第六話 転生者候補のお嬢様から、なぜかお茶に誘われました
翌朝、スカーレット公爵邸の裏門には、朝の鐘が鳴るより少し早く、一人の少女が立っていた。
茶色の髪を簡素にまとめ、頬には薄いそばかす。身につけているのは王都の町娘ならどこにでもいそうな灰色のワンピースで、肩には小さな布袋を提げている。両手には昼食を包んだ布を大切そうに抱えており、昨日とほとんど変わらない姿だった。
もちろん、その正体は世界管理者直属の転生者観察官ノルンである。
「よし。お弁当、あります。手帳、あります。昨日注意されたことも、覚えています」
まだ門が完全に開く前だというのに、ノルンは小声でそう呟きながら、指を一本ずつ折って確認していた。周囲から見れば、仕事へ行く前に忘れ物がないか確かめているだけの真面目な少女にしか見えない。
しかし、確認している内容は少しばかり普通ではなかった。
昨日は昼食を忘れた。
濡れた大型シーツを片手で支えてしまった。
屋敷内の地図を細かく描いた手帳をリナに見られ、「そんなものを持ち歩いていたら怪しまれる」と注意された。
そして何より難しかったのが、普通の人間として振る舞うための力加減だった。
昨夜、管理領域へ戻ったノルンは、一日の観察報告を終えたあと、主様へかなり真剣な顔で相談している。
『主様、私、普通に働いていたつもりなのですが』
『うん』
『どうやら、少し力が強すぎたようです』
『少し、かな』
『……かなりでしょうか』
『濡れた大型シーツを片手で持ち上げる町娘は、あまりいないと思うよ』
その時の主様の穏やかな笑みを思い出し、ノルンは今になってわずかに肩を落とした。
その後は管理領域にある木箱や水桶を使い、普通の少女ならどれほどの重さをどのように持つのか、主様に付き合ってもらいながら練習までした。ノルン自身にとっては木箱も桶も紙切れのように軽く、力を込めることより、むしろ力を出さないことの方が難しい。
『無理に重そうな顔をしなくていいよ。普通に二人で持てばいい』
『なるほど』
『ノルンは弱そうに見せようとするから、余計に不自然になるんだ』
最後には、そんな助言まで受けた。
だから今日の目標は単純だった。
何でも一人でやらないこと。周囲に合わせること。観察対象ばかりを見ないこと。そして、人間らしく働くこと。
「完璧です」
ノルンが満足そうに頷いた、その時だった。
「朝から何が完璧なの?」
門の向こうから、聞き慣れ始めた声がした。
振り向くと、昨日洗濯場で一緒に働いたリナが、呆れたように笑いながら立っている。赤茶色の髪を後ろでまとめ、朝からすでに仕事用の前掛けを身につけていた。
「リナさん! おはようございます!」
「おはよう。今日も早いね」
「遅刻しないようにと思いまして!」
「早すぎるのも考えものだよ。門番さん、さっきから何度もあんたのこと見てたから」
言われて視線を向けると、確かに裏門の警備を担当する男が、何とも言えない顔でこちらを見ていた。
ノルンは慌てて頭を下げる。
「申し訳ありません!」
「謝らなくていいって。ほら、入ろう」
リナに促され、ノルンは裏門をくぐった。
朝の公爵邸は、すでに静かな忙しさの中にあった。
厨房からは焼きたてのパンと温かいスープの匂いが流れ、厩舎では馬の蹄が床を鳴らしている。庭師達は朝露の残る芝生へ入り、枝葉の状態を確かめながら今日の作業を相談していた。侍女達は主人一家が本格的に動き出す前に、食堂や廊下、応接室を整えている。
昨日のノルンは、フローラを見つけたことや、公爵邸への潜入に成功したことばかりへ意識を向けていた。そのため、屋敷で働く人々の日常までゆっくり見る余裕がなかった。
けれど今日は少し違う。
一人一人に仕事があり、それぞれの生活があり、その積み重ねで大きな屋敷が動いている。
主様がいつも言っていた言葉を、ノルンは思い出した。
世界は記録だけではできていない。そこに生きる者達の日々の積み重ねこそが世界なのだ、と。
「ノルン、それ何?」
リナが、ノルンの抱えている布包みへ視線を落とした。
「お昼です!」
「今日はちゃんと持ってきたんだ」
「はい! 主様が朝食の残りを包んでくださいました!」
「また主様?」
「はい!」
ノルンの声が、明らかに一段明るくなる。
「昨日、昼食を忘れたとご報告しましたら、今日は忘れないようにとパンと卵と果物を持たせてくださいました!」
「その主様、本当に偉い人なの?」
「とても偉い方です!」
「話を聞いていると、偉い人というより世話焼きのお父さんみたいだけど」
リナが笑う。
ノルンは真剣に考えた。
主様は父親ではない。世界管理者であり、自分の上司であり、何より敬愛する存在である。
ただ、食事を用意してくれる。無理をすると休ませようとする。魔法鞄を一緒に整理してくれる。力加減の練習にまで付き合ってくれる。
「確かに、いつも大変お世話になっています」
「でしょ?」
「ですが、私は主様の部下ですので!」
「そこは絶対に譲らないんだね」
リナは苦笑した。
洗濯場へ到着すると、責任者であるマーサがすでに仕事の割り振りを始めていた。大きな桶の周囲には何人もの女性達が集まり、使用人棟から運ばれてきた布類や寝具を種類ごとに分けている。
「おはようございます!」
ノルンが元気よく挨拶すると、何人かの女性が振り返った。
「おはよう、ノルン」
「今日も早いね」
「昼飯は持ってきたのかい?」
最後の問いはマーサだった。
「はい!」
ノルンは待っていましたと言わんばかりに布袋を持ち上げる。
「本日は忘れておりません!」
「そこまで胸を張ることじゃないよ」
周囲から笑いが起きる。
昨日一日だけ働いた少女へ向けるには、その笑いはすでに親しげだった。ノルン自身も、昨日よりほんの少しだけこの場所へ馴染んだような気がして、自然と頬が緩む。
「今日は昨日ほど大物は多くないよ。午前中に使用人棟の寝具を片づけて、午後は厨房と厩舎の布物を分けて洗う」
「はい!」
「それからノルン」
「はい!」
「昨日みたいに、何でも一人で持とうとしない」
「承知しております!」
「本当に?」
「昨夜、主様からもご指導いただきました!」
マーサが一瞬黙った。
「……あんた、本当に何でもその主様に報告してるんだね」
「はい!」
「その人、苦労してそうだ」
「なぜ皆さんそう仰るのでしょうか」
ノルンが本気で不思議そうに首を傾げると、また笑いが広がった。
◇◇◇
同じ頃。
フローラは自室の窓辺で、昨夜届いた一通の招待状を見つめていた。
薄桃色の上質な封筒には、ローゼン伯爵家を示す薔薇の紋章が刻まれている。差出人は、幼い頃からの友人であるクラリス・ローゼン伯爵令嬢だった。
内容は決して不自然ではない。
王太子アルノルドからの求婚を拒否したという噂を聞き、心配している。三日後、気分転換に小さな茶会へ来ないか。参加者はフローラとクラリス、それから共通の友人である令嬢二人だけ。
男性は招かない。
王城ではなくローゼン伯爵邸の庭園で開く。
無理にとは言わないが、久しぶりに顔を見たい。
親しい友人から届いた、思いやりのある手紙だった。
本来なら、嬉しかったはずだ。
けれどフローラは昨夜から、何度も同じ一文を読み返している。
『男性は招きませんので、どうか安心してくださいませ』
「……わざわざ、書いてある」
指先でその文をなぞる。
クラリスを疑いたくない。
彼女は大切な友人だ。
幼い頃から共に茶会へ出て、失敗すれば笑い合い、アルノルドとの関係についても何度も相談へ乗ってくれた。
物語の中でも、クラリスは決して悪人ではない。
むしろフローラとアルノルドの恋を心から応援し、二人がすれ違えば心配し、仲直りできるよう何度も手を貸してくれる優しい友人だった。
だからこそ怖い。
悪意がないからだ。
原作で、フローラとアルノルドが一度大きな喧嘩をした時。
フローラはアルノルドを避ける。
そこでクラリスが茶会を開いた。
女性だけの気軽な茶会だと聞かされ、フローラは参加する。
だが茶会の途中、アルノルドが「偶然」ローゼン伯爵邸へ立ち寄る。
近くまで来たから挨拶に寄った。
父であるローゼン伯爵と公務の話があった。
そんな理由だった。
そして庭園でフローラを見つけ、驚いたふりをする。
読者だった頃の自分は、その場面を少し強引だけれどロマンチックだと思った。
逃げるヒロイン。
追いかける王子。
友人の手助けによる再会。
誤解が解け、また恋が進む。
恋愛小説としてなら、確かに王道の展開だった。
けれど今、自分がアルノルドを避けている理由は喧嘩ではない。
怖いからだ。
会いたくないからだ。
それなのに、自分の意思とは関係なく相手が現れる可能性がある。
「クラリスは、どこまで知っているのでしょう」
フローラは小さく呟いた。
背後で紅茶を用意していたエレナが、静かに顔を上げる。
「ローゼン伯爵令嬢のことでございますか?」
「はい」
フローラは招待状を机へ置いた。
「クラリスが私を騙そうとしているとは思いません」
「私も、その可能性は低いと考えております」
「でも、殿下から『フローラが落ち込んでいるようだから、気分転換をさせてあげてほしい』などと言われたら」
そこで言葉が止まった。
エレナも、すぐには何も言わない。
あり得る。
非常に。
アルノルドは直接、「フローラを茶会へ呼べ」と命じたりはしないかもしれない。
ただ、心配している。
少し元気がないようだ。
友人として支えてあげてほしい。
そう言えばいい。
クラリスなら善意で動く。
「お嬢様」
「はい」
「昨日のお話ですが」
エレナは少し間を置き、話題を変えた。
「ノルンについて、世話役へ確認致しました」
フローラの視線が上がる。
「何か分かりましたか?」
「ほとんど何も」
「……何も?」
「はい」
エレナは少し困った表情になる。
「紹介したハンナという女性も、ノルンとは一昨日初めて会ったそうです」
「一昨日」
「本来、洗濯場へ入る予定だった娘が熱を出し、急いで代わりを探していたところ、通用門付近で仕事を探していたノルンと出会ったと」
「偶然に」
「本人はそう話しているようです」
フローラの指先が、机の上でゆっくり動いた。
遠方から王都へ来た。
人を探している。
主様という人物に頼まれた。
その人を見つけたかもしれない。
ただし本人が何を考えているのかを、もう少し見たい。
そして偶然、公爵邸の洗濯場へ。
「村の名前は?」
「はっきりとは話していないそうです」
「住んでいる場所は?」
「宿を転々としている、と」
「身元を保証できる方は?」
「現在のところ、いないようです」
普通なら警戒すべきだろう。
高位貴族の屋敷へ、身元のよく分からない少女が働きに来ているのだから。
しかし不思議なことに、フローラはノルンを怖いとは思わなかった。
アルノルドとは正反対だった。
アルノルドについては、幼い頃から知っている。家柄も、性格も、能力も、どこで何をしているのかも、それなりに分かっている。
それなのに怖い。
一方のノルンについては、何も分からない。
何者なのか。
どこから来たのか。
主様とは誰なのか。
探している人とは誰なのか。
何も分からないのに、昨日、白いシーツの陰で話していた時。
久しぶりに少しだけ息ができた。
「エレナ」
「はい」
「あの方を、どう思いますか?」
問いかけると、エレナは少し考えた。
「変わった娘だとは思います」
「それは、私も」
「力が強く、物覚えもよい。仕事にも真面目で、身分によって態度を変える様子もないと聞いております」
「身分によって?」
「お嬢様へは当然礼儀を取っておりますが、洗濯場の女性達に対しても、同じように一生懸命だそうです」
フローラは窓の外を見る。
遠くの洗濯場では、ちょうど二人の女性が大きな桶を運んでいた。
その一人がノルンだ。
今日は、きちんと二人で持っている。
「昨日は、あれを一人で持っていたそうですね」
「マーサから注意されたそうです」
「……注意される内容が普通と違いますね」
思わず、フローラの口元が緩む。
「お嬢様」
「何でしょう」
「気になるのでしたら、直接お話しされてはいかがですか」
エレナは穏やかに言った。
フローラが振り返る。
「私から?」
「はい」
「ですが、私は公爵家の娘です」
「存じております」
「彼女は臨時雇いです。私から呼べば、断れないのではありませんか?」
「でしたら、断っても構わないと先にお伝えすればよろしいでしょう」
「それで本当に断れるでしょうか」
「少なくとも」
エレナの目に少しだけ笑みが浮かぶ。
「使用人達を使って遠くから身元を探り続けるよりは、お嬢様らしいと思います」
フローラはしばらく黙った。
「エレナ」
「はい」
「今、私を注意しましたか?」
「少しだけ」
即答だった。
フローラは苦笑した。
エレナは、自分が幼い頃から仕えている。
公爵令嬢としてではなく、フローラ本人を見てくれる相手だった。
「分かりました」
フローラはもう一度窓の外へ目を向ける。
「午後のお茶の時間に、ノルンさんへ声を掛けてもらえますか」
「承知致しました」
「でも、仕事が忙しいなら無理に呼ばないでください」
「はい」
「それから……応接室はやめましょう」
「では?」
「昨日の中庭で」
洗濯場に近い、白いシーツが風に揺れていたあの場所。
「かしこまりました」
フローラは、もう一度クラリスの招待状を見つめた。
茶会。
アルノルド。
物語。
そして、物語にはいなかったノルンという少女。
いくつものものが頭の中で絡まり、考えれば考えるほど答えが分からなくなる。
だからこそ。
少しだけ話してみたかった。
あの少女と。
◇◇◇
「私が、お嬢様とお茶を?」
昼を少し過ぎた頃。
使用人棟のタオルを畳んでいたノルンは、目の前に立つエレナを見上げたまま固まった。
その周囲では、マーサやリナをはじめとする洗濯場の女性達が、何となく手を動かしながらも、耳だけは完全にこちらへ向けている。
「はい」
エレナはいつも通り落ち着いていた。
「フローラお嬢様が、昨日のお話の続きを少ししたいと仰っております」
「私と?」
「あなたとです」
「なぜでしょう」
「それを私へ聞かれましても」
エレナの口元がほんの少しだけ動いた。
「ただし、これは命令ではありません。仕事中でもありますし、気が進まなければ断って構わないと、お嬢様ご自身が仰っております」
「断る理由はありません!」
即答だった。
しかも大声。
「ノルン」
マーサの低い声が飛ぶ。
「はい」
「声」
「申し訳ありません」
今度は少し小さくなる。
「お招きいただけるなら、喜んで」
「では、少し身支度を整えてください」
「はい!」
ノルンは言われて初めて、自分の姿を見下ろした。
腕まくりした袖。
濡れた前掛け。
水の跳ねた頬。
少し乱れた髪。
「あ」
リナが笑った。
「そのまま公爵令嬢のお茶へ行くつもりだった?」
「今、気づきました」
「顔も少し濡れてるよ」
リナは近くにあった清潔な布を取り、ノルンの頬を拭いた。
「ありがとうございます」
「しかし、二日目でお嬢様からお茶に誘われるって、すごいね」
「私も理由が分かりません」
「昨日、何を話したの?」
「シーツを見ながら、人探しについて少し」
「それだけ?」
「たぶん」
口ではそう答えたが、ノルン自身は違うと思っていた。
フローラは自分を怪しみ始めている可能性が高い。
昨日の会話で、ノルンが誰かを探していることは話した。
ただ、普通なら知らないことを知っている人物や、本来なら選ばないはずの道を避ける人物を探していることまではまだ伝えていない。
それでも。
ノルンが誰を見ているのか。
フローラは少しずつ気づき始めているのかもしれない。
「ノルン」
マーサが声を掛ける。
「お嬢様を待たせるんじゃないよ」
「はい!」
「それから、変なこと言うんじゃないよ」
「変なこと?」
「……自覚ないんだね」
周囲から笑いが起こる。
ノルンはまた少しだけ首を傾げた。
◇◇◇
昨日と同じ中庭。
大きな木の下には、小さな丸机と二脚の椅子が用意されていた。
豪華な応接室とは違い、ここには風が通る。遠くには洗濯場が見え、時折、働く女性達の声や水音が聞こえてきた。
フローラは淡い青色のワンピースを着ており、美しい銀髪も今日は簡単にまとめている。
ノルンが近づくと、フローラはすぐに立ち上がった。
「お待たせ致しました」
「いいえ。お仕事中に申し訳ありません」
「大丈夫です!」
「どうぞ、座ってください」
「よろしいのですか?」
「お茶へ誘っておいて、立たせるわけにはいきません」
「では、失礼致します」
ノルンは向かいの椅子へ座った。
エレナが紅茶を注ぎ、小さな焼き菓子を皿へ並べる。
その瞬間。
ノルンの目が少しだけ輝いた。
フローラは、それを見逃さなかった。
「甘いものがお好きなのですか?」
「はい!」
「昨日も焼き菓子を食べたと話していましたね」
「主様からいただきました!」
「主様」
フローラは、その呼び名を静かに繰り返した。
ノルンの背筋がほんの少し伸びる。
やはり。
その話を聞きたいのだ。
「ノルンさん」
「はい」
「少し、あなたのことを聞いてもよいでしょうか」
「答えられることでしたら」
フローラの空色の瞳が僅かに細くなる。
「答えられないこともあるのですか?」
「誰にでも、秘密の一つや二つはありますので」
ノルンは少しだけ笑った。
その言葉に、フローラの指がティーカップへ触れたまま止まる。
秘密。
前世。
物語。
転生。
誰にも言えない自分の秘密。
「そうですね」
フローラも小さく笑った。
「私にもあります」
ノルンは何も聞かなかった。
何の秘密ですか、とも。
なぜ隠しているのですか、とも。
「では、お互いに言いたくないことは無理に聞かないことにしましょう」
何気ないように言われたその一言が、フローラの胸へ静かに落ちた。
「ありがとうございます」
「いえ」
フローラは一度息を整える。
「では……あなたは、どこから来たのですか?」
「遠いところです」
「どれくらい?」
ノルンは本気で考えた。
管理領域は世界の外側にある。
距離で測れる場所ではない。
「歩いては、たぶん辿り着けないくらいです」
「外国?」
「外国より遠いです」
「海の向こう?」
「それよりも、もう少し」
フローラの目が僅かに動く。
「……随分遠いのですね」
「はい」
嘘ではない。
しかし、普通の答えでもなかった。
フローラの中で、ノルンへの違和感がまた一つ積み重なる。
「では、その遠い場所から、誰かを探して王都へ?」
「はい」
「主様という方に頼まれて?」
「そうです」
「その主様は、どのような方なのですか?」
その問いを聞いた瞬間。
ノルンの表情が一気に柔らかくなった。
「とてもお優しい方です」
声に込められるものまで変わる。
敬意。
信頼。
親愛。
「たくさんの場所を見守っておられます。何か問題が起きれば、まず困っている人達のことを考えます。ご自身が大変でも、誰かへ責任を押しつけたりはされません」
「立派な方なのですね」
「はい!」
「それほど大切な方?」
「私にとって、何よりも」
迷いのない答えだった。
フローラは少しだけ羨ましいと思った。
誰かをそこまで信じられることが。
「では」
フローラは慎重に続けた。
「その主様から頼まれて、探している方は、どのような方なのですか?」
焼き菓子へ伸びかけていたノルンの手が止まる。
「分かりません」
「分からない?」
「はい」
「名前も?」
「候補はあります」
「姿も?」
「候補はあります」
「それでは、どうやってその人だと分かるのですか?」
少しだけ強くなった声。
ノルンはフローラを見た。
どこまで話すべきか。
まだ転生者だと確定したわけではない。
けれど、少しくらいなら。
「その方にしかできないことを探します」
「その方にしか?」
「はい」
「例えば?」
ノルンは一度だけ間を置き、ゆっくりと言葉を選んだ。
「普通なら知らないはずのことを知っている、とか」
フローラの指が止まる。
「まだ起きていないことを、知っているように行動するとか」
呼吸が僅かに浅くなる。
「本来なら選ばなかった道を、何か理由があって避ける、とか」
胸の奥が大きく鳴った。
「それだけで、その方だと分かるのですか?」
平静を装ったつもりだったが。
フローラ自身には分かった。
声が少し震えている。
「いいえ」
ノルンは首を横へ振った。
「だから見ています」
その言葉に。
フローラは動けなくなった。
「その方が、何を知っているのか。何を怖がっているのか。何を変えたいのか」
ノルンの声は穏やかだった。
追及するような響きは一切ない。
「そして、その方が今の世界で、ただ幸せに生きたいだけなのか」
フローラは何も言えなかった。
自分だ。
自分を探している。
そう思った。
何のために。
誰に頼まれて。
どこへ連れて行くために。
何も分からない。
それでも。
この少女が。
自分を探している気がする。
「もし」
フローラの声が少し震えた。
「もし、その探している方が、何も悪いことをしていなかったら?」
ノルンは迷わなかった。
「何もしません」
「……え?」
「見守るだけです」
フローラの目が大きくなる。
「本当に?」
「はい」
「その方が、自分の未来を変えようとしていても?」
「自分の人生でしょう?」
ノルンは本当に不思議そうに首を傾げた。
「誰かに決められた通りに生きなければならない理由はありません」
その一言が。
フローラの胸の奥へ深く落ちた。
物語。
主人公。
王太子。
婚約。
未来。
全部。
決まっているものだと思っていた。
そこから外れれば、何か悪いことが起こるのではないか。
自分が世界を壊してしまうのではないか。
ずっと心のどこかで怖かった。
でも。
今。
目の前の少女は。
変えていい。
自分で選んでいい。
そんなことを。
あまりにも普通のことのように言った。
「ノルンさん」
「はい」
「あなたは……」
言う?
言わない?
前世。
物語。
転生。
もう少しで、口から出そうになる。
「私――」
その時だった。
「お嬢様!」
中庭へ慌ただしい足音が響いた。
若い侍女が息を切らせながら走ってくる。
「失礼致します!」
「どうしました?」
「ローゼン伯爵家より、使者の方がいらしております!」
フローラの顔色が少し変わる。
「クラリス様から?」
「はい。三日後の茶会について、追加のお知らせが」
侍女から封筒を受け取り、フローラはすぐに開いた。
読み始める。
途中で。
指が止まった。
「……やはり」
小さな声だった。
「お嬢様?」
エレナが声を掛ける。
フローラは手紙を見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。
「茶会当日、アルノルド殿下がローゼン伯爵家を訪問されるそうです」
エレナの表情が変わる。
「殿下が?」
「茶会とは関係のない、公務だそうです」
フローラは乾いた笑みを浮かべた。
「偶然ですって」
そして。
小さく。
「やっぱり、同じ……」
ノルンの茶色い瞳が僅かに細くなった。
昨日。
世界記録が拾った。
『物語と同じ』
今日。
『やっぱり、同じ』
偶然では片づけにくい。
転生者候補としては、ほとんど確定と言っていい。
けれど。
今のノルンにとって。
それより気になるものがあった。
目の前のフローラだ。
手紙を握る指へ力が入り、血の気が少し薄れている。
「フローラ様」
ノルンは静かに呼んだ。
フローラが顔を上げる。
「行きたくないのですか?」
公爵家。
王家。
礼儀。
社交。
そんなものを何も挟まず。
本人の気持ちだけを聞いた。
フローラの唇が震えた。
「……怖いです」
家族以外へ。
初めて口にした。
「アルノルド殿下が?」
フローラは小さく頷く。
「はい」
エレナも少し驚いたようにフローラを見る。
けれどノルンは否定しなかった。
王太子なのに。
愛されているのに。
怖がるなんて。
そんな言葉は一つも口にしない。
「では」
ノルンは穏やかに笑った。
「怖くなくなるまで、無理に行かなくてもよいと思います」
フローラの目が揺れる。
「でも、クラリスは大切な友人です」
「なら、クラリス様とは別の日に会えばよいのでは?」
「え?」
「王太子殿下がいない日に」
あまりにも単純な答えだった。
フローラも。
エレナも。
一瞬だけ言葉を失う。
「茶会へ行かなければ、クラリス様と二度と会えないわけではありませんよね」
「それは……」
フローラは止まった。
そうだ。
なぜ。
そんなことに。
気づかなかった。
アルノルドを避ける。
友人を失う。
それは同じことではない。
物語を知っているから。
茶会へ行く。
そこで再会する。
仲直りする。
そんな流れが頭へ強く残っていた。
でも。
別に。
行かなければいい。
クラリスとは。
別の日に。
会えばいい。
「怖い場所へ、わざわざ行かなくてもよいと思います」
ノルンの声は優しかった。
フローラは手紙を見つめ、やがてゆっくりと息を吐く。
「そう、ですね」
「はい」
「それでも、いいのですね」
「私はそう思います」
フローラの肩から、少しだけ力が抜けた。
「エレナ」
「はい」
「クラリスへ返事を」
「ご欠席で?」
「はい。体調と気持ちが落ち着かないため、今回は欠席すると」
「承知致しました」
「それから」
フローラは少し考えた。
「また別の日に、二人でお茶をしたいと」
エレナの目元が和らぐ。
「かしこまりました」
フローラはノルンへ視線を戻した。
「ありがとうございます」
「私は何もしておりません」
「また、それですか」
「本当に」
「いいえ」
フローラは少しだけ笑った。
「少し、息がしやすくなりました」
その言葉に。
ノルンの胸が少し温かくなった。
「それなら、よかったです」
◇◇◇
その日の午後。
王城の王太子執務室では、アルノルドが一枚の報告書を静かに読んでいた。
ローゼン伯爵家。
三日後。
小規模茶会。
フローラ・スカーレット。
欠席。
机の向かいには、側近セドリックが立っている。
「フローラ様は茶会を欠席されるそうです」
「そう」
アルノルドの声は穏やかだった。
「理由は?」
「心身が落ち着かないため、しばらく静かに過ごしたいと」
「なるほど」
報告書を机へ置き、指先で紙の端をゆっくり撫でる。
「クラリスは?」
「茶会そのものを延期する意向のようです」
「私抜きで?」
「当然かと」
セドリックの声には、ほんの少し疲れが混じっていた。
アルノルドは窓の向こうへ視線を向ける。
遠く。
スカーレット公爵邸のある方向。
「殿下」
「うん?」
「今度こそ、お待ちください」
「分かっているよ」
アルノルドは静かに笑った。
「急ぎすぎたみたいだ」
セドリックが少し驚く。
「そう思われますか」
「フローラは、私を怖がっている」
初めて。
アルノルド自身が、その言葉を口にした。
「昨日、君に言われた時は認めたくなかった」
庭園での逃走。
大量の花。
手紙。
茶会。
思い返せば。
全部。
拒絶されている。
「少し、やり方を変える必要がある」
セドリックの肩から少しだけ力が抜ける。
「距離を置かれるので?」
「置くよ」
アルノルドは笑った。
「その間に、フローラがなぜ私を怖がるのか調べる」
セドリックの表情が固まった。
「殿下」
「理由が分かれば取り除ける」
「……」
「私自身が原因なら、私が変わればいい」
その言葉だけなら。
セドリックも。
希望を持てたかもしれない。
けれど。
アルノルドは続ける。
「フローラが安心して、私を選べるように」
セドリックは静かに息を吐いた。
まだ。
選ばれない未来というものが。
アルノルドの中には存在していない。
変わるための入口には立った。
ただ。
そこから先は。
まだかなり遠そうだった。
◇◇◇
夕方。
管理領域へ戻ったノルンは、主様の前で今日の報告を行っていた。
「以上です!」
主様は長椅子へ座り、ノルンがまとめた記録へ目を通している。
フローラとのお茶。
主様について聞かれたこと。
転生者を探す条件を、かなりぼかして説明したこと。
フローラが明確に動揺したこと。
そして。
茶会。
アルノルド。
欠席。
「ノルン」
「はい」
「フローラへ、茶会へ行かなくてもいいと言ったんだね」
「はい」
ノルンの声が少しだけ小さくなる。
「介入しすぎましたでしょうか」
主様はすぐには答えなかった。
記録をもう一度読み返す。
「僕は、問題ないと思う」
ノルンの顔が明るくなる。
「本当ですか?」
「うん。欠席しろと命令したわけじゃない。別の選択肢があると伝えただけだ」
「よかったです」
「それに」
主様は少し笑った。
「観察するだけが、見守ることじゃないからね」
ノルンが目を瞬く。
「困っている人へ、道が一つではないと教えること。それくらいなら、世界を歪める介入とは言わないよ」
「はい」
「ただし」
主様の声が少しだけ真面目になる。
「これから、フローラが君を頼るようになった時ほど注意して」
「どういうことでしょう?」
「君は強い」
「はい」
「フローラをアルノルドから守ろうと思えば、簡単にできる」
ノルンは黙った。
その通りだった。
王太子だろうと。
王国軍だろうと。
ノルンが本気でフローラを連れ出そうと思えば、止められる者はほとんどいない。
「でも、それをしたらフローラが自分で未来を選べなくなる」
ノルンの表情が引き締まる。
「私が、代わりに決めることになる」
「そう」
ノルンはしっかり頷いた。
「分かりました。私は見守ります」
「うん」
「フローラ様が、ご自身で選べるように」
「それでいい」
主様は少しだけ満足そうに笑った。
「それから」
ノルンが思い出したように顔を上げる。
「今日、フローラ様が『やっぱり、同じ』と仰いました」
主様の黒い瞳が僅かに細くなる。
「何を見て?」
「王太子殿下が、茶会の日にローゼン伯爵家を訪れると知った時です」
「昨日の『物語と同じ』に続いて」
「はい」
主様が机の上に置かれていた世界記録へ手を向ける。
厚い記録本がひとりでに開いた。
フローラの記録。
本来の物語。
婚約。
喧嘩。
クラリス。
茶会。
アルノルドが偶然を装って訪問する場面。
現状は原作とは少し違う。
それでも。
同じ人物。
同じ場所。
同じ手法。
「ほぼ確定だね」
主様が静かに言う。
「フローラ・スカーレットは」
ノルンも記録を見る。
「転生者」
「うん」
机の上。
フローラの名前の横に記されていた文字。
『転生者候補』
そこへ淡い光が走る。
そして。
文字が変わった。
『確認済み転生者』
ノルンは、その文字をしばらく見つめた。
見つけた。
神様達のミスにより、本来とは違う世界へ送られた魂。
「主様」
「うん」
「フローラ様へ、私の正体をお伝えしますか?」
主様は少し考えたあと、首を横へ振った。
「まだ」
「はい」
「本人が、もう少し君を信頼するまで待とう」
「ですが」
「彼女は今、王太子から追われていると思っている」
ノルンは黙る。
「そこへ突然」
主様は少し苦笑した。
「『あなたは転生者ですね』と別の存在まで現れたら、どう思うかな」
ノルンは想像してみた。
アルノルドから逃げているフローラ。
そこへ自分が現れ。
『転生者ですね』
「……逃げ場がないと思われるかもしれません」
「そう」
「では、今は」
「少し変わった」
主様が笑う。
「よく働く洗濯係で」
「はい!」
ノルンは胸を張った。
「明日も働きます!」
「そこはもう任務なのか、仕事なのか分からないね」
「どちらも全力です!」
主様は笑った。
ノルンも少し笑う。
転生者、フローラ・スカーレット。
確認。
危険度、極めて低い。
目的、王太子との婚約回避。
世界破壊の兆候、なし。
関連注意対象、アルノルド・エル・タリウス。
フローラへの執着、極めて強い。
ただし本人は、自分の行動がフローラを怖がらせている可能性へ、ようやく僅かに気づき始めた。
ノルンは今日の観察記録の最後へ、ゆっくり一文を書き加える。
『フローラ様は、物語から外れることそのものを恐れている可能性あり。今後も本人の意思を尊重し、必要以上の介入を避ける』
そして。
少し考え。
もう一文。
『本日、フローラ様からお茶へ招かれた。焼き菓子がとても美味しかった』
主様がそこへ目を向ける。
「ノルン」
「はい?」
「最後の一文は、観察記録に必要かな」
ノルンは真剣に考えた。
「大切な思い出です」
主様は一瞬黙った。
そして。
ふと。
王立庭園でフローラが逃げた時間や回数、その反応を事細かく記録していた、どこかの王太子を思い出す。
「……アルノルドと同じことを言わないでくれるかな」
「えっ!?」
ノルンの悲鳴が、静かな管理領域へ大きく響いた。
こうして。
転生者候補だったフローラは。
主様とノルンの中で、正式に確認済み転生者となった。
けれど本人は、まだ知らない。
そして王太子アルノルドも、まだ知らない。
自分が追いかければ追いかけるほど、フローラの心が少しずつ遠ざかっていることを。
その意味を本当に理解するのは。
もう少し先になる。




