第四話 転生者を観察したいだけなのに、なぜか洗濯場で信頼を得ています
スカーレット公爵邸の洗濯場には、朝から大量の湯気が立ち込めていた。
屋敷の北側に建てられた平屋の作業棟には、長い洗い桶が四つ並び、その奥には乾燥用の竿と大きな竈が設けられている。開け放たれた窓から春の風が入ってくるものの、何度も沸かされる湯の熱気までは追い出せず、働く者達の額には早くも汗が浮かんでいた。
洗濯場で働いているのは、年配の女性を中心とした七人の使用人だった。
公爵家の者達が身につける衣服だけでなく、寝具、食卓布、厨房で使われる前掛け、厩舎の作業着まで、屋敷で出る布製品の大半がここへ集められる。貴族の屋敷で使う品は素材ごとに扱いが異なり、高価な刺繍入りの衣服などは専門の侍女が手入れをするものの、それでも毎日運び込まれる量は並の家とは比べものにならなかった。
その洗濯場の入口で。
ノルンは、自分の身長よりも高く積み上げられたシーツの山を見上げていた。
「……これを、全部ですか?」
思わず漏れた問いに、洗濯場の責任者である大柄な女性が腕を組んだ。
「全部と言いたいところだけど、今日中に一人で片づけろなんて無茶は言わないよ」
女性の名はマーサ。
五十歳を過ぎているが、太い腕と頑丈そうな腰つきをしており、若い使用人二人分ほどの桶を一人で運んでしまう。二十年以上も公爵家の洗濯場を任されているため、屋敷の中では下働きの使用人達から母親のように頼られていた。
「今日は急に一人欠けたんだ。あんたには、まず水汲みと、洗い終わった布を絞る仕事を手伝ってもらう」
「分かりました!」
ノルンが元気よく返事をすると、洗濯場で働く女性達がちらりとこちらを見た。
見知らぬ臨時雇い。
若く、細い。
重い桶を運ぶ仕事に耐えられるようには見えない。
何より、返事だけは立派な新人ほど、昼までに動けなくなることを彼女達は何度も見てきた。
「随分と威勢がいいね」
マーサの隣にいた細身の女性が、苦笑しながら言った。
「最初から飛ばすと、昼になる前に腕が上がらなくなるよ」
「お気遣いありがとうございます! 無理をしない範囲で全身全霊を尽くします!」
「無理をしないのか、全身全霊なのか、どっちなんだい」
女性達の間から小さな笑いが起こる。
ノルンは意味が分からず首を傾げたが、馬鹿にされている様子ではないと判断し、つられるように笑った。
彼女がこの屋敷へ潜入した目的は、転生者候補であるフローラ・スカーレットの観察である。
フローラが前世の記憶を持っているのか。
王太子との婚約を避けることで、何を変えようとしているのか。
その行動が世界へどのような影響を与えるのか。
確認するべきことは多い。
しかし。
洗濯場で臨時雇いとして働く以上、仕事を疎かにするつもりはなかった。
任された仕事を真面目に果たさず、観察だけを優先するようでは、主様の部下として恥ずかしい。
「では、何をすればよろしいでしょうか!」
「最初は水汲みだよ。裏の井戸から、この桶を一杯にして持ってくるんだ」
マーサが指したのは、両手で抱えるほど大きな木桶だった。
空の状態でも、それなりの重さがある。
井戸から水を満たせば、普通の少女が一人で運ぶにはかなり苦労するだろう。
「分かりました!」
ノルンは桶を持ち上げた。
軽い。
少なくとも、世界と世界の狭間で使う観測装置や、主様の書庫にある記録本の束よりは軽かった。
そのまま片手で持ち上げかけて。
ノルンは慌てて両手へ持ち替えた。
(危ないところでした)
普通の町娘が、大きな木桶を片手で持ち歩くのは不自然である。
姿を変えていても、身体能力まで人間と同じになるわけではない。意識して力を抑えなければ、思わぬところで正体を疑われてしまう。
ノルンは少し重そうに見える持ち方を考え、腰の前で桶を抱えた。
「行って参ります!」
「井戸の場所は分かるのかい?」
マーサに呼び止められ、ノルンの足が止まる。
「……分かりません!」
「まず案内を聞きな」
「はい!」
再び女性達から笑い声が上がった。
◇◇◇
井戸は洗濯場の裏手にあった。
石造りの縁には苔が生え、上部には雨を避けるための小さな屋根が付いている。すぐ近くに排水用の溝もあり、汲み上げた水が零れても足元が泥だらけにならないよう工夫されていた。
ノルンは井戸の中を覗き込む。
水面はかなり深い。
滑車へ繋がれた縄を使い、別の桶を下ろして水を汲み、それを運搬用の木桶へ移す仕組みだった。
「魔法なら一瞬なのになぁ」
周囲に誰もいないことを確認し、小さく呟く。
指を一度動かせば、井戸の水を必要な分だけ浮かせられる。
汚れた布も、浄化の術を使えば触れることなく綺麗にできる。
乾燥まで含めても、洗濯場に積まれた布をすべて片づけるのに半刻も必要ない。
だが、ここで魔法を使えば間違いなく騒ぎになる。
タリウス王国にも魔法は存在するが、水を自在に操り、布地を傷めず一瞬で汚れだけを消すほどの術者は極めて少ない。そんな人物が町娘を装い、臨時の洗濯係として入り込んでいると知られれば、観察どころではなくなってしまう。
「普通に、普通に」
自分へ言い聞かせながら、ノルンは縄を引いた。
水の入った桶がゆっくりと上がってくる。
力を抑えなければならないため、普段よりも難しい。
強く引きすぎれば、桶が井戸から飛び出す。
弱すぎれば、作業の遅い娘だと思われる。
人間らしい力加減を考えながら、慎重に縄を引く。
「観察官のお仕事って、大変だなぁ」
これまでにも町娘、旅商人、孤児、冒険者、神殿の見習いなど、様々な姿で世界へ潜り込んだ。
そのたび、その土地の常識に合わせた振る舞いを覚えてきた。
食事の仕方。
言葉遣い。
物の値段。
歩く速さ。
何気ない動作一つにも、その世界で暮らしてきた者なら自然と身につけている癖がある。
それを知らずに姿だけを似せても、長く接すれば違和感を持たれてしまう。
世界を外から眺めることと、その中の一人として暮らすことは違う。
だからこそ、ノルンは潜入任務を嫌いではなかった。
大変ではある。
失敗することもある。
それでも、記録の上から見ているだけでは分からない、人々の暮らしや思いに触れることができる。
「よし」
汲み上げた水を木桶へ移す。
満杯になるまで数回往復し、両手で持ち上げた。
今度こそ、人間らしく。
少しだけ腕を震わせ、慎重に足を運ぶ。
洗濯場へ戻ると、マーサが少し意外そうな顔をした。
「早かったね」
「はい!」
「道で半分くらい零してきたんじゃないだろうね」
桶の中を覗き込む。
水は縁近くまで入っていた。
一滴も零れていない。
ノルンは気をつけて運んだだけだったが、マーサの眉が上がった。
「足元の悪いところもあっただろう」
「ゆっくり歩きました!」
「そうかい」
マーサは、もう一度ノルンの細い腕を見た。
「見た目より力があるんだね」
「山と森に囲まれた村で育ちましたので!」
昨日考えた曖昧な出身地を、そのまま利用する。
実際、管理領域には主様が作った森もある。山は今のところないが、必要ならば作ることもできるだろう。
「村では、何をしていたんだい?」
「主様のお手伝いをしておりました!」
「主様?」
マーサだけでなく、近くにいた女性達も手を止めた。
ノルンは、自分の言葉が不自然だったことに遅れて気づく。
「ええと、村で一番偉い方です!」
「領主様のことかい?」
「似たようなものです!」
「随分と曖昧な答えだね」
細身の女性が笑う。
ノルンは必死に考えた。
「皆から頼られていて、たくさんの場所を見守っている方です! とてもお優しくて、いつも私達のことを考えてくださいます!」
「随分と慕っているんだね」
「はい!」
そこだけは、何一つ誤魔化していない。
ノルンは満面の笑みで頷いた。
「私は主様のためなら、どのようなお仕事でも頑張れます!」
「そうかい。なら、ここでもしっかり働いておくれ」
「お任せください!」
マーサは呆れたように笑い、洗い終わったシーツが入った桶を指した。
「次はそれを絞るんだ。二人一組で端を持って、ゆっくり捻る。力任せにやると布が傷むから気をつけな」
「はい!」
ノルンと組むことになったのは、赤茶色の髪を持つ若い女性だった。
名をリナという。
年齢は二十歳ほどで、洗濯場では最も若い。臨時雇いのノルンに興味があるのか、先ほどから何度も視線を向けていた。
「こっちを持って」
「はい」
「最初は私に合わせて。急に捻らないでね」
「分かりました!」
二人で濡れたシーツの両端を持つ。
リナが腕を動かすのに合わせ、ノルンも少しずつ力を加えた。
布から水が流れ落ちる。
初めは順調だった。
しかし、途中でリナの手が滑った。
「あっ」
濡れた布が手から離れる。
反対側を持っていたノルンが、反射的に支えた。
片手で。
水をたっぷり含み、大人二人で持つはずのシーツを。
軽々と。
洗濯場の動きが止まった。
リナが目を見開く。
マーサも、他の女性達も、ノルンの片腕に支えられたシーツを見つめている。
「……あ」
ノルンは自分の失敗に気づいた。
慌てて両手を使い、重そうな顔を作る。
「お、重いです!」
「今、片手で持ってなかったかい?」
「気のせいではないでしょうか!」
「私は見たよ」
「私も」
「ノルン、あんた本当にどこの村から来たんだい」
マーサの目に疑いが浮かぶ。
ノルンは背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
任務開始から、まだ半刻も経っていない。
それなのに、正体を疑われかけている。
(主様に知られたら、力を抑える練習を増やされてしまいます)
以前も、潜入先で重い岩を持ち上げてしまったことがある。
その時、主様は怒らなかった。
ただ優しく、一般的な人間の力について勉強し直そうか、と言った。
その後三日間、ノルンは重さの違う石を人間らしく持ち上げる訓練を続けた。
同じ失敗は避けたい。
「私の村では、毎日大きな薪を運んでおりましたので!」
咄嗟に口から出た言葉だった。
「薪?」
「はい! 冬はとても寒くなりますので、これくらいの薪を何本も!」
両腕を大きく広げる。
管理領域に季節はないが、主様が望めば雪を降らせることはできる。
嘘ではない。
実際に薪を運んだことはないが。
「だから力には自信があります!」
マーサはしばらくノルンを見つめていた。
ノルンも笑顔を崩さず見つめ返す。
やがて、マーサは深く息を吐いた。
「まあ、力があるなら助かるよ。ただし、布を破いたら弁償だからね」
「絶対に破きません!」
「それから、力を隠そうとして妙な芝居をするのはやめな」
ノルンの笑みが固まる。
「最初から力があると言えばいい。下手に重そうなふりをされる方が危ないよ」
「……はい」
見抜かれていた。
観察官として少し恥ずかしい。
ただ、正体を怪しまれたわけではないらしい。
ノルンは胸の内で安堵し、今度こそ布を傷めない程度の力で絞り始めた。
◇◇◇
公爵邸の応接室では、レオナルドが国王から届いた書状を読み終えたところだった。
机の向かい側には、王城から派遣された文官が静かに座っている。
四十代ほどの痩身の男性で、国王直属の文官を示す濃紺の礼服を身につけていた。名はハインツ。長年、国王の側で国内貴族との調整を担ってきた人物である。
レオナルドは書状を机へ置いた。
表情は変わっていない。
だが、傍らに立つ執事長ロイドには、主人の指先から少しだけ力が抜けたことが分かった。
「陛下のお言葉は、確かに承った」
「はい」
「昨日の件について、公爵家へ責任を問う意思はない。フローラの意思を尊重し、婚約についても白紙の状態から考える。そう理解してよいのだな」
「陛下は、そのように仰せです」
ハインツは落ち着いた声で答えた。
「もともと、アルノルド殿下とフローラ様の間に正式な婚約は成立しておりません。両家の間で将来的な婚姻を期待する声はございましたが、それは本人達の意思を無視して強制するものではない、と」
レオナルドは静かに頷いた。
最悪の事態は避けられた。
国王が王家の威信を傷つけられたと考え、公爵家へ圧力を掛けてくる可能性も完全には否定できなかった。
だが、書状に書かれていたのは、フローラを責める言葉ではない。
むしろ、昨日の求婚が国王の正式な許可を得る前にアルノルド個人の判断で行われたことへの謝罪まで記されていた。
「陛下は、フローラ様のご様子を大変案じておられます」
「それは有り難い」
「一方で」
ハインツが少し言葉を切る。
「アルノルド殿下は、今回の求婚を完全に諦めたわけではございません」
レオナルドの灰色の瞳が細くなった。
「昨日のうちに、次の求婚を二週間後に行うと娘へ手紙を送っている」
「その件も、陛下は把握しておられます」
「把握した上で、止めていないのか」
「止めておられます」
ハインツの返事は早かった。
「今朝、陛下はアルノルド殿下へ、少なくともフローラ様の気持ちが落ち着くまでは、直接的な求婚や訪問を控えるよう命じられました」
「殿下は従われたのか」
ハインツの表情が、ほんの少しだけ曇った。
「命令には従うと」
「その言い方では、素直に納得したわけではなさそうだな」
「陛下から許可が出るまで求婚はしない、と約束されました。ただし、フローラ様への気持ちを諦めることはできない、とも」
レオナルドは深い息を吐いた。
娘が恐れる理由を聞いたばかりである。
アルノルドが優秀な王太子であることに疑いはない。王国の将来を任せるに相応しい能力も人格も持っていると、レオナルド自身が評価してきた。
だが。
フローラへ向ける感情だけは、別のものとして考えなければならない。
「陛下へ伝えてほしい」
レオナルドの声が低くなる。
「我が家は王家へ反意を持っているわけではない。フローラも、アルノルド殿下を侮辱する意図で求婚を断ったのではない」
「承知しております」
「しかし、娘が望まぬ限り、婚約を受け入れることはできない」
ハインツは真剣な表情で頷いた。
「そのお言葉も、陛下へお伝え致します」
「もう一つ」
レオナルドは机の上へ置かれた書状へ視線を落とす。
「アルノルド殿下が、公爵家の周囲へ人を配置していないか確認していただきたい」
ハインツの目がわずかに動いた。
「どういう意味でしょうか」
「娘の行動を知るため、護衛や密偵を送っていないかという意味だ」
「殿下がそのようなことをなさったと?」
「確認したいだけだ」
レオナルドは、今朝フローラから聞いた言葉を思い出していた。
誰と話し。
どこへ行き。
何を見て笑ったのか。
アルノルドは、フローラ本人も覚えていないほど幼い頃の出来事まで知っていた。
それが単に王子として得られる報告によるものなのか。
それとも、特別に人を使って調べさせていたのか。
父親として、見過ごすことはできない。
「陛下へ報告し、調査致します」
ハインツの声にも、先ほどまでとは異なる緊張が混じっていた。
「もし、殿下がフローラ様の意思に反する形で監視を行っていた場合は、必ず陛下からお止めいただきます」
「頼む」
レオナルドは頷いた。
国王が話の通じる人物であることは救いだった。
しかし、アルノルド本人がどこまで納得できるかは分からない。
王太子の感情が、王家と公爵家の関係を揺らす火種になる可能性は、まだ消えていなかった。
◇◇◇
王城。
王太子の執務室では、アルノルドが机へ向かっていた。
朝の光が大きな窓から差し込み、整然と積まれた書類を照らしている。
いつもと変わらない光景だった。
アルノルドも、いつもと変わらない。
少なくとも、外見上は。
彼は北部から届いた鉱山収支の報告へ目を通し、必要な箇所へ修正の指示を書き込んでいく。処理の速度も判断の正確さも、昨日求婚を断られた少年とは思えないほど安定していた。
机の横には、側近である青年が立っている。
名はセドリック。
伯爵家の次男であり、幼い頃からアルノルドの学友として共に育ってきた。現在は王太子付きの補佐官として、政務や予定の管理を任されている。
「殿下」
「何だい?」
「陛下より命じられた件ですが」
「フローラへの訪問と求婚を控えることだね」
アルノルドは書類から目を離さず答えた。
「理解しているよ」
「二週間後のご予定から、スカーレット公爵邸への訪問を削除致しました」
その瞬間。
アルノルドの筆が止まった。
ほんの一瞬だった。
すぐに再び動き始める。
「そう」
「ご不満ですか」
「父上の命令だから従うさ」
穏やかな声だった。
「フローラが落ち着くまで待てと言われた。それは理解できる」
「では、花や贈り物の手配も止めてよろしいでしょうか」
再び、筆が止まる。
今度は先ほどより少し長かった。
「すべて?」
「はい」
「求婚をしなくても、花を贈ることはできるだろう」
「陛下は、フローラ様へ精神的な圧力を与えるような行動も控えよと仰いました」
「花が圧力になるのかい?」
「百本の赤薔薇は、人によっては圧力と感じるかもしれません」
アルノルドは、ようやく顔を上げた。
本気で分からないという表情をしている。
「美しいと思ったのだけれど」
「美しいことと、受け取る方が喜ぶことは別です」
「フローラは薔薇が嫌いだったかな」
「花の好みの問題ではないかと」
セドリックは慎重に答えた。
長年仕えている彼でさえ、フローラに関する話をする際のアルノルドには細心の注意を払っている。
「殿下」
「うん」
「フローラ様は、はっきりと求婚を断られました」
「知っているよ」
「その意味を、どのように受け止めておられますか」
室内に沈黙が落ちた。
アルノルドは椅子へ深く座り直す。
表情から笑みは消えていた。
「今は、私と結婚したくない」
「はい」
「突然の求婚で驚いたのかもしれない。王太子妃という立場に不安を感じている可能性もある」
「その可能性はございます」
「ならば、不安を取り除けばいい」
セドリックは目を閉じた。
「殿下」
「何だい?」
「フローラ様が、殿下ご自身との婚姻を望んでいない可能性も、お考えください」
アルノルドの瞳から、温度が消えた。
怒鳴ったわけではない。
睨んだわけでもない。
ただ、深い青色の瞳が静かにセドリックを見つめる。
それだけで、室内の空気が冷えたように感じられた。
「私自身を?」
「はい」
「フローラが、私を選ばないと?」
「その可能性もございます」
セドリックは視線を逸らさなかった。
幼い頃からアルノルドを知っている。
彼が国を思い、民を守ろうと努力していることも知っている。
だからこそ、誰も言えない言葉を伝えるのが自分の役目だと思っていた。
アルノルドはしばらく何も言わなかった。
やがて机の引き出しを開け、深紅の手帳を取り出す。
昨日、フローラの逃走を記録していた手帳である。
表紙へ指先を滑らせながら、小さく息を吐いた。
「その可能性を認めることはできない」
「殿下」
「認めれば、諦めなければならなくなる」
声は穏やかだった。
だが、言葉の奥にある感情は重い。
「私は、フローラのいない未来を望んでいない」
「フローラ様が望まなくてもですか」
「望んでもらえるようにする」
「それが、フローラ様を追い詰めることになっても?」
アルノルドの指が止まった。
昨日、庭園から走り去るフローラの顔が脳裏へ浮かぶ。
怯えていた。
今になって思い返せば、照れていただけとは言い切れないほどに。
アルノルドは、その事実を心の奥へ押し込めるように手帳を閉じた。
「少し考える時間が必要なようだ」
「はい」
「父上の命令には従う。しばらく、こちらから接触はしない」
セドリックの肩から、わずかに力が抜ける。
「ありがとうございます」
「ただし」
アルノルドは窓の外へ目を向けた。
王都の北西。
スカーレット公爵邸がある方向へ。
「諦めるつもりはない」
セドリックは何も答えなかった。
少なくとも今は、接触を止める。
それだけでも大きな前進だった。
だが。
アルノルドの目に浮かぶ執着は、昨日より薄れるどころか、静かに深くなっているように見えた。
◇◇◇
洗濯場では、午前の作業が半分ほど終わっていた。
ノルンは腕まくりをし、洗い終わった布を次々と絞っている。
初めこそ力加減に失敗したものの、一度感覚を掴めば、仕事を覚えるのは早かった。
布の種類ごとに力を変える。
刺繍のあるものは捻らず、上から押して水を抜く。
白い布と色物は分ける。
乾燥用の竿へ掛ける際は、風の通り道を考えて間隔を空ける。
教えられたことを一度で覚え、間違えない。
さらに、重い桶を軽々と運べる。
洗濯場の女性達にとって、これほど助かる臨時雇いはいなかった。
「ノルン、次はこっちを頼めるかい?」
「はい!」
「終わったら、休憩していいよ」
「まだ元気です!」
「元気でも休むんだよ。倒れてからじゃ遅いんだから」
マーサに言われ、ノルンは素直に頷いた。
「分かりました!」
「本当に返事だけはいい子だね」
マーサの声には、最初よりも明らかな親しみが混じっていた。
リナも隣で笑う。
「ノルンが来てくれて助かったよ。今日休んだ子が戻ってくるまで、何日か来てもらえないかな」
「よろしいのですか?」
「私から世話役に話してみる。あんたさえよければだけど」
願ってもない申し出だった。
一日だけの潜入では、フローラの動向を十分に確認できない。
数日間働くことができれば、屋敷の空気や王家とのやり取りを自然な形で観察できる。
「ぜひ、お願い致します!」
ノルンは勢いよく頭を下げた。
「働かせていただける限り、全力で頑張ります!」
「だから、全力を出しすぎるんじゃないよ」
「はい!」
また笑いが起こる。
ノルンも笑いながら、胸の内で主様へ報告する内容を整理していた。
公爵家内部への継続的な潜入経路を確保。
使用人達との関係は良好。
フローラ本人との接触はまだない。
国王からの使者が来訪。
屋敷内の空気は緊張しているが、使用人達はフローラを責めていない。
ここまでの観察では、公爵家がフローラへ婚約を強制する兆候はなかった。
むしろ、彼女を心配し、守ろうとしているように見える。
「ノルン」
リナに呼ばれ、顔を上げる。
「休憩に行こう」
「はい!」
二人は洗濯場の外へ出た。
作業棟の横には、使用人達が休める小さな中庭がある。木製の長椅子と簡素な机が置かれ、頭上には大きな木が枝を広げていた。
リナは持参した包みを開き、黒パンと干し肉を取り出す。
ノルンも鞄から携帯食を出そうとして、動きを止めた。
現在の姿で持っているのは、小さな布袋だけである。
魔法鞄は術で見えなくして腰へ下げているが、町娘が突然何もない場所から食べ物を取り出せば不自然だ。
「あ」
「どうしたの?」
「食事を持ってくるのを忘れました」
「朝から何も食べてないの?」
「主様にいただいた焼き菓子を食べました!」
「それだけ?」
「はい!」
リナは呆れた顔をした。
「力仕事をする日に、焼き菓子だけじゃ足りないよ」
自分の黒パンを半分に割り、ノルンへ差し出す。
「食べて」
「ですが、リナさんの分が」
「私は干し肉もあるから平気。それに、今日あんたが手伝ってくれなかったら、休憩する暇もなかったんだから」
ノルンは差し出されたパンを見つめた。
任務のために近づいた相手から、親切を受ける。
これまでにも何度も経験してきた。
そのたび、胸の奥が少し温かくなる。
この世界の人々にとって、ノルンは何者か分からない臨時雇いにすぎない。
それでも、空腹を心配し、自分の食事を分けてくれる。
こうした小さな優しさを守るために、自分達の仕事があるのだと改めて思う。
「ありがとうございます」
ノルンは両手でパンを受け取った。
「大切にいただきます!」
「そんな大げさな」
リナが笑った。
二人で長椅子へ座る。
春の風が、洗濯場から運ばれてきた石鹸の香りと、庭園の花の香りを混ぜて通り抜けていく。
「ノルンは、王都に来たばかりなの?」
パンを食べながら、リナが尋ねた。
「はい。昨日、来たばかりです!」
「仕事を探しに?」
「人を探しに来ました」
「家族?」
ノルンは少し考える。
「違います。私の主様が探している方です」
「さっきも言ってたね、その主様って人」
「はい!」
「その人のために、遠い村から一人で来たの?」
「そうです!」
「大変だね」
リナは気の毒そうな顔をした。
ノルンにとって、世界を越えるのは特別なことではない。
だが、普通の町娘として聞けば、遠い土地から一人で人探しに来たことになる。
「探している人は見つかりそう?」
ノルンは、公爵邸の二階へ視線を向けそうになるのを堪えた。
「たぶん、見つかりました」
「よかったじゃない」
「でも、本当にその方なのか、もう少し様子を見ないと分かりません」
「会って話せばいいのに」
「まだ、私から声を掛けてよいか分からないのです」
これは本音だった。
フローラが転生者だと確定したわけではない。
仮に転生者だったとしても、今すぐ正体を明かす必要はない。
相手が前世の記憶を秘密にしている場合、突然それを知る者が現れれば混乱させてしまう。
「難しいんだね」
「はい」
「でも、探している人の近くまで来られたなら、そのうち話せるよ」
リナは気軽に言った。
「焦って変なことをするより、ちゃんと相手を見てから話した方がいい」
ノルンは目を瞬いた。
簡単な言葉だった。
だが、観察官として大切なことを言われた気がした。
「リナさんは、すごいですね」
「何が?」
「とても大事なことを教えてくださいました!」
「私は普通のことを言っただけだよ」
リナは困ったように笑った。
その時。
中庭へ続く道から、複数の足音が聞こえてきた。
先頭を歩いているのは、侍女長エレナだった。
その後ろには二人の侍女。
そして。
銀色の髪を春風になびかせながら、フローラが歩いている。
ノルンの背筋が伸びた。
(観察対象)
思わず手帳へ手を伸ばしかけ、慌てて止める。
目の前で記録を始めれば、さすがに怪しまれる。
フローラは朝食後、部屋へ戻る途中だった。
父が国王からの書状を持ってきてくれたことで、最悪の事態は避けられたと分かった。
国王は公爵家を責めない。
婚約も強制しない。
アルノルドには、しばらく接触を控えるよう命令した。
その話を聞き、胸にあった大きな不安の一つは軽くなった。
それでも、アルノルドが諦めていないことも父から伝えられた。
安心と恐怖。
二つの感情を抱えたまま、フローラは気分を落ち着けるため屋敷の庭を歩いていた。
洗濯場の近くを通り掛かったのは偶然である。
そこで、昨日窓から見かけた茶髪の少女を見つけた。
少女は若い洗濯係と並んで長椅子へ座り、黒パンを両手で大切そうに持っている。
フローラと目が合う。
少女は驚いたように立ち上がった。
「お、おはようございます!」
声が大きかった。
近くの木に止まっていた小鳥が飛び立つ。
リナも慌てて立ち上がり、深く頭を下げる。
「フローラお嬢様、おはようございます」
「おはようございます」
フローラは穏やかに返した。
茶髪の少女も、遅れて頭を下げる。
「初めて見る顔ですね」
フローラの問いに、ノルンは身体を固くした。
観察対象との初めての直接会話。
何百人もの転生者を見てきた。
危険な魔王へ近づいたこともある。
崩壊寸前の世界で、一国の王と交渉したこともある。
それなのに。
なぜか今は、洗濯場の臨時雇いとして話し掛けられただけで緊張していた。
「本日から、臨時で働かせていただいております!」
「名前を聞いても?」
「ノルンです!」
フローラの目が、わずかに見開かれた。
「ノルン」
その名を確かめるように繰り返す。
「珍しい名前ですね」
「遠い村の生まれですので!」
「そうなのですか」
フローラはノルンを見つめた。
昨日、窓越しに感じた妙な違和感が、また胸へ浮かぶ。
見た目は普通の町娘。
礼儀作法も洗練されているわけではない。
しかし、立っている姿が不思議なほど安定している。
こちらを見つめる茶色い瞳にも、使用人が公爵令嬢へ向ける緊張だけではない何かがあった。
警戒。
興味。
そして、相手を傷つけまいと慎重に距離を測るような眼差し。
「昨日、門の近くにいた方ですね」
「気づいておられたのですか?」
ノルンは素直に驚いた。
「窓から見えました。小さな手帳に、何かを書いていませんでしたか?」
心臓が跳ねた。
正確には、ノルンに人間と同じ心臓は必要ない。
それでも、驚いた時には胸が跳ねるような感覚がある。
(見られていました)
観察対象に、観察記録を書いているところを。
初日から。
ノルンは必死に答えを探した。
「仕事の覚え書きです!」
「まだ仕事を始める前だったように見えましたが」
「これから教わることを、忘れないように先に書く準備を!」
「何を書いたのですか?」
「……働く、と」
フローラが目を瞬いた。
リナは横で口元を押さえている。
笑いを堪えているらしい。
「働く、と書いたのですか」
「はい! 大切なことですので!」
少しの沈黙。
そして。
フローラの口元が、ほんのわずかに緩んだ。
昨日から初めて見せる、作ったものではない小さな笑みだった。
「確かに、大切なことですね」
「はい!」
ノルンも嬉しそうに笑う。
エレナはフローラの表情を見て、目元を少し和らげた。
朝から緊張し続けていた主人が、わずかとはいえ自然に笑った。
それだけで、見知らぬ臨時雇いへ向ける警戒が少し薄れた。
「ノルンさん」
「はい!」
「お仕事は大変ではありませんか?」
「楽しいです!」
即答だった。
フローラは洗濯場へ視線を向ける。
大量の布。
湯気。
何度も水を運ばなければならない重労働。
それを楽しいと答える者は珍しい。
「楽しいのですか」
「はい。皆さんが優しく教えてくださいます。それに、綺麗になった布が風に揺れているのを見ると、頑張ったことが形になったようで嬉しいです!」
ノルンは本心から答えていた。
乾燥用の竿へ並んだ白いシーツが風を受けて揺れている。
先ほどまで汚れていたものが、皆で手を動かすことで綺麗になる。
世界管理の仕事とは比べられないほど小さな作業だが、誰かの暮らしを支えていることは同じだった。
「素敵な考え方ですね」
フローラは静かに言った。
「私も、そういうふうに物事を見られたらよいのですが」
最後の言葉は、誰へ聞かせるでもないほど小さかった。
ノルンには聞こえた。
フローラの表情に、一瞬だけ深い疲れが浮かんだことも。
声を掛けるべきか迷う。
観察官として。
臨時使用人として。
今の自分が、どこまで踏み込んでよいのか。
リナの言葉を思い出した。
焦って変なことをするより、ちゃんと相手を見てから話した方がいい。
ノルンは、無理に事情を聞かなかった。
「フローラ様」
「何でしょう」
「お疲れの時は、綺麗になったシーツを見ると少し気持ちがよくなるかもしれません!」
「シーツを?」
「はい。たくさんあります!」
リナが耐えきれず、吹き出した。
エレナも目を瞬く。
フローラは乾燥場へ並んだ大量の白い布を見た。
風に膨らみ。
ゆっくりと萎み。
また柔らかく持ち上がる。
確かに、何も考えずに眺めていると、少しだけ心が落ち着くような気がした。
「そうですね」
フローラは、もう一度笑った。
「少しだけ、見ていきましょうか」
「お嬢様?」
エレナが驚く。
「急ぎの予定はありません。よろしいでしょう?」
「もちろんでございます」
フローラは乾燥場の近くへ歩き、揺れるシーツを見上げた。
ノルンは少し離れた場所から、その横顔を観察する。
転生者候補。
物語通りの婚約を拒否した公爵令嬢。
昨日は恐怖に顔を引きつらせていた。
今も不安を抱えている。
それでも。
洗濯場で働く者へ気遣いの言葉を掛け、見知らぬ臨時雇いの話へ耳を傾け、少しだけ笑うことができる。
現時点で、危険な人物にはまったく見えなかった。
ノルンは胸の内で、観察記録へ一文を書き加える。
フローラ・スカーレット。
使用人に対して横柄な態度なし。
精神的疲労が見られる。
白いシーツを眺めて、少し笑う。
危険度。
今のところ、極めて低い。
その時。
フローラが不意に振り返った。
「ノルンさん」
「はい!」
「先ほど、人を探して王都へ来たとお話ししていましたね」
ノルンの身体が固まる。
リナとの会話を聞かれていたらしい。
「その方は、見つかったのですか?」
茶色い瞳と、空色の瞳が向かい合う。
探している相手は。
目の前にいる。
だが、そう答えるわけにはいかない。
ノルンは少し考え、笑顔を浮かべた。
「はい。たぶん、見つかりました」
「たぶん?」
「まだ、その方が本当に探していた方なのか、分からないのです」
フローラは不思議そうに首を傾げる。
「見れば分かるものではないのですか」
「見ただけでは分からないこともありますので」
ノルンは穏やかに答えた。
「その方が何を考えていて、何をしたいのか。困っているのか、それとも今のままで幸せなのか。もう少し見てからでなければ、声を掛けてよいかも分かりません」
フローラは、ノルンの言葉を黙って聞いていた。
なぜだろう。
人探しの話をしているはずなのに。
自分のことを言われているような感覚があった。
「もし、その方が困っていたら?」
フローラが尋ねる。
「助けます」
ノルンは迷わず答えた。
「その方が助けを望んでいれば、できる限り」
「望んでいなければ?」
「見守ります」
「何か、間違ったことをしようとしていたら?」
ノルンの笑みが、ほんの少しだけ静かになる。
「止めます」
柔らかな声だった。
しかし、その言葉には揺らぎがなかった。
「傷つけずに止められるなら、そうします。それでも止まらず、たくさんの人を困らせるなら、嫌われても止めます」
フローラは、ノルンを見つめた。
ただの町娘とは思えない答えだった。
けれど、不思議と怖くはない。
むしろ。
この少女なら、何かあっても感情だけで決めつけず、まず自分の話を聞いてくれるのではないか。
そんなことを思った。
「その方は、幸せですね」
「そうでしょうか」
「そこまで心配して探してくれる方がいるのですから」
ノルンは目を瞬いた。
転生者達を探すのは仕事である。
神々の失敗によって世界へ送り込まれた魂の動向を確かめる。
危険なら止める。
問題がなければ見守る。
それが役目だ。
けれど。
仕事だから心配しているのか。
主様に命じられたから探しているだけなのか。
ノルンは自分の胸へ問い掛けた。
答えはすぐに出た。
「はい」
ノルンは小さく笑った。
「幸せでいてほしいと思っています」
フローラの瞳が、わずかに揺れた。
春風が二人の間を通り抜ける。
乾燥場の白いシーツが大きく膨らみ、一瞬だけ互いの姿を隠した。
布が再び落ち着いた時。
フローラは、先ほどよりも穏やかな表情をしていた。
「その方が見つかるとよいですね」
「はい!」
ノルンは元気に頷く。
もう見つかっている。
ただ。
本当に転生者であるかを確かめるには、まだ時間が必要だった。
そしてフローラもまた、目の前の町娘が自分を探して世界の外から訪れた存在だとは知らない。
この日。
転生者観察官ノルンは、観察対象であるフローラ・スカーレットと初めて言葉を交わした。
フローラは、ノルンを少し変わった臨時使用人だと思った。
ノルンは、フローラが少なくとも今は危険な転生者ではないと感じ始めた。
互いの正体も。
本当の目的も。
まだ何一つ知らない。
ただ一つ。
白いシーツが春風に揺れる中で交わした短い会話が、二人の間に小さな繋がりを作り始めていた。
もっとも。
その日の観察報告書には。
フローラとの初接触に成功。
警戒されることなく会話を終了。
臨時雇用の継続も決定。
という順調な内容に続いて。
力加減を誤り、濡れた大型シーツを片手で持ち上げた。
洗濯場責任者に不審がられる。
今後は、人間らしい力の使用を徹底すること。
という反省点も、しっかりと記されることになる。
主様がその報告を読み。
「ノルン。また力加減を忘れたのかい?」
と優しく尋ねるのは。
もう少し後のことである。




