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『転生者観察官ノルンの苦労は終わらない 〜神様達がまたやらかしたので、今日も異世界を見回ります〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第七話 秘密を打ち明けたら、相手の方がもっと大きな秘密を抱えていました



 翌朝、スカーレット公爵邸の空は薄い雲に覆われていた。


 雨が降るほどではないものの陽射しは弱く、庭園に植えられた花々の色も普段より少しだけ落ち着いて見える。朝露を残した芝生には庭師達の足跡がいくつも続き、屋敷の裏手からは、いつものように洗濯場の水音と働く女性達の声が聞こえていた。


 フローラは自室の窓辺に立ち、その音へしばらく耳を傾けていた。


 昨日、ノルンと話した場所もあちら側にある。


 白いシーツが風に揺れる中庭で、自分はアルノルドが怖いとはっきり口にした。両親以外の誰かへ、その言葉を隠さず伝えたのは初めてのことだった。


 それだけではない。


 ノルンは、普通なら知らないはずのことを知っている者、まだ起きていない出来事を知っているように行動する者、本来なら選ばなかった道を何かの理由で避ける者を探していると言った。


 そして、そんな人物が何も悪いことをしていないのなら、無理に何かを変えさせるのではなく、見守るだけだとも言っていた。


 誰かに決められた通りに生きなければならない理由はない。


 昨日から、その言葉が何度も頭の中へ戻ってくる。


「お嬢様」


 背後から声を掛けられ、フローラは窓から視線を外した。


 振り返ると、エレナが一通の封筒を手にして立っている。


「ローゼン伯爵令嬢から、お返事が届いております」


「クラリスから?」


「はい。つい先ほど、使者の方がお持ちになりました」


 フローラは一瞬だけ緊張した。


 昨日、三日後に予定されていた茶会を欠席すると伝えた。理由は心身が落ち着かないためとし、また別の日に二人で会いたいという言葉も添えてある。


 クラリスが、それをどう受け取ったのか。


 もし、自分がアルノルドを避けるために茶会を断ったと気づかれたら。


 王太子殿下に対して失礼ではないかと咎められたら。


 あるいは、アルノルドときちんと話して仲直りするべきだと説得されたら。


 そう考えてしまう自分が少し嫌だった。


 クラリスは大切な友人なのに。


「ありがとうございます」


 フローラは封筒を受け取り、少しだけ躊躇してからゆっくりと封を切った。


 中から現れた便箋は、いつものクラリスらしい可愛らしい花模様のものだった。昔からこういう小物を好む少女だったことを思い出し、それだけでも胸の緊張が少し和らぐ。


 最初の一文へ目を落とす。


『フローラ、昨日はごめんなさい』


 そこで、フローラの指が止まった。


「……謝っている?」


 思わず声に出すと、エレナも僅かに眉を上げた。


 続きを読む。


『殿下が同じ日に我が家へいらっしゃることは、あなたへ招待状を送った時には知りませんでした。父から聞いたのも、招待状を出した後です』


 フローラの呼吸が僅かに止まる。


『もちろん、父は王太子殿下の公務予定をお断りできる立場ではありません。けれど、あなたが今、殿下と距離を置きたいのなら、同じ日に茶会を開くべきではないと思いました』


 便箋を持つ指から、少しずつ力が抜けていった。


『ですので、今回は茶会自体を延期します。あなたが元気になったら、今度は本当に二人だけでお茶をしましょう。殿下にも他の方にも内緒で、私のお部屋でお菓子を食べてもいいですわ』


 そこまで読んだところで、フローラの口元へ自然と笑みが浮かんだ。


 そして最後に。


『あなたが嫌だと思っていることを、私が勝手に良いことへ変えようとは思いません。ただ、お友達ではいさせてください』


 その一文を読んだ瞬間、胸の奥が熱くなった。


「クラリス……」


 フローラは便箋を胸元へ引き寄せた。


 涙が溢れるほどではない。


 でも、ずっと強張っていた場所がゆっくりと解けていくようだった。


「よかったですね」


 エレナの声も柔らかかった。


「はい」


 フローラは小さく頷く。


「私……少し疑っていました」


「それは仕方がございません」


「でも、クラリスは何も知らなかった。私を殿下へ会わせるために招待したわけではなかったのに」


 フローラは少し俯いた。


「私は、もしかしたら殿下に頼まれて私を誘ったのではないかと考えてしまいました」


「お嬢様」


 エレナは穏やかな声で遮った。


「警戒することと、嫌うことは違います」


 フローラが顔を上げる。


「今のお嬢様は、クラリス様の悪意を探したかったわけではございません。自分が再び怖い思いをしないために、何が起こる可能性があるのか確かめたかっただけでしょう」


「……そうなのでしょうか」


「少なくとも、私にはそのように見えます」


 エレナは無理に慰めるような笑顔を作らなかった。ただいつも通りの落ち着いた表情で、フローラの言葉を待っている。


 フローラは再び手紙へ目を落とした。


 クラリスとは、まだ友達でいられる。


 アルノルドを避けることと、友人を失うことは同じではない。


 昨日ノルンに言われた通りだった。


「エレナ」


「はい」


「お返事を書きます」


「すぐに?」


「はい。クラリスへ、ありがとうと伝えたいです。それから……私も友達でいたいと」


 エレナは小さく微笑んだ。


「かしこまりました。便箋をお持ち致します」


          ◇◇◇


 一方、その頃。


 公爵邸の洗濯場では、朝からいつも通りの賑やかな声が飛び交っていた。


「ノルン!」


「はい!」


「その桶は?」


「二人で持ちます!」


「よし!」


 マーサの問いに、ノルンは元気よく返事をした。


 そして今日のノルンは、本当にきちんとリナと二人で大きな桶を持ち上げていた。昨日のように一人で持とうとはせず、わざとらしく重そうな顔を作ることもなく、相手の歩調に合わせて運んでいる。


「成長したねえ」


 反対側を持つリナが感心したように笑う。


「主様にも教わりましたので!」


「そこまでのことかな」


「私にとっては重要です!」


 ノルンは真剣だった。


 普通の人間らしい力加減。


 普通の人間らしい仕事の仕方。


 転生者を見つけるより難しいのではないかと、本気で思う瞬間すらある。


 もっとも、洗濯場での仕事に集中しているからといって、観察官としての感覚まで完全に閉じているわけではない。


 フローラの様子。


 屋敷を出入りする者達。


 外部から向けられる視線。


 周囲の魔力の変化。


 異常な気配がないか。


 そうしたものを、仕事を邪魔しない程度に意識の片隅で確認していた。


 そして昨日から、一つだけ気になっていることがある。


 公爵邸の外。


 正門から少し離れた通り。


 朝から、同じ種類の気配がいくつか存在していた。


 一人ではない。


 少なくとも二人。


 いや、時間によって配置や人数が変わっている。


 公爵家の警備兵ではない。


 王都の衛兵でもない。


 商人や近隣住民の視線とも違う。


 昨日も僅かに感じていた。


 今日は、もっとはっきりしている。


「ノルン?」


「はい?」


「今、また考え事してた?」


 リナの声に意識を戻される。


「少しだけ」


「桶、こっちに傾いてるよ」


「あっ」


 二人で持っている桶が、僅かにリナ側へ傾いていた。


 ノルンは慌てて高さを合わせる。


「申し訳ありません!」


「考え事しながら仕事すると、マーサに怒られるよ」


「気をつけます」


 素直に返事をしながら、ノルンは心の中で一つ決めた。


 昼休みに。


 少しだけ。


 確認しよう。


          ◇◇◇


 王城の王太子執務室では、アルノルドが朝から複数の書類へ目を通していた。


 北部鉱山の採掘量。


 南部河川の整備計画。


 王都商業区の税率調整案。


 隣国から届いた交易品の価格変動。


 どれも王太子として軽視できない内容ばかりだった。


 アルノルドは、こうした政務において極めて優秀だった。


 一度読めば重要な数字をほぼ覚え、複数の報告を照らし合わせて問題点を見つけ、必要と判断すればその場で担当部署へ指示を出す。臣下からの評価も高く、国王も政治面では息子をかなり信頼している。


 民からも期待されている。


 王太子として見れば。


 本当に、よくできた人物だった。


 ただし。


 机の左端にだけ、他の政務書類とは種類の違う薄い報告書が置かれている。


 セドリックはその存在へ何度か視線を向けた後、静かに息を吐いた。


「殿下」


「何だい?」


「こちらの報告書ですが」


 セドリックが視線で示すと、アルノルドは隠す様子もなく答えた。


「フローラについてだよ」


「それは存じております。私がお聞きしたいのは、その内容についてです」


 セドリックは机上の報告書を手に取った。


 記されているのは、スカーレット公爵邸周辺の確認事項だった。


 外出時刻。


 同行者。


 訪問客。


 交友関係。


 公爵邸へ出入りした人物。


 ただし、その下には複数の禁止事項も並んでいる。


『屋敷内部への侵入禁止』


『フローラ本人への接触禁止』


『公爵家使用人への買収、脅迫、私的接触禁止』


 そこだけを見れば、アルノルドなりに以前より抑えようとしていることは分かる。


 しかし。


「殿下」


「うん」


「これは監視です」


「安全確認だよ」


 アルノルドは書類から顔を上げない。


「フローラへ近づくつもりはない。手紙も送っていない。花も贈っていない」


「はい」


「茶会にも行かない」


「ローゼン伯爵家への公務は?」


「延期した」


 セドリックが僅かに目を見開いた。


 それは初耳だった。


「フローラが茶会へ行かないのなら、急ぐ必要はないからね」


「……それは、つまり」


「約束通り、今は距離を置くよ」


 アルノルドは静かに笑った。


「だから、直接は会わない」


「しかし、屋敷の外から誰と会うのかは確認するのですね」


 セドリックが報告書を机へ戻す。


「危険な人物が近づかないかを見るだけだ」


「交友関係まで記録する必要がありますか?」


「何かあった時、知らなければ守れない」


「殿下」


 セドリックの声が少し低くなった。


「昨日、ご自身で仰ったはずです。フローラ様が、なぜ殿下を怖がるのか知る必要があると」


「言ったよ」


「もしかすると」


 セドリックは一度言葉を選んだ。


「それが原因ではないのですか」


 アルノルドの筆が止まる。


 青い瞳が、静かにセドリックへ向いた。


「何が?」


「知られていることです」


「……」


「ご本人が話していないことまで、殿下が知っていること」


 アルノルドは何も言わない。


 セドリックは慎重に続けた。


「誰と会ったのか。どこへ行ったのか。何をしたのか。何を好み、誰と親しくしているのか。そうしたことを、自分で話していないのに相手が知っている。それを怖いと思う人間はいます」


「それは昔から知っていることも多い」


「昔からだから、怖くないとは限りません」


 部屋の空気が少し張り詰めた。


 相手は王太子だ。


 普通の臣下なら、ここまで踏み込んだ言葉を口にすること自体を躊躇うだろう。


 だがセドリックは視線を逸らさなかった。


「殿下は、知らないことに耐える必要があるのではありませんか」


 長い沈黙が落ちた。


 窓の外から、王都の鐘の音が微かに聞こえてくる。


 アルノルドは椅子の背へ身体を預けた。


「知らないことに、耐える」


「はい」


「フローラが今、何をしているのか」


「はい」


「誰と話しているのか」


「はい」


「知らなくても」


 アルノルドは目を伏せた。


「何もしない」


「そうです」


 アルノルドは少し笑った。


 けれど、その笑みは楽しそうなものではなかった。


「難しいね」


「存じております」


「君は簡単に言う」


「簡単だとは思っておりません」


 セドリックは声を荒げず、ただ静かに続ける。


「ですが、必要だと思っております」


 アルノルドはしばらく報告書を見つめた。


 紙の上には、スカーレット公爵邸の周囲へ配置している者達の簡単な一覧がある。


 指先が、その人数をなぞる。


 やがて。


「半分にする」


 セドリックの眉が僅かに動いた。


「何を?」


「公爵邸の外へ置いている者達」


「全員ではなく?」


「……今は、半分」


 アルノルドは一度目を閉じた。


 それでも。


 以前なら、減らすという発想そのものがなかっただろう。


「本人への接触は禁止のまま。屋敷内部へ入ることも禁止する。外出と安全確認だけで、それ以上は調べさせない」


 自分へ言い聞かせるような声だった。


 セドリックは完全には納得していない。


 ただ、今のアルノルドが一気に全てを手放すのは難しいということも理解していた。


「承知致しました」


「セドリック」


「はい」


 アルノルドは窓の外へ視線を向けた。


「私は、フローラを怖がらせたいわけではない」


「分かっております」


「守りたいだけなんだ」


 セドリックは一度深く息を吸った。


「守られる側が、それを守られていると感じているのか」


 アルノルドを見る。


「そこも、考えてください」


 アルノルドは。


 今度も。


 答えなかった。


          ◇◇◇


 昼休み。


 洗濯場から少し離れた使用人用の裏庭で、ノルンは主様が持たせてくれた昼食を食べていた。


 パン。


 ゆで卵。


 少量の干し肉。


 そして青い果実。


「昨日より豪華だね」


 隣でパンを食べていたリナが言う。


「主様が持たせてくださいました!」


「本当に過保護だね、その人」


「ありがたいことです!」


 ノルンは青い果実を一口齧った。


 ほどよい酸味のあとに、優しい甘さが広がる。


 主様が選んでくれた。


 それだけで、少し美味しく感じるのだから不思議だった。


 けれど食事を楽しみながらも、意識の一部は屋敷の外へ向いている。


 朝より人数が減っていた。


 最初は四人。


 今は二人。


「……減りました」


「何が?」


「あ」


 リナがこちらを見る。


 ノルンは一瞬だけ考えた。


「果物が」


「そりゃ食べたからでしょ」


「はい!」


 危なかった。


 ノルンは内心で反省しながら、残った果実を食べ終える。


「リナさん」


「何?」


「少しだけ、お手洗いへ」


「いってらっしゃい」


 ノルンは自然に立ち上がった。


 洗濯場の建物の裏へ回り、人影がないことを確認する。


 そして次の瞬間。


 ノルンの姿が、その場から消えた。


 転移ではない。


 人間の目では追えない速度で移動しただけだ。


 数秒後。


 ノルンは公爵邸から少し離れた建物の屋根へ立っていた。


 今の茶髪姿の上から黒い外套を羽織り、認識阻害と気配遮断を薄く重ねる。魔力を使い過ぎれば感知能力の高い者に違和感を与える可能性があるため、あくまで必要最低限だった。


 屋根の端から、静かに下を見る。


 二人の男。


 どちらも一見すれば一般人に見える。


 一人は果物屋の向かいで買い物客を装い、もう一人は少し離れた路地の入口に立っている。


 しかし。


 視線は。


 何度も。


 スカーレット公爵邸の正門へ向いていた。


「誰でしょう」


 ノルンは小さく呟いた。


 魔力の癖。


 装備。


 靴。


 立ち方。


 周囲へ向ける意識。


 兵士や騎士の訓練を受けている可能性が高い。


 さらに、片方の男が懐から小さな紙片を取り出した時、衣服の内側に刻まれた紋章が一瞬だけ見えた。


 王太子府。


「……なるほど」


 ノルンの表情が少しだけ険しくなった。


 アルノルド本人は来ない。


 代わりに、別の者へ見させている。


 フローラは、このことを知っているのだろうか。


 もし知らないのなら。


 それはかなり問題がある。


 ただし、ノルンはすぐに二人を排除しようとはしなかった。


 主様から何度も教えられている。


 まず観察する。


 何をしているのか。


 どこまで踏み込んでいるのか。


 目的は何か。


 確認してから判断する。


 片方の男が、正門から出てきた使用人へ一瞬視線を向ける。


 紙へ何かを書き込む。


 もう一人が懐中時計を確認する。


「外出」


 ノルンは小さく呟いた。


「訪問客……そして、おそらく交友関係」


 フローラがアルノルドを怖いと言った理由。


 自分が話していないことまで、相手が知っている。


 その感覚。


 昨日より。


 少し理解できる気がした。


「主様」


 ノルンは心の中で小さく呼びかける。


「少し、ややこしいです」


 それでも今は止めない。


 まず記録する。


 そして。


 フローラ本人が、この監視についてどこまで知っているのかを確かめる。


 ノルンは二人の顔と声、装備、気配をしっかり記憶した。


 その後。


 来た時と同じように、誰にも気づかれることなく屋根から姿を消した。


          ◇◇◇


 午後。


 フローラはクラリスへの返事を書き終えていた。


 朝より表情は柔らかくなっている。


 便箋には、茶会を延期してくれたことへの感謝と、疑ってしまったことへの謝罪、そして自分もこれから先ずっと友達でいたいという気持ちを、できるだけ素直な言葉で綴った。


「これをお願いします」


「承知致しました」


 エレナが封筒を受け取る。


「できれば今日中に」


「すぐに使者を出します」


 フローラは頷いた。


 けれど、エレナが部屋を出ようとしたところで。


「エレナ」


「はい」


「ノルンさんは……本日も洗濯場に?」


「はい」


「忙しいでしょうか」


 エレナが少しだけフローラを見る。


「お呼びしますか?」


 フローラはすぐには答えなかった。


 窓の外へ目を向ける。


 昨日。


 言えなかった。


『私――』


 その続き。


 自分の秘密。


 話すのは怖い。


 前世。


 日本。


 この世界が物語だということ。


 全部話したら、どうなるのか分からない。


 でも。


 このまま何も言わずに。


 ノルンが自分を探しているかもしれない。


 そう考え続ける方が、もっと怖かった。


「お願いできますか」


「もちろんです」


「仕事が終わってからで構いません」


「では、そのようにお伝えします」


 エレナは少し微笑み、部屋を出ていった。


 一人になったフローラは胸元へ手を当てる。


 話したら。


 どうなる。


 捕まる?


 連れていかれる?


 元の世界へ戻される?


 この世界から追い出される?


 何か罰を受ける?


 けれど。


 ノルンは言った。


 何も悪いことをしていないなら、見守るだけだと。


 未来を変えること自体が悪いわけではないと。


「信じても……よいのでしょうか」


 小さく呟いても、答えは返ってこない。


 それでも。


 今日は昨日より。


 少しだけ前へ進みたかった。


          ◇◇◇


 夕方。


 仕事を終えたノルンは、昨日と同じ中庭へ来ていた。


 朝より雲は薄くなり、西の空から差し込む夕陽が木々の葉を淡い金色へ染めている。洗濯場では一日の最後の片づけが始まっており、水を流す音や桶を重ねる音、働く女性達の笑い声が遠くから届いていた。


 フローラはすでに待っていた。


 今日は茶の用意はない。


 小さな丸机もなく、二脚の椅子だけが木陰に置かれている。


 エレナは少し離れた位置に立ち、こちらの会話がはっきりとは聞こえない距離を保っていた。


「お待たせ致しました」


「いいえ」


 フローラの声は少し硬かった。


 ノルンはすぐに気づいたが、無理に明るく振る舞うことはしなかった。


「どうされましたか?」


「ノルンさん」


「はい」


 フローラは両手を膝の上で強く握った。


「昨日の続きです」


「はい」


「あなたは、普通なら知らないことを知っている方を探していると言いました」


「はい」


「まだ起きていないことを知っているような方。本来なら選ばない道を避ける方」


 ノルンは黙って頷く。


 フローラの唇が僅かに震えた。


「それは……例えば」


 一度、言葉が止まる。


「この世界が、物語だと知っているような人ですか」


 風が吹き。


 頭上の葉が、さらさらと音を立てた。


 ノルンの意識が完全にフローラへ向く。


 けれど、すぐには答えなかった。


 その沈黙の中で。


 フローラは、自分から続けた。


「私は、知っています」


 ノルンの胸が静かに鳴った。


「アルノルド殿下が、いつ、何をするのか。全部ではありません。忘れていることもありますし、細かい部分はもう曖昧です」


 一度呼吸を整えようとする。


 けれど、上手くいかない。


「でも、大きな出来事は知っています」


 ノルンは何も挟まない。


 ただ待つ。


「私は以前、別の世界で生きていました」


 ついに言った。


「そこには、日本という国がありました」


 ノルンの瞳が僅かに動いた。


 世界記録では、すでに転生者としてほぼ確定している。


 けれど。


 本人が。


 自分の口で。


 初めて言った。


「私は、その世界で」


 フローラは少しだけ苦く笑った。


「この世界のお話を読んでいたのです」


「物語を?」


 ノルンが初めて小さく問い返した。


「はい。恋愛小説でした」


「その中で、フローラ様は」


「主人公です」


 一度言ってしまえば、もう止められなかった。


「私はアルノルド殿下と婚約して、一度大きくすれ違って、それでも最後には結婚します。そして……王妃になる」


 フローラの目が少し潤んだ。


「そういう物語でした」


 ノルンは驚いている。


 当然。


 フローラはそう思った。


 けれど、目の前の少女の表情は、驚愕よりも静かな納得に近い。


 それが逆に不安だった。


「信じられませんよね」


「いいえ」


 返事は即座だった。


「信じます」


 フローラが目を見開く。


「……どうして?」


「それは」


 ノルンはそこで一度言葉を止めた。


 正体を明かすか。


 主様は、本人がもう少し信頼してくれるまで待とうと言っていた。


 そして今。


 フローラは、自分から誰にも言えなかった秘密を打ち明けている。


 たぶん。


 その時が来た。


 けれど。


 まず。


 最後まで聞きたい。


「続けていただけますか」


 ノルンがそう言うと、フローラは少し驚いた後、ゆっくり頷いた。


「前世の記憶を思い出したのは、十二歳の時です」


 王城の階段から落ちた。


 頭を打った。


 三日間眠った。


 目を覚ました時。


 日本で生きていた前世の記憶が、一気に戻ってきた。


 その中には。


 この世界を描いた物語の記憶もあった。


「最初は、嬉しかったのです」


「嬉しかった?」


「はい。好きだった物語の世界でしたから」


 その時だけ、フローラの顔に少し懐かしむような笑みが浮かんだ。


 けれど。


 すぐに消える。


「もう原作を読み返すことはできません。ですから、細かいところは忘れてしまっています」


「はい」


「でも、覚えていることはある」


 フローラの手が僅かに震えた。


「アルノルド殿下は……私を、とても愛してくださいます」


 ノルンは黙って聞く。


「本当に。何よりも」


 声が小さくなる。


「だから、私が誰と話したのか、どこへ行くのか、何を好きなのか……全部、知ろうとなさる」


 ノルンは、昼に見た王太子府の者達を思い出した。


 公爵邸の外から。


 出入りする者を確認し。


 記録していた男達。


「婚約後は、もっと強くなります」


「どのように?」


「私が他の男性と話せば、その方を遠ざける。外出先も殿下が把握するようになる。誰と会うのかも、誰から手紙が来たのかも」


 フローラの声が少し詰まった。


「でも原作の私は、最後にはそれも愛なのだと受け入れます」


「原作のフローラ様が?」


「はい」


 ノルンは少しだけ間を置いた。


「今のフローラ様は?」


 フローラが顔を上げる。


「……怖いです」


 昨日と同じ言葉。


 けれど。


 今日は理由まで。


 はっきりしている。


「だから、求婚を断りました」


 少しだけ自嘲するように笑う。


「あの日、物語では受けるはずだったのに」


 ノルンは知っている。


 王立庭園。


 全力で逃げていった銀髪の少女。


「でも、私は嫌でした」


 フローラは膝の上で手を握り直した。


「世界を壊したいわけではありません。誰かを不幸にしたいわけでもありません。王国をどうにかしたいわけでもない」


 一度、目を閉じる。


 そして。


 一粒だけ。


 涙が頬を滑った。


「ただ、物語通りに生きたくなかった」


 ノルンは。


 その言葉を。


 静かに受け止めた。


 世界を変えたいわけではない。


 大きな力を求めているわけでもない。


 王国を支配したいわけでもない。


 自分の人生を。


 自分で選びたい。


 ただ、それだけ。


「ノルンさん」


 フローラが恐る恐るこちらを見る。


「私は……捕まりますか?」


 ノルンの目が少し大きくなる。


「何を仰って」


「あなたが探していたのは」


 声が震える。


「私ですよね」


 ノルンは少しだけ黙った。


 ここで嘘をつく意味はない。


「はい」


 フローラの顔から血の気が引いた。


「では――」


「フローラ様」


 ノルンは穏やかに遮る。


「捕まえません」


 フローラが止まった。


「え?」


「どこかへ連れていくこともしません。罰もありません」


「でも」


「物語と違う行動をしたからといって、何か悪いことをしたわけではありません」


 ノルンは一つずつ、はっきり伝えた。


「本当に?」


「はい」


「でも、私は本来と違う未来を」


「自分の人生を選んだだけです」


 昨日と同じ言葉だった。


「それを、私は止めません」


 フローラの目が揺れる。


 安心。


 驚き。


 まだ残る恐怖。


 それらが入り混じっていた。


「では……あなたは」


 声が少し小さくなる。


「誰なのですか?」


 ついに。


 そこへ来た。


 ノルンは一度周囲を確認した。


 エレナは離れたところにいる。


 洗濯場からも、こちらを直接見る者はいない。


「フローラ様」


「はい」


「今から少し、驚かれるかもしれません」


 フローラの肩に僅かに力が入る。


「ですが、その前に一つだけお伝えします」


「何でしょう」


 ノルンは真っ直ぐフローラを見た。


「私は、フローラ様の敵ではありません」


 次の瞬間。


 ノルンの身体を淡い光が包んだ。


「……え?」


 フローラが椅子から立ち上がる。


 頬のそばかすが消えていく。


 茶色だった髪は根元から白へ変わり、次第に長さまで変化して、肩を越え、背を越え、腰のあたりまで美しく流れ落ちた。


 灰色の簡素なワンピースも淡い光に包まれ、元の白いワンピースへ戻っていく。


 顔立ちは同じ。


 確かにノルンだ。


 けれど。


 先ほどまで洗濯場で働いていた少女とは、存在そのものの印象が違っていた。


 ノルンは肩掛け鞄を開き、その中へ腕を差し入れる。


 小さな鞄から現れたのは。


 彼女の身長ほどもある。


 真っ白な杖だった。


 フローラは完全に言葉を失った。


「改めまして」


 ノルンは杖を横へ持ち、左手を胸元へ添えた。


 主様の前で行うのと同じ。


 正式な礼。


「私はノルン」


 一度、静かに息を整える。


「世界管理者直属の、転生者観察官です」


 長い沈黙が落ちた。


 フローラは口を少し開いたまま、何度か瞬きをしている。


「……転生者、観察官?」


「はい」


 ノルンは頷いた。


「転生者を探し、その方がこの世界で何をしようとしているのかを確認し、基本的には見守る。それが私の仕事です」


「そのために、この世界へ?」


「はい」


 フローラは自分の胸元へ手を置いた。


「では……主様というのは?」


 その質問に。


 ノルンの表情が少しだけ誇らしげになる。


「私がお仕えする、世界管理者であられる方です」


「世界……管理者」


「はい」


「神様?」


「違います」


 即答だった。


「神様とは別です」


「別……なのですか?」


「はい」


 ノルンは少し困った。


 説明すればするほど、話が大きくなる。


「神様達は、魂や世界そのものへ関わる方々です。そして主様は、そうした世界が大きく壊れたり、均衡を失ったりしないよう見守っておられます」


「そんな方が……」


「はい」


 そこでノルンは、ほんの少しだけ視線を逸らした。


 次の話を。


 どう言うべきか。


「それから」


「はい」


「今回、フローラ様がこの世界へ転生された件ですが」


 フローラは何となく。


 嫌な予感がした。


「その神様達の……ミスである可能性が高いです」


 フローラは完全に止まった。


「……ミス?」


「はい」


「神様の?」


「はい」


「私の転生が?」


「……はい」


 数秒。


 何も言わない。


 フローラは、もっと壮大なものを想像していた。


 何か使命がある。


 特別な魂として選ばれた。


 物語を変える役目がある。


 誰かを救うために前世の記憶を持っている。


 そんな。


 何かしらの意味が。


「間違えた……?」


「おそらく」


 ノルンは申し訳なさそうに答えた。


 フローラは力が抜けたように椅子へ座った。


「そう、だったのですね」


「フローラ様?」


 心配になってノルンが少し身を屈める。


 すると。


 フローラが笑った。


 涙の残る。


 少し変な笑顔だった。


「私……ずっと、何か意味があるのだと思っていました」


「意味ですか?」


「物語を変えろとか」


「ありません」


「誰かを救えとか」


「少なくとも、私は聞いていません」


「アルノルド殿下と結婚しなければならないとか」


「ありません」


 今度ははっきり答えた。


 フローラの目が揺れる。


「では」


 一度、声が震える。


「本当に……好きに生きても?」


「はい」


 ノルンは迷わなかった。


「構いません」


 フローラは目を閉じた。


 一粒。


 また涙が落ちる。


 でも今度の涙は。


 恐怖だけから出たものではなかった。


「よかった」


 小さな声。


 ノルンには、はっきり聞こえた。


「本当に……よかった」


 笑いながら。


 少し泣く。


 ノルンは近づかなかった。


 抱きしめない。


 背中も撫でない。


 今のフローラがそれを望んでいるか分からないから。


 ただ。


 そこにいた。


 しばらくして、フローラが目元を拭う。


「すみません」


「謝らなくて大丈夫です」


「ノルンさん」


「はい」


「一つ、お願いしても?」


「私にできることでしたら」


 フローラはノルンを見上げた。


「もう少し詳しく、教えていただけますか」


 転生者。


 観察官。


 世界管理者。


 神様達。


 まだ聞きたいことは山ほどある。


 ノルンは少し笑った。


「もちろんです」


 その時。


 遠くの洗濯場から声が飛んできた。


「ノルンー!」


 リナだった。


「帰るよー!」


 ノルンは反射的に振り返る。


「はい!」


 大きな声で返事をした。


 フローラが一瞬驚く。


 そして。


 白髪。


 白い杖。


 世界管理者直属。


 転生者観察官。


 どう考えても普通ではない存在なのに。


 洗濯場から名前を呼ばれれば。


 普通に。


 大声で返事をする。


「……ふふ」


 フローラが笑った。


 ノルンが首を傾げる。


「どうされました?」


「いいえ」


 フローラは涙を拭いながら、今度は少し自然に笑った。


「少しだけ、安心しました」


「なぜでしょう?」


「転生者観察官でも、リナさんには普通に呼ばれるのですね」


「はい!」


 ノルンは胸を張った。


「私は現在、洗濯場の臨時雇いでもありますので!」


 フローラは今度こそ。


 声を出して笑った。


 今日初めて。


 本当に力の抜けた笑いだった。


 夕暮れの中庭に、その声がゆっくりと広がっていく。


 ノルンは。


 その笑顔を見て。


 ほんの少しだけ。


 安心した。


          ◇◇◇


 その夜。


 管理領域へ白い光が広がった。


「ただいま戻りました!」


 現れたノルンは、いつも通り大きな声で帰還を告げる。


 長椅子へ座って読みかけの本を開いていた主様が、顔を上げた。


「おかえり、ノルン」


「はい!」


 主様はノルンの顔を少し見つめた。


「今日は、何か大きなことがあったね」


 ノルンが少し驚く。


「分かるのですか?」


「顔に出てる」


「そうでしょうか」


「うん。かなり」


 ノルンは自分の頬へ手を当てた後、少しだけ姿勢を正した。


「では、ご報告致します」


 主様も読みかけの本を閉じる。


「フローラ・スカーレット様より、ご自身が前世の記憶を持っていること、日本という国で生きていたこと、そしてこの世界を物語として知っていることを直接お聞きしました」


 主様の黒い瞳が僅かに細くなる。


「本人から?」


「はい」


「自分の意思で?」


「はい」


 主様は少し笑った。


「君を信じたんだね」


 その言葉に、ノルンの胸が少し温かくなる。


「そうであれば、嬉しいです」


「それで?」


「私も、転生者観察官であることをお伝えしました」


 主様が少し目を瞬く。


「全部?」


「世界管理者直属であることまで」


「神々のことは?」


「少しだけ」


「ミスの話も?」


 ノルンは僅かに視線を逸らした。


「……はい」


 主様が黙る。


 ノルンの表情に、少しだけ不安が浮かんだ。


「問題でしたでしょうか」


「いや」


 主様はすぐに首を横へ振った。


「本人が自分から秘密を明かしてくれたのなら、君だけ正体を隠し続ける必要はない」


「よかったです」


「反応は?」


「安心されていました」


「神々のミスだと聞いて?」


「はい」


 主様は少し複雑そうな表情になった。


「使命があると思っていたそうです」


「なるほど」


「物語を変えろ、誰かを救え、王太子殿下と結婚しろ、そういった理由があるのではないかと」


「ないね」


「はい」


 ノルンは少し笑った。


「好きに生きてよいとお伝えしたら、泣いておられました」


 主様の表情が静かになる。


「十二歳で思い出して、今が十六歳」


「はい」


「四年、一人で抱えていたんだね」


 ノルンは静かに頷いた。


「それから」


「まだある?」


「はい」


 今度は表情が真面目になる。


「王太子府の者と思われる監視要員を、公爵邸の外で確認しました」


 主様の笑みが消えた。


「何人?」


「朝は四名。昼には二名まで減っていました」


「フローラへ接触した?」


「していません」


「屋敷へ侵入は?」


「ありません」


「何を確認していた?」


「公爵邸への出入り、訪問者、フローラ様の外出、交友関係などと思われます」


 主様が小さく息を吐いた。


「アルノルドか」


「はい」


「昨日より人数を減らした」


「その可能性が高いです」


「本人なりには努力を始めている」


「はい。ただ」


 ノルンは少し困った顔になる。


「やっていること自体は、フローラ様が最も怖がっていることに近いです」


「そうだね」


 主様は窓の向こうに浮かぶ無数の世界の光へ視線を向けた。


「どうする?」


 判断を委ねられた。


 ノルンは少しだけ考える。


「今は止めません」


 主様がノルンを見る。


「理由は?」


「現時点では直接危害を加えておらず、公爵邸への侵入も本人への接触もしていないためです」


「うん」


「ただし」


 ノルンの声が少し真面目になる。


「フローラ様には、このことを知る権利があると思います」


「伝える?」


「明日、もう少し状況を確認してからお伝えしようと思います」


 主様は数秒考え。


 頷いた。


「いい判断だと思う」


「ありがとうございます」


 主様は少し笑った。


「ノルン」


「はい」


「君、フローラの味方になり始めているね」


 ノルンが僅かに止まった。


「観察対象です」


「うん」


「それ以上では……」


 そこまで言って。


 今日のフローラを思い出す。


 涙。


 怖いという声。


 安心したような笑顔。


 白いシーツの下で話した時間。


「……少し」


 正直に言う。


「気になる方です」


 主様は穏やかに笑った。


「それでいいよ」


「よろしいのですか?」


「情を持たないことと、公平でいることは別だから」


 ノルンの目が少し柔らかくなる。


「はい」


「ただし」


「はい」


「代わりに人生を決めない」


「分かっています」


「アルノルドを勝手にどこか遠くへ転移させない」


「しません!」


「王城ごと隔離しない」


「しません!」


「王太子府を消さない」


「しません!」


 ノルンは少し頬を膨らませた。


「主様は、私を何だと思っておられるのですか」


「すごく真面目で」


「はい」


「すごく強くて」


「はい」


「困っている人を見ると、たまに全力で何とかしようとする子」


 ノルンは反論しようとして。


 できなかった。


「……気をつけます」


「うん。それでいい」


 主様は優しく笑った。


 ノルンは机へ移動し、今日の観察記録を開く。


『転生者:フローラ・スカーレット』


 確認済み。


 前世、日本。


 原作知識保有。


 十二歳時、事故をきっかけに前世記憶覚醒。


 現在、原作通りのアルノルドとの婚約を回避することを希望。


 世界破壊の意図なし。


 他者への加害意図なし。


 危険度、極めて低い。


 長期間、一人で前世記憶と原作知識を抱えていたことによる強い不安あり。


 ノルンへ自発的に秘密を開示。


 転生者観察官の正体について、本人へ開示済み。


 その下。


『関連注意対象:アルノルド・エル・タリウス』


 フローラへの直接接触、現在なし。


 公爵邸外に王太子府所属と思われる監視要員を確認。


 人数は朝四名、昼二名。


 本人なりに自制を始めた兆候あり。


 ただし監視行動そのものが、フローラの主要な恐怖要因と重なる。


 継続観察。


 ノルンは最後に一文を書き加えた。


『明日、フローラ様へ王太子府の監視について伝えるか、最終確認後に判断する』


 そして。


 少し迷ってから。


 もう一文。


『フローラ様が笑われた。少し安心した』


 主様が横から覗く。


「ノルン」


「はい?」


「それ」


「はい」


「また観察記録?」


 ノルンは少し身構えた。


「大切な変化です!」


「そうだね」


「今回は必要だと思います!」


「うん」


 主様は笑った。


「今回は僕もそう思うよ」


 ノルンの顔が少し明るくなる。


「ありがとうございます!」


 こうして。


 フローラ・スカーレットは、自分が前世の記憶を持つ転生者であることを、初めて自分の意思でノルンへ打ち明けた。


 そして。


 秘密を明かした相手もまた。


 普通の少女ではなかった。


 神々の失敗を追い、世界の外側から転生者を見守る存在。


 世界管理者直属。


 転生者観察官、ノルン。


 互いの秘密を知ったことで。


 二人の間には。


 昨日までとは少し違う。


 小さな信頼が生まれ始めていた。


 けれど。


 フローラはまだ知らない。


 公爵邸の外では今も、誰かが自分の動きを記録している。


 そして、その事実が。


 アルノルドへの恐怖を。


 もう一度。


 今度はより具体的な形で突きつけることになる。


 それは。


 翌日のことだった。

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