第八十一話 昨日は聞いてもいいと思ったのに、今日も同じ気持ちでいなければならない理由はありませんでした
翌朝、ノルンは目を覚ましてから、しばらく天井を見ていた。
窓の外はすでに明るく、薄い朝の光がカーテンの隙間から細く差し込んでいる。遠くから聞こえる生活の音はいつもと変わらず、何か重大な異常が起きている気配もない。身体を起こす前に一度だけ深く息を吸うと、眠りから覚めたばかりの身体へ冷たい空気が静かに入ってきた。
昨日、ミレイアは一つ進んだ。
『もう一度こんにちは、なら聞いてもいいかもしれない』
そう感じた。
前回と同じ程度の短い接続なら、聞ける気がするとも話した。想像した時の怖さは四程度で、それまで「次の接続」という一つの大きな塊に見えていたものを、少しずつ分けて考えられるようになっている。
けれど、ノルンはそのことを思い出したあと、頭の中で今日の予定へ書き込もうとはしなかった。
今日、もう一度確認する。
今日、接続を決める話をする。
今日、ルークへ伝える。
そのどれも、まだ決まっていない。
「……昨日は、昨日ですね」
小さく呟いて身体を起こす。
睡眠時間を確認し、体調にも問題がないことを確かめる。顔を洗い、身支度を整えて朝食を取ったあと、スマートフォンへ手を伸ばした。
美咲から新しいメッセージは来ていなかった。
ノルンは画面を眺め、昨日までの短いやり取りを少しだけ遡る。
『今度また一緒に見に行こー』
『はい。また一緒に見に行きたいです。』
それで会話は止まっている。
以前なら、「次はいつにするのか」「こちらから候補日を出した方がいいのか」「会話がここで終わっていて問題ないのか」と考え始めていたかもしれない。けれど、今朝はその文章を読み返しても、不思議なくらい焦りがなかった。
また行きたい。
美咲も、また行こうと言った。
今は、それで足りる。
日付が決まっていないから、昨日の気持ちが無効になるわけではない。
「……これも、同じではありませんね」
ミレイアのことが頭に浮かび、ノルンは自分で訂正した。
似た部分を見つけることはできる。
けれど、美咲との次の外出と、ミレイアとルークの接続では、関係も危険性も選択の重さもまるで違う。自分の私生活で得た感覚を、そのまま観察対象へ当てはめるべきではない。
スマートフォンを閉じ、ノルンは管理区域へ向かった。
「おはよう、ノルン」
「おはようございます」
主様はすでに席についていた。机の上には朝の報告が並んでいるものの、慌ただしい様子はなく、いつもの穏やかな空気が管理区域に流れている。
ノルンは席へ向かう前に、まず互いの体調を確認した。
「睡眠、体調ともに問題ありません。朝食も取りました」
「僕も大丈夫。ちゃんと寝たし、朝ご飯も食べたよ」
「確認しました」
「今日は時間聞かないの?」
「必要な記録には残っています」
「連続日数も?」
「残っています」
「言わない?」
「言いません」
主様が少し残念そうな顔をした。
「最近そこ、淡泊になったね」
「健康確認は娯楽ではありません」
「前はノルンの方が数字にこだわってたのに」
「だから変えたのです」
「自分で言った」
「事実です」
軽いやり取りを終え、ノルンは席へ座った。
昨日の終業後から今朝までの通常報告を開く。
世界規模の異常なし。
観察制度上の緊急事項なし。
誤転生者九人に重大な状態変化なし。
ルーク側、自動接続なし。名称反応なし。位置相当感覚なし。身体状態にも問題なし。
そこまで確認してから、ノルンはミレイアの記録を開いた。
今朝のミレイアは、家族と朝食を取っている。
母親と季節の花について話し、父親から届いた手紙へ目を通し、その後は使用人と一緒に衣類の整理をする予定を立てていた。ルークについての発言はなく、昨日受け取った回答について自発的に触れた記録もない。
次回接続。
「こんにちは」。
怖さ四。
そのどれも、今朝の会話には出ていない。
「ミレイアは?」
主様が尋ねた。
「普通に朝を過ごしています」
「昨日の話は?」
「今朝は出ていません」
「聞かない?」
「聞きません」
ノルンは迷わず答えた。
主様が頬杖をつく。
「昨日、かなり進んだように見えたけど」
「そう見えることと、今日も同じ気持ちであることは別です」
「でも昨日は『聞いてもいいかもしれない』って思ったんだよね」
「はい」
「じゃあ、今日聞けば?」
「何をですか?」
「今日もそう思ってるか」
ノルンは一度だけ記録へ目を落とした。
以前なら、その確認は丁寧な運用だと思ったかもしれない。
昨日の意思を今日も確認する。
変化していないかを見る。
本人の最新状態を把握する。
管理としてはもっともらしい。
しかし、その問いを毎朝置いたらどうなるだろう。
昨日「聞いてもいいかもしれない」と言った人が、今日も同じか尋ねられる。
明日も。
明後日も。
そうすれば、いつか本人は「まだ決めていません」と答え続けること自体に疲れるかもしれない。あるいは、自分が昨日言ったことを守らなければならないように感じる可能性もある。
「聞く必要が生じた時に聞きます」
「今はない?」
「ありません。ミレイアは昨日、自分の意思で『今日はここまで』に相当するところまで考えています。今日の彼女が続きを求めている情報はありません」
「昨日の気持ち、変わってるかもしれないよ?」
「変わっていても構いません」
ノルンが答えると、主様の目が少し細くなった。
「それ、結構大事そう」
「……そうかもしれません」
「書く?」
「まだ書きません」
「最近、すぐ書かなくなったね」
「何でも規則候補へ変換しない練習中です」
「練習なんだ」
「はい」
ノルンはミレイアの記録を閉じる。
昨日は聞いてもいいと思った。
今日も同じである必要はない。
今日少し怖くなっていてもいい。
昨日より聞きたくなっていてもいい。
何も考えていなくてもいい。
本人が昨日出した言葉は、その瞬間の本人の意思として尊重される。
しかし、それを管理側が「現在も有効な約束」へ変えてしまえば、尊重とは違うものになる。
次にルークの記録を開く。
昨夜は特に質問を残していない。
昨日、ミレイアへの回答を出したあとも状態は安定しており、食事を取り、外を歩き、休息を取っている。観察担当者との会話では別の話題をしており、ミレイアから返答が来たかを確認することもなかった。
「ルーク、聞かなかったんだ」
主様が画面を覗かない距離から言う。
「何をですか?」
「ミレイアの返事」
「はい」
「我慢してる?」
「分かりません」
「気になってない?」
「それも分かりません」
「聞けば?」
「聞きません」
「今日は全部聞かないね」
「観察は尋問ではありません」
「知ってるよ」
主様は笑っている。
ノルンはルークの昨夜の行動記録へ目を戻した。
外を歩いていた。
途中で何度か空を見上げ、立ち止まった。
それだけ。
以前の記録なら、「返答を待つ不安から気を紛らわせている可能性」などと書かれていたかもしれない。現在の担当者は、歩いた距離と時間、身体状態、観察できた動作だけを記録している。
なぜ歩いたのか。
空を見て何を思ったのか。
本人が言っていない以上、分からない。
それでいい。
「ルークには、ミレイアが昨日回答を受け取ったことも伝えていません」
「受け取ったことだけなら言える?」
「ミレイアから共有許可はありません」
「回答を聞いたって事実も?」
「はい」
「ルークが答えた質問なのに?」
ノルンは少し考えた。
「ルークには、自分の回答が管理側へ渡ったことまでは分かっています。その先でミレイアがいつ受け取るか、受け取った後どうしたかは、ミレイア側の情報です」
「なるほど」
「質問した側だから、その後を自動的に知る権利が発生するとは限りません」
「ミレイアが『聞いたよ』って伝えたかったら?」
「その時は共有できます」
「ルークが聞いてきたら?」
「その時点で、何を答えられるか確認します」
「先に決めない?」
「決めません」
主様が少し笑った。
「今日のノルン、保留が多い」
「保留は悪い状態ではありません」
「知ってる」
「でしたら笑わないでください」
「保留できるようになったノルンが面白くて」
「褒めているように聞こえません」
「褒めてるよ」
朝の確認は続いた。
以前から会う意思を保留している人物は、今日も状態に変化なし。「しばらくこのままでいい」という希望はそのままで、再確認の必要はない。
観察範囲について尋ねた人物からも、新しい質問は出ていない。
記録削除を希望した人物については、削除後の情報が別資料へ再利用されていないことを確認した。
他の人物たちも、それぞれの日常を送っている。
ノルンは九人分を見終えたところで、フローラの記録へ移った。
昨日、フローラは母親へ慈善行事へ参加する場合の衣服について尋ねていた。
参加すると決めたわけではない。
ただ、参加するなら何を着ることになるのかを知った。
今朝は、その続きが少しだけあった。
朝食後、侍女が衣装棚の整理をしているところへフローラが顔を出している。行事用の衣装を出してほしいとは言わず、母親が昨日候補として挙げた二着を眺めただけだった。
『こちらなら、外でも動きやすいでしょうか』
『はい、お嬢様。庭へ出られる時間が長くても、こちらの方が裾を気にせず歩けるかと』
『そう』
フローラは布へ触れ、それ以上の指示は出さなかった。
侍女も「では準備しておきます」と先回りしない。
衣装はそのまま棚へ戻された。
「参加しそう?」
主様が聞く。
「分かりません」
「服まで見たのに?」
「参加する場合の情報を増やしているだけかもしれません」
「昨日のミレイアみたい?」
ノルンは少しだけ眉を寄せた。
「似た形に見えますが、同じとは扱いません」
「はい」
「フローラは公的な慈善行事への参加を考えています。ミレイアはルークとの安全管理下の接続を考えています。判断対象も、危険性も、人間関係も違います」
「でも決める前に情報を知ってる」
「そこだけなら共通しています」
「書かない?」
「書きません」
「徹底してる」
王家側の出席調整も確認する。
アーノルド以外の王族が出席する方向は維持されているが、正式決定には至っていない。最終確認が必要な項目が残っており、今日中に確定する保証もない。
アーノルド自身からフローラへの接触行動はない。
直接訪問。
面会要求。
使者。
贈り物。
共通知人を介した働きかけ。
どれもない。
ノルンは確認だけして閉じた。
フローラへ「王太子は今日も何もしていません」と逐一報告する必要もない。
本人が尋ねた時には、必要な範囲で事実を答えた。
それを毎日届け始めれば、「接触しないこと」そのものが二人の間の新しい連絡手段になりかねない。
午前の通常業務へ移る頃、セレナが管理区域へやってきた。
今日は資料を大量に抱えていない。
薄い紙束が一つだけだった。
「おはようございます」
「おはようございます、セレナ」
「昨日の続きではないものを持ってきました」
「先に言うのですね」
「最近、私が資料を持ってくるとノルンさんが少し警戒するので」
「警戒していません」
「目が資料の厚さを確認しています」
ノルンは反射的に紙束へ視線を落とし、少し黙った。
「……内容は何ですか」
「話題を変えましたね」
「内容をお願いします」
セレナは小さく笑い、紙束を机へ置いた。
観察制度改訂のために集めている現場意見だった。
基本規則の文章そのものではなく、観察担当者が最近困ったこと、判断に迷ったこと、既存の記録形式では扱いづらかったことを短く集めたものだという。
「匿名化されています」
「本人の事例は?」
「個人が特定できる内容は外しています。削除希望が出た件も使っていません」
「分かりました」
ノルンは最初の数枚を見る。
『本人が昨日言った希望を、翌日も有効として扱ってよいか迷った』
目が止まった。
「……ちょうど今朝考えたことがあります」
「何ですか?」
ノルンはミレイアの具体的な内容を出さず、構造だけを話した。
「昨日、ある選択肢について『考えてもいいかもしれない』と話した人がいます。今日はその話題を出していません」
「昨日の意思を今日も有効と見るか?」
「はい」
「ノルンさんは?」
「今日は確認しませんでした」
「理由は?」
「昨日の発言は、未来の意思を固定するものではないからです。ただし……」
ノルンは言葉を選ぶ。
「すべての同意を毎回最初から取り直すべきだ、と言いたいわけでもありません」
「そうですね」
セレナが椅子を引き、ノルンの向かいへ座った。
「例えば、『明日もこの薬を飲みます』とか、『来週この場所へ行きます』とか、継続を含む意思もあります」
「はい。契約や予定もあります」
「だから『意思は毎日無効になる』では駄目」
「そのように思います」
「では何で分けますか?」
ノルンはすぐに答えなかった。
管理区域では別の観察担当者たちが静かに作業している。紙をめくる音や遠くの報告音が聞こえ、窓の外から入る光が机の端を白く照らしていた。
「本人が、どこまでの時間を含めて意思表示したか」
「まずそれですね」
「それから、後から変更できることが明確か」
「うん」
「変更しなかったことを、継続同意として扱ってよい性質か」
「そこが難しい」
「はい」
セレナが一枚の紙へ簡単な線を引く。
「例えば、『今日は話したくない』は?」
「今日だけです」
「『しばらく聞かないで』は?」
「期間が曖昧です。ただし、管理側が勝手に七日や一か月へ変換するべきではありません」
「以前ありましたね」
「はい」
「『また考えてもいいかもしれない』は?」
「未来の決定ではありません」
「じゃあ翌日確認しない?」
「必要性がなければ」
「本人が忘れてたら?」
ノルンは一瞬考えた。
「忘れることが問題になる内容なら、確認する理由になります」
「問題にならないなら?」
「管理側が覚えていればいい、とは限りません」
自分で言いながら、第七十四話の記録削除の問題が頭に浮かぶ。
管理側が覚えていること。
本人が忘れていること。
記録が残っていること。
それらも同じではない。
「難しいですね」
セレナが笑った。
「はい」
「前なら基本規則を三つくらい作ってません?」
「作っていたかもしれません」
「今は?」
「今日は作りません」
「じゃあこの意見は?」
「理由資料へ残します」
「保留?」
「保留です」
「主様が喜びそう」
「なぜ皆さん、私が保留すると喜ぶのですか」
少し離れたところから主様の声が飛んできた。
「珍しいから」
「聞いていたのですか」
「聞こえた」
「仕事をしてください」
「してるよ」
セレナが笑いをこらえている。
ノルンは一度咳払いし、紙束へ視線を戻した。
その時だった。
別の観察担当者から、ミレイアについて通常報告の更新が入った。
緊急ではない。
ノルンは通知だけを確認し、すぐには開かなかった。
セレナとの話を途中で切る必要はない。
「続けましょう」
「いいんですか?」
「緊急ではありません」
以前なら通知が来た瞬間に開いていた。
今は、今している会話を終えてからでもいいと判断できる。
セレナとの整理を終え、資料を理由資料群へ回すことを決めた後、ノルンはようやくミレイアの記録を開いた。
時刻は昼前。
ミレイアは衣類の整理を終え、母親と昼食前のお茶を飲んでいた。
ルークの話ではない。
次回接続の話でもない。
母親が最近読み始めた本の話をしており、ミレイアはその内容を聞きながら焼き菓子を一つ取った。途中で笑い、次に自分も借りたいと話している。
その後、自室へ戻る途中。
廊下でエリスと二人になった時だった。
『エリスさん』
『はい』
ミレイアは歩く速度を少し落とした。
『昨日のことなんですけど』
エリスは急かさない。
『はい』
『昨日は……「こんにちは」なら聞いてもいいかもしれないって思いました』
『はい』
ミレイアはそこで足を止めた。
廊下の窓から昼前の光が入り、床へ長い四角形を作っている。少し先では使用人が花瓶を運んでいたが、二人の会話が聞こえるほど近くはない。
ミレイアは窓の外を見た。
『今日、朝起きた時は……ちょっと嫌でした』
ノルンの視線が止まる。
けれど、胸の中に落胆はなかった。
むしろ、続きを慎重に読む。
『何が嫌だったのでしょう』
エリスは「接続が嫌になったのですか」とは聞かなかった。
ミレイアは少し考える。
『分かりません』
『分からない』
『昨日、あんなに考えたからかもしれないし……今日も考えなきゃいけない気がしたからかもしれない』
指先がスカートの布を軽くつまむ。
『朝、目が覚めて、昨日のこと思い出して』
そこで少し間が空いた。
『「今日はどうする?」って聞かれる気がしたんです』
ノルンの手が静かに止まった。
エリスは実際には聞いていない。
ノルンも今朝、聞かないと決めた。
それでもミレイアは、聞かれるかもしれないと考えた。
『嫌でしたか?』
『……少し』
『今、私からは尋ねていません』
『うん』
『今後も、毎日確認する予定はありません』
ミレイアがエリスを見る。
『本当に?』
『はい。必要がある時や、ミレイア様ご自身が話したい時には扱います。ただ、昨日「聞いてもいいかもしれない」と言ったからといって、今日も同じ気持ちかを確認するためだけに毎日尋ねることはしません』
ミレイアの肩が、目に見えて少し下がった。
記録にもそう書かれている。
安心した、と断定されてはいない。
『……よかった』
本人がそう言った。
『私、昨日言ったから、今日やっぱり嫌って思ったら駄目なのかなって』
『駄目ではありません』
『昨日の私が嘘になる?』
『なりません』
ミレイアは黙った。
窓の外で風が動き、庭木の葉が光を反している。遠くから鳥の声が一度聞こえ、その短い音が消えるまで、エリスは何も足さなかった。
『昨日は、本当に聞いてもいいかもしれないって思ったんです』
『はい』
『今日の朝は嫌だった』
『はい』
『今は……』
ミレイアは自分の胸元へ手を置くような仕草をして、少し困った顔をした。
『分かんないです』
『それで構いません』
『三つとも本当?』
『その時の気持ちとしては、どれもミレイア様が話したことです』
『じゃあ、どれが本当の私なの?』
エリスはすぐに答えなかった。
それは管理側が決める質問ではない。
『今、一つに決める必要がありますか?』
ミレイアは少し驚いた顔をした。
『……ない?』
『私からは必要だと思っていません』
『昨日聞きたかった私と、今日嫌だった私が、両方いても?』
『はい』
ミレイアはしばらく黙った。
やがて、窓から離れ、廊下を再び歩き始める。
エリスも隣を歩く。
『じゃあ、今日は決めない』
『分かりました』
『次にいつ考えるかも決めない』
『はい』
『聞かないでって言うほど嫌じゃないけど……毎日は嫌です』
『分かりました』
そこでエリスが確認した。
『その希望は記録してよいですか?』
ミレイアは少し考えた。
『毎日は聞かないで、は残してください』
『はい』
『今日の朝、嫌だったのも……』
少し迷う。
『残していいです』
『理由が分からないことも?』
『うん。分からないままで』
『分かりました』
『でもルークには言わないで』
『共有しません』
『昨日の「聞いてもいいかもしれない」も、まだ言わないで』
『はい』
ミレイアは自室の扉の前で足を止めた。
手を伸ばして取っ手へ触れたあと、すぐには開けなかった。
『エリスさん』
『はい』
『昨日の私が、今日の私に怒らないならいいな』
エリスは、その言葉をすぐに意味づけなかった。
『その言葉は記録しますか?』
ミレイアは目を丸くしたあと、小さく笑った。
『しないでください』
『分かりました』
扉が開く。
そこで記録は終わっていた。
ノルンはしばらく画面から目を離さなかった。
「何かあった?」
主様が気づいた。
「ミレイアが、自分から昨日のことを話しました」
「接続する?」
「決めていません」
「やっぱり?」
「今朝は、少し嫌だったそうです」
主様が少し驚いた顔をする。
「昨日は聞いてもいいって」
「昨日は、です」
「……ああ」
主様はすぐに続けなかった。
ノルンは共有可能な管理情報の範囲で説明する。
「昨日の気持ちが嘘になったわけではありません。今朝嫌だと感じたことも、現在は分からないことも、本人はそれぞれ話しています」
「じゃあ後退?」
ノルンはその言葉を聞いて、少し考えた。
「私は、そう記録しません」
「どうして?」
「接続へ近づくことを前進、離れることを後退と決めれば、管理側が望む方向を作ることになります」
「そっか」
「ミレイアの目的が、ルークと接続することだと決まっているわけではありません」
「うん」
「昨日より接続への気持ちが弱くなった可能性はあります。しかし、それを『後退』と評価する必要はありません」
主様がゆっくり頷く。
「じゃあ今日は?」
「決めません」
「明日は?」
「決めていません」
「いつ聞く?」
「必要になった時です」
「ミレイアから来るかもしれない?」
「はい。こちらから一段手前の問いを置く必要が生じることもあるでしょう。ただ、毎日の確認は望んでいないと明確に出ました」
「なら聞かない」
「はい」
ノルンは記録へ追記する。
『次回接続に関する意思状態:未決定。前日の「もう一度こんにちはを聞いてもいいかもしれない」との感覚は撤回されたとは扱わない。本日朝は接続を考えることへ一時的な嫌悪感あり。現在は本人自身も判断不能。』
続けて。
『本人希望:次回接続について毎日確認しない。次に考える時期を現時点で設定しない。』
さらに。
『前日・当日朝・現在の感覚を、いずれか一つが真の意思で他が誤りであるとは扱わない。』
そこまで書き、ノルンはペンを止めた。
基本規則へは移さない。
理由資料にも、今すぐは移さない。
これはまず、ミレイア自身の記録だ。
午後になっても、ミレイアから新しい報告はなかった。
昼食を取り、午後は母親から借りた本を読み始めている。ページをめくる速度は一定で、途中で一度飲み物を頼み、その後も読書を続けた。
ルークについて話していない。
接続について考えていないかどうかは分からない。
考えているかもしれない。
考えていないかもしれない。
管理側が確かめる必要はない。
ノルンも午後の通常業務へ戻った。
最古層研究の予定表を見る。
今日は研究枠を設定していない。
第一接続者が教育資料を閲覧した直後の面談記録は気になっている。第七十九話で十二分を残して閉じた続きだ。
知りたい度は、今も高い。
しかし今日は開かない。
研究枠がないから。
「ノルン」
主様が呼ぶ。
「はい」
「今日、古いの読まないの?」
「読みません」
「ミレイアのことあったから?」
「違います。最初から研究枠を入れていません」
「気にならない?」
「気になります」
「どれくらい?」
「八です」
「一個下がった」
「昨日よりは」
「なんで?」
「分かりません」
「分かんないんだ」
「気持ちを毎日同じ数値に維持する必要はないでしょう」
言ってから、ノルンは少し止まった。
主様も同じところへ気づいたらしい。
「ミレイアみたい?」
「同じにしません」
「早い」
「ですが……」
ノルンは自分の言葉を振り返る。
「昨日九だった興味が、今日八でも問題ありません」
「うん」
「明日十になっても、六になっても、それだけで昨日が間違いだったことにはなりません」
「うん」
「だから何ですか」
「僕何も言ってないよ」
「顔が言っています」
「ノルン、最近自分で気づくね」
「……仕事へ戻ります」
主様の笑い声を背中に聞きながら、ノルンは資料を閉じた。
夕方近く。
ルーク側から通常会話の希望が入った。
ミレイアへの接続要求ではない。
管理側へ一つ質問したいという。
状態は安定。
ノルンは通常の確認経路を開いた。
「ルーク」
『ノルン』
ルークは落ち着いた様子だった。
「質問があると聞きました」
『うん』
「体調は?」
『大丈夫。怖さ一』
「名称反応は?」
『ない』
「位置みたいなのもない。近い感じもない」
「分かりました。質問は?」
ルークは少しだけ視線を逸らした。
『昨日の答え、ちゃんと届いた?』
ノルンはすぐには答えなかった。
ここは区別が必要だ。
「あなたの回答が管理側へ正常に送られたことは確認しています」
『ミレイアには?』
「その先について、共有許可はありません」
ルークの表情がわずかに曇る。
『そっか』
「ミレイアがいつ受け取るか、受け取ったか、受け取って何を感じたかは、ミレイア側の情報です」
『うん』
「あなたは、その情報が必要ですか?」
ルークは考えた。
『……知りたい』
「はい」
『でも、必要かって言われたら……分かんない』
「では、知りたいことは確認できました」
『聞いちゃ駄目?』
「駄目とは言っていません。あなたが質問したことを、ミレイア側へ伝えてよいかという問題もあります」
『あ』
「『回答が届いたか知りたい』とあなたが思っていること自体を、ミレイアが受け取れば、返事を求められているように感じる可能性があります」
ルークの眉が下がる。
『……そうだね』
「だからといって、あなたが知りたいと思うことが悪いわけでもありません」
『うん』
「どうしますか?」
ルークは長く考えた。
以前なら、ここで「じゃあ聞かない」と自分の希望をすぐ引っ込めていたかもしれない。
けれど今日は、少し違った。
『知りたいは残す』
「はい」
『でも今は、ミレイアに聞かない』
「理由は?」
『昨日の質問だけで、いっぱい考えたかもしれないから』
「それは推測です」
『あ』
「ミレイアがいっぱい考えたかどうか、あなたは知りません」
『うん……』
「推測を理由にしてはいけない、という意味ではありません。ただ、事実として扱わないでください」
ルークは頷いた。
『じゃあ、僕が今すぐ知らなくても困らないから』
「はい」
『知りたいけど、今聞かなくても大丈夫』
「分かりました」
『これならいい?』
「私が良い悪いを決めることではありませんが、あなたの意思として記録できます」
『褒めない?』
「そこへ戻りますか」
『今日まだ褒めてもらってない』
「毎日必要なのですか?」
『毎日じゃなくてもいいけど、あると嬉しい』
「では一つだけ」
『一個?』
「知りたいという気持ちを消さずに、今尋ねる必要性と分けられました」
ルークが少し笑った。
『二個目は?』
「一つだけと言いました」
『ノルン、美咲から返事来た?』
「話題を変えて追加点を狙わないでください」
『ばれた』
「それに、美咲とのやり取りは採点項目ではありません」
『でも気になる』
「昨日は返事をしました」
『また会う?』
「また一緒に出かけたいとは話しています」
『いつ?』
「決まっていません」
ルークは少し驚いた。
『決めてないの?』
「はい」
『でもまた行きたいって言った?』
「言いました」
『美咲も?』
「はい」
ルークはしばらく考える。
『それ、待ってる?』
ノルンは問い返す。
「何をでしょう」
『次に会う日』
「いいえ」
『でも会いたいんだよね』
「はい」
『じゃあ……』
ルークは少し困ったように眉を寄せた。
『会いたいけど、日を待ってない?』
「現時点では、次の日程が提示される予定も約束もありませんから」
『でも、また行くかもしれない』
「はい」
『なくなるかもしれない?』
「そうですね。都合が合わず、しばらく会わない可能性もあります」
『それ嫌じゃない?』
ノルンは考えた。
「少し残念だと思うかもしれません」
『でも今決めない?』
「今、決める必要がありません」
ルークは黙った。
その沈黙は長かったが、ノルンは埋めなかった。
『……僕、まだ難しい』
「何がですか?」
『会いたいって思ったら、次いつって考えちゃう』
「それ自体は問題ではありません」
『でも、決まらないと待ってる感じになる』
「あなたの場合、ミレイアとの接続には本人の意思確認と安全条件があります。私と美咲の外出とは同じではありません」
『うん』
「ですから、私のやり方をそのまま真似する必要はありません」
『分かってる』
ルークは一度息を吐いた。
『でも、会いたいがあるのに、次を決めないまま普通にしてていいっていうのは……ちょっと分かったかも』
「それはあなた自身の理解として持っていてください」
『ミレイアに言わない』
「はい」
『これ褒める?』
「二個目にします」
『やった』
その素直な喜びに、ノルンはわずかに笑った。
ルークとの通常会話を終えたあと、管理区域には夕方の静かな空気が戻った。
窓の外では光が少しずつ傾き、机の上に伸びる影も長くなっている。今日一日、重大な異常はなかった。
ミレイアは接続を決めなかった。
むしろ朝には、少し嫌だと思った。
それでも昨日の「聞いてもいいかもしれない」が嘘になったわけではない。
ルークは自分の回答が届いたか知りたいと思った。
けれど、その気持ちを消さずに、今すぐ確認しないことを選んだ。
フローラは慈善行事の衣服を見た。
参加はまだ決めていない。
ノルンは最古層研究をしなかった。
興味は残っている。
美咲との次の予定も決まっていない。
それでも、また会いたい気持ちはある。
並べれば似ている。
けれど、やはり一つではない。
ノルンは終業前の記録を整理しながら、制度用のメモ帳には手を伸ばさなかった。
代わりに、自分用の小さなメモ帳を取り出す。
昨日は、
『また一緒に見に行きたいと言えた。』
『次がいつか決まっていなくても、困らなかった。』
と書いた。
今日は何を書くか。
しばらく考えてから、ノルンは一行目を書いた。
『今日は、美咲から連絡が来なかった。』
そこでペンを止める。
以前なら、その後へ何か説明を足していたかもしれない。
でも今日は、もう一行だけ書いた。
『私からも送らなかった。』
さらに少し考える。
『それでも、また会いたい。』
三行を読み返す。
規則ではない。
制度の理由資料でもない。
誰かへ適用するための実例でもない。
ただ今日の自分について書いただけだった。
「何書いたの?」
主様の声がした。
ノルンはすぐメモ帳を閉じる。
「見せません」
「仕事?」
「違います」
「じゃあ余計見たい」
「駄目です」
「美咲?」
「答えません」
「当たり?」
「答えません」
主様が楽しそうに笑う。
ノルンはメモ帳をしまい、机の上を片づけた。
管理区域を出る前、最後に一度だけミレイアの状態を確認する。
読書を終え、夕食前の時間を家族と過ごしている。
新しい意思表示なし。
接続についての話題なし。
状態安定。
それだけ見て、閉じる。
今日のミレイアへ、昨日の続きを要求しない。
明日のミレイアへ、今日の気持ちを約束させない。
それは、何も進めないことではなかった。
昨日の本人を否定せず、今日の本人も縛らないために、管理側が余白を残している。
けれどノルンは、その考えを制度用の紙へ書かなかった。
今はまだ、ミレイアの一日として残せばいい。
管理区域を出る。
部屋へ戻る途中、ポケットの中でスマートフォンの重さを感じた。
美咲へ何か送りたいことがあるか考えてみる。
今日は、特にない。
だから送らない。
それでいい。
部屋へ戻り、机の上へスマートフォンを置く。少しして画面が光ったが、通知ではなく、持ち上げた拍子に画面が点いただけだった。
「……紛らわしいですね」
誰もいない部屋で呟いて、少し笑う。
昨日の気持ちを今日も証明しなくていい。
今日の気持ちを明日まで守らなくてもいい。
それでも、その時に感じたことまで消えるわけではない。
ノルンは灯りをつけ、自分の夜を始めた。




