用の椅子へ向かう。
茶の用意はされている。
けれど。
誰も手を伸ばさない。
レオナルドが何を言いに来たのか。
アルノルドには。
ある程度。
分かっていた。
「フローラのことですね」
先に言ったのはアルノルドだった。
「その通りです」
「求婚について?」
「それも関係しておりますが、本日申し上げたいことは一つだけです」
レオナルドはまっすぐアルノルドを見る。
「我が家の周囲に配置している者を、全員引かせていただきたい」
室内の空気が変わった。
セドリックは口を挟まない。
アルノルドも。
すぐには答えなかった。
「……気づいていましたか」
「私ではない」
「では?」
「娘が知った」
アルノルドの顔から表情が消えた。
「フローラが」
「そうです」
「誰から」
「それを殿下へお教えするつもりはありません」
アルノルドの眉が僅かに動く。
けれど。
追及はしなかった。
レオナルドは続ける。
「重要なのは、誰が気づいたかではない。娘がその事実を知り、どう感じたかです」
「……何と」
聞く声が。
僅かに低い。
レオナルドは娘の言葉を思い出した。
「やめてほしい、と」
アルノルドの指先が動きを止めた。
「怖いとも言っています」
さらに。
沈黙。
「私が?」
「はい」
以前。
セドリックにも言われた。
フローラは自分を怖がっている。
アルノルド自身も。
ようやく。
認め始めていた。
でも。
直接。
父親の口から。
娘の言葉として聞く。
その重さは違った。
「殿下は」
レオナルドの声は冷静だった。
「娘を傷つけたいわけではないのでしょう」
「当然です」
即答だった。
「フローラを守りたい」
「それも分かっています」
「なら」
アルノルドは少し前へ身を乗り出した。
「安全確認だけです。屋敷へ入ることも、使用人へ接触することも禁じています。今は外出した場合に危険がないかだけ」
「娘は、それもやめてほしいと言っています」
言葉を重ねることを許さない。
アルノルドの口が閉じた。
「殿下」
「……はい」
「守ることと」
レオナルドは間を置いた。
「相手が知らないところで見張ることは、同じではありません」
アルノルドは何も言わない。
「もちろん、王太子殿下という立場であれば、護衛や警戒が必要になる場面はあるでしょう。正式に婚約し、王家へ迎えることになれば、娘にも相応の警護は必要になる」
それから。
少し声を落とす。
「ですが、今は違う」
「……」
「娘は殿下と婚約していない」
「分かっています」
「いいえ」
レオナルドは静かに否定した。
「頭では理解されていても、行動が追いついておられない」
アルノルドの顔が強張る。
「娘は殿下の所有物ではありません」
その言葉は。
思っていた以上に。
重かった。
セドリックは横で息を殺している。
「私は」
アルノルドがようやく口を開く。
「所有しているつもりなど」
「ないでしょう」
レオナルドはすぐに認めた。
「だからこそ申し上げています」
アルノルドが顔を上げる。
「殿下は、自分の行為を愛情や保護だと思っている。だから悪意なく続けてしまう」
「……」
「悪意がないことと、相手が怖くないことは別です」
昨日。
クラリスについて。
フローラも似たことを考えた。
善意だから怖い。
善意だから止まらないかもしれない。
アルノルドは知らない。
けれど。
今。
父親の言葉として。
同じ意味を突きつけられている。
「フローラは」
アルノルドの声が少し掠れた。
「私に、もう近づいてほしくないと言っていますか」
レオナルドはすぐには答えなかった。
「今は距離が欲しい、と」
「……そうですか」
「それ以上については」
公爵は娘の父として、はっきり言う。
「娘自身が決めます」
アルノルドは目を伏せた。
それを決めるのはフローラ。
最近。
何度も。
言われている。
セドリックから。
レオナルドから。
おそらく。
フローラ本人も。
ずっと。
そう思っている。
「私は」
アルノルドは自分の両手を見る。
「ずっと、フローラが私を選ぶと思っていました」
レオナルドは黙って聞いた。
「幼い頃から一緒にいた。私が好きだった。彼女も……少なくとも、嫌われてはいないと思っていた」
正直な言葉だった。
「だから」
少し笑う。
自嘲に近い。
「待つ必要なんて、考えたことがなかった」
「殿下」
「欲しいと思ったら、近づけばいいと思っていた。知りたいと思ったら、知ればいい。守りたいと思ったら、守ればいい」
セドリックが静かにアルノルドを見る。
「それで喜んでくれると思っていました」
レオナルドは。
そこで初めて。
少しだけ表情を和らげた。
「殿下」
「はい」
「お気持ちそのものを否定するつもりはありません」
アルノルドが顔を上げる。
「娘を大切に思ってくださっていることは、父親としてありがたいと思っています」
「……」
「しかし」
続く言葉は明確だった。
「大切にしたいなら、娘が嫌がっていることをやめるところから始めてください」
長い沈黙。
アルノルドは目を閉じた。
それから。
深く。
息を吐く。
「セドリック」
「はい」
「公爵邸周辺の者を」
一度。
言葉が止まる。
たった一言。
全部引け。
それだけ。
なのに。
今までのアルノルドにとって。
それが。
ひどく難しい。
何をしているか分からなくなる。
誰と会っているのか分からない。
危険があっても。
すぐに知れないかもしれない。
でも。
フローラは。
それを望んでいる。
「全員」
アルノルドはゆっくり続けた。
「引かせてくれ」
セドリックの目が僅かに大きくなる。
「安全確認の者も、でしょうか」
「全員だ」
「承知致しました」
セドリックが頭を下げる。
アルノルドは。
少しだけ。
苦しそうに笑った。
「これで」
レオナルドを見る。
「フローラは安心できますか」
「少なくとも」
公爵は答える。
「一つ、怖いことは減るでしょう」
「一つ」
「はい」
全部ではない。
その事実も。
アルノルドは受け止めた。
「……分かりました」
◇◇◇
会談が終わった後。
スカーレット公爵が退室しても、アルノルドはしばらく椅子から動かなかった。
セドリックも急かさない。
部屋には、誰も手をつけなかった茶だけが残されている。
「セドリック」
「はい」
「全部、止めた」
「はい」
「公爵邸の外も」
「はい」
「これから」
アルノルドは机へ戻る。
「本当に、何も分からなくなる」
「そうですね」
「フローラが朝、何をしていたのか」
「分かりません」
「今日、誰と会ったのか」
「分かりません」
「どんな手紙を読んだのか」
「分かりません」
「何を食べたのか」
「分かりません」
「今、笑っているのか」
セドリックは少しだけ間を置いた。
「それも」
「分からない」
自分で言った。
アルノルドは机の前へ座る。
「……怖いな」
ぽつりと。
初めて。
そんな言葉が落ちた。
「殿下が?」
「うん」
アルノルドは笑わなかった。
「知らないのが」
今まで。
フローラが感じていた怖さとは。
種類が違う。
それでも。
自分が情報を手放すことで。
今まで感じたことのない不安が生まれていた。
「何かあったらどうしようと思う」
「はい」
「知らない人間と会っていたら」
「はい」
「私以外の誰かを」
言葉が止まる。
そこだけ。
まだ。
飲み込みづらい。
「好きになったら」
「それも、殿下には止められません」
「……分かっている」
以前なら。
即座に否定した。
でも。
今は。
苦しくても。
分かっていると言った。
「セドリック」
「はい」
「謝りたい」
「フローラ様へ?」
「うん」
顔を上げる。
「でも、会いに行ったら」
「距離を置いてほしいという希望に反します」
「手紙なら?」
セドリックは少し考えた。
「一通だけなら」
「一通」
「返事を求めない」
「……うん」
「会いたいとも書かない」
「難しいね」
「頑張ってください」
セドリックは珍しく少し笑った。
アルノルドも。
ほんの僅かに。
笑った。
「文章を見てくれる?」
「もちろんです」
机へ新しい便箋を置く。
アルノルドは筆を取った。
最初。
『愛するフローラへ』
書きかけ。
止まる。
「セドリック」
「はい」
「これは」
「やめておきましょう」
「まだ何も言ってない」
「顔で分かります」
アルノルドは不満そうに消す。
次。
『フローラ、君が怖がっていると聞いた』
止まる。
「これは?」
「最初から重いですね」
「……難しい」
「謝罪から始めてはいかがですか」
アルノルドは考える。
そして。
ゆっくり。
書き始めた。
『フローラへ。
これまで、君が嫌がっていることに気づかず、自分がしたいことばかりを押しつけていました。ごめんなさい。』
そこで止まる。
「……ごめんなさい」
声に出した。
多分。
アルノルドは。
フローラに対して。
こういう意味で謝ったことが。
一度もない。
◇◇◇
午後。
スカーレット公爵邸の外。
ノルンは洗濯物を干しながら、ふと顔を上げた。
「……あれ?」
午前まで。
あった。
気配。
二人。
今。
いない。
認識阻害。
違う。
隠密。
違う。
本当に。
いない。
「ノルン」
「はい」
「今度は何?」
隣でシーツを広げていたリナが聞く。
「いなくなりました」
「何が?」
ノルンは一瞬考え。
今回は。
果物では。
無理。
「……気になっていたものが」
「ふうん」
リナはそこまで気にしない。
ノルンは心の中で。
少し。
安心した。
フローラ。
父。
動いた。
そして。
おそらく。
アルノルド。
止めた。
自分が。
何もしなくても。
変わった。
「主様」
心の中で小さく呟く。
「見守るだけでも、ちゃんと動くのですね」
当然。
返事はない。
でも。
少し。
分かった気がした。
◇◇◇
夕方。
王城から戻ったレオナルドは、そのままフローラの部屋へ向かった。
エリザベートもいる。
フローラは父の顔を見るなり立ち上がった。
「お父様」
「話してきた」
「……はい」
「監視の者は全員引かせると、殿下ご自身が約束された」
フローラの目が大きくなる。
「全員?」
「ああ」
「本当に?」
「少なくとも、殿下はそう命じた」
フローラはその場で。
すぐ。
笑えなかった。
むしろ。
少し。
戸惑っていた。
アルノルドが。
やめた。
自分のために。
いや。
自分が嫌だと言ったから。
「怒っていらっしゃいましたか」
思わず聞く。
レオナルドは少し考えた。
「怒ってはいなかった」
「では」
「苦しそうではあった」
フローラの胸が僅かに痛む。
アルノルドを嫌いなわけではない。
幼い頃。
一緒に遊んだ。
助けてもらったこともある。
優しかった。
笑った。
大切な思い出も。
たくさんある。
ただ。
原作で知っている未来が。
そして。
現実でも少しずつ現れ始めた執着が。
怖かった。
「殿下は」
レオナルドが続ける。
「お前を怖がらせたいわけではないと仰っていた」
「……はい」
「ただ、守るという行動と、お前が守られていると感じることは違うと伝えた」
フローラは静かに頷く。
「お父様」
「なんだ」
「ありがとうございます」
「礼を言うことではない」
「それでも」
フローラは少し笑った。
「ありがとうございます」
エリザベートが娘の肩へ手を置く。
「少し安心できそう?」
「はい」
今度は。
素直に。
言えた。
◇◇◇
それから一時間ほど経った頃。
王城から。
一通の手紙が届いた。
差出人。
アルノルド・エル・タリウス。
受け取った瞬間。
フローラの指は。
少し。
強張った。
エレナが心配そうに見る。
「開けますか?」
「……はい」
逃げない。
でも。
無理もしない。
自分で選ぶ。
フローラは封を切った。
便箋。
一枚だけ。
いつもなら。
もっと長い。
花も。
贈り物も。
ない。
書かれていたのは。
簡単な言葉だった。
『フローラへ。
これまで、君が嫌がっていることに気づかず、自分がしたいことばかりを押しつけていました。ごめんなさい。
公爵邸の周囲に置いていた者達は全員引かせました。今後、君の許可なく誰かに君の行動を調べさせることもしません。
会いたいとは書きません。
返事もいりません。
今は、君が安心できるようにします。
アルノルド』
フローラは。
最後まで。
二度読んだ。
そして。
三度目は。
途中で。
読むのをやめた。
「お嬢様?」
エレナが声を掛ける。
フローラは。
手紙を。
そっと机へ置いた。
「少し」
胸元へ手を置く。
「驚きました」
「悪い内容でしたか」
「いいえ」
首を横へ振る。
「むしろ」
考える。
「初めてかもしれません」
「何がでしょう」
「殿下が」
一度。
手紙を見る。
「私から何も求めなかったこと」
会いたい。
返事がほしい。
顔を見たい。
許してほしい。
何も。
書いていない。
「ノルンさんが」
小さく。
思い出す。
『人は、何を選ぶかまで最初から固定されているわけではありません』
物語のアルノルドなら。
どうしただろう。
たぶん。
監視を完全にはやめない。
謝りながら。
会いに来る。
君を愛しているから。
君を守るため。
そう言う。
でも。
今。
アルノルドは。
物語と違うことをした。
「……殿下も」
フローラが小さく笑う。
「物語通りではないのですね」
エレナには意味が分からない。
それでも。
フローラの表情が。
昨日より。
さらに少し。
柔らかくなったことは。
分かった。
◇◇◇
その夜。
管理領域。
「ただいま戻りました!」
「おかえり、ノルン」
いつものやり取り。
ノルンは白い髪を揺らしながら主様の前へ向かった。
「本日のご報告です!」
「うん」
「王太子府の監視要員が、全員撤収しました」
主様の手が止まる。
「全部?」
「はい。午後には一人も確認できませんでした」
「フローラは?」
「お父様が王城から戻られ、正式に撤収を確認されたそうです」
ノルンは少し嬉しそうだった。
「さらに、アルノルド殿下より謝罪の手紙が届いております」
「内容は?」
「私は読んでおりません」
「うん」
「フローラ様がお話しされた範囲では、今後は許可なく行動を調べない、会うことも返事も求めないと」
主様が少しだけ目を細める。
「変わり始めたね」
「はい」
「ノルンはどう思う?」
聞かれ。
ノルンは少し考える。
「まだ」
慎重に。
「執着そのものがなくなったわけではないと思います」
「そうだね」
「でも」
今日。
消えた監視の気配。
思い出す。
「嫌だと言われたことを、やめられた」
ノルンは少し笑った。
「それは、とても大きいと思います」
「僕もそう思う」
主様も笑う。
ノルンは観察記録を開いた。
『関連注意対象:アルノルド・エル・タリウス』
公爵邸周辺の監視要員、全員撤収。
本人への無断調査を今後行わない旨を謝罪文にて表明。
直接接触、要求なし。
執着傾向は継続観察が必要。
ただし、自身の行為が対象者へ恐怖を与えていることを認識し、行動を抑制する兆候あり。
そこまで書いたあと。
ノルンは少し考え。
一文を付け加えた。
『フローラ様も、アルノルド殿下が物語とは違う行動を選んだことに気づいた様子』
主様がその一文を見る。
「いい観察だね」
「ありがとうございます!」
「物語から外れているのは、転生者だけじゃない」
「はい」
ノルンは。
そこ。
気づく。
フローラ。
未来。
変える。
その影響。
アルノルド。
変わる。
クラリス。
変わる。
レオナルド。
動く。
物語。
一人。
主人公。
だけ。
作る。
もの。
ではない。
主様が言っていた。
世界は。
そこで生きる人達の。
選択。
積み重ね。
「主様」
「何?」
「私」
少しだけ。
胸を張る。
「見守るということが、少し分かってきた気がします」
主様は優しく笑った。
「それはよかった」
「はい!」
「でも」
「はい?」
「まだ仕事は終わってないよ」
ノルンが首を傾げる。
「フローラ様の観察でしょうか」
「それもある」
主様は机の上。
別の世界記録へ。
目を向けた。
「さっき」
少し。
表情が変わる。
「おかしな記録を見つけた」
ノルンの顔から。
笑みが少し消える。
「おかしな記録?」
「うん」
主様は一冊の記録本を開いた。
タリウス王国。
王都。
フローラとは違う場所。
そこに。
一人の名前。
淡く。
光っている。
「神様達からの報告では」
主様が言う。
「今回の誤転生者は、一人だったよね」
「はい」
ノルンは即答した。
「フローラ・スカーレット様お一人と」
「僕も、そう聞いていた」
でも。
世界記録。
異常。
一人。
いる。
「ノルン」
「はい」
「明日」
主様の指が。
その名前。
止まる。
「もう一人、見に行ってくれる?」
ノルンは。
数秒。
何も言わなかった。
そして。
恐る恐る。
「主様」
「うん」
「まさか」
嫌な予感。
「ジジ様達」
主様も。
苦笑。
「また人数を間違えてるかもしれない」
管理領域へ。
長い沈黙。
落ちた。
「……」
「……」
ノルンは。
ゆっくり。
両手で。
顔。
覆いたくなるのを。
我慢した。
「主様」
「何?」
「私の苦労は」
一度。
天井。
見る。
「いつ終わるのでしょうか」
主様は少し考えた。
「……ジジ様達が、やらかさなくなったら?」
ノルンは。
その可能性を。
真剣に。
考えた。
「それ」
一度。
主様を見る。
「終わらないのでは?」
「僕も、今そう思った」
静かな管理領域に。
今度は。
二人分の。
深いため息が。
ほとんど同時に響いた。
フローラ・スカーレット。
第一の転生者。
危険度、極めて低い。
本人の意思を尊重しながら、継続観察。
アルノルド・エル・タリウス。
監視撤収。
謝罪。
改善兆候あり。
そして。
新たに浮かび上がった。
もう一人の。
世界記録上、本来の人生から明らかに外れた者。
翌日。
ノルンは。
その人物を探すため。
再び王都へ向かうことになる。
神様達の報告では。
転生者は一人。
だったはずなのに。
ノルンの苦労は。
やはり。
まだ。
終わりそうになかった。




