第二話 転生者候補を見つけましたが、王太子の方が心配です
白い光が収束すると同時に、ノルンの靴底が柔らかな絨毯へ触れた。
王立庭園を包んでいた春の風も、噴水の水音も、騎士や侍女達が交わしていた戸惑いの声も、そこにはない。代わりに広がっているのは、紙をめくる微かな音さえ遠くまで響きそうな、静かで穏やかな空間だった。
ノルンが戻ってきたのは、数多の世界と世界の狭間に存在する管理領域である。
白を基調とした広い部屋には、大きな窓が三つ並んでいた。しかし、窓の向こうに見えるのは青空でも庭園でもない。夜空にも似た深い紺色の空間に、無数の光が浮かんでいる。
一つ一つの光が、それぞれ異なる世界を表していた。
大きく強く輝く世界もあれば、今にも消えてしまいそうなほど弱い光しか持たない世界もある。時折、流星のような光がそれらの間を駆け抜けていくが、それは魂や記録、あるいは世界間を移動する神々の使者だった。
部屋の中央には、黒い木で作られた大きな机が置かれている。
机の上には数冊の本と、細かな文字が書かれた書類の束、それから湯気を立てる白い茶器が並んでいた。部屋の奥には天井まで届く本棚があり、背表紙に文字のない本が隙間なく収められている。
それらはすべて、世界の記録だった。
国が生まれた時。
人々が争った時。
大きな災害が起きた時。
あるいは、誰にも知られることなく一人の人間が誰かを救った時。
世界で起きた出来事は、重要度に応じて自動的に本へ記録される。管理者はその記録を読み、世界の均衡に異常が生じていないかを確かめるのだ。
「ただいま戻りました!!」
ノルンは白い杖を片手に持ったまま、右手を勢いよく頭の横へ掲げた。
転移した直後とは思えないほど元気な声が部屋へ響く。
その声に反応し、窓際に置かれた長椅子へ座っていた少年が顔を上げた。
艶のある黒髪。
夜空を閉じ込めたような黒い瞳。
見た目だけならば、ノルンより少し年下にすら見える。
少年は膝の上に開いていた本へ栞を挟み、静かに表紙を閉じた。
「おかえり、ノルン」
柔らかな声だった。
ノルンの張り詰めていた肩から、わずかに力が抜ける。
王立庭園では誰にも見つからないよう気配を消し、観察対象の行動だけでなく、周囲の人物の表情や会話まで注意深く見ていた。危険があればすぐに対応できるよう、いつでも術式を発動できる状態も保っていた。
本人は元気に振る舞っているが、初めて訪れる世界での探索と観察は、それなりに神経を使う。
それでも、主と呼ぶ少年の顔を見れば、疲れなど忘れてしまえる気がした。
「はい、主様! 転生者と思われる人物を発見致しました!」
「もう見つけたのかい?」
少年は少し驚いたように目を瞬いた。
「今回の記録はほとんど残っていなかったはずだけど」
「はい。お名前もお住まいも、ご年齢も何も分からない状態でしたので、最初はかなり苦戦しました!」
「そうだろうね。ジジ様達から渡された報告書には、『どこかの世界へ送った気がする』としか書かれていなかったから」
「改めて聞いても、報告書として成立していないと思います!」
「僕もそう思うよ」
少年は深い溜息を吐いた。
彼こそが、この管理領域の主。
無数の世界の状態を観測し、崩壊や過度な干渉から守る世界管理者だった。
世界管理者には、人間と同じ意味での名前は存在しない。
神々からは管理者。
使者達からは管理主。
そしてノルンからは主様と呼ばれている。
彼は神ではなかった。
だが、神々より下位の存在というわけでもない。
神々が世界や生命を作り、新たな可能性を生み出す役割を持つのに対し、世界管理者は生み出された世界が正常に存続できるよう、その均衡を維持する役割を持っている。
創造する者と、維持する者。
立場も権限も異なる。
そのため、本来ならば神々が管理者へ一方的に命令することはできない。
しかし、神々が何か問題を起こした場合、その影響を受けるのは世界で暮らす者達である。世界管理者として、それを放置することもできなかった。
結果として。
神々が失敗する。
世界管理者が頭を抱える。
ノルンが現地へ赴く。
最近では、その流れが半ば当然のようになっていた。
「それで、どのようにして候補を見つけたんだい?」
「世界の主要記録と現在の出来事を一つずつ照合しました。歴史上の大きな変化はありませんでしたので、まずは物語記録から確認したところ、タリウス王国で予定と異なる行動を取った人物を発見致しました」
ノルンは胸を張って答えた。
今回、神々が誤って転生者を送り込んだ世界には、いくつかの物語記録が存在している。
物語記録とは、その世界で起こる可能性が高い出来事を、神々や上位存在が一つの物語としてまとめたものだった。
未来を完全に定めるものではない。
世界で生きる者達には意思があり、選択によって未来はいくらでも変化する。小さな偶然が積み重なり、物語記録とはまったく違う人生を歩む者も珍しくない。
ただし、転生者は前世の記憶や知識を持っている。
自分が暮らす世界を物語として知っている場合、本来ならば選ばないはずの行動を意図的に選び、未来を大きく変化させることがある。
予定から外れた者すべてが転生者とは限らない。
それでも、有力な手掛かりにはなる。
「対象者は、スカーレット公爵家長女、フローラ・スカーレット。十六歳です」
「フローラ・スカーレット」
主は、その名前を確かめるように繰り返した。
机の上に置かれていた一冊の本が、誰も触れていないにもかかわらず宙へ浮かぶ。表紙には何も書かれていなかったが、主が右手を向けると、本は自らページをめくり始めた。
乾いた紙の音が連続して響き、やがて一つのページで止まる。
そこにはフローラの名前と、彼女が生まれてから現在までに起きた主な出来事が記されていた。
「スカーレット公爵家の長女。幼い頃から王太子アルノルドとの交流があり、本来の物語記録では十六歳の春に婚約。その後、いくつかの事件を経て王太子妃となる予定だった」
「はい。その婚約のきっかけとなる求婚を、本日、全力で拒否致しました!」
「全力で?」
「庭園中へ響くほどの声でした!」
ノルンは先ほどの光景を思い出し、両手を広げる。
「王太子殿下のお手を振り払いまして、『お断り致します』と大きな声で宣言した後、ドレスの裾を持ち上げて走り去りました。かなり速かったです!」
「速さは重要なのかい?」
「王太子殿下から逃げた回数が十四回目だそうですので、日頃から練習している可能性があります!」
「十四回」
主の指が、開かれた本の上で止まった。
黒い瞳が、ほんの少し細くなる。
「それは求婚を十四回断ったということ?」
「いえ、正式な求婚は今回が初めてだと思われます。王太子殿下の記録によると、フローラ様に逃げられた回数が十四回目だそうです」
「王太子本人が記録しているのかい?」
「専用と思われる手帳に、日付、場所、フローラ様の反応、逃走時間まで書き込んでおりました」
主は黙った。
先ほどまで滑らかにページをめくっていた本も、主の反応に合わせるように動きを止める。
ノルンは自分の報告を待つ主の顔を見つめた。
怒っているわけではない。
驚いているようにも見えない。
だが、何かを深く考えている時の表情だった。
「主様?」
「うん。少し待ってね」
主は本へ目を落とし、アルノルドに関する記録を探し始めた。
数枚のページが静かにめくられる。
「アルノルド・エル・タリウス。十七歳。タリウス王国第一王子。王位継承順位第一位。政治、剣術、魔法、いずれも高い能力を持つ。民からの評判も良く、王太子として大きな問題行動は確認されていない」
「はい。庭園で見た限りでは、振る舞いも大変立派な王太子殿下でした」
「フローラに関すること以外は?」
「おそらく」
ノルンは慎重に答えた。
アルノルドは護衛騎士や侍女達に対して威圧的な態度を取っていなかった。
求婚を断られた際も、フローラを追わせたり、公爵家を処罰すると口にしたりはしていない。父である国王がフローラの意思を尊重するであろうことも理解していた。
王太子としての判断力を失っているわけではない。
ただし。
フローラが最後には自分を選ぶことを、疑っていなかった。
拒絶を拒絶として認識しているにもかかわらず、諦めるという選択肢だけが完全に欠けている。
「次は二週間後に求婚するそうです」
「一度断られたのに?」
「最初は一月後と仰っていましたが、護衛騎士が短いという意味で驚いたところ、二週間後になりました」
「どうして短くなったんだろう」
「私にも分かりません!」
ノルンは力強く答えた。
主はしばらく沈黙した後、閉じていた唇から静かに息を吐いた。
「映像記録はある?」
「はい! 最初から最後まで記録しております!」
「見せてもらえるかな」
「もちろんです!」
ノルンは肩に掛けていた白い鞄を机の上へ置いた。
鞄の口を開き、両手を入れる。
「ええと、双眼鏡、双眼鏡……」
中身を探るたび、鞄の中から小さな物音が聞こえてくる。
携帯食の包み。
予備の外套。
数冊の手帳。
用途不明の小瓶。
なぜか木製の皿。
鞄の外見からは想像できない量の道具が入っているため、目的の物を見つけるには少し時間がかかった。
「ノルン」
「はい!」
「帰ったら整理すると言っていなかったかな」
ノルンの動きが一瞬止まる。
「前回の任務から戻った時に」
「い、言いました!」
「その前の任務でも聞いた気がするよ」
「今回は帰還後すぐに報告する必要がございましたので!」
「うん。報告が終わったら一緒に整理しようか」
「主様のお手を煩わせるわけには参りません!」
「一人でできる?」
「全身全霊で取り組みます!」
主は優しく微笑んだ。
「では、今日中に終わらなかったら手伝うよ」
「必ず終わらせます!」
言いながら、ノルンは鞄の中をさらに探る。
数秒後。
「あ、ありました!」
取り出されたのは、王立庭園で使用していた黒い双眼鏡だった。
ノルンは双眼鏡を机の中央へ置き、側面に刻まれた小さな術式へ指先を触れる。淡い白色の光が文字の溝を走り、二つのレンズから細い光が伸びた。
机の上に、半透明の大きな映像が浮かび上がる。
最初に映し出されたのは、春の陽射しに照らされた王立庭園だった。
噴水の前に立つフローラ。
その前で片膝をつくアルノルド。
主は口を挟まず、映像を見つめていた。
アルノルドがフローラの幼い頃の出来事を語り始めても、その表情は変わらない。
フローラが顔を引きつらせ、握られた手を何度も気にしている様子を見ても、静かなままだった。
しかし。
『何を好み、何を嫌い、誰と話し、どこへ行き、何を見て笑ったのか。私は君に関わるすべてを大切にしたいと思っている』
アルノルドがそう語った時、主の眉がほんのわずかに動いた。
映像の中で求婚が行われる。
フローラが手を引き抜く。
『お、お断り致しますっ!!』
大きな声が管理領域へ響き渡った。
ノルンはすでに一度聞いているにもかかわらず、肩を揺らす。
主は目を瞬いた。
その後、フローラが庭園を全力で走り去り、アルノルドが笑い始める。
『十四回目だ』
深紅の手帳を取り出したアルノルドが、フローラの逃走について細かく記録していく。
主は最後まで映像を止めなかった。
『君の世界が私だけで満たされるまで、私は決して諦めないから』
その言葉を最後に、記録映像が終わる。
半透明の景色が消え、部屋には再び静寂が戻った。
「主様」
「うん」
「どう思われますか?」
主はすぐには答えなかった。
机の上に置かれた双眼鏡へ目を向けたまま、指先でゆっくりと机を叩いている。
「まず、フローラ・スカーレットが転生者である可能性は高いと思う」
「やはりそうですよね!」
「ただし、求婚を断ったという事実だけでは確定できない。彼女が物語を知っているのか、単純にアルノルドを恐れているだけなのかは、まだ分からないからね」
「確かに、あれだけ執着されていれば、転生者でなくても逃げる可能性はあります」
ノルンは納得して頷いた。
物語と違う行動を取ったからといって、必ずしも前世の記憶を持っているとは限らない。
人の心は記録通りに動くものではない。
幼い頃の何気ない出会い。
誰かから掛けられた一言。
その日の天気や体調。
ほんの些細な違いによって、好意が生まれることもあれば、恐怖へ変わることもある。
「フローラについては、引き続き観察が必要だね。前世の知識を使っている兆候や、物語の先を知っていると判断できる言動があれば記録してほしい」
「承知致しました!」
「こちらから接触するのは、まだ早い。彼女が転生者だったとしても、現時点では世界へ害を与えていないからね」
主の言葉に、ノルンは大きく頷いた。
「私も同じ考えです。フローラ様は、ただ物語通りの婚約を避けようとしているだけに見えました」
「彼女が自分の人生を選ぼうとすること自体は、罪ではない」
主は静かに言った。
「転生者であっても、この世界で生まれ、十六年を生きてきたことに変わりはない。前世の記憶を持っているからといって、物語記録に従う義務はないよ」
「はい」
「ただ、その選択によって世界全体にどのような影響が出るかは、確認しなければならない。フローラとアルノルドの婚約が成立しない場合、王国の政治や他国との関係が変化する可能性もある」
主が手を向けると、別の本が本棚から飛び出した。
机の上で開かれたページには、タリウス王国の地図と、周辺国との関係が記されている。
「スカーレット公爵家は、王国北部の広大な領地と銀鉱山を持っている。王家との婚姻がなくても反乱を起こすような家ではないけれど、他の貴族達がどう動くかは分からない」
「王太子妃の座が空けば、自分の娘を婚約者にしようとする方々が現れますね」
「そうだね。王妃候補を巡る派閥争いが起こるかもしれない。それだけなら世界の自然な変化として見守ればいいけれど、争いが大きくなれば多くの人が傷つく」
転生者が何かを変えたからといって、その変化をすべて元へ戻すわけではない。
世界は変化するものだ。
ただし、一人の知識や行動が引き金となり、数万、数十万の命が失われるような事態が起きるのであれば、管理者として無視することはできない。
「そして、もう一つ」
主はアルノルドの記録へ視線を戻した。
「王太子についても観察を続けよう」
ノルンの表情が明るくなる。
「やはり、主様も危険だと思われましたか!」
「危険と断定するには早いよ」
「そうでした」
ノルンはすぐに姿勢を正した。
主は小さく笑い、言葉を続ける。
「彼は今のところ、フローラへ暴力を振るっていない。権力を使って無理に婚約を成立させようともしていない。断られた事実を受け入れた上で、もう一度求婚しようとしているだけとも言える」
「はい」
「ただし、あの執着がどこまで強くなるかは分からない」
主の声が少し低くなる。
「フローラが王太子から逃げるために物語を変えようとした時、アルノルドがそれを受け入れられるのか。彼女が他の誰かを選んだ場合、王太子としての権力を使わずにいられるのか。そこは注意して見ておく必要がある」
ノルンは真剣な表情で頷いた。
アルノルドがフローラを愛していることは間違いない。
だが、愛情が深ければ、それだけで相手を幸せにできるわけではない。
相手の意思を無視し、すべてを自分の思い通りにしようとすれば、それは守ることではなく縛ることになる。
「観察対象はフローラ・スカーレット。関連注意対象としてアルノルド・エル・タリウスを登録する」
主が指先を動かすと、宙に二人の名前が浮かび上がった。
フローラの名前は淡い青色の光に包まれ、その下に「転生者候補」と記される。
アルノルドの名前は金色に輝き、横に「関連注意対象」と表示された。
「危険度は、どちらも現時点では最低段階でいいだろう」
「アルノルド王太子殿下も最低なのですか?」
「怖い笑顔を浮かべただけで危険人物にはできないよ」
「なるほど」
「納得していない顔だね」
「いえ! 主様のご判断に間違いはございません!」
ノルンは慌てて首を横へ振る。
主は苦笑した。
「ただし、王太子がフローラの自由を奪うような行動を取った場合は、すぐに報告してほしい。公爵家への圧力、周囲の人物への不当な処罰、監禁に近い行動。そういった兆候があれば危険度を引き上げる」
「承知致しました!」
「フローラについても同じだよ。物語を知っていることを利用し、無関係な人々を傷つけたり、国を混乱させたりするようなら介入を検討する」
「はい!」
ノルンは胸元へ右手を当てた。
「転生者観察官ノルン。主様のご命令に従い、フローラ・スカーレット及びアルノルド・エル・タリウスの観察任務に当たります!」
「そこまで硬くならなくても大丈夫だよ」
「ですが、主様より正式に任務を賜った大切な瞬間ですので!」
「君は本当に真面目だね」
主の声には、呆れではなく温かな響きがあった。
ノルンは褒められたと思い、嬉しそうに背筋を伸ばす。
「ありがとうございます!」
「褒めたつもりではあるけれど、少し力を抜くことも覚えてほしいかな」
「善処致します!」
「うん。その返事をした時は、だいたい変わらないんだよね」
主は再び苦笑しながら、机の上の茶器へ手を伸ばした。
白い急須から二つのカップへ茶が注がれる。
「長く話してしまったね。座って飲むといい」
「主様のお茶を頂いてもよろしいのですか?」
「君の分も最初から用意していたよ」
ノルンは机の反対側に置かれた椅子を見た。
確かに、そこには小さな皿と焼き菓子まで準備されている。
「私が戻る時間をお分かりになっていたのですか?」
「正確な時間は分からなかったけれど、夕方までには戻ると思っていたから」
「主様……!」
ノルンは感極まったように両手を胸の前で組んだ。
「このノルン、主様のお心遣いに報いるため、命を懸けて任務を――」
「命は懸けなくていいよ」
「では、全身全霊で!」
「それも無理をしない範囲でね」
「はい!」
ノルンは椅子へ座り、両手でカップを持った。
温かな香りが鼻先をくすぐる。
一口飲むと、現地で張り詰めていた気持ちがゆっくりと解けていくようだった。
「美味しいです」
「それならよかった」
主も向かい側へ座り、自分のカップを手に取った。
しばらく、二人の間には穏やかな沈黙が流れた。
窓の外では、世界を表す無数の光が静かに瞬いている。
その一つ。
タリウス王国が存在する世界の光は、今のところ安定していた。
世界が崩壊へ向かう兆候はない。
大規模な戦争や災害の気配もない。
フローラが求婚を断ったことによる変化は、まだ水面に落ちた小さな雫にすぎなかった。
だが、小さな波紋がどこまで広がるのかは、誰にも分からない。
「主様」
焼き菓子を一つ食べた後、ノルンが口を開いた。
「一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「もちろん」
「今回の転生者を送り込んだジジ様は、どなたなのでしょうか?」
主の手が止まった。
穏やかだった表情に、少しだけ疲れが滲む。
「それが、まだ分かっていないんだ」
「分からないのですか?」
「神々の集会で宴会をしたことまでは判明している。その際、転生予定だった魂の入った器が一つ空になっていた。ただし、その場にいたジジ様達全員が、自分は触っていないと主張している」
「全員ですか」
「全員だよ」
「では、誰がタリウス王国へ送ったのでしょう」
「それを聞いても、みんな首を傾げるんだ」
主は目元を押さえた。
「一柱は、『光っていたから少し持ち上げた気がする』と言い、別の一柱は、『酒のつまみと間違えて隣へ動かしたかもしれない』と言い、さらに別の一柱は、『魂が自分で飛んでいったのではないか』と言っている」
「魂は自分で世界を越えられるのですか?」
「普通は無理だね」
「では、最後の方は嘘をついているのでは?」
「本人は本気で言っているよ」
ノルンはしばらく黙った。
神々は、人間から見れば全知全能に近い存在として信仰されている。
実際、世界や生命を生み出し、死者の魂を導き、奇跡を起こす力を持っている。
しかし、すべての神が常に厳格で威厳に満ちているわけではない。
長い時を生きる中で、妙に大らかな性格になった者。
細かなことを気にしなくなった者。
楽しいことを優先する者。
そして、自分の失敗を失敗と思わない者。
様々な神が存在する。
ノルンが彼らをジジ様と呼ぶのも、見た目や性別に関係なく、あまりにも長く生きた年長者達だからだった。
「主様は、ジジ様達へお怒りではないのですか?」
「怒っているよ」
主は即答した。
声は穏やかなままだったが、返事だけは迷いがなかった。
「ただ、怒ったところで送り込まれた魂が元へ戻るわけではない。まずは転生者と世界の安全を確認する方が大切だ」
「さすが主様です!」
「それに」
主は窓の外へ目を向けた。
「転生者本人に罪はないからね」
ノルンも同じ光を見る。
「本来ならば、別の世界へ生まれ変わる予定だった魂なのでしょうか」
「おそらくは。記録が乱れているから、どのような人生を送り、どこへ転生する予定だったのかまでは分からない」
「それでも、フローラ様として生きてこられた十六年は本物です」
「そうだね」
主は静かに頷いた。
「だから僕達は、彼女を神々の間違いとして扱ってはいけない。一人の人間として見なければならない」
その言葉を、ノルンは胸の中へ刻み込んだ。
転生者観察官の仕事は、異物を探して排除することではない。
転生者がどのような人生を選び、世界とどのように関わっていくのかを見守ること。
危険があれば止める。
困っていれば、必要な範囲で手を差し伸べる。
だが、彼らの人生を代わりに決めてはならない。
「明日から、フローラ様の近くで観察を続けます」
「姿はどうするつもり?」
「まずは公爵邸の周囲を確認しようかと。必要であれば、侍女や町娘に姿を変えます」
「王城でも目立たないようにね」
「認識阻害の外套を使用します!」
「今日のように木の上から見るの?」
「最も見通しの良い場所でしたので!」
「落ちないように気をつけるんだよ」
「私が木から落ちることはありません!」
「以前、枝が折れて池へ落ちたことがあったよね」
ノルンの顔が固まる。
「あれは、枝の強度計算に誤りがあっただけです!」
「つまり落ちたんだね」
「……はい」
主は小さく笑った。
ノルンは少し頬を膨らませた後、自分でも可笑しくなったのか、つられるように笑う。
新たな任務は始まったばかりだった。
観察対象は、公爵令嬢フローラ・スカーレット。
関連注意対象は、王太子アルノルド・エル・タリウス。
まだ、どちらも世界を脅かしてはいない。
それでも。
ノルンは、先ほどの庭園で覚えた小さな違和感を忘れられなかった。
フローラが求婚を拒絶した時。
彼女の顔に浮かんでいたのは、単なる嫌悪や恥ずかしさではない。
これから起こる何かを知っている者の恐怖だった。
◇◇◇
一方、その頃。
スカーレット公爵家の屋敷では、一台の馬車が正門を勢いよく通過していた。
「もっと速くしてくださいませ!」
馬車の中から聞こえた声に、御者は困ったように手綱を握り直した。
「お嬢様、これ以上は屋敷の敷地内では危のうございます!」
「では、このままで構いません! ですが、門を閉じてください! 私が入ったら、すぐにです!」
「は、はい!」
馬車が玄関前へ止まる。
扉が開くより早く、内側からフローラが飛び出した。
王立庭園を走り去った時に乱れた銀髪は、そのままになっている。ドレスの裾には芝と土が付き、片方の靴には小さな葉まで挟まっていた。
いつもならば、馬車を降りる際には侍従の手を借り、背筋を伸ばして優雅に玄関へ向かう。
だが、今のフローラにそんな余裕はなかった。
「お嬢様!」
玄関前で待っていた侍女達が、目を見開く。
「一体、何がございましたか!?」
「王城で何か問題が?」
「お怪我をなさっているのですか?」
次々と掛けられる声へ答えることなく、フローラは屋敷の中へ入った。
広い玄関広間を抜け、階段へ向かう。
「お嬢様、お待ちくださいませ!」
王城から一緒に戻ってきた侍女が、息を切らしながら後を追う。
フローラより少し年上の彼女は、庭園から馬車まで走り続けたせいで顔を赤くしていた。
「せめて、旦那様へご帰宅のご挨拶を――」
「後にします!」
「ですが!」
「今、父に会えば、私はきっと泣いてしまいます!」
フローラの足が、階段の途中で一瞬止まった。
追いついた侍女も、思わず口を閉じる。
フローラの声は震えていた。
庭園では恐怖と勢いに任せて走り出した。
馬車の中では、アルノルドが追ってくるのではないかと何度も窓の外を確認していた。
屋敷へ辿り着き、ようやく安全な場所へ戻れたと思った瞬間、張り詰めていたものが崩れ始めている。
「お嬢様」
侍女が、先ほどよりも優しい声で呼び掛けた。
フローラは振り返らなかった。
「少しだけ、一人にしてください」
「承知致しました。ですが、お着替えだけでもお手伝いさせていただけませんか」
「今は、このままでいいです」
「では、お茶をお持ち致します」
「要りません」
「何も召し上がらずにお休みになるのは、お身体に障ります」
普段ならば、フローラも侍女の言葉に従っただろう。
だが今は、誰かと話せば、庭園で起きたことをすべて口にしてしまいそうだった。
「お願いです」
フローラは階段の手摺を握り、絞り出すように言った。
「少しだけでいいのです。誰にも会わずに考えさせてください」
侍女は、フローラの背中を見つめた。
乱れた銀髪。
震える肩。
強く握られた手。
いつも気丈に振る舞う主人の姿とは、あまりにも違っていた。
「分かりました」
侍女は静かに頭を下げた。
「お部屋の外でお待ちしております。何かございましたら、すぐにお呼びください」
「ありがとう」
フローラは、それだけを答えて再び階段を上がった。
自室へ入る。
扉を閉じる。
鍵を掛ける。
そこまで終えた瞬間。
フローラは扉へ背中を預け、そのまま床へ座り込んだ。
「断ってしまいました……」
誰もいない部屋で、小さな声が漏れる。
自分で決めたことだった。
物語通りに婚約しないと、何度も心へ言い聞かせてきた。
今日という日が近づくたび、鏡の前で断る練習もした。
王太子殿下のお申し出は大変光栄ですが、お受けすることはできません。
私には王太子妃は務まりません。
殿下には、もっと相応しい方がいらっしゃいます。
何通りもの言葉を考えていた。
だが、実際にアルノルドを前にした時、口から出たのは大声の拒絶だけだった。
「もっと、穏やかにお断りする予定でしたのに」
フローラは両手で顔を覆った。
王太子の求婚を、庭園中へ響く声で拒絶した。
しかも、その後は説明もほとんどせずに逃げた。
明日には王城中。
遅くとも数日以内には、王都中の貴族が知ることになる。
「お父様に、なんと説明すればよいのでしょう」
公爵家を守るため。
自分の人生を守るため。
そう思って断ったはずだった。
けれど、今回の拒絶がきっかけとなり、公爵家と王家の関係が悪化する可能性もある。
物語にはなかった出来事である以上、この先何が起こるか、フローラにも分からない。
「それに、殿下は……」
求婚を断った直後のアルノルドの顔を思い出す。
驚いたように目を見開き、何も言わずにこちらを見ていた。
フローラは、彼が怒っていると思った。
だから逃げた。
しかし。
庭園を出る直前。
背後から、笑い声が聞こえた気がした。
楽しそうな。
喜んでいるような。
あの状況には、あまりにも似つかわしくない笑い声だった。
「まさか」
フローラは顔を上げた。
「これで諦めてくださいますよね?」
問い掛けても、答える者はいない。
前世で読んだ物語のアルノルドは、決して諦めない男だった。
誰かに止められても。
フローラ本人に拒絶されても。
自分の愛情こそが、彼女を幸せにすると信じ続ける。
物語の中では、それが一途な愛として描かれていた。
だが。
「断ったのですから、普通は諦めますよね?」
自分自身へ言い聞かせるように呟く。
「少なくとも、しばらくは距離を置いてくださるはずです」
フローラは立ち上がろうとした。
その時。
扉の向こうから、遠慮がちな声が聞こえた。
「お嬢様」
先ほどの侍女だった。
「何でしょう」
「王城より、使者の方がお見えになりました」
フローラの身体が固まる。
「どなたからですか」
嫌な予感がした。
聞かなくても分かる気がする。
それでも、確認せずにはいられなかった。
扉の向こうで、侍女が一瞬言葉を躊躇う。
「アルノルド王太子殿下からでございます」
フローラは、ゆっくりと扉へ振り返った。
庭園で求婚を断ってから、まだ一刻も経っていない。
「な、何の御用でしょうか」
「お品物と、お手紙をお預かりしているそうです」
「お品物?」
「はい。大きな花束を」
フローラは目を閉じた。
胸の奥で、何かが音を立てて崩れていく。
「お手紙には、何と?」
「封がされておりますので、内容までは……」
「そう、ですよね」
フローラは扉の前まで歩き、震える手で鍵を開けた。
侍女が心配そうな顔で立っている。
その腕には、両手でも抱えきれないほど大きな赤い薔薇の花束があった。
花束の中央には、深紅の封筒が添えられている。
見慣れた王家の紋章。
そして表面には、アルノルド本人の筆跡で、フローラへ、と書かれていた。
フローラは花束を見つめたまま、しばらく動けなかった。
やがて覚悟を決め、封筒を手に取る。
封を開き、中の便箋を広げた。
書かれていた文章は短かった。
本日は、君の素直な気持ちを聞けて嬉しかった。
驚かせてしまったことを謝罪する。
次は、君が落ち着いて返事をできるよう、もう少し静かな場所を用意しよう。
二週間後を楽しみにしている。
愛を込めて。
アルノルド。
便箋を持つフローラの手が、細かく震え始めた。
「お嬢様?」
侍女が不安そうに顔を覗き込む。
フローラは、ゆっくりと便箋から顔を上げた。
「……二週間後」
「はい?」
「二週間後に、また来るそうです」
侍女は言葉を失った。
フローラは赤い薔薇の花束と、アルノルドからの手紙を交互に見つめる。
求婚を断った。
全力で逃げた。
それなのに。
アルノルドは、何一つ諦めていなかった。
「どうしてですの……」
掠れた声が部屋へ落ちる。
「お断りしたではありませんかああああああっ!!」
その日の午後。
スカーレット公爵邸には、王立庭園に負けないほど大きなフローラの悲鳴が響き渡った。
そして。
管理領域で茶を飲んでいたノルンの前に、新たな観察記録が静かに浮かび上がった。
アルノルド・エル・タリウス。
求婚拒絶から一刻以内に花束と手紙を送付。
二週間後の再求婚を予告。
その文字を読んだノルンは、焼き菓子を持ったまま動きを止めた。
「主様」
「どうしたんだい?」
「王太子殿下の危険度を、一段階上げてもよろしいでしょうか」
主は記録を読み、しばらく黙った。
「……もう少しだけ様子を見ようか」
「はい」
ノルンは頷いた。
だが。
心の中では、すでに確信し始めていた。
今回の任務。
転生者であるフローラだけを見ていれば終わるほど、簡単なものではないらしい。




