第八十六話 向こうから届いた音を『名前』だと決めなかったから、壊れた一音は長いあいだ名前になりませんでした
翌朝、ノルンは昨日と同じ菓子店の前で少しだけ足を緩めた。
開店準備をしている店員が、内側から硝子を拭いている。棚にはまだ半分ほどしか菓子が並んでおらず、扉の札も閉店を示したままだった。昨日の夕方、ノルンは結局、小さな焼き菓子を二つ買って帰った。一つは昨夜食べ、もう一つは今朝まで残してある。
見て満足する日もあれば、見たあとで買う日もある。
昨日買わなかったから今日は買う、という帳尻合わせでもない。食べたいと思った時に店へ入り、並んでいるものを見たら一つ欲しくなった。それだけのことだった。
ノルンは店員と硝子越しに目が合う前に歩調を戻した。
管理区域へ着くと、朝の光が大きな窓から斜めに差し込んでいた。夜勤担当者の申し送りはすでに半分ほど終わっており、机の間では書類や端末が静かに引き継がれている。昨夜から大きな異常はなかったらしく、緊急対応用の席にも慌ただしさはない。
「おはよう、ノルン」
「おはようございます」
主様は今日も先に来ていた。
ノルンが鞄を置くと、主様は昨日とほとんど同じ顔でこちらを見る。
「甘いもの」
「買いました」
「えっ」
「昨日は食べたいと思ったので」
「見て満足しなかった?」
「昨日はしませんでした」
「二日で違う」
「そうですね」
「どっちが本当のノルン?」
椅子を引きかけていたノルンの手が止まった。
主様の口元が、すでに少し笑っている。
「朝からミレイアの話を雑に私へ当てはめないでください」
「ばれた」
「分かりやすすぎます」
「でも両方本当?」
「菓子を買ったことと買わなかったことについて、真の私を決める必要がありますか?」
「ないね」
「では通常確認を始めます」
「今日も強い」
「主様が朝から余計なことを言うからです」
ノルンは端末を開いた。
世界規模の異常なし。
緊急介入案件なし。
九人の誤転生者にも重大な状態変化はない。
ルーク側、自動接続なし。名称反応なし。位置相当感覚なし。身体状態安定。
昨夜から今朝にかけて、ミレイアについての問い合わせもない。
過去の名前についても新しい質問なし。
朝食後は担当者と少し話し、その後、自分の作業へ移っている。
昨日の夕方には外を歩いていたが、その理由は本人から説明されていない。今日の記録にも、昨日の散歩へ意味を付ける材料はなかった。
「恐怖は?」
「今日は測定していません」
「昨日一だったよね」
「昨日は、会話時に本人が回答した値です」
「今日も一かもしれない」
「そうかもしれません」
「二かもしれない」
「そうかもしれません」
「ゼロかも」
「そうかもしれません」
「聞かない?」
「聞く理由がありません」
主様は「なるほど」と頷きながら、自分の席へ戻った。
ルークの恐怖値は、接続や名称反応、安全確認の必要がある時には有用な情報だ。しかし、毎朝同じ質問をして連続グラフを作ることが目的ではない。
ミレイア側の記録へ移る。
昨日、本人は自分から、
『聞いてみたい、かもしれない』
と話した。
それは「聞けそう」よりも「聞いてみたい」へ少し近いと本人自身が確認している。
同時に、
『今は、しない』
とも明言した。
想像時の恐怖は三。
ルークへは伝えない。
将来接続を決めた場合も、その時に何をどこまでルークへ伝えるかを改めて決める。
今朝。
ミレイアは母親と朝食を取り、その後は自室で読書をしている。
接続についての発言なし。
ルークについての質問なし。
エリスからの確認なし。
昨日「聞いてみたいかもしれない」と言ったからといって、今日は「では、いつにしますか」と尋ねない。
昨日の恐怖が三だったからといって、今日は二になったかを測らない。
昨日より強く聞きたくなったか、弱くなったかも確認しない。
ノルンは記録を閉じた。
「今日は何も聞かないんだね」
主様が言う。
「はい」
「昨日はかなり大きかったと思うけど」
「ミレイアにとっては大きかった可能性があります」
「管理側にとっては?」
「接続実施に必要な同意はまだありません」
「そこは変わらない」
「はい」
「でも、昨日の言葉は残す」
「本人の許可範囲で記録されています」
「じゃあ消えない」
「昨日そう感じたという事実は、今日別の気持ちになっても消えません」
主様は少しだけ考えるように目を細めた。
「昨日のミレイアが、今日のミレイアに怒らないといいね」
ノルンの視線が上がった。
主様が首を傾げる。
「何?」
「……その表現は、こちらから使わないでください」
「なんで?」
「本人が以前、似た言葉を記録しないでほしいと希望しています」
ノルンはそれ以上説明しなかった。
あの言葉自体は制度記録へ残していない。管理側が便利な表現として再利用することも避けるべきだった。
「分かった」
主様も追及しなかった。
フローラ側。
慈善行事へ参加する場合の衣装は寸法調整中。
第二王女の出席は正式確定済み。
フローラ本人はまだ参加表明していない。
アーノルド側に新しい接触行動なし。
王家側にも参加者変更の動きなし。
今朝、フローラは母親へ慈善行事の開催時間だけを尋ねた。
『午後からだったわよね?』
『ええ。正式な開始は二時よ』
『終わるのは?』
『式次第通りなら夕方前。ただ、最後までいる必要はないそうよ』
『そう』
それだけだった。
母親は「行くの?」と聞かなかった。
フローラも参加については話さなかった。
時間を知った。
衣装を選んだ。
出席者も知っている。
それでも、まだ行くとは決めていない。
ノルンはそれをそのまま確認し、次へ進んだ。
残る八人にも重大な変化はない。
接触保留を選んだ人物へ再確認なし。
観察範囲を尋ねた人物から新しい質問なし。
記録削除を希望した人物の削除済み内容は、今日も制度検討資料へ転用されていない。
朝の通常確認が終わる。
午前中はセレナとの制度整理が予定されていた。
昨日扱ったのは、本人へ提示する選択肢の量だった。
今日はその続きを無理に結論へ持っていかず、現場から届いた別の事例を読む。
「これ、ちょっと気になったんです」
セレナが一枚の資料をノルンへ渡した。
内容は、接触そのものではない。
本人が一度「この説明はいらない」と言った後、数日してから同じ説明を自分から求めた事例だった。
担当者は、以前拒否された説明をもう一度行ってよいのか迷ったという。
「本人から聞いているなら、説明してよいのでは?」
ノルンが資料を読みながら言うと、セレナは頷いた。
「私もそう思ったんですけど、担当者が気にしたのはこっちです」
指先が欄外の一文を示す。
『以前の拒否を尊重するなら、再提示すべきではないのではないかと迷った』
ノルンは少し黙った。
「拒否を保存しすぎたんですね」
「たぶん」
「拒否は、未来の本人へ永久に禁止をかけるものではありません」
「でも、管理側が勝手に『もう気が変わっただろう』って再提示するのも違う」
「はい」
「今回は本人から聞いた」
「なら、その時点の本人の希望を確認して説明できます」
「じゃあ簡単?」
「この事例だけなら比較的」
ノルンは資料を机へ置いた。
「ただし、『前に拒否したのに今は欲しいと言うのは矛盾している』と扱わないことも必要ですね」
「記録上?」
「記録上も、担当者の受け止め方としても」
「前の拒否が間違いだったわけじゃない」
「はい。その時はいらなかった。今は知りたい。それだけかもしれません」
セレナが何かを書き留めかけて、途中で止まった。
「これ、基本規則にします?」
「まだしません」
「ですよね」
「なぜ先に聞いたのですか」
「ノルンならそう言うかなって」
「予測しないでください」
「当たった」
「当て物ではありません」
昨日の主様と同じ言い方になった。
セレナが少し笑う。
ノルンも自分で気づいたが、訂正はしなかった。
制度整理は午前の予定時間で終える。
昼食。
休憩。
スマートフォンに美咲からの新しい連絡はない。
ノルンも送る内容を思いつかなかったので、そのまましまった。
午後の通常業務を終えた時点で、予定表には研究枠が確保できていた。
昨日、終業九分前に見つけた資料。
『恒久参照番号運用開始後 自己識別相当反応 初回検討』
ノルンは昨日、それを開かなかった。
今日は十分な時間がある。
「読む?」
主様が近づいてくる。
「はい」
「昨日から気になってた?」
「気にはなっていました」
「家でも?」
「少し考えました」
「何だと思う?」
「分かりません」
「名前かな」
「表題だけで決めません」
「でも『自己識別』だよ?」
「自己識別情報は名前だけとは限りません」
「例えば?」
「所属、立場、自分を指す記号、固有の反応、あるいは管理側が自己を示していると解釈した何かかもしれません」
「壊れた音?」
「まだ結びつけません」
「――レとか、――ラとか」
「主様」
「はい」
「先に読ませてください」
ノルンは閲覧経路を開いた。
資料の日付は、恒久参照番号の運用開始からしばらく後。
第一接続者との呼称設定面談より後。
内部参照番号が本人や外在側へ共有されない方針が定着した時期と重なる。
資料冒頭には、短い注意書きがあった。
『本記録における「自己識別相当」は暫定分類であり、個体名・固有名・本人による名称提示を意味しない。』
主様が小さく息を吐いた。
「最初から釘刺された」
「重要です」
ノルンは続ける。
『外在反応の一部に、通常の応答内容と異なる反復音列を確認。』
『同音列は特定の問いかけ直後に出現する傾向を示すが、発音欠損・重複・受信断絶が多く、意味確定不能。』
『第一接続者より、当該音列が「向こうが自分のことを言っているように聞こえる」と申告あり。』
ノルンの指が止まった。
「第一接続者が言った」
「はい」
「管理側じゃない」
「少なくとも、最初の気づきは第一接続者の申告です」
原会話記録が添付されている。
『第一接続者:今の、もう一回見られる?』
『管理者:再生する』
受信記録。
欠損率が高い。
音声そのものは現行形式では再生できず、古い転記だけが残っている。
『―― ――ア ――』
それだけ。
ノルンは眉を寄せた。
「短い」
「壊れすぎてる」
主様の声も小さい。
続く。
『第一接続者:前もこれに似たのあった?』
『管理者:照合する』
過去記録三件。
一件目。
『――ア』
二件目。
『―― ラ――』
三件目。
『――レ ――』
ノルンの視線が三件目で止まった。
見覚えのある断片。
しかし、以前見つけた損傷音列と完全には一致しない。
順番も違う。
欠損箇所も違う。
何より、この時点ではどの恒久参照番号に紐づくのかが記されていない。
「出た」
主様が囁く。
「似た音は出ました」
「セレナ?」
「違います」
「早い」
「ここでそう読む理由がありません」
「でも『レ』『ラ』」
「日本語の文字へ転写された現在資料上の表示です。元の音価が同じだった保証もありません」
「そっか」
「さらに、これが一つの語である保証もありません」
ノルンは先へ進む。
『第一接続者:これ、同じ?』
『管理者:同一音列とは確定できない』
『第一接続者:でも、私が「誰?」って聞いた後に多い』
ノルンの目が止まった。
「誰って聞いてたんだ」
「はい」
ただし、その「誰?」が名前を求める質問だったとは限らない。
どの反応群なのか。
今応答したのは誰なのか。
複数の外在反応が重なる中で、第一接続者が相手を区別しようとして尋ねた可能性がある。
前後の記録を読む。
この時期、第一接続者は呼称を使用していない。
管理番号も知らない。
反応が明確な時には返事をするが、識別できない場合は保留する。
その中で、ごく稀に自発的に、
『誰?』
と尋ねることがあった。
管理側は禁止していない。
ただし、質問自体が外在側へ自己識別を要求する可能性があるため、頻度を上げないよう記録されている。
『管理者:あなたは当該音列を、問い「誰?」への回答と感じている?』
『第一接続者:分からない』
即答ではなかった。
『第一接続者:そうだったらいいなとは思う』
ノルンはそこで読む手を少し緩めた。
第一接続者は、「名前だ」と言っていない。
そうだったらいいと思う。
相手が自分を示してくれたなら、見分けられるかもしれない。
返事を間違えずに済むかもしれない。
呼称をこちらから付けなくても、向こう自身が何かを示しているなら、それを使えるかもしれない。
期待がある。
だからこそ、管理者が次を尋ねている。
『管理者:名前として扱いたい?』
長い沈黙。
『第一接続者:……今は、やめる』
主様が瞬きをした。
「使わないんだ」
「はい」
『管理者:理由を聞く』
『第一接続者:私が名前だと思いたいから、名前に聞こえてるかもしれない』
ノルンは画面を見つめた。
第一接続者は、自分の期待を疑っている。
呼称を管理側から付けることを拒否した。
その後、向こうから届いたかもしれない音がある。
もしそれが自己名なら、第一接続者が恐れていた「こちらが勝手に名前を付ける」とは違う。
使いたい理由は十分にある。
それでも、
『名前だと思いたいから、名前に聞こえてるかもしれない』
と止まった。
『第一接続者:向こうが本当に自分のこと言ってるなら、また言うかもしれない』
『管理者:再出現を待つ?』
『第一接続者:待つって決めると、待っちゃう』
ノルンは小さく息を吐いた。
十三年間の待機とは別の文脈。
ここでは、特定の音がもう一度来ることを期待して観測し続けることを避けている。
『第一接続者:来たら記録して』
『私が毎回探さなくていいように』
『管理者:管理側で通常観測範囲内の照合を行う』
『第一接続者:観測増やさない?』
『管理者:増やさない』
『第一接続者:じゃあ、それで』
昨日読んだ内部番号の思想と重なる。
第一接続者自身が探さなくても、通常観測の中で見つかったものだけを後から照合する。
相手を見つけるために観測密度を上げない。
名前かもしれない音を待つために、生活や接続を変えない。
「これ、今のところ名前じゃないね」
主様が言った。
「はい。自己識別相当候補です」
「候補の候補?」
「かなり近いです」
「でも第一接続者は、そうだったらいいと思ってる」
「はい」
「使いたい?」
「そこは本人の言葉として明確にはありません。ただ、自己識別なら意味があるとは考えていた可能性があります」
「期待してるのに決めない」
「そうですね」
ノルンは次の資料へ進む。
初回検討から数週間。
通常観測の中で類似音列が四件追加されている。
一件は欠損が激しく照合不能。
一件は別反応群の可能性が高い。
残る二件。
『――レア』
『――ラ』
また似ている。
しかし、まだ揃わない。
管理側の注記。
『音列類似のみを根拠に同一個体由来と判定しない。』
『問い「誰?」直後以外にも類似音が出現しており、自己識別機能は未確定。』
『接続者による呼称使用は行わない。』
ノルンは少し安堵した。
当時の管理側も、似た音が集まったからといって名前へ固定していない。
さらに数か月後。
ここで資料の表題が変わる。
『自己識別相当反応 継続評価二』
開く。
第一接続者と管理者の会話。
『管理者:類似音列の出現が十件を超えた』
『第一接続者:同じところから?』
『管理者:確定できない』
『第一接続者:番号は?』
『管理者:内部番号は共有しない』
『第一接続者:そうだった』
第一接続者自身が、番号を知らない運用を維持している。
『管理者:ただし、複数の参照番号にまたがって類似音列が確認されている』
ノルンの眉が上がった。
「複数?」
「はい」
「じゃあ名前じゃない?」
「まだ分かりません」
似た音が複数の参照番号に出ている。
もし番号が一人の人格と一対一対応していないなら、それだけで否定はできない。
しかし、一人の自己名だとする根拠はさらに弱くなる。
『第一接続者:同じ向こうが、番号分かれてる可能性は?』
『管理者:ある』
『第一接続者:違う向こうが、似た音を言ってる可能性は?』
『管理者:ある』
『第一接続者:言葉の一部がたまたま同じ可能性は?』
『管理者:ある』
『第一接続者:じゃあ分からない』
『管理者:分からない』
第一接続者はしばらく黙っている。
『第一接続者:名前にしなくてよかった』
主様がノルンを見る。
「後から分かった」
「はい」
『管理者:もし初回時点で呼称として使用していた場合、現在の類似反応群への影響評価が困難になっていた可能性がある』
『第一接続者:呼んだせいで返ってきたのか、最初から言ってたのか分からなくなる?』
『管理者:その可能性がある』
『第一接続者:……それ嫌だ』
ここで、名前を呼ぶことが単なるラベルではなく、観測そのものへ影響し得る問題が再び出る。
呼称固定事故とは同じと確定していない。
だが、こちらから音を送り返せば、相手がその音へ反応する可能性がある。
すると、後から同じ音が返ってきても、それが元々相手の自己識別だったのか、こちらの呼称を学習・反復したのか区別できなくなる。
第一接続者は、その混同を避けた。
『第一接続者:向こうが言ってるものを知りたいなら、こっちから先に同じ音を返さない方がいい』
『管理者:現時点では同意する』
『第一接続者:いつまで?』
『管理者:自己識別性を判断できるまで』
『第一接続者:判断できなかったら?』
『管理者:呼称として使用しない状態を継続する』
『第一接続者:ずっと?』
『管理者:必要性が変化した場合は再検討する』
第一接続者が少し間を置く。
『第一接続者:分かった』
ここでも永久禁止にはしていない。
分からないから使わない。
必要性が変われば考える。
未来の選択肢を閉じない。
しかし、今の期待だけで音へ意味を固定もしない。
ノルンは研究メモへ書き始めた。
『恒久参照番号運用後、外在反応中に反復音列を確認。第一接続者が「誰?」への応答に聞こえると申告したことから、自己識別相当候補として検討開始。』
『初期転記には「――ア」「――ラ――」「――レ――」「――レア」等の断片あり。ただし欠損率高く、同一音列・一語・固有名である保証なし。』
『第一接続者自身も「名前だと思いたいから名前に聞こえている可能性」を指摘し、呼称利用を希望せず。』
『通常観測密度を増加させず、再出現時のみ管理側で照合。』
『後の評価では類似音列が複数恒久参照番号にまたがって確認され、同一個体由来・複数個体の類似音・一般語の一部等を区別不能。』
『こちらから同音を呼称として送信すると、後続反応が元来の自己識別か、呼称への学習・反復か判別困難になる可能性が指摘されたため、呼称使用を継続保留。』
ここまで書いたところで、ノルンは手を止めた。
以前見つけた損傷音。
『――レ/――ラ/――ナ』
今日の資料には「レ」と「ラ」に似た転記がある。
しかし「ナ」はまだ出ていない。
そして、今日の資料の音が、以前の損傷音と同じ資料系統から来たものかも確認していない。
「前の壊れた音、照合する?」
主様が尋ねる。
「します。ただし同一と仮定せず、資料由来から確認します」
ノルンは以前の記録を開く。
最古層命名関連資料。
第一接続者が呼称を拒否した後の注記。
後世転記で残った不明音。
現在表示では、
『――レ/――ラ/――ナ』
原資料番号を確認する。
今日の「自己識別相当反応」資料群とは、保存系統が違う。
今日の資料は観測原記録系。
以前のものは、後世の教育資料へ転載された抜粋から復元された断片。
「直接同じ資料じゃない」
「はい」
「でも元を辿れる?」
「転載元参照番号があります」
ノルンは照合する。
教育資料の注記。
『自己識別候補音列については原記録欠損が多く、呼称化を避けた事例として参照』
その参照先に、今日読んでいる資料群の番号が含まれていた。
ノルンの背筋が少し伸びる。
「繋がった?」
「資料系統は関連しています」
「音も?」
「そこはまだです」
教育資料作成時、複数の原記録から例示音をまとめた可能性がある。
どの断片から「――レ/――ラ/――ナ」が作られたのかを確認する必要がある。
転載作業記録を探す。
数件の候補。
一つに、音列整理表が添付されている。
『原記録音列A:――ア』
『原記録音列B:――ラ――』
『原記録音列C:――レ――』
『原記録音列D:――レア』
『原記録音列E:――ナ』
ノルンの指が止まった。
「ナ」
主様の声が少し低くなる。
「出ました」
音列E。
原記録を開く。
受信状況。
欠損率六十八パーセント。
恒久参照番号。
そこだけが一部損傷している。
『参照番号 □』
「番号ない」
「破損しています」
前後の観測記録から復元できるか。
ノルンはすぐに推定へ飛ばず、関連資料を確認する。
音列Eが出た日の観測対象候補は三件。
恒久参照番号二。
七。
十一。
ただし、同時刻帯に反応が重なっている。
原記録の担当者注記。
『発話元特定不能。番号七候補を含むが、二・十一を除外できず。』
「七候補」
「含まれています。しかし七だけではありません」
「また七」
「候補です」
主様が何か言いかけて、飲み込んだ。
ノルンは続きを読む。
第一接続者は、この「――ナ」に相当する反応を聞いた後、管理者へ尋ねている。
『第一接続者:今のも、前のと同じ?』
『管理者:音列構造が異なる』
『第一接続者:じゃあ違う?』
『管理者:意味が異なるとは断定できない』
『第一接続者:名前って、一回ずつ違う音になることある?』
『管理者:欠損が大きいため、実際には同一音列の異なる部分を受信している可能性がある』
『第一接続者:全部つなげたら分かる?』
管理者の返答。
『つなげる根拠がない』
ノルンは、その一文をゆっくり読んだ。
第一接続者。
『でも、つなげたくなる』
『管理者:理由は』
『第一接続者:名前になりそうだから』
沈黙記録。
『第一接続者:だから、つなげないで』
主様が息を吐いた。
「自分で止めた」
「はい」
『第一接続者:私が聞きたいものになるように、壊れたところを埋めないで』
ノルンはしばらく動かなかった。
今日の資料の中心は、名前そのものではなかった。
欠けた音。
意味を持ちそうな断片。
つなげれば、一つの名前に見えるかもしれない。
第一接続者は、それを望んでいた可能性がある。
相手が自分で名乗ってくれたなら。
こちらが名前を付けなくても、相手を見分けられる。
返事をしたい時に返せる。
探さずに済む。
それでも、断片を自分の期待する形へ並べることを拒否した。
「……『――レ/――ラ/――ナ』って」
主様が慎重に言う。
「後世が繋げた?」
「その可能性が出てきました」
「第一接続者は繋げるなって言ったのに?」
「まだ、誰がどの時点で現在の表記へ整理したかを確認していません」
「でも原記録では別々」
「はい」
「順番も?」
「少なくとも今確認した出現順は、現在の表記順と一致しません」
原記録上。
「ア」に似た断片。
「ラ」に似た断片。
「レ」に似た断片。
「レア」に似た断片。
その後「ナ」に似た断片。
現在知られている「――レ/――ラ/――ナ」という並びは、原記録の単純な時系列ではない。
後世の誰かが、似たものを整理した可能性が高い。
だが、それが「名前を復元しようとした」のか、「候補音を一覧化しただけ」なのかはまだ分からない。
「セレナは?」
主様が尋ねる。
「何ですか」
「この並び見たら、やっぱり――」
「伝えません」
「まだ?」
「今日分かったことで、むしろ伝える根拠は弱くなりました」
「弱く?」
「以前は一つの壊れた音列のように見えていました。しかし、原記録では複数時点・複数候補元の断片です」
「ああ」
「これを『セレナという名前が壊れたものかもしれない』と本人へ伝えるのは、こちらが断片を名前へ組み立てる行為になり得ます」
「第一接続者がやめてって言ったことと似てる」
「はい。ただし、それだけを理由に永久に伝えないと決めるつもりもありません」
「証拠が出たら?」
「必要性と本人への影響を改めて考えます」
ルークが以前、セレナを見て「セレナ?」と反応した。
あの事実は消えない。
しかし、その一度の反応と、複数時点から集められた古い音断片を結んで「同じ名前だ」とするには飛躍が大きすぎる。
ルーク自身にもまだ尋ねていない。
なぜそう思ったのか。
どこで知ったのか。
名前なのか。
人なのか。
単なる音の既視感だったのか。
当時、ルーク自身も確信していなかった。
今はそれでいい。
ノルンは研究メモへ追記する。
『後世資料上の損傷音列「――レ/――ラ/――ナ」は、現時点で一回の連続発話を示すものではない可能性が高い。』
『原記録では複数時点の別個の音断片として確認され、発話元も一部不明。番号七候補を含むが、他番号候補を除外できない。』
『第一接続者は断片を結合すれば名前らしくなる可能性を認識した一方、「私が聞きたいものになるように、壊れたところを埋めないで」と明確に結合を拒否。』
『現在知られる表記が、いつ・誰により・何を目的として配列されたか未確認。』
『セレナとの関連は未確定。ルークの「セレナ?」反応との関連も未確定。現時点で本人共有の根拠とはしない。』
書き終えても、研究時間はまだ残っている。
次に確認すべきものは明確だった。
後世資料で、いつ断片が「――レ/――ラ/――ナ」という形へまとめられたのか。
しかし、その検索へ進む前に、ノルンは一度椅子の背へ身体を預けた。
目を閉じる。
頭の中で情報が多くなっている。
恒久参照番号。
番号七。
反応群G。
自己識別相当反応。
複数番号。
壊れた音。
第一接続者の期待。
後世の整理。
そして現在のルークとセレナ。
ここで勢いのまま次を読めば、「何かを見つけたい」という気持ちが検索の方向を狭めるかもしれない。
「休憩?」
主様が尋ねた。
「五分だけ」
「研究枠の中で?」
「はい」
「もったいなくない?」
「今の状態で読み続ける方が、もったいない可能性があります」
「何探してるか分からなくなる?」
「逆です」
「逆?」
「探したいものだけ見つける可能性があります」
主様は少し黙り、それから「ああ」と頷いた。
「セレナって読める証拠ばっかり探しちゃう」
「はい」
「七がルークって証拠も」
「はい」
「じゃあ五分何する?」
「水を飲みます」
「普通」
「研究休憩に特別なことは必要ありません」
ノルンは席を立った。
窓辺へ行き、水を一杯飲む。
午後の光は朝より白く、雲もかなり薄くなっている。管理区域の外では職員が二人、別棟へ資料を運んでいた。遠くから扉の開閉音が聞こえ、すぐに静かになる。
五分。
端末を見ない。
資料を考えないよう努力もしない。
頭に浮かべば浮かぶ。
ただ、続きを開かない。
席へ戻った時、最初にしたのは後世資料の検索ではなかった。
今日見つけた原記録の資料番号を、時系列順に並べ直す。
自分が見たい順ではなく、残っている順。
すると、一つ気づいた。
「――ナ」の後にも、自己識別候補として扱われなかった音断片がいくつもある。
『――イ』
『――ル』
『ア――』
『――オ』
これらは教育資料の「自己識別候補音列」には転載されていない。
「……選ばれていますね」
「何が?」
「後世資料に載った断片です」
主様が画面を覗き込まない距離から首を伸ばす。
「もっといっぱいあった?」
「はい」
「レ、ラ、ナだけじゃない」
「少なくとも候補音は他にもあります」
「なんでその三つ?」
「分かりません」
これで、後世の選択過程そのものがさらに重要になった。
大量にあった壊れた音の中から、なぜ「レ」「ラ」「ナ」に見える断片が残されたのか。
同一発話と判断した根拠があったのか。
教育上分かりやすい例として選んだだけなのか。
あるいは、後世の誰かが一つの名前らしいものへ近づけたのか。
まだ何も決められない。
ノルンは今日の研究をそこで止めた。
「後世資料、開かないの?」
「今日は開きません」
「時間あるよ」
「あります」
「昨日より余ってる」
「数えないでください」
「何分?」
「見ないでください」
「ノルンが見たから見えた」
「……二十二分です」
「昨日より多い」
「主様」
「はい、やめます」
閲覧経路を閉じる。
残り時間は研究メモの整理へ使う。
新しい資料を開かない。
それは「怖くなったから」でも「答えに近づきすぎたから」でもない。
今日得た情報だけでも、これまでの理解をかなり修正する必要があるからだ。
最古層研究を終えた直後、通常観察側から通知が一件届いた。
ミレイアではない。
ルークだった。
「質問です」
ノルンは通知を開く。
緊急性なし。
通常会話希望。
内容は事前には記載されていない。
「今話す?」
主様が尋ねる。
「担当者側の時間は確保できます」
「ノルン行く?」
「内容次第ですが、私が対応します」
接続といっても、ミレイアとの接続ではない。
管理側の通常会話経路。
安全確認後、ノルンの声がルークへ届く。
『こんにちは、ルーク』
『こんにちは、ノルン』
声は安定している。
急いでいる様子はない。
事前確認。
身体異常なし。
位置相当感覚なし。
名前に引かれる感じなし。
近く感じる感覚なし。
恐怖については、ルーク自身から、
『今日は一くらい』
と答えた。
ノルンは昨日との比較をしない。
『分かりました。今日は何を話したいですか』
少し間があった。
『名前のこと』
ノルンの手が止まりそうになる。
今日読んだ資料。
自己識別。
壊れた音。
しかし、それをルークの質問へ持ち込まない。
『過去の名前についてですか』
『うん』
『どうぞ』
ルークはすぐに続けなかった。
向こう側では椅子に座っているらしい。担当観察者の記録には、両手を膝の上で組み、時々指を動かしているとある。
『僕さ』
『はい』
『前、名前なくなった人いるって聞いたじゃん』
『はい』
歴史上、呼称固定後の強制的な分離処置によって自己識別が損なわれた可能性のある事例。
その存在だけは、すでにルークへ説明している。
『あれって、名前なくなったら、その人じゃなくなるの?』
ノルンはすぐ答えなかった。
質問の範囲を確認する。
『「名前を思い出せない人は、それ以前と同じ人ではなくなるのか」という意味ですか』
『……たぶん』
ルークの声が少し小さくなる。
『僕、前の名前分かんないでしょ』
『はい』
『でも今、ルークって呼ばれてる』
『はい』
『前の名前が僕の本当の名前だったら、ルークって偽物?』
ノルンは一度息を整えた。
今日読んだ第一接続者の資料を答えとして使う必要はない。
現在確認できる事実だけで話す。
『私は、そうは扱っていません』
『なんで?』
『あなた自身が、現在ルークと呼ばれることを希望しているからです』
『でも前の僕が違う名前だったら?』
『過去に別の名前があった可能性と、現在あなたがルークを望んでいることは両立します』
『二個、本当でもいい?』
ノルンは少し考えた。
『名前についてですか』
『うん』
『過去に使っていた名前が本当にあなたの名前だったとしても、現在の「ルーク」が偽物になるとは限りません』
向こうで沈黙が続く。
『じゃあ、前の名前見つかったら』
『はい』
『そっちに戻らなくてもいい?』
『少なくとも、管理側が自動的に戻すことはしません』
『僕が決める?』
『あなた自身の希望を確認します』
『前の名前の方が本物でも?』
ノルンは言葉を選んだ。
『何をもって「本物」とするかを、管理側だけで決めません』
『昔から呼ばれてたら本物じゃないの?』
『それは、その名前があなたにとって重要だったことを示す可能性があります』
『うん』
『ですが、昔使われていたという理由だけで、今のあなたが必ずその名前を使わなければならないとは考えていません』
ルークの指の動きが止まったと観察記録に出る。
『……そっか』
短い声。
しかし、ノルンはそこで会話を終えなかった。
『今、前の名前が見つかることを想像すると怖いですか』
ルークはしばらく考えた。
『ちょっと』
『数字にしますか』
『三』
『何が一番怖いですか』
『ルークじゃなくなること』
その答えは早かった。
ノルンは胸の奥にわずかな重さを感じたが、それを言葉へ急いで変えない。
『管理側から、あなたへ「過去の名前が見つかったので今日からそちらを使います」と一方的に変更することはありません』
『本当に?』
『はい』
『僕がルークがいいって言ったら?』
『その希望を扱います』
『前の名前知っても?』
『はい』
長い息を吐く音が届いた。
『じゃあ、ちょっと知りたいままでいい』
『はい』
『見つけてって頼まなくても?』
『構いません』
『見つかったら教えてって、今決めなくても?』
『構いません』
ルークが少し笑った。
『ノルン、最近それ多いね』
『何がですか』
『今決めなくていい』
ノルンは一瞬黙った。
『必要のない決定を急がせないようにしています』
『僕が決めたいって言ったら?』
『その時は決めるために必要な情報を確認します』
『何でも決めない方がいいわけじゃない?』
『もちろんです』
『よかった』
『なぜですか』
『ノルンが全部「決めなくていい」にする人になったのかと思った』
「……」
管理区域で主様が口元を押さえた。
聞こえている。
笑っている。
ノルンはそちらを見ない。
『なっていません』
『ちょっと怒った?』
『怒っていません』
『声ちょっと固い』
『ルーク』
『はい』
『名前の話へ戻ります』
『はい』
向こうで笑いをこらえるような息が聞こえた。
ノルンは少しだけ眉を寄せたものの、会話自体は安定している。
『今日の希望を確認します。現在は「ルーク」と呼ばれたい、で変わりありませんか』
今度の確認には理由がある。
本人が「過去名が本物ならルークは偽物か」と不安を示した直後だからだ。
『うん。ルークがいい』
『分かりました』
『前の名前は……』
少し間。
『知りたいの、五くらい』
『急ぎたさは数字にしますか』
『二』
『分かりました』
以前と同じ数字だった。
しかしノルンは「変化なし」とだけ記録し、同じだから安定したとも、停滞したとも評価しない。
『あと一個いい?』
『どうぞ』
『僕が自分で名前決めたら、それって本物?』
ノルンは少し考える。
『「本物」という言葉をどう使うかによります』
『難しい』
『では、こう答えます。あなたが自分で選び、そう呼ばれたいと望む名前は、管理側が勝手に付けた仮番号とは違います』
『ルークも?』
『あなたが現在そう呼ばれたいと選んでいる以上、少なくとも管理側は単なる仮番号として扱っていません』
『……うん』
『それで十分ですか』
『今日は』
『分かりました』
ルークは少し黙った後、
『じゃあ今日は終わり』
と言った。
『分かりました』
『あ』
『何ですか』
『今日、僕えらかった?』
ノルンは目を閉じたくなった。
主様が完全に笑っている。
『何についてですか』
『名前のこと、今すぐ調べてって言わなかった』
『それを我慢したのですか』
『……我慢ってほどじゃない』
『では、調べてほしくないのですか』
『それも違う』
『なら、無理に褒める対象へ変換しなくてよいのでは?』
『厳しい』
『ただし』
ルークが静かになる。
『「知りたい」という気持ちと、「今すぐ調べてほしい」という要求を分けて話せたことは、分かりやすかったです』
『それ褒めてる?』
『はい』
『一個』
『数えないでください』
『一個』
『ルーク』
『じゃあ終わる』
声が少し明るい。
『はい。今日はここまでにしましょう』
『またね、ノルン』
『はい。また』
通常会話経路を閉じる。
自動接続なし。
残留反応なし。
位置相当感覚なし。
名称反応なし。
ルーク側も安定。
ノルンは終了記録を確認し、ようやく肩の力を抜いた。
「一個」
主様が言った。
「やめてください」
「ルーク、ちゃんと数えてた」
「主様まで数えないでください」
「でも今日の話、研究とちょっと――」
「繋げません」
「まだ何も言ってない」
「どうせ名前の話でしょう」
「うん」
「現在のルークが自分の名前について考えたことと、最古層の自己識別相当反応は別です」
「でもルーク、自分で選んだ名前は本物かって聞いた」
「はい」
「第一接続者も、向こうが自分で何か言ったらって聞いた」
「似ています」
「ほら」
「似ているだけです」
ノルンはルークの記録を保存する。
『現在名希望:ルーク。』
『過去名判明時に現在名を自動変更されることへの不安あり。「ルークではなくなること」が怖さ三。』
『管理側から過去名へ一方的に変更しないこと、過去名判明時も本人希望を確認することを説明。』
『過去名への関心五、急ぎたさ二。現在、探索要求なし。発見時の通知希望も事前決定せず。』
『本人より「自分で名前を決めた場合、それは本物か」と質問あり。管理側は、本人が選び呼ばれることを希望する名称を単なる管理上の仮番号とは扱わない旨を説明。』
ここまで。
今日の最古層研究を、ルークの現在名の根拠にはしない。
終業まで少し時間が残っている。
ミレイア側を確認すると、朝から新しい接続発言はない。
午後は家族と過ごし、その後、一人で刺繍をしている。
昨日「聞いてみたいかもしれない」と言った。
今日は何も言わない。
それでいい。
ノルンは端末を閉じかけた。
その時、エリスから通常報告が一件追加された。
緊急ではない。
接続希望でもない。
ノルンは開く。
夕方。
ミレイアは刺繍を終え、道具を片づけていた。
窓の外はすでに橙色へ変わり、庭の木々の影が部屋の床まで長く伸びている。エリスはいつものように少し離れた場所に座り、別の書類を確認していた。
ミレイアは糸箱の蓋を閉じた後、しばらくその上へ手を置いていた。
『エリスさん』
『はい』
『今日、聞かなかったね』
エリスは書類から顔を上げる。
『何をですか』
『昨日のこと』
『はい』
『聞いてみたいかもしれないって言ったやつ』
『今日は確認していません』
『……うん』
ミレイアは少しだけ視線を落とした。
『忘れた?』
『いいえ』
『じゃあ、覚えてる?』
『記録されています』
『でも聞かなかった』
『はい』
ミレイアの指が糸箱の縁を撫でる。
『なんか』
そこで言葉が止まる。
エリスは待つ。
『……変な感じ』
『どんな感じでしょう』
『昨日言ったから、今日聞かれると思ってたわけじゃない』
『はい』
『前みたいに、聞かれるの嫌って思ってたわけでもない』
『はい』
『でも、何も聞かれないと……』
ミレイアは自分でも分からないように眉を寄せた。
『ちょっとだけ、私から言ってもいいんだって思った』
ノルンは静かに記録を読む。
エリスも急いで意味を決めない。
『今、何か言いたいですか』
『……今日は』
ミレイアは窓の方を見る。
夕方の光が頬へ当たり、睫毛の影が薄く落ちている。
『昨日より聞きたいかは、分かんない』
『はい』
『怖さも、今日は測らなくていい』
『分かりました』
『でも』
ミレイアは一度息を吸った。
『聞いてみたいかもしれないって言ったの、まだ消さないで』
エリスの表情がわずかに柔らかくなる。
『消しません』
『今日違ってても?』
『昨日あなたがそう感じた記録は消えません』
『今日、分かんなくても?』
『はい』
ミレイアは少し黙る。
『じゃあ、それでいい』
『分かりました』
そこで会話は終わった。
接続希望なし。
新しい条件設定なし。
ルークへの共有なし。
恐怖値測定なし。
ただ、
『聞いてみたいかもしれないって言ったの、まだ消さないで』
という希望が追加された。
ノルンは記録を閉じる前に、少しだけ画面を見つめた。
第一接続者は、自分が名前だと思いたい音を、名前へ作り替えないでほしいと言った。
返せなかった嫌さも消さないでほしいと言った。
ミレイアは、昨日の「聞いてみたいかもしれない」を、今日分からなくても消さないでほしいと言った。
似ている。
けれど、同じ教訓にはしない。
第一接続者が守ろうとしたのは、不確かな観測を期待で埋めないこと。
ミレイアが守りたいのは、昨日の自分が本当に感じたことを、今日の不確かさで無かったことにしないこと。
それぞれ違う。
ノルンはミレイアの個別記録だけを更新した。
『前日の「聞いてみたいかもしれない」について、本日は強度比較・恐怖値測定を希望せず。』
『本人より、前日の感覚を現在判断不能であることを理由に削除しないでほしい旨の希望あり。』
『現在も接続意思は未決定。』
制度資料へ転用しない。
第一接続者の研究メモとも繋げない。
保存する場所を分ける。
「終わり?」
主様が尋ねた。
「はい」
「今日はいっぱいあったね」
「そうですね」
「自己識別の音、ルークの名前、ミレイア」
「まとめないでください」
「まだまとめてない」
「主様はまとめる前の顔をしています」
「どんな顔?」
「昨日も聞きましたね」
「答えてくれなかった」
「今日も答えません」
ノルンは机を片づける。
最古層資料の次回候補は明確になった。
後世の教育資料が、どの時点で複数の音断片を「――レ/――ラ/――ナ」のような形へ並べたのか。
なぜ他にもあった「イ」「ル」「ア」「オ」などの断片ではなく、その音が残されたのか。
番号七との関連はどこまで確認されていたのか。
そして「自己識別相当」という慎重な呼び方が、いつ「名前らしきもの」という物語へ変わったのか。
だが、それは次に研究枠を取った時の話だ。
今夜調べることはできない。
ノルンは自分用のメモ帳を取り出した。
何を書くか少し考える。
今日は美咲から連絡が来なかった。
自分からも送らなかった。
それは以前にも書いた。
同じことを毎回記録する必要はない。
甘いものは昨日買った。
一つ残っている。
それを書くほどでもない。
ルークから「最近、今決めなくていいが多い」と言われた。
少し腹が立ったような、図星だったような、よく分からない感覚が残っている。
ノルンはペンを動かした。
『何でも「今決めなくていい」にすればいいわけではない。ルークに言われて少し悔しかった。』
読み返す。
その下に、
『でも、間違ってはいない。』
と書きかけて止めた。
間違っていない、と結論まで付ける必要はない。
最初の一行だけ残す。
「何書いた?」
主様が聞く。
「見せません」
「今日の研究?」
「違います」
「ルーク?」
ノルンは少し黙った。
「……一部は」
「珍しい」
「主様には見せません」
「褒め一個って書いた?」
「書いていません」
「じゃあ僕が書く」
「どこにですか」
「僕のメモ」
「お好きにどうぞ」
「『本日、ルーク一褒め獲得』」
「制度記録へ入れたら削除依頼を出します」
「個人メモだよ」
「なら勝手にしてください」
主様が楽しそうに笑う。
ノルンは鞄へメモ帳をしまった。
管理区域を出る前に、最後の安全確認だけを行う。
世界は安定。
九人に緊急変化なし。
ルークの通常会話終了後も異常なし。
ミレイアも通常生活へ戻っている。
フローラも慈善行事について新しい決定なし。
今日、何か大きな答えが出たわけではない。
むしろ、名前だと思っていたものが名前ではないかもしれないと分かった。
一つの音列だと思っていたものが、複数の時点から拾われた断片だった。
第七に属すると思いたくなる音も、別の番号候補を除外できなかった。
分からないものが増えたようにも見える。
それでも、ノルンには昨日より資料が悪くなったとは思えなかった。
分からない部分が、分からない形で見えるようになった。
それは少なくとも、間違った答えを綺麗に作るよりはいい。
管理区域を出ると、外はもう夕暮れだった。
街路の店々には明かりが灯り始めている。昨日菓子を買った店の窓も暖かな色に光り、通りを歩く人々の影が硝子へ流れていた。
ノルンは店の前で足を止める。
家には昨日の焼き菓子が一つ残っている。
今日は買わなくていい。
そう思った。
けれど、それも昨日買ったから今日買ってはいけないという規則ではない。
棚を見る。
昨日とは違う菓子が並んでいる。
「……これは」
少し気になる。
買うかどうか考える。
数秒。
ノルンは扉へ手を伸ばしかけ、やめた。
「今日は、家にある方を食べましょう」
自分で決めた。
明日また欲しくなれば、その時に考えればいい。
店を離れ、夕暮れの道を歩く。
頭の奥には、今日読んだ第一接続者の言葉がまだ残っていた。
『私が聞きたいものになるように、壊れたところを埋めないで』
欠けた音をつなげれば、名前になるかもしれない。
名前になれば、誰だったのか分かるかもしれない。
誰だったのか分かれば、現在のルークへ繋がるかもしれない。
そして、その先にはセレナがいるかもしれない。
そう考えることはできる。
けれど、「かもしれない」を並べた先にある答えは、証拠ではない。
ノルンは歩きながら、そこまで考えた。
それから、ふとルークの言葉も思い出す。
『前の名前が僕の本当の名前だったら、ルークって偽物?』
もし過去の名前が見つかったとしても。
それが本当にルークの過去名だったとしても。
今の「ルーク」を消して、過去の名前へ上書きする必要はない。
過去を知ることと、現在を偽物にすることも同じではない。
ただ、その考えを今日の最古層資料へ当てはめるのはやめた。
「……またまとめるところでした」
小さく呟く。
誰も聞いていない。
ノルンは少しだけ笑って、そのまま歩いた。
明日、研究資料を開くかどうかはまだ決めていない。
ミレイアが明日「聞きたい」と言うかどうかも分からない。
ルークが過去の名前をもっと知りたくなるかも分からない。
フローラが慈善行事へ行くかも決まっていない。
美咲と次に会う日もない。
決まっていないことは、たくさんある。
けれど今日、決まっていないものを無理に埋めなくても、一日はちゃんと終わる。
壊れた音の空白も。
誰かの昨日と今日の間も。
まだ名前のない次の予定も。
空いている場所があるからといって、そこへ今すぐ何かを書き込まなければならないわけではなかった。




