第十一話 神様達へ事情を聞きに行ったら、二十五年前の記録までおかしくなっていました
管理領域には、朝という時間が存在しない。
窓の外にはいつも通り、無数の世界を示す光が広がっている。青白く瞬くものもあれば、淡い赤色を帯びたものもあり、遠目には夜空の星々にも見えるが、その一つ一つがノルン達の管理する世界へと繋がっていた。
そんな変わらない景色を背に、ノルンは机の前で難しい顔をしていた。
目の前には、神々から送られてきた一枚の報告書が置かれている。
『誤転生発生』
『人数 一名』
『移送先 タリウス王国』
『物質転送 なし』
その右隣には、フローラ・スカーレットの観察記録。
さらに左隣には、昨日作ったばかりのカイルの観察記録。
どう見ても二冊ある。
「……二人です」
「うん」
少し離れた長椅子に腰掛けていた主様が、読みかけの本から顔を上げた。
ノルンは報告書へ顔を近づける。
「何度確認しても、報告書には一名と書いてあります」
「昨日も一名だったからね」
「もしかすると、しばらく見つめていれば二名へ変わる可能性は」
「ないと思うよ」
「ですよね」
ノルンは少し肩を落とした。
報告書に感情はない。
どれだけ申し訳なさそうに見つめても、自ら誤りを訂正してくれることなどない。
しかも、問題は人数だけではなかった。
物質転送なし。
そう書かれているにもかかわらず、カイルは前世のスマートフォンを所持している。
昨日、銀鹿亭で実物を確認した。
黒い薄型の端末は正常に起動していた。
電子書籍も表示された。
しかも、その中に入っていた作品の一つが『銀花の王妃は永遠の愛を誓う』。
フローラが前世で読んでいた、この世界を描いた恋愛小説と同じ作品だった。
「主様」
「うん?」
「やはり、ジジ様達が人数と物質転送の両方を間違えられたのでしょうか」
「可能性はある」
「かなり高いですか?」
「過去の実績だけで判断するなら」
主様は一度言葉を止めた。
「かなり高い」
ノルンも反論できなかった。
転生先を一つ隣の世界へ間違えた。
本来渡す予定のない技能を追加した。
前世記憶を消し忘れた。
勇者候補へ必要な戦闘能力ではなく、なぜか農耕関係の技能をまとめて付与した。
どれも実際に起きたことだった。
ただ。
「でもね」
主様の声が少しだけ真面目になる。
「今回は、最初から神様達のミスだと決めつけない方がいい」
ノルンが顔を上げる。
「どうしてでしょう」
「カイルが本当に今回の事故で送られた転生者なのか、まだ分からないから」
「別件ということですか?」
「その可能性もある」
主様は本を閉じ、机の前までやってきた。
「フローラの前世記憶が戻ったのは十二歳。でも魂そのものは十六年前、この世界に生まれた時点で移送されている」
「はい」
「一方、カイルは二十五歳」
「……あ」
ノルンはそこでようやく気づいた。
昨日は「二人目を見つけた」という事実へ意識を向けすぎていた。
しかし。
カイルは二十五歳。
しかも本人によれば、生まれた瞬間から前世の記憶があった。
「時期が合いません」
「そう」
「フローラ様の転生事故より、九年も前です」
「だから、今回の一名という報告自体は正しい可能性もある」
ノルンは報告書を見直した。
昨日までは、神々が人数を間違えたのだと思っていた。
でも。
もしフローラだけが今回の誤転生者なら。
この報告は。
人数については正しい。
「では、カイルさんは」
「別の事故か」
主様は静かに続けた。
「あるいは、別の何かだね」
管理領域の空気が少し変わった。
ノルンも背筋を伸ばす。
「正式な転生処理を通らずに、この世界へ来た可能性も?」
「まだ何とも言えない」
「そのようなことは可能なのでしょうか」
「簡単ではないよ」
主様は窓の外へ視線を向けた。
無数の世界の光。
その間には、本来なら決められた経路が存在する。
魂は勝手に世界から世界へ移動するものではない。
「でも、世界の外側へ干渉できる存在なら、不可能とは言い切れない」
「神様以外にも?」
「いる」
短い答えだった。
ノルンは余計に真剣な顔になる。
「危険でしょうか」
「分からないから調べる」
主様は報告書を指先で軽く叩いた。
「まずは、神様達へ聞こう」
「はい!」
「今回のフローラの件だけじゃない。二十五年前まで遡る」
「誰がカイルさんの魂を扱ったか」
「そう」
「物質転送についても?」
「もちろん」
ノルンは胸元へ手を添えた。
「私も同行致します」
「そのつもりだったよ」
「ありがとうございます!」
勢いよく頭を下げた拍子に、長い白髪が机の上を滑り、カイルの観察記録へ引っかかった。
ぱたん。
「あっ」
一冊の記録が床へ落ちる。
ノルンは慌てて拾い上げた。
「申し訳ありません!」
「記録へ謝っても返事はないよ」
「大切な記録ですので!」
「分かったから、ちゃんと持ってね」
「はい!」
少し前まで張り詰めていた空気が、ほんの僅かだけ和らいだ。
主様はそんなノルンを見て笑い、それから手を差し出した。
「じゃあ行こうか」
「はい!」
◇◇◇
神域へ向かうのは、ノルンにとって初めてではなかった。
けれど、何度訪れても少し落ち着かない。
白い石で造られた長い回廊。
どこまでも高い天井。
柱の向こうには雲海のような景色が広がり、床には柔らかな光が流れている。
管理領域よりも、ずっと「神様の住む場所らしい」雰囲気があった。
もちろん。
そこで働いている者達まで神秘的かと聞かれると。
ノルンは少し考える必要がある。
「主様」
「何?」
「最初は、どなたへお話を伺うのでしょう」
「魂路管理のグラン爺」
ノルンの歩みが僅かに鈍った。
「グランジジ様ですか」
「うん」
「以前、転生者の移送先を一つ隣の世界へ間違えられた」
「そうだね」
「その前には、勇者候補へ農耕技能を」
「ノルン」
「はい?」
「過去の失敗を全部読み上げなくていいよ」
「申し訳ありません」
でも。
かなりある。
そこは言わなかった。
しばらく歩くと、巨大な両開きの扉が見えてきた。
扉の上には、光で文字が浮かんでいる。
『魂路管理室』
「失礼します」
「失礼致します!」
主様が扉を開く。
中は非常に広かった。
壁一面に無数の棚が並び、そこには魂の移送記録を映す水晶や、世界間経路を示す光の板が収められている。天井近くでは小さな光球が何十個も飛び交い、神々の補佐役と思われる者達が忙しそうに行き来していた。
その中央。
大きな机の上へ。
一人の老人が突っ伏していた。
「……」
ノルンは数秒見つめた。
「主様」
「うん」
「寝ております」
「寝てるね」
老人は立派な白髭を机の上へ広げたまま、完全に眠っていた。
「グランジジ様」
「……」
「グランジジ様」
「……」
「グランジジ様!」
「んあっ!?」
老人が勢いよく顔を上げた。
その拍子に白髭が机の金具へ引っかかる。
「痛っ!」
「大丈夫ですか!?」
「誰じゃ!」
涙目で周囲を見る。
主様。
そしてノルン。
老人の顔が。
少しだけ。
引きつった。
「……おお。世界管理者殿ではないか」
「こんにちは、グラン爺」
「ノルンも一緒か」
「はい!」
「ほっほっほ」
老人は笑った。
けれど。
ノルンは見逃さなかった。
目が泳いでいる。
「グランジジ様」
「な、何じゃ」
「何か心当たりがおありですか?」
「何の話じゃ?」
「まだ何も申し上げておりません」
「……」
主様が深く息を吐いた。
「グラン爺」
「うむ」
「タリウス王国へ送った誤転生者について聞きたい」
グランの肩が僅かに跳ねた。
「覚えてる?」
「もちろんじゃ」
「人数は?」
「一人」
即答だった。
「本当に?」
「一人じゃ」
主様は机へ報告書を置いた。
「この書類を出したのも?」
「儂じゃ」
「物質転送なし」
「そうじゃ」
「本当に?」
「そうじゃとも」
「スマートフォンが見つかったんだけど」
「……」
グランの顔が止まった。
「すまあと……何じゃ?」
「スマートフォンです」
ノルンが説明を引き継ぐ。
「前世世界で使用されていた携帯端末です。昨日、タリウス王国にいる転生者が所持していることを確認致しました」
「転生者?」
「はい」
「フローラではなく?」
「カイルさんです」
「誰じゃ、それは」
「二人目に確認した転生者です」
「……」
グランが主様を見る。
「二人目?」
「うん」
「……報告は一人じゃぞ」
「だから聞きに来たんだよ」
しばらく無言。
やがてグランは白髭を撫でながら、少し考えた。
「待て」
先ほどまでとは違う真面目な声になる。
「儂が扱ったのは一人じゃ」
主様の目が僅かに細くなった。
「扱ったのは?」
「そうじゃ」
「その一人は?」
「フローラ・スカーレット」
ノルンと主様が顔を見合わせる。
やはり。
今回、正式に処理された対象はフローラだった。
「カイルという人物に心当たりは?」
「ない」
「物質転送は?」
「しておらん」
グランは今度こそ強く首を横へ振った。
「本当じゃ。フローラを通した時、移送したのは魂だけ。持ち物など一つも付けておらん」
「転生経路は?」
「第三十七魂路」
「その時間帯、他の誰かが使った可能性は?」
グランは机上の水晶へ手を置いた。
内部へ細かな光が走り、宙に複数の記録が浮かぶ。
「その時間帯は……儂だけじゃな」
「本当に?」
「担当記録が残る。少なくとも正規の利用者は儂一人じゃ」
ノルンはその言い方へ引っかかった。
「正規の?」
「魂路を使用すれば記録が残るという意味じゃ」
「記録を残さず使用することは?」
「普通ならできん」
普通なら。
また、その言葉。
ただ。
その前に。
もっと大きな違和感へ。
主様が気づいた。
「グラン爺」
「何じゃ」
「フローラを移送したのは何年前?」
「十六年前じゃ」
「だよね」
「うむ」
主様はノルンを見る。
「カイルは?」
「二十五歳です」
ノルンも、そこで完全に理解した。
「しかも、生まれた時から前世記憶を保持していると本人が証言しております」
グランが眉を寄せた。
「二十五?」
「はい」
「なら」
老人も。
顔をしかめる。
「今回の事故とは関係ないじゃろ」
「そうなる」
主様の表情が真剣になる。
人数が一人多かったわけではない。
今回の事故は。
本当に一人。
フローラだけ。
では。
カイルは何なのか。
「グラン爺」
「うむ」
「二十五年前のタリウス王国への転生記録を調べられる?」
「当然じゃ」
グランは別の水晶へ手を移した。
大量の記録が流れ始める。
「二十五年前……タリウス王国……転生……」
やがて。
グランの指が止まった。
「……ない」
「え?」
ノルンが思わず聞き返す。
「タリウス王国へ、前世記憶を保持したまま正式転生させた記録は一件もない」
「カイルという名前は?」
「ない」
「日本からの魂は?」
「この王国へはない」
主様が静かに息を吐いた。
少し前まで。
神様達の人数報告ミス。
そう思っていた。
でも。
違った。
「主様」
「うん」
ノルンの声も自然と低くなる。
「本当に、別件です」
「そうだね」
◇◇◇
魂路管理室を出た後。
主様とノルンは、しばらく白い回廊を無言で歩いていた。
聞き取りを始める前より、疑問は増えている。
フローラ。
十六年前。
正式な転生処理あり。
神々の誤りによって、本来とは違う世界であるタリウス王国へ移送。
この件については、報告内容と大きな矛盾はなかった。
一方。
カイル。
二十五年前。
タリウス王国で出生。
生まれた瞬間から日本での前世記憶を保持。
原作知識あり。
さらに、前世のスマートフォンまで所持している。
にもかかわらず。
正式な転生記録はない。
「主様」
「うん?」
「カイルさんは、神様達のミスではない可能性が高いのでしょうか」
「今のところは」
主様は慎重に答えた。
「そう見える」
「では、次は?」
「記憶管理を確認する」
「担当はどなたでしょう」
「ソーマ婆」
ノルンの足が止まった。
「……」
主様が振り返る。
「どうしたの?」
「ソーマババ様ですか」
「うん」
「少し苦手です」
「知ってる」
「以前、私が記憶保管庫の棚へ触れた時」
「かなり怒られたね」
「三時間ほど」
「ノルンが勝手に触ったからね」
「反省しております」
ノルンは少し俯いた。
「主様」
「何?」
「一緒に入っていただけますか」
「最初からそのつもりだよ」
ノルンの顔が少し明るくなる。
「ありがとうございます!」
◇◇◇
記憶管理室の扉を開ける前から。
中の声が聞こえていた。
「違う! そっちは前世記憶じゃ! 今世記憶は右側!」
「申し訳ありません!」
「謝る前に戻す! 混ざったら余計に仕事が増える!」
主様がノルンを見る。
ノルンも主様を見る。
「お忙しそうです」
「いつも通りだね」
二人が中へ入ると、大量の記憶結晶が宙を行き交っていた。
その中央で。
小柄な老婆が杖を振りながら、若い補佐役達へ次々指示を飛ばしている。
「ソーマ婆」
「ん?」
老婆が振り向いた。
主様を見ても。
特に畏まらない。
「あんたかい」
「こんにちは」
「何の用だい。見ての通り忙しいよ」
「聞きたいことがある」
「手短にしな」
ノルンは少し背筋を伸ばした。
主様が事情を説明する。
フローラの誤転生。
昨日発見したカイル。
二十五年前。
日本。
前世記憶。
そしてスマートフォン。
最初は面倒そうに聞いていたソーマ婆の表情が。
二十五年前という部分で。
少し変わった。
「タリウス王国?」
「うん」
「名前は?」
「カイル。現在は姓なしの冒険者です」
ノルンも補足する。
「前世では二十八歳の会社員だったそうです」
「日本人?」
「はい」
「ちょっと待ちな」
ソーマ婆が杖を横へ振った。
壁際にあった記憶棚の一つが開き、数百もの小さな光が宙へ広がる。
「二十五年前……日本……二十八歳前後……男性……」
一つずつ条件を絞っていく。
やがて。
「……一件ある」
ノルンの目が大きくなった。
「あるのですか?」
「あるにはある」
「タリウス王国へ?」
「違う」
ソーマ婆が顔をしかめた。
「転生予定先は、アストレア」
「アストレア?」
ノルンが聞き返す。
タリウス王国のある世界とは全く別の世界だ。
「前世名は?」
主様が尋ねる。
「久我原修司」
「くがはら、しゅうじ」
ノルンは観察手帳へ名前を書き込んだ。
昨日、カイルの前世名までは確認していない。
「その魂はどうなったの?」
主様の問いに。
ソーマ婆は少し黙った。
「それがおかしい」
「何が?」
「アストレアへの転生許可は出てる」
宙に浮かぶ記録を順番に指す。
「前世記憶の消去予約もある。魂路も確保されてる」
「はい」
「でも、その先がない」
ノルンは首を傾げた。
「その先とは?」
「到着記録さ」
室内の喧騒が。
少し遠く感じた。
「アストレアへ到着していない?」
「記録上はね」
「魂は?」
「転生処理の途中で記録から消えてる」
主様の表情が変わった。
「消えた?」
「そう」
「そんなことが?」
「普通はない」
また。
普通は。
「記憶処理は?」
「完了してない」
「では、前世記憶が残っていても」
「おかしくはない」
ソーマ婆の声が低くなる。
「もし、こいつが今言ってるカイルと同一人物ならね」
ノルンは手帳へ視線を落とした。
久我原修司。
二十八歳。
日本。
二十五年前。
アストレアへの転生予定。
処理途中。
消失。
そして同じ頃。
タリウス王国にカイルが生まれる。
「主様」
「うん」
「同一人物の可能性がかなりあります」
「あるね」
「前世名を確認する必要があります」
「それと」
主様はソーマ婆の記録へ視線を向けた。
「誰かが途中で魂を抜いた可能性もある」
ノルンの筆が止まる。
「抜いた?」
ソーマ婆が主様を見る。
「可能性の話だよ」
「そうじゃな」
老婆の表情も険しい。
「ただの事故なら、どこかに残骸でも転送失敗記録でも残る。綺麗に途中だけ抜けるのは変だ」
「誰ができるのですか?」
ノルンが聞く。
「知らないよ」
ソーマ婆はすぐに答えた。
「少なくとも、下っ端の神には無理だね」
「では上位神?」
「決めつけるんじゃない」
「はい」
叱られ、ノルンはすぐに背筋を伸ばした。
「それから」
ソーマ婆は再び記録へ目を向ける。
「この件、軽く考えない方がいいよ」
「理由は?」
「二十五年間」
老婆の声が少しだけ静かになる。
「誰も気づいていなかった」
主様もノルンも黙った。
それが。
一番。
おかしい。
◇◇◇
記憶管理室を出た頃には。
ノルンは少し疲れていた。
身体が疲れたわけではない。
情報が増えた。
その一つ一つが。
答えではなく。
新しい疑問を連れてくる。
「主様」
「うん」
「最初は、ジジ様達が人数を書き間違えただけだと思っておりました」
「僕も」
「でも」
ノルンは歩きながら、手帳を見下ろす。
「フローラ様は今回の事故」
「うん」
「カイルさんは二十五年前の別件」
「可能性が高い」
「しかも、別世界へ送られるはずだった魂が途中で消えています」
「そう」
「そしてタリウス王国へ」
「そこはまだ推測」
「あ」
ノルンは顔を上げた。
「申し訳ありません」
「証拠が揃うまでは分けて考えよう」
「はい」
主様は、ノルンがすぐ修正したことに小さく笑った。
「次は物質転送担当」
「どなたでしょう」
「トード爺」
ノルンの足が。
また止まった。
「……」
「今度は何?」
「トードジジ様」
「うん」
「以前」
「うん」
「転生者の持ち物へ、冷蔵庫を追加しようとされた方ですね」
主様が目を閉じた。
「あったね」
「理由が」
「冷たい物を食べたいだろうから」
「はい」
「でも、今回はちゃんと話を聞こう」
「承知致しました」
◇◇◇
物質転送管理室へ着くと。
扉の向こうから。
大きな爆発音がした。
どんっ!
ノルンが反射的に主様の前へ出る。
「主様!」
「大丈夫」
「ですが!」
「たぶんいつものだから」
「いつもの爆発とは何でしょう」
主様は答えず、扉を開けた。
煙が流れてくる。
「ごほっ」
ノルンが手で煙を払う。
部屋の奥では。
髭を焦がした老人が両手を上げていた。
「成功じゃ!」
「何が?」
主様が尋ねる。
「おお! ちょうどよいところに来た!」
トード爺は嬉しそうに机の上を示した。
そこには。
黒く丸い塊。
「これは?」
ノルンが尋ねる。
「転送したリンゴじゃ!」
「炭に見えます」
「……」
トードが目を逸らした。
「今回は少しだけ出力が強くてな」
「転送に火力はいらないよね」
「細かいことはよい!」
主様がため息をついた。
「トード爺」
「なんじゃ」
「二十五年前の物質転送記録について聞きたい」
「二十五年前?」
「タリウス王国」
「知らん」
即答。
けれど。
今日だけで。
ノルンも少し学んだ。
最初の返事だけでは終わらせない。
「前世世界のスマートフォンが、現在タリウス王国に存在しております」
トードの顔が僅かに動いた。
「……すまあとふぉん?」
「ご存じですね」
「名前くらいじゃ」
「どこで?」
「研究資料」
「どの世界の?」
「地球系世界」
主様が一歩前へ出る。
「二十五年前、転送した?」
「しておらん」
「本当に?」
「本当じゃ!」
トードはそこだけ強く否定した。
「物質転送は魂転生よりも記録が残りやすい。儂が直接送っておれば必ず残っとる」
「記録を残さず送ることは?」
「普通は無理じゃ」
今日何度目だろう。
その言葉。
「普通ではない方法なら?」
主様が聞く。
トードの顔から笑みが少し消えた。
「世界管理者ほどの力を持つ者」
「うん」
「上位の神」
「うん」
「あるいは」
老人は髭を撫でながら考えた。
「正規の転送路を使わず、世界の外側から直接押し込む」
ノルンの表情が引き締まる。
「そんなことが可能なのですか?」
「理論上は」
「誰が?」
「知らん」
トードは首を横へ振った。
「少なくとも儂はやらん」
「冷蔵庫は入れようとしたのに?」
主様の一言で。
トードがむっとする。
「あれは親切心じゃ!」
「予定外の物を勝手に渡そうとした時点で駄目だよ」
「まだ送っておらん!」
「送る前に止めたからね」
少しだけ空気が戻る。
しかし。
トードが不意に。
「ところで」
と口にした。
「そのスマートフォン」
「はい」
ノルンが見る。
「まだ動いておるのか?」
「はい」
「二十五年前から?」
「本人がいつ入手したかまでは、まだ確認しておりません」
「なら確認せい」
トードが珍しく真面目な顔になる。
「普通の端末なら、二十五年も電源が保つわけがなかろう」
「……」
ノルンが止まる。
主様も。
止まる。
昨日。
そこまで考えていなかった。
確かに。
スマートフォンは。
充電が必要。
電力。
この世界には。
前世と同じ電力網など存在しない。
もし本当に。
転生時から持っていたのなら。
「主様」
「うん」
「また確認事項が増えました」
「増えたね」
「スマートフォンの入手時期」
「うん」
「充電方法」
「うん」
「なぜ正常に使用できるのか」
「全部聞こう」
トードは楽しそうに笑った。
「面白くなってきたのう」
「面白くありません!」
ノルンの声が物質転送管理室いっぱいに響いた。
焦げたリンゴのような何かが。
机の上で。
小さく煙を上げていた。
◇◇◇
三人の神々への聞き取りを終えた頃には、管理領域へ戻ったノルンの手帳は書き込みでいっぱいになっていた。
主様と向かい合い、情報を一つずつ整理していく。
「まず、フローラ・スカーレット様」
「うん」
「十六年前。正式な魂移送記録あり。本来とは異なる世界へ送られたため、今回報告された誤転生者一名と一致します」
「問題なしとは言えないけど、事故内容そのものは報告と一致」
「はい」
ノルンは次の頁へ移る。
「カイルさん。現在二十五歳。出生時より前世記憶を保持。タリウス王国への正式な転生記録なし」
「うん」
「同時期、日本からアストレアへ転生する予定だった二十八歳男性、久我原修司という魂が、転生処理途中で記録から消失」
「同一人物かは未確認」
「はい」
「物質転送記録はなし」
「はい」
「ただしカイルはスマートフォンを所持」
「さらに」
主様が続ける。
「もし二十五年前から持っているなら、今も使えている理由が分からない」
「はい」
ノルンは手帳を閉じかけ。
もう一度開いた。
「主様」
「何?」
「明日、カイルさんへ会ってまいります」
「そうだね」
「前世のお名前」
「うん」
「スマートフォンをいつ入手したのか」
「うん」
「この世界へ来た直後の状況」
「そこも重要」
「そして充電方法」
「お願い」
ノルンは一つずつ書き込んだ。
それから。
少し迷って。
「主様」
「何?」
「午後は」
「うん」
「洗濯場へ行ってもよろしいでしょうか」
主様は。
すぐには答えなかった。
ノルンの顔を見る。
「行きたい?」
「はい」
即答だった。
「フローラ様の様子も気になります」
「それだけ?」
「マーサさんとリナさんへ何も言わず二日も休むのは、臨時雇いとして問題があります」
「そっちも大事なんだ」
「もちろんです!」
主様が笑った。
「じゃあ、午前中にカイル。午後から洗濯場」
「ありがとうございます!」
「ただし」
「はい!」
「無理しないこと」
「承知致しました!」
「本当に?」
「はい!」
「その返事が一番不安なんだけど」
「なぜでしょう」
ノルンは本気で分からない顔をした。
主様はそれ以上言わず、少しだけ笑った。
◇◇◇
その頃。
スカーレット公爵邸では。
フローラが机の前に座り、一枚の便箋を前に悩んでいた。
アルノルドから届いた謝罪の手紙。
返事は不要と書かれている。
だから、何も返さなくてもいい。
実際。
昨日まではそう思っていた。
でも。
監視を止めてくれた。
父の言葉を受け入れた。
自分へ会うことも求めなかった。
それに対して。
何も返さないことが。
今の自分の望みなのか。
「エレナ」
「はい」
「お返事を書くと」
フローラはペンを持ったまま、少し迷った。
「期待を持たせてしまうでしょうか」
エレナはすぐに答えなかった。
「内容によるかと存じます」
「内容……」
「お嬢様が、何を伝えたいのでしょう」
その問いに。
フローラは便箋を見つめた。
「ありがとうございます、と」
「はい」
「監視をやめてくださったことも」
「はい」
「それから」
少し息を吸う。
「今はまだ、会うことが怖いと」
エレナの表情は変わらなかった。
「でしたら、そのままお書きになればよろしいのではありませんか」
「そのまま」
「はい」
「殿下へ気を遣って、会えるとは書かなくても?」
「お嬢様がそう思っていないのでしたら」
「……はい」
フローラはペンを紙へ下ろした。
『アルノルド殿下へ』
そこで一度だけ手が止まる。
以前なら。
拒否することが怖かった。
相手を傷つける。
怒らせる。
嫌われる。
未来を壊す。
そう思った。
でも。
今は。
自分の気持ちを。
そのまま伝える。
『お手紙をありがとうございました。
公爵邸の周囲にいた方々を引いてくださったこと、私の気持ちを受け止めてくださったことに感謝しております。
ですが、今はまだ殿下とお会いすることが怖いです。
もう少し時間をください。
いつか私自身が大丈夫だと思えた時に、改めてお話ができればと思います。
フローラ・スカーレット』
最後まで書き。
ゆっくり読み返す。
婚約を受けるとも書いていない。
好きだとも書いていない。
待っていてほしいとも書かなかった。
約束ではない。
ただ。
今の気持ち。
それだけ。
「これで、よいでしょうか」
フローラがエレナを見る。
「お嬢様がお決めになった内容でしたら」
エレナは穏やかに微笑んだ。
「よいと思います」
フローラも少しだけ笑った。
「では、明日届けてもらえますか」
「承知致しました」
手紙を封筒へ収めた後。
フローラは窓の外へ視線を向けた。
今日もノルンは来なかった。
今どこにいるのか。
何をしているのか。
分からない。
けれど。
不思議なことに。
それを無理に知りたいとは思わなかった。
次に会った時。
本人が話せることなら聞けばいい。
話せないことなら。
聞かなくてもいい。
「……知りたいことと」
フローラは小さく呟いた。
「知らなければならないことは、違うのですね」
「何か仰いましたか?」
「いいえ」
フローラは首を横へ振る。
「少し、考えていただけです」
エレナはそれ以上尋ねなかった。
◇◇◇
管理領域へ戻ってしばらく後。
ノルンが自分の部屋で明日の確認事項をまとめている頃。
主様は一人。
机の前で。
二十五年前の世界記録を開いていた。
久我原修司。
二十八歳。
日本。
死亡。
アストレアへの転生許可。
前世記憶消去予定。
魂路予約。
その後。
消失。
同じ時期。
タリウス王国。
王都西区。
一人の男児が生まれている。
カイル。
母親は平民。
父親の記録はない。
ごく普通の出生記録。
そのはずだった。
「……」
主様が目を細める。
出生時刻。
その瞬間だけ。
世界記録の端に。
小さな乱れがある。
普段なら。
見過ごすほどのもの。
世界は常に揺れている。
誰かが生まれる。
誰かが死ぬ。
魔力が動く。
災害が起きる。
小さな記録の乱れなど、珍しくない。
でも。
今。
カイルのことを知った上で。
もう一度見ると。
「外から」
主様が小さく呟いた。
カイルが生まれた瞬間。
ほんの一瞬だけ。
世界の外側から。
何かが触れたような痕跡がある。
「誰が」
返事はない。
「何をしたんだろうね」
主様は静かに記録を閉じた。
その頃。
そんな調査が進んでいるとは知らないノルンは。
自室で。
明日の質問を書き並べていた。
『前世のお名前を確認』
『スマートフォンをいつから所持していたか』
『スマートフォンの充電方法』
『転生直後に誰かの声を聞いたか』
『赤ん坊の頃、周囲に異常がなかったか』
そこで。
ノルンの筆が止まる。
少し考え。
『銀鹿亭の煮込み料理は、明日もありますか』
と書いた。
数秒。
見つめる。
「……これは、任務に関係ありません」
消した。
でも。
また少し考える。
そして。
『昼食時間を確保する』
と書き直した。
「これなら問題ありません」
満足そうに頷く。
翌日。
ノルンは再びカイルのもとを訪れる。
そこで聞くことになる。
二十五年前。
カイルがこの世界で赤ん坊として目を覚ました時。
スマートフォンは。
ただ隣に置かれていたのではなかった。
そして。
彼が転生した瞬間。
一度だけ。
聞いたことのない誰かの声を。
確かに聞いていたということを。




