第十二話 赤ん坊の頃に聞いた声が、どう考えても神様のものではありませんでした
翌朝、ノルンは王都西区へ向かう前から、いつになく何度も手帳を確認していた。
管理領域の机には、昨夜まとめた質問項目が綺麗に並んでいる。前世の名前、スマートフォンを所持した時期、充電方法、転生直後の状況、それから赤ん坊の頃に何か異常を感じなかったか。どれも昨日までなら、カイル本人へ改めて聞きに行くほど重要だとは思わなかった内容だった。
けれど、神々への聞き取りを終えた今では意味が違う。
二十五年前、日本で亡くなった二十八歳の男性、久我原修司。
本来ならアストレアという別世界へ転生する予定だった魂は、記憶消去処理を受ける前に記録から消えている。そして、ほぼ同じ時期にタリウス王国で生まれたカイルは、生まれた瞬間から日本での前世を覚えていた。
さらに、前世のスマートフォンまで所持している。
正式な魂路を通った記録もなければ、物質転送の記録もない。
「主様」
「うん?」
ノルンは肩掛け鞄へ手帳をしまいながら、長椅子に座る主様へ顔を向けた。
「改めて考えるほど、カイルさんの転生はおかしいですね」
「そうだね」
「昨日までは、ジジ様達がまた何かやらかしたのだと思っておりました」
「僕もそう思ってた」
「ですが今回は、むしろジジ様達の記録にない」
ノルンは複雑そうな顔をした。
「これはこれで困ります」
「神様達が原因だって分かっていた方が、対処方法は分かりやすいからね」
「はい。叱って、修正して、再発防止をお願いできます」
「その言い方だと、本当に何度もやってるみたいに聞こえるよ」
ノルンは真顔で主様を見た。
「何度もやっております」
「そうだったね」
主様は否定しなかった。
一瞬だけ空気が和らいだものの、ノルンはすぐに表情を戻した。
「久我原修司さんとカイルさんが同一人物であれば、誰かが転生処理の途中で魂を抜き取り、タリウス王国へ移した可能性があります」
「まだ仮説だけどね」
「はい」
「前世名が違えば、昨日見つけた記録は別人になる」
「まずそこを確認します」
「スマートフォンもね」
主様は机に置かれた資料へ視線を落とした。
「いつから持っていたのか。どうして二十五年間使えているのか。その二つはかなり重要だよ」
「承知しております」
ノルンは力強く頷いた。
「それから、転生直後の声」
「はい」
「もし本当に何か聞いていたなら、できるだけ正確に確認して」
「言葉遣い、声色、内容も確認致します」
「無理に思い出させないようにね」
「もちろんです」
ノルンはそこだけ少し柔らかく答えた。
前世での死。
転生直後の記憶。
赤ん坊として何もできなかった時間。
カイル本人が笑って話していたとしても、それが楽しい記憶とは限らない。
観察官だからといって、何でも聞いていいわけではない。
「では、行ってまいります!」
「うん。気をつけて」
「午後は洗濯場へ!」
「そっちも忘れてないんだね」
「もちろんです!」
主様は小さく笑った。
「マーサさんに怒られないようにね」
「そこが本日一番の難関かもしれません」
「カイルの謎より?」
ノルンは少し考えた。
「……二番目です」
かなり本気だった。
◇◇◇
王都西区の冒険者街は、昨日と変わらず朝から騒がしかった。
武器屋の前では店主が剣を並べ、向かいの薬草店では若い冒険者が採取してきたばかりの薬草を査定してもらっている。少し離れた場所からは鍛冶場の金属音が響き、通りを横切る荷車の車輪が石畳の継ぎ目を踏むたびに小さく跳ねた。
銀鹿亭へ近づくほど、煮込み料理と焼いた肉の匂いが濃くなる。
ノルンは一瞬だけ店の看板を見上げた。
「……昼食には少し早いですね」
『ノルン』
「分かっております!」
『まだ何も言ってないよ』
「主様が何を仰ろうとされたかは分かります」
『成長したね』
「ありがとうございます!」
褒められたと思い、声が大きくなりかける。
ノルンは自分で口元を押さえた。
昨日、何度も注意された。
普通の町娘が何もないところへ向かって大声で返事をするのは不自然である。
連絡石を使う時は小声。
これも人間社会へ自然に溶け込むための大切な練習だった。
銀鹿亭へ入ると、昨日より客は少なかった。
朝の依頼を終えた者がまだ戻っていない時間なのだろう。数人の冒険者が遅めの朝食を取り、女店主が空いた卓を拭いている。
「あら」
ノルンを見るなり、女店主が笑った。
「昨日の人探しの子じゃないか」
「おはようございます!」
「今日はちゃんと声を抑えたね」
「学習致しました!」
「その返事はまだ大きいけどね」
ノルンは少しだけ肩を落とした。
「カイルさんはいらっしゃいますか?」
「二階。今日は昼からギルドへ行くって言ってたから、まだ寝てるかもしれないよ」
「寝ているのでしたら、待ちます」
「呼んできてやるよ」
「いえ。休息中のところを無理に起こすのは」
「俺なら起きてるぞ」
そんなやり取りの最中、二階から聞き覚えのある声が降ってきた。
階段の上にカイルが立っている。
昨日とは違い、革鎧はつけていなかった。簡素なシャツと黒いズボンだけの姿で、短い茶髪も少し乱れている。
「おはようございます、カイルさん!」
「朝から元気だな」
「はい!」
「で、昨日の続き?」
「はい」
カイルは階段を降りながら軽く頭を掻いた。
「やっぱり監視するんだな」
「申し上げた通りです」
「正直でよろしい」
「ありがとうございます!」
「褒めてないけどな」
カイルは苦笑し、店の隅にある席を指した。
「座る?」
「よろしいのですか?」
「立ち話で転生の話をする方が怖いだろ」
「確かに」
二人は昨日と同じように向かい合って座った。
女店主が水を二つ置く。
「朝飯は?」
「私はまだです」
「じゃあパンくらい食べる?」
ノルンが一瞬だけ迷う。
『食べていいよ』
主様の声が小さく届く。
「お願いします!」
「結局食うんだな」
「食事は大切です」
カイルが笑った。
◇◇◇
パンと薄いスープが届いたところで、ノルンは手帳を取り出した。
いきなり質問を始めるのではなく、まずは食事を一口。
昨日の煮込みほど濃くはないが、朝にはちょうどよい味だった。
「美味しいです」
「お前、本当に食い物好きだな」
「普通です」
「その普通、多分人によって違うぞ」
カイルも水を飲んだ。
「それで?」
「はい」
ノルンは表情を少し真面目なものへ変えた。
「昨日のお話について、何点か確認させてください」
「どうぞ」
「答えたくないことがあれば、無理に答えなくても構いません」
カイルが僅かに目を細めた。
「意外だな」
「何がでしょう」
「監視役なら、全部吐けって言うかと思った」
「私は観察官です」
「違いがよく分からん」
「本人の意思を無視して情報を集めることが仕事ではありません」
ノルンははっきり答えた。
「ただし、世界を破壊する可能性がある場合は別です」
「俺、そんな危険人物に見える?」
「今のところは全く」
「今のところって付けるんだな」
「仕事ですので」
「本当に正直だな」
カイルは笑った。
「いいよ。聞けることなら答える」
「ありがとうございます」
ノルンは最初の項目へ視線を落とした。
「まず、前世のお名前を教えていただいても?」
カイルの表情が少し変わった。
拒絶ではない。
ただ、二十五年以上呼ばれていない名前を思い出すような、どこか遠い顔だった。
「久我原修司」
ノルンの筆が止まった。
「もう一度お願いします」
「久我原修司。久しいの久に、我で久我。原っぱの原。修めるに司るで修司」
昨日、ソーマ婆から聞いた名前と完全に一致している。
「……主様」
『一致したね』
「はい」
ノルンの声が小さくなる。
カイルが眉を寄せた。
「何だ?」
「昨日、神様達の記録を確認しました」
「神様に?」
「はい」
「本当にそんな連中いるんだな」
「いらっしゃいます」
「そうか」
カイルは少し考えてから尋ねた。
「で、俺の名前があった?」
「ありました」
ノルンは嘘をつかなかった。
「ただし、タリウス王国への転生記録ではありません」
「……どういうことだ」
「二十五年前、久我原修司さんという二十八歳の日本人男性が亡くなり、アストレアという別の世界へ転生する予定になっていました」
カイルの表情から笑みが消える。
「アストレア」
「はい」
「聞いたことない」
「この世界とは全く別の場所です」
「でも俺は」
「タリウス王国で生まれた」
「そうだ」
ノルンは静かに頷いた。
「記録では、久我原修司さんの魂は転生処理の途中で消えています。前世記憶を消す処理も完了していません」
「消えた?」
「はい」
カイルはしばらく黙った。
テーブルの上に置いていた手が、ゆっくりと握られていく。
「じゃあ、俺は本来ここに来るはずじゃなかった?」
「その可能性が高いです」
「フローラみたいに、神様が間違えたんじゃなくて?」
ノルンは一瞬だけその名前へ反応した。
カイルもすぐ気づく。
「ああ。答えなくていい。昨日言われたな」
「ありがとうございます」
「で?」
「正式な転生処理を担当した神様は、カイルさんをこの世界へ送っていないと証言しています」
「じゃあ誰が送ったんだよ」
「それを調べています」
ノルンはまっすぐ答えた。
「分かり次第、カイルさんへお伝えできる範囲ではお話しします」
「全部じゃないのか」
「管理上、公開できない情報もありますので」
「そこは組織っぽいな」
「主様直属です」
「はいはい」
ほんの少しだけ冗談を交えたものの、カイルの表情はさっきより硬い。
当然だった。
二十五年間、自分は普通に転生したのだと思って生きてきた。
それが突然。
本来はこの世界へ来る予定すらなかった可能性を告げられた。
「カイルさん」
「何?」
「休憩しますか」
「いや」
カイルは水を一口飲んだ。
「続けてくれ」
「無理はなさらないでください」
「大丈夫だ」
その声がしっかりしていたので、ノルンも頷いた。
「では、次です」
◇◇◇
「スマートフォンについて教えてください」
その質問に、カイルは少し眉を上げた。
「これ?」
懐から黒い端末を取り出す。
「はい」
ノルンは昨日よりも近くでそれを見る。
多少の使用感はある。
けれど、二十五年前から存在しているとは到底思えないほど状態が良かった。
「それは、いつから持っているのでしょう」
「物心ついた頃から」
「生まれた直後では?」
「そこは俺も分からん」
「どういうことでしょう」
カイルはスマートフォンを手の中で裏返した。
「赤ん坊の頃の記憶って、前世があっても全部鮮明ってわけじゃないんだよ」
「なるほど」
「喋れないし、視界も最初はぼやけてたし、自分がどこにいるか理解できるようになるまで時間もかかった」
それはノルンにも想像できた。
魂に前世の記憶が残っていても、身体は赤ん坊である。脳も感覚も新しい身体に依存する以上、最初から大人と同じ認識ができるわけではない。
「ただ」
カイルは少し考えた。
「はっきり覚えてることがある」
「何でしょう」
「母親が、俺を寝かせてた籠の底からこれを見つけた」
「籠?」
「赤ん坊を寝かせる籠だよ」
「誰かが入れたのでしょうか」
「母親は違うって言ってた」
「聞いたのですか?」
「五歳くらいの時にな」
カイルは当時を思い出すように目を細めた。
「『これ、どこから来たの』って聞いた。母親は、俺が生まれた次の日の朝、籠の底に落ちてたって言ってたよ」
「突然?」
「そう」
「家の中に?」
「ああ」
ノルンの筆が動く。
「お母様は不審に思われなかったのでしょうか」
「そりゃ思っただろうけど、どう見ても用途の分からない黒い板だったからな」
「捨てなかったのですね」
「何となく、俺が気に入ってるように見えたらしい」
カイルは苦笑した。
「赤ん坊の俺が、あれを見ると妙に大人しくなったんだってさ」
「前世の物だと分かっていたからでしょうか」
「多分な」
ノルンは、その情景を想像した。
前世を失い、家族も国も名前も変わった。
身体は赤ん坊。
何もできない。
そんな中で見つけた、唯一前世から知っている物。
カイルにとってスマートフォンは、単なる便利な道具ではなかったのかもしれない。
「電源は?」
「最初から入った」
「充電は?」
「したことない」
ノルンの筆が止まった。
「一度も?」
「一度も」
「二十五年間?」
「正確には、触れるようになったのは三歳か四歳くらいだけどな」
「それでも二十年以上です」
「俺も変だとは思ってる」
カイルは画面を起動する。
「バッテリー表示、見てみろ」
ノルンが少し身を乗り出した。
画面右上。
残量。
百パーセント。
「……昨日も?」
「百」
「一年前も?」
「百」
「十年前も?」
「百」
ノルンは連絡石へ視線を向けた。
「主様」
『見えてる』
「これは」
『完全に普通のスマートフォンじゃないね』
「ですよね」
カイルが少し笑う。
「その主様も見てんの?」
「はい」
「盗み見じゃん」
「申し訳ありません」
「いや、もういいけど」
思ったより軽い反応だった。
「他には?」
ノルンが尋ねる。
「通常のスマートフォンと違う点はありますか」
「壊れない」
「全く?」
「落としたこともある。水にも浸かった。魔物に踏まれたこともある」
「なぜ魔物に」
「戦闘中にポケットから落ちた」
「危険です」
「俺も焦ったよ」
「スマートフォンが?」
「そっちじゃなくて俺が」
「なるほど」
カイルは少し笑った。
「でも傷一つつかなかった」
「通信は?」
「ない」
「日本と?」
「当然」
「他の機能は?」
「時計、写真、電子書籍、メモ、計算機。元から入ってたものは使える」
「新しい情報は?」
「入らない」
「では、前世で保存されていた内容がそのまま?」
「そう」
ノルンは頷いた。
「『銀花の王妃は永遠の愛を誓う』も?」
「ああ。妹に押しつけられた時に電子版を買った」
「押しつけられたのに、ご自身で購入されたのですか?」
「妹の端末借りるの面倒だったんだよ」
「なるほど」
「そこ重要?」
「少し気になりまして」
「観察官って寄り道多いな」
「申し訳ありません」
「別にいいけど」
カイルは笑った。
◇◇◇
そしてノルンは、最後の大きな質問へ入った。
「カイルさん」
「うん」
「転生した直後について、覚えていることはありますか」
今までより、カイルの表情が僅かに変わった。
「直後?」
「はい。赤ん坊として目を覚ます前でも構いません。何か見たものや、聞いた声など」
その瞬間。
カイルの目が止まった。
ノルンもすぐに気づく。
「何かありますね」
「ある」
思っていたより早い返事だった。
「でも、ずっと夢だと思ってた」
「どのような内容でしょう」
カイルはすぐには話さなかった。
視線をテーブルへ落とし、指先で水の入った木杯をゆっくり回す。
「事故」
最初に出た言葉はそれだった。
「前世の?」
「ああ」
会社帰り。
夜。
雨。
横断歩道。
突然迫った大きな光。
耳を打った衝突音。
身体へ走った痛み。
そこから先は。
暗闇。
「死んだって感覚はなかった」
「はい」
「ただ、次に気づいた時には真っ暗だった」
「何も見えなかった?」
「何も」
「身体は?」
「なかった気がする」
ノルンの表情が引き締まる。
「魂路の中だった可能性があります」
「魂路?」
「魂を転生先へ運ぶための経路です」
「ああ」
「本来なら、その途中で意識を持つことはほとんどありません」
「でも俺は起きてた?」
「可能性があります」
カイルは少し不安そうに笑った。
「嫌な話だな」
「続けられますか」
「ああ」
カイルは息を吐いた。
「暗い中で、誰かの声がした」
ノルンの筆が止まる。
「男性ですか。女性ですか」
「分からん」
「若い方? 年配?」
「それも分からない」
「神様のような声でしたか」
「神様の声聞いたことない」
「それもそうですね」
ノルンは少し恥ずかしそうにした。
「では、どのような声でしたか」
「変だった」
「変?」
「耳で聞いた感じじゃない」
カイルは自分の頭を指で軽く叩いた。
「直接、頭の中に入ってきたみたいな感じだった」
ノルンの表情がさらに真剣になる。
「内容は?」
「短かった」
「覚えていますか」
「二十五年前だけど」
カイルは目を閉じた。
「何度も思い出したから」
そして。
ゆっくりと言葉を再現した。
「『そこじゃない』」
ノルンの背筋に、小さな緊張が走る。
「他には?」
「『君は、そっちじゃない』」
「……」
「それから」
カイルは僅かに顔をしかめた。
「『面白そうだから、こっちにしよう』」
ノルンの筆が完全に止まった。
連絡石の向こうからも、主様の声が消える。
「カイルさん」
「何?」
「最後の部分を、もう一度お願いします」
カイルはノルンの真剣さに気づき、姿勢を少し直した。
「『面白そうだから、こっちにしよう』」
間違いない。
そう言った。
「その後は?」
「何かに引っ張られた」
「どちらへ?」
「分からない。上下も左右もなかったからな」
「痛みは?」
「ない」
「怖さは?」
「その時は、まだ何が起きてるか理解できてなかった」
「他の声は?」
「ない」
「姿は見ましたか」
「見てない」
「名前を名乗りましたか」
「それもない」
ノルンはそこまで書き終えると、連絡石へ小さく呼びかけた。
「主様」
『聞いていた』
返ってきた声は、いつもより少し低かった。
「ジジ様達の可能性は?」
『かなり低いと思う』
「理由は?」
『まず、魂を転生処理の途中で勝手に別世界へ回すことは神々の通常業務じゃない』
「はい」
『それに、「面白そうだから」という理由で世界を選ぶことは、少なくとも正式な神務では絶対にない』
ノルンも頷いた。
「ですよね」
カイルが苦笑する。
「神様って、もうちょいちゃんとしてんの?」
ノルンは一瞬黙った。
「基本的には」
「基本的には?」
「はい」
「その間が怖いな」
「色々ありますので」
「色々あるんだな」
ノルンも少し困った顔になった。
けれど、すぐに真剣さを取り戻す。
「その声について、他に思い出せることはありますか」
「一つだけ」
「はい」
「最後、赤ん坊として目を覚ます直前」
ノルンは黙って続きを待つ。
「笑った」
「声の主が?」
「ああ」
「どのように?」
「楽しそうに」
カイルの顔が僅かに強張った。
「悪意って感じじゃなかった」
「では」
「だから余計に気持ち悪かった」
ノルンは何も言わなかった。
それは、少し分かる気がした。
誰かを苦しめようとしているわけではない。
世界を壊そうとしているわけでもない。
ただ。
面白そう。
その程度の理由で、一人の魂の行き先を勝手に変える。
もし本当に、そんな存在がいるのなら。
明確な悪意を持つ相手よりも、むしろ扱いにくいかもしれない。
◇◇◇
「カイルさん」
一通りの聞き取りを終えた後、ノルンは手帳を閉じた。
「ありがとうございました」
「役に立った?」
「とても」
「そうか」
カイルは椅子の背へ身体を預けた。
表情には疲れが見える。
当然だろう。
ずっと夢だと思っていた記憶を、二十五年も経ってから掘り返した。しかも、その内容が、自分は誰かによって本来の転生先から勝手に外されたのかもしれないというものだった。
「俺さ」
カイルが口を開く。
「元の予定だった世界に戻される?」
ノルンは少し驚いた。
「アストレアへ、ですか?」
「ああ」
「現在のところ、その予定はありません」
「本当に?」
「はい」
ノルンは迷わず答えた。
「カイルさんは、この世界で二十五年生きておられます」
「……」
「お母様がいて」
「もう死んだけどな」
「それでも、お母様です」
「……うん」
「ご友人も、冒険者仲間もいる」
「いる」
「それらすべてを無視して、本来はこちらではなかったという理由だけで別世界へ送り直すことは致しません」
カイルの表情から、少しだけ力が抜けた。
「よかった」
小さな声だった。
「俺、この世界結構好きなんだよ」
「はい」
「原作の王子はヤバいけど」
「そこは今、少し変わり始めております」
思わず答えてしまった。
カイルの目が動く。
「ん?」
「……」
ノルンは止まった。
フローラ。
アルノルド。
本人の許可。
「何でもありません」
「今、絶対何か言っただろ」
「個人情報です」
「急に固いな」
「守秘義務です」
「その辺はちゃんとしてるな」
カイルは笑った。
「まあいい」
昨日と同じく。
無理に聞こうとはしない。
ノルンは改めて、カイルの危険度は低いという判断へ少し自信を持った。
「それから」
カイルが言う。
「スマホ」
「はい」
「調べたいなら貸す?」
ノルンの目が大きくなる。
「よろしいのですか?」
「壊れないんだろ?」
「恐らく」
「主様ってやつなら、何か分かるかもしれないんだろ」
「はい」
「なら、一日だけ」
カイルはスマートフォンをノルンの前へ置いた。
「ありがとうございます!」
「ただし」
「はい!」
「電子書籍の購入履歴は見るな」
「なぜでしょう」
「いいから」
「何か問題が?」
「男には見られたくない本の一冊や二冊あるんだよ」
ノルンは真剣に考えた。
「恋愛小説でしょうか」
「そこじゃない」
「では?」
「聞くな」
「分かりました」
ノルンは素直に引いた。
「主様へも、その範囲は確認しないようお伝えします」
「本当に頼む」
「はい」
スマートフォンを魔法鞄へ入れる。
その瞬間。
ノルンの表情が変わった。
「……」
「どうした?」
普段なら、何を入れてもほとんど反応しない魔法鞄だった。
ところがスマートフォンが内部へ入った瞬間、鞄そのものがほんの僅かに震えたような感覚があった。
魔力ではない。
もっと異質な何か。
「主様」
『僕も感じた』
「何なんだ?」
カイルが少し身を乗り出す。
ノルンは鞄を閉じた。
「まだ分かりません」
「危ない?」
「現時点では、私が持っていた方が安全だと思います」
「なら任せる」
カイルはあっさり答えた。
信頼しているのか。
元々その端末へ強い執着がないのか。
今のノルンには、まだそこまでは分からない。
「明日、必ずお返しします」
「別に明後日でもいいけど」
「借りた物は早く返すべきです」
「真面目だなあ」
「よく言われます」
◇◇◇
昼前。
銀鹿亭を出たノルンは、そのまま管理領域へは戻らず、人目のない路地へ入った。
「主様」
『うん』
「スマートフォンは、午後の洗濯場へ持っていっても問題ありませんか」
『鞄の中なら大丈夫だと思う』
「異常があれば?」
『すぐ戻ってきて』
「承知しました」
町娘姿はそのまま。
茶色い髪。
そばかす。
灰色のワンピース。
服装に乱れがないことを確認し、ノルンは胸を張った。
「では、洗濯場へ行ってまいります!」
『そっちも頑張って』
「はい!」
◇◇◇
昼を少し回った頃。
スカーレット公爵邸の洗濯場へ戻ったノルンは、仕事を始めるより先にマーサの前で深々と頭を下げていた。
「申し訳ありませんでした! 二日もお休みをいただき、ご連絡も十分にできず!」
「顔上げな」
「はい!」
マーサは腕を組んでいる。
怒っているようにも見えるが、その横ではリナが笑いを堪えていた。
「別に、毎日来る契約じゃないだろ」
「ですが!」
「人探しがあるんだろ」
「はい」
「なら、そっちを優先しな。こっちは人手が足りなきゃ別の子を呼ぶ」
ノルンの目が少し大きくなる。
「よろしいのですか?」
「駄目って言ったら、人探しやめるのかい」
「それはできません!」
「なら同じだよ」
「マーサさん……」
「何だい」
「お優しいです!」
「うるさい!」
洗濯場に笑いが広がった。
リナがノルンの肩を軽く叩く。
「本当に二日ぶりなだけなのに、半年ぶりみたいだね」
「長く感じました」
「そんなに洗濯好き?」
「皆さんと働くのが好きです」
「またそういうこと普通に言う」
リナが少し照れたように笑った。
「ほら。今日は午後からなんだから、干し物手伝って」
「はい!」
ノルンは袖をまくり、すぐに仕事へ入った。
水を汲む音。
布を絞る音。
風を受けて大きなシーツがはためく音。
女性達が仕事の合間に交わす笑い声。
管理領域も、神域も、冒険者街も大切な仕事場だった。
けれど。
ここには少し違う空気がある。
世界管理のことなど何も知らず、人々がただ今日を生きている。
そんな普通の生活が。
ノルンは少し好きだった。
「ノルンさん」
聞き覚えのある声に振り返る。
中庭の入口に、フローラが立っていた。
隣にはエレナもいる。
「フローラ様!」
ノルンの顔が明るくなる。
「お久しぶりです!」
「二日です」
「あ」
フローラが笑った。
「リナさんにも同じことを言われました」
「そうでしょうね」
以前よりもフローラの表情は柔らかかった。
肩に入っていた力が少し抜け、笑う時も周囲を気にしすぎなくなっている。
ノルンはその変化へすぐに気づいた。
「少し、お元気になられましたか」
「はい」
フローラは素直に頷いた。
「殿下へ、お返事を書きました」
「アルノルド殿下へ?」
「はい」
ノルンは内容を聞かなかった。
フローラが少し待つ。
それでも、ノルンから質問は出てこない。
「聞かないのですか?」
「何をでしょう」
「手紙の内容を」
「フローラ様がお話しになりたいのであれば、お聞きします」
フローラは少し驚いた後、穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます、と書きました」
「はい」
「監視をやめてくださったことへ」
「はい」
「ですが、今はまだお会いすることが怖いとも書きました」
ノルンは静かに頷いた。
「伝えられたのですね」
「はい」
「よかったです」
「よかった?」
「フローラ様が、ご自身の気持ちをそのまま言えたことが」
フローラの目が僅かに揺れた。
ノルンは、アルノルドへ会うべきだとも、会わない方がいいとも言わない。
ただ。
自分の気持ちを伝えられたことを喜んでくれる。
「ノルンさん」
「はい」
「今日は、人探しのお仕事でしたか?」
「はい」
「見つかりました?」
「見つかりました」
フローラは一瞬だけ言葉を止めた。
自分と同じような存在なのか。
そう考えたのだろう。
「その方も?」
ノルンは答え方を慎重に選んだ。
「詳しいことは、ご本人の許可なくお話しできません」
「そう、ですよね」
フローラはすぐに引いた。
「すみません」
「謝らなくて大丈夫です」
「ただ」
「はい」
「もし、その方が私と同じように不安なら」
フローラは少しだけ迷ってから、柔らかく笑った。
「大丈夫だと伝えてあげてください」
ノルンの胸に、温かいものが広がる。
「分かりました」
「それくらいなら?」
「はい。お伝えできます」
「よかった」
フローラは笑った。
数日前まで。
自分が転生者だと知られることを恐れ、一人で抱え込んでいた少女。
そんな彼女が今は、名前も知らない別の誰かのことを心配している。
ノルンはその変化を、観察官としてしっかり覚えておこうと思った。
「ノルン!」
突然、マーサの声が飛んできた。
「はい!」
「話すのはいいけど、手が止まってる!」
「あっ!」
ノルンは大きなシーツを持ったまま完全に作業を止めていた。
「申し訳ありません!」
フローラが思わず声を出して笑う。
「お仕事へ戻ってください」
「はい!」
「また今度」
「もちろんです!」
フローラはエレナと共に離れていく。
その横顔には、以前より自然な笑みがあった。
ノルンはそれを見送り。
今度こそ。
きちんと手を動かした。
◇◇◇
その夜。
管理領域へ戻ったノルンは、まず手を洗って着替えを済ませ、それから主様の机へ向かった。
「ただいま戻りました!」
「おかえり」
「カイルさんより、スマートフォンをお借り致しました」
「見せて」
ノルンが魔法鞄を開き、黒い端末を取り出す。
その瞬間。
主様の表情が変わった。
「……なるほど」
「何か分かりますか?」
「少し」
主様は直接触れず、スマートフォンの上へ静かに手をかざした。
やがて黒い端末の周囲に、肉眼ではほとんど見えない淡い揺らぎが浮かぶ。
「魔力ではない」
「はい」
「神力でもない」
「では?」
「世界外干渉痕」
ノルンの表情が引き締まった。
「カイルさんが生まれた時の記録に残っていたものと同じですか?」
「似てる」
「同一でしょうか」
「まだ断定はできない」
主様は僅かに目を細め、端末の周囲に残る痕跡を慎重に追っていく。
「ただ、誰かがこの端末を世界の外側から保護している」
「保護?」
「壊れない」
「はい」
「電力が減らない」
「はい」
「この世界の物理法則に完全には従っていない」
ノルンは黙ってスマートフォンを見る。
カイル本人に危険な様子はない。
だが。
その道具だけは明らかに異常だった。
「カイルさん本人への影響は?」
「今のところ見えない」
「世界への影響は?」
「これ単体なら、ほとんどないと思う」
主様は少し安心させるように言った。
「だから二十五年間、大きな異常として浮かばなかったんだろうね」
「なるほど」
「でも」
主様は端末から視線を外さなかった。
「これを送った側は別だ」
「はい」
「かなり強い」
正規の物質転送路を使わず。
管理記録を残さず。
前世の物品を別世界へ送り込み。
さらに二十五年間、機能を保護し続ける。
それを可能にする存在。
ノルンにも。
普通ではないことだけは分かった。
「主様」
「うん」
「カイルさんは転生処理の途中で、『面白そうだから、こっちにしよう』という声を聞いたそうです」
主様の目が細くなる。
「他には?」
「『そこじゃない』『君は、そっちじゃない』とも」
「……」
「そして最後に、楽しそうに笑ったそうです」
主様は長い間、何も言わなかった。
「心当たりがありますか?」
「ない」
答えは即座だった。
けれど、その声はいつもより重い。
「少なくとも、僕が知っている神々の中に、そんな理由で勝手に魂の行き先を変える存在はいない」
ノルンは一瞬だけ、これまでのジジ様達の失敗を思い出した。
「……本当に?」
主様がこちらを見る。
「ノルン」
「申し訳ありません」
「気持ちは分かるけど」
「はい」
「ジジ様達も、規則を破ることはあっても」
「あるのですね」
「……」
「主様?」
「話を戻そう」
「はい」
ほんの少しだけ、いつもの空気が戻った。
「明日、このスマートフォンをもう少し詳しく調べる」
「はい」
「それから、二十五年前の世界外干渉記録を他の世界まで含めて調べ直す」
「他の世界も?」
「カイルだけじゃない可能性がある」
ノルンは息を呑んだ。
「同じ存在が、他の魂にも干渉した可能性ですか」
「もし一度だけの気まぐれじゃないならね」
静かな管理領域。
窓の外には、無数の世界を示す光が浮かんでいる。
その中の一つ。
カイルが生きる世界へ。
二十五年前。
何者かが外側から触れた。
もし同じ痕跡が。
他の世界にも残っているなら。
「主様」
「何?」
「三人目を探すという話を、昨日しましたが」
「したね」
ノルンの声が少し弱くなる。
「タリウス王国だけではなくなるのでしょうか」
主様は少し考えてから、嘘をつかず答えた。
「可能性としては、そうなる」
ノルンは窓の外を見た。
数え切れない世界の光。
本当に多い。
「主様」
「何?」
「私一人では、全部回るのは難しいと思います」
「分かってる」
答えはすぐ返ってきた。
「全部の世界をノルン一人へ任せるつもりはないよ」
「よかったです」
「必要なら他の観察官にも協力を頼む」
「他の方にも?」
「うん」
ノルンは少し安心した。
けれど。
「ただし、今回の中心担当はノルン」
「はい!」
反射的に背筋を伸ばす。
「頑張ります!」
「無理しないこと」
「はい!」
「洗濯場もあるんだから」
「はい!」
「そこは任務じゃないけどね」
「大切です!」
主様が笑った。
ノルンも少し笑う。
けれど。
机の上に置かれたスマートフォンだけは。
何も知らない者が見れば。
ただの黒い板にしか見えない。
その周囲には。
目には見えない。
世界外干渉の痕跡が残っている。
二十五年前。
久我原修司は。
本来なら別の世界へ行く予定だった。
その魂を。
何者かが勝手に選び。
行き先を変えた。
『面白そうだから、こっちにしよう』
そこに悪意はなかったのかもしれない。
けれど。
一人の人生を勝手に変えたことに違いはない。
「主様」
「うん」
「もし、その声の方を見つけたら」
ノルンは珍しく少し険しい表情を浮かべた。
「お話を伺ってもよろしいでしょうか」
「もちろん」
「かなり詳しく」
「うん」
「二十五年分」
「ほどほどにね」
「……はい」
主様はノルンの顔を見て、少しだけ笑った。
転生者観察官。
基本の仕事は観察と見守り。
転生者が世界を破壊するような行動を取るなら、それを止める。
けれど。
今回見つけなければならない相手は。
転生者ではないかもしれない。
転生者そのものを。
勝手に生み出した可能性がある。
世界の外側にいる。
何者か。
ノルンの仕事は。
少しずつ。
本来の観察任務よりも大きなものへ。
変わり始めていた。




