第一話 物語通りに婚約するなんて、絶対にお断りです
春の柔らかな陽射しが、タリウス王国の王都に降り注いでいた。
空は雲一つないほど澄み渡り、淡い青色の天蓋がどこまでも広がっている。冬の名残をわずかに含んだ風が王立庭園を通り抜けるたび、丁寧に刈り揃えられた芝生の先端が揺れ、花壇に咲いた色とりどりの花々から甘い香りが立ち上った。
王城の東側に広がる王立庭園は、国王一家と許可を得た一部の高位貴族しか立ち入ることのできない場所である。
庭師達が毎朝日が昇る前から手入れを行う園内には、左右対称に整えられた生垣や、外国から取り寄せた希少な花々が並んでいた。白い石を敷き詰めた遊歩道の先には、大理石で造られた大きな噴水があり、三体の女神像が掲げた水瓶から透明な水が絶え間なく流れ落ちている。
その噴水の前に、二つの人影があった。
一人は、陽の光を受けて宝石のように輝く銀髪を持つ少女だった。
背中の半ばまで伸びた銀色の髪は、細い組み紐で緩やかにまとめられている。澄み切った空を思わせる淡い青色の瞳と、雪のように白い肌を持つ少女は、誰が見ても高貴な家柄の令嬢だと分かる美しさを備えていた。
彼女が身につけているのは、淡い水色を基調とした豪華なドレスである。
胸元から腰にかけて銀糸による細かな刺繍が施され、幾重にも重なった裾には、職人が一つ一つ縫い付けた小粒の真珠が輝いている。平民であれば一生働き続けても袖を通すことができないであろう一着だった。
少女の名は、フローラ・スカーレット。
タリウス王国でも王家に次ぐ権勢を誇る、スカーレット公爵家の長女である。
普段のフローラは、穏やかで落ち着きがあり、どれほど多くの貴族に囲まれても柔らかな微笑みを崩さない令嬢として知られていた。幼い頃から礼儀作法を徹底的に学び、王妃教育にも耐えられるほど優秀だと評価されている。
しかし、今の彼女には、その落ち着きの欠片もなかった。
両手はドレスの裾を強く握り締め、細い指先が白くなっている。表情は笑みを形作ろうとしているものの、口元は不自然に引きつり、額には春の陽気だけが理由とは思えない汗が浮かんでいた。
フローラの目の前には、金髪の少年が片膝をついている。
少年の髪は、陽の光を浴びて黄金の糸のように輝いていた。端正に整った顔立ちには柔らかな笑みが浮かび、深い青色の瞳は、ただ一人の少女だけを見つめている。
白を基調とした王族用の礼装には金糸で王家の紋章が刺繍され、肩から掛けられた深紅の外套が春風に揺れていた。
彼の名は、アルノルド・エル・タリウス。
タリウス王国の第一王子にして、次代の王位を継ぐことが決まっている王太子である。
容姿端麗、文武両道。
十二歳で王立学院の高等課程に用いられる歴史書を読み終え、十四歳の頃には騎士団の訓練で成人した騎士を相手に勝利した。政治や外交の場でも非凡な才能を見せ、民を思いやる慈悲深い王子として王都の内外から慕われている。
未婚の令嬢達にとって、アルノルドはまさしく理想の王子だった。
そんな彼が、噴水の前で一人の令嬢に跪いている。
庭園の周囲に控えていた侍女や護衛の騎士達は、息をすることさえ忘れたように二人を見守っていた。少し離れた場所で花の手入れをしていた庭師達も、手を動かすふりをしながら視線だけをそちらへ向けている。
今日、王太子がフローラを庭園へ招いたことは、王城内ですでに広く知られていた。
幼い頃から交流のある二人が、ついに正式な婚約を結ぶのではないか。そんな噂が朝から使用人達の間を駆け巡り、侍女の中には仕事の合間を縫って庭園へ近づこうとした者までいた。
誰もが期待していた。
王国を代表する美しい令嬢と、完璧な王太子。
これほど似合いの二人はいない、と。
ただ一人。
求婚を受けるはずのフローラ本人だけを除いて。
(来た。とうとう来てしまいました)
フローラは、目の前に跪くアルノルドを見つめながら、心の中で悲鳴を上げていた。
(分かっていました。今日、この庭園に呼ばれた時点で、こうなることは分かっていたのです。それでも、もしかすると違う用件かもしれないと、ほんの少しだけ期待していたのに)
そんな淡い期待は、アルノルドが噴水の前で足を止め、護衛と侍女達を遠ざけた時点で粉々に砕け散っていた。
場所も、時間も、天候さえも、フローラの記憶にある通りだった。
春の第三月。
雲一つない晴天。
王立庭園の中央にある、三女神の噴水。
そして、白い礼装を身につけた王太子アルノルド。
何一つとして間違っていない。
ここは、フローラがかつて読んだ恋愛小説の世界だった。
正確には、前世で大流行していた長編恋愛小説、『銀花の王妃は永遠の愛を誓う』の舞台である。
物語の主人公は、スカーレット公爵家の長女フローラ。
幼い頃から王太子アルノルドと親しくしていた彼女は、十六歳の春に、この庭園で求婚を受ける。恥ずかしさに頬を染めながらもその手を取り、二人は正式な婚約者となる。
そして、多くの困難を乗り越えた末に結婚し、国王と王妃として末永く幸せに暮らす。
そこだけ聞けば、美しい恋物語である。
だが、フローラは知っていた。
物語のアルノルドが、決して穏やかで優しいだけの王子ではないことを。
婚約後、アルノルドは徐々にフローラへの執着を強めていく。
彼女が他の男性と会話をすれば、その男を遠方へ転属させる。フローラが一人で街へ出たいと言えば、彼女の知らないところで数十人の護衛を配置する。
誰かがフローラへ好意を寄せれば、その人物の家を徹底的に調べ上げ、少しでも不正が見つかれば容赦なく取り潰す。フローラのためだと微笑みながら、彼女の周囲から少しずつ人を遠ざけていく。
物語の中では、それらすべてがアルノルドの深い愛情として描かれていた。
前世の読者達からも、その重すぎる愛が良いのだと絶賛されていた。
フローラ自身も、物語を読んでいた頃は、少しくらい強引な王子も悪くないと思っていた。
だが。
実際に自分が、その執着を向けられる立場になれば話は別である。
(読む分には素敵でした。物語の中でなら、少しくらい重たい愛情も魅力的に見えました。でも、自分がその対象になるなんて聞いていません。絶対に無理です。少しどころか、あの方の愛情は山より重いのですから)
フローラは、アルノルドに気づかれないよう小さく息を呑んだ。
彼女がこの世界で前世の記憶を取り戻したのは、十二歳の頃だった。
王城の階段から足を滑らせ、頭を強く打って三日間眠り続けた。目を覚ました時には、日本という国で暮らしていた女性の記憶と、自分が小説の主人公フローラであるという知識を思い出していた。
最初は夢かと思った。
だが、知っている出来事が次々と現実に起こり始めた。
父が領地で希少な銀鉱脈を発見したこと。
王都の南部で大火災が起きたこと。
隣国から訪れた使節団の中に、後に重要人物となる第二王子がいたこと。
すべて小説に書かれていた通りだった。
そしてアルノルドもまた、物語と同じようにフローラへ好意を向け始めた。
いや、正確には、物語よりも少し早く、少し強く。
フローラが街で買った小さな髪飾りを褒めれば、翌日には同じ工房の商品が王城の一室を埋め尽くした。庭園の花が綺麗だと言えば、その花を一年中咲かせるためだけに専用の温室が建てられた。
体調が悪くて一度だけ茶会を断った時には、王宮医師が七人も公爵邸へ押しかけてきた。
その日の夕方には、心配したアルノルド本人まで現れた。彼は寝台の傍らに座り、フローラが眠るまで一度も手を離そうとしなかった。
優しい。
確かに優しい。
けれど、怖い。
(婚約を受けてしまえば、もう逃げられません)
公爵令嬢と王太子の婚約は、本人達だけの問題ではない。
一度正式に結ばれれば、破棄するには王家と公爵家、双方の名誉を傷つけることになる。ましてや、何の落ち度もない王太子との婚約を令嬢側から解消するなど、ほとんど不可能だった。
だから、ここで断るしかない。
まだ求婚の段階で。
アルノルドが正式な婚約話を国王へ持ち込む前に。
しかし、分かっていても怖いものは怖い。
目の前にいるのは、この国で国王に次ぐ権力を持つ王太子である。彼の言葉一つで、スカーレット公爵家の立場すら危うくなる可能性がある。
何より、アルノルド本人が、フローラの拒絶を素直に受け入れる姿が想像できなかった。
「フローラ」
柔らかな声で名前を呼ばれ、フローラの肩が小さく跳ねた。
アルノルドは、彼女の動揺を緊張から来るものだと受け取ったらしい。安心させるように微笑みながら、フローラの右手を両手で包み込んだ。
温かな手だった。
指先を扱う動作はどこまでも優しく、彼女が少しでも痛みを感じないよう細心の注意を払っていることが伝わってくる。
その優しさが、余計にフローラを怯えさせた。
「そんなに緊張しなくてもいい。君を困らせるつもりはないんだ」
(すでに十分困っています)
もちろん、口には出せない。
フローラは何とか微笑もうとしたが、頬の筋肉が思うように動かなかった。
「殿下、あの……」
「今日は、ずっと言いたかったことを君に伝えるために来てもらった」
アルノルドは、フローラの声を遮るように言った。
本人に遮ったつもりはないのだろう。むしろ、これ以上彼女を緊張させないよう、自分から話を進めたように見える。
少し離れた場所に控えている侍女達が、期待に満ちた表情で二人を見つめていた。一人の若い侍女は、すでに感動しているのか、口元を両手で覆っている。
護衛騎士達も、表情こそ崩していないものの、どこか温かな目をしていた。
誰も、フローラが断るとは思っていない。
この場にいる全員が、これから始まる美しい婚約の瞬間を見届けようとしていた。
アルノルドは、そんな周囲の期待に満ちた空気を意識する様子もなく、フローラだけを見つめている。
「幼い頃から、私は君を見てきた」
彼の声は穏やかだった。
「君が初めて王城を訪れた日のことも覚えている。慣れない場所で心細かったはずなのに、泣いていた侍女の子供を慰めていたね。自分だって泣きそうな顔をしていたのに、あの子の手を握って、大丈夫だと言い続けていた」
フローラは目を瞬いた。
それは彼女自身でさえ、ほとんど覚えていない幼い頃の出来事だった。
「十歳の時、王都で流行病が発生した際には、自分のドレスを売って薬代にした。十二歳の時には、領地の不作を知って、誕生日の祝宴を中止するよう父君へ頼んだそうだね」
「どうして、そのことを……」
「君のことだから」
アルノルドは、何でもないことのように答えた。
「君のことなら、どんな些細なことでも知りたい。何を好み、何を嫌い、誰と話し、どこへ行き、何を見て笑ったのか。私は君に関わるすべてを大切にしたいと思っている」
周囲から、感動を堪えるような吐息が漏れた。
侍女の一人など、目元に涙まで浮かべている。
だが、フローラの背中には冷たい汗が流れていた。
(やっぱり調べているではありませんか)
小説の中では、情熱的で一途な告白に見えた。
しかし、本人を前にして聞けば、その情報量が恐ろしい。
フローラが誰にも話していないような幼少期の出来事まで、アルノルドは知っている。どれほど調べたのか、誰に調べさせたのか、考えたくもなかった。
アルノルドはフローラの手をゆっくりと持ち上げた。
深い青色の瞳に宿る熱が、わずかに強くなる。
「フローラ・スカーレット公爵令嬢」
風が止まったように感じた。
噴水から流れ落ちる水音だけが、妙に大きく響いている。
フローラは逃げ出したくなる衝動を必死に堪えた。ここで逃げてはいけない。少なくとも、きちんと断るまでは。
アルノルドは、百人の令嬢がいれば百人すべてが見惚れるであろう微笑みを浮かべた。
「どうか、私の妃になってください」
そして彼は、フローラの手の甲へそっと唇を落とした。
周囲の侍女達が息を呑む。
庭師の一人が、感動のあまり持っていた鋏を芝生へ落とした。少し離れた場所で待機していた騎士達も、今にも祝いの言葉を口にしそうな表情を浮かべている。
完璧な求婚だった。
場所も。
言葉も。
王子の笑顔も。
小説に描かれていた通りの、美しい場面だった。
本来の物語では、フローラはここで涙を浮かべる。
震える声で喜びを伝え、アルノルドの手を握り返す。そして二人は抱き合い、周囲から盛大な祝福を受けることになる。
けれど。
今のフローラの身体を震わせているものは、喜びではなかった。
(言わなければ)
心臓が激しく鳴っている。
喉が乾き、声を出そうとしても息だけが漏れた。
(今ここで断らなければ、一生この方から逃げられません)
父の顔が浮かんだ。
母の顔も。
公爵家に仕える使用人達の顔も浮かんだ。
自分が断れば、家族に迷惑がかかるかもしれない。王太子の機嫌を損ねれば、公爵家の立場が危うくなる可能性もある。
それでも。
フローラは、前世の物語を思い出していた。
婚約後、アルノルドの許可なしには王城から出られなくなったフローラ。
友人と会う回数を制限され、彼女の隣に立つ男性が一人ずつ姿を消していく展開。
最後にはアルノルドの愛を受け入れて幸せになると描かれていたが、あれを本当に幸せと呼べるのか。
自分の人生を、物語に決められた通りに歩む必要はない。
王太子の妃になることが、すべての令嬢にとっての幸福だとは限らない。
フローラは強く息を吸い込んだ。
そして、アルノルドの手から自分の右手を引き抜いた。
「フローラ?」
彼の笑みが、わずかに止まる。
周囲の侍女達も、何が起きたのか分からないという顔をした。
フローラは両手を胸の前で握り締めた。膝が震えている。今すぐにでもその場へ座り込んでしまいそうだった。
それでも、アルノルドの目を見た。
「アルノルド王太子殿下」
声が震えた。
礼儀作法の教師が聞けば、もっと落ち着いて話すよう注意されたに違いない。それでも構わなかった。
「大変光栄なお申し出であることは、十分に理解しております」
「では――」
「ですが」
今度はフローラが、アルノルドの言葉を遮った。
王太子の発言を遮るなど、公爵令嬢として決して褒められた行為ではない。周囲の騎士達がわずかに目を見開き、侍女の一人が胸元へ手を当てた。
フローラは唇を噛み、震える足へ力を込めた。
「お、お断り致しますっ!!」
庭園全体に響き渡るほどの声だった。
噴水の近くに止まっていた小鳥が、驚いて一斉に空へ飛び立った。
誰も動かなかった。
誰も言葉を発しなかった。
風すらも、何が起きたのか理解できずに止まったのではないかと思えるほどの沈黙が庭園を包んだ。
アルノルドは、片膝をついた姿勢のまま固まっている。
深い青色の瞳が見開かれ、その唇がかすかに開いていた。
フローラは、自分が何を言ったのか理解した瞬間、全身から血の気が引いていくのを感じた。
(言ってしまいました)
断った。
王太子の求婚を。
国中の令嬢が夢見るであろう申し出を。
これ以上ないほど大きな声で、はっきりと拒絶した。
「あ、あの、これは、その……殿下がお嫌いという意味ではございません。ただ、私には王太子妃という大役は、とても務まらないと申しますか、もっと相応しいご令嬢がいらっしゃると申しますか……」
取り繕おうとしたが、言葉がまとまらない。
アルノルドは、何も言わなかった。
驚いた顔のまま、じっとフローラを見つめている。
その沈黙が怖かった。
怒っているのか。
傷ついているのか。
それとも、すでに公爵家をどう処分するか考えているのか。
フローラには判断できない。
ただ、これ以上この場にいれば、アルノルドに言いくるめられてしまう。そうなれば、断る覚悟が揺らぐかもしれない。
「し、失礼致します!!」
フローラは勢いよく頭を下げた。
そして、踵を返した。
「お嬢様?」
少し離れた場所に控えていたスカーレット公爵家の侍女が、戸惑った声を上げる。
フローラは答えなかった。
ドレスの裾を両手で持ち上げ、走り出した。
公爵令嬢とは思えない速度だった。
芝生の上を駆け抜け、生垣の角を曲がり、庭師が置いていた道具箱を器用に飛び越える。途中で髪をまとめていた銀色の組み紐がほどけ、長い銀髪が春風の中へ広がったが、立ち止まる気配はない。
「お、お嬢様、お待ちくださいませ!」
侍女達が慌てて後を追う。
だが、重いスカートを身につけている彼女達では、フローラの速度に追いつけない。
「失礼致しますうううううううっ!!」
最後にそんな叫び声だけを残し、フローラは庭園の出口へと消えていった。
後には、呆然とする人々だけが残された。
庭師は落とした鋏を拾うことも忘れ、騎士達は王太子へ声を掛けるべきか迷って互いの顔を見合わせている。先ほどまで涙を浮かべていた侍女は、今度は別の意味で口元を押さえていた。
噴水の水音だけが、変わらず庭園へ響き続けている。
その中心で、アルノルドはまだ片膝をついたままだった。
「殿下」
護衛騎士の一人が、覚悟を決めたように声を掛けた。
「その……お立ちになられますか?」
返事はない。
騎士は困ったように隣の同僚を見る。
もう一人の騎士も、どうするべきか分からないらしい。王太子が求婚を断られるなど、誰も想定していなかった。
しばらくして、アルノルドの肩がかすかに震えた。
泣いているのではないか。
侍女達の間に、そんな不安が走る。
王国の未来を背負う王太子が、多くの者の前で拒絶されたのだ。どれほど優秀であっても、十七歳の少年であることに変わりはない。
だが。
「……くっ」
アルノルドの口から漏れたのは、悲しみを堪える声ではなかった。
「くくっ……」
笑っている。
肩を震わせ、顔を伏せたまま。
「はは……はははははっ!」
やがてアルノルドは、楽しそうな笑い声を庭園へ響かせた。
周囲にいた者達が、一斉に息を呑む。
アルノルドはゆっくりと立ち上がった。
先ほどまで浮かべていた、万人を魅了する爽やかな笑みは消えている。その代わりに現れたのは、獲物を見つけた猛獣を思わせる、鋭く熱を帯びた笑顔だった。
「やはり、フローラは面白い」
愛おしそうに、彼女が消えた庭園の出口を見つめる。
「殿下、お怒りではないのですか?」
護衛騎士が恐る恐る尋ねた。
「怒る?」
アルノルドは、不思議そうに振り返った。
「どうして私が怒るんだい?」
「その……求婚を、お断りになられましたので」
「ああ」
まるで、今になって思い出したかのような返事だった。
「確かに断られたね」
アルノルドは、自分の右手へ視線を落とした。
先ほどまでフローラの手を包んでいた手である。
「十四回目だ」
「は?」
「フローラに逃げられた回数だよ」
騎士は言葉を失った。
周囲の侍女達も、表情を固めている。
アルノルドは気にする様子もなく、礼装の内側から小さな手帳を取り出した。深紅の革で作られた表紙には、銀色の糸で小さな花が刺繍されている。
彼は手帳を開き、細い筆記具を取り出した。
「本日、春の第三月、十二日。王立庭園の三女神の噴水前にて、正式な求婚を行う。フローラは顔を赤くし、三度言葉に詰まった後、大声で拒絶」
さらさらと文字を書き込んでいく。
「逃走開始から庭園出口通過まで、一分四十六秒」
「測っていたのですか?」
「当然だろう」
アルノルドは真顔で答えた。
「フローラとの大切な思い出なのだから、正確に記録するべきだ」
護衛騎士は、何も言えなくなった。
「それにしても、以前より速くなったね。ドレスを着た状態で、あれほど滑らかに障害物を避けられるとは思わなかった。身体を鍛えているのだろうか」
「公爵令嬢が、殿下から逃げるために身体を鍛えるとは思えませんが」
「私のために努力してくれているのなら嬉しいな」
「その解釈でよろしいのでしょうか」
騎士の疑問は、アルノルドの耳には届いていないようだった。
彼は手帳を閉じ、愛おしそうに胸元へしまった。
「すぐに受け入れてもらえるとは思っていなかったよ」
「では、断られることも想定されていたのですか?」
「もちろん」
アルノルドは微笑んだ。
「フローラは慎重な子だからね。突然の求婚に驚いて、考える時間が欲しくなったのだろう」
周囲の者達は、誰も同意できなかった。
あれは明らかに、考える時間が欲しい者の断り方ではない。
全身全霊を込めた拒絶だった。
しかし、それを本人へ伝えられるほど勇気のある者はいなかった。
「殿下。今後は、どのようになさるおつもりですか?」
護衛騎士は、慎重に言葉を選んだ。
「今日のことを陛下がお知りになれば、正式な婚約交渉は一度見送るよう命じられる可能性もございます」
「そうだね」
アルノルドは、あっさりと頷いた。
「父上はフローラの意思を尊重しろと仰るだろう」
「では――」
「だから、彼女が自分から私を選んでくれるまで待つよ」
その言葉だけを聞けば、相手を思いやる優しい王子に見える。
だが、アルノルドの目に浮かんでいるものは、穏やかな諦めではなかった。
深く。
重く。
決して消えることのない執着だった。
「一月後に、もう一度求婚しよう」
「一月後ですか?」
「長すぎるかな」
「短いという意味で申し上げたのですが」
「では、二週間後にしよう」
「なぜ短くなったのですか」
騎士の声には、隠し切れない疲れが混じっていた。
アルノルドは楽しそうに笑うと、フローラが走り去った方向へもう一度目を向けた。
「逃げても構わない」
彼の声は、春風に溶けるほど穏やかだった。
「どこへ行こうと、誰の隣に立とうと、最後には私のところへ戻ってくればいい」
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で続ける。
「逃がさないよ、フローラ」
優しい響きだった。
愛する者へ語り掛けるような、甘い声だった。
「君が私を選んでくれるまで、何度でも迎えに行く。何度断られても構わない。君の世界が私だけで満たされるまで、私は決して諦めないから」
その笑顔を見た護衛騎士達は、同時に視線を逸らした。
侍女達は、先ほどまでの感動を完全に忘れていた。
誰もが同じことを思っていた。
スカーレット公爵令嬢が逃げた理由を、少しだけ理解できた気がする、と。
けれど。
フローラも。
アルノルドも。
庭園にいた騎士や侍女達も気づいていなかった。
噴水から少し離れた場所にある、大きな樹木。
春の若葉に覆われた太い枝の上から、二人のやり取りを最初から最後まで見つめていた者がいることを。
◇◇◇
「うーん……」
黒い帽子を目深に被った少女は、太い枝に腰掛けたまま小さく唸った。
その身を包んでいるのは、頭から足元まで覆い隠す黒い外套である。晴れ渡った春の日の庭園には到底似合わない服装だったが、外套には周囲の認識を逸らす術式が施されているため、地上にいる者達が彼女へ気づくことはなかった。
少女は両手に持った双眼鏡を下ろし、フローラが消えた庭園の出口と、反対方向へ歩き始めたアルノルドを交互に見つめた。
「やっぱり、間違いないかな?」
問い掛けるように呟いたが、周囲に答える者はいない。
少女は誰かに意見を求めたわけではなかった。長い時間一人で観察任務を続けていると、自然と言葉が口から出るようになる。
「記録されている物語では、ここでフローラ・スカーレットは王太子の求婚を受け入れるはずだったんだよね」
少女は腰に下げていた小さな手帳を取り出した。
何度も読み返した紙面には、今回観察している世界の情報が細かな文字で記されている。
タリウス王国。
春の第三月、十二日。
王立庭園、三女神の噴水前。
アルノルド・エル・タリウス王太子が、フローラ・スカーレット公爵令嬢へ求婚。フローラはこれを受け入れ、二人の婚約が成立する。
少女は、手帳の記述と先ほど目撃した光景をもう一度比較した。
「照れながら受け入れるどころか、ものすごい勢いで逃げちゃった」
あれほど見事な逃走は、長い観察官生活の中でもなかなか見たことがない。
ドレスの裾を踏むこともなく、庭園内の障害物を正確に避けていた。少なくとも、突発的に走り出した令嬢の動きではなかった。
「前もって逃げる練習でもしていたのかな」
その可能性は十分にある。
何度も王太子から逃げた経験があるなら、日頃から走る練習をしていても不思議ではない。
少女は少し考えた後、首を横へ振った。
「今はそこじゃないよね」
彼女が確認するべきなのは、フローラの走る速さではない。
本来起こるはずだった出来事が、なぜ変化したのか。
物語の流れを事前に知っていたかのように、フローラが未来を回避しようとした理由。
少女が探していたものに、ようやく辿り着いた可能性があった。
「見つけたかもしれない」
小さく呟いた声には、わずかな喜びが混じっている。
神々の手違いによって、この世界へ本来存在しない魂が送り込まれた。
その魂は、この世界に生まれるはずだった誰かの肉体へ宿り、前世の記憶を持ったまま新たな人生を歩んでいる。
いわゆる、異世界転生者。
少女は、その転生者を探すためにタリウス王国へ派遣されていた。
神々が残した記録によれば、転生者が存在することだけは確かだった。
しかし、誰の身体に宿ったのか。
どこで暮らしているのか。
どの程度の前世知識を持っているのか。
肝心な部分が、何一つとして記録されていなかった。
神々は魂を送り込んだことすらしばらく忘れており、世界の管理記録に不自然な揺らぎが発生してから、ようやく自分達の失敗に気づいたのである。
その後始末を任されたのが、少女の上司である世界管理者だった。
そして、実際に世界へ降り、転生者の所在と動向を確認する役目を与えられたのが、少女だった。
彼女の名はノルン。
世界管理者直属の、転生者観察官である。
「フローラ・スカーレット公爵令嬢」
ノルンは手帳へ名前を書き込んだ。
「転生者候補。物語の予定行動から大きく逸脱。王太子との婚約を拒否し、庭園から逃走」
書き終えたところで、筆が止まる。
ノルンは顔を上げ、アルノルドが消えた方向を見つめた。
「それから、アルノルド・エル・タリウス王太子」
少し悩んだ後、フローラの下へ王太子の名前も書き加える。
「転生者候補ではないと思われる。ただし、フローラへの執着が非常に強い。求婚失敗と逃走時間を専用の手帳へ記録。二週間後に再度求婚予定」
そこまで記録してから、ノルンは小さく息を吐いた。
「転生者より、王太子の方が危険に見えるんだけど」
転生者の観察が本来の任務である。
だが、観察対象を取り巻く者が世界へ大きな影響を与える可能性がある場合、その人物についても記録する必要がある。
王太子であれば、なおさらだった。
彼が感情のままに権力を振るえば、公爵家だけでなく、王国全体が混乱する恐れがある。
現時点で世界を破壊するような兆候はない。
誰かを傷つけた事実もない。
ただ、言葉と表情が少し怖いだけである。
「……少し、かな」
ノルンは自分で言ってから、疑問に思った。
あの笑顔は、少しという表現で済ませてよいものだろうか。
「まあ、今すぐ介入する必要はないよね」
ノルン達の仕事は、転生者を見つけ次第捕らえることではない。
転生者が世界の中で穏やかに暮らしている限り、基本的には観察と見守りに徹する。
前世の知識を活かして料理を作ろうと。
新しい商売を始めようと。
物語で不幸になるはずだった人物を救おうと。
それだけで介入することはない。
この世界で生まれ、今を生きている以上、転生者にも自分の人生を選ぶ権利がある。
ただし。
前世の知識を使って世界を支配しようとした場合。
大勢の命を奪い、国や大陸を滅ぼそうとした場合。
世界そのものの存続を脅かす力を手に入れようとした場合。
その時だけは、ノルン達が止める。
説得で止まるなら、それでいい。
止まらないのであれば、力を使う。
最悪の場合は、転生者の魂を肉体から切り離し、世界の外へ回収することもあった。
ノルンは、できるだけその手段を使いたくなかった。
これまで観察してきた転生者の多くは、ただ二度目の人生を穏やかに生きようとしていただけだった。
家族を作り、小さな店を開き、誰かを愛する。
前世で叶わなかった夢を、今度こそ叶えようとする。
そんな者達まで、神々の失敗で送り込まれたという理由だけで排除するべきではない。
だから今回のフローラについても、まずは見守る。
彼女が何を知り、何を望み、これからどのように行動するのか。
それを確かめてから判断すればいい。
「それにしても」
ノルンは、もう一度アルノルドが消えた方向へ視線を向けた。
「二週間後にまた求婚するって言ってたよね」
フローラが全力で断ったにもかかわらず、まったく諦める気配がない。
それどころか、断られたことさえ二人の思い出として喜んでいた。
「フローラの観察だけで、本当に大丈夫かな」
転生者の存在が世界を乱すとは限らない。
転生者が行動を変えた結果、その周囲の人物が暴走する可能性もある。
今回の案件は、その典型になるかもしれなかった。
ノルンは手帳のアルノルドの名前の横へ、小さな星印を三つ書き加えた。
「よし」
手帳を閉じる。
「王太子も観察対象に追加しよう」
それが正しい判断かどうか、今の時点では分からない。
ただ、見ておいた方がよいという観察官としての勘が働いていた。
ノルンは太い枝の上で立ち上がると、地面へ視線を向けた。
高さは、普通の人間であれば飛び降りることを躊躇するほどある。
だが、ノルンは何の迷いもなく枝を蹴った。
黒い外套が大きく広がり、その身体が地面へ向かって落ちていく。
着地の直前。
彼女の足元に淡い白色の光が広がった。
落下の勢いが瞬く間に消え、羽毛が舞い降りるような静かな動きで、ノルンの靴が芝生へ触れる。
「よいしょ」
まったく必要のない掛け声を口にしながら、ノルンは姿勢を整えた。
木の根元には、小さな白い肩掛け鞄が置かれている。
ノルンは黒い帽子を外した。
帽子の中へ隠されていたとは思えないほど豊かな白髪が、さらりと背中へ流れ落ちる。銀色に近いフローラの髪とは異なり、ノルンの髪は雪のように純白だった。
続いて黒い外套を脱ぐ。
その下から現れたのは、飾り気の少ない白いワンピースだった。
全身を黒く覆っていた先ほどまでの姿とは正反対で、今度は髪から靴まで白一色である。
ノルンは外套を丁寧に畳むと、小さな肩掛け鞄の口を開いた。
鞄は、外套を半分入れただけで一杯になってしまいそうな大きさしかない。
それにもかかわらず、黒い外套は何の抵抗もなく中へ吸い込まれていった。続いて帽子と双眼鏡を入れても、鞄の形はまったく変わらない。
内部の空間を拡張する術式が施された、ノルン専用の魔法鞄である。
「ええと、帰還用の杖は……」
ノルンは鞄へ片腕を入れ、目的の物を探し始めた。
「これは携帯食。こっちは予備の双眼鏡。これは……いつ入れたんだろう」
取り出したのは、大きな赤い林檎だった。
少し悩んだ後、鞄へ戻す。
「今は食べなくていいかな」
再び腕を入れ、さらに奥を探る。
「あ、これこれ」
ノルンが引き抜いたのは、彼女の身長とほとんど変わらないほど長い、真っ白な杖だった。
明らかに鞄の口よりも長いはずだが、何の問題もなく取り出される。杖の先端には透明な宝石が埋め込まれ、その内部では淡い光がゆっくりと揺れていた。
ノルンは杖を両手で持ち、もう一度庭園を見回した。
フローラの姿はすでにない。
アルノルドも、騎士や侍女達を連れて王城へ戻っている。
先ほどまでの騒ぎが嘘だったかのように、庭園には穏やかな春の空気が戻りつつあった。
ただ、噴水の近くにいた使用人達は、まだ仕事へ戻れずにいる。
「王太子殿下、本当に笑っていらっしゃいましたよね?」
「私にもそう見えたわ」
「スカーレット公爵令嬢は、大丈夫なのでしょうか」
「今夜の王城は大騒ぎになるぞ」
小声で交わされる会話を聞きながら、ノルンは小さく頷いた。
「うん。やっぱり、しばらく観察が必要だね」
フローラが転生者なのか。
彼女は何を恐れ、何を変えようとしているのか。
そしてアルノルドは、どこまでフローラを追い続けるつもりなのか。
確認するべきことは多い。
まずは主様へ報告し、正式な観察許可をもらわなければならない。
「探し人も見つかったかもしれないし、今日はこれで帰りますか」
ノルンは白い杖を軽く掲げた。
先端の宝石から柔らかな光が広がり、彼女の足元へ複雑な紋様が浮かび上がる。
「転移」
短い言葉と共に、空間が静かに揺らいだ。
白い光がノルンの身体を包み込み、次の瞬間、その姿は庭園から跡形もなく消えていた。
後には、誰にも踏まれていない芝生と、春風に揺れる木の葉だけが残された。
この日。
フローラ・スカーレットは、自分の人生を物語から取り戻すため、王太子の求婚を拒絶した。
アルノルド・エル・タリウスは、愛する少女に拒まれたことで、ますます彼女への執着を深めた。
そして転生者観察官ノルンは、新たな観察対象を発見した。
三人はまだ知らない。
この小さな求婚騒動が、やがて王国だけでなく、世界の運命すら巻き込む長い物語の始まりになることを。
もっとも。
その前にノルンは、世界管理者である主へ、こう報告することになる。
転生者候補は発見しました。
ですが。
今のところ、王太子の方がよほど危険に見えます、と。




