第七十九話 第一接続者が古い事故記録を読みたがった理由は、名前を付けたいからではなく、付けたあとに戻れなくなるのが怖かったからでした
翌朝、ノルンが目を覚ました時、最初に意識へ浮かんだのは第一接続者の記録ではなかった。
薄く目を開き、まだ静かな部屋の中で一度だけ瞬きをする。眠気の残る視界の端には机があり、その上ではなく、昨夜自分で決めた場所に小さなメモ帳が置かれていた。
昨日の夜、結局そこへ新しい文章は書かなかった。
書くことがなかったわけではない。
フローラが王太子の現在の行動について尋ねたこと。第一接続者が、管理側から呼称設定を提案されるより前に旧呼称固定事例の閲覧を自分から希望していたこと。主様と交わした会話。
いくらでも書こうと思えば書けた。
けれど、どれも仕事の話だった。
自分用のメモ帳だから仕事を書いてはいけない、という規則もない。ただ、昨夜のノルンは書きたいと思わなかった。
だから書かなかった。
「……それで問題ありませんね」
誰に確認するでもなく呟き、身体を起こす。
睡眠時間を確認する。
七時間四十八分。
途中で目を覚ました記憶はなく、身体の重さもない。昨日まで少し残っていた足の疲労も、今朝はほとんど気にならなかった。
身支度を整え、朝食を取る。
スマートフォンも確認した。
美咲から新しいメッセージはない。
ノルンは画面を数秒見て、そのまま閉じた。
昨日までは、何も来ていないことにも意味を探そうとしていた。
忙しいのか。
こちらから送った方がいいのか。
昨日会ったばかりだから連絡しない方がいいのか。
けれど今朝は、そこまで考えなかった。
送りたいことができたら送る。
美咲も同じだ。
それだけ確認して、スマートフォンを置く。
管理区域へ向かうと、主様はすでに朝の確認を始めていた。
「おはようございます」
「おはよう、ノルン」
主様が顔を上げる。
「今日は七時間四十八分です。中途覚醒なし。体調問題ありません」
「僕は七時間五十三分。途中で起きてない。朝ご飯も食べたよ」
「確認しました」
「何日目か聞かないの?」
「聞きません」
「即答だ」
「連続して十分な睡眠を取れていることは記録されています。今日の睡眠状態を確認できれば、朝の確認としては足ります」
「成長したねえ」
「その言い方は昨日やめてほしいと言いました」
「じゃあ変化したねえ」
「ほとんど同じです」
主様が笑う。
ノルンも自分の席へ向かった。
昨日の終業後から今朝までに届いた報告を、通常の順番で確認する。
緊急事項なし。
世界規模の異常なし。
誤転生者九人に重大な状態変化なし。
ルーク側にも、自動接続や名称反応、位置相当感覚の異常なし。
その表示を見てから、ノルンはミレイアの記録を開いた。
昨日は大きな変化がなかった。
今朝も同様だった。
朝食を取り、家族と短く会話し、その後は自分の予定へ戻っている。ルークについて自発的に話した記録はなく、次回接続についても新しい希望は出していない。
以前のノルンなら、「変化なし」と一行で処理していたかもしれない。
今は、日常生活が継続していること自体を確認する。
ミレイアはルークについて考えるためだけに生きているわけではない。
昨日も。
今日も。
彼女自身の一日がある。
「ミレイアは?」
主様が尋ねる。
「安定しています。新しい意思表示はありません」
「次の接続の話は?」
「していません」
「聞かない?」
「今日は、現時点では聞く理由がありません」
ノルンは記録を閉じる。
第七十五話の時点で、ミレイアは「もう一度声を聞くことについて、考えてもいいかもしれない」と言った。
しかし、その日に実際に考えることは選ばなかった。
それは、次回に必ず考えるという予約ではない。
数日経ったから確認する、という種類のものでもない。
本人の状態に変化があれば、その時に一段手前の問いを置く余地はある。
今朝は、その変化がない。
だから聞かない。
次にルーク。
状態は安定。
ミレイアへの接続要求なし。
名称接続反応なし。
位置相当感覚なし。
自分の名前の過去について、新しい質問もしていない。
ただ、一つだけ短い記録があった。
『昨夜、ノルンが友人と会えたかを質問』
ノルンの手が止まる。
「……私ですか?」
「何?」
「ルークが、昨日私について聞いています」
記録を開く。
観察担当者との日常的な確認の中で、ルークが尋ねたらしい。
『ノルン、友達と会えた?』
担当者は、ノルンが予定通り外出しており、緊急連絡が発生していないことだけを答えた。
会話内容や場所、美咲の情報は共有していない。
ルークはそれ以上尋ねず、
『そっか。よかった』
とだけ言った。
その後、自分から話題を変えた。
「ルーク、気にしてたんだ」
主様が少し嬉しそうに言う。
「そのようですね」
「教える?」
「何をですか?」
「楽しかったって」
ノルンは少し考えた。
ルークは自分の友人について質問した。
それは、管理上の必要情報ではない。
ノルンの私生活に関する質問だ。
自分が答えたいかどうかで決めていい。
「……次に話す機会があれば、楽しかったと伝えても構いません」
「今すぐ伝えない?」
「そのためだけに接続する必要はありません」
「なるほど」
「それに、ルークは返事を求めて質問を残したわけでもありません」
昨夜の時点で、担当者から「予定通り外出できている」と聞き、それで話を終えている。
ならば、今すぐ追加回答を届けなければならない理由はない。
「でも嬉しい?」
「少し」
「それはルークに言う?」
「……考えます」
「秘密?」
「何でも秘密に分類しないでください」
主様が笑う。
ノルンは他の八人の記録も確認した。
以前から保留を続けている人物は、引き続き保留。
「しばらくこのままでいい」という意思に変更なし。
観察範囲について尋ねた人物からも、新しい質問はない。
記録削除を希望した人物については、削除後の再利用もなく、追加の懸念も出ていない。
他の人物たちも、それぞれの生活を続けている。
九人全員を「ルークへ会うかどうか」という一本の軸で並べれば、動きが少なく見える。
しかし、それぞれの生活として見れば違う。
仕事をした人。
家族と食事をした人。
一人で出かけた人。
休んだ人。
何かを買った人。
誰かと笑った人。
それらを全部ルークへ知らせる必要はない。
ルークが「九人がそれぞれ生活している」と知っていれば、それで足りる。
ノルンは一通り確認し終えた。
「フローラは?」
主様が尋ねる。
「今から確認します」
昨日、フローラはアーノルドが本当に自分へ会おうとしていないのか尋ねた。
確認できた行動上の事実だけを伝えた。
直接訪問なし。
面会要求なし。
私的な使者なし。
贈り物なし。
返事の催促なし。
共通知人を介した説得なし。
それを聞いたフローラは、
『……本当に、してないんだ』
と呟き、
『分かった。ありがとう』
で話を終えている。
今朝の記録を開く。
フローラはいつも通り朝食を取り、母親と次の慈善行事に関する話をしていた。
以前、参加するかどうかをまだ決めなくてもいいと言われた行事だ。
王族が参加する可能性もある。
ただし、正式な出席者はまだ確定していない。
今朝も、フローラは参加すると決めていない。
アーノルドについて新しい質問もしていない。
「何も聞いてない?」
「はい」
「昨日あんな質問したのに」
「質問したからといって、翌日も続きを聞かなければならないわけではありません」
「そうだね」
「観察担当者も、昨日の感情を確認していません」
「安心したのかとか?」
「はい。聞いていません」
「いいの?」
ノルンは少しだけ記録へ視線を落とした。
「今のところは」
フローラが自分から話すかもしれない。
話さないかもしれない。
慈善行事への参加を考える時に、昨日得た情報が影響するかもしれない。
しないかもしれない。
管理側が「昨日の質問は重要だった」と決めて、翌朝から追跡する必要はない。
「昨日の答えを聞いた後、何を感じたか知りたい気持ちはあります」
「ノルンが?」
「はい」
「どれくらい?」
「……六くらいです」
「結構ある」
「ですが、行動の必要性は二です」
「分けたね」
「ルークが以前やっていましたから」
知りたい。
だから調べる。
とは限らない。
感情の強さと行動の必要性は別に考えられる。
「じゃあ今日は聞かない?」
「少なくとも、こちらからは聞きません」
フローラの記録を閉じる。
朝の通常確認は終わった。
ノルンは予定を確認する。
午前中は観察制度の通常整理。
午後に、最古層研究の一枠を取ってある。
昨日残した続き。
第一接続者が、旧呼称固定事例の閲覧を自分から希望した理由。
それを確認する。
昨日の時点で、時系列は分かった。
十三年後の再応答が始まった後。
「いる?」と「ここにいる」に相当する短いやり取りが現れ始めた後。
しかし、管理側が外在個体への呼称設定を提案する前。
その時期に、第一接続者は自分から過去の名称固定事故の閲覧を求めていた。
理由部分は欠損していた。
関連記録を追えば、残っている可能性がある。
「午前中から調べないの?」
主様が聞く。
「午後の研究枠で調べます」
「気になってるのに?」
「九です」
「昨日から下がってない」
「下がっていません」
「じゃあ今見ればいいじゃん」
「予定を変更するほどの緊急性はありません」
「強い」
「何がですか」
「気になるのに置いとけるようになった」
ノルンは一瞬だけ反論しようとして、やめた。
確かに以前なら、答えがすぐそこにあると分かれば、通常業務の合間にも続きを探していたかもしれない。
「……続きを読む時間が決まっているからです」
「うん」
「永遠に読まないわけではありません」
「うん」
「午後に読みます」
「はいはい」
主様は楽しそうだった。
ノルンは少しだけ眉を寄せ、それから午前の仕事へ戻った。
昼前まで、特に大きな問題は起こらなかった。
観察担当者から届いた記録の形式を確認し、不要に本人の感情を推定している箇所がないかを見る。
以前なら「不安そうだった」「安心した様子」と簡単に書かれていた部分も、最近は少しずつ変わっている。
視線が下がった。
返答まで十秒ほど間があった。
肩の力が抜けた。
声量が小さくなった。
観察できたものと、そこから考えられることが分かれている。
完全ではない。
しかし、制度改訂を正式に終えていなくても、現場で考え方が少しずつ変わっていることは分かった。
昼食前、セレナが資料を持ってきた。
「ノルンさん、少しいいですか?」
「はい」
セレナが差し出したのは、観察記録の補助項目に関する試案だった。
削除希望が出た場合の扱い。
記録しない範囲。
共有しない範囲。
安全上保持しなければならない場合の説明。
ただし、まだ基本規則ではない。
「昨日までの事例を、そのまま入れたわけではありません」
セレナが先に言った。
ノルンは資料へ目を落とす。
確かに、具体的な人物や発言は書かれていない。
「削除を希望された本人の事例は?」
「使用していません。あの件から考えられる構造だけを分けています」
「本人が話した内容も?」
「入れていません」
「『削除を求めた人物がいた』という形でも?」
「実例欄には入れていません」
ノルンは頷いた。
「ありがとうございます」
「ただ、一つ困っています」
「何でしょう」
「安全情報との境界です」
セレナは別の箇所を指した。
「例えば、本人が『記録しないで』と言った内容が、その時点では安全情報ではない。でも後から重大な危険との関連が分かった場合、過去の内容を参照していいのか」
「……難しいですね」
「全部消していれば参照できません。でも、管理側が『後で必要になるかもしれない』を理由に何でも残せば、削除希望がほとんど意味を持たなくなります」
ノルンは資料を見つめた。
すぐには答えない。
「現時点で一つの規則にはしない方がいいと思います」
「私もそう思います」
「危険の種類もあります。本人だけに関係するものか、他者や世界へ重大な影響を与えるものか。予測可能性があったか。本人へ説明する時間があるか」
「はい」
「それに、削除ではなく閲覧制限という方法もあるかもしれません」
「完全削除とは分ける?」
「候補としてです」
セレナが頷く。
「本人が選べるように?」
「それも、選択肢を増やせば良いとは限りません」
「ああ……」
「『削除』『封印』『通常利用不可』『共有不可』『安全時のみ参照可能』と五つも並べたら、本人に管理制度の設計をさせることになります」
「確かに」
セレナが苦笑する。
「最近、選択肢を分ける話が増えたので、分ければ分けるほど丁寧なのかと思いそうになりますね」
「私もです」
「でも違う?」
「分けることで本人が選びやすくなる場合もあれば、選択肢が多すぎて負担になる場合もあります」
ミレイアの次回接続は、分けることが役に立った。
もう一度声を聞く。
謝罪を聞く。
自分から話す。
名前を使う。
それらが全部一つだと思っていたからこそ、分けることで「声を聞くことだけなら考えてもいいかもしれない」という余地が生まれた。
しかし、何でも細分化すればいいわけではない。
「基本規則にするなら、選択肢の数を増やすことではなく、本人が一つの同意で複数のことへ同意した扱いにならないようにする、くらいでしょうか」
セレナが言う。
ノルンは少し考えた。
「候補として残してください。ただし、まだ基本規則にはしません」
「分かりました」
「実例も、今は作らないでください」
「はい」
セレナは資料を閉じかけた。
その時、ノルンはふと一つ思い出した。
第一接続者。
名称。
管理上の識別。
呼称固定。
そしてセレナという名前。
ルークが一度だけ示した、説明のつかない反応。
『セレナ?』
目の前にいるセレナへ、その話をまだしていない。
ノルンは一瞬だけ彼女を見る。
「どうしました?」
「……いえ」
「何かありますか?」
今聞くべきか。
セレナ自身の過去と関係する可能性がある。
しかし、現時点では「セレナ」という音へルークが反応したというだけ。
古い記録には「――レ/――ラ/――ナ」と判読不能な音列がある。
それを結びつける根拠はない。
今話せば、セレナ自身が過去との関係を考え始める可能性がある。
それは必要か。
緊急性は。
ない。
「今はありません」
ノルンは答えた。
隠すことと、今は共有しないことは同じではない。
必要になれば、その時に扱えばいい。
「分かりました」
セレナは無理に聞かなかった。
資料を持って戻っていく。
ノルンはその背中を見送り、心の中だけで確認する。
セレナへ話す必要性。
現在は未確定。
保留。
期限は設定しない。
午後。
予定していた研究枠の時刻になった。
ノルンは通常業務を一度止め、最古層資料への閲覧経路を開いた。
主様も少し離れた場所にいる。
「始める?」
「はい」
「今日は理由?」
「第一接続者が、旧呼称固定事例の閲覧を希望した理由です」
「見つかるかな」
「分かりません」
昨日見つけた参照履歴を再度開く。
『第一接続者より、旧呼称固定事例の閲覧を希望。理由――』
そこで本文は欠けていた。
ノルンは日付と管理番号を控え、同じ時期の申請記録、教育資料貸出記録、接続者面談記録を順に検索する。
最初の二つは断片だけだった。
『旧事例参照希望』
『閲覧制限資料につき管理者承認待ち』
理由はない。
次。
管理者側の確認記録。
『第一接続者へ閲覧目的を確認』
ノルンの指が止まる。
「ありました」
主様が近づきかける。
「見てもいい?」
「はい。ただし、まだ続きがあります」
二人で記録を見る。
文字は古く、一部欠けている。
それでも読める箇所は多い。
『管理者:現在の外在反応群に呼称固定兆候は確認されていない。閲覧を希望する理由は何か』
第一接続者の返答。
『呼んでいないから、まだ分からない』
ノルンは眉をわずかに寄せる。
続きを読む。
『管理者:呼称使用を検討しているのか』
『第一接続者:分からない』
『管理者:ではなぜ事例を読む必要がある』
次の一文は途中が欠けていた。
『第一接続者:――から決めるのでは遅いかもしれない』
「最初がないね」
「はい」
ノルンは別の複製記録がないか探す。
同じ面談を要約した補助記録が見つかった。
『第一接続者、呼称使用前に固定化危険を確認したい旨を表明』
その下。
『理由:使用開始後に不可逆的変化が生じる可能性を懸念』
ノルンは息を止める。
「不可逆」
主様が小さく言った。
「戻せないかもしれないってこと?」
「そのように読めます」
さらに続きがある。
第一接続者本人の発言が、こちらには比較的長く残っていた。
『名前が必要になってから危険を調べるのでは、もう呼んだあとかもしれない』
『呼んでからやめればいい、で戻れるのかを先に知りたい』
『一度だけなら大丈夫、という意味も知りたい』
『一度で何も起きないのか。一度では分からないだけなのか。それは同じではない』
ノルンは無意識に姿勢を正した。
主様も冗談を言わない。
古い記録の向こうで、第一接続者は呼称を使いたいと決めていたわけではなかった。
むしろ、決める前に調べようとしている。
使ってから危険だと分かっても遅いかもしれない。
やめれば元に戻るのか。
一度だけなら本当に安全なのか。
一度で変化が見えないだけなのか。
その違いを知ろうとしていた。
「……かなり慎重ですね」
「十三年待った人だもんね」
「それだけで性格を決めないでください」
「はい」
ノルンは続きへ進む。
『管理者:呼称を必要とする理由が現時点でないなら、使用しなければよい』
第一接続者の返答。
『今はそう思う』
『でも、向こうの反応が増えた』
『分かる言葉も少し増えた』
『分かるようになったら、もっと分かりたくなるかもしれない』
次の行。
『その時の私が、今より安全に考えられるとは限らない』
ノルンの手が止まった。
「自分を信用してない?」
主様が尋ねる。
「完全には、でしょうか」
第一接続者は、未来の自分が悪意を持つと考えているわけではない。
むしろ逆だ。
相手とのやり取りが増える。
意味が分かるようになる。
嬉しくなる。
もっと知りたくなる。
その善意や親しさの中で、便利な呼称を使いたくなるかもしれない。
だから、その前に危険を知っておきたい。
ノルンは第七十五話で見つけた教育資料の一文を思い出した。
『接続者本人の善意による呼称反復も固定化要因となり得るため、悪意・強制の有無のみで安全判断しない』
「この教育資料を読んだのは、この後でしょうか」
ノルンは時系列を照合する。
閲覧希望。
管理者面談。
承認。
その後、教育資料改訂第三版への閲覧履歴。
「……はい」
「じゃあ昨日の、読んだか分からないってやつ?」
「少なくとも閲覧承認はされています」
さらに閲覧終了記録を探す。
残っていた。
『閲覧終了』
『旧呼称固定後強制分離事例』
『個体識別の利点と危険』
『呼称固定による応答偏向』
『既存識別構造への介入事例』
複数項目に閲覧済みの印がある。
「読んでいます」
今度は、昨日より一歩進んだ。
第一接続者は閲覧を希望しただけではない。
少なくとも複数の関連資料を実際に閲覧している。
ただし、全文をどこまで理解したか、何を強く受け取ったかまでは分からない。
「じゃあ、名前をつけなかった理由は事故を読んだから?」
「そこまではまだ言えません」
「でも影響はありそう」
「可能性は高くなりました。ただ、呼称を使う前から危険を気にしていたことも分かりました」
事故記録を読んだから初めて慎重になったのではない。
読む前から、第一接続者は「使った後で戻せるのか」を気にしていた。
そこへ過去事例の情報が加わった。
その後、管理側から識別安定化のため呼称設定を提案される。
第一接続者は拒否する。
この順番には意味がある。
「拒否した時の記録、もう一回見る?」
「確認します」
同じ研究枠の中で、すでに読んだ資料を再確認するだけなら時間は足りる。
ノルンは該当箇所を開いた。
『呼べば、こちらが見つけやすくなる』
『見つけやすくなれば、見つけることをやめられなくなる』
『向こうが来た時だけ分かればよい』
『こちらから探しに行けるようにする必要はない』
『見失うことと、失うことを同じにしない』
以前は、これを第一接続者自身の長い待機経験から生まれた判断として読んでいた。
今は、その背後に過去の事故記録を読んだ経験もあった可能性が見える。
けれど、どちらか一方ではない。
十三年待ったこと。
再応答を得たこと。
返事が来ない日を経験したこと。
また来ると思ってしまう期待を自分の側に置いたこと。
存在確認の反復を儀礼化させないようにしたこと。
そして、呼称固定事故を事前に調べたこと。
それらが積み重なっていたのかもしれない。
「第一接続者って、名前をつけるのが嫌いだったわけじゃないんだね」
主様が言った。
ノルンはすぐには頷かなかった。
「嫌いだったかどうかは分かりません」
「あ、そっか」
「呼称そのものを否定している記録ではありません。危険と、使用後に戻せるかを確認しようとしています」
「必要なら使う可能性も考えてた?」
「『分からない』と答えています」
そこを「使いたかった」に変えてはいけない。
第一接続者は、使うとも使わないとも決めていなかった。
決める前に調べた。
「……これ、ルークに似てる?」
主様の声が少し慎重になる。
ノルンもすぐには答えなかった。
ルークはミレイアの名前を呼びたいと言った。
理由は、言葉を彼女へ向けている感じがするから。
それは支配したいからではない。
管理上便利だからでもない。
直接相手へ話したいという、ごく自然にも見える気持ちだ。
けれど、善意だから技術的に安全とは限らない。
第一接続者が読んだ教育資料にも、その注意が残っている。
「似ている部分はあります」
「でも同じじゃない?」
「はい」
「第一接続者がルークって証拠にもならない?」
「なりません」
ノルンは明確に答えた。
「むしろ違いもあります。第一接続者は呼称を使う前に事故記録を自分から探しています。現在のルークは、名称接続の危険について自分では知らず、私達から使用を止められている状態です」
「そうだね」
「それに、立場も逆かもしれません」
「逆?」
「旧事例で第一接続者は接続者側です。ルークが歴史上どちら側にいたのか自体、分かっていません」
第一接続者。
第七外在個体。
現在のルーク。
似た言葉。
似た反応。
名称。
「いる?」と「ここにいる」。
それらを一つへまとめたくなる誘惑はある。
けれど、まだまとめてはいけない。
「では、今日分かったのは」
ノルンは研究メモへ書き始めた。
『第一接続者は、外在個体への呼称設定提案以前、自発的に旧呼称固定事例の閲覧を希望していた。』
『閲覧理由として、呼称使用後に不可逆的変化が生じる可能性、および「使用後に中止すれば元へ戻れる」とは限らない点を事前に確認したい旨を述べている。』
『第一接続者は、外在個体との反応が増え、理解可能な情報が増えることで、将来の自分がより強く相手を知りたくなる可能性を自覚していた。』
『その後、旧呼称固定・応答偏向・強制分離事例を含む教育資料を実際に閲覧した記録あり。』
『後の呼称設定拒否判断にどの程度影響したかは未確定。』
最後に。
『現在のルークおよび名称接続との同一機序・同一人物性を示す証拠ではない。』
そこで止める。
「時間は?」
主様が聞く。
ノルンは確認した。
「残り十二分です」
「まだ読めるね」
「はい」
「次何見る?」
ノルンは候補資料を見る。
第一接続者が教育資料を読んだ直後の面談記録。
呼称設定提案までの期間。
閲覧後に、第一接続者自身が何か感想を残している可能性。
開きたい。
かなり。
「今日は終わります」
「十二分あるのに?」
「あります」
「気になる?」
「九です」
「やっぱり」
「ですが、次の記録は途中で終わらせたくありません」
「じゃあ次回?」
「はい」
ノルンは閲覧経路を閉じる。
十二分を余らせて。
主様が少し笑った。
「前なら読んでた?」
「おそらく」
「一個だけって」
「はい。そして一個では終わらなかったと思います」
「知ってる」
「なぜ得意げなのですか」
「ずっと見てたから」
ノルンは反論しかけ、やめた。
主様が自分を見てきた時間。
それもまた、ノルン自身の生活の一部なのだろう。
「では、休憩します」
「研究のあとに?」
「はい」
「通常業務へ直行しない?」
「十二分余っていますから」
「その十二分、研究枠の残りじゃないの?」
「研究を終えたので、残りは休憩へ使います」
「強い」
「その評価は何ですか」
主様が笑う。
ノルンは席を立った。
休憩中、スマートフォンを確認した。
美咲から新しいメッセージはない。
ノルンは少し考える。
今、送りたいことがあるか。
昨日のメモ帳について?
仕事の話?
第一接続者の研究?
どれも違う。
けれど、ふと昨日撮った写真を見返しているうちに、美咲が選んでいた小さな雑貨を思い出した。
欲しいけれど買わなかったもの。
見て可愛いと思って、それで満足することもある。
その会話を思い出し、ノルンは少し笑った。
送るほどのことか。
必要はない。
けれど、必要でなくても送っていい。
ノルンはメッセージ欄を開いた。
『昨日、美咲が買わなかった飾りを思い出しました。まだ「欲しいのに買わない」は少し不思議です。』
入力して、読み返す。
仕事ではない。
確認でもない。
返答期限もない。
ただ思い出したこと。
送信した。
「……送りました」
少しだけ落ち着かない。
けれど、すぐ返事を待つために画面を見続けることはしなかった。
スマートフォンを伏せ、水を飲む。
休憩時間が終わる頃にも返事は来ていなかった。
そのまま仕事へ戻る。
午後の後半。
ミレイアから新しい報告が入った。
緊急ではない。
観察担当のエリスからの通常記録だった。
ノルンは手元の作業を終えてから開いた。
ミレイアは午後、自室で刺繍をしていた。
以前と同じように、日常の時間。
窓から入る光は穏やかで、手元には途中まで仕上がった布がある。
しばらく作業を続けた後、ミレイアが自分から手を止めた。
『エリスさん』
『はい』
『前に聞いたこと、もう一回聞いてもいい?』
エリスは、何についてかを決めつけなかった。
『何についてでしょう』
ミレイアはすぐには答えず、針を布へ刺さないまま指先で持っていた。
少しして。
『次に声を聞くって考える時のこと』
ノルンの視線が止まる。
主様は離れた場所にいる。
ノルンは呼ばなかった。
まず読む。
エリスは、以前説明した内容をすべて繰り返していない。
『はい』
それだけ答え、ミレイアが続けるのを待った。
『前に、声だけ聞くのと、「ごめん」を聞くのは分けてもいいって言いましたよね』
『はい』
『私が何も話さないのも、選べるって』
『はい』
ミレイアはそこで一度視線を下げた。
記録には、呼吸が少し深くなったことだけが書かれている。
不安と断定されていない。
『もし……本当に、声だけなら』
間。
『どのくらいになるんですか』
ノルンは無意識に息を止めた。
これは接続同意ではない。
しかし、前回より一段具体的な質問だ。
エリスも同じように扱っている。
『まだ決まっていません。ミレイア様が考えたい場合、その長さも別に決められます』
『一言だけでも?』
『可能です』
『前と同じくらい?』
『それも候補にはできます。ただし、前回と同じにしなければならないわけではありません』
ミレイアの指が、刺繍布の端を軽く撫でた。
『……長くしなくていいんだ』
『はい』
『五分とかに、ならない?』
『ミレイア様が望まない限り、自動的にはなりません』
その答えの後、ミレイアはしばらく黙っていた。
そして。
『それなら……』
また止まる。
エリスは促さない。
ノルンも、記録を読みながら先を急がなかった。
『考えてみても、いいかもしれないです』
前回と似ている。
けれど、同じではない。
前回は、
『もう一度声を聞くことについて、考えてもいいかもしれない』
だった。
今回は、具体的な条件を聞いた後で、自分からもう一度そう言っている。
エリスが確認する。
『今日、考える話をしますか?』
ミレイアはすぐには答えなかった。
窓の外を一度見た。
それから、手元の刺繍へ視線を戻す。
『……少しだけ』
ノルンの指先に力が入る。
けれど、まだ接続同意ではない。
考える話をすることへの同意。
そこを越えてはいけない。
エリスも越えない。
『分かりました。では、今日は何を考えたいですか』
ミレイアはしばらく考えた。
『ルークが何を言うか』
『はい』
『声だけ聞くなら……何を言うんだろうって』
ここでエリスは答えを作らない。
ルークへ勝手に質問もしない。
『それを知ってから考えたいですか?』
ミレイアは唇を少し結んだ。
『……知ったら、それを聞くって決めたみたいになりませんか』
『なりません』
『本当に?』
『質問することと、接続を決めることは別です』
ミレイアは少しだけ肩の力を抜いた。
『じゃあ……聞いてもいいですか』
『何を、どこまで聞きたいか確認してもいいでしょうか』
『はい』
『次に短く声を届ける機会があるとしたら、ルークが何を言いたいと思っているか、ですか?』
ミレイアは考える。
『……うん。でも』
『はい』
『「ごめん」を言いたいのは知ってます』
『はい』
『それ以外で』
ノルンは静かに息を吐いた。
新しい質問。
ただし、接続希望ではない。
謝罪を聞く許可でもない。
ミレイアは、もしもう一度声を聞くことを考えるなら、ルークが謝罪以外に何を言いたいのか知りたい。
エリスが共有範囲を確認する。
『この質問をルークへ伝えてもいいですか』
『はい』
『理由も伝えますか?』
ミレイアはすぐに首を横へ振った。
『理由は、言わないでください』
『分かりました』
『次に会いたいって決めたわけじゃないのも……』
ミレイアはそこで迷った。
『それは伝えますか?』
『……どうした方がいいですか』
エリスは答えを決めない。
『伝えた場合、ルークが「接続が決まった質問ではない」と理解しやすくなります。伝えない場合でも、管理側から質問だけで接続同意ではないことは説明できます。どちらでも構いません』
ミレイアは少し考えた。
『じゃあ、私がまだ決めてないってことは伝えてください』
『はい』
『でも、怖いとか、なんで知りたいとかは……まだ言わないで』
『分かりました』
正式に共有許可された内容。
『次に短く声を届ける機会があるとしたら、「ごめん」以外に何を言いたいと思っているか。』
加えて。
『ミレイアは次回接続をまだ決めていない。この質問は接続同意ではない。』
それだけ。
理由。
感情。
今日「少しだけ考える話をした」こと。
どこまで声を聞けるか考え始めたこと。
それらは共有しない。
ノルンは記録を最後まで読んだ。
「……主様」
「うん?」
少し離れたところから返事が来る。
「ミレイアから、ルークへの質問が出ました」
主様が表情を変える。
「次の接続?」
「違います」
ノルンはまずそこを明確にした。
「次回接続は決まっていません」
「じゃあ何?」
「もし次に短く声を届ける機会があるとしたら、『ごめん』以外に何を言いたいと思っているか、です」
「ルークが?」
「はい」
「聞く?」
「許可されています」
「今?」
ノルンは時計を見る。
ルークの状態。
現在は安定。
質問自体に緊急性はない。
しかし、今日の観察枠の中で回答を受け取ることは可能だ。
「ルークの状態を確認して、負担がなければ聞きます」
「ミレイアは今日中に答え欲しいって?」
「言っていません」
「じゃあ急がない?」
「はい」
ノルンはルーク側の担当者へ確認を送る。
少し待つ。
その間に別の作業を進める。
数分後。
ルークは安定。
恐怖二。
痛みなし。
名称反応なし。
位置相当感覚なし。
質問を受けることに問題なし。
ノルンは接続を開く。
これはミレイアとの直接接続ではない。
いつもの管理側とのやり取りだ。
「ルーク」
『ノルン?』
「はい」
『昨日、友達会えた?』
最初にそれが来た。
ノルンは少し驚いた。
「会えました」
『よかった』
「楽しかったです」
ルークの表情が少し明るくなる。
『そっか』
「はい」
『写真撮った?』
「なぜそれを聞くんですか」
『友達と会ったら撮るって聞いたことあるから』
「……撮りました」
『見せて』
「嫌です」
『ええっ』
ルークが本気で残念そうな顔をした。
「美咲との写真です」
『一枚も?』
「嫌です」
『じゃあ、ノルンだけの写真』
「ありません」
『今度撮って』
「なぜですか」
『見たいから』
「その希望はルークの側に置いておいてください」
『主様みたいなこと言われた?』
ノルンは一瞬黙った。
「なぜ分かったんですか」
『なんとなく』
「……皆さん、妙なところだけ鋭いですね」
ルークが笑った。
その笑顔を確認してから、ノルンは本題へ移る。
「ルーク。今日は質問があります」
ルークの表情が少しだけ引き締まる。
『誰から?』
「ミレイアからです」
沈黙。
呼吸が止まりかける。
ノルンはすぐ続ける。
「先に重要なことを伝えます。この質問は、次回接続への同意ではありません。ミレイアは次に接続することをまだ決めていません」
『……うん』
「質問だけです」
『分かった』
声に緊張が混じっている。
恐怖値を確認する。
『三』
「続けても?」
『うん』
ノルンは、許可された内容だけを伝える。
「もし次に短く声を届ける機会があるとしたら、『ごめん』以外に何を言いたいと思っているか。ミレイアからの質問です」
ルークはすぐに答えなかった。
視線が下がる。
口を開きかけ、閉じる。
しばらくして。
『……いっぱいある』
「一つに決める必要はありません」
『でも短いんだよね』
「仮定の質問です。実際の接続時間は決まっていません」
『そっか』
ルークは考える。
『元気?って聞きたい』
最初に出た。
そして、すぐ顔をしかめる。
『でも、それ返事いるね』
「質問になりますからね」
『返事しなきゃって思わせるかもしれない』
「そう感じる可能性はあります」
『じゃあ違う』
「今、候補を消す必要はありません」
『でも……』
「ミレイアは、あなたが何を言いたいと思っているかを聞いています。実際に言う言葉を決める質問ではありません」
ルークがノルンを見る。
『言いたいけど、言わない方がいいかもしれない言葉も答えていい?』
「あなたがそう区別して答えるなら」
ルークは少し考えた。
『元気?って聞きたい。でも、返事を求める言葉になるから、実際に言うかは分からない』
「はい」
『あと……』
間が空く。
『生きててくれて、よかったって言いたい』
ノルンはすぐには反応しなかった。
ルーク自身も、その言葉を口にした後で表情を曇らせている。
『……これも駄目かも』
「なぜですか」
『前に、九人が生活してるって聞いて安心した時と同じだから』
ルークは自分の指先を見る。
『僕が「生きててくれてよかった」って言ったら、ミレイアが僕のために生きてるみたいになるかもしれない』
「必ずそうなるとは限りません」
『でも、そう聞こえるかもしれない』
「はい」
『だから、言いたいけど、今言っていいか分からない』
「そのまま回答にできます」
ルークが顔を上げる。
『そのまま?』
「『言いたいが、実際に伝えていいかは分からない』と」
『……うん』
さらに考える。
『ありがとう、も言いたい』
「何についてですか」
『こんにちは、聞いてくれたこと』
声が少し小さくなる。
『でも、聞いてくれたのを僕のためにしてくれたみたいにしたくない』
「はい」
『ミレイアが自分で決めて聞いたんだよね』
「そうです」
『じゃあ、「聞いてくれてありがとう」も変かな』
「私は決めません」
『うん』
ルークはしばらく黙った。
そして、少し困ったように笑う。
『言いたいこと、ほとんど言っていいか分からない』
「それも現在の答えです」
『……そっか』
「他には?」
ノルンは問いを重ねすぎないよう、一度だけ確認する。
ルークは長く考えた。
『こんにちは、もう一回』
「同じ言葉ですか」
『うん』
『前は一回だけだったから』
ルークの声が少し柔らかくなる。
『また声を聞いてもらえるなら、最初にもう一回、こんにちはって言いたいかもしれない』
ノルンはその言葉を静かに受け取った。
『それなら返事いらない?』
「挨拶ですから、返したいと感じる可能性はあります」
『あ』
「ただし、返答を要求する言葉ではありません」
『……じゃあ、それが一番いいかも』
「『一番いい』ですか。それとも『一番言いたい』ですか」
ルークが止まる。
『違うね』
「はい」
『一番安全そうって思っただけ』
「では、言いたさは?」
ルークは少し考えた。
『言いたい』
「他の言葉と比べて?」
『分かんない』
「分からないで構いません」
ルークは頷く。
恐怖値。
『三。ちょっと嬉しい』
「その嬉しさは、ミレイアへ共有しますか?」
ルークはしばらく迷った。
『……しない』
「理由は?」
『質問したら僕が嬉しいって分かったら、また質問しなきゃって思うかもしれないから』
「分かりました」
『でも、ノルンには言う』
「聞きました」
『褒める?』
「今日は早いですね」
『駄目?』
ノルンは少し笑った。
「自分の嬉しさと、相手へ共有するかを分けて考えられました」
『一個』
「言いたい言葉と、実際に言ってよいかも分けられました」
『二個』
「『一番安全そう』と『一番言いたい』を同じにしませんでした」
『三個』
「以上です」
『四個目は?』
「ありません」
『写真見せて』
「話が戻りましたね」
ルークが笑う。
緊張は少し下がっている。
ノルンは回答内容を整理した。
「ミレイアへ共有してよい内容を確認します」
『うん』
「『元気?と聞きたいが、返事を求める形になる可能性があるので実際に言うかは分からない』」
『うん』
「『生きていてくれてよかったと言いたいが、それをミレイアへ背負わせたくないので、実際に言ってよいか分からない』」
『うん』
「『最初の接続でこんにちはを聞いてくれたことについて、ありがとうと言いたい。ただし、それもミレイアが自分で決めたことを自分のための行動のようにしたくないので、言い方は決めていない』」
『うん』
「そして、『もう一度こんにちはと言いたいかもしれない』」
ルークが小さく頷いた。
『それは言っていい』
「あなたが質問を受けて嬉しかったことは?」
『言わない』
「分かりました」
「他に共有したくない部分は?」
ルークは考える。
『ない』
「では、この範囲で返します」
『ノルン』
「はい」
『ミレイア、なんで聞いたかは?』
「共有許可がありません」
『そっか』
「推測もしません」
『うん』
少し寂しそうではある。
けれど、ルークはそれ以上聞かなかった。
『じゃあ、待つ』
ノルンはその言葉に反応する。
「何をですか?」
『……あ』
ルーク自身も気づいた。
『返事』
「ミレイアは、あなたの回答を聞いた後に何か返事をするとは約束していません」
『うん』
「回答を受け取るだけで終わる可能性もあります」
『うん』
ルークは一度目を閉じた。
『じゃあ、返事を待つじゃない』
「はい」
『ノルンが伝えるのを待つ』
「それも、あなたが待たなければならないものではありません。私は必要な手順で伝えます」
『……じゃあ』
困った顔。
『僕、何すればいい?』
「生活してください」
ルークが目を開く。
『それ前も言われた気する』
「必要なら何度でも同じです」
『待ってる間も?』
「待つことだけをしている必要はありません」
ルークは少し考えた後、笑った。
『分かった』
「今日はここまでにします」
『うん』
「体調に変化は?」
『ない。怖さ二に戻った』
「分かりました」
『ノルン』
「はい」
『美咲にまた会えるといいね』
ノルンは少しだけ目を見開いた。
「はい」
『今の、言ってよかった?』
「私には大丈夫です」
『そっか』
「ただし、次の約束を急ぐつもりはありません」
『うん。僕もそれは分かる』
「では」
『またね』
「はい。また」
接続を閉じる。
ノルンはしばらく閉じた画面を見ていた。
「終わった?」
主様が近づいてくる。
「はい」
「ルーク、何て?」
「共有範囲がありますので、必要な記録だけ整理します」
「僕にも秘密?」
「管理上必要な範囲では共有します」
「固い」
「当然です」
ノルンは回答をまとめ、エリスへ送る。
ただし、すぐミレイアへ渡すのではない。
本人が今受け取りたいか確認してから。
質問したからといって、回答ができた瞬間に受け取らなければならないわけではない。
エリスから短い返答。
『本人へ受領希望を確認します』
それで止まる。
ノルンは息を吐いた。
今日、ミレイアは一段進んだように見える。
しかし、接続は決まっていない。
ルークも答えた。
けれど、次に何を言うか決まったわけではない。
むしろ、言いたいことと、言っていいことの間に迷いが増えた。
それでいい。
急いで一つへ決める必要はない。
その時、机の端に置いたスマートフォンが震えた。
美咲からだった。
ノルンは仕事中なので一度置こうとして、通知の短い表示だけが目に入った。
『欲しいのに買わない、まだ分かんないの面白い(笑)』
その後にもう一つ。
『今度また一緒に見に行こー』
ノルンの指が止まる。
今度。
日付はない。
約束を確定する言葉でもない。
それでも、美咲は自然に「また」を置いている。
「返す?」
主様が覗こうとする。
ノルンはスマートフォンを伏せた。
「見ないでください」
「見てないよ」
「今、見ようとしました」
「ちょっとだけ」
「駄目です」
「はい」
ノルンは仕事の区切りを確認する。
今すぐ返信する必要はない。
でも、送りたい返事はもう浮かんでいる。
『はい。また見に行きたいです。』
それだけ。
日程は決めない。
いつかも決めない。
けれど、また行きたいとは言える。
ノルンはスマートフォンを手元へ置きながら、まだ返信欄を開かなかった。
まず、今の記録を終える。
ミレイアの質問。
ルークの回答。
共有範囲。
未共有の感情。
接続同意ではないこと。
そこまで整理してから、仕事を一度区切る。
そして休憩に入った時に、美咲へ返せばいい。
急がなくても、返したい気持ちは消えない。
次の約束を今決めなくても、また会いたい気持ちはなくならない。
第一接続者が恐れたのは、一度使った名前が戻せないものになるかもしれないことだった。
ミレイアが今しているのは、まだ決めていない未来について、必要な情報を少しずつ知ることだった。
ルークは、言いたい言葉があるからといって、それを全部相手へ渡していいわけではないと考え始めている。
そしてノルンには、仕事の外で「また行きたい」と返したい相手がいる。
似ているようで、全部違う。
だから一つの答えにはしない。
ノルンは記録の最後へ、今日確認できた事実だけを書き加えた。
『第一接続者は、呼称を使用したいと決定した後ではなく、使用するかどうかを決める前に、使用後の不可逆性を懸念して旧事例を調査していた。』
少し考え、その下にもう一行。
『危険を知ることは、必ずしも行動を禁止するためではない。まだ決めていない本人が、自分で決める前に戻れない可能性を知るための場合がある。』
そこでペンを止めた。
これはまだ基本規則ではない。
第一接続者の一事例から、すべての接続へ適用することもできない。
ノルンはその横へ小さく、
『理由資料。制度化保留』
と記して閉じた。
それからスマートフォンを手に取る。
美咲のメッセージをもう一度読む。
今度は三分も迷わなかった。
『はい。また一緒に見に行きたいです』
送信する。
日付はない。
場所もない。
終了時刻もない。
それでもノルンは、今度はそれを未完成の予定だとは思わなかった。
ただ、また会いたいという今の気持ちを、今伝えただけだった。




