第八話 物語の主人公だからといって、その通りに生きる必要はありませんでした
翌朝のスカーレット公爵邸は、前日の曇り空が嘘だったかのように、明るい陽射しに包まれていた。
庭園の草木にはまだ朝露が残っており、葉の先に集まった水滴が風に揺れるたび、小さな光を散らしている。屋敷の裏手では早くも洗濯場の女性達が仕事を始めており、水を汲む音や布を広げる音、誰かを呼ぶ声が静かな朝の空気へ重なっていた。
その日、フローラはいつもより少し早く目を覚ましていた。
眠れなかったわけではない。むしろ久しぶりに、夜中に何度も目を覚ますことなく朝まで眠れた気がする。
それでも目覚めた瞬間、昨日の出来事は一気に頭の中へ戻ってきた。
ノルンの白い髪。真っ白な杖。転生者観察官という聞き慣れない役職。世界管理者である主様。そして、自分の転生が神々のミスである可能性が高いという、あまりにも拍子抜けするような事実。
何よりも鮮明に残っているのは、ノルンが迷いなく告げた言葉だった。
『好きに生きても構いません』
フローラは寝台の中でしばらく天井を見上げた。
「……本当に、よいのでしょうか」
昨日は安心した。泣いた。嬉しかった。
けれど、一晩眠って気持ちが少し落ち着いたことで、今度は別の疑問が浮かび始めていた。
好きに生きていい。
では、物語はどうなるのだろう。
自分がアルノルドと婚約しなければ、その後に起こるはずだった出来事はどうなるのか。
物語の中で、自分とアルノルドが婚約したことによって助かった者はいなかっただろうか。王妃となった自分が将来行うはずだった政策や慈善活動、外交上の役割、王家とスカーレット公爵家の関係まで変わってしまうのではないか。
そして、もし自分が物語の主人公だからこそ、その場所にいなければ世界そのものが歪んでしまうのだとしたら。
昨日はそこまで聞けなかった。
聞く余裕がなかった。
「お嬢様」
寝室の外からエレナの声がした。
「お目覚めでしょうか」
「はい。起きています」
「失礼致します」
扉が開き、朝の支度を整えるためにエレナが入ってくる。フローラはゆっくり身体を起こし、窓辺から差し込む朝の光へ目を細めた。
「よくお休みになれましたか?」
「はい。思っていたよりも」
「それは何よりです」
エレナはそう言いながら、カーテンをさらに開いた。朝日が部屋の奥まで差し込み、寝台脇の小さな机や壁に掛けられた絵を淡く照らしていく。
「エレナ」
「はい」
「今日も、ノルンさんは洗濯場に?」
「その予定と聞いております」
「そうですか」
フローラはそれだけ答えて、少し黙った。
エレナは急かさない。
「また、お話を?」
「……はい」
フローラは素直に頷いた。
「昨日は、私ばかり話してしまいました。ノルンさんが何をする方なのか、主様とはどのような方なのか、それから……私はこれから本当に好きに生きてよいのか」
最後の言葉だけ、少し声が弱くなった。
エレナは、前世や転生者観察官について何も知らない。
それでも、フローラがノルンと何か大きな秘密を共有したことには気づいているようだった。
「直接、お聞きになるのがよろしいでしょう」
「はい」
「ただし」
エレナが少しだけ笑う。
「本日は洗濯場のお仕事もございますので」
フローラもつられて小さく笑った。
「分かっています。お仕事の邪魔はしません」
◇◇◇
その頃、洗濯場では朝からマーサの声が響いていた。
「ノルン、そのシーツは三枚まとめて持つんじゃないよ!」
「二枚ですね!」
「そう!」
「承知致しました!」
ノルンは言われた通り、昨日までなら片腕で十枚でも二十枚でも持てそうな乾いたシーツを、きちんと二枚だけ抱えて運んでいる。
横ではリナが笑いを堪えていた。
「本当に真面目だね」
「人間らしい力加減は重要です!」
「だからって、一枚ずつ確認しなくても」
「昨日より上達しております!」
「うん。昨日よりはね」
リナの返答には少しだけ含みがあったが、ノルンは気づいていない。
今日も洗濯場は忙しい。
常勤の使用人達に混じり、臨時雇いであるノルンもすっかり自然に作業へ加わっていた。
初日は誰もが少し珍しそうに見ていたのに、三日目ともなれば「妙に力が強い」「主様の話になると急に声が大きくなる」「何でも全力でやろうとする」という特徴まで含めて受け入れられつつある。
ノルン自身も、この場所を少し好きになり始めていた。
もちろん、任務を忘れているわけではない。
フローラの観察。アルノルドの動向。王太子府の監視要員。世界記録との照合。確認しなければならないことは多い。
けれど、だからといって洗濯場で過ごす時間が全部偽物というわけでもない。
昨日、主様から言われた。
情を持つことと、公平でいることは別だと。
それなら、マーサやリナと笑うことも、仕事を覚えることも、悪いことではない。
「ノルン」
「はい?」
「今度は何を考えてるの?」
リナに聞かれ、ノルンは少しだけ考えた。
「皆さんと働くのは楽しいな、と」
素直に答えると、リナが一瞬だけ目を丸くした。
「……そういうこと、普通に言うんだ」
「駄目でしたか?」
「いや」
少し照れたように笑う。
「悪くない」
その時、洗濯場の入口にエレナが現れた。
マーサがすぐに気づく。
「侍女長さん」
「お仕事中に失礼致します」
「またノルン?」
「はい」
ノルンは反射的に背筋を伸ばした。
「私ですか?」
「フローラお嬢様が、本日のお仕事が一段落しましたら、少しお話をしたいと」
「はい!」
返事が早い。
マーサが横からじろりと見る。
「まだ仕事は終わってないからね」
「もちろんです!」
「洗濯場よりお嬢様優先って顔してる」
「そのようなことは!」
ノルンは本気で否定する。
周囲の女性達から笑いが起きた。
「昼過ぎなら一度手が空くよ」
マーサがエレナへ言う。
「ありがとうございます」
「その代わり、戻ってきたら午後分もしっかり働くこと」
「お任せください!」
「声」
「……お任せください」
ノルンの声量が少しだけ下がり、また周囲に笑いが広がった。
◇◇◇
王城では、アルノルドが一枚の紙を前にして長い時間動かずにいた。
昨日、セドリックから言われた「知らないことに耐える」という言葉が、朝からずっと頭に残っている。
公爵邸外の監視要員は半分に減らした。
現在は二人。
本人への接触は禁止。
屋敷内への侵入も禁止。
外出時の安全確認のみ。
それ以上は調べさせない。
少なくとも、アルノルド自身はそう決めた。
けれど。
机の上にある今日の簡易報告は、あまりにも短かった。
『スカーレット公爵令嬢、現在まで外出なし』
それだけ。
以前なら、誰と朝食を取ったのか、何時に庭へ出たのか、誰と話したのか、どのような手紙を受け取ったのか。そうした情報まで上がってきていた。
今はない。
アルノルドは、その一行を何度も見ていた。
「……少ない」
無意識に呟く。
向かい側で政務書類を整理していたセドリックが顔を上げた。
「何がでしょう」
「情報」
アルノルドは隠さず答える。
「フローラが屋敷から出ていないことしか書いていない」
「殿下が、それ以上調べるなと命じられたからです」
「分かっているよ」
少し不満そうな声だった。
「分かっているけど、何をしているのか分からない」
「それが普通なのです」
「普通」
「はい」
セドリックは手を止めた。
「婚約者でもない相手が、一日何をしているのか分からない。それは何もおかしなことではありません」
「幼馴染だよ」
「それでもです」
「将来、結婚する」
「それを決めるのはフローラ様です」
アルノルドの青い瞳が僅かに細くなる。
以前なら、この言葉へもっと強く反応していた。
今も胸の奥は痛む。
けれど、昨日認めた。
フローラは、自分を怖がっている。
「……そうだったね」
小さな返事に、セドリックが少し驚く。
「殿下」
「何?」
「今、否定されませんでしたね」
アルノルドはしばらく黙った。
「否定したいよ」
正直だった。
「フローラが私以外を選ぶなんて、考えたくもない」
「はい」
「でも、考えたくないからって、ないことにはできない」
そう言って、アルノルドは報告書を伏せた。
セドリックの表情が少し変わる。
言った本人も。
自分の言葉に驚いているようだった。
「私、本当に少しずつだね」
自嘲気味な笑い。
「十分です」
「十分ではない」
アルノルドはすぐに否定した。
「フローラはまだ怖がっている」
伏せた報告書の上へ手を置く。
「少なくとも、これをもっと減らす必要はあるんだろうね」
セドリックは何も急かさなかった。
それでも。
確かに昨日よりは、一歩進んでいた。
◇◇◇
昼過ぎ。
フローラとノルンは、昨日までと同じ中庭で向かい合っていた。
今日は簡単な茶だけが用意されている。
ノルンは再び茶髪とそばかすの町娘姿へ戻っていた。
昨日は正体を見せた。
それでも、公爵邸では今も臨時雇いのノルンとして働いている。
だから、この姿の方が都合がいい。
「昨日は、ありがとうございました」
フローラが先に口を開いた。
「何がでしょう」
「全部です」
少し困ったように笑う。
「自分でも、何に一番お礼を言いたいのか分かりません」
「でしたら、全部で大丈夫です」
ノルンが茶を一口飲むと、フローラも少し笑った。
昨日は泣いて、笑って、そして一晩かけて考えた。
「今日は、聞きたいことがあります」
「はい」
「ノルンさんのお仕事について」
ノルンは少し姿勢を正した。
「転生者観察官について、ですね」
「はい」
フローラはカップを両手で包む。
「私のような者を見つけて、見守る。それが基本なのですよね」
「はい。基本的には」
「基本的には?」
そこに引っかかった。
ノルンは少し考え、できるだけ分かりやすく説明することにした。
「転生者だからという理由だけで拘束したり、元の世界へ送り返したり、行動を制限したりすることはありません」
「では、何をすると止められるのですか」
「例えば」
ノルンは指を一本立てた。
「前世の知識を使って料理を広める」
「それは?」
「問題ありません」
「商売を始める」
「問題ありません」
「新しい道具を作る」
「内容によりますが、それだけなら問題ありません」
「では……原作では死ぬ人を助ける」
「問題ありません」
フローラの目が大きくなる。
「助けてもいいのですか?」
「はい」
「でも、それは未来を大きく変えるかもしれません」
ノルンは穏やかに答えた。
「未来は、最初から一つに決まっているわけではありません」
フローラが動きを止める。
「決まっていない?」
「はい」
「では、物語は?」
少しだけ声が強くなった。
そこが。
フローラが一番聞きたかったところだった。
ノルンは言葉を選ぶ。
「物語に書かれていたことは、その世界で起こる可能性が高かった流れです」
「可能性」
「絶対ではありません」
フローラは、息をすることすら忘れたようにノルンを見つめた。
「でも、私は主人公でした」
「それでもです」
「アルノルド殿下と結婚することも?」
「絶対ではありません」
「王妃になることも?」
「絶対ではありません」
フローラの指先がカップの縁へ触れた。
「では……物語というのは、未来そのものではない?」
「はい」
ノルンは頷く。
「私達が使う世界記録にも、未来の傾向や可能性は残ります。でも、人が何を選ぶかまで最初から固定されているわけではありません」
少しだけ笑う。
「その人の人生は、その人のものです」
フローラは長い間、何も言えなかった。
四年間。
物語に書かれた未来は、決定事項なのだと思っていた。
だから、求婚を断ることが怖かったのは、単純にアルノルドが怖かったからだけではない。
自分が物語から外れることで。
この世界そのものを壊してしまうのではないか。
その恐怖も、ずっと心の奥にあった。
「私が……アルノルド殿下を選ばなくても」
「はい」
「この世界は壊れませんか」
ノルンはすぐには答えなかった。
軽々しく絶対とは言いたくなかった。
「少なくとも、王太子殿下と結婚しないという選択だけで、世界が壊れることはありません」
フローラの肩から、目に見えない何かが抜けていった。
「では」
少しだけ笑う。
けれど、目には涙が浮かんでいる。
「私は、ただ嫌だから断った。それでよかったのですね」
「はい」
ノルンは穏やかに答えた。
フローラは目を閉じる。
昨日も安心した。
でも今日は、それよりもっと深い場所が軽くなる感覚があった。
自分の存在。
世界。
物語。
未来。
その全部を、自分一人で背負う必要はない。
「フローラ様」
「はい」
「少し別のことを聞いてもよいですか」
フローラが目を開く。
「何でしょう」
ノルンは慎重に言葉を選んだ。
「ご自身を、本当のフローラ・スカーレットではないと思ったことがありますか」
フローラの顔が固まった。
風が吹き、ティーカップから立ち上る湯気を僅かに揺らす。
しばらくして。
フローラは視線を落とした。
「あります」
「十二歳の頃から?」
「はい」
膝の上で両手を重ねる。
「前世を思い出した時、最初に思ったのは……私は誰なのだろう、でした」
日本で生きていた記憶。
フローラ・スカーレットとして生きてきた十二年。
どちらも鮮明にある。
「私が、元々この身体にいたフローラを消してしまったのではないかと思ったことがあります」
口にするのも怖かった言葉だった。
「本物のフローラはどこかへ行ってしまって、私が代わりにこの身体へ入ったのではないかと」
「フローラ様」
ノルンは優しく、それでもはっきりと遮った。
「違います」
フローラが顔を上げる。
「どうして、そう言えるのですか」
「魂の記録を確認できるからです」
「魂の……記録」
「はい」
ノルンは少しだけ身を乗り出した。
「十二歳の時に別の魂がフローラ様の身体へ入ったわけではありません。魂そのものは、生まれた時からずっと同じです」
フローラの目が大きくなる。
「では、私は」
「生まれた時からフローラ様です」
その言葉に。
フローラの呼吸が止まった。
「前世の記憶が、十二歳の時に戻っただけ?」
「その理解で大丈夫です」
ノルンは柔らかく笑った。
「前世を覚えていることと、この世界で今まで生きてきたこと。そのどちらか一方だけが本物になるわけではありません」
フローラは何も言えない。
「日本で生きた記憶も、スカーレット公爵家で十六年生きてきた時間も、どちらもフローラ様です」
涙がゆっくりと目に溜まっていく。
昨日は、特別な使命などないと知って泣いた。
今日は、自分が偽物ではないと言われた。
ずっと誰にも言えなかった怖さだった。
父も母も愛している。
でも、もし自分が本当の娘ではなかったら。
この愛情を受け取ってよいのか。
何度も考えた。
「私……お父様とお母様の娘でいて、いいのですか」
震える声だった。
ノルンの目が柔らかくなる。
「もう十六年、娘ですよ」
その一言で。
フローラの涙が落ちた。
「そう……ですよね」
「はい」
泣きながら笑う。
ノルンは今回も勝手には触れなかった。
けれど。
フローラの方から少しだけ身を乗り出し、迷った末にノルンの袖をそっと掴んだ。
ノルンが少し驚いたように瞬きをする。
「少しだけ、このままでいても?」
「はい。どうぞ」
ノルンは動かない。
フローラはしばらく、その袖を握っていた。
それだけで。
少し安心できた。
◇◇◇
同じ頃。
スカーレット公爵邸の外では、二人の監視要員が昨日とは違う場所へ配置されていた。
一人は大通りから少し外れた通り。
もう一人は公園に近い場所。
王太子府からの指示も、昨日より限定されている。
『公爵令嬢本人への接触は禁止』
『訪問客への身元調査は禁止』
『外出時のみ、安全確認を行う』
それでも、監視であることに変わりはない。
ノルンは昼前にも一度、二人の存在を確認していた。
そして今。
フローラへ伝えるべきか考えていた。
本人には知る権利がある。
昨夜、主様ともそう話した。
ただ、今日せっかく少し心が軽くなったフローラへ、今すぐ監視の話を持ち出してよいのかという迷いもある。
それでも。
知らないままにしておく方が、もっとよくない。
フローラが目元を拭い、ノルンの袖から手を離した頃。
「フローラ様」
ノルンは静かに声を掛けた。
「もう一つ、お伝えしなければならないことがあります」
声の調子が変わったことに、フローラもすぐ気づいた。
「アルノルド殿下についてです」
表情が僅かに強張る。
「何か、ありましたか」
「公爵邸の外に、王太子府の者と思われる方がいます」
フローラの動きが止まった。
「……何をしているのですか」
「屋敷へ入る人や外へ出る人を確認しているようです。少なくとも、フローラ様が外出された場合には動向を把握できるようにしていると思います」
フローラの顔から少し血の気が引いた。
「昨日も?」
「はい」
「一昨日も?」
「少なくとも、気配はありました」
フローラは椅子の背から身体を少し離した。
「人数は?」
「昨日の朝は四名ほど確認しました。その後、二名へ減っています」
「減った……」
「理由までは分かりません」
ノルンには、王城でアルノルドとセドリックが何を話したのかまでは分からない。
「ただ、直接フローラ様へ接触する様子や、屋敷へ侵入する様子はありません」
フローラが小さく笑った。
けれど、その笑みは震えていた。
「では、殿下は本当に……私が何をしているのか、知ろうとしているのですね」
「全部ではありません」
「それでもです」
フローラは両手を握った。
「ノルンさん。私、考えすぎではなかったのですね」
「どういうことでしょう」
「何でも知られているような気がして、それが怖かった。でも、私が物語を知っているから、昔の展開と重ねて怖がりすぎているだけなのではないかとも思っていたのです」
ノルンは首を横へ振った。
「実際に、確認している方はいます」
フローラはゆっくりと呼吸を吐いた。
怖さが消えたわけではない。
むしろ、現実だったと分かってしまった。
それでも。
自分の感じ方が間違いではなかった。
その事実は。
少しだけ救いでもあった。
「お父様へ話します」
フローラが言った。
「はい」
「殿下を責めたいわけではありません。でも、これはやめていただきたい」
「それでよいと思います」
フローラは顔を上げた。
「ノルンさん」
「はい」
「もし、殿下がやめなかったら」
ノルンはすぐに強い言葉を返しそうになった。
でも。
主様の言葉を思い出す。
代わりに人生を決めない。
「まず、フローラ様がどうしたいのか」
ノルンは穏やかに答えた。
「それを一緒に考えましょう」
フローラが少し目を見開く。
守る。
排除する。
止める。
そう言われると思っていた。
でも、ノルンは違った。
自分がどうしたいのか。
そこへ返してくれる。
「……はい」
フローラは少し笑った。
「ありがとうございます」
◇◇◇
その日の夕方。
フローラは父レオナルドと母エリザベートへ、自室で話をしていた。
ノルンの正体までは明かさない。
それは、ノルンと主様の秘密でもある。
自分だけが知ったからといって、勝手に話すべきではない。
ただし。
王太子府による監視の存在については別だった。
「確かなのか」
レオナルドの声が低くなる。
「はい」
「誰から聞いた」
フローラは少し迷った。
「信用できる方です」
「名前は?」
「今は……言えません」
レオナルドは眉を寄せた。
けれど、娘の表情を見て。
無理に聞き出そうとはしなかった。
「分かった」
少し間を置く。
「それで、お前自身はどうしたい」
その問いに。
フローラの胸が少し温かくなる。
ノルンと同じだった。
どうすべきか。
ではなく。
どうしたいか。
「やめていただきたいです」
「分かった」
即答だった。
「明日、王城へ行く」
「お父様」
「これは婚約の話とは別だ」
レオナルドの声は静かだった。
けれど、その奥にははっきりと怒りがある。
「娘を本人に知らせず見張る。それを愛情で済ませるつもりはない」
隣に座っていたエリザベートも、フローラの手をそっと握った。
「怖かったでしょう」
「……はい」
「気づけなくて、ごめんなさい」
「お母様、違います」
フローラはすぐに首を横へ振り、母の手を握り返した。
「私も、今日まで確信がありませんでした」
エリザベートの目が少し潤む。
「でも」
フローラは父と母を見た。
「これからは、怖いことはちゃんと話します」
レオナルドの表情が僅かに和らいだ。
「それでいい」
フローラは思う。
昨日。
秘密を話した。
今日。
怖さを話した。
一人で抱えることが。
少しずつ減っている。
◇◇◇
夜。
管理領域へ白い光が広がった。
「ただいま戻りました!」
いつもの声と共に、ノルンが現れる。
「おかえり」
主様は机で世界記録を確認していた。
「本日のご報告です!」
「うん」
ノルンは椅子へ座り、今日あったことを一つずつ話していく。
フローラへ、物語記録は絶対の未来ではないと説明したこと。
原作通りにアルノルドと結婚しなくても、それだけで世界が壊れるわけではないと伝えたこと。
フローラが、自分は本物のフローラではないのではないかと四年間悩んでいたこと。
魂の記録上、フローラは生まれた時から同一の魂であり、十二歳で前世記憶が戻っただけだと説明したこと。
そして。
王太子府の監視について本人へ伝えたこと。
「フローラは?」
「お父様へ相談すると、ご自身で決められました」
主様が少し笑う。
「いいね」
「はい」
「ノルンが王太子府を消さなくても済みそうだ」
「消しません!」
「冗談だよ」
「最近、その冗談が多いです!」
ノルンは少し頬を膨らませた。
主様は小さく笑う。
「でも、今日の君はかなり上手に見守れたと思う」
ノルンの目が少し大きくなる。
「本当ですか?」
「うん。フローラが不安だからといって、答えを全部決めてあげなかった」
「はい」
「監視についても、どうしたいかを本人へ返した」
「はい」
「それが大事なんだ」
ノルンは少し嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
「それから、物語についても説明したんだね」
「絶対の未来ではないと」
「うん」
主様は一冊の世界記録を開いた。
そこには、この世界で物語として語られる『銀花の王妃は永遠の愛を誓う』に対応する流れが記されている。
「ノルン。物語記録は未来の予言ではない」
「はい」
「でも、大きく流れが変われば、別の問題が出ることはある」
ノルンの表情が少し引き締まる。
「例えば?」
「フローラが王妃にならないことで、本来彼女が解決するはずだった問題が残ることはあり得る」
「では、その問題をフローラ様に解決していただく必要が?」
「ない」
主様はすぐに否定した。
「別の誰かが解決してもいい」
「はい」
「誰も解決できないなら、その時だけ僕達が見守る範囲を広げればいい」
「分かりました」
「物語を元へ戻すのが目的じゃない」
主様の声は穏やかだった。
「世界が、そこで生きる人達の選択を受け止めながら、それでも壊れずに続いていくこと」
窓の向こう。
無数の世界の光が静かに瞬いている。
「それが僕達の仕事だよ」
「はい」
ノルンは胸元へ手を添えた。
「覚えておきます」
その後、ノルンは観察記録を更新した。
『フローラ・スカーレット』
物語記録が絶対の未来ではないことを説明済み。
原作通りの婚約、婚姻、王妃就任は義務ではない。
本人、強い安堵。
前世記憶覚醒後、自分が本来のフローラを消したのではないかという自己同一性への不安を四年間保持していたことが判明。
魂記録上、出生時より同一魂。
十二歳時は前世記憶の覚醒のみ。
本人へ説明済み。
両親の娘でいてよいことへの強い安堵を確認。
王太子府の監視について本人へ告知。
フローラ自身が父レオナルドへ相談することを選択。
そこまで書いたところで。
ノルンは、さらに一文を書き加えようとした。
『フローラ様より、今後も見守ってほしいとの意向あり』
しかし。
筆が止まる。
「……」
主様が横から見る。
「どうしたの?」
「いえ」
ノルンは書きかけた一文を消した。
「まだ、そこまでは正式に言われておりませんでした」
「先走った?」
「少しだけ」
主様が笑う。
「気をつけようね」
「はい……」
ノルンは少し恥ずかしそうに記録を閉じた。
◇◇◇
翌日、昼前。
ノルンはフローラから再び呼ばれた。
今度は中庭ではなく、公爵邸の小さな書庫だった。
外にはエレナが控えており、中は二人きりである。
「ノルンさん」
「はい」
フローラは昨日より落ち着いた表情をしていた。
「昨日、たくさん教えていただいて……考えました」
「何をでしょう」
「私、これからも物語から外れることを選ぶと思います」
ノルンは静かに聞いている。
「アルノルド殿下と結婚しないかもしれません。公爵家を継ぐかもしれない。別の誰かを好きになるかもしれないし、結婚そのものを選ばないかもしれません」
「はい」
どの選択も否定しない。
フローラは、それを確かめるように続けた。
「その途中で、私が本当に世界を壊すような方向へ進んでしまったら」
表情が少し真剣になる。
「止めていただけますか」
ノルンも今度はしっかりとフローラを見る。
「自分では分からなくなるかもしれません。前世の知識を使うこともあると思いますし、物語を知っているからこそ、何かへ手を出すこともあるかもしれない」
フローラは少しだけ笑った。
「だから、見ていてください」
ノルンの胸が、少し温かくなる。
「観察官として?」
「それもあります」
フローラは少し照れたように視線を逸らした。
「他には?」
「相談相手として」
ノルンの目が僅かに大きくなる。
「私は、普通の友人では」
「分かっています」
フローラは笑った。
「世界管理者直属の、少し変わった洗濯係ですものね」
「転生者観察官です!」
「はい」
フローラが声を立てて笑う。
「でも、ノルンさんと話すと、自分で決めてよいのだと思えるのです」
ノルンは少し黙った。
主様の言葉を思い出す。
情を持つことと、公平でいることは別。
相手の人生を代わりに決めない。
それなら。
「分かりました」
ノルンは真っ直ぐ答えた。
「見守ります」
フローラの顔が少し明るくなる。
「はい」
「ただし、フローラ様の人生を私が決めることは致しません」
「分かっています」
「選ぶのは」
「私です」
「はい」
二人は少し笑った。
「そして、本当に世界を壊そうとされた場合は」
ノルンの声が僅かに真面目になる。
フローラも少し緊張した。
「はい」
「全力で止めます」
「……全力」
「はい」
フローラは、昨日見た白髪と真っ白な杖を思い出す。
「ちなみに」
少し恐る恐る。
「ノルンさんは、どれほどお強いのですか?」
ノルンは少し考えた。
自分の能力を全部説明する必要はない。
「それは秘密です」
フローラは一瞬止まり。
そして笑った。
「お互い、言いたくないことは無理に聞かない」
「はい!」
「覚えています」
昨日まで。
秘密は怖いものだった。
誰にも言えず。
一人で抱え。
知られたら何かが壊れる気がしていた。
でも今。
秘密を共有できる相手が一人いる。
それだけで。
少し違った。
フローラは窓の外へ目を向けた。
青い空。
庭園。
花。
行き交う使用人達。
いつもの景色。
物語では、この頃のフローラはアルノルドとの婚約準備を始めているはずだった。
王妃教育。
婚約披露。
贈り物。
二人で進む未来。
けれど、今のフローラはそこに立っていない。
それでも。
空は青い。
庭の花は咲いている。
使用人達は働き、誰かが笑っている。
世界は何も壊れていなかった。
ただ、一人の少女が。
決められていたはずの未来から外れ。
自分の人生を。
自分で選び始めただけだった。
「ノルンさん」
「はい」
フローラは窓の外を見ながら、少しだけ微笑んだ。
「私、少しだけこれからが楽しみになりました」
ノルンも笑う。
「それは、とても良いことだと思います」
物語の主人公だからといって。
物語通りに生きなければならないわけではない。
その当たり前のことを。
フローラはようやく。
本当の意味で信じ始めていた。




