第五話 王太子殿下は会いに来ませんが、何もしていないとは限りません
スカーレット公爵邸の洗濯場で、午後の鐘が鳴った。
遠く離れた王都中央の鐘楼から届いた音は、春の空気を震わせながら屋敷の庭へ広がっていく。白いシーツが並ぶ乾燥場では、風に持ち上げられた布が大きく膨らみ、鐘の余韻に合わせるようにゆっくりと揺れていた。
朝には人の背丈を越えるほど積み上がっていた洗濯物も、今は大半が洗い終わっている。
桶の中に残っているのは、厨房で使われた前掛けと、厩舎から運ばれてきた作業着だけだった。どちらも汚れが強く、他の布とは分けて最後に洗うことになっている。
ノルンは大きな桶の前へ座り、腕まくりをしたまま前掛けを洗っていた。
朝から何度も水を運び。
洗い終えたシーツを絞り。
乾燥場まで運び。
昼の休憩を挟んだ後も、ほとんど手を止めていない。
それでも疲れた様子はなかった。
むしろ、仕事を覚えるほど動きが滑らかになり、今では長く働いている使用人達と同じ速度で手を動かしている。
「ノルン、もう少し休んでもいいんだよ」
洗濯場の責任者であるマーサが、桶の反対側から声を掛けた。
「お昼もほとんど休んでいなかっただろう」
「しっかり休みました!」
「あれを休んだとは言わないよ。黒パンを食べ終わる前から、乾いた布を畳み始めていたじゃないか」
「風で飛んでしまいそうでしたので!」
「風で飛ばないよう、端を留めてあっただろう」
「それでも心配でした!」
ノルンが真剣な顔で答えると、近くで作業していたリナが吹き出した。
「ノルンは、何かしていないと落ち着かないんだね」
「主様から、任されたことには誠実に取り組むよう教わっております!」
「また主様かい」
マーサは呆れたように笑った。
朝からノルンの話を聞いていれば、その主様とやらが彼女にとって非常に大切な人物であることは誰にでも分かる。
姿も。
年齢も。
どこで何をしているのかも曖昧なのに。
優しくて。
頼りになって。
多くの場所を見守っていて。
ノルンが心から仕えている人物。
マーサ達は、田舎の小領主か、森の奥で暮らす変わり者の魔法使いではないかと想像していた。
まさか、無数の世界を管理している存在だとは思いもしない。
「その主様は、あんたがこんなに働き詰めでも心配しないのかい?」
「とても心配してくださいます!」
ノルンは胸を張った。
「いつも無理をしないようにと仰ってくださいます!」
「なら、少し休みな」
「まだ無理ではありません!」
「そういうことを言っているんじゃないよ」
マーサは深く息を吐いた。
だが、声音にはすでに親しみが混じっている。
ノルンは臨時雇いとして来たばかりだ。
出身地も曖昧。
力は異様に強い。
時折、普通の町娘とは思えない言葉遣いをする。
それでも、仕事へ取り組む姿勢は真面目で、誰かが困っていればすぐに手を貸す。教えられたことを一度で覚え、失敗すれば言い訳せずに謝る。
何より、働いている者達を身分で区別する様子がなかった。
公爵令嬢であるフローラへ向ける態度も。
洗濯場で働くリナへ向ける態度も。
どちらにも同じように真剣だった。
「今日は、ここまででいいよ」
マーサが言った。
「残りは私達で片づける」
「ですが、まだ作業着が残っております!」
「初日から全部やろうとしなくていい。明日も来るんだろう?」
「来てもよろしいのですか?」
「さっき世話役とも話したよ。本来来る予定だった子は、熱が下がるまで三日ほど掛かりそうだ。その間、あんたに手伝ってもらいたい」
ノルンの表情が明るくなる。
「ありがとうございます!」
「ただし、朝の鐘が鳴る少し前には来ること。食事も持ってくること。それから、力を隠そうとして妙な芝居をしないこと」
「承知致しました!」
「その大きな返事を半分くらいにできないのかい」
「善処致します!」
「できなさそうだね」
洗濯場に笑い声が広がる。
ノルンも嬉しそうに笑った。
潜入初日としては、想像以上の成果だった。
フローラ本人と直接会話できた。
公爵家の使用人達からも、継続して働く許可を得た。
国王の使者が訪れたことも確認した。
使用人達の様子を見る限り、フローラが求婚を断ったことで、屋敷内から責められている気配もない。
今のところ、フローラの周囲に差し迫った危険は見られなかった。
ただし。
転生者であると断定できる証拠も、まだ得られていない。
物語の予定と異なる行動をした。
アルノルドへの恐怖を抱いている。
警戒心が高く、周囲をよく見ている。
それだけでは不十分だった。
「ノルン」
リナが、畳んだ布を抱えながら近づいてきた。
「帰るなら、裏門まで一緒に行こうか?」
「大丈夫です! 道は覚えました!」
「屋敷の中で迷って、違う場所に入らないでよ」
「そのようなことは致しません!」
ノルンは即答した。
だが、朝に洗濯場へ案内される途中、廊下の分かれ道を三度も振り返っていたことをリナは知っている。
「本当に?」
「地図を作りましたので!」
ノルンは服の内側から、小さな手帳を取り出した。
開かれたページには、公爵邸の使用人用通路と庭の一部が、驚くほど細かく描かれている。
洗濯場。
厨房。
裏門。
井戸。
使用人用食堂。
厩舎。
立ち入りを許されていない場所には、赤い印まで付けられていた。
リナは目を丸くした。
「これ、今日だけで描いたの?」
「はい。迷ってご迷惑をお掛けしないように!」
「随分と細かいね」
「観察は得意です!」
「観察?」
「道を覚えることです!」
ノルンは慌てて言い直した。
リナは不思議そうに首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。
「じゃあ、裏門まで行ったら、その地図は隠しておきなよ。屋敷の地図を持っていると、知らない人には怪しまれるかもしれないから」
「確かに!」
ノルンは素直に手帳を閉じる。
「リナさんは、いろいろなことに気づかれるのですね」
「ノルンが危なっかしいだけだよ」
「ご指導ありがとうございます!」
「そんな大げさに言われると、こっちが困るんだけど」
リナは苦笑しながら、ノルンの肩を軽く叩いた。
その自然な仕草に、ノルンは少しだけ目を細める。
任務先で親しくなった者達とは、いずれ別れなければならない。
観察が終われば、ノルンはその世界から去る。
多くの場合、自分が何者であったのかを伝えることもない。
彼女達の人生に、臨時雇いの変わった少女がいたという小さな記憶だけを残し、静かに消える。
それでも。
今この瞬間に向けられた親切を、軽く扱いたくはなかった。
「明日もよろしくお願い致します」
ノルンは、いつもより少し落ち着いた声で頭を下げた。
「こちらこそ。ちゃんと食事を持ってきてね」
「はい!」
結局、返事だけは大きかった。
◇◇◇
その日の夕方。
フローラは自室の机へ向かっていた。
窓の外では、傾き始めた陽が公爵邸の庭を淡い橙色に染めている。昼間、白いシーツが並んでいた乾燥場はすでに片づけられ、洗濯場から戻る使用人達の姿が遠くに見えた。
その中には、灰色のワンピースを着たノルンもいる。
朝と変わらず元気な足取りで裏門へ向かい、途中で何度も使用人達へ頭を下げている。
フローラは窓辺へ近づいた。
少しだけ開けた窓から、風が入ってくる。
ノルンが何かを話し。
周囲の女性達が笑う。
短い時間しか働いていないはずなのに、すでに洗濯場へ馴染んでいるように見えた。
「不思議な方ですね」
後ろで茶を準備していたエレナが、窓の外へ目を向ける。
「ノルンという娘ですか?」
「はい」
「マーサの話では、大変よく働くそうです。力が強く、物覚えも早いと」
「力が強いのですか」
「濡れた大きなシーツを、片手で持ち上げたそうですよ」
フローラは窓の外へ視線を戻した。
細く、小柄な身体。
見た目からは、とてもそのような力があるとは思えない。
「魔法を使ったのでしょうか」
「魔力の動きはなかったと聞いております」
「そうですか」
この世界では、魔法を使う際、周囲の魔力がわずかに揺れる。
訓練を受けた者でなければ見逃す程度の変化だが、公爵家には魔法を扱える使用人も多い。洗濯場にも、温度調整や湯沸かしを担当する簡単な術者がいる。
誰にも気づかれず、力だけを強化するほど高度な魔法を町娘が使うとは考えにくい。
ただ力が強いだけ。
そう考えれば、それで済む話だった。
それでも、フローラの胸には小さな違和感が残る。
ノルンと話している時。
あの少女の言葉は、時折、この世界の町娘とは思えないほど広い視点を持っていた。
困っていれば助ける。
望んでいなければ見守る。
たくさんの人を困らせるなら、嫌われても止める。
誰か一人を探しているだけの少女が、なぜあのような言葉を口にしたのか。
しかも。
フローラが窓から見ていた時。
ノルンは公爵邸の方角を確認しながら、小さな手帳へ何かを書いていた。
本人は「働く」と書いたのだと言っていたが。
あまりにも不自然だった。
「エレナ」
「はい」
「あの方は、どなたの紹介で屋敷へ?」
「使用人の働き口を世話しているハンナという女性です。ただし、元々紹介されていた娘が熱を出し、代わりを探していたところへ、偶然ノルンが現れたと聞いております」
「偶然」
「何か気になりますか?」
フローラはすぐには答えなかった。
ノルンが自分へ危害を加えるようには見えない。
むしろ、一緒にいると不思議と気持ちが落ち着いた。
だからこそ。
なぜ自分へ近づいたのかが分からないことが、少し怖かった。
「人を探していると言っていました」
「人を?」
「主と呼ぶ方に頼まれたそうです。遠い村から、その方を探して王都へ来たと」
「それが、公爵家にいる誰かだと?」
「まだ分からないそうです」
フローラは、昼間の会話を思い出す。
たぶん、見つかった。
けれど、本当に探していた相手か分からない。
何を考え。
何をしたいのか。
困っているのか。
今のままで幸せなのか。
もう少し見なければ、声を掛けてよいかも分からない。
あの時。
ノルンは確かに、自分を見ていた。
他の誰かについて話しているとは思えないほど、真っ直ぐに。
「まさか」
フローラの口から、小さな声が漏れた。
「私を探している?」
「お嬢様?」
「いいえ。何でもありません」
フローラは慌てて首を横へ振った。
自分が探される理由などない。
王太子に求婚された公爵令嬢としてなら、王都中に知られている。
しかしノルンは、フローラが誰であるかを知る前から、屋敷を見ていたように思える。
何より。
彼女が「探している方なのか、もう少し様子を見ないと分からない」と話していた時、フローラは妙な感覚を覚えた。
自分の秘密。
前世の記憶。
この世界が物語であると知っていること。
それを見透かされているような。
「あり得ません」
フローラは自分へ言い聞かせた。
前世や転生という言葉を、この世界で誰かから聞いたことはない。
物語の中にも登場しなかった。
フローラ自身が記憶を取り戻したことは、誰にも話していない。
日記にも書かず。
眠っている時に口へ出さないよう気をつけてきた。
知られるはずがない。
だが。
ノルンの存在は、前世で読んだ物語にはなかった。
少なくとも、フローラが覚えている限り。
「エレナ」
「はい」
「明日も、ノルンさんは来るのでしょうか」
「本来来る予定だった娘の代わりとして、数日は働くと聞いております」
「そうですか」
フローラは小さく頷いた。
「もしよろしければ、彼女の身元を少しだけ確認してもらえますか」
エレナの表情がわずかに引き締まる。
「何か怪しい言動がございましたか?」
「いいえ。そうではないのです」
フローラは、言葉を選ぶ。
「ただ、遠くから一人で来たと言っていました。頼れる方もいないようですから、本当に困っているのなら、必要な手助けができればと思って」
完全な嘘ではない。
ノルンへ危険を感じているわけではなかった。
ただ。
彼女が何者なのか。
どこから来たのか。
誰を探しているのか。
知りたかった。
「承知致しました」
エレナは静かに頭を下げた。
「不躾にならない範囲で、世話役へ確認しておきます」
「お願いします」
フローラは窓を閉めた。
ノルンの姿は、すでに裏門の向こうへ消えている。
部屋へ戻り、机の前へ座った。
机の上には、父から受け取った国王の書状の写しが置かれている。
国王はフローラを責めない。
婚約を強制しない。
アルノルドには、しばらく接触しないよう命じた。
その内容を何度読んでも、胸の奥にはまだ不安が残っていた。
アルノルドが父王の命令へ逆らうとは思わない。
王太子として、命令には従う。
だが。
物語の中の彼は、決められた範囲の中で最大限にフローラへ近づこうとする男だった。
会うなと言われれば、会わずに済む方法を考える。
手紙を送るなと言われれば、別の誰かに言葉を託す。
贈り物を控えろと言われれば、フローラが自分で手に取るよう周囲を動かす。
規則を破るのではない。
規則の隙間を見つけるのだ。
「殿下が、何もしないはずがありません」
フローラは立ち上がり、本棚へ向かった。
並べられた本の中から、王都の貴族名鑑を取り出す。
物語通りであれば。
求婚を拒絶されたアルノルドは、次に何をする。
記憶を辿る。
小説では、フローラが最初の求婚を受け入れている。
だから、今回と同じ状況は存在しない。
だが、物語の中で二人が一時的に喧嘩をし、フローラがアルノルドを避ける場面があった。
その時、アルノルドは直接会いに行かなかった。
代わりに。
「友人を」
フローラの指が、名鑑のあるページで止まる。
伯爵令嬢。
クラリス・ローゼン。
フローラの幼い頃からの友人。
社交界でも親しくしており、王城の茶会で何度も顔を合わせている。
物語の中でアルノルドは、クラリスへ頼み、フローラを茶会へ招かせた。
偶然を装い、自分もその場へ現れた。
「まさか」
フローラが呟いた、その時。
部屋の扉が叩かれた。
「お嬢様」
侍女の声だった。
「ローゼン伯爵家より、お手紙が届いております」
フローラの身体が固まった。
「どなたからですか」
「クラリス・ローゼン様からでございます」
予想していた名前。
それでも実際に聞けば、背中へ冷たいものが走った。
「持ってきてください」
「承知致しました」
扉が開き、若い侍女が銀盆を持って入ってくる。
その上には、淡い桃色の封筒が置かれていた。
クラリスが好んで使う便箋。
封蝋にもローゼン伯爵家の薔薇の紋章が刻まれている。
フローラは封筒を手に取った。
わずかに花の香りがする。
「お下がりください」
「はい」
侍女が部屋から出る。
扉が閉まったことを確認し、フローラは封を開いた。
便箋を広げる。
書かれているのは、親しい友人へ向けた明るい文章だった。
昨日のことを聞き、とても心配していること。
気分転換に、三日後、小さな茶会へ来てほしいこと。
出席者はクラリスとフローラ、それから共通の友人である二人の令嬢だけ。
男性は招かない。
王城ではなく、ローゼン伯爵家の庭園で開く。
無理にとは言わないが、顔を見せてもらえたら嬉しい。
どこにもアルノルドの名はない。
自然な招待状だった。
親友が心配し、少人数の茶会へ招く。
何も怪しいところはない。
物語を知らなければ。
「男性は招かない」
フローラは、その一文を指でなぞった。
わざわざ書かれている。
自分を安心させるためとも考えられる。
だが。
アルノルドがクラリスへ頼んだ可能性を考えれば、この一文こそが罠に見えた。
アルノルド本人が茶会へ招かれていなくても。
途中で偶然立ち寄ることはできる。
伯爵家の当主へ用があった。
近くまで来たから挨拶へ寄った。
王太子である彼が伯爵家を訪れても、不自然ではない。
「物語と同じ」
フローラの口から、無意識に言葉が漏れた。
言った直後。
自分の声に驚き、周囲を見回す。
誰もいない。
扉の向こうにも気配はない。
フローラは便箋を握り締めた。
アルノルドは会いに来ない。
手紙も贈り物も送らない。
国王の命令には従っている。
だが、友人を介してフローラを外へ誘い出すことまでは禁じられていない。
「殿下」
怒りと恐怖が混じった声だった。
「私が何も気づかないと、お思いですか」
茶会を断るべきだ。
そう思う。
だが、クラリスが本当に心配しているだけかもしれない。
親友の厚意までアルノルドの策略だと疑い、拒絶してしまえば、フローラは少しずつ周囲から孤立する。
それこそ、物語の中でアルノルドが望んだ形に近づいてしまう。
誰も信じられない。
どこにも行けない。
最後に頼れるのはアルノルドだけ。
「どうすれば」
フローラは便箋を机へ置いた。
頭の中で考えを巡らせる。
父へ相談する。
茶会には護衛を増やして参加する。
クラリスへ、アルノルドが関わっていないか直接確認する。
だが、どの方法を選んでも、完全に安心できるとは限らない。
その時。
昼間に交わしたノルンとの会話が思い浮かんだ。
焦って声を掛けず、相手が何を考えているのかを見てから判断する。
困っていれば助ける。
間違ったことをしようとしていれば止める。
ただの臨時使用人。
そう思っていた少女の言葉が、なぜか今は心へ残っている。
「ノルンさんなら」
そこまで言って、フローラは首を横へ振った。
彼女へ相談できるはずがない。
会ったばかりの使用人へ、王太子から追われているなどと話せば、困らせてしまう。
それでも。
誰か一人。
王家にも。
公爵家にも。
貴族社会にも関係のない者へ、話を聞いてほしいと思ってしまった。
◇◇◇
その頃。
王城の王太子執務室では、アルノルドが書類を読みながら、側近セドリックの報告を聞いていた。
「ローゼン伯爵家より、三日後に小規模な茶会を開くと届け出がありました」
「そう」
アルノルドは顔を上げない。
「招待客は?」
「クラリス・ローゼン伯爵令嬢。フローラ・スカーレット公爵令嬢。マリアンヌ・エルダ子爵令嬢。ソフィー・グラン男爵令嬢の四名です」
「男性は?」
「招待されておりません」
「ならば、私が行くことはできないね」
「はい」
セドリックは、アルノルドの表情を注意深く見ていた。
何も変わらない。
穏やかで。
冷静で。
公務へ集中している。
フローラへ接触しないという国王の命令にも、今のところ違反していない。
「殿下」
「何だい?」
「ローゼン伯爵令嬢へ、茶会を開くよう依頼されましたか」
アルノルドの筆が止まった。
だが、すぐに再び動き始める。
「依頼はしていないよ」
「本当ですか」
「彼女へ直接頼んではいない」
セドリックの眉が寄る。
「直接は?」
アルノルドは書類へ署名を入れ、机の端へ置いた。
「昨日、フローラがひどく動揺していたことを、クラリスへ伝えただけだ。親しい友人として、気に掛けてほしいと」
「それを聞けば、茶会へ招くと予想できたのではありませんか」
「クラリスが何をするかは、彼女自身の判断だよ」
「殿下」
「私はフローラへ会いに行かない。手紙も贈り物も送らない。父上の命令には従っている」
アルノルドは静かに笑った。
「それでも、フローラが友人達と過ごし、少しでも気持ちを落ち着けられるなら、良いことだろう?」
「その茶会へ、殿下が現れないのであれば」
「行かないよ」
即答だった。
セドリックは少しだけ安堵する。
だが。
「ただ、同じ日にローゼン伯爵と王都南部の道路整備について話す予定がある」
「それは、以前から決まっていたご予定ですか」
「今朝、決めた」
「殿下」
「茶会へ参加するわけではない」
アルノルドの笑みは崩れない。
「伯爵との話し合いを終え、帰る途中に庭園が見えることはあるかもしれないけれど」
「それを偶然とは申しません」
「私は偶然だと思うよ」
セドリックは、額へ手を当てたくなる衝動を堪えた。
命令は破っていない。
茶会へ招かれていない。
フローラへ会うことを目的とした訪問ではない。
形式上は。
だが、アルノルドがフローラを見ようとしていることは明らかだった。
「陛下へ報告致します」
「構わないよ」
アルノルドは平然と答えた。
「父上に止められれば、伯爵家へは行かない」
「それでも、別の方法を考えられるのでしょう」
アルノルドは、少しだけ目を細めた。
「私はただ、フローラが心配なだけだ」
「フローラ様は、殿下に心配されること自体を恐れている可能性があります」
「ならば、恐れなくていいと分かってもらう」
「どうやってですか」
「時間を掛けて」
穏やかな言葉。
だが。
そこに、諦めるという選択は含まれていない。
「何年掛かっても構わない」
アルノルドは窓の外を見た。
「彼女が私を受け入れるまで、待つよ」
セドリックは何も答えなかった。
待つ。
その言葉だけなら、相手の意思を尊重しているように聞こえる。
しかしアルノルドにとっての待つとは、距離を置くことではない。
フローラがどこにいるのかを知り。
何を考えているのかを確かめ。
自分を選ぶ可能性が消えないよう、あらゆる手段を残し続けることだった。
◇◇◇
管理領域へ戻ったノルンは、主様の机の前で背筋を伸ばしていた。
茶色の髪とそばかすは消え、雪のような白髪と白いワンピースへ戻っている。
机の上には、今日一日の観察記録が広げられていた。
「以上が、スカーレット公爵邸で確認した内容です!」
ノルンは報告を終え、深く頭を下げた。
主は記録へ目を通している。
フローラとの初接触。
公爵家の使用人達の反応。
国王からの使者。
洗濯場での継続雇用。
そして。
濡れた大型シーツを片手で持ち上げた失敗。
主の指が、その一文で止まった。
「ノルン」
「はい!」
「また力加減を忘れたのかい?」
予想していた質問だった。
ノルンは少しだけ肩を小さくする。
「リナさんの手からシーツが滑り落ちまして、反射的に」
「怪我を防いだのは良いことだよ」
「ありがとうございます!」
「でも、その後で重いふりをしたんだね」
「人間らしく見えるかと思いまして」
「見抜かれているね」
「はい……」
ノルンは俯いた。
主は怒らなかった。
代わりに、仕方がないというように小さく笑う。
「今度、また力加減の練習をしようか」
「精進致します!」
「それから、地図を作っているところも見られないようにね」
「そちらもリナさんからご指摘を受けました!」
「良い人と出会ったようだね」
「はい。とても親切な方です」
ノルンの声が少し柔らかくなる。
主はその変化に気づいたが、何も言わなかった。
ノルンが任務先の人々へ情を持つことを、悪いとは思っていない。
情があるからこそ、彼女は観察対象を記録上の数字として扱わず、一人の人間として見ることができる。
「フローラについて、どう感じた?」
主の問いに、ノルンは真剣な表情へ戻った。
「危険な人物には見えませんでした」
「理由は?」
「使用人達を見下す様子がなく、私のような臨時雇いへも気遣いの言葉を掛けてくださいました。精神的に疲れているようでしたが、周囲へ当たり散らすこともありません」
「王太子の求婚を断ったことへの後悔は?」
「婚約を断ったこと自体より、家族や公爵家へ迷惑を掛けたことを心配しているように見えました」
「なるほど」
主は記録へ新たな印を書き加える。
「現時点では、他者を傷つけてでも未来を変えようとしている兆候はない。観察継続でいいだろう」
「はい!」
「ただ」
主の目が、一つの記述で止まった。
「ノルンが探している相手について尋ねた時、フローラはかなり慎重に質問しているね」
「私も少し気になりました」
「君が自分を探していると気づいた可能性は?」
「まだ分かりません。ただ、私を見る目には警戒がありました」
「当然だろうね。突然現れた見知らぬ娘が、自分の屋敷で働き始めたんだから」
「もう少し自然に潜入すべきでしたでしょうか」
「今回は偶然の流れを利用しただけだ。問題はないよ」
主は、しばらく考えるように指先を組んだ。
「フローラが転生者なら、物語に存在しない人物へ強く警戒する可能性がある」
「私が、記録に存在しないからですか」
「そう。彼女がこの世界を物語として知っているなら、君という予定外の存在は気になるはずだ」
ノルンは小さく頷いた。
観察しているのは自分だけではない。
フローラもまた、ノルンを見ている。
「主様」
「何だい?」
「フローラ様が自分から前世について話されるまで、私は何も知らないふりを続けるべきでしょうか」
「基本的にはね」
主は穏やかに答えた。
「秘密を明かすかどうかは、本人が決めることだ。ただし、彼女が君の正体へ近づき、不安を強めるようなら、接触方法を考えよう」
「承知致しました」
「それから」
主が手を振る。
宙に新たな文字が浮かび上がった。
タリウス王国の自動観察記録。
そこには。
クラリス・ローゼン伯爵令嬢から、フローラへ茶会の招待状が送られたこと。
アルノルドが同じ日にローゼン伯爵家を訪問する予定を入れたこと。
二つの記録が並んでいた。
ノルンは目を見開く。
「これは」
「アルノルド本人からフローラへ接触してはいない。けれど、友人を介して外へ出る機会を作り、同じ場所へ行こうとしている」
「国王様の命令に反しているのでは?」
「形式上は反していない」
主の声には、わずかな疲れが混じった。
「だから厄介なんだろうね」
ノルンは腕を組み、記録を見つめた。
「王太子殿下の危険度を一段階」
「まだ上げないよ」
「ですが」
「行動は注意が必要だ。ただ、フローラへ危害を加えたわけではない。国王が止めれば従うとも記録されている」
「では、関連注意対象のままですか」
「うん。ただし、監視の優先度は上げる」
主はアルノルドの名前へ、小さな赤い印を加えた。
「茶会当日は、ノルンにも現地を見てもらいたい」
「承知致しました!」
「フローラが茶会へ参加するかは、まだ分からないけれどね」
「参加されなかった場合は?」
「アルノルドが次に何をするかを見る」
ノルンは少しだけ眉を下げた。
「やはり、転生者より王太子殿下の方が心配です」
「僕も、少しだけそう思い始めているよ」
主の言葉に、ノルンは大きく頷いた。
その時。
机の上に置かれていた世界記録の本が、突然淡い光を放った。
主が顔を向ける。
本が自ら開き、一つの文章が浮かび上がる。
スカーレット公爵邸。
フローラ・スカーレット。
私室にて発言。
物語と同じ。
ノルンの表情が変わった。
「主様」
「うん」
主も記録を見つめている。
偶然の言い回しである可能性はある。
だが。
王太子が物語と同じ方法で接触しようとしている場面で。
フローラが、物語と同じ、と口にした。
これまでで最も強い証拠だった。
「転生者である可能性は、かなり高くなったね」
「はい」
「ただし、まだ接触はしない」
「観察を続けます」
ノルンは真剣な表情で頷いた。
転生者候補。
フローラ・スカーレット。
関連注意対象。
アルノルド・エル・タリウス。
一方は物語から逃れようとし。
もう一方は、どれほど拒まれても追い続けようとしている。
そして。
二人の間に何が起きるのかを確かめるため、ノルンは明日も公爵邸の洗濯場へ向かう。
転生者観察官として。
主様から任された使命を果たすため。
それから。
少しだけ。
白いシーツを眺めて笑ったフローラが、これ以上怯えずに済むように。
「主様」
「何だい?」
「明日はお昼を忘れないよう、今から鞄へ入れておきます!」
「それは良い考えだね」
ノルンは魔法鞄を開いた。
中を覗く。
そして固まる。
「……主様」
「今度はどうしたの?」
「昨日入れた林檎が見つかりません」
「まずは鞄の整理から始めようか」
「はい……」
こうして。
フローラが自分の秘密へ繋がる言葉を口にし。
アルノルドが国王の命令の隙間から彼女へ近づこうとしていた頃。
転生者観察官ノルンは。
明日の任務へ向けて。
主様と共に、魔法鞄の中身をすべて床へ並べることになったのである。




