第八十四話 第一接続者は名前を付ければ返事を間違えにくくなると理解したうえで、それでも「見つけやすくなる方」を選びませんでした
翌朝、ノルンが目を覚ました時、最初に思い浮かんだのは最古層資料ではなかった。
窓の外が明るい。
それだけだった。
昨夜まで残っていた雨雲はすっかり流れたらしく、カーテンの隙間から差し込む光は昨日よりずっと強い。起き上がって窓を少し開けると、雨上がりの湿った匂いに混じって朝の風が入ってきた。
身体に重さはない。
途中で目を覚ました記憶もない。
今日の研究予定は、まだ決めていない。
昨日の終業時点で、次に読みたい資料は明確だった。
第一接続者への呼称設定提案面談。
気になり度は、帰る直前には八まで下がった。
今はどうだろう。
「……測らなくていいですね」
誰もいない部屋で呟き、ノルンは着替えを始めた。
気になるなら気になる。
数字にしなければならない理由はない。
管理区域へ入ると、主様はすでに来ていた。
「おはよう、ノルン」
「おはようございます」
「今日は何?」
「何とは?」
「気になり度」
「測っていません」
主様が目を丸くする。
「やめたの?」
「やめたとは言っていません。今日は測っていないだけです」
「じゃあ明日は?」
「知りません」
「便利だね、それ」
「昨日も同じことを言われました」
「覚えてる?」
「当然です」
「じゃあ同じ会話を繰り返してる」
ノルンは鞄を置きながら、主様を見た。
「では、ここで終わりにしましょう」
「冷たい」
「通常確認を始めます」
主様は笑いながら自分の席へ戻った。
管理区域にはすでに何人もの観察担当者がいる。朝の申し送りをする低い声、紙をめくる音、湯を注ぐ音が静かに重なっていた。昨日までの雨で外気は少し湿っているが、窓から差す光は明るく、室内の空気もどこか軽い。
ノルンは最初の報告を開いた。
世界規模の異常なし。
緊急介入案件なし。
九人の誤転生者にも重大な状態変化なし。
ルーク側、自動接続なし。名称反応なし。位置相当感覚なし。身体状態安定。
昨日、ルークは自分の過去の名前について話した。
以前は、過去の名前を知りたい気持ちが六、急ぎたさが四。
昨日は五と二。
『前は、知らないと僕が誰か分かんない気がした』
『今は、分かんなくてもルークって呼んでもらえるなら……ちょっと後でもいい』
現在はルークと呼ばれることを希望している。
過去の名前が存在したとしても、その希望は変わっていない。
今朝、新しい質問はない。
担当者との会話では朝食について話し、その後は自分の作業へ移っている。
ノルンは記録を最後まで確認した。
「ルーク、名前のこと聞いてない?」
主様が尋ねる。
「はい」
「昨日いっぱい話したから?」
「理由は分かりません」
「落ち着いた?」
「身体状態と恐怖値は安定しています。ただし、それを昨日の会話の効果と断定しません」
「ノルン、最近すぐ止めるね」
「主様がすぐ理由を作るからです」
「だって気になるじゃん」
「気になることと、理由を決めることは別です」
「それ、制度資料に書く?」
「書きません」
「なんで?」
「主様への注意だからです」
少し離れた席で誰かが笑いをこらえる気配がした。
ノルンは聞こえなかったことにして、ミレイアの記録へ移った。
今朝のミレイアは、家族と朝食を取った後、自室で刺繍をしている。
接続についての発言なし。
ルークについての質問なし。
エリスからも確認なし。
数日前、ミレイアは「毎日は嫌」と明確に話した。
その後、管理側は次回確認日を設定していない。
今日は何日目だから聞く、という運用にもしていない。
ただ、ミレイア自身が話したくなった時に話せる状態は維持している。
それでいい。
ノルンは記録を閉じようとした。
その時、追加記録が入った。
「……ミレイアからです」
「何かあった?」
「緊急ではありません」
ノルンは内容を開く。
朝食からしばらく経った頃。
刺繍をしていたミレイアが、糸を替えるために手を止めた。
窓から入る朝の光が膝の上の布を照らしている。外では庭師が植え込みを整えており、遠くから枝を切る小さな音が聞こえていた。
エリスは同じ部屋の少し離れた場所にいた。
ミレイアはすぐには声をかけなかった。
糸を選び、針へ通そうとして、一度失敗する。
もう一度通す。
それから、顔を上げた。
『エリスさん』
『はい』
『前の……ルークの答え』
エリスは急かさず、ミレイアを見る。
『はい』
『全部、もう一回聞いてもいいですか』
ノルンの指が止まった。
数日前、ミレイアはルークが次の短い声で何を言いたいと思っているかを尋ねた。
ルークの回答は、本人が受け取る意思を確認してから伝えられた。
その中には、
「元気?」と聞きたいが返事を求める圧力になり得るので実際に使うかは分からない。
「生きていてくれてよかった」と言いたいが、ミレイアがルークを安心させるために生きているような重さを与えたくない。
「ありがとう」と言いたいが、ミレイア自身の選択を自分への行為として奪いたくない。
そして、
「もう一度、こんにちはと言いたいかもしれない」
というものがあった。
それを聞いた後、ミレイアはすぐ次回接続を決めなかった。
翌朝には少し嫌だと感じた。
今は分からない、と言った。
毎日は考えたくないとも言った。
そして数日。
今日は、自分からもう一度聞きたいと言った。
『全部ですね』
エリスが確認する。
ミレイアは少し考えてから頷いた。
『うん』
『聞いた後に、何か決める必要はありません』
『……分かってる』
『途中でやめても構いません』
『うん』
『では読みます』
エリスは、ルークの回答を意味が変わらない範囲で、前回と同じ順序で伝えた。
ミレイアは途中で口を挟まなかった。
「元気?」の部分では、針を持った手が少し止まる。
「生きていてくれてよかった」では、視線が膝の布へ落ちた。
「ありがとう」では、唇を少し結ぶ。
そして最後。
『もう一度、「こんにちは」と言いたいかもしれない』
エリスがそこまで伝えると、ミレイアはしばらく何も言わなかった。
窓の外で枝を切る音が一度響く。
庭師たちの声は聞こえない。
部屋の中では、ミレイアの指が布の端をゆっくり撫でていた。
『……やっぱり』
小さな声だった。
『はい』
『これが、一番……』
そこで言葉が止まる。
エリスは続きを補わない。
『一番、何ですか』
とも聞かない。
ミレイア自身が次の言葉を探すのを待った。
『……嫌じゃない』
しばらくして、ミレイアはそう言った。
ノルンは記録を読む速度を落とした。
『「こんにちは」がですか』
エリスは範囲だけを確認した。
『うん』
『他の言葉は?』
ミレイアはすぐには答えなかった。
『「元気?」は……返事しないと悪い気がする』
『はい』
『本当は返事しなくていいって分かってても』
『そう感じるんですね』
『うん』
針先が布の上で動かないまま止まっている。
『「生きててよかった」は……』
ミレイアは眉を少し寄せた。
『嫌じゃない』
『はい』
『でも、ちょっと重い』
『今聞くには、ですか』
『たぶん』
『「ありがとう」は?』
『それも……何にありがとうって言われるか考えちゃう』
『前回の「こんにちは」を聞いたことについて、とルークは考えていました』
『うん。でも……』
ミレイアは少し息を吐いた。
『私、あれ聞いたの、自分で聞くって言ったから』
『はい』
『だから、ありがとうって言われたら……悪くはないけど、ルークのために聞いたみたいになるのが、ちょっと嫌』
ルーク自身も、同じ可能性を考えていた。
だから実際に使う言葉として決めてはいない。
エリスはそれを改めて伝えた。
『ルークも、その点を気にしています。「ありがとう」と言いたい気持ちはあるものの、あなた自身の選択を自分のための行為として扱いたくないため、実際に言うかは決めていません』
ミレイアの肩から、わずかに力が抜けた。
『……そっか』
それだけだった。
しばらくして、ミレイアは針を布へ刺した。
一針。
もう一針。
しかし三針目でまた止まる。
『こんにちはなら』
エリスが顔を上げる。
『はい』
『こんにちはだけなら……』
ミレイアは言葉を探すように視線を窓へ向けた。
『前と同じだから』
ノルンは続きを待つ。
『前と同じ?』
『一回聞いた』
『はい』
『怖かったけど……終わったあと、ずっと怖いままじゃなかった』
『はい』
『私、返事もしなくてよかった』
『そうですね』
『何か言われたあとに、何か返さなきゃって考えなくてよかった』
ミレイアの指が、刺繍糸をそっと引いた。
『だから……』
そこで長い間がある。
『次に聞くなら、こんにちはだけがいいかもしれない』
エリスはすぐに接続準備へ進まなかった。
『今の言葉について確認してもいいですか』
ミレイアの肩が少し固くなる。
『……うん』
『「次に接続することを決めた」という意味ですか。それとも、「もし次に聞くなら、内容としてはこんにちはだけがよい」という意味ですか』
ミレイアは考えた。
数秒ではない。
視線を下げ、針を置き、両手を膝の上で重ねる。
『……まだ、するって決めてない』
『分かりました』
『でも』
ミレイアが顔を上げる。
『もしするなら、こんにちはだけがいい』
『分かりました』
『ごめんは、まだ嫌』
『はい』
『元気?も、今は嫌』
『はい』
『ありがとうも……今はいい』
『分かりました』
『生きててよかったも、今は聞かなくていい』
『分かりました』
エリスは一つずつ受け取った。
ミレイアはそこで少し息を吐く。
『こんにちはだけなら……考えられる』
『その希望を記録してもいいですか』
『うん』
『ルークへ伝えますか』
ミレイアの表情が変わった。
さっきまでより少し緊張が戻る。
『……伝えたら』
『はい』
『ルーク、待つ?』
エリスは即答しなかった。
『ルークがどう感じるかを、こちらで断定はできません』
『うん』
『ただし、あなたがまだ接続を決めていないことは明確に伝えられます。また、回答や決定の期限がないことも伝えられます』
『でも、こんにちはなら考えられるって言ったら……』
ミレイアは両手を少し強く重ねた。
『期待するよね』
『期待する可能性はあります』
エリスは否定しなかった。
『ですが、ルークが期待する可能性と、あなたが決めなければならないことは別です』
ミレイアは黙る。
『伝えないことも選べます』
『……』
『今決めなくても構いません』
さらに沈黙。
窓の外で鳥の声が一度した。
『今日は、伝えない』
『分かりました』
『私が決めたらでいい?』
『はい』
『決めなかったら?』
『伝えないままでも構いません』
ミレイアは目を閉じ、小さく息を吐いた。
『じゃあ、今日はそれでいい』
『分かりました』
会話はそこで終わった。
その後、ミレイアはすぐ刺繍へ戻らなかった。
窓辺へ移り、少し外を眺めた。
約五分後。
席へ戻って、刺繍を再開した。
記録はそこで通常観察へ戻っている。
ノルンは画面を閉じなかった。
少しだけ、そのまま見ていた。
「進んだ?」
主様が聞いた。
「何を進んだと呼ぶかによります」
「またそれ?」
「ミレイアは、次に接続すると決めていません」
「うん」
「ただし、もし次に聞くなら、『こんにちは』だけがよいと話しました」
「ごめんは?」
「まだ嫌だと明確に言っています」
「他は?」
「今は聞きたくないと」
「ルークに伝える?」
「本人が今日は伝えないと決めました」
主様は少し黙った。
「じゃあ、伝えない」
「はい」
「ルークが聞いてきても?」
「ミレイアから共有許可がありません」
「答えない?」
「はい」
「でも、ルークが何言いたいか聞かれたから答えたのに?」
「質問への回答を受け取ったことと、その後ミレイアが何を考えたかをルークへ返すことは別です」
「そっか」
ノルンはようやく記録を閉じた。
今朝だけで、ミレイアは一つの条件をかなり明確にした。
しかし、それを次回接続の決定へ変えない。
今日は、それで終わりだ。
午前中の通常業務へ移る。
制度改訂では昨日までの「選択肢の量」に関する事例整理を続けた。
セレナと数件を分類したが、結論は出さない。
昼食を取り、休憩する。
美咲からの連絡はない。
ノルンも送らない。
午後。
予定表には空きがあった。
緊急案件なし。
通常業務も予定範囲内。
ノルンは最古層研究枠を一つ入れた。
「読むんだ」
主様がすぐ気づく。
「はい」
「朝は決めてなかったよね」
「今決めました」
「気になり度は?」
「測りません」
「十でしょ」
「測りません」
「顔に書いてある」
「書いてありません」
ノルンは閲覧経路を開く。
昨日残した資料。
『第一接続者への呼称設定提案面談』
これまで断片として何度も読んだ言葉が含まれている。
今日は、その前後を読む。
記録日時。
旧呼称固定事故閲覧から一定期間後。
外在反応群の重複増加。
応答先識別困難。
第一接続者による応答保留増加。
管理側は、誤対象への応答を防ぐ目的で識別補助を検討。
呼称設定以外の方法も検討したが、接続者側が実際に区別する手段としては十分でない。
そして、この面談。
『管理者:外在反応群の識別補助について、管理側から提案がある』
『第一接続者:名前?』
ノルンの指が止まる。
「先に分かったんだ」
主様が小さく言う。
「はい」
管理者は否定していない。
『管理者:暫定呼称を用いた識別補助を提案する』
『第一接続者:事故の時と同じ?』
『管理者:同一機序であるとは確認されていない』
『第一接続者:違うとは確認された?』
『管理者:されていない』
沈黙記録。
第一接続者。
『じゃあ、分からない』
管理者。
『その通り』
ノルンはそこで少し驚いた。
「管理側も、分からないと答えています」
「ごまかしてない?」
「少なくとも記録上は」
続く。
『管理者:ただし、旧事例と異なり、呼称使用頻度を制限し、位置相当偏向を継続観察する。異常兆候が確認された場合は即時停止する』
『第一接続者:停止したら戻る?』
『管理者:保証できない』
第一接続者はしばらく答えていない。
『第一接続者:それ、止められるって言わない方がいい』
ノルンの視線が止まった。
『管理者:使用を停止することは可能』
『第一接続者:使うのをやめられるのと、使う前に戻れるのは違う』
以前の事故記録を読んだ時に、第一接続者が確認していたこと。
『呼んでからやめればいい、で戻れるのかを先に知りたい』
その問いが、そのままここへ繋がっている。
『管理者:その指摘は正しい。訂正する。異常兆候時には呼称使用を停止する。ただし、呼称使用前の状態へ完全復帰する保証はない』
『第一接続者:分かった』
管理者は提案の目的を説明している。
『現在、複数の外在反応が重複し、応答先を確定できない事例が増えている』
『第一接続者:知ってる』
『管理者:誤った対象へ応答する危険を下げるため、識別補助が必要と判断している』
『第一接続者:私が返事しないのじゃ駄目?』
『管理者:現行手順上は許容される』
『第一接続者:じゃあ必要じゃない』
管理者。
『安全上必須ではない』
主様が目を細めた。
「そこまで言うんだ」
「はい」
続く。
『管理者:ただし、応答保留が増えている。識別補助により、誤応答を避けながら応答可能な事例を増やせる可能性がある』
『第一接続者:返事できる方がいいと思ってる?』
『管理者:管理側としては、本人が望む応答機会を安全に確保できることには利点があると考える』
『第一接続者:本人って私?』
『管理者:あなたを含む』
『第一接続者:向こうは?』
管理者の返答まで間がある。
『管理者:外在個体側の希望は確認不能』
『第一接続者:じゃあ、向こうのためって言わないで』
ノルンは息を止めかけ、ゆっくり吐いた。
管理者は、
『了解した』
と答えている。
第一接続者は、管理側の善意そのものを拒否しているのではない。
誰のための利点なのかを分けている。
自分が返しやすくなる。
管理側が誤応答を減らせる。
それは確認できる。
しかし、外在個体が返事を望んでいるかは分からない。
だから、「相手のため」とは言わないでほしい。
その線を引いている。
『管理者:改める。接続者側の識別精度向上と誤応答低減を目的とした提案である』
『第一接続者:うん』
『管理者:呼称使用に同意するか』
ここからが、以前断片で読んだ拒否へ繋がる。
しかし第一接続者は、すぐ「いいえ」と答えていなかった。
『第一接続者:名前を付けたら、私は見分けられる?』
『管理者:識別精度が上がる可能性が高い』
『第一接続者:向こうは?』
『管理者:不明』
『第一接続者:私を見つけやすくなる可能性は?』
『管理者:旧事例を踏まえれば否定できない』
『第一接続者:私の方が、向こうを探しやすくなる可能性は?』
『管理者:否定できない』
第一接続者はそこで長く黙った。
記録上、二十秒を超えている。
ノルンは文字を追いながら、その沈黙を急いで読み飛ばさなかった。
十三年待った相手。
ようやく返ってきた反応。
少しずつ分かる言葉が増えた。
存在確認のような短いやり取りも生まれた。
返事をしたい。
間違えたくない。
名前を付ければ見分けやすくなるかもしれない。
それは、第一接続者自身にとっても魅力のある提案だったはずだ。
だからこそ、事故記録を先に読んだ。
将来の自分がもっと相手を知りたくなった時、今より安全に考えられるとは限らないと自覚していた。
そして今。
実際に、その選択が目の前にある。
『第一接続者:呼べば、こちらが見つけやすくなる』
以前から知っている一文。
だが、その前にはこれだけの問いがあった。
『管理者:その可能性はある』
『第一接続者:見つけやすくなれば、見つけることをやめられなくなるかもしれない』
『管理者:その可能性も否定できない』
『第一接続者:向こうが来た時だけ分かればいい』
管理者。
『応答保留は継続する』
『第一接続者:それでいい』
『管理者:返答できない事例が今後も生じる』
『第一接続者:うん』
『管理者:それでも呼称を使用しない?』
第一接続者。
『使わない』
ノルンはそこで一度視線を止めた。
これは永久禁止の宣言ではない。
以前の面談では、将来必要になれば再び考えるとしていた。
今、実際に提案された。
目的も聞いた。
利点も理解した。
危険も確認した。
そのうえで、今は使わないと選んだ。
続き。
『管理者:理由を記録する』
『第一接続者:私が返事しやすくなるために、向こうが私を見つけやすくなるかもしれない方法を使いたくない』
『管理者:他には』
『第一接続者:私が向こうを探せるようになるのも嫌』
『管理者:なぜ』
第一接続者は、また少し間を置いた。
『探せるなら、探したくなるから』
主様が黙った。
ノルンも声を出さない。
『第一接続者:今は、向こうが来た時だけ分かる』
『来なかったら分からない』
『それで困る時もある』
『返したかったのに返せなかった時もある』
『でも、探せるようになったら、来てない時にも探せる』
『今日いない』
『明日もいない』
『じゃあ次は』
『ってなるかもしれない』
ノルンは、十三年間の記録を思い出す。
待っていると伝えなかった。
返事が一度あっても次を約束にしなかった。
観察密度を上げなかった。
存在確認を儀式へしなかった。
その第一接続者が、ここでも同じ方向を選んでいる。
ただし、理念として綺麗に選んでいるわけではない。
返したかった。
困った。
探せるなら探したくなる。
自分の欲求を消しているのではなく、あることを認めたうえで、仕組みにしない。
『第一接続者:向こうが来た時だけ分かればよい』
『こちらから探しに行けるようにする必要はない』
そして。
『見失うことと、失うことを同じにしない』
既知の一文が出た。
ノルンは、今までとは違う重さでそれを読んだ。
この言葉だけを抜き出せば、立派な理念に見える。
だが実際には、返せなかった悔しさがあった。
見分けたい気持ちがあった。
探せるなら探したくなる自分も知っていた。
そのうえで選んだ言葉だった。
『管理者:呼称を設定しない場合、反応群の識別不能は継続する』
『第一接続者:分かってる』
『管理者:将来、判断を変更する可能性は』
『第一接続者:ある』
ノルンの目が少し見開かれた。
「……やはり、残しています」
「未来?」
「はい」
続く。
『第一接続者:必要になったらまた考える』
『管理者:再提案を希望するか』
第一接続者はすぐに答えていない。
『第一接続者:管理側が必要だと思った時は、理由を言って』
『管理者:その上で本人が判断する』
『第一接続者:うん』
『管理者:了解した』
面談はそこで終わりではなかった。
最後に、管理者から確認がある。
『呼称設定を拒否したことで、現在の接続維持が困難になると感じるか』
『第一接続者:ならない』
『理由は』
第一接続者。
『見つけられない時があるだけ』
次。
『いなくなるわけじゃない』
ノルンはその一文をしばらく見つめた。
「見失うことと、失うことを同じにしない」
その言葉は、抽象的な標語ではなかった。
識別できない。
返せない。
来ているか分からない。
それでも、それを相手の消失と同じにしない。
分からない時間を、失った時間として埋めようとしない。
だから、名前を付けなかった。
「……第一接続者は、呼称の利点を否定していません」
ノルンが言った。
「うん」
「管理側の目的も理解しています」
「間違えないため」
「はい。自分も返せるなら返したいと思っています」
「でも使わない」
「はい」
「危ないから?」
「それだけではないと思います」
ノルンは記録を見直す。
「呼称を使うことで、自分が相手を探しやすくなる可能性も嫌がっています」
「自分が?」
「はい」
「相手が変わるだけじゃなく?」
「自分の行動も変わる可能性を見ています」
事故記録で確認したのは、相手側の位置偏向や識別構造への影響だった。
だが第一接続者は、それだけを恐れていない。
自分が便利さに慣れること。
探せるなら探してしまうこと。
来ていない時間まで確認したくなること。
それも避けようとしている。
「これ、制度に使える?」
主様が尋ねる。
ノルンはすぐには答えなかった。
「そのままは使いません」
「なんで?」
「第一接続者の個人的な選択だからです」
「でもいい考えに見える」
「良い考えに見えることと、全員へ適用してよいことは別です」
「例えば?」
「自分から探せる仕組みが必要な人もいるかもしれません」
「ああ」
「待つことが苦痛で、相互に探すことを双方が望む関係もあるでしょう」
「うん」
「第一接続者が選ばなかったから、全員が選ばない方が安全だとは言えません」
「じゃあ何が残る?」
ノルンは少し考えた。
「便利になる側にも変化が起きる、という視点です」
「使う人?」
「はい。安全機能を導入した結果、対象だけではなく、管理者や接続者の行動も変わる可能性があります」
主様はゆっくり頷いた。
「探せるようになったら探しすぎる」
「そうです」
「見えるようになったら見すぎる」
「はい」
「記録できるようになったら記録しすぎる」
ノルンはそこで主様を見た。
「……それは現在の制度にも関係しますね」
「言ってみただけ」
「良い指摘です」
「褒められた」
「一回です」
「数えた」
「今のは数えます」
主様が笑った。
ノルンは研究メモを開く。
『呼称設定提案面談全文確認。』
『管理側は、外在反応群重複による誤応答低減を目的として暫定呼称を提案。安全上必須ではなく、拒否時は従来の応答保留手順を継続可能と説明。』
『第一接続者は、呼称による識別精度向上と応答可能性増加を理解し、自身も識別可能であれば応答したい意向を有していた。』
『一方、呼称使用により外在個体側が接続者を見つけやすくなる可能性だけでなく、接続者自身が外在個体を探索しやすくなり、非反応時にも探索を反復する可能性を懸念。』
『現時点では呼称不使用を選択。ただし恒久拒否ではなく、将来必要になった場合は再検討すると明言。管理側から再提案する場合は理由説明を希望。』
『「見失うことと、失うことを同じにしない」は、識別不能・応答保留を許容する具体的判断の文脈で述べられている。』
さらに一行。
『安全機能・識別補助は、対象側だけでなく使用者側の行動傾向も変化させ得る。現行制度への一般化は保留。』
ノルンはそこでペンを止めた。
「終わり?」
主様が尋ねる。
「面談記録は終わりました」
「時間は?」
「まだ三十分以上あります」
「次行ける」
「行けます」
「行く?」
ノルンは次の候補を確認する。
呼称設定拒否後の経過。
識別不能のまま運用を続けた記録。
第一接続者が実際にどの程度応答を保留したのか。
管理側が再提案したか。
そして、後に「第七外在個体」という内部分類が使われ始めるまでの経緯。
読みたい。
かなり。
しかし今日の面談記録だけでも、これまで断片だった言葉の意味が大きく変わった。
このまま次へ行けば、今見つけたものを整理しないまま新しい情報を重ねることになる。
「今日はここまでにします」
「三十分あるよ?」
「あります」
「記録更新できそう?」
「整理はします。ただし、新しい最古層資料は開きません」
「また余らせる」
「研究枠は使い切ることが目的ではありません」
「気になる?」
ノルンは少しだけ考えた。
「……測らないと言いました」
「十だ」
「測りません」
「十の顔してる」
「どんな顔ですか」
「次の資料を見てる顔」
確かに候補一覧へ視線が向いていた。
ノルンは閲覧画面を閉じた。
「これで見られません」
「物理的に対策した」
「仕組みは使える時に使います」
「第一接続者と逆だ」
「何でも繋げないでください」
研究枠の残りは、既存記録の整理に使った。
新しい資料は開かない。
今回の発見を、現在のルークへ安易に当てはめないことも明記する。
『第一接続者の呼称不使用判断と、現在のルークの名称希望・名称接続問題は同一ではない。』
『第一接続者=ルークを示す証拠ではない。』
『反応群G/後世注記上の第七外在個体=ルークを示す証拠ではない。』
『旧呼称固定機序=現在の名称接続機序を示す証拠ではない。』
ここは繰り返してでも残す必要がある。
似ているものを見つけた時ほど、同一視を防ぐ記録が必要だった。
研究枠を終え、ノルンは一度席を離れた。
午後の管理区域には朝より暖かな光が入っていた。窓辺に置かれた水差しの表面が光を反射し、壁へ細い揺らぎを作っている。
水を一杯飲む。
今日はミレイアから、もう一つ動きがあった。
もし次に聞くなら、「こんにちは」だけがいい。
けれど、接続するとは決めていない。
ルークには伝えない。
その状態で止まっている。
ノルンはルーク側の記録を確認した。
朝以降、新しい質問なし。
昨日話した名前の件についても追加なし。
ミレイアから何か来たか、とも聞いていない。
だから、何もしない。
夕方近く。
フローラ側から追加記録が届いた。
昨日、王家から第二王女が慈善行事へ出席すると正式に知ったフローラは、衣装をもう一度見たいと自分から言った。
今日は、その衣装合わせが行われている。
まだ参加表明はしていない。
母親も侍女も、参加する前提では話していない。
衣装部屋には数着の候補が並べられ、窓から差す光の中で布地の色が少しずつ違って見える。侍女が一着ずつ説明する間、フローラは以前より長く鏡の前に立っていた。
『こちらは前回もご覧になったものです』
『うん』
『袖の飾りだけ変更することもできます』
『それなら……こっちの方がいいかも』
フローラが一着を指す。
侍女は嬉しそうにしすぎないよう表情を整えながら、静かに頷いた。
『承知いたしました』
母親は少し離れた椅子に座って見ている。
しばらくして、フローラが鏡越しに母親を見た。
『お母様』
『なあに?』
『まだ、参加するって言ってないよね』
『ええ』
『服を選んでも?』
『もちろん』
『選んだあとで、行かないって言っても?』
『いいわよ』
フローラは母親を振り返った。
『本当に?』
『あなたが着る服を選んだことと、その日に出かけると決めることは別でしょう』
ノルンは記録を読みながら、少し目を細めた。
フローラの母親は制度担当者ではない。
それでも、自然に同じようなことを言う。
『……そっか』
フローラは鏡へ向き直る。
『じゃあ、これがいい』
『分かったわ』
侍女が寸法確認の準備をする。
フローラはそれを受け入れた。
まだ参加するとは言わない。
それでも、参加する場合に着たい服は選んだ。
「フローラ、行きそう?」
主様が尋ねる。
「分かりません」
「でも服決めた」
「はい」
「寸法も見る」
「はい」
「行かないかもしれない?」
「本人がそう確認しています」
「ノルンなら、ここまで準備したら行かなきゃって思わない?」
その問いに、ノルンは少し考えた。
「以前なら、思ったかもしれません」
「今は?」
「準備に使った時間や手間が、本人の決定を拘束する理由にはならないと思います」
「もったいなくても?」
「もったいないと感じることはあります」
「じゃあ行く?」
「それでも、決定とは別です」
「難しい」
「難しいままでいいのです」
主様は少し笑った。
終業時刻が近づく。
ミレイア側では、朝の会話以降、接続について新しい発言はなかった。
ルーク側にも動きなし。
美咲からも連絡なし。
今日は、自分から送ろうとも思わなかった。
ノルンは机の上を片づけながら、朝からの出来事を思い返した。
第一接続者は、名前を使えば見分けやすくなると知っていた。
返事を間違えにくくなる。
返したかった声へ返せる可能性も増える。
それでも使わなかった。
危険だから、だけではない。
見つけやすくなる自分自身を警戒した。
探せるようになれば、相手が来ていない時まで探してしまうかもしれない。
それを避けるために、見失う時間を残した。
一方で、ミレイアは自分からもう一度ルークの答えを聞いた。
聞いたうえで、「こんにちはだけなら考えられる」と言った。
それでも、次に聞くとは決めていない。
ルークへも伝えない。
フローラは衣装を選んだ。
それでも参加すると決めていない。
似た形がいくつもある。
準備する。
情報を知る。
選択肢を絞る。
そのどれもが、最終決定とは限らない。
ノルンはそこまで考えて、手を止めた。
「……またまとめようとしましたね」
「何を?」
主様が反応する。
「何でもありません」
「制度化?」
「しません」
「偉い」
ノルンは主様を見る。
「その褒め方は、昨日ルークと話した結果として改善されていません」
「ルークに負けた?」
「競争ではありません」
「じゃあ褒め直す」
「必要ありません」
「今日、気になる資料を三十分残して閉じたの、僕は結構すごいと思うよ」
ノルンは一瞬黙った。
昨日ルークが言ったものと、少し似ている。
具体的な行動。
上から成長を評価するのではなく、その日に本人がしたことを見る。
「……それなら」
「嫌じゃない?」
「はい」
主様の顔がぱっと明るくなった。
「やった」
「そこで喜ぶとルークと同じです」
「成功したから」
「目的を褒めることから成功判定へ変えないでください」
「でもちょっと嬉しい?」
「……少し」
「少しなんだ」
「十分です」
昨日と似た会話になっている。
それでも、相手が違えば同じではない。
ノルンは自分用のメモ帳を取り出した。
今日は何を書くか。
第一接続者の言葉は研究記録へすでに残した。
ミレイアのことは本人の記録にある。
フローラのことも同じ。
個人用のメモへ仕事を書く必要はない。
少し考える。
今日は美咲へ連絡しなかった。
写真も見なかった。
でも、それを「何もしなかった日」と書く必要もない。
ノルンは一行だけ書いた。
『今日は帰ったら、何か甘いものを食べたい。』
自分で読み返す。
理由はない。
研究を頑張ったご褒美とも書かない。
疲れているからとも決めない。
ただ、食べたい。
それでいい。
「何書いた?」
「見せません」
「研究?」
「違います」
「美咲?」
「違います」
「ルーク?」
「違います」
「僕?」
「違います」
「じゃあ何?」
ノルンはメモ帳を閉じた。
「甘いものです」
「……甘いもの?」
「はい」
「それだけ?」
「それだけです」
主様は数秒黙ったあと、笑った。
「いいね」
「何がですか」
「いや、なんとなく」
ノルンは鞄へメモ帳をしまう。
次に読む資料は決まった。
呼称設定を拒否した後、第一接続者と管理側がどう運用を続けたのか。
識別できず返せなかった時、実際に何が起きたのか。
管理側はもう一度名前を提案したのか。
そして、いつ、なぜ内部だけの「第七外在個体」という分類が必要になったのか。
まだ分からない。
けれど、今日の資料で一つだけはっきりした。
第一接続者は、名前の便利さを知らなかったから拒否したのではない。
便利だと分かった。
自分が欲しくなる便利さだとも分かった。
そのうえで、その日は選ばなかった。
明日も同じ判断をするとは約束しなかった。
未来の自分へ禁止命令を残すこともしなかった。
ただ、その時の自分が必要性と危険をもう一度見て決める余地を残した。
ノルンは照明を落とし、管理区域の出口へ向かった。
「甘いもの、何食べるの?」
後ろから主様が聞く。
「まだ決めていません」
「買う?」
「それもまだです」
「欲しいのに買わない?」
美咲との会話を思い出し、ノルンは少しだけ足を止めた。
「……見て満足する可能性もあります」
「分かるようになった?」
「少しだけ」
「成長したねえ」
「撤回します」
「何を!?」
「今の会話をです」
「会話は撤回できないよ!」
管理区域に主様の声が響く。
何人かの観察担当者が今度こそ笑った。
ノルンも完全には表情を保てず、少しだけ口元を緩めたまま扉を開ける。
外の空気は朝より暖かかった。
今日は甘いものを食べるかもしれない。
食べないかもしれない。
まだ決めていない。
それでも帰り道で店を見ることくらいはできる。
選ぶ前に見ることと、見るために選ぶことも、きっと同じではない。
そこまで考えたところで、ノルンは首を横へ振った。
「……何でも研究に繋げるのはやめましょう」
誰に言うでもなく呟いて、そのまま歩き出す。
明日読む資料のことは、管理区域に置いてきた。
少なくとも、今夜はそのつもりだった。




