第十話 神様達の報告より、転生者が一人多いのですが
翌朝、スカーレット公爵邸の庭園には、夜の間に降ったわずかな雨の名残が残っていた。
石畳の隙間には小さな水滴が光り、手入れの行き届いた植え込みからは湿った土と草の匂いが漂っている。空はすでに晴れ始めており、東から昇った陽射しが雲の切れ間を抜け、噴水の水面へ細かな光を散らしていた。
フローラは自室の窓辺に立ち、昨日アルノルドから届いた手紙をもう一度読んでいた。
昨日のうちに何度も目を通したはずなのに、朝になっても机の引き出しへしまう気にはなれなかった。
『これまで、君が嫌がっていることに気づかず、自分がしたいことばかりを押しつけていました。ごめんなさい』
短い。
アルノルドから届く手紙としては、本当に短かった。
以前なら、自分の気持ちを何頁にもわたって綴っていた。
会いたい。話したい。心配している。愛している。
そうした言葉が、これでもかというほど並んでいた。
けれど今回は違う。
『会いたいとは書きません』
『返事もいりません』
『今は、君が安心できるようにします』
それだけだった。
「……本当に、何も求めていないのですね」
フローラは小さく呟き、読み終えた便箋を机の上へ置いた。
胸の奥にあるものは、単純な喜びではない。
安心。
戸惑い。
申し訳なさ。
それから、ほんの少しだけ懐かしさ。
アルノルドは、昔からああではなかった。
幼い頃は、もっと普通に笑っていた。
フローラが転んでも勝手に抱き上げたりはせず、先に手を差し出してくれた。お菓子を一つしかもらえなかった時は半分に分け、庭で遊んでいて泥だらけになれば、一緒に叱られた。
いつからだったのだろう。
アルノルドの「大切にしたい」が、「全部知りたい」へ変わったのは。
そして、自分が前世を思い出し、物語の未来を知ってしまってから、その一つ一つが原作に書かれていた「愛情」と重なり始めた。
だから怖くなった。
優しい言葉すら、何かの前触れに思えた。
「お嬢様」
扉の近くからエレナの声がして、フローラは振り返った。
「はい?」
「ローゼン伯爵令嬢からお手紙が届いております」
「クラリスから?」
「はい」
フローラの表情が少し明るくなる。
差し出された封筒を受け取り、すぐに封を切った。
今度の手紙は前回より短い。
『フローラへ。
お返事ありがとう。
お友達でいてくれると言ってもらえて、とても安心しました。
今度のお茶は、本当に私とあなたとお菓子だけにしましょう。
殿下も、兄も、父も禁止です。
ただし、猫のミルクだけは参加を許してくださいませ。
あなたが落ち着いた頃に、また日を相談しましょう。
クラリス』
最後まで読んだところで、フローラは思わず笑った。
「ミルク」
「ローゼン伯爵令嬢の白猫ですね」
「はい。いつもお菓子を狙ってくる子です」
「では、二人きりではございませんね」
「そうですね」
エレナも少しだけ笑った。
フローラは手紙を丁寧に畳む。
昨日まで、何かを断れば全部失うと思っていた。
アルノルドを拒否すれば友人を失う。
家同士の関係を壊す。
王家を敵に回す。
物語を壊す。
そう思っていた。
でも、実際には違った。
クラリスは友人でいてくれた。
父と母も支えてくれた。
アルノルドも監視をやめ、謝った。
世界は今日も普通に続いている。
「ノルンさん」
フローラは、ふと窓の外へ目を向けた。
「今日は来ていないのでしょうか」
「洗濯場ですか?」
「はい」
「朝からお見かけしておりません」
その答えに、フローラは少しだけ寂しさを覚えた。
そして、その感覚に自分で驚いた。
まだ三日ほどしか一緒に話していない。
それなのに、もういて当然のように思い始めていた。
「お仕事でしょうか」
「人探しの方かもしれませんね」
「そう、ですね」
フローラは窓の外を見たまま頷いた。
昨日までのノルンは、臨時雇いの洗濯係で、少し変わった少女だった。
でも今は、転生者観察官。
世界の外側から、自分達を見守る人。
ならば、きっと。
フローラ以外にも、見つけなければならない人がいるのだろう。
◇◇◇
その頃。
ノルンはスカーレット公爵邸とは反対側に位置する王都西区を歩いていた。
今日は洗濯場の仕事ではないため、臨時雇いとしての前掛けはつけていない。ただし、茶色い髪とそばかす、灰色のワンピースという町娘姿はそのままだ。
肩には、いつもの小さな鞄を提げている。
その中には白い杖、双眼鏡、観察記録、着替え、保存食、薬、予備の道具類など、主様が一度「その大きさの鞄に入れる量ではないよね」と苦笑したほど大量の物が収められていた。
「主様」
ノルンは市場を歩きながら、小さな連絡石へ声を掛けた。
『聞こえているよ』
「現在、世界記録に表示された地点へ向かっております」
『うん』
「本当に、もう一人なのでしょうか」
『僕にもまだ分からない。ただ、普通ではない』
「どの辺りがでしょう?」
『記録のズレ方だね』
ノルンは人通りの多い道を避け、市場の端へ寄った。
「フローラ様とは違うのですか?」
『かなり』
昨夜、主様が見つけた第二の異常。
フローラの場合は、本来ならアルノルドの求婚を受けて婚約するはずだった流れから、明確に外れたことで観察対象として浮かび上がった。
けれど今回の人物は、もっと以前から世界記録と違う行動を積み重ねていた。
『対象の名前はカイル』
「カイル」
『姓はない』
「平民ですか?」
『現在は冒険者』
「年齢は?」
『二十五歳』
「男性ですね」
『うん』
ノルンは通行人の邪魔にならない場所で足を止めた。
「異常はいつ頃から?」
『六歳』
「六歳?」
『本来、カイルは王都西区の貧民街で育ち、十五歳で冒険者になる。その後は順当に実績を積み、二十三歳でBランクへ上がる予定だった』
「それだけなら普通ですね」
『うん』
「では、何が変わったのでしょう」
『六歳の時から読み書きを始めた』
ノルンは少し首を傾げた。
「珍しくはありますが、それだけなら異常とまでは」
『そう。七歳で算術を覚えて、八歳で王国の主要街道を暗記してる』
「……少し怪しくなってきました」
『九歳で、冒険者ギルドへ将来有望な魔物素材の価格推移について聞きに行ってる』
「九歳で?」
『うん』
さすがにノルンの足が止まった。
「それは、かなり変です」
『だよね』
主様の声にも疲れが混じっていた。
「さらにありますか?」
『十歳で、十年後に値上がりする薬草を大量に集め始めた』
「……」
『十二歳で、本来この世界に存在しない料理を作って売ってる』
「……」
『十三歳で簡易石鹸』
ノルンはしばらく言葉を失った。
「主様」
『うん』
「これは、かなり分かりやすいですね」
『僕もそう思う』
ノルンは額へ手を当てた。
「なぜ今まで気づかなかったのでしょう」
『本人が、世界の流れを大きく壊す行動をしていなかったからだろうね』
「なるほど」
世界管理者といっても、全ての人間の生活を一日中細かく監視しているわけではない。
そんなことをすれば、そもそも管理する側が持たない。
世界記録の大きな流れから外れる者や、世界そのものへ強い影響を与える存在が現れた時に異常として浮かび、それを確認するのがノルン達の仕事だ。
「でも、今回なぜ見つかったのでしょう」
『フローラの記録を精査したからだと思う』
「同じ世界だから?」
『そう。同時期に起きている関連記録まで範囲を広げた時に引っかかった』
ノルンは小さく息を吐いた。
「ジジ様達」
『うん』
「やはり、人数を間違えておられたのでしょうか」
主様はすぐには答えなかった。
『まだ決めつけないでおこう』
「はい」
『神様達にも、一応……本当に一応、事情があるかもしれない』
「主様」
『何?』
「かなり信用されていないように聞こえます」
『過去の実績がね』
遠い声だった。
ノルンは主様の苦労を察し、それ以上は何も言わなかった。
◇◇◇
王都西区の冒険者街は、スカーレット公爵邸周辺とはまるで違う空気に包まれていた。
古い石造りの建物が密集し、通りの両側には武器屋、防具屋、薬草店、酒場、宿屋などの看板が並んでいる。昼前だというのに酒場からはすでに笑い声が響き、大剣を背負った冒険者が荷車の横を通り抜け、道端では新人らしい若者達が薬草の束を前に値段交渉をしていた。
汗と鉄と酒、それから煮込み料理の香り。
貴族街とは全く違う。
けれど、ここにも生活がある。
ノルンは歩きながら、主様から以前言われたことを思い出した。
『観察対象だけを見るんじゃなくて、まずその世界を歩いて』
『はい』
『その人が、どんな場所で暮らしているのか知ること』
転移して屋根の上からカイルだけを観察する方が早い。
けれど、それではカイルがこの街でどう生きているのかまでは見えない。
だからノルンは歩く。
市場の匂いを感じ、冒険者達の声を聞きながら、カイルの宿泊先である酒場兼宿屋を探した。
「銀鹿亭……あ」
通りの奥に、銀色に塗られた鹿の角の看板が揺れていた。
「あそこですね」
木製の扉を押して中へ入る。
昼前にもかかわらず店内はかなり賑わっていた。
冒険者達が食事を取り、酒を飲み、数人でカードを囲んでいる。厨房と客席の間では大柄な女性が忙しそうに皿を運んでいた。
「いらっしゃい! 飯? 宿?」
「人を探しております!」
ノルンが元気よく答える。
一瞬。
店内の何人かがこちらを見た。
『ノルン』
連絡石から、主様の小さな声がする。
「あ」
ノルンも小声へ戻った。
「……人を探しております」
「誰だい?」
「カイルさんです」
女店主は顎で店の奥を示した。
「あそこ」
「ありがとうございます」
ノルンが視線を向ける。
一人の男がいた。
二十五歳。
短い茶髪。
使い込まれた革鎧。
剣は壁へ立て掛けてある。
見た目だけなら、どこにでもいそうな冒険者だった。
ただし。
目の前の机に広げているものが少し違う。
王国の地図。
何枚もの紙。
そこには品物の名前と数字が細かく並んでいる。
ノルンはすぐには近づかなかった。
少し離れた空席へ座る。
「注文は?」
「おすすめをお願いします!」
「昼なら煮込みとパンだよ」
「それでお願いします!」
客を装いながら料理を待つ。
もっとも、ノルンの耳はしっかりカイルの呟きを拾っていた。
「銅貨十二枚……いや、違うな。三か月後には北部街道が一度閉まる。それなら塩と乾燥肉は上がる」
ノルンは表情を変えなかった。
北部街道は三か月後、大雨による増水で橋が一部崩落し、しばらく通行不能になる。
まだ王国の誰も知らない未来だった。
「買い占めはまずいな。生活に影響出るし」
ノルンの意識が少し変わる。
未来を知っている。
けれど、それを最大限利用しようとしているわけではない。
「在庫を少し増やす程度でいいか。橋が落ちた後にギルドへ迂回路の情報を流せば、犠牲も減るだろ」
金儲けだけではない。
カイルは紙に書いた数字の一部を消した。
「はいよ」
目の前に煮込み料理が置かれる。
「ありがとうございます!」
ノルンは一口食べた。
肉と豆を長時間煮込んだらしい料理は、少し濃い味付けだったが美味しかった。
「……美味しいです」
『ノルン』
「はい?」
『仕事』
「あ」
ノルンは小さく返事をした。
「でも、食事も大切です」
『そこは否定しないけどね』
主様の声に少しだけ呆れが混じる。
ノルンは食事を続けながら、カイルの様子も見る。
やがてカイルは地図と紙を片づけ、懐へ手を入れた。
そこから出てきたものを見た瞬間。
ノルンのスプーンが止まった。
薄い黒色の板。
「……主様」
『何?』
「あれを」
主様はノルンの視界を共有する。
数秒。
沈黙。
『……』
「主様?」
『ノルン』
「はい」
『あれ、この世界の物じゃないよね』
「ですよね」
カイルが指で黒い板へ触れた。
画面が光る。
そこへ浮かんだ文字。
日本語。
数字。
ノルンにも、その物品が何であるかは世界記録から判断できた。
スマートフォン。
前世世界の携帯端末だった。
「主様」
『うん』
「ジジ様達、人数だけでなく荷物まで間違えたのでしょうか」
『……その可能性が出てきたね』
ノルンは頭が痛くなるような気がした。
通常の転生では魂だけが移動する。
前世で所有していた物品が、そのまま次の世界へ移動することなどない。
「特典でしょうか」
『僕は許可してない』
「ジジ様達が?」
返事がない。
「主様?」
『考えたくない』
珍しく弱い声だった。
ノルンが少し心配になった、その時。
カイルがスマートフォンを操作する。
画面に電子書籍らしきものが表示された。
そこに書かれていたタイトルを見て。
ノルンの目が大きくなる。
『銀花の王妃は永遠の愛を誓う』
フローラが前世で読んでいた物語。
この世界を描いていた小説。
同じ題名。
ノルンは静かにスプーンを置いた。
「これは……ほぼ確定ですね」
『うん』
主様の声にも諦めが混じっていた。
『ほぼじゃなくて、かなり確定に近い』
◇◇◇
食事を最後まできちんと食べ、代金を払ってから。
ノルンはカイルの席へ向かった。
「すみません」
「ん?」
カイルが顔を上げる。
茶色の瞳がノルンを見る。
表情は穏やかだったが、見知らぬ人間へ向ける程度の警戒はある。
「カイルさんでしょうか」
「そうだけど」
「少し、お話ししてもよろしいでしょうか」
「俺と?」
「はい」
カイルはノルンの姿を上から下まで見る。
茶色い髪。
そばかす。
灰色のワンピース。
冒険者にも商人にも見えない。
「何か依頼?」
「違います」
「借金取り?」
「違います」
「昔の女?」
「違います!」
ノルンが即座に否定すると、カイルは吹き出した。
「冗談だよ」
「……」
「真面目だな」
「よく言われます」
「で、何?」
ノルンは一瞬考えた。
いきなり「転生者ですね」と聞くのはやめる。
フローラの時に学んだ。
まず本人の話を聞く。
「少し変わった質問をしてもよろしいでしょうか」
「内容次第だな」
「こちらへ座っても?」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
向かいの椅子へ座り、周囲に聞かれない程度まで声を落とす。
「この世界で、生きづらいと感じたことはありますか」
カイルの目が僅かに変わった。
「何でそんなこと聞くんだ?」
「人を探しています」
「俺みたいな?」
「その可能性があります」
カイルは笑みを残している。
ただし、警戒は確実に強くなった。
「宗教関係?」
「違います」
「王国の秘密機関?」
「違います」
「じゃあ」
カイルは少し身を乗り出した。
「異世界管理局?」
ノルンの動きが止まった。
「……」
カイルが口元を上げる。
「当たり?」
「なぜ、その発想になるのですか」
珍しくノルンの声に動揺が混じった。
「そりゃ、転生ものならそのうちそういうのが来るかなって」
ノルンは心の中で主様を呼ぶ。
『聞いてるよ』
「……」
『確定でいいと思う』
主様の声が疲れている。
ノルンも同意だった。
「カイルさん」
「何?」
「日本」
たった一言。
カイルの笑みが消えた。
「……どこで、それを」
「知っています」
「何を?」
「あなたが以前、日本で生きていた可能性があることを」
数秒。
カイルは何も言わなかった。
周囲では酒場の喧騒が続いている。
なのに、二人の席だけ空気が変わったようだった。
「誰だ」
声が低くなる。
「私はノルンと申します」
「それだけ?」
「今は」
カイルはノルンをじっと見つめた。
しばらくして、小さく息を吐く。
「まあ、今更怖がるようなことでもないか」
意外な反応だった。
「驚かれないのですか」
「驚いてるよ」
カイルはスマートフォンを伏せた。
「でも、二十五年ずっと一人だったからな」
その言葉で、ノルンの表情が変わる。
「前世を覚えている方が?」
「そう」
「いつからですか」
「生まれた時から」
フローラとは違う。
彼女は十二歳で記憶を思い出した。
カイルは最初から全てを覚えていた。
「最初は最悪だったよ」
カイルが苦笑する。
「頭の中だけ大人なのに、身体は赤ん坊。喋れないし、歩けないし、トイレも自分じゃできない」
「……それは大変ですね」
「だろ?」
軽く話している。
けれど、その裏には二十五年という長い時間がある。
「喋れるようになって、文字を覚えて、そのうちこの世界が本で読んだ世界だと気づいた」
「『銀花の王妃は永遠の愛を誓う』」
ノルンが題名を口にすると、カイルの目が細くなった。
「そこまで知ってるのか」
「はい」
「じゃあ……フローラも?」
ノルンは答えない。
その沈黙だけで、カイルは何か察したようだった。
「いるんだな」
「それについては、ご本人の許可なくお答えできません」
ノルンは真面目に答えた。
カイルは少し驚き、それから笑う。
「ちゃんとしてるな」
「当然です」
「じゃあいい」
あっさり引いた。
無理に追及しない。
その反応を見て、ノルンの中でカイルに対する警戒がほんの少し下がった。
「カイルさんは、この世界を物語だと思っていますか」
「昔はな」
「昔?」
「子供の頃」
カイルは窓の外を見た。
「正直、ゲームみたいな感覚があった」
「小説では?」
「そういう意味じゃなくて、攻略情報を知ってるみたいだったってこと」
未来を知っている。
値上がりする商品を知っている。
誰が死ぬのか知っている。
どこで事件が起こるのか知っている。
「使えば、簡単に稼げる」
「実際、使われましたね」
ノルンが言うと、カイルがこちらを見る。
「見てたのか?」
「少しだけ」
「怖いな」
「人を探しておりましたので」
「なるほど」
カイルは笑った。
「でも、買い占めはされなかった」
ノルンが続ける。
カイルの表情が少しだけ変わった。
「生活できなくなるやつが出るからな」
「北部街道の橋についても、ご存じですね」
「知ってる」
「被害を減らすつもりですか」
「できる範囲では」
「なぜ?」
カイルはしばらく考えた。
「昔は、知ってるなら得しようって思ってた」
薬草。
料理。
石鹸。
商売。
前世知識を使って金を得たこともある。
「でも、この世界で長く生きたら、本じゃなくなるんだよ」
窓の外を一人の冒険者が通り過ぎていく。
「母親がいた」
「はい」
「もう死んだけど」
軽く言った。
でも、目が少し遠くなる。
「友達もできた。冒険者仲間もいる。怪我したら普通に痛いし、人が死んだら戻らない」
ノルンは黙って聞いていた。
「だから最近は、イベントとか思わないようにしてる」
「最近?」
「完全には無理だけどな。原作で知ってる出来事が来たら、どうしても『あ、これ知ってる』ってなる」
「はい」
「でも、知ってるからって人が死ぬのを眺めてるのも変だろ」
ノルンはカイルをしっかり見る。
危険度は低い。
そう思う。
まだ完全に判断するには早いが、少なくとも世界を玩具として扱っている様子はない。
「カイルさん」
「何?」
「一つ、大切なことをお伝えします」
カイルが少し身構える。
「あなたが前世の知識を使うこと自体を、私は止めません」
「……は?」
「料理を広めることも、石鹸を作ることも、商売をすることも。未来を知って人を助けることも、それだけなら問題ありません」
カイルはしばらく言葉を失った。
「……お前、本当に異世界管理局?」
「違います」
「じゃあ何なんだよ」
本人がここまで転生について認めている。
なら、こちらも役割くらいは明かしてよい。
ノルンはそう判断した。
「私は、転生者観察官です」
カイルが止まる。
「……そのまんまだな」
「はい」
「誰に雇われてる?」
「主様です」
「誰?」
「世界管理者です」
「神?」
「違います」
「ややこしいな!」
思わず声が大きくなり、周囲の客がちらりと見る。
カイルは慌てて声を落とした。
「悪い。神じゃないの?」
「神様達とは別です」
「じゃあ、何で俺を探してるんだ」
ノルンは少し言いにくそうにした。
「その……神様達が、少し手違いを起こされた可能性がありまして」
カイルが黙る。
数秒後。
「転生ミス?」
「……はい」
カイルは吹き出した。
「マジか」
「申し訳ありません」
「何でお前が謝るんだよ」
「主様も大変なので」
「もしかして、お前らも被害者側?」
ノルンは考える。
「ある意味では」
カイルが声を出して笑った。
「何だそれ」
けれど。
笑った後の表情は、少し安心しているようにも見えた。
「俺、何かされる?」
「現在のところ、何もしません」
「監視は?」
「します」
「するんだ」
「仕事ですので」
「正直だな」
カイルは呆れたように笑った。
「まあ、いいけど」
「よろしいのですか」
「何もしないんだろ?」
「危険なことをされない限りは」
「危険って?」
ノルンは真面目に答える。
「世界を破壊しようとする。大量の人命を故意に奪う。前世知識を利用して国家や社会を意図的に崩壊させる。世界の法則へ無理に干渉する、といった行為です」
「世界壊すのは無理。大量殺人もしない。国も壊さない。世界の法則ってのは、そもそも触り方が分からない」
「でしたら」
ノルンは少し笑った。
「見守ります」
カイルはしばらくノルンを見つめた。
「その仕事、楽しい?」
「主様のお役に立てますので!」
即答だった。
カイルがまた笑う。
「そういうタイプか」
「どういうタイプでしょう」
「上司大好き」
「はい!」
「否定しないんだ」
「当然です!」
また声が大きくなり、周囲の何人かがこちらを見る。
カイルが小さく指摘した。
「声」
「あ」
ノルンも声を落とす。
「申し訳ありません」
「面白いな、お前」
「最近、よく言われます」
◇◇◇
話はその後もしばらく続いた。
カイルの前世は二十八歳の会社員だった。
交通事故で命を落とし、次に意識を持った時には、この世界の赤ん坊になっていた。
前世の記憶は生まれた時から残っている。
『銀花の王妃は永遠の愛を誓う』を読んだ理由は、妹に勧められたからだった。
「妹さんが?」
「そう」
「恋愛小説を?」
「俺が読むタイプに見えないだろ」
ノルンは少し考える。
「少し」
「正直だな」
カイルは笑った。
「妹が、『この王子ヤバいから読んで』って無理やり貸してきたんだよ」
ノルンが一瞬黙った。
「どうした?」
「いえ」
フローラがアルノルドを怖がっていることを知っている今、その感想には妙な説得力がある。
「ちなみに、原作のアルノルド殿下についてはどう思われていましたか」
「原作?」
「はい」
「ヤンデレ」
即答だった。
「ヤンデレ」
「知らない?」
「言葉の意味は何となく」
「好きすぎて暴走する系」
「なるほど」
かなり合っている。
「妹は『顔がいいから許されてるだけだろ』って怒ってたな」
フローラが聞けば少し共感するかもしれない。
そんなことを考えながらノルンは聞いていた。
「ただ」
カイルの声が少し真面目になる。
「この世界へ来て、アルノルドが本当に人間として存在してるって分かってからは、原作通りになるとは限らないと思ってた」
ノルンは少し驚いた。
「なぜですか?」
「本は本だから」
「はい」
「でも実際は、人間だろ」
その言葉に。
ノルンは昨日のフローラを思い出した。
アルノルドも物語と違う行動を選んだ。
監視をやめた。
謝った。
物語の登場人物だったはずの人間も、自分で選択を変えている。
「カイルさん」
「うん?」
「よい考えだと思います」
「急に褒めるな」
「本当に、そう思いました」
ノルンは少し笑った。
◇◇◇
夕方。
ノルンは管理領域へ戻った。
「ただいま戻りました!」
「おかえり」
主様は机の前で待っていた。
その表情には、結果を聞く前からある程度の覚悟が見える。
「どうだった?」
「主様」
「うん」
ノルンは姿勢を正した。
「転生者でした」
主様が目を閉じる。
「やっぱり」
「はい」
「確定?」
「日本、前世記憶、原作知識。すべて本人から確認しました」
「……」
「さらに」
ノルンは少し言いにくそうに続ける。
「前世のスマートフォンを所持しております」
主様が完全に止まった。
「何で?」
「私にも分かりません」
「物質転送?」
「その可能性があります」
「報告にはない」
「はい」
「人数も一人って書いてあった」
「はい」
「物品転送もなしって」
「はい」
主様は珍しく両手で顔を覆った。
「ジジ様達……何をやったの」
ノルンには答えられない。
「確認されますか?」
「する」
主様が顔を上げる。
「これは絶対する」
ノルンは少し安心した。
主様は怒っている。
けれど、その怒りが転生者へ向いているわけではない。
管理報告と実態が食い違っていることへ向いている。
「カイルさん本人の危険度は、現時点では低いと判断しております」
「理由は?」
ノルンは酒場で確認した内容を順番に報告した。
前世知識を使って薬草を集めたこと。
料理や石鹸を広めたこと。
未来の価格変動を知っていること。
それでも生活物資の買い占めは避けていること。
三か月後の橋の崩落を知り、可能な範囲で犠牲を減らそうとしていること。
何より、この世界をすでに「本の中」ではなく、自分が生きている現実として認識していること。
「なるほど」
主様の表情が少し戻る。
「今すぐ止める必要はないね」
「はい」
「観察継続」
「はい!」
「接触は?」
「転生者観察官であることをお伝えしました」
主様が少し驚いた。
「また?」
「本人が先に転生者であることを認めましたので」
「なるほど」
「さらに、異世界管理局だと思われました」
主様が笑った。
「何それ」
「私も存じません」
「まあ、外から見たら似たようなものなのかな」
「違います!」
「そこは強く否定するんだね」
「主様直属ですので!」
主様は笑った。
けれど、やがて机上の一枚の報告書へ目を落とし、表情を真面目なものへ戻す。
「ノルン」
「はい」
「これを見て」
神々から届いていた最初の報告書。
『誤転生発生』
『人数 一名』
『移送先 タリウス王国』
『物質転送 なし』
ノルンも黙って読む。
現在確認できている転生者は二名。
フローラ。
カイル。
しかも、カイルは前世のスマートフォンまで所持している。
「主様」
「うん」
「完全に報告と違いますね」
「うん」
「これは、単純な記載ミスでしょうか」
主様はすぐには答えなかった。
これまでにも神々が失敗したことはある。
転生先を取り違える。
必要以上の能力を与える。
消す予定だった記憶を残す。
予定にない道具を与える。
だから、今回も単純なミスで済む可能性はある。
しかし。
「分からない」
主様の声が少し低くなった。
「一度、全部調べ直そう」
「全部ですか?」
「事故が起きた日。誰が、どの魂を担当していたか。どの転生経路を使ったか。物質転送処理が行われていないか」
黒い瞳が静かに細くなる。
「神様達も含めてね」
「承知致しました」
ノルンも表情を引き締めた。
これまでは。
神様達がまたやらかした。
いつものことだ。
そう思っていた。
でも、本当にただのミスなのだろうか。
一人のはずが二人。
物質転送なしのはずがスマートフォンまで来ている。
そして。
もし報告自体が間違っているなら。
「主様」
「何?」
「念のためなのですが」
「うん」
「三人目も探した方がよろしいでしょうか」
主様が黙った。
二人の間に、何とも言えない沈黙が落ちる。
やがて。
「探そうか」
「はい」
「一応」
「はい」
ノルンも覚悟を決める。
「見つからないことを祈りましょう」
「神様に?」
主様が止まった。
ノルンも止まる。
「……」
「……」
「今回はやめよう」
「はい」
二人はほとんど同時にため息をついた。
フローラ・スカーレット。
確認済み転生者。
原作主人公。
王太子との婚約を回避。
世界破壊の兆候なし。
現在は自分の人生を、自分で選び始めている。
カイル。
確認済み転生者。
冒険者。
前世知識と原作知識を保有。
それらを一部利用しているものの、現時点で危険な行動は確認されていない。
さらに。
前世物品であるスマートフォンを所持。
神々からの報告では。
『誤転生者 一名』
実際には。
『確認済み 二名』
しかも、物質転送あり。
ノルンは新しい観察記録を開いた。
最初に。
『対象二号:カイル』
そこまで書いたところで、筆が止まる。
「主様」
「何?」
「対象二号という呼び方ですが」
「うん」
「少し悪者みたいです」
「じゃあ、第二観察対象?」
「それも少し」
「普通にカイルでいいんじゃない?」
ノルンはしばらく考えた。
「それが一番ですね」
書いた文字を消し。
『転生者:カイル』
と書き直す。
そして、その横へ小さく付記した。
『神様達の報告に記載なし』
ノルンと主様は、その一文を見た。
そして。
また同時にため息をついた。
「ノルン」
「はい」
「明日から、少し忙しくなるよ」
ノルンは胸を張った。
「お任せください!」
「神様達への聞き取り」
「……はい」
「カイルの継続観察」
「はい」
「フローラの様子も確認」
「はい!」
「それから洗濯場」
「行きます!」
主様が笑った。
「そこも続けるんだ」
「もちろんです! マーサさんに何も言わず休めません!」
「いつの間にか本当に仕事になってるね」
ノルンは当然だという顔をしていた。
「ノルン」
「はい!」
「本当に、苦労が終わらないね」
ノルンが真顔になる。
「主様」
「うん?」
「その言葉、妙に嫌な予感が致します」
「そう?」
「はい。何か、この先ずっと苦労するような響きがあります」
主様は少し考えた。
「大丈夫だよ」
「本当ですか?」
「……たぶん」
「主様!」
ノルンの声が管理領域へ大きく響いた。
主様は楽しそうに笑っている。
けれど。
机の上に置かれた報告書だけは。
笑い事ではなかった。
一人と記された誤転生者。
実際には二人。
ないと記された物質転送。
実際には存在するスマートフォン。
単なる神々の失敗なのか。
それとも。
何か別の理由があるのか。
まだ誰にも分からない。
そしてノルンは、翌日からタリウス王国全体の世界記録を改めて確認することになる。
フローラとカイル。
本当に。
二人だけなのか。
確認するために。
転生者観察官ノルンの仕事は。
どうやら。
ここからさらに増えそうだった。




