第八十二話 第一接続者は事故記録を読んだあと、名前を使わないと決めたのではなく、使いたくなった時にもう一度考えると決めていました
翌朝、ノルンが管理区域へ入った時、昨日まで机の端に積まれていた最古層資料の整理票は片づけられていた。
なくなったわけではない。
第一接続者が古い呼称固定事故を閲覧した直後の面談記録。第七十九話で見つけた閲覧履歴から続く、まだ開いていない資料の候補は保存してある。
ただ、机の上に置いておく必要がなかった。
昨日は研究枠そのものを設けず、一日を終えた。
そして今日は、午後に一枠だけ入れてある。
それだけだった。
「おはよう、ノルン」
「おはようございます」
主様はすでに朝の確認を始めていた。管理区域の窓から入る朝の光はまだ柔らかく、机の上に並んだ紙面や表示板を白く照らしている。別の観察担当者たちも静かに仕事を始めており、遠くでは湯を注ぐ音と紙をめくる音が重なっていた。
「体調は?」
「問題ありません。途中で目を覚ました記憶もなく、朝食も取りました」
「僕も大丈夫。ちゃんと寝たし、食べたよ」
「確認しました」
「時間は?」
「記録されています」
「何日目?」
「それも記録されています」
「一切乗ってこなくなった」
「毎朝同じやり取りを続ける方がおかしいのです」
「でも今、同じやり取りしたよ?」
ノルンは口を閉じた。
主様が少し笑う。
「……明日からは、その質問にも答えないことを検討します」
「改善が早い」
「からかわれた部分だけです」
自分の席へ着き、通常報告を開く。
世界規模の異常なし。
観察制度上の緊急事項なし。
誤転生者九人に重大な状態変化なし。
ルーク側、自動接続なし。名称反応なし。位置相当感覚なし。身体状態にも異常なし。
最初にミレイアの記録を見る。
昨日、ミレイアは朝に「少し嫌だった」と感じたことを自分から話した。
その理由は確定していない。
前日に長く考えたからかもしれない。
今日も続きを考えなければならないような気がしたからかもしれない。
昨日の自分と今日の自分が違って見えたからかもしれない。
けれど、本人は一つへ決めなかった。
『昨日は、本当に聞いてもいいかもしれないって思った』
『今日の朝は嫌だった』
『今は分かんない』
三つとも、その時に本人が話したことだった。
そして、
『今日は決めない』
『次にいつ考えるかも決めない』
『毎日は嫌です』
そこまでが現在の意思だった。
今朝のミレイアは家族と朝食を取り、その後は昨日読み始めた本の続きを読んでいる。ルークについての発言はなく、接続についても触れていない。
ノルンは記録を最後まで確認し、そのまま閉じた。
「今日は聞かない?」
主様が尋ねる。
「昨日、毎日は嫌だと本人が明確に話しています」
「確認しました」
「私の真似をしないでください」
「確認される側の気持ちを体験してもらおうと思って」
「朝から余計な実践をしないでください」
主様が笑う。
ノルンも少しだけ息を吐き、次の記録へ移った。
ルークは昨日、自分がミレイアへ渡した回答について「ちゃんと届いたか」を知りたいと話した。
しかし、その知りたい気持ちを消さずに、今すぐミレイアへ確認する必要性とは分けた。
『知りたいけど、今聞かなくても大丈夫』
そう決めた。
今朝も、新しい確認要求はない。
担当者との朝の会話では食事の話をしている。
『昨日と同じのある?』
『あります』
『じゃあそれ』
それだけだった。
「……生活していますね」
「ルーク?」
「はい」
「待ってない?」
「待っている気持ちがあるかは分かりません。少なくとも、待つことだけをしている状態ではありません」
ノルンは、食事の後にルークが別の作業を始めた記録まで確認する。
以前なら、その一つ一つを「ミレイアから気を逸らすため」と解釈したかもしれない。
今はしない。
食べた。
話した。
作業した。
それで十分だ。
他の八人も大きな変化はない。
保留を続けている人物には再確認なし。
観察範囲について尋ねた人物にも、新しい質問なし。
記録削除を希望した人物についても、削除対象が制度資料や実例へ再利用された形跡はない。
九人それぞれの日常が続いている。
フローラの記録へ移る。
慈善行事の衣装について昨日までに情報を得ていたフローラは、今朝は衣装棚を見ていない。母親とも行事の話をしておらず、庭で読書をした後、家庭教師との勉強へ移っている。
参加意思は未決定。
王家側の出席者も、まだ正式確定の通知は出ていない。
アーノルドからの接触行動なし。
「こっちも動いてない?」
主様が言う。
「生活は動いています」
「あ、それ久しぶりに聞いた」
「必要な場面でしたので」
「お気に入り?」
「標語ではありません」
ノルンはフローラの記録も閉じた。
朝の通常確認が終わる。
午前中は制度改訂の通常作業。
午後には最古層研究。
昨日読まなかった続きを、今日は予定通り読む。
予定表を見ても、ノルンは今すぐ資料を開こうとは思わなかった。
気になっている。
昨日の時点で八。
今は。
「何してるの?」
「何もしていません」
「今、何か測ってなかった?」
「測っていません」
「第一接続者の気になり度?」
ノルンは主様を見る。
「なぜ分かるのですか」
「昨日八って言ってたから」
「今日は聞かないでください」
「毎日は嫌?」
ノルンは数秒黙った。
「……その返し方を覚えたのですね」
「勉強しました」
「使い方が間違っています」
主様は満足そうだった。
午前の仕事を始める。
制度改訂は、以前のように「正しい規則を早く完成させる」作業ではなくなっていた。
現場で起きたこと。
本人たちが困ったこと。
観察者が迷ったこと。
古い制度が失敗した理由。
うまくいったように見えて、後から問題が見つかったこと。
それらを少しずつ分けている。
セレナから昨日渡された現場意見も、その中に置かれている。
『本人が昨日言った希望を、翌日も有効として扱ってよいか迷った』
昨日は、そこから「意思は毎日無効になる」という規則を作らなかった。
今日も作らない。
ただし、現場で同じ迷いが複数回出ているなら、いつか何らかの考え方を整理する必要はある。
ノルンは別の意見へ目を通した。
『本人が「どちらでもいい」と答えた場合、同意として扱ってよいか迷う』
その次。
『拒否ではないが、積極的希望でもない回答をどう記録すべきか』
さらに。
『選択肢を説明しすぎて、本人が途中から「もう何でもいい」と言った。説明を続けるべきだったか分からない』
ノルンの指が止まる。
「……これもありますね」
近くで別資料を整理していたセレナが顔を上げた。
「何ですか?」
「選択肢を増やしすぎる問題です」
「ああ。昨日の続きですね」
「はい」
セレナが席を寄せる。
ノルンは三つの意見を見せた。
「『どちらでもいい』って難しいですよね」
「はい」
「本当にどちらでもいい場合もあるし、考えるのに疲れている場合もある」
「判断を管理側が勝手にしてはいけません」
「でも毎回『本当に?』って聞いたら、それも圧力になる」
「そうですね」
ノルンは紙面へ目を落とす。
ミレイアは昨日、「今は分からない」と言った。
それを曖昧だからと整理し直させる必要はなかった。
分からない。
決めない。
今は選ばない。
それぞれが回答になり得る。
「『どちらでもいい』を同意に変換しない、というのは?」
セレナが提案する。
「それだけでは足りないと思います」
「なぜです?」
「本当にどちらでもよく、管理側に任せたい場合があります」
「ああ」
「例えば、観察室で水を出す器が二種類あって、本人が『どちらでもいい』と言った場合まで選択不能として止める必要はありません」
「重さが違う」
「はい」
「じゃあ重大な選択だけ?」
「重大の定義を管理側が固定すると、本人にとって重いことを取りこぼす可能性があります」
「また難しくなった」
「簡単な規則にしようとするからです」
セレナが苦笑した。
「ノルンさんがそれ言うようになったんですね」
「以前の私は何でも短い規則にしようとしていましたか?」
「かなり」
「……そうですか」
「かなり」
「二回言わなくていいです」
周囲で仕事をしていた観察担当者の一人が、声を抑えて笑った。
ノルンがそちらを見ると、すぐ資料へ視線を戻される。
「聞こえています」
「すみません」
「謝るほどではありません」
管理区域の空気が少しだけ和らぐ。
制度改訂は、人の意思や安全を扱う。
重い。
だからこそ、ずっと重い顔をしていれば正しくなるわけでもない。
「現時点では、実例を増やしましょう」
ノルンが言う。
「基本規則ではなく?」
「はい。『どちらでもいい』が本当に委任を意味した例、疲労や圧力の結果だった例、選択自体が本人にとって重要ではなかった例。違うものを集めてから考えます」
「分かりました」
「ただし、本人情報の再利用範囲には注意してください」
「もちろんです」
午前中は、その整理だけで終わった。
昼食を取り、短い休憩を挟む。
ノルンはスマートフォンを確認した。
美咲から新しいメッセージはない。
昨日、自分からも送らなかった。
今朝も送っていない。
画面を開いても、特に送りたい文章は浮かばなかった。
だから閉じる。
「何も送らない?」
主様が横から言った。
「なぜ毎回見ているのですか」
「見てないよ。ノルンがスマホ持って固まってたから」
「固まっていません」
「何秒?」
「数えていません」
「送りたいことない?」
「今はありません」
「じゃあ送らない?」
「はい」
「美咲に嫌われた?」
ノルンは主様を見た。
「その推測には根拠がありません」
「即答」
「連絡が一日二日ないだけで関係悪化を推定しないでください」
「うん」
「それに、美咲との関係を観察案件のように扱わないでください」
「でもノルン、自分で分析してるよね」
「……昼休憩を終えます」
「逃げた」
「午後の予定です」
主様の笑い声を残して、ノルンは最古層研究の準備へ入った。
予定時刻。
閲覧枠は一つ。
今日は、第七十九話で残した「第一接続者が旧呼称固定事例を読んだ直後の面談記録」を優先する。
閲覧経路を開くと、古い文字列が静かに浮かび上がった。
まず時系列を再確認する。
外在個体からの再応答が始まっている。
「いる?」と「ここにいる」に相当するやり取りも確認され始めている。
管理側から正式な呼称設定提案が出る前。
第一接続者は自発的に旧呼称固定事故の閲覧を希望。
理由として、
『名前が必要になってから危険を調べるのでは、もう呼んだあとかもしれない』
『呼んでからやめればいい、で戻れるのかを先に知りたい』
『一度だけなら大丈夫、という意味も知りたい』
『一度で何も起きないのか。一度では分からないだけなのか。それは同じではない』
と述べた。
その後、関連資料を実際に閲覧している。
「今日は、その後だね」
主様が少し離れた席から言った。
「はい」
「読んだ感想残ってるかな」
「感想とは限りません。面談記録です」
「真面目」
「研究ですから」
ノルンは該当する日付を開いた。
閲覧終了から二日後。
『接続者定期面談記録』
第一接続者。
担当管理者。
目的欄には、
『旧事例閲覧後の確認』
とある。
ノルンは姿勢を整えた。
『管理者:資料閲覧後、現在の外在個体への対応方針に変更はあるか』
第一接続者の回答。
『今はない』
ノルンは瞬きをする。
予想していたより、ずっと短い。
続きを読む。
『管理者:呼称使用を避けると決定したか』
『第一接続者:決めていない』
「……決めてない?」
主様が呟いた。
ノルンは続きを追う。
『管理者:旧事例では、呼称固定後に位置相当偏向および識別構造への影響が確認されている』
『第一接続者:読んだ』
『管理者:危険を認識した上でも、使用しないとは決定しないのか』
第一接続者の返答まで、記録上でも少し間がある。
『使いたくなる時が来るかもしれない』
ノルンの指が止まった。
次。
『その時の私が、今日読んだことを知っている状態で考えればいい』
管理者。
『現在決めておく方が安全ではないか』
『第一接続者:今の私が、まだ起きていないことを全部決める方が安全なのか』
ノルンは息をゆっくり吐いた。
さらに続く。
『第一接続者:今は使う理由がない』
『だから使わない』
『でも、それを「今後も使わない」に変える理由もまだない』
主様が椅子を少し寄せた。
「昨日のミレイアみたいって言ったら怒る?」
「怒りません。ただし同じとは扱いません」
「はい」
「ですが……」
ノルンは記録を見つめる。
今の自分。
未来の自分。
第一接続者は、それを分けている。
事故記録を読んだ。
危険を知った。
だから永久禁止を自分へ課したわけではない。
今は必要がないから使わない。
もし将来、本当に使いたくなったなら、その時の自分が、危険を知った状態で改めて考える。
「第七十九話で、『その時の私が今より安全に考えられるとは限らない』とも言っていました」
「うん」
「未来の自分を信用していないのに、未来へ決定を残している」
「変?」
「一見すると」
ノルンは続きへ目を移す。
まるで、その疑問へ答えるような記録があった。
『管理者:先の面談では、将来の自分が現在より安全に判断できるとは限らないと述べている』
『第一接続者:そう思う』
『管理者:ならば現在のうちに不使用を決めるべきではないか』
第一接続者。
『今の私も、未来の私の全部を知らない』
次の行。
『怖いから今決めれば、未来の私が必要だと思った理由を、今の私が消すことになる』
ノルンはしばらく動かなかった。
古い記録の文字は淡々としている。
けれど、その中にいる第一接続者は、未来の自分を楽観しているわけではない。
危険を知っている。
自分が相手をもっと知りたくなる可能性も分かっている。
それでも、恐怖を理由に未来の選択肢を完全に閉じることも避けている。
『第一接続者:危険を知らないまま使うのは嫌だ』
『危険を知ったから一生使わないと決めるのも違う』
『必要になった時に、必要な理由と危険を一緒に見たい』
主様が小さく息を吐いた。
「この人、本当にいっぱい考えるね」
「はい」
「ノルンみたい」
「そこは否定しづらいですが、同一視はしないでください」
「しないよ」
次の記録。
『管理者:将来、呼称使用を希望した場合、再度の安全確認を希望するか』
『第一接続者:希望する』
『管理者:管理側から使用を提案された場合は』
『第一接続者:その時も考える』
『管理者:提案を受けたこと自体を、使用が望ましいとの推奨と受け取らないか』
第一接続者は、
『そうならないように理由を聞く』
と答えている。
さらに。
『管理者が便利だから勧めるのか』
『向こうの安全に必要だから勧めるのか』
『私の安全に必要だから勧めるのか』
『他の方法がないから勧めるのか』
『それで違う』
ノルンは目を細めた。
「提案の理由まで分けています」
「管理側が言ったから正しい、じゃないんだ」
「はい」
「これ、あとで管理側から呼称設定を提案された時に繋がる?」
「可能性はあります」
後に管理側は、識別安定化のため呼称設定を提案する。
第一接続者は拒否した。
『呼べば、こちらが見つけやすくなる』
『見つけやすくなれば、見つけることをやめられなくなる』
『向こうが来た時だけ分かればよい』
『こちらから探しに行けるようにする必要はない』
『見失うことと、失うことを同じにしない』
今回の面談記録を読んだ後では、その拒否が最初から決められていたものではないことが、より明確になる。
事故を読んだ。
危険を知った。
永久に使わないとは決めなかった。
その後、実際に管理側から提案が来た。
そこで、提案理由と当時の状況を見て、使わない方を選んだ。
「……順番が重要ですね」
「うん」
「後の拒否だけ見れば、『事故を知っていたから名前を拒否した』とまとめられます」
「違う?」
「少なくとも、それだけでは足りません」
第一接続者は、危険を知った直後には不使用を永久決定していない。
後の時点で、実際の提案理由を見て拒否した。
その間に何があったのか。
どの程度、外在個体との応答が増えたのか。
管理側はなぜ識別安定化を必要としたのか。
そこはまだ調べる必要がある。
ノルンは続きを読む。
面談終盤。
『管理者:旧事例閲覧によって不安は増えたか』
第一接続者。
『増えた』
『管理者:閲覧を後悔しているか』
『していない』
『管理者:理由は』
少し欠損。
それでも次の部分は読めた。
『知らないまま安心しているより、怖くても選べる方がいい』
ノルンの胸の奥に、その言葉が静かに残った。
すぐに制度原則へ変換したくなる。
情報を与えること。
危険を知ること。
本人が選ぶこと。
しかし、そこで第七十二話以降に何度も考えてきた問題も浮かぶ。
情報は、多ければ多いほどいいわけではない。
知ることで選択肢が増える場合もあれば、決断を迫られたように感じる場合もある。
第一接続者は、自分から閲覧を求めた。
そこが重要だ。
管理側が「選ぶために必要だから」と大量の事故資料を一方的に見せた事例ではない。
「これをミレイアに当てはめるのは駄目ですね」
ノルンが言った。
「何も言ってないよ?」
「自分に言いました」
「似てると思った?」
「少し」
「どこが?」
「決める前に情報を知るところです」
「でも違う?」
「第一接続者は、自分から事故記録を求めています。ミレイアも次回接続の条件やルークの言いたい言葉を自分から尋ねた部分はありますが、扱っている危険も情報量も違います」
「うん」
「それに、この一例を理由に『本人が決める前には危険情報を全部見せるべき』としたら、逆の圧力になります」
「怖い資料いっぱい見せられてから決めてって言われてもね」
「はい」
ノルンは研究メモへ書く。
『第一接続者は旧呼称固定事故閲覧直後、呼称を今後使用しないとの恒久決定を行っていない。』
『現時点では使用理由がないため使用しないとし、将来使用したくなった場合には、その時点の必要性と既知の危険を併せて再検討する方針を示した。』
『将来の自己判断を完全には信頼していない一方、現在の恐怖によって未来の自己の選択理由を事前に消すことも避けている。』
『将来の呼称使用希望時には再度安全確認を希望。管理側からの提案時にも、提案理由を確認して判断するとしている。』
最後に、
『旧事故閲覧直後の時点では、呼称恒久不使用は決定されていない。後の呼称設定拒否までの判断過程は継続調査。』
と書いた。
「時間は?」
主様が尋ねる。
ノルンが確認する。
「残り二十一分です」
「結構ある」
「あります」
「次、見られるね」
「見られます」
「見る?」
ノルンは候補資料を確認した。
面談の次に位置する記録。
外在個体の応答変化。
管理側の識別困難が増えた時期。
そして、呼称設定提案に至るまでの内部検討。
今開けば、途中まで読むことはできる。
ただ、二十一分で一まとまりを確認できる保証はない。
「今日はここまでにします」
「二十一分も余ってる」
「次は、呼称設定提案に至る管理側の理由を追いたいです。途中で切りたくありません」
「次の研究枠?」
「はい」
「気になる?」
ノルンは少し考えた。
「九です」
「戻った」
「戻りましたね」
「昨日八だったのに」
「問題ありますか?」
「ないよ」
「では終わります」
閲覧経路を閉じる。
昨日の自分が八。
今日の自分が九。
どちらも本当だった。
そのことをわざわざ制度資料へ書くつもりはない。
ただ、少しだけ可笑しかった。
研究後の休憩へ入る。
水を飲み、席を離れたところで、スマートフォンが短く震えた。
ノルンは画面を見る。
美咲だった。
『そういえば、この前撮った写真ちゃんと見返した?』
続いて。
『ノルン、撮っただけで満足してそう(笑)』
ノルンは立ったまま数秒画面を見た。
図星だった。
撮影した写真は何度か見返している。
ただ、整理もしていない。
美咲から教えてもらった機能のうち、写真をまとめる方法については「あとでやります」と言ったままだ。
「……見返しています」
思わず声に出た。
「美咲?」
主様が遠くから反応する。
「なぜ聞こえるのですか」
「静かだから」
「仕事をしてください」
「休憩中でしょ?」
「主様は?」
「僕も休憩」
ノルンは少し離れた場所へ移動した。
返信欄を開く。
『見返しています。整理はまだしていません。』
入力する。
そこで止まった。
美咲は「ちゃんと見返した?」と聞いている。
なら答えればいい。
しかし、もう一つ言いたいことが浮かんだ。
写真を見返した時、また会いたいと思った。
すでに一度、「また一緒に見に行きたい」とは伝えている。
同じことをもう一度言う必要はない。
でも、言ってはいけない理由もない。
ノルンは少し考え、文章を足した。
『見返すと、この前のことを思い出します。また一緒に出かけたいです。』
送信する。
昨日は送ることがなかった。
今日はあった。
それだけだった。
「送った?」
「送りました」
「何て?」
「言いません」
「昨日は送らなかったのに?」
「今日は送りたいことがありました」
「昨日はなかった?」
「はい」
「昨日のノルンと今日のノルン、どっちが本物?」
ノルンは主様を見た。
主様は完全に面白がっている。
「その質問には答えません」
「両方?」
「答えません」
「顔に書いてある」
「書いてありません」
休憩を終え、午後の通常業務へ戻る。
しばらくして、フローラ側から新しい記録が入った。
緊急ではない。
ノルンは手元の作業を終えてから開く。
フローラは母親と午後のお茶を取っていた。
テーブルには小さな焼き菓子と紅茶が置かれ、窓の外には庭の木々が見えている。母親は慈善行事とは別の予定について話していたが、その話が一段落した後、フローラが自分から口を開いた。
『お母様』
『なあに?』
『あの慈善行事のことなのだけれど』
母親はすぐに参加するのかとは聞かなかった。
『ええ』
『王家の方が誰か来るかは、まだ決まっていないのよね』
『正式には聞いていないわ』
『そう』
フローラはカップへ視線を落とした。
少しして、もう一度口を開く。
『決まったら、教えてもらえる?』
『もちろん』
『私が参加するって決める前でも?』
『あなたが知りたいなら』
フローラは少し考えた。
『知りたい』
『分かったわ』
そこで母親は理由を尋ねなかった。
アーノルドが来るか気になるのか。
王族が嫌なのか。
行事に参加したいのか。
どれも聞かない。
『出席者が正式に分かったら、あなたに伝えるわ』
『ありがとう』
フローラはそれだけ答え、紅茶を飲んだ。
記録はその後、別の話題へ移っている。
「フローラが、王家の出席者が決まったら知りたいと希望しています」
ノルンが言うと、主様が顔を上げた。
「参加する?」
「まだ決めていません」
「でも知りたい?」
「はい」
「アーノルドが来るか?」
「理由は本人が話していません」
「そっか」
王家側では、アーノルド以外の王族が出席する方向で調整が進んでいる。
しかし正式確定していない。
今なら、管理側が「おそらくアーノルドは来ない」と伝えることもできる。
けれど、フローラが求めたのは「正式に決まったら教えてほしい」だった。
「今は伝えません」
「ほぼ決まってるのに?」
「正式確定を希望しています」
「管理側の方が先に知ってても?」
「はい」
「安心できるかもしれないよ?」
「フローラが安心を求めているとは言っていません」
ノルンは明確に答えた。
安心させたい。
それは管理側の善意になり得る。
しかし、善意だから本人が求めた情報の時期を変えていいとは限らない。
「正式に決まった時、母親から伝わるなら、管理側からも言う?」
「重複する必要はないでしょう」
「フローラが管理側にも聞いたら?」
「その時は答えます」
「じゃあ待つ?」
ノルンは一瞬だけ考えた。
「私達が待つというより、今はすることがありません」
「似てるけど違う?」
「はい」
「最近その答え多いね」
「世の中には似ているものが多いのです」
「同じものは?」
「あります」
「例えば?」
「主様が毎日私をからかうことです」
「昨日と今日で違うから同じじゃないよ」
「そこだけ細かく分けないでください」
主様が笑う。
夕方。
ミレイアからは新しい接続関連の発言はなかった。
昨日の「毎日は嫌です」という希望どおり、エリスも質問していない。
読書を続け、夕方には庭を少し歩いている。家族との会話もあり、食事の予定も通常通りだ。
ノルンはその記録を見て、何も足さなかった。
今日、接続について話さなかった。
だから昨日の嫌悪が強まったとも言えない。
「こんにちは」を聞きたい気持ちへ戻ったとも言えない。
分からないまま一日を過ごしている。
それも生活だ。
ルーク側も同じだった。
ミレイアの回答受領状況をもう一度聞いてはいない。
自分の名前の過去についても質問なし。
名称反応も位置相当感覚もない。
ノルンは終業前の整理へ入る。
今日の最古層研究で分かったことは重要だった。
第一接続者は、事故を知った直後に「名前は危険だから二度と使わない」と決めたわけではない。
むしろ、未来の自分へ選択を残している。
危険を知らないまま選ばせるのではなく、危険を知った状態で、その時の必要性と一緒に考えさせる。
そして後になって、実際に管理側から呼称設定を提案された時には拒否している。
なら、その間に何があったのか。
次の研究対象は明確だった。
管理側は、なぜ呼称設定を必要だと考えたのか。
第一接続者は、その提案理由の何を見て拒否したのか。
事故を読んだことだけでは説明できない部分が、そこに残っている。
ノルンは研究予定へ次回候補を書き込む。
『呼称設定提案前の管理側内部検討および識別上の問題を確認。』
それ以上は書かない。
次回の研究日そのものは、既存の予定と調整して決めればいい。
その時、スマートフォンが震えた。
美咲から返信が来ている。
『ちゃんと見返してるならよし(笑)』
続いて。
『私もまた行きたい! 次はこの前買わなかったやつ、まだあったら買うかも』
さらに少し間を置いて、もう一つ。
『予定分かったらまた連絡するねー』
ノルンは画面を見つめた。
次の約束は、まだ決まっていない。
けれど、美咲は自分の予定が分かったら連絡すると言った。
前回もそうだった。
だからといって、今度も必ず会えるとは限らない。
予定が合わないかもしれない。
美咲の都合が変わるかもしれない。
自分にも仕事が入るかもしれない。
それでも、今の文章を読んだノルンの胸には、素直な嬉しさが広がった。
「返す?」
主様が聞く。
「はい」
「すぐ?」
「今、仕事は一区切りつきました」
「何て?」
「見ないでください」
「見ないよ」
ノルンは返信欄を開いた。
『分かりました。予定が分かったら教えてください。私も楽しみにしています。』
そこまで入力して、指が止まる。
「楽しみにしています」。
以前なら、その言葉が相手への圧力にならないか、長く考えた。
今も、場合によってはなると思っている。
第一接続者が十三年間待ったことを相手へ伝えなかった理由も忘れていない。
保留中の人物が「待ってるって言われたら困る」と話したことも忘れていない。
けれど、美咲とは違う。
互いにまた出かけたいと話している。
美咲自身が、予定が分かったら連絡すると言っている。
ノルンが「楽しみ」と伝えることで、美咲へ初めて義務を作る状況ではない。
それでも。
今日は少し言い方を変えたくなった。
ノルンは最後の一文を消す。
『分かりました。予定が分かったら教えてください。また一緒に見に行けたら嬉しいです。』
読み返す。
送信した。
「三分かかった?」
「かかっていません」
「一分?」
「数えていません」
「前より早い?」
「おそらく」
「成長したねえ」
「その言い方は以前からやめてほしいと言っています」
「変化したねえ」
「それも同じです」
主様が笑う。
ノルンはスマートフォンをしまい、自分用のメモ帳を取り出した。
今日は書きたいことがある。
けれど、第一接続者のことではない。
制度のことでもない。
『昨日は美咲へ送りたいことがなかった。』
まず書く。
『今日はあった。』
その下。
『どちらの日も、美咲にまた会いたいと思っていた。』
少し考え、もう一行。
『気持ちが同じでも、毎日の行動は同じでなくていい。』
書いたところで、ノルンは眉を寄せた。
これは少し規則のように見える。
「……違いますね」
最後の一行へ線を引く。
代わりに書いた。
『今日は写真を見返した話をしたくなった。』
それで十分だった。
メモ帳を閉じる。
今日読んだ第一接続者の記録は、未来の選択を現在から奪わない話だった。
フローラは、参加を決める前に正式な出席者を知りたいと自分から言った。
ミレイアは昨日とは違う気持ちのまま、今日は接続について話さずに一日を過ごした。
美咲とは、まだ次の日を決めていない。
並べれば何か大きな答えが作れそうだった。
けれど、ノルンは作らなかった。
第一接続者の記録は第一接続者のもの。
フローラの選択はフローラのもの。
ミレイアの今日もミレイアのもの。
そして、美咲と交わしたメッセージは、自分の生活のものだ。
全部を制度へ持ち帰らなくてもいい。
ノルンは机を片づけ、管理区域を出る準備をする。
その途中で、午後に読んだ第一接続者の一文がもう一度だけ頭へ浮かんだ。
『危険を知らないまま使うのは嫌だ』
『危険を知ったから一生使わないと決めるのも違う』
『必要になった時に、必要な理由と危険を一緒に見たい』
まだ答えではない。
けれど、次に調べるべき場所は見えた。
管理側は、何を必要だと思ったのか。
なぜ名前が必要だと考えたのか。
そして、その提案を受けた第一接続者は、何を見て「使わない」と決めたのか。
それを知るのは次の研究枠でいい。
ノルンは照明を一つ落とし、出口へ向かった。
「帰る?」
主様が聞く。
「はい」
「古い資料、気になる?」
「九です」
「帰れる?」
「帰ります」
「強い」
「それはもう聞きました」
「じゃあ、えらい」
「子供扱いしないでください」
「じゃあ何て言えばいい?」
ノルンは少し考えた。
「何も言わなくていいです」
「それ、寂しくない?」
「……たまになら、褒めても構いません」
主様が目を丸くした。
言ってから、ノルン自身も少しだけ気まずくなった。
「今の記録する?」
「しないでください」
「制度資料?」
「絶対にしないでください」
「美咲に送る?」
「送りません」
「ルークに?」
「なぜルークへ共有するのですか」
主様の笑い声が管理区域へ広がる。
ノルンは少し頬を熱くしながら出口へ歩いた。
今日は、昨日と同じではなかった。
明日も、今日と同じである必要はない。
それでも、昨日考えたことも、今日選んだことも、それぞれその時には本物だった。
今はそれを一つの規則にしなくても、ノルンには十分だった。




