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『転生者観察官ノルンの苦労は終わらない 〜神様達がまたやらかしたので、今日も異世界を見回ります〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第八十五話 名前を付けなかったあとも声は届き続けて、管理側は本人に呼ばせないための番号を必要としました

 翌朝、ノルンは管理区域へ向かう途中で菓子店の前を通った。


 昨日の帰り道にも同じ店の前を通っている。自分用のメモ帳には「今日は帰ったら、何か甘いものを食べたい」と書いたものの、結局は店先に並んでいた焼き菓子を眺めただけで何も買わなかった。


 欲しくなくなったわけではない。


 どれにするか決められなかったわけでもない。


 店の前で少し眺めているうちに、それで十分な気がした。


 美咲が以前、小さな飾りを欲しいと言いながら買わなかった時には、その感覚がよく分からなかった。欲しいなら買う、買わないなら欲しくない。その二つの間にある状態を、ノルンはうまく扱えなかった。


 昨日は、少しだけ分かった気がする。


 だからといって、今朝も買わないと決めているわけではない。


 店の扉はまだ閉まっていた。


「……今日は営業前ですね」


 当然のことを小さく呟き、そのまま歩く。


 管理区域へ着くと、朝の申し送りが始まる少し前だった。


 窓の外には薄い雲が広がっているものの、雨の気配はない。室内では夜勤担当から朝の担当へ資料が引き継がれ、低い声がいくつも重なっていた。誰かが淹れた飲み物の香りが漂い、机の間を行き来する足音も聞こえる。


「おはよう、ノルン」


「おはようございます」


 主様は今日も先に来ていた。


 ノルンが鞄を置くと、主様は何かを期待するような顔でこちらを見る。


「何ですか」


「甘いもの」


「食べませんでした」


「えっ」


「なぜ驚くのですか」


「昨日あんなに食べたそうだったのに」


「店の前では見ました」


「買わなかった?」


「はい」


「欲しくなくなった?」


「いいえ」


「じゃあなんで?」


 ノルンは椅子へ座りながら少し考えた。


「見たら、それで満足しました」


 主様が黙った。


「……何ですか」


「美咲みたい」


「私も少しそう思いました」


「成長した――」


「最後まで言ったら朝の確認を一つ増やします」


「何の?」


「主様が昨日から同じことを何回言ったかです」


「やめよう」


「では言わないでください」


「変化したねえ」


「同じです」


「厳しい」


 ノルンは端末を開いた。


 朝の通常確認から始める。


 世界規模の異常なし。


 緊急介入案件なし。


 九人の誤転生者にも重大な状態変化なし。


 ルーク側、自動接続なし。名称反応なし。位置相当感覚なし。痛みなし。恐怖値一。


 昨日は、過去の名前について新しい質問をしていない。


 今朝も同様だった。


 現在はルークと呼ばれることを希望する。


 過去の名前を知りたい気持ちは五。


 急ぎたさは二。


 この数字も毎日確認するものではない。昨日から変化がないかを尋ねる理由もないため、今日は追加確認をしない。


 担当者との朝の会話には、食事の話と天候の話だけが残っている。


「ルーク、普通だね」


「はい」


「昨日のミレイアのことは知らない」


「知りません」


「『こんにちはだけなら』ってやつ」


「共有許可がありませんから」


「今日も伝えない?」


「ミレイアが変更を希望しない限り、伝えません」


「ルークが聞いてきたら?」


「質問内容を確認します。ただし、ミレイアの現在の考えは共有しません」


 主様は頷いた。


 次にミレイア。


 昨日、ルークが答えた四つの候補をもう一度聞いた。


 そのうえで、


『もし次に聞くなら、こんにちはだけがいい』


 と話した。


 ただし、


『まだ、するって決めてない』


 とも明言している。


 ルークへの共有は希望しなかった。


 今朝の記録では、朝食後に母親と庭へ出ている。


 庭の一角では季節の花が咲き始めており、二人で植え替えについて話していた。


 ルークの話なし。


 接続の話なし。


 エリスからの確認なし。


 ノルンは記録を閉じた。


「今日は聞かない?」


「はい」


「昨日かなり具体的になったのに?」


「だからこそ、今日すぐ続きを求める理由にはなりません」


「『こんにちはだけ』まで決めたら、次は『いつ聞く?』ってなりそうだけど」


「なりません」


「即答」


「内容の条件を一つ決めたことを、日程決定へ自動接続しません」


「じゃあミレイアが一か月何も言わなかったら?」


「今、その一か月を想定して確認周期を作る必要はありません」


「また怒られた」


「怒ってはいません」


「ちょっと早口だった」


「主様が同じ方向から何度も聞くからです」


 主様が笑う。


 ノルンはフローラの記録へ移った。


 昨日、慈善行事へ参加する場合の衣装を選んだ。


 参加自体はまだ決めていない。


 今朝は母親と通常通り朝食を取り、その後は家庭教師との予定へ入っている。


 慈善行事についての新しい発言なし。


 王家側では第二王女の出席が正式確定。


 アーノルドが参加者へ変更される動きなし。


 フローラへの直接・間接接触なし。


 贈り物なし。


 知人を通じた働きかけなし。


 偶然を装った接触準備なし。


「ここも今日は動かない」


「はい」


「三人とも何も決めない日?」


「三人をまとめないでください」


「言うと思った」


 残る誤転生者たちにも大きな変化はない。


 接触保留を希望している人物は、その状態を維持。


 観察範囲について確認した人物にも新しい質問なし。


 記録削除を求めた人物について、削除済み情報の再利用なし。


 他の人物もそれぞれの日常を送っている。


 九人を一つの進行表へ並べる必要はない。


 全員がルークと会う方向へ進んでいるわけでもない。


 会わないことを選び続ける人物がいてもいい。


 まだ考えない人物がいてもいい。


 ルーク自身も、九人全員と会いたいという希望を持ってはいるが、それを九人の義務とはしていない。


 朝の確認を終えたところで、セレナが資料を抱えてやってきた。


「おはようございます」


「おはようございます」


「昨日の七件、分類してみました」


 机へ置かれた資料は、選択肢提示の量に関する現場意見だった。


 説明を多く受けたい人物。


 最低限だけ知りたい人物。


 選択肢が多すぎると疲れる人物。


 最初は少なく提示して、必要になったら増やしてほしい人物。


 同じ「本人に選んでもらう」という方針でも、実際の負担はかなり違う。


 ノルンとセレナは午前の一部を使い、それぞれの事例を読み直した。


「一律の選択肢数は無理そうですね」


 セレナが資料の端を揃えながら言う。


「はい」


「でも現場からすると、基準がないのも困るみたいです」


「そこは分かります」


「『本人に合わせてください』だけだと、結局どうすればいいのか分からないって」


「当然ですね」


 ノルンは一件の意見を読み返した。


 そこには、担当者自身の迷いが書かれている。


『選択を尊重しようとして可能な手段をすべて説明したところ、本人から「今そんなに決められない」と言われた。説明しないことも問題だと思い、どこまで提示すべきか迷う』


「本人に選ばせれば管理側が責任を負わなくていい、という形にはしたくありません」


「はい」


「一方で、管理側が勝手に絞りすぎるのも違います」


「じゃあ、最初に『どのくらい知りたいですか』って聞く?」


 セレナが言ってから、自分で少し顔をしかめた。


「それも選択肢ですよね」


「そうですね」


「何個説明されたいかまで本人に決めてもらうことになる」


「人によっては助けになりますが、全員に必須で尋ねると一つ質問が増えます」


「難しいなあ……」


 セレナが椅子の背へ少し身体を預けた。


 ノルンはすぐに答えを作らなかった。


 昨日読んだ第一接続者の記録が頭に残っている。


 管理側は、誤った相手へ返事をする危険を減らすため、呼称という識別補助を提案した。


 安全を高めるための仕組みだった。


 しかし、その仕組みを使うことで、対象側だけでなく第一接続者自身の行動まで変わる可能性があった。


 探せるようになれば、探したくなる。


 便利な仕組みは、利用者の行動も変える。


「セレナ」


「はい」


「選択肢を増やすことも、同じかもしれません」


「同じ?」


「選べる範囲を増やせば自由度は上がります。ただ、選択しなければならない範囲も増える可能性があります」


「ああ……」


「だから『選択肢を多くするほど本人尊重になる』とはしない方がよいと思います」


「じゃあ、必要な分だけ?」


「その『必要な分』を誰が決めるかという問題が残ります」


「また戻った」


「はい」


 二人とも少し黙る。


 近くでは別の担当者たちが通常業務を続けている。紙をめくる音がし、遠くの席では誰かが小声で確認を取り合っていた。


 答えがすぐ出ないこと自体は、問題ではない。


 ノルンは以前より、その状態へ長く留まれるようになっていた。


「暫定的には」


 セレナが口を開く。


「最初から全部出さない。でも、他にも方法があることは隠さない、とか?」


「方向としては良いと思います」


「『今決めなくていい』も?」


「必要な場面では」


「毎回言わない」


「はい」


「……規則作りなのに、『毎回やるな』ばっかり増えますね」


 ノルンは少し笑った。


「それも規則にしないでください」


「分かってます」


 二人は結論を急がず、今日は現場意見の分類だけを続けることにした。


 昼食後。


 ノルンは休憩に入り、スマートフォンを取り出した。


 美咲から一件。


『昨日さ、例の飾りと似たの別の店で見つけた(笑)』


 写真が添えられている。


 小さな飾り。


 以前二人で見たものとは形が少し違う。


 ノルンは画面を眺めた。


 すぐ返信する必要はない。


 でも、返信したい。


『前のものとは少し違いますね。こちらも可愛いと思います。今回は買いましたか?』


 送る。


 数分後。


『買ってない(笑)』


 ノルンは思わず画面を見つめた。


『またですか?』


 送ると、すぐ返ってくる。


『またです(笑) 見て満足した』


 昨日の自分と同じだ。


 ノルンは少し考え、


『昨日、私も甘いものを食べたいと思って店を見ましたが、見ただけで満足して買いませんでした。少し分かった気がします。』


 と送った。


 美咲からの返信は早かった。


『おお! ノルン進化してるじゃん(笑)』


「……」


 ノルンの眉がわずかに寄る。


「どうしたの?」


 向かい側から主様が気づいた。


「美咲に進化したと言われました」


「成長より強そう」


「そういう問題ではありません」


「嫌?」


 ノルンは画面を見直した。


 美咲の文面には笑いがついている。


 からかわれている。


 しかし、嫌ではない。


「嫌ではありません」


「僕の『成長したねえ』は?」


「嫌です」


「差別」


「関係性と文脈の差です」


「僕との関係性では駄目なの?」


「主様は何十回も繰り返すからです」


「美咲が何十回も言ったら?」


「その時考えます」


「ずるい」


 ノルンは美咲へ、


『進化かは分かりませんが、前よりは理解できます。』


 と返した。


『今度会ったら買わないもの巡りする?(笑)』


 ノルンは少し笑った。


 買わないもの巡り。


 何をするのか、具体的には分からない。


 店を見て、欲しいものを見つけて、買わずに帰るのだろうか。


 それを予定として成立させる必要もない。


『面白そうです。』


 それだけ返した。


 日時は決めない。


 美咲も決めてこなかった。


 休憩が終われば、スマートフォンをしまう。


 今日は最古層研究の時間を取れる。


 ノルンは午後の予定を確認した。


 緊急案件なし。


 通常業務にも余裕がある。


 昨日の続きへ進む。


「今日は何読むの?」


 主様が尋ねる。


「呼称設定を拒否した後の運用です」


「名前なしでどうしたか」


「はい。それと、第七外在個体という内部分類がいつ、なぜ必要になったのか」


「ついに七の理由分かる?」


「分かるとは限りません」


「七番目だからじゃない?」


「昨日も似た推測をしましたね」


「今日は当たるかも」


「当て物ではありません」


 ノルンは最古層資料への閲覧経路を開いた。


 検索期間は、呼称設定提案面談直後から。


 最初の数日は、大きな変化がない。


『呼称設定不使用』


『従来識別手順継続』


『識別不能時、応答保留』


『第一接続者、運用継続可能』


 次の日。


『外在反応一件』


『反応群C推定』


『確度不足』


『応答保留』


 さらに二日後。


『外在反応二件重複』


『反応群B・G候補』


『順序識別不能』


『第一接続者、両件応答せず』


 その後も似た記録が続く。


 呼称を使わないことで、すべてが解決したわけではない。


 第一接続者は実際に、返事を保留し続けている。


 中には、過去に意味のあるやり取りをした反応群から届いた可能性が高いものもある。


 それでも確定できなければ返さない。


「つらそう」


 主様が小さく言う。


「感情記録を探します」


 数日後の面談。


『管理者:呼称不使用後、応答保留が七件発生している』


『第一接続者:うん』


『管理者:判断変更を希望するか』


『第一接続者:しない』


『管理者:返答できなかったことへの負担は』


 沈黙。


『第一接続者:ある』


 ノルンは読む速度を落とした。


『管理者:呼称設定を再検討するか』


『第一接続者:今はしない』


『管理者:理由は』


『第一接続者:返せなかったから名前を付けるなら、返せないたびに名前が必要になる』


 続く。


『第一接続者:困った時に便利な方へ変えるのは、たぶん簡単だから』


『管理者:簡単であることを危険と考える?』


『第一接続者:簡単なのが危険なんじゃない』


『一回変えたあと、前のやり方へ戻す理由がなくなるのが怖い』


 ノルンはそこで手を止めた。


「戻す理由」


「便利になったら戻らない?」


「そういう懸念でしょう」


 第一接続者は、便利さそのものを悪いとは言っていない。


 しかし、一度便利な方法へ移行すると、不便な方法へ戻る理由が失われる。


 名前を使えば見分けられる。


 見分けられれば返せる。


 返せるなら、その方がよいと感じる。


 すると、呼称が相手へ与える影響がまだ分からなくても、「今さら戻す必要があるのか」と考えるようになるかもしれない。


『第一接続者:今のやり方で困ってることは覚えておく』


『管理者:呼称不使用による不利益を記録する、という意味か』


『第一接続者:うん』


『使わない方が正しかったことにしたくない』


 ノルンは瞬きをした。


 主様も黙る。


『第一接続者:返せなかったのは嫌だった』


『それは消さないで』


 その言葉が、静かに残る。


 名前を使わなかった判断を正解にするために、失ったものを小さく書かない。


 返せなかった。


 嫌だった。


 もしかすると相手は返事を待っていたかもしれない。


 それでも分からないから返さなかった。


 その負担を、判断の正当化のために消さない。


「……すごいですね」


 ノルンが小さく言う。


「第一接続者?」


「この記録の残し方です」


 自分が選んだ方を正しかったことにするため、反対側の利点を小さく見積もる。


 それは簡単に起こり得る。


 制度も同じだ。


 一度採用した仕組みを正しいと示すために、以前の方法が抱えていた問題だけを強調する。


 逆に、昔の制度を批判するため、当時の担当者が守ろうとしていたものを消してしまう。


 今読んでいる最古層記録には、その危険を避けようとした痕跡がある。


 ノルンは先へ進んだ。


 呼称設定は再提案されていない。


 管理側は別の方法を試し始める。


『外在反応群の内部識別強化』


『接続者への識別記号非共有』


『観測者側で反応履歴を個別管理』


 ここで、管理番号の前段階が出てくる。


 当初はアルファベットに相当する記号。


 反応群A。


 反応群B。


 反応群C。


 そして、以前見つけた反応群G。


「Gまである」


「はい」


「七番目?」


「まだ決めません」


「Aから数えたら七」


「文字順がそのまま発見順とは限りません」


「厳しい」


 ノルンは分類規則を探す。


 すぐには見つからない。


 代わりに、運用記録が出る。


『内部識別記号は接続者へ非共有』


『接続者が自発反応を受けた場合、従来通り本人判断で応答可否を決定』


『事後、管理側で反応群照合』


『管理記号を用いた呼びかけは禁止』


 最後の一文が重要だった。


「管理側でも呼ばない?」


「少なくとも、呼びかけには使わないようです」


「じゃあGって呼んでない?」


「記録を整理するための記号です」


「相手には聞こえない」


「その運用を意図しています」


 さらに明確な記述。


『内部識別は、外在個体へ識別情報を付与する行為ではなく、管理側記録の参照先を分離するためのものとする』


『記号を個体名・呼称・本人識別と解釈しない』


『接続者へ共有しない』


『外在個体へ送信しない』


『反応誘導へ使用しない』


 ノルンはその部分を繰り返し読んだ。


「……ここですね」


「何が?」


「後の『第七外在個体』に繋がる考え方です」


 相手に名前を付けるためではない。


 管理側が、記録同士を混ぜないため。


 誰かへ呼びかけるための言葉ではなく、書類の参照先を分けるための符号。


 名前を付けないことを維持するために、管理側内部では逆に識別子が必要になった。


「名前を付けないために番号を付けた?」


「かなり近いですが、まだこの時点では文字記号です」


「でも番号になる」


「後に」


 ノルンは先を探す。


 数か月分の記録。


 反応群の数は一定ではない。


 一度しか観測されないもの。


 複数回観測されるもの。


 似た反応があり、統合候補になるもの。


 逆に、一つとして扱っていた反応群が二つへ分割されるもの。


 ここで重要な事実が見つかった。


『反応群D、過去記録再照合によりD1・D2へ分割』


『反応群E、反応構造同一性高く、Cへ統合』


 主様が「あ」と声を上げる。


「順番変わる」


「はい」


「じゃあGが七番目とは限らない?」


「少なくとも、単純な発見順をそのまま示しているとは言えなくなりました」


「七番目説、弱くなった」


「最初から確定していません」


「ちょっと残念」


「なぜですか」


「簡単だったから」


「簡単な答えを求めないでください」


 分類は固定ではなかった。


 観測情報が増えるたびに統合・分割される。


 内部記号は、個人の本質を表すものではない。


 管理上の仮箱に近い。


 その後、制度改訂が入る。


『反応群記号方式、統合・分割時の履歴追跡困難』


『過去資料参照時に同一記号の意味が時期により変化する問題あり』


『恒久参照番号導入を検討』


 ノルンの姿勢が少し前へ出た。


「番号です」


「来た」


 主様まで身を乗り出す。


 導入案。


『個体性を保証しない恒久参照番号』


『番号は発見順・重要度・応答回数・危険度・接続者との関係性を示さない』


「……書いてあります」


「何が?」


「番号の意味です」


 ノルンは読み上げる。


「『発見順・重要度・応答回数・危険度・接続者との関係性を示さない』」


 主様が黙った。


「じゃあ七番目じゃない」


「少なくとも制度上、第七という番号を『七番目に見つかった』と解釈してはいけません」


「じゃあ何で七?」


「続きを読みます」


 番号付与方法。


『既存記録移行時、過去反応群分類の安定度および資料束単位を基準に参照番号を割り当てる』


『番号自体へ意味を持たせないため、接続者・外在個体の関係順、発見時系列、反応強度順での採番を避ける』


「わざと順番にしなかった?」


「はい」


「なんで?」


「番号へ物語的な意味を持たせないためでしょう」


 記録にも理由がある。


『第一、第二等の番号が発見順位または関係順位として後世に解釈される危険あり』


『可能な限り、番号は参照機能のみを持つものとする』


 しかし、それでも「第七」と読めば七番目に感じる。


 後世の資料整理で、そう解釈された可能性もある。


 さらに移行表を開く。


 反応群Aから複数の参照番号へ分割。


 Bは別番号。


 Cには統合前Eの一部が含まれる。


 G。


 後世の整理注記。


『主として恒久参照番号七へ移行。ただし初期G記録の一部は番号三・十一へ再分類』


 ノルンの手が止まった。


「……第七外在個体は、反応群G全部ではありません」


「混ざってた?」


「はい。初期にGとしてまとめられていた反応の一部が、後の再評価では別の参照番号へ移されています」


「じゃあ昨日までのGの記録も?」


「どの記録が後の七に相当するか、一件ずつ確認が必要です」


 これは大きい。


 これまで後世注記で「後の第七外在個体相当」とされた資料があった。


 しかし、初期の反応群G全体を第七外在個体とみなすことはできない。


 分類精度が上がる前には、複数の反応が一つの群へ入っていた可能性がある。


 逆に、一つの反応が別群へ誤分類されていた可能性もある。


「じゃあ『いる?』も?」


 主様が言う。


 ノルンはすぐ記録へ戻った。


「確認が必要です」


 存在確認相当の反応。


 第一接続者が「ここにいる」と返した記録。


 以前は第七外在個体との関連候補として読んでいた。


 しかし、初期分類の不確かさがある。


「今ここで、七だったと扱うのは危険です」


「でも後の資料では?」


「後世の整理資料が、どの原記録を七へ紐づけたか確認します」


 検索する。


 存在確認応答の原記録。


 後世参照番号との照合。


 すぐに一件見つかる。


『原記録:反応群G推定』


『後世再照合:恒久参照番号七、確度中』


 ノルンは息を吐く。


「候補ではあります」


「確定じゃない?」


「確度中です」


「じゃあ第七かもしれない」


「はい。ただし、確定ではありません」


 別の「ここにいる」応答。


『原記録:反応群GまたはB』


『後世再照合:番号七候補、番号四候補。確定不能』


 さらに、反復を避けて応答しなかった存在確認相当反応。


『原記録:反応群G推定』


『後世再照合:番号七、確度低』


「……思った以上に曖昧です」


「前はもっと繋がって見えたよね」


「後世の要約だけを見ると」


 これも、制度が物語化される過程に関係しているかもしれない。


 後から整理された資料では、


 第一接続者。


 第七外在個体。


 十三年の待機。


 再接続。


 存在確認。


 呼称拒否。


 それらが一つの連続した話として並んでいる。


 しかし原記録では、複数の反応群が重なり、分類は何度も変わり、どの声が誰だったか分からない部分が多い。


 物語として読むほど綺麗ではない。


 だからこそ、後世の整理がどこまで簡略化したのかを調べる必要がある。


 ノルンは研究メモへ追加する。


『恒久参照番号は、発見順・重要度・危険度・応答回数・接続者との関係順位を示さない。』


『番号へ関係的意味を持たせないため、意図的に発見時系列等による採番を避けた記録あり。』


『「第七外在個体」を単純に「七番目に発見された個体」と解釈しない。』


『初期反応群Gは後の恒久参照番号七と完全一致しない。G記録の一部は番号三・十一等へ再分類。』


『第一接続者との存在確認相当応答の一部は後世に番号七候補とされるが、確度中~低。全件同一個体由来とは確認できない。』


 主様が腕を組んだ。


「じゃあ、第七外在個体って名前じゃないどころか、本人そのものとも限らない?」


「重要な点です」


「どういうこと?」


「制度上の説明では、恒久参照番号は『個体性を保証しない』と明記されています」


「個体なのに?」


「後世の呼び方が『第七外在個体』になっていますが、元の番号は観測記録の参照先です。現在私たちが考える一人の人格と一対一対応する保証はありません」


「じゃあ七の中に二人いるかもしれない?」


「可能性としてはあります。逆に、一人の反応が複数番号へ分かれている可能性もあります」


「ややこしい」


「はい」


「ルークと七が同じか調べるの、もっと難しくなった」


「元々、同じと判断する根拠はありません」


「でも似てるところある」


「あります」


「名前のこととか」


「はい」


「『セレナ?』とか、壊れた音とか」


「それもあります」


「でも?」


「似ていることと、同一人物であることは別です」


 何度も確認してきた言葉。


 しかし今日、その重要性がさらに増した。


 第七外在個体という呼び方そのものが、後世の整理で個体らしく見える形へ変わっている。


 元は、相手を呼ぶための名前ではない。


 本人を定義するための番号ですらない。


 記録を混ぜないための参照先。


 しかも、その参照先と実際の人格が一対一かどうかも保証しない。


 ここへ現在のルークを当てはめれば、古い分類の曖昧さを無視してしまう。


「次があります」


 ノルンは、番号制度導入時の第一接続者への説明記録を見つけた。


「第一接続者にも説明した?」


「はい。ただし番号自体は共有しない方針のはずです」


 記録を開く。


『管理者:内部記録方式を変更する』


『第一接続者:私が何かする?』


『管理者:不要』


『第一接続者:名前?』


『管理者:違う。管理側内部の記録参照方式のみ変更する』


『第一接続者:向こうには?』


『管理者:何も送らない』


『第一接続者:私にも番号は言わない?』


『管理者:原則共有しない』


『第一接続者:じゃあいい』


 短い。


 しかし、その後に第一接続者から一つ質問がある。


『第一接続者:番号を付けたら、管理側はその番号で向こうを探す?』


 管理者。


『記録照合には使用する。呼びかけ・反応誘導には使用しない』


『第一接続者:見つけるためじゃなくて、見つかったあと間違えないため?』


『管理者:その理解でよい』


 ノルンの目が止まる。


 昨日の呼称設定と、ここで明確に違う。


 呼称は、接続者が相手を見分けるために使う。


 番号は、管理側がすでに観測された記録を混ぜないために使う。


 こちらから相手を見つける鍵にはしない。


『第一接続者:それなら、番号があっても向こうは知らない?』


『管理者:知らない』


『第一接続者:私も知らない』


『管理者:必要がない限り共有しない』


『第一接続者:分かった』


 さらに。


『第一接続者:名前じゃないんだね』


『管理者:名前として扱わない』


『第一接続者:向こうが自分で何か言ったら?』


 ノルンの呼吸がわずかに止まる。


 管理者。


『自己識別情報と判断できる反応が確認された場合、別途扱う』


『第一接続者:番号をそのまま名前にしない?』


『管理者:しない』


『第一接続者:分かった』


 ノルンはしばらく画面を見つめた。


「ここです」


「自分で名前言ったら?」


「管理番号とは別に扱うとしています」


「本当の名前?」


「そこまでは書かれていません。『自己識別情報と判断できる反応』です」


「じゃあ、向こうが自分で『私は何々』って言えたら?」


「それに近いものを想定している可能性はあります」


「見つかった?」


「まだ分かりません」


 これは未回収の大きな問題へ繋がる。


 外在側からの真正な自己名。


 現在のルークが「ルーク」と呼ばれたいと自分で言っていること。


 過去の名前。


 旧制度で失われた呼称。


 それらはまだ一つにしてはいけない。


 しかし、旧制度側にも「管理番号」と「本人が自分で示す識別情報」を分けようとする考えがあった。


 後世で第七外在個体という言葉だけを読むと、この区別が見えにくい。


「その後、自己識別情報が出たか調べる?」


 主様が尋ねる。


 ノルンは時間を見る。


 研究枠は残り二十六分。


 検索すれば、何か出るかもしれない。


 だが「自己識別情報」という語は広い。


 大量の資料が出る可能性もある。


 そして今日はすでに、


 呼称拒否後の応答保留。


 内部識別記号。


 恒久参照番号。


 第七という番号の意味。


 初期Gとの不一致。


 第一接続者への番号制度説明。


 かなりの情報を得た。


「今日はここまでにします」


「二十六分」


「はい」


「昨日三十分」


「何ですか」


「余らせる時間が減った」


「そこを記録しないでください」


「研究枠を使い切らない連続日数」


「主様」


「はい」


「本当に記録しますよ」


「何を?」


「主様が私の行動を連続日数にしようとした回数です」


「やめます」


「よろしい」


 ノルンは新しい資料を開かず、今日の整理へ移った。


 次回候補だけ残す。


『恒久参照番号導入後、「自己識別情報」と判断された外在反応の有無を確認。』


『番号七に関連する原記録を再照合し、後世の「第七外在個体」像がどの時点で一個体として固定的に語られ始めたか確認。』


『後世制度資料における第一接続者/第七外在個体の物語化・簡略化過程を追跡。』


 ここで止める。


 閲覧経路を閉じた。


 研究を終えて通常業務へ戻ると、ミレイア側から新しい報告が一件届いていた。


 ノルンは少し姿勢を正した。


 午前中には接続について話していなかった。


 昨日は「こんにちはだけなら」と条件を一つ明確にした。


 今日はどうしたのか。


 記録を開く。


 午後。


 ミレイアは母親と庭で過ごした後、自室へ戻っていた。


 机の上には読みかけの本と刺繍道具がある。


 エリスはいつもの位置にいる。


 ミレイアはしばらく本を読んでいたが、一章を読み終えたところでしおりを挟んだ。


『エリスさん』


『はい』


『昨日のこと、話していい?』


『もちろんです』


 エリスは接続の話だと決めつけずに待つ。


『こんにちはだけならって言ったこと』


『はい』


『今日も、そこは同じです』


 ノルンは静かに読む。


『分かりました』


『でも……』


 ミレイアは本の表紙へ指を置いたまま、少し視線を下げた。


『昨日より、ちょっとだけ……』


 言葉が止まる。


 エリスは待つ。


『聞いてみたい、かもしれない』


 ノルンの指が止まった。


 これまで、


 聞ける気がする。


 聞いてもいいかもしれない。


 もし聞くなら「こんにちは」だけがいい。


 そこまでだった。


 今日は初めて、


『聞いてみたい、かもしれない』


 と、自分から言った。


 ただし、まだ「聞きたい」と確定してはいない。


『「聞けそう」ではなく、「聞いてみたい」に少し近づいた、という意味でしょうか』


 エリスの確認に、ミレイアはしばらく考えた。


『……うん』


『今、接続を希望しますか』


 ミレイアの肩が少し動く。


『今?』


『今でなくても構いません。確認のために聞きました』


『……今は、しない』


『分かりました』


 ミレイアは小さく息を吐く。


『聞いてみたいって思ったら、すぐ聞かなきゃ駄目?』


『いいえ』


『明日やっぱり嫌になっても?』


『構いません』


『じゃあ……今日は、聞いてみたいかもしれない、だけでいい』


『分かりました』


 エリスはそこで次の日程を尋ねない。


 時間帯も聞かない。


 接続時間も決めない。


 ルークへ共有するかだけ、必要な範囲で確認した。


『今の気持ちを、ルークへ伝えたいですか』


 ミレイアはすぐに首を横へ振った。


『まだ』


『分かりました』


『決めたらでいい』


『はい』


『……決める前に、伝えたくなるかもしれないけど』


『その時は、その時に確認します』


『うん』


 ミレイアは少し安心したように息を吐いた。


 ただし、記録は「安心した」とは書いていない。


 肩の力がわずかに抜けた。


 呼吸が深くなった。


 表情が少し緩んだ。


 観察できた事実だけが残されている。


『怖さ、聞く?』


 今度はミレイアから尋ねた。


『今、数字にしたいですか』


『……してもいい』


『では、もう一度「こんにちは」を聞く場面を想像した時の怖さは、今どのくらいですか』


 ミレイアは目を閉じた。


 前回。


 同じ声。


 短い接続。


 名前は呼ばれない。


 謝罪もない。


 質問もない。


 返事をしなくてもいい。


 ただ、「こんにちは」。


 しばらくして目を開く。


『三』


 以前は四だった。


 ただし、単純な改善値として扱わない。


 今日の条件。


 今日の気分。


 今日の想像。


 その中で三。


『記録していい?』


『はい』


『ルークには?』


『まだ言わないで』


『分かりました』


 そして、ミレイアは少し迷ってから付け加えた。


『あと』


『はい』


『もし、聞くって決めても』


『はい』


『その時、ルークに「ミレイアが聞きたがってる」って言わないでほしい』


 エリスは言葉を選ぶ。


『どのように伝えてほしいですか』


『……分かんない』


『今決めなくても構いません』


『うん』


『接続を決めた時に、ルークへ何をどこまで伝えるかも、その時に一緒に確認できます』


『それがいい』


『分かりました』


 ミレイアはそこで会話を終えた。


 その後は本を開き直している。


 ノルンは記録を最後まで読み、静かに閉じた。


「……一個進んだ?」


 主様が慎重に尋ねた。


 今度はノルンもすぐ否定しなかった。


「ミレイア自身の言葉は変わりました」


「聞ける、から?」


「『聞いてみたいかもしれない』へ」


「でもまだ接続しない」


「はい」


「ルークにも言わない」


「はい」


「怖さ三」


「今日、同じ条件を想像した時は三です」


「前より下がった」


「数字だけを直線的な進行として扱いません」


「分かってる」


 主様は少し笑った。


「でも、ミレイアが自分から『怖さ聞く?』って言ったのは?」


 ノルンは少し考えた。


「数字を管理側に測らされるだけではなく、自分で使う道具として扱い始めている可能性はあります」


「それは言っていい?」


「可能性としてなら。ただし、本人がそう説明したわけではありません」


「慎重」


「必要です」


 ノルンはミレイアの現在状態を更新する。


『「もう一度こんにちは」のみを前回同程度の短い接続で聞く想像について、本日「聞いてみたいかもしれない」と本人より自発発言あり。』


『本人確認では、「聞けそう」より「聞いてみたい」へ少し近いとの認識。』


『ただし、現時点で接続希望なし。日時・時間・返答・謝罪・質問・名称使用等は未決定。』


『想像時恐怖三。今日の条件下の値として記録し、経時的改善値として固定解釈しない。』


『ルークへの共有希望なし。』


『将来接続を決めた場合も、ルークへの伝達内容はその時点で本人と再確認する。』


 そこまで書いて、ノルンは保存する。


 ルークへは何も送らない。


 現在のルークの記録を確認すると、夕方前に外を歩いている。


 前にも同じような時間があった。


 理由は記録されていない。


 ミレイアの返事を待っているからだと推測しない。


 ノルンから「生活してください」と言われたから歩いているとも決めない。


 ただ、歩いている。


 それだけだ。


 終業まであと少し。


 フローラ側では、慈善行事について新しい決定はなかった。


 昨日選んだ衣装の寸法調整が進んでいる。


 本人は参加表明していない。


 母親も急かしていない。


 アーノルド側にも変化なし。


 九人の他の人物にも接触希望の変化なし。


 世界も安定している。


 今日はそれで終わるはずだった。


 ところが、終業直前。


 最古層資料の自動関連候補に、一件だけ見慣れない表題が表示された。


 ノルンは手を止める。


『恒久参照番号運用開始後 自己識別相当反応 初回検討』


 主様も気づいた。


「それ、さっき言ってたやつ?」


「可能性があります」


「自己識別情報」


「はい」


「読む?」


 終業まで九分。


 開けば途中になる可能性が高い。


 ノルンは表題だけを見る。


 閲覧しない。


「明日?」


「明日読むとは決めません」


「でも気になる?」


 ノルンは一度だけ目を細めた。


「かなり」


「数字は?」


「測りません」


「十?」


「主様」


「はい」


「帰りますよ」


「はい」


 候補だけ保存する。


 開かない。


 その時、スマートフォンが小さく震えた。


 美咲からだった。


『買わないもの巡り、字面だけだと意味不明すぎて笑う』


 続けて、


『普通にまた遊ぼ(笑)』


 ノルンは画面を見る。


 前なら、「いつですか」と返したかもしれない。


 日程。


 場所。


 時間。


 何をするか。


 決まっていなければ予定ではないと思った。


 今は。


『はい。また遊びたいです。』


 それだけ送った。


 美咲からすぐ、


『おっけー!』


 と返る。


 それで会話は終わった。


 ノルンはスマートフォンをしまい、自分用のメモ帳を開く。


 昨日は、


『今日は帰ったら、何か甘いものを食べたい。』


 と書いた。


 食べなかった。


 その下へ今日の一行を書く。


『昨日は甘いものを買わなかった。見ただけで満足した。』


 少し考える。


 もう一行。


『今日は、美咲とまた遊びたいと言った。まだ予定はない。』


 そこでペンを置いた。


「甘いもの今日こそ買う?」


 主様が聞く。


「分かりません」


「店、開いてるよ」


「開いているでしょうね」


「見に行く?」


「通り道なので見ます」


「買う?」


「見てから決めます」


「買わないもの巡り?」


「一人で巡りません」


「じゃあ僕も――」


「主様は仕事を終えてください」


「終わってる」


「ではご自分で甘いものを買ってください」


「ノルンの見届け役」


「必要ありません」


 ノルンは鞄を持つ。


 今日の研究で分かったことは多かった。


 名前を付けなかった後も、声は届き続けた。


 第一接続者は何度も返事を保留した。


 それを嫌だと感じた。


 それでも、自分の選択を正しかったことにするために「返せなくても平気だった」とは記録させなかった。


 そして管理側は、名前を使わずに記録を分ける方法を作った。


 相手へ届けない。


 第一接続者にも原則知らせない。


 呼びかけに使わない。


 探すために使わない。


 見つかった後、記録を混ぜないためだけの番号。


 その番号の一つが、後に「第七外在個体」と呼ばれるものへ繋がった。


 けれど、第七は七番目に見つかった者という意味ではなかった。


 重要度でもない。


 危険度でもない。


 第一接続者との関係順位でもない。


 しかも、初期の反応群Gと完全に同じものですらない。


 後から一人の人物のように見える形へ整理された「第七外在個体」という言葉の奥には、もっと曖昧な観測記録がある。


 そして、その制度を説明された第一接続者は尋ねていた。


『向こうが自分で何か言ったら?』


 管理番号ではなく。


 管理側が付けた名前でもなく。


 向こう自身が、自分を示す何かを送ってきたら。


 その問いの先に何があったのか。


 終業直前に見つけた資料の表題が、頭の片隅へ残っている。


『自己識別相当反応 初回検討』


 誰の反応なのかは、まだ分からない。


 第七と関係するかも分からない。


 壊れた「――レ/――ラ/――ナ」という音と関係するかも分からない。


 現在のセレナと関係する証拠など、もちろんない。


 ルークの過去の名前とも結びつかない。


 だから、今夜は答えを作らない。


 ノルンは管理区域の扉を開けた。


 夕方の空には薄い雲が残り、その隙間から橙色の光が街路へ落ちていた。昼間より少し冷えた風が頬へ触れ、仕事中には意識していなかった外の匂いが戻ってくる。


「ノルン」


 後ろから主様が呼ぶ。


「何ですか?」


「今日、研究の続き家で考えない?」


 ノルンは少し考えた。


「考えるかもしれません」


「やっぱり」


「ですが、考えたからといって資料は読めません」


「そりゃそうだ」


「それに」


「うん?」


 ノルンは通りの先を見る。


 昨日眺めた菓子店は、まだ営業している時間だ。


「今日は、甘いものを見てから帰ります」


「買う?」


「それは、見てから決めます」


「昨日と同じになりそう」


「同じでも構いません」


 昨日欲しかったから、今日も欲しがらなければならないわけではない。


 昨日買わなかったから、今日も買わないと一貫しないわけでもない。


 昨日の自分が、今日の自分へ命令を残す必要はない。


 それは、今日ミレイアが「聞いてみたいかもしれない」と言ったことにも似ているような気がした。


 けれどノルンは、その考えを途中で止めた。


 何でも一つの教訓へまとめなくていい。


 ミレイアはミレイア。


 第一接続者は第一接続者。


 美咲は美咲。


 そして自分は、自分だ。


 それぞれが今日選んだことを、明日の義務にしない。


 そのくらいで十分だった。


 ノルンは主様と別れ、菓子店のある通りへ向かって歩き始める。


 明日、あの資料を読むかどうかは、まだ決めていない。


 けれどもし読むなら。


 今度は、管理側が付けなかった名前ではなく。


 向こう側から届いたかもしれない、「自分を示す何か」を読むことになる。

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