第八十話 『もう一度こんにちは』なら聞いてみたいと思っただけで、次に会う約束まで決める必要はありませんでした
美咲への返信を送ってから、ノルンはスマートフォンを机の端へ置いた。
『はい。また一緒に見に行きたいです。』
送ったのは、それだけだった。
いつ行くのかは決めていない。どこへ行くのかも、前回と同じ場所なのか、別の場所なのかさえ分からない。それでも送信した直後、何かを決め忘れているような落ち着かなさはなかった。
美咲が「今度また一緒に見に行こー」と言った。
自分も、また行きたいと思った。
だからそう返した。
予定表へ書き込める情報は一つも増えていないのに、それで十分だった。
「……不思議ですね」
ノルンが小さく呟くと、少し離れた席で資料を確認していた主様が顔を上げた。
「何が?」
「何も決まっていないのに、困りません」
「普通は困らないと思うよ」
「私も最近、それを理解し始めました」
「最近なんだ」
「笑わないでください」
「笑ってないよ」
口元は笑っていた。
ノルンはそれ以上追及せず、机へ向き直った。
午後の管理区域には、午前中より少し柔らかな光が入っている。窓の外では雲がゆっくり流れ、遠くの管理区画を行き来する職員たちの姿が時折見えた。紙をめくる音や端末の通知音が途切れ途切れに響いているが、緊急対応を知らせる鋭い警告音はない。
穏やかな時間だった。
けれど、ノルンの手元には一つ、まだ終わっていないやり取りが残っている。
ミレイアからルークへ出された質問。
『次に短く声を届ける機会があるとしたら、「ごめん」以外に何を言いたいと思っているか。』
それに対するルークの回答は、すでにエリスへ送ってある。
ただし、まだミレイアへ渡されたとは限らない。
質問したからといって、回答が届いた瞬間に聞かなければならないわけではない。エリスはまず、今その答えを受け取りたいかを本人へ確認することになっていた。
ノルンは更新通知が来ていないことを確認すると、別の通常業務へ戻った。
待つ。
けれど、待つことだけを仕事にはしない。
ルークへそう言ったばかりなのだから、自分も同じでいい。
観察記録を二件確認し、制度改訂用の資料へ一つ修正を入れる。少し前にセレナと話した、記録削除と安全情報の境界についても、今日の時点では結論を出さず「検討継続」のまま残した。
十分ほど経った頃だった。
端末の隅に、新しい通常報告が表示された。
送信者はエリス。
ノルンは開きかけて、一度だけ手を止めた。
「来た?」
主様が聞く。
「なぜ分かるのですか」
「ノルンの手が止まったから」
「……ミレイアの担当者からです」
「見る?」
「もちろん確認します」
それは管理上必要な記録だ。
ただ、ノルンは以前のように、答えが来たというだけで胸の内側を急かされることはなかった。
画面を開く。
最初に書かれていたのは、回答内容ではない。
『本人へ、質問に対する回答が届いていることのみ通知。現在受領するか確認』
エリスはルークの答えを先に見せていなかった。
ミレイアは刺繍を一度机へ置き、水を飲んでから、しばらく考えたという。
『今、聞いても大丈夫です』
そう答えた。
エリスはさらに確認している。
『途中で聞くのをやめたくなった場合は止められます。回答の一部だけを聞くこともできます』
ミレイアは、その説明を聞いて少し困ったように笑ったらしい。
『そんなに長いんですか?』
『いくつかあります』
『……いっぱい考えたんだ』
そこでエリスは、ルークがどの程度悩んだのかを説明していない。
質問を受けて嬉しがったことも。
恐怖が三へ上がったことも。
何度も言葉を選び直したことも。
それらは共有許可されていない。
『聞きます』
ミレイアはそう言った。
エリスは最初の回答から伝えた。
『ルークは、「元気?」と聞きたいそうです。ただし、返事を求める言葉になる可能性があるため、実際に言うかどうかは分からない、と答えています』
ミレイアはすぐには何も言わなかった。
机の上へ置いた刺繍布の端に指を置き、少しだけ撫でた。
『……元気って』
小さく口にしてから、眉を寄せる。
『聞きたいんだ』
『はい』
『でも、聞かないかもしれない』
『そのように答えています』
ミレイアは視線を落とした。
『前だったら、絶対聞いてきそうだったのに』
それは、ルークへ共有してよい言葉として言われたものではない。
エリスも反応を急がない。
『次も聞きますか?』
『はい』
次。
『「生きていてくれてよかった」と言いたい。ただし、その言葉をミレイア様へ背負わせたくないので、実際に言ってよいか分からないそうです』
今度は、ミレイアの指が止まった。
記録には、そこから十二秒ほど返答がなかったとある。
ノルンは画面を読む速度を少し落とした。
『……それは』
ミレイアが言いかけて、やめる。
もう一度息を吸ってから、椅子の背へ少し身体を預けた。
『なんか、嫌です』
ノルンの視線が止まる。
けれど、エリスはその言葉を否定しない。
『何が嫌なのか、今話しますか?』
『……少し』
ミレイアは自分の手を見ながら、ゆっくり続けた。
『生きててよかったって、私が言ってほしかったわけじゃないから』
『はい』
『私が生きてるのは、ルークにそう思ってもらうためじゃないし』
『はい』
『だから、言われたら……たぶん、ちょっと嫌』
そこで一度言葉が止まる。
『でも』
ミレイアの指先が、刺繍布の縁を軽くつまんだ。
『言いたいって思うことまで嫌って言うのも、違う気がする』
ノルンは小さく息を吐いた。
言ってほしくないかもしれない。
けれど、思うことまで禁止したいわけではない。
それもまた、別だった。
『ルークも、言っていいか分からないって思ってるんですよね』
『はい』
『じゃあ……今は、それでいいです』
エリスが確認する。
『この反応をルークへ伝えますか?』
ミレイアは少し考えた。
『まだ、伝えないでください』
『分かりました』
『嫌って言ったところだけ伝わるのも嫌だし』
『はい』
『でも、じゃあ言っていいってことでもないから』
『分かりました』
そこまでで、二つ目の回答は止まった。
『続けますか?』
『……はい』
三つ目。
『最初の接続で「こんにちは」を聞いてくれたことについて、ありがとうと言いたいそうです。ただし、それもミレイア様が自分で決めたことを、ルークのためにしたことのようにしたくないので、言い方は決めていないとのことです』
ミレイアは今度も黙った。
しかし、先ほどとは少し違った。
眉間に寄っていた力が緩み、視線が刺繍布から窓へ移っている。
『……ありがとう』
自分でその言葉を口にする。
『それも、言いたいんだ』
『はい』
『でも、私が聞いたのは、私が聞こうと思ったからです』
『はい』
『ルークのためじゃない』
『その点を、ルークも気にしていました』
ミレイアは小さく頷いた。
『なら……』
そこで止まる。
『まだ分かんないです』
『何がでしょう』
『言われてもいいか』
『はい』
『嫌ではない気もする。でも、今決めなくていいですよね』
『もちろんです』
ミレイアの肩から少し力が抜けた。
『じゃあ、それも今は決めません』
『分かりました』
そして、最後。
エリスが一度間を置いている。
『もう一つあります』
『はい』
『ルークは、「もう一度こんにちはと言いたいかもしれない」と答えています』
記録は、そこで少し長く空いていた。
十五秒。
ミレイアは何も言わなかった。
ただ、窓の方を向いていた。
午後の光が薄いカーテンを通り、刺繍布の上へ柔らかく落ちている。外からは庭の木々が揺れる音がわずかに聞こえ、遠くで使用人たちが何かを運んでいる声もしたという。
日常の中だった。
接続室ではない。
ルークの声も聞こえていない。
ただ、彼がもう一度言いたいと思っている言葉を聞いただけだった。
『……こんにちは』
ミレイアが小さく呟いた。
エリスは返事をしない。
『前と同じですね』
『はい』
『前は、それだけだった』
『はい』
ミレイアはしばらく窓の外を見ていた。
『ごめんじゃないんだ』
『その言葉も、ルークは今も言いたいと思っています』
『うん。それは知ってます』
ミレイアは首を横へ振る。
『そうじゃなくて』
少し考え、言葉を探す。
『次に声を聞けるなら、最初からごめんって言うんじゃなくて、またこんにちはって言いたいんだなって』
『はい』
もう一度、沈黙。
『……それなら』
ミレイアの指先が、膝の上でゆっくり重なった。
『それなら、聞いてもいいかもしれない』
ノルンの呼吸がわずかに止まった。
けれど、記録はそこで終わっていない。
エリスもすぐに「では接続しますか」とは聞いていない。
『「もう一度こんにちは」を聞くことについて、でしょうか』
『はい』
『次回接続そのものを決める、という意味ですか?』
ミレイアは少し驚いたようにエリスを見た。
そして、すぐには答えなかった。
『……違う、かな』
『はい』
『今、聞いてもいいかもしれないって思っただけ』
そこで自分の言葉を確かめるように、ゆっくり続ける。
『明日もそう思うかは、まだ分からないです』
『分かりました』
『でも』
ミレイアは一度だけ唇を湿らせた。
『前みたいに、声を聞くこと全部が怖い感じではないです』
エリスは静かに聞いている。
『「こんにちは」なら、前に一回聞けたから』
『はい』
『もう一回も、同じように終われるなら……』
そこで声が少し小さくなった。
『たぶん、聞ける気がします』
ノルンは画面から目を離さなかった。
前回。
最初の接続。
ルークは「こんにちは」と一言だけ届けた。
ミレイアはそれを聞いた。
泣いた。
怒りもあった。
安堵もあった。
現実だった。
それでも接続は安全に終わり、彼女は自分の生活へ戻った。
その経験が、今のミレイアにとって一つの足場になっている。
未知の五分間ではない。
謝罪を受け取らなければならない場でもない。
返事をしなければならない会話でもない。
前に聞いた一言を、もう一度聞く。
それなら。
そう考えられるところまで来た。
『怖さを数字にすると、今はいくつでしょう』
エリスが尋ねる。
ミレイアは少し考えた。
『四くらい』
『「こんにちは」をもう一度聞くことを想像した場合ですか?』
『はい』
『「ごめん」を聞く場合とは別ですか?』
『別です』
『分かりました』
以前、「ごめん」を想像した時には六まで上がった。
その後三へ下がった。
今日の四は、それと単純比較する数字ではない。
対象も状況も違う。
『この内容を記録してもいいですか?』
『はい』
『ルークへ共有しますか?』
ミレイアはすぐに答えなかった。
ここで長い沈黙がある。
ノルンは続きを急がず読む。
『……まだ、しないでください』
『分かりました』
『聞いてもいいかもしれないって思っただけだから』
『はい』
『ルークがそれ知ったら』
ミレイアの視線が少し下がる。
『期待するかもしれない』
エリスは否定しない。
『その可能性はあります』
『期待するなって言うのも違うんですよね』
『感情そのものを禁止する必要はありません』
『うん』
『ただ、ミレイア様がその期待を受け取らなければならないわけでもありません』
ミレイアはゆっくり頷いた。
『じゃあ、まだ言わない』
『分かりました』
『私が本当に聞くって決めたら、その時は言っていいです』
そこでエリスが確認した。
『今の発言を、「接続を決めた場合は、その決定をルークへ伝えてよい」という事前許可として記録しますか?』
ミレイアは少し考え、首を横へ振った。
『それも、その時もう一回聞いてください』
『分かりました』
ノルンの口元が、ごくわずかに緩んだ。
未来の自分の選択まで、今の自分が決めない。
それも一つの選び方だった。
記録の最後。
正式に残すことをミレイアが許可した内容は、限定されていた。
『「もう一度こんにちは」を聞くことについて、現在は「聞いてもいいかもしれない」と感じている。』
『想像時の怖さは現在四程度。』
『前回と同程度の短い接続であれば、聞ける気がすると本人は表現。』
『ただし、次回接続への同意・要求ではない。』
『ルークへの共有は現時点で希望しない。』
『将来接続を決めた場合の共有許可についても、現時点では事前決定せず、その時に再確認を希望。』
ノルンは最後まで読み終えた。
「……どうだった?」
主様が、今度は近づかずに尋ねた。
ノルンはすぐには答えなかった。
画面を一度閉じ、椅子へ背を預ける。
「ミレイアは、『もう一度こんにちは』を聞くことについて、聞いてもいいかもしれないと感じています」
主様の目が少し大きくなる。
「じゃあ二回目?」
「まだです」
ノルンは静かに答えた。
「接続同意ではありません」
「うん」
「ルークへも共有しません」
「ミレイアが?」
「はい。まだ、です」
「そっか」
主様はそれ以上喜ばなかった。
以前なら「進んだね」と言っていたかもしれない。
今は、少し考えてから椅子へ座り直した。
「でも、ノルンは嬉しい?」
その問いに、ノルンは少しだけ困った。
「……嬉しい、とは少し違う気がします」
「じゃあ?」
「安心……も違います」
「うん」
ノルンは窓の外を見る。
雲の切れ間から差した光が、遠くの屋根を淡く照らしていた。
「ミレイアが、自分で分けて考えられるようになっていることは、良かったと思います」
「声を聞くか、ごめんを聞くか?」
「それだけではありません」
今日だけでも、いくつもあった。
ルークが言いたいこと。
実際に言ってよいこと。
ミレイアが聞いてもいいと思うこと。
実際に接続すると決めること。
今の気持ち。
明日の気持ち。
管理記録へ残すこと。
ルークへ共有すること。
将来の共有を今のうちに許可すること。
「一つ動いたら全部動かさなければならない、という状態ではなくなっています」
「うん」
「それが、良かったです」
主様が頷いた。
「じゃあ、今日はルークに何も言わない?」
「言いません」
「ルークは返事待ってるかな」
ノルンは少し考えた。
昨日、ルーク自身が言った。
『じゃあ、返事を待つじゃない』
そして最終的には、ノルンが伝えることを待つのでもなく、生活することを選んだ。
「期待している可能性はあります」
「確認する?」
「しません」
「なんで?」
「確認したところで、ミレイアへ伝えられる情報ではありません。それに、ルークが期待しているかどうかを毎回確認すること自体が、期待を管理対象として固定する可能性があります」
「そっか」
「次に通常確認する機会があれば、必要な範囲で状態は見ます。ただし、『返事を待っていますか』とは聞きません」
「うん」
ノルンはミレイアの記録を閉じた。
その日の仕事は、まだ少し残っている。
けれど、すぐに第一接続者の資料へ戻ろうとは思わなかった。
午前中の研究枠で、十分に大きな情報を得ている。
第一接続者は、名前を使った後に危険を知るのでは遅いかもしれないと考えた。
だから、使う前に調べた。
一度なら安全なのか。
一度では変化が見えないだけなのか。
やめれば戻れるのか。
未来の自分が、今より相手を知りたくなった時にも安全に判断できるのか。
今日のミレイアとは立場も状況も違う。
それでも、決める前に知るという一点では似ている。
ただし、その似ている部分を理由に、古い事例をミレイアへ持ち込む必要はない。
彼女は彼女の速度で考えている。
それで十分だった。
夕方近くになり、ノルンは残っていた通常記録を確認した。
フローラ。
新しい質問なし。
慈善行事への参加についても、まだ決めていない。
ただ、母親と行事用の衣服について少し話している記録があった。
参加すると決めたからではない。
もし参加するなら、どの程度の装いになるのかを尋ねただけ。
母親も「出るのね」とは言わず、必要な範囲だけ答えている。
ノルンはその記録を見て、少しだけ頬を緩めた。
ここにも、決める前に知る人がいる。
だからといって、第一接続者と同じ事例にはしない。
アーノルド側も確認する。
慈善行事について、新しい動きがあった。
王家内部で出席者候補の調整が進み、アーノルドではない別の王族が出席する方向でほぼ固まりつつある。ただし、まだ最終確定ではない。
アーノルド本人からフローラへの接触はない。
共通の知人を使った連絡もない。
ノルンはそこで記録を閉じた。
フローラへ今すぐ知らせる必要はない。
正式決定ではない。
本人も今日、出席者について尋ねていない。
情報があるから渡す、ではない。
必要になった時に使えるよう、管理側で保持しておく。
次に、他の八人。
大きな変化なし。
保留を続けている人物は、そのまま。
観察範囲を尋ねた人物から新しい質問なし。
削除希望を出した人物について、削除した情報が別資料へ流用された形跡なし。
誰も、ミレイアが少しずつルークとの次回接続を考え始めていることを知らない。
知らせる必要もない。
一人が進んだから、他の八人も考える時期になったわけではない。
九人は九人であって、一つの案件ではない。
ノルンは最後にルークの通常状態を確認した。
安定。
恐怖二。
名称反応なし。
位置相当感覚なし。
自動接続なし。
ミレイアへの追加質問なし。
そして日常記録の一部に、
『昼食後、しばらく外を歩く』
とあった。
それだけだった。
ノルンは少し長くその一文を見る。
「生活していますね」
「誰が?」
「ルークです」
「何してるの?」
「歩いています」
「それだけ?」
「それだけです」
「いいじゃん」
「はい」
昨日、何をすればいいのかと尋ねたルークへ、ノルンは生活してくださいと答えた。
その結果として散歩したのかは分からない。
本人に聞いていない。
ただ、今日は歩いた。
それだけでいい。
管理区域の窓の外では、日が傾き始めていた。
仕事を終える時刻が近づいている。
ノルンは今日の管理記録を保存し、制度改訂用の資料には手を伸ばさなかった。
「今日は書かないの?」
主様が聞く。
「何をですか?」
「基本規則候補」
「書きません」
「第一接続者も、ミレイアも、フローラも似た感じだったのに?」
「だからこそです」
「どういうこと?」
ノルンは少し考えた。
「三人とも、決める前に情報を知ろうとしているようには見えます」
「うん」
「ですが、第一接続者は技術的に戻せない可能性を調べています。ミレイアは次回接続で何を聞くことになるのかを知ろうとしています。フローラは行事へ参加する場合の条件を知ろうとしているだけです」
「全部違う?」
「はい」
「でも共通するものもある?」
「あるかもしれません」
「じゃあ書けば?」
「まだ書きません」
主様が笑う。
「強い」
「またそれですか」
「だって前のノルンなら、『本人が決定前に必要情報へアクセスできるようにする』とか書きそう」
ノルンは黙った。
かなり書きそうだった。
「……候補としては間違っていないかもしれません」
「ほら」
「ですが、今書くと今日の三件を同じ構造だと扱い始める可能性があります」
「なるほど」
「必要になった時に思い出せれば十分です」
「記録しないの?」
「今日の個別記録には残っています」
「制度のメモには?」
「残しません」
主様は少し意外そうだった。
「忘れたら?」
「忘れたなら、その程度だった可能性もあります」
「それ、ノルンが言うんだ」
「最近、忘れる余地も必要だと学びました」
自分で言ってから、少し不思議だった。
以前なら、忘れないために記録した。
取りこぼさないために分類した。
後で使えるように残した。
それが管理だと思っていた。
今も、必要な記録は残す。
けれど、思いついたすべてを制度の材料へ変える必要はない。
誰かの一言を、すぐ未来の規則へ加工する必要もない。
「今日は終わりにします」
「最古層の続きは?」
「次回です」
「気になる度は?」
「八です」
「一個下がった」
「ミレイアの報告が入りましたから」
「気になるものが増えただけじゃない?」
「……否定できません」
主様が笑う。
ノルンは端末を閉じ、机の上を整えた。
その時、スマートフォンが震えた。
美咲からだった。
『じゃあ今度は買うかどうか見届けてもらおうかな(笑)』
続けて、
『でも次見た時もういらなくなってるかも』
ノルンは画面を見つめる。
欲しいと思ったものを、後から欲しくなくなる。
今会いたいと思った相手に、明日も同じ強さで会いたいとは限らない。
今聞いてもいいと思った言葉を、実際に聞く時には違う気持ちになるかもしれない。
第一接続者が恐れたのは、一度始めたあとに戻れないことだった。
けれど、日常には、戻るどころか自然に変わっていく気持ちもある。
ノルンは返信欄を開いた。
『その時まだ欲しかったら、ですね。』
少し考える。
それだけでは固い気がした。
昨日、美咲から教わったからというわけではない。
ただ、もう少し自分が思ったことを足してみたかった。
『その時まだ欲しかったら、ですね。欲しくなくなっていても、それはそれで面白そうです。』
送る。
数秒後、自分で読み返して、少しだけ笑った。
「何?」
主様が聞く。
「何でもありません」
「美咲?」
「はい」
「楽しそう」
「……はい」
今度は否定しなかった。
主様も、それ以上は聞かなかった。
ノルンはスマートフォンを鞄へ入れ、立ち上がる。
今日、第二回接続は決まらなかった。
第一接続者とルークの関係も分からなかった。
フローラが慈善行事へ参加するかも決まらなかった。
制度改訂の基本規則も増えなかった。
それでも、何もなかった日ではない。
ミレイアは、ルークの答えを自分で受け取ることを選んだ。
嫌かもしれない言葉には、嫌かもしれないと言えた。
まだ決めたくない言葉には、決めないと言えた。
そして、「もう一度こんにちは」なら聞いてもいいかもしれないと、自分の中に生まれた気持ちを認めた。
その気持ちをルークへ渡さないことも、自分で選んだ。
明日変わるかもしれないから。
それでよかった。
管理区域を出る直前、ノルンは一度だけ振り返った。
机の上には、閉じた端末と整理済みの資料が残っている。
明日になれば、また何か変わるかもしれない。
変わらないかもしれない。
今夜のうちに誰かが別のことを考えるかもしれないし、何も考えず眠るかもしれない。
それを先回りして決めておく必要はない。
「ノルン、帰らないの?」
廊下から主様の声がした。
「今行きます」
ノルンは部屋の明かりを落とし、扉を閉めた。
自室へ戻った後も、ミレイアの記録について新しいメモを書くことはしなかった。
代わりに、机の隅に置いていた自分用の小さなメモ帳を開く。
白いページを前にして、しばらく考える。
仕事ではないこと。
今日、自分が残したいこと。
美咲から来たメッセージをそのまま写す必要はない。
日時も、制度上の意味もいらない。
ノルンはペンを持ち、短く書いた。
『また一緒に見に行きたいと言えた。』
その下に少しだけ間を空ける。
『次がいつか決まっていなくても、困らなかった。』
そこでペンを置いた。
昨日は何も書かなかった。
今日は二行だけ書いた。
どちらが正しいわけでもない。
残したい日は残す。
残したくない日は残さない。
ページを閉じようとした時、スマートフォンがもう一度震えた。
美咲から短い返信が届いていた。
『それな(笑) じゃあ次会った時の私に任せる!』
ノルンは思わず小さく笑った。
次会った時の私。
未来の美咲が、その時決める。
今日の美咲が、未来の自分のために全部決めておかない。
「……それでいいんですね」
今度の呟きには、確認を求める響きはほとんどなかった。
ノルンは返信を急がず、スマートフォンを机へ置いた。
窓の外には、すっかり夜が降りている。
明日になったら、ミレイアが「やっぱりまだ聞きたくない」と思うかもしれない。
あるいは、「こんにちはなら聞きたい」と、もう一歩進むかもしれない。
ルークも、今日とは違う言葉を言いたいと思うかもしれない。
フローラも、慈善行事へ行きたいと思うかもしれないし、行かないと決めるかもしれない。
第一接続者が過去に何を考えたのかも、次の資料を読めば今とは違って見える可能性がある。
だから、今日の気持ちを明日の義務にしない。
今日の記録を、明日の答えにしない。
それでも、今日ここまで考えたことまで無かったことにする必要はない。
ノルンは灯りを少し落とした。
机の上には、仕事用の資料ではなく、自分のためのメモ帳とスマートフォンが残っている。
それを見てから、今夜はもう管理区域へ戻らないと決めた。
明日のことは、明日の自分が考えればいい。
少なくとも今夜のノルンには、そう思えるだけの余白があった。




