第三話 求婚を断った翌朝、公爵家は静かに大混乱していました
翌朝。
スカーレット公爵邸を包む空気は、普段よりも明らかに重かった。
空は昨日と変わらず麗らかに晴れ渡り、東の空から差し込む朝日は、広大な庭園に咲く花々を柔らかく照らしている。夜露を残した芝生は淡い光を反射し、屋敷の前に並ぶ白い石像の足元では、小鳥達が何事もなかったかのように囀っていた。
外から見れば、穏やかな朝だった。
だが、屋敷の中では違う。
廊下を歩く使用人達は、互いに声を潜めていた。
銀器を運ぶ侍女も。
朝食の支度を整える料理人も。
玄関前を掃いていた若い従僕も。
誰もが昨日起きた出来事について、すでに耳にしている。
スカーレット公爵家の一人娘。
フローラ・スカーレットが。
王立庭園で。
アルノルド王太子殿下からの求婚を拒絶した。
しかも、遠回しに断ったのではない。
庭園中へ響く声で、はっきりと。
お断り致します、と。
その後、王太子の前から走って逃げた。
王城から同行した侍女や護衛がいる以上、出来事を完全に隠すことは不可能だった。昨夜のうちに公爵家の主要な使用人達へは事情が伝えられ、口外を固く禁じられている。
しかし。
口に出さなくとも、表情には出る。
いつもならば朝の挨拶を交わしながら笑っている侍女達も、今日はどこか落ち着かない。廊下ですれ違うたびに視線を交わし、誰かが近づいてくれば慌てて仕事へ戻る。
「本当に、王太子殿下へお断りを?」
「声が大きいわ」
「ごめんなさい。でも、信じられなくて」
「王城から戻られたお嬢様の様子を見たでしょう。髪もドレスも乱れて、あれほど青いお顔をなさっていたのよ」
「殿下は、お怒りにならなかったの?」
「それが……笑っていらしたそうよ」
「笑って?」
「楽しそうに」
廊下の角で小声を交わしていた二人の侍女は、背後から近づく足音に気づき、同時に口を閉じた。
現れたのは、侍女長のエレナだった。
四十代半ばの落ち着いた女性で、フローラが生まれる前から公爵家へ仕えている。背筋は真っ直ぐに伸び、濃紺の侍女服には一つの皺もない。
「朝の仕事は終わったのですか」
「も、申し訳ございません」
「すぐに戻ります」
二人の侍女が慌てて頭を下げる。
エレナは厳しい目を向けたが、必要以上に叱ることはしなかった。
「気になる気持ちは分かります。ですが、今のお嬢様は、皆さんが想像している以上に心を痛めておられます」
「はい」
「私達が噂を広げれば、お嬢様はこの屋敷の中でさえ心を休められなくなります。それだけは、決して忘れないように」
二人は改めて深く頭を下げ、それぞれの持ち場へ戻っていった。
エレナは、その背中を見送った後、小さく息を吐いた。
使用人達を責めることはできない。
王太子の求婚を断るなど、王国中を探しても前例があるか分からないほどの大事件である。
しかも相手は、国王陛下からも臣下からも信頼されているアルノルド王太子だ。容姿や能力だけでなく、身分や将来性を考えても、断る理由が見つからないと考える者の方が多いだろう。
だが、エレナは昨夜のフローラを見ていた。
王太子から届いた赤い薔薇の花束。
二週間後の再求婚を告げる手紙。
それらを前にしたフローラは、喜ぶどころか、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
あれが、恥ずかしさや戸惑いだけによるものではないことくらい、幼い頃からフローラを知るエレナには分かる。
フローラは、本気でアルノルドを恐れている。
問題は、その理由をまだ誰にも話していないことだった。
「エレナ」
背後から声を掛けられ、エレナは振り返った。
そこに立っていたのは、スカーレット公爵家の執事長、ロイドだった。五十代後半の男性で、灰色の髪を短く整え、黒い執事服を身につけている。
「旦那様と奥様は?」
「すでに小食堂でお待ちです。お嬢様のお部屋へは、あなたが?」
「これから参ります」
「昨夜は眠られたのでしょうか」
ロイドの問いに、エレナはすぐ答えなかった。
「灯りが消えたのは、夜明け前でした」
「そうですか」
ロイドの眉間に深い皺が刻まれる。
「今朝、王城から正式な使者が来る可能性があります」
「昨日のお手紙だけでは済まないと?」
「王太子殿下個人からの贈り物と、王家としての対応は別です。国王陛下が昨日の件をどのように受け止めているか、まだ分かりません」
エレナは静かに頷いた。
フローラが求婚を断ったのは、本人同士の恋愛だけで終わる話ではない。
相手は王太子。
フローラは公爵令嬢。
二人の婚姻は、幼い頃から王家と公爵家の間で期待されてきた。
正式な婚約はまだ結ばれていなかったものの、貴族社会では、いずれ二人が結婚するだろうと見なされていた。その前提で王妃教育の一部も始まっており、スカーレット公爵家も多額の費用と人員をかけてフローラを育てている。
昨日の拒絶によって、その前提は崩れた。
国王がフローラの意思を尊重すれば、それで終わるかもしれない。
だが、王家の威信を傷つけたと判断されれば、公爵家へ何らかの責任を求められる可能性もある。
「旦那様は、昨夜から一睡もされておりません」
「奥様もですか」
「奥様は一度お部屋へ戻られましたが、夜中に再び執務室へ来られました。お二人とも、お嬢様を責めるおつもりはないようです」
「それだけが救いです」
エレナは胸元へ手を当てた。
フローラの父、レオナルド・スカーレット公爵は、王国屈指の大貴族である。
厳格で冷静な人物として知られ、領地経営や国政においても妥協を許さない。
だが、一人娘のフローラに対しては不器用なほど甘い。
母であるエリザベートも同じだった。
二人が世間体や公爵家の利益を理由に、娘へ婚約を強制するような人物でないことは、エレナも分かっている。
それでも、フローラが何も語らなければ、守り方すら決められない。
「まずは、お嬢様ご自身のお言葉を聞く必要があります」
「はい」
「お願い致します、エレナ」
ロイドは深く頭を下げた。
「お嬢様を小食堂へお連れください」
◇◇◇
フローラは、寝台の上で膝を抱えていた。
厚いカーテンは閉じられたままで、朝の光はほとんど室内へ入っていない。昨日脱いだドレスは侍女達が片付けてくれたが、王太子から贈られた花束だけは、部屋の隅に置かれたままだった。
赤い薔薇。
百本近くはあるだろう。
どの花も傷一つなく、鮮やかに咲いている。
贈り物として見れば、息を呑むほど美しい。
だが、フローラには、赤い花弁の一枚一枚がアルノルドの視線に見えてしまう。
どこへ逃げても見つめられている。
そんな感覚が消えなかった。
手紙は机の引き出しへしまった。
見えない場所へ置けば少しは落ち着くと思ったが、書かれていた言葉は頭から離れない。
二週間後を楽しみにしている。
断ったはずなのに。
次の求婚が決まっている。
フローラは、膝へ顔を埋めた。
「どうすればいいのでしょう」
昨夜から、何度も同じ問いを繰り返している。
前世の記憶を取り戻してから四年。
フローラは、この日のために準備をしてきた。
王太子妃になる未来を避ける。
アルノルドの重すぎる愛情から逃れる。
物語の主人公ではなく、一人の人間として自由に生きる。
その最初の一歩が、求婚を断ることだった。
実際に断ることはできた。
けれど、アルノルドが諦めるとは限らないことも、本当は分かっていた。
物語のアルノルドは、フローラが何度拒んでも追い続ける男である。
むしろ拒絶されるほど執着を深め、彼女を守るという名目で自由を奪っていく。
その展開を読んでいたのだから、一度断っただけですべてが解決するとは思っていなかった。
それでも。
「少しくらい、傷ついて距離を置いてくださってもいいではありませんか」
自分勝手な願いだとは分かっている。
求婚した側に傷つけと言っているようなものだ。
だが、断られた直後に次の求婚日を告げるのは、普通ではない。
少なくともフローラの前世の常識では、普通ではなかった。
「私の断り方が、悪かったのでしょうか」
もっと穏やかに。
もっと明確に。
王太子妃になる意思はないと、理由を添えて伝えるべきだった。
驚いて逃げるだけでは、アルノルドが一時的な混乱だと受け取っても仕方がない。
けれど、正面から説明したところで、彼が納得する姿も想像できなかった。
扉が、控えめに叩かれる。
「お嬢様。エレナでございます」
フローラは顔を上げた。
「入って」
「失礼致します」
扉が開き、エレナが静かに入ってくる。
彼女は薄暗い部屋と、寝台の上に座るフローラを見た。何かを言う前に窓辺へ歩き、カーテンを少しだけ開く。
朝の光が細い帯となって床へ伸びた。
「眩しいですか」
「少しだけ」
「すぐに慣れます」
エレナは、それ以上カーテンを開けなかった。
次に、寝台の横に置かれた椅子へ腰掛ける。
「お加減はいかがですか」
「身体は平気です」
「お気持ちは?」
フローラは答えられなかった。
エレナも急かさない。
部屋の中には、壁掛け時計の針が動く音だけが響いている。
「お父様とお母様は、怒っていらっしゃいますか」
しばらくして、フローラが小さく尋ねた。
「いいえ」
「本当に?」
「驚いてはおられます。心配もしておられます。ですが、お嬢様を責めるお言葉は、一度も口にされておりません」
フローラの瞳が揺れた。
「私、公爵家へ大変な迷惑を……」
「その話も含めて、旦那様と奥様はお嬢様から直接お聞きしたいと仰っています」
「話さなければいけませんか」
「話したくないことを、無理に話す必要はないと私は思います」
エレナは穏やかに答えた。
「ですが、旦那様と奥様は、お嬢様を守りたいのです。何を恐れておられるのか分からなければ、どちらへ手を伸ばせばよいかも分かりません」
フローラは唇を噛んだ。
両親を信じていないわけではない。
むしろ、誰よりも信頼している。
だからこそ、前世や物語の話をして、拒絶されることが怖かった。
自分がこの世界を物語だと知っていること。
前世という別人の記憶を持っていること。
本来のフローラではないと思われるかもしれない。
娘の身体を奪った何かだと恐れられるかもしれない。
四年前、記憶を取り戻した時から、何度も打ち明けようとした。
だが、言えなかった。
「すべてをお話ししなければ、いけませんか」
フローラの声は掠れていた。
エレナは少し考え、首を横へ振る。
「今日、すべてを話す必要はございません」
「でも」
「まずは、アルノルド殿下との婚約を望んでおられないこと。そのお気持ちだけは、はっきりとお伝えになってはいかがでしょう」
「それだけでも、よいのでしょうか」
「理由は後からでも話せます。ですが、望んでいないという気持ちを曖昧にすれば、周囲は都合のよい理由を勝手に作ります」
恥ずかしがっているだけ。
突然の求婚に驚いただけ。
本心では喜んでいる。
昨日のアルノルドの手紙が、まさにそうだった。
フローラの拒絶は、彼の中で一時的な戸惑いへ置き換えられている。
「お嬢様が本当に望んでおられないのなら、そのことだけは、ご両親へきちんとお伝えください」
エレナはフローラの手へ、自分の手を重ねた。
「旦那様も奥様も、きっとお嬢様のお言葉を信じてくださいます」
温かな手だった。
幼い頃、熱を出して眠れなかった夜にも、エレナは同じように手を握ってくれた。
フローラは目を閉じ、ゆっくりと息を吸う。
「分かりました」
まだ怖い。
それでも、昨日のように逃げ続けるわけにはいかない。
「お父様とお母様に、お話しします」
◇◇◇
小食堂には、重い沈黙が漂っていた。
長い食卓の上には、朝食が並べられている。
焼きたてのパン。
野菜と鶏肉のスープ。
卵料理。
新鮮な果物。
どれも普段であれば食欲をそそる香りを放っていたが、誰も手をつけていない。
食卓の上座には、レオナルド・スカーレット公爵が座っていた。
四十代半ば。
深い赤色の髪を後ろへ撫でつけ、鋭い灰色の瞳を持つ男性である。体格もよく、礼服の上からでも鍛えられた身体が分かる。
若い頃は王国騎士団に所属し、魔獣討伐や国境防衛で数多くの功績を立てた。公爵位を継いだ後は国政へ入り、現在は王国北部の防衛と鉱山管理を任されている。
その隣には、妻のエリザベートが座っていた。
フローラと同じ銀色の髪と青い瞳を持つ、穏やかな美貌の女性である。普段は優しく微笑んでいることが多いが、今朝は表情に深い心配が滲んでいた。
扉が開く。
エレナに伴われ、フローラが入ってきた。
淡い白色の朝用ドレスを身につけ、乱れていた髪も整えられている。外見だけなら、いつものフローラに戻っていた。
だが、顔色は青白い。
伏せられた瞳には、眠れていないことを示す疲れが残っている。
「おはようございます、お父様、お母様」
「おはよう、フローラ」
エリザベートがすぐに答えた。
レオナルドも低い声で挨拶を返す。
「座りなさい」
「はい」
フローラは両親の向かい側へ座った。
エレナは壁際へ下がる。
食堂には家族三人と、信頼できる一部の使用人しかいない。扉の外にも人払いがされ、話が漏れないよう配慮されていた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
レオナルドは娘を見つめている。
エリザベートも同じだった。
責めるような目ではない。
ただ、心配している。
それが分かるからこそ、フローラの胸は苦しくなった。
「昨日の件について」
最初に口を開いたのは、レオナルドだった。
低く、落ち着いた声。
だが、机の下で組まれた手には、強く力が入っている。
「お前から話を聞きたい」
「はい」
「まず確認するが、アルノルド殿下から求婚を受けたのは事実か」
「事実です」
「そして、それを断った」
「はい」
レオナルドは目を閉じ、一度だけ深く息を吐いた。
「王城から同行した者達の報告と同じだな」
「申し訳ございません」
フローラはすぐに頭を下げた。
「どうして謝る」
「私の行動で、公爵家と王家の関係に亀裂が入るかもしれません。お父様や領民の皆様にも、ご迷惑をお掛けします」
「顔を上げなさい」
レオナルドの声は少し強かった。
フローラは肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げる。
「私は、なぜ断ったのかを聞いている。家に迷惑を掛けたかどうかを問い詰めているのではない」
「ですが」
「公爵家のために、お前が望まぬ結婚を受け入れる必要はない」
フローラは目を見開いた。
レオナルドは険しい表情をしていたが、その怒りは娘へ向けられたものではない。
「王太子妃という立場が、どれほど重いものかは私も理解している。お前が幼い頃から教育を受け、努力してきたことも知っている」
言葉を選ぶように、一度間を置く。
「だが、教育を受けたからといって、必ず王太子妃にならなければならないわけではない」
「お父様」
「アルノルド殿下は優秀な方だ。王太子としても、将来の国王としても信頼している」
そこで、レオナルドの声がわずかに低くなった。
「しかし、優秀な王太子であることと、お前にとって良い夫であることは別だ」
フローラの胸の奥が熱くなる。
恐れていた言葉とは、正反対だった。
公爵家のために婚約を受け入れろ。
王太子殿下へ謝罪しろ。
そう言われる覚悟をしていた。
けれど、父は最初から、フローラ自身の意思を見ようとしている。
「私も同じよ」
エリザベートが、静かに言葉を添えた。
「昨日の出来事を聞いた時は、本当に驚きました。でも、あなたが理由もなく、あれほど必死に逃げるとは思えません」
母の青い瞳が、真っ直ぐフローラへ向けられる。
「フローラ。あなたは、アルノルド殿下との婚約を望んでいないのね?」
フローラの喉が震えた。
ここで曖昧にしてはいけない。
エレナにもそう言われた。
「はい」
小さな声だった。
それでも、はっきりと答えた。
「私は、アルノルド殿下との婚約を望んでおりません」
言った瞬間、胸の奥へ溜まっていたものが、少しだけ軽くなった。
レオナルドとエリザベートは、互いに顔を見合わせた。
驚きはある。
だが、失望や怒りはなかった。
「理由を聞いてもいいか」
レオナルドが尋ねる。
フローラは膝の上で両手を握り締めた。
「殿下が、怖いのです」
「怖い?」
「はい」
レオナルドの眉が寄る。
「何かされたのか」
声が変わった。
先ほどまでの落ち着いた父親の声ではない。
娘へ危害を加えた者を問い詰める、公爵としての鋭い声だった。
「暴力を受けたわけではありません」
「脅されたの?」
今度はエリザベートが身を乗り出す。
「それも、ございません」
「では、何が怖いのだ」
フローラは、すぐに答えられなかった。
アルノルドのしたことを一つずつ思い返す。
髪飾りを褒めただけで、工房の商品を買い占めた。
花を美しいと言えば、専用の温室を建てた。
体調を崩せば、七人もの王宮医師を送り込んだ。
フローラが誰と話したのか。
何を見て笑ったのか。
本人も忘れている幼少期の出来事まで知っている。
一つだけを取り上げれば、愛情深い行動に見える。
それでも、それらが積み重なるほど、フローラは自分の周囲がアルノルドに覆われていくような息苦しさを覚えた。
「殿下は、私のことを何でもご存じです」
「幼い頃から親しくしているのだから、ある程度は当然ではないか」
「私自身が覚えていないことまでです」
レオナルドの表情がわずかに変わる。
「昨日、幼い頃に侍女の子供を慰めたことや、十歳の時にドレスを売ったことを話されました。私が誰と話し、どこへ行き、何を見て笑ったのか、すべて知りたいと」
食堂に沈黙が落ちる。
エリザベートの顔から、わずかに血の気が引いた。
レオナルドは、食卓の上で指を組み直す。
「それだけではありません。以前、街で買った髪飾りを褒めた時、その工房の商品が王城の一室を埋め尽くしました。花を褒めれば温室が建ち、体調を崩せば王宮医師が七人も屋敷へ来ました」
「七人の医師を寄越した件は、私も覚えている」
レオナルドの声が低くなる。
「あの時は、殿下が心配性なのだと思っていた」
「私も、最初はそう思おうとしました」
フローラの声は震えていた。
「殿下はお優しい方です。私を傷つけようとしているわけではないことも分かっています。けれど、私が何かを好きだと言うたびに、それをすべて与えようとなさる。誰かと話せば、何を話したのかご存じで。どこへ行っても、殿下が見ているような気がして」
言葉にするほど、胸に押し込めていた恐怖が形を持っていく。
「婚約すれば、もっと強くなると思うのです」
「なぜ、そう思う?」
父の問い。
本当の理由は、物語を知っているから。
婚約後のアルノルドが、どのようにフローラを囲い込むのか知っているから。
だが、今はまだ、それを言えない。
「分かりません」
フローラは苦しそうに首を横へ振った。
「ただ、そう感じるのです。このまま殿下の妃になれば、私は少しずつ、殿下の許可がなければ何もできなくなる気がして」
エリザベートが椅子から立ち上がった。
食卓を回り込み、フローラの隣へ来る。
そして、娘の身体を静かに抱き締めた。
「気づいてあげられなくて、ごめんなさい」
「お母様」
「殿下に大切にされているのだとばかり思っていたわ」
「私も、そう思わなければいけないと思っていました」
フローラの目から、涙が零れた。
「皆さんが、私は幸せだと仰るのです。殿下ほど素晴らしい方はいない。あれほど愛されて羨ましい。王太子妃になれるのだから、何も不満はないはずだと」
「周囲がどう思うかは関係ない」
レオナルドが、はっきりと言った。
「お前が恐れているなら、それを無視して婚約を進めることはできない」
「ですが、王家は」
「王家との話は私がする」
迷いのない声だった。
フローラは父を見る。
「国王陛下へは、私から正式に申し入れる。娘は現時点で婚約を望んでいない。ゆえに、話を進めることはできないと」
「お父様まで、殿下からお怒りを受けるかもしれません」
「それがどうした」
レオナルドの灰色の瞳に、鋭い光が宿る。
「私はスカーレット公爵家当主だ。王家へ忠誠は誓っている。だが、娘を差し出すために公爵をしているわけではない」
重い言葉だった。
父は王国を支える立場にある。
王家との関係を軽んじているわけではない。
それでも、フローラの意思を守ると言ってくれている。
「ただし」
レオナルドは声を少し和らげた。
「今後、何が起きるかは分からない」
フローラの表情が引き締まる。
「王太子殿下ご本人が諦められたとしても、周囲の貴族が動く。王太子妃の座を狙う家も出てくるだろう。お前を責める者もいる」
「はい」
「それでも、婚約を望まないという意思は変わらないか」
フローラは母の腕の中で、両手を握り締めた。
怖い。
これから何が起きるか分からない。
物語から外れた未来には、もう前世の知識も役に立たないかもしれない。
それでも。
「変わりません」
フローラは父の目を見た。
「私は、殿下と婚約したくありません」
レオナルドは、長い沈黙の後、一度だけ頷いた。
「分かった」
その一言で、フローラの胸へ溜まっていた不安が、ほんの少しだけ解けた。
「お前の意思を尊重する」
「ありがとうございます」
フローラは深く頭を下げた。
涙が膝の上へ落ちる。
エリザベートは娘の背を撫で続けた。
父も母も、受け入れてくれた。
前世のこと。
物語のこと。
最も大きな秘密はまだ話せていない。
それでも、自分がアルノルドを恐れていることを、初めて誰かへ伝えることができた。
その時。
食堂の扉が、三度叩かれた。
「旦那様」
扉の外から、ロイドの声が聞こえる。
「入れ」
レオナルドが答える。
ロイドが食堂へ入り、深く頭を下げた。
「お話し中のところ、失礼致します」
「何があった」
「王城より使者が参りました」
フローラの身体が強張る。
エリザベートが、それに気づいて娘の肩を抱いた。
「誰の使者だ」
「国王陛下より、正式な書状をお預かりしております」
レオナルドの表情が険しくなる。
「アルノルド殿下ではないのだな」
「はい。王家の紋章が付された、国王陛下名義の書状でございます」
予想していたことだった。
それでも、いざ現実になれば、食堂の空気が一段と重くなる。
「使者はどこにいる」
「応接室でお待ちいただいております」
「すぐに向かう」
レオナルドが立ち上がる。
フローラも反射的に立とうとしたが、父が手で制した。
「お前はここにいなさい」
「ですが、私の起こしたことです」
「だからこそだ。まずは私が陛下のご意向を確認する」
「お父様」
「心配するな」
レオナルドは、娘へ向けて穏やかに頷いた。
「どのような書状であろうと、お前の意思を無視して婚約を結ぶことはない」
その言葉を残し、レオナルドはロイドと共に食堂を出ていった。
扉が閉まる。
フローラは、その扉を見つめたまま動けなかった。
「国王陛下は、お怒りでしょうか」
「まだ決まったわけではありません」
「でも」
「フローラ」
エリザベートが、娘の両手を握る。
「今は、お父様を信じましょう」
フローラは小さく頷いた。
それでも、胸の鼓動は速いままだった。
◇◇◇
スカーレット公爵邸の正門から少し離れた場所。
大きな街路樹の陰に、一人の少女が立っていた。
茶色の髪。
薄いそばかす。
町娘が着るような素朴な灰色のワンピース。
手には小さな籠を持ち、中には焼きたてのパンが並んでいる。
昨日の白髪も。
黒い外套も。
真っ白な杖も見当たらない。
だが。
その少女は、転生者観察官ノルンだった。
姿を変える術を使い、朝から公爵邸の周囲を観察している。
「国王様からの使者かぁ」
パンを売りに来た町娘を装いながら、ノルンは正門へ入っていく王家の馬車を見送った。
馬車には大きな王家の紋章が刻まれている。
乗っていたのは、国王直属の文官と思われる人物と、護衛騎士が二人。
王太子個人の使者ではない。
王家として正式な対応を始めたということだ。
「昨日の今日だもんね」
求婚拒絶は、公爵令嬢と王太子の個人的な問題ではない。
両家の関係。
王国の貴族派閥。
王太子妃候補を巡る動き。
様々なものへ影響が出る。
ノルンは籠の底へ隠していた小さな手帳を取り出し、記録を書き加えた。
「求婚拒絶翌朝。国王名義の正式な使者がスカーレット公爵邸を訪問」
そこまで書き、顔を上げる。
公爵邸の中で、何が話されているかまでは分からない。
認識阻害や姿変えの術を使っても、勝手に屋敷へ侵入することはできた。
だが、それはフローラの私生活へ過度に踏み込む行為になる。
観察官だからといって、何をしても許されるわけではない。
相手が危険な行動を起こしていない限り、必要以上の監視は避けなければならない。
「主様も、まずは周囲から観察するように仰ってたし」
ノルンは正門の反対側へ視線を向けた。
公爵邸へ出入りする使用人。
食材を運ぶ商人。
手紙を届ける配達人。
内部へ自然に入る方法はいくつかある。
ただし、観察のためだけに誰かの立場を奪うことはできない。
侍女を眠らせて成り代わる。
商人の記憶を操る。
その程度の術なら簡単に使えるが、ノルンは好まなかった。
「誰かを困らせずに、中へ入る方法」
小さく呟きながら、公爵邸の周囲を歩き始める。
正門から少し進んだところに、使用人用の通用門があった。
そこでは、初老の女性が門番と話している。
「ですから、今日から来る予定だった娘が、熱を出してしまったのです」
「それは分かりましたが、洗濯場は人手が足りません」
「申し訳ございません。代わりを探しているのですが、急なことで」
ノルンの足が止まる。
話している女性は、街で働き手を紹介している世話役らしい。公爵家の洗濯場で働く予定だった若い娘が、体調を崩して来られなくなったようだった。
門番も困った顔をしている。
「今日だけでも誰かいないのですか」
「すぐに見つかればいいのですが」
ノルンは自分の姿を見下ろした。
町娘。
年齢も、働き始める若い使用人として不自然ではない。
病気の娘の立場を奪うわけではない。
彼女が休んでいる間だけ働けば、公爵家の人手不足を補うこともできる。
「これは」
ノルンの表情が明るくなった。
「主様のお導きかもしれない」
もちろん、主は何も導いていない。
だが、ノルンはそう判断した。
籠を持ち直し、通用門へ近づいていく。
「あの!」
門番と世話役が同時に振り返る。
ノルンは、少し緊張している町娘らしく両手で籠を抱えた。
「お仕事を探しているのですが、洗濯場で人が足りないのでしょうか?」
世話役がノルンを上から下まで見る。
「あなた、洗濯の経験は?」
「あります!」
ノルンは元気よく答えた。
実際、何度か任務先で洗濯をしたことはある。
ただし、魔法で汚れを落とした経験の方が多い。
「名前は?」
一瞬だけ考える。
本名を名乗っても問題はない。
ノルンという名は、この世界では珍しいが不自然というほどではなかった。
「ノルンです!」
「出身は?」
「遠くの村です!」
「随分曖昧ね」
「山と森に囲まれた、とても遠い村です!」
管理領域を村と呼んでよいのかは分からないが、山も森も作ろうと思えば作れる。
完全な嘘ではない。
たぶん。
世話役は少し疑わしそうな顔をしたものの、ノルンの身なりは清潔で、受け答えも素直だった。
「今日だけの手伝いでも構わない?」
「はい! 一生懸命働きます!」
「では、私から洗濯場の責任者へ話してみましょう」
「ありがとうございます!」
ノルンは深く頭を下げた。
偶然にも。
転生者候補フローラ・スカーレットが暮らす公爵邸へ、合法的に入れることになった。
観察官として、これ以上ない好機である。
「ただし」
世話役が厳しい顔で続ける。
「ここは公爵様のお屋敷です。勝手に歩き回ったり、見聞きしたことを外で話したりしてはいけません」
「もちろんです!」
ノルンは力強く頷いた。
「秘密を守るのは得意です!」
それは間違いなかった。
何百年もの間、数多くの世界を観察してきたが、ノルンの存在が一般の住民へ知られたことはほとんどない。
「それから、今日は屋敷の中が少し慌ただしいの。余計なことを聞かないように」
「はい!」
ノルンは、何も知らない町娘のように笑った。
だが、心の中ではすでに観察手帳を開いている。
国王からの使者。
求婚を断った翌朝の公爵家。
そして、フローラの現在の様子。
確認したいことは多い。
ただし。
「お仕事も、きちんとしないと」
観察のために入るからといって、任された仕事を疎かにするつもりはなかった。
ノルンは世話役に続き、通用門をくぐる。
その瞬間。
公爵邸二階の一室。
窓辺に立っていたフローラが、庭の向こうへ何気なく目を向けた。
灰色のワンピースを着た茶髪の少女が、使用人に案内されて歩いている。
見知らぬ少女だった。
特に気に留める必要などない。
そう思ったはずなのに。
なぜかフローラは、その少女から目を離せなかった。
「どうかなさいましたか?」
背後に控えていたエレナが尋ねる。
「いいえ」
フローラは小さく首を横へ振った。
「新しい使用人が来たのかと思っただけです」
「洗濯場の臨時雇いかもしれません。本日から来る予定だった娘が、体調を崩したと聞いておりますので」
「そうですか」
フローラは窓辺を離れた。
今は、見知らぬ使用人を気にしている場合ではない。
父が国王からの書状を持って戻るのを待たなければならない。
だが。
廊下へ向かう直前。
フローラはもう一度だけ、窓の外を振り返った。
茶髪の少女は、洗濯場へ続く道の途中で立ち止まっていた。
そして、誰にも見えないと思っているのか。
小さな手帳を取り出し、何かを書き込んでいる。
次の瞬間。
少女が顔を上げた。
距離がある。
窓ガラスも挟んでいる。
それでも。
一瞬だけ、二人の視線が重なったような気がした。
少女は驚いた顔をした後、すぐに人懐こい笑みを浮かべ、フローラへ向かって小さく頭を下げた。
フローラも反射的に会釈を返す。
それだけだった。
けれど。
「不思議な方」
フローラは、自分でも理由の分からない言葉を呟いた。
その頃。
庭では、ノルンが胸を押さえていた。
「目が合った」
認識を薄くする術は使っていない。
ただの臨時使用人として振る舞っているのだから、見られても問題はない。
それでも、フローラの視線には、妙に鋭いものがあった。
「さすが転生者候補」
ノルンは感心したように頷く。
「よく周りを見てるんだね」
そして手帳へ新たな一文を書き加えた。
観察対象フローラ・スカーレット。
警戒心、やや高め。
臨時使用人として公爵邸への潜入に成功。
なお。
本日の主な業務は、大量のシーツの洗濯。
ノルンは、洗濯場の前に積み上げられた布の山を見た。
自分の身長よりも高い。
しかも、魔法の使用は禁止されている。
普通の使用人として入った以上、不自然な方法で仕事を終わらせるわけにはいかない。
「……多いなぁ」
観察対象へ近づくための潜入任務。
その最初の試練は。
王太子でも。
国王からの使者でも。
世界を乱す転生者でもなく。
公爵家全員分の洗濯物だった。




