第七十八話 楽しかった一日の終わりに、すぐ仕事へ戻らなくても世界はちゃんと続いていました
待ち合わせをした辺りまで戻ってきた頃には、午後の明るさの中にも、はっきりと夕方の気配が混じり始めていた。
建物の窓へ差し込む光は少し橙色を帯び、行き交う人の流れも昼間とは変わっている。買い物袋を提げた人、家路を急ぐ人、これからどこかへ向かうらしい人。それぞれが違う目的で歩いている中を、ノルンと美咲は急ぐでもなく並んで進んでいた。
来た時には、美咲を見つけた瞬間から何を話せばいいのか、どこまで自分のことを話していいのか、何時まで一緒にいるのかと、ノルンの頭にはいくつもの確認事項が浮かんでいた。
今は、それがほとんどない。
代わりに少しだけ足が疲れていて、鞄の中には自分で選んだ小さなメモ帳があり、スマートフォンには今日撮った写真が何枚か増えている。
それで十分だった。
「この辺だね」
美咲が足を緩めた。
「はい」
ノルンも立ち止まる。
最初に会った場所とまったく同じ地点ではない。けれど、互いに帰る方向を考えれば、この辺りで別れるのが自然なのだろう。
そこまで理解したところで、ノルンは美咲の顔を見た。
「……では」
「うん」
「今日は、ありがとうございました」
言ってから、少し違う気がした。
美咲も同じことを感じたらしい。口元を緩めながら、首をわずかに傾ける。
「なんか固くない?」
「固いですか?」
「仕事終わりみたい」
「ですが、スマートフォンの使い方を教えてもらいましたし、お店も案内してもらいました」
「別に案内料もらってないよ」
「そういう意味ではありません」
「分かってる」
美咲が笑う。
ノルンは少し考え直した。
今日一日を思い返す。
待ち合わせ。
友達だと言ったこと。
一緒に歩いたこと。
写真を撮ったこと。
甘いものを食べたこと。
メモ帳を買ったこと。
何でもない話をしたこと。
どれも、教えてもらったことへの礼だけでは収まらない。
「……今日は、楽しかったです」
今度は美咲がすぐに笑わなかった。
一瞬だけ目を細め、それから穏やかに頷く。
「私も楽しかった」
「はい」
「また会おうね」
「はい。また」
次の日付は決めない。
何日以内に連絡するとも決めない。
それでもノルンは、先ほどより自然に「また」と答えることができた。
美咲が軽く手を上げる。
「じゃあ、気をつけてね」
「美咲も」
「家着いたら連絡する?」
ノルンの頭が反射的に動いた。
到着確認。
安全確認。
相互連絡。
そこまで考えたところで、美咲が笑いながら付け加える。
「いや、別に義務じゃないよ。送ってもいいし、送らなくてもいいし」
「……先に言われました」
「だってノルン、今絶対考えたでしょ」
「少しだけです」
「少し?」
「かなり」
「やっぱり」
美咲の笑い声につられて、ノルンも口元を緩める。
「では、送りたくなったら送ります」
「うん。それでいいよ」
「美咲も、送りたい時に」
「了解」
二人はもう一度だけ「また」と言った。
美咲が先に歩き始める。
ノルンも反対方向へ数歩進んだ。
そこで、ふと振り返る。
美咲も同じタイミングで振り返っていた。
「あ」
「……見ましたね」
「ノルンもじゃん」
「はい」
「じゃあね!」
今度は少し離れた場所から、美咲が手を振る。
ノルンも手を上げた。
「また」
美咲が前を向く。
ノルンも今度こそ歩き出した。
胸の中に、少しだけ寂しさが残った。
さっきまで隣にいた人がいなくなる。
声が聞こえなくなる。
一緒に歩いていた時間が終わる。
けれど、その寂しさを異常だとは思わなかった。
今すぐ次の予定を決めなければならない理由にもならない。
もう一度美咲へ連絡して、「また会えますよね」と確認する必要もない。
楽しかったから、別れた後に少し寂しい。
ただ、それだけだった。
歩きながら、ノルンは鞄の中のスマートフォンへ一度だけ意識を向けた。
取り出さない。
美咲からすぐ連絡が来るかもしれない。
来ないかもしれない。
どちらでもいい。
先ほどまで実際に会っていたのだから、別れて数分で関係を確認する必要などない。
そう考えることができた自分に気づき、ノルンは少しだけ可笑しくなった。
「……主様に知られたら、褒められそうですね」
小さく呟く。
そして、すぐに首を横へ振った。
「いえ。報告しなくていいことでした」
誰も聞いていない。
夕方の街の音だけが返ってくる。
ノルンはそのまま、自分の帰る場所へ向かった。
管理領域へ戻ったのは、それからしばらく後だった。
いつもの空間へ足を踏み入れた瞬間、空気の質がわずかに変わる。
地球側の街に満ちていた車の音も、人の声も、店から漏れていた音楽も遠ざかり、代わりに静かな管理領域の気配が身体を包んだ。
慣れた場所だ。
仕事をする場所でもある。
だからこそ、ノルンの視線はほとんど反射的に観察情報が集まる方向へ向いた。
今日の間に何か変化はなかったか。
ミレイアは。
ルークは。
他の八人は。
フローラは。
観察制度の運用は。
最古層の記録は――。
「おかえり」
声が飛んできた。
ノルンの思考が止まる。
主様がいた。
いつものように、何か重大な異常が発生した顔ではない。むしろ、ノルンが戻ってくることを知っていたらしく、落ち着いた様子でこちらを見ている。
「ただいま戻りました」
「うん」
「本日の状況を確認します」
「しなくていいよ」
ノルンの足が止まった。
「……はい?」
「しなくていい」
「ですが、午後の観察報告が」
「緊急のものはないよ」
「それは分かっています。何かあれば連絡が来ることになっていましたから」
「じゃあいいじゃん」
「良くありません。緊急ではなくても、確認すべき変化が発生している可能性があります」
主様はしばらくノルンを見た。
それから、わざとらしく首を傾げる。
「明日の朝じゃ駄目?」
ノルンは答えようとして、止まった。
駄目なのか。
今日の午後、自分がいない間の報告を、今日中に確認しなければならない理由はあるか。
重大な異常があれば通知される。
緊急性のない記録は残っている。
今夜確認しなければ消える情報ではない。
「……駄目ではありません」
「じゃあ明日」
「しかし」
「ノルン」
「はい」
「楽しかった?」
急に話題を変えられた。
けれど、その質問にはすぐ答えられた。
「楽しかったです」
「なら今日は、それで終わりにしない?」
ノルンは黙った。
仕事をしない。
正確には、戻ってきた直後に今日の遅れを取り戻そうとしない。
昨日までなら、数時間休んだ分だけ確認作業を増やそうとしていたかもしれない。
自分が休んでいる間にも、世界は動いている。
ならば戻ったら、その分を追いつかなければならない。
そんな感覚が、まだどこかに残っている。
「でも、世界は動いていました」
「うん」
「私が見ていない間にも」
「そうだね」
「でしたら、確認が必要では?」
「明日確認すればいいものは、明日でいいんじゃない?」
主様の声は軽い。
けれど、適当に仕事を放置しろと言っているわけではないことは、ノルンにも分かっていた。
「何か起きましたか?」
「起きたよ」
ノルンの表情が変わる。
「何がですか?」
「みんな生活してた」
「……」
「ミレイアも。ルークも。他の人達も。フローラ達も。それぞれ」
「主様」
「何?」
「わざとですね」
「うん」
主様は悪びれない。
ノルンは小さく息を吐いた。
けれど、その言葉は以前にも自分が言ったものだった。
誰も動いていない。
そう言われた時。
生活は動いています。
自分はそう答えた。
今日は逆に、その言葉を主様から返されている。
「緊急報告は本当にありませんね?」
「ない」
「ルークの自動接続兆候も?」
「ない」
「名称接続の異常も?」
「ない」
「ミレイアの状態悪化も?」
「ない」
「他の八人にも?」
「緊急対応が必要なものはない」
「フローラ側も?」
「ない」
「……分かりました」
「まだ聞く?」
ノルンは口を閉じた。
ここから先を聞けば、それはもう「緊急性の有無の確認」ではなく、通常業務を始めることになる。
「聞きません」
「よし」
「ですが、明日の朝は確認します」
「もちろん」
主様は止めなかった。
仕事をするなと言っているのではない。
今日でなくていい仕事を、今日しないだけだ。
「じゃあ、今日は何してたの?」
主様が尋ねる。
ノルンは鞄へ視線を落とした。
「美咲と会いました」
「それは知ってる」
「一緒に歩きました」
「うん」
「写真を撮りました」
「おお」
主様の反応が少し大きくなった。
「ノルンが?」
「私がです」
「見たい」
「嫌です」
「即答!?」
「美咲との写真です」
「見せてって言っただけなのに」
「嫌です」
「そっか」
主様は意外なほど簡単に引いた。
ノルンは少し警戒していた肩の力を抜く。
「……理由を聞かないんですね」
「見せたくないんでしょ?」
「はい」
「じゃあ見ない」
美咲と同じだった。
勧められた品物を買わなかった時。
理由を求められなかった。
今も、写真を見せたくないと言ったら、それで終わった。
「ただ」
主様が続ける。
「ノルンが写真撮ったのは、かなり見たいけど」
「それは主様の側に置いておいてください」
「最近その使い方うまくなったね」
「誰かの期待は、その人の側に置くものです」
「はいはい」
主様が笑う。
ノルンも少しだけ口元を緩めた。
「他には?」
「買い物をしました」
「何買ったの?」
ここで、ノルンは少し迷った。
メモ帳を見せる必要はない。
けれど、隠したいわけでもなかった。
鞄から小さな袋を取り出し、中のメモ帳を見せる。
「これです」
「メモ帳?」
「はい」
「仕事用?」
「違います」
主様が止まった。
「……違うの?」
「違います」
「ノルンがメモ帳買って、仕事用じゃないの?」
「何ですか、その反応は」
「いや、だって」
「自分用です」
「何書くの?」
「まだ書いていません」
「何を書く予定?」
ノルンはメモ帳を胸元へ少し引いた。
「秘密です」
主様の目が大きくなる。
「秘密!?」
「なぜそんなに驚くのですか」
「ノルンが僕に『秘密』って言った!」
「言ってはいけませんか?」
「全然いい。むしろいい」
主様は本当に嬉しそうだった。
ノルンには、その反応の方が理解しにくい。
「美咲から、自分だけのことを書いてもいいと教わりました」
「へえ」
「誰にも見せなくてもいいそうです」
「うん」
「毎日書かなくてもいいそうです」
「うん」
「途中でやめても」
「いいね」
「……主様、知っていたんですか?」
「日記とかメモって普通そういうものじゃない?」
ノルンは少し不満そうに主様を見る。
「でしたら教えてください」
「聞かれてないもん」
「そうですが」
「それに、僕が教えるより美咲から教わった方がよかったんじゃない?」
その言葉には、すぐ反論できなかった。
確かにそうかもしれない。
主様に「私生活用のメモ帳を持ちなさい」と言われていたら、それを新しい課題として受け取っていた可能性が高い。
何日書けばいいのか。
何を書けばいいのか。
どこまで書けば達成なのか。
そう考えていただろう。
今日、自分で棚の前に止まり、美咲と話し、自分で買うと決めたからこそ、これは課題ではない。
「……そうですね」
「でしょ?」
「はい」
「じゃあ今日はそれ書けば?」
「主様」
「何?」
「書くかどうかも私が決めます」
「強くなったなあ」
「何と戦っているんですか、私は」
「僕の余計なお世話?」
「それには勝てそうです」
「ひどい」
主様が肩を落とす。
ノルンは少し笑った。
それから、ふと気づく。
「主様」
「うん?」
「今日は、私がいない間に休みましたか?」
「休んだよ」
「食事は?」
「した」
「水分は?」
「取った」
「睡眠は――」
「朝報告したよね?」
「そうでした」
「ノルン、仕事しないって決めた途端に僕の健康管理始めるのやめない?」
「これは仕事ではなく心配です」
「その区別便利じゃない?」
言われて、ノルンは考えた。
確かに、心配という名目で同じ確認を繰り返すことはできてしまう。
「……では、やめます」
「え、ほんとにやめるの?」
「主様が今日きちんと休み、食事も水分も取ったと回答しましたから」
「うん」
「追加確認は不要です」
「ちょっと寂しい」
「では、確認しましょうか?」
「それはそれで違う」
「面倒ですね」
「人の気持ちってそういうものだよ」
主様が笑った。
ノルンは、今日何度目か分からない種類の答えに出会った気がした。
心配されるのは嫌ではない。
でも、繰り返し確認されたいわけではない。
少し寂しい。
だからといって、追加確認を求めているわけでもない。
どれか一つへ整理する必要はないのだろう。
「では、私は部屋へ戻ります」
「うん」
「明朝、通常通り確認します」
「了解」
「何か緊急のことがあれば呼んでください」
「それは呼ぶ」
「では」
ノルンは一度頭を下げてから、自分の部屋へ向かった。
数歩進んだところで、後ろから主様の声が追ってくる。
「ノルン」
「はい?」
「おかえり」
先ほども言われた。
それでも、今度は少し違って聞こえた。
「……ただいまです」
ノルンはそう返し、自分の部屋へ戻った。
部屋に入ると、昼間とは違う静けさが待っていた。
外出前に整えておいたものは、そのままの位置にある。机も、椅子も、普段使うものも変わっていない。
変わったのは、自分が持ち帰ったものだった。
ノルンは鞄を置き、スマートフォンとメモ帳を机の上へ並べた。
スマートフォンを開く。
通知は多くない。
美咲からの新しいメッセージもまだない。
そこで一度画面を閉じかけてから、ノルンは写真を開いた。
今日撮った写真が並ぶ。
最初の一枚。
美咲と一緒に撮ったもの。
少し傾いた写真。
食べ物。
美咲へ送った写真。
どれも、それだけ見れば特別なものではない。
けれど一枚ずつ眺めると、その時の声や空気まで少し戻ってくる。
美咲が笑っていた。
自分も笑っていた。
写真を撮る直前、どうすればいいか分からず少し固まっていた。
そんなことまで思い出せる。
「……残しておきましょう」
削除する理由はない。
整理する必要も、今はない。
ノルンは画面を閉じた。
次に、買ったメモ帳を手に取る。
まだ何も書かれていない。
最初の一ページを開く。
白い紙。
日付を書くべきか。
時刻は必要か。
場所は。
同行者は。
そう考えたところで、ノルンの手が止まった。
「……これは管理記録ではありません」
自分へ言い聞かせる。
日付を書いてもいい。
書かなくてもいい。
美咲の名前を書いてもいい。
書かなくてもいい。
何を書くかは、自分で決める。
ペンを持った。
少し考える。
そして最初に書いた。
『美咲と会った。楽しかった。』
そこまで書いて、ノルンは眉を寄せた。
短い。
あまりにも短い。
今日あったことを記録するなら、もっと書くべきことがある。
十四時に待ち合わせ。
写真。
買い物。
飲食。
会話。
帰宅時刻。
しかし、それらをすべて書く必要はない。
自分が最初に残したいと思ったのは何だったか。
ノルンは少しだけ考え、続きを書いた。
『帰る時間を先に決めなかった。でも、困らなかった。』
さらに一行空けようとして、止める。
別に空けなくてもいい。
続けて書く。
『次に会う日も決めなかった。また会いたいとは思っている。美咲もまた会おうと言った。今すぐ決めなくても、今日会ったことはなくならない。』
そこでペンを置いた。
読み返す。
制度文書なら、曖昧すぎる。
根拠もない。
適用条件もない。
例外もない。
誰にでも当てはまる保証もない。
だからこそ、これは自分のメモだった。
「……これでいいですね」
ページを閉じようとした時、もう一つだけ書きたくなった。
『友達に会いに行った。』
書く。
その文字を見て、ノルンはしばらく動かなかった。
美咲へ会った。
仕事ではない。
観察でもない。
調査でもない。
地球側の情報収集でもない。
友達に会いに行った。
その事実が、紙の上に自分の文字で残っている。
胸の奥に、静かな温かさが広がった。
それを分析する必要はない。
ノルンはメモ帳を閉じた。
夕食を済ませ、身支度を整えた後も、ノルンは仕事へ戻らなかった。
一度だけ、戻ろうかと思った。
今からなら、午後の記録を確認しても睡眠時間には影響しない。
最古層の資料を読むほどの時間はないが、報告を流し見る程度ならできる。
ミレイアの今日の様子だけ。
ルークだけ。
新しく観察範囲について質問した人物だけ。
どれか一つだけなら。
そこまで考えたところで、ノルンはベッドの端に座った。
「一つだけ、が増えるんですよね」
誰に言うでもなく呟く。
一つ見れば、その関連情報が気になる。
異常がなければ安心する。
安心したら、もう一人も確認したくなる。
そして結局、いつもの仕事になる。
今日は、もう終わりにしていい。
世界を放置するわけではない。
観察体制は動いている。
緊急時の連絡手段もある。
自分以外の観察者もいる。
何より、自分が数時間いなかった間も世界は壊れなかった。
当然だ。
けれどノルンにとって、その当然を身体で知ることには意味があった。
スマートフォンが小さく震えた。
ノルンの視線が向く。
今度は手に取った。
美咲からだった。
『今日はありがと! ちゃんと帰ったよー。楽しかった!』
短いメッセージ。
その下に、今日撮った写真が一枚添えられていた。
ノルンと美咲が一緒に写っている。
自分の端末にも似た写真がある。
それでも、美咲が選んで送ってくれた一枚は少し違って見えた。
ノルンはすぐ返信欄を開く。
何と返すか。
『こちらこそありがとうございました。私も無事に戻りました。本日は大変有意義な時間を――』
そこまで入力して、消した。
「……仕事ですね、これでは」
もう一度。
『こちらこそありがとう。私も戻りました。今日は楽しかったです。』
読む。
悪くない。
けれど、何かもう少し。
今日、美咲から教わったことを思い出す。
用事がなくても送っていい。
必要なことだけでなくてもいい。
写真も送っていい。
ノルンは自分が撮った中から、少し傾いた一枚を選んだ。
一度は撮り直そうかと思った写真だ。
けれど、今日は消さなかった。
それを添付する。
そして一文を足した。
『この写真、少し傾きましたが残しておきます。』
送信。
少しして既読になる。
すぐ返事が来た。
『それがいいんじゃん(笑)』
ノルンは画面を見つめる。
「……そういうものですか」
声に出してから、笑った。
返信しようとして、止まる。
今すぐ返す必要はない。
けれど返したくないわけでもない。
少し考え、短く送る。
『では、残します。』
美咲から笑っている印が返ってきた。
そこで会話は止まった。
ノルンはスマートフォンを置く。
終わったのか。
続いているのか。
そんなことも決めなくていい。
今日はもう十分話した。
また送りたくなれば送ればいい。
美咲も同じだろう。
照明を落とし、ベッドへ入る。
目を閉じた時、最初に浮かんだのは仕事ではなかった。
美咲が笑っている顔。
店の棚。
甘いもの。
少し傾いた写真。
メモ帳。
帰り際の「また」。
それらが順番もなく浮かんでは消えていく。
その中で、ノルンはゆっくり眠りへ落ちていった。
翌朝。
目を覚ましたノルンは、いつものように自分の状態を確認した。
眠気は強くない。
頭痛もない。
身体の重さもない。
時計を見る。
「七時間五十二分」
十分に眠っている。
昨日外を歩いた分、少し足に疲労が残っている気はするが、日常動作へ影響するほどではない。
起き上がり、身支度を整える。
机の上には昨日のメモ帳がある。
開かなかった。
昨夜書いたものを朝から評価する必要はない。
スマートフォンも確認したが、美咲から夜中の追加メッセージはなかった。
それでいい。
朝食を済ませて管理区域へ向かうと、主様がすでにいた。
「おはよう、ノルン」
「おはようございます」
「眠れた?」
「七時間五十二分です。中途覚醒なし。体調問題ありません。足に軽い疲労感がありますが、日常動作への影響はありません」
「昨日いっぱい歩いたもんね」
「はい」
「楽しかった?」
「昨日も聞きました」
「今日の感想変わってるかもしれないじゃん」
「変わっていません。楽しかったです」
「よし」
「主様は?」
主様が少し胸を張った。
「七時間五十六分。途中で起きてない。朝ご飯も食べた。体調問題なし」
ノルンは記録へ視線を向ける。
連続記録も続いている。
ただ、以前よりそこへ意識を集中させなくなった。
「確認しました」
「連続日数は?」
「記録されています」
「数えないの?」
「必要なら後で確認できます」
「おお」
「睡眠時間を確保できていることが重要です。連続日数を伸ばすこと自体が目的ではありません」
「それ前から言ってたけど、今日は本当に数字見なかったね」
ノルンは少し考える。
「……そうですね」
「昨日の効果?」
「何でも昨日の外出へ結びつけないでください」
「はい」
主様は笑っている。
ノルンはいつもの席へ向かった。
昨日、自分がいなかった間の記録が待っている。
けれど、焦りはなかった。
まず全体の緊急報告がないことを再確認する。
その上で、通常の順番で記録を見る。
ミレイア。
昨日の午後は家族と過ごし、日常生活に大きな変化はない。
ルークについて自発的に新しい質問をした記録もない。
「ごめん」を聞くことについても、新しい判断は出していない。
次回接続を考える話もしていない。
それでいい。
ノルンは記録を読み終え、次へ移った。
ルーク。
身体状態に問題なし。
自動接続兆候なし。
名称接続反応なし。
位置相当感覚なし。
ミレイアへの接続要求なし。
自分の名前の過去についても、新しい質問はしていない。
こちらも、それでいい。
他の八人。
以前から保留を続けている人物は、保留のまま。
観察範囲について質問した別の一人も、昨日新たな質問はしていない。
ルークへ会いたくないという現在の意思は、引き続き本人の許可なく共有されていない。
それぞれの生活記録には、小さな変化がある。
食事。
仕事。
家族との会話。
移動。
休息。
どれもルークへ知らせる必要はない。
ノルンは、その一つ一つを「進展なし」とまとめなかった。
生活は動いている。
昨日、自分が美咲と過ごしていた間にも。
「……本当に、続いていましたね」
「何が?」
主様が尋ねる。
「世界です」
「そりゃ続くよ」
「分かっています」
「でも?」
「自分が見ていない時間を、以前より気にしなくなった気がします」
主様はすぐに答えなかった。
ノルンが記録を読み進める様子をしばらく眺めている。
「それ、いいこと?」
聞かれて、ノルンは考えた。
「分かりません」
「お」
「少なくとも、観察を疎かにするつもりはありません。必要な確認はします。ただ、自分が見ていなかった時間を全部取り戻さなければならないように感じる必要はないのかもしれません」
「うん」
「記録が残っていて、必要なものを確認できるなら、それで十分な場合もあります」
「制度にする?」
「しません」
「早い」
「これは私自身の働き方の話です。それに、一日うまくいっただけで全観察官へ適用する理由はありません」
「成長したねえ」
「その言い方はやめてください」
主様が笑う。
ノルンも記録へ戻った。
そして、フローラの報告を開く。
そこで指が止まった。
「……フローラ」
「何かあった?」
「異常ではありません」
記録を読む。
フローラは、以前王太子との原作通りの関係を拒み、自分の意思で「今は会わない」と決めた。
その意思は尊重されている。
王太子側の監視は撤収され、謝罪文も受け取った。
そこから時間が経っている。
昨日も大きな事件はない。
けれど、小さな記録が一つ増えていた。
フローラが、自分の観察担当者へ尋ねたという。
『王太子殿下は、今も私に会おうとしていないの?』
ノルンはその一文をじっと見た。
主様が横から覗き込もうとする。
「何?」
「フローラが質問しています」
「会いたいって?」
「違います」
ノルンは即座に否定した。
昨日までの自分なら、その違いを理解するまで少し時間が必要だったかもしれない。
今は違う。
「王太子殿下が今も自分へ会おうとしていないのか。それを知りたいだけです」
「じゃあ、会う気になったわけじゃない?」
「そのような記録はありません」
「気になった理由は?」
「書かれていません」
「聞く?」
ノルンは記録の続きを確認した。
観察担当者は、その場で理由を掘り下げていない。
代わりに、何を知りたいのかだけを確認している。
フローラは答えていた。
『会おうとしていないなら、それを知りたいだけ』
さらに。
『私が会わないって言ったから、本当に何もしていないのかを知りたいの』
ノルンはゆっくり息を吐いた。
「……似ていますね」
「誰と?」
「最近の案件に」
会いたくないままでも、相手について知りたいことはある。
質問したからといって、接触を望んだことにはならない。
ルークと九人の間で、つい昨日まで扱っていたことだ。
けれど、同じに見えるからといって、フローラの問いを同じ枠へ入れてはいけない。
相手も。
関係も。
過去も。
質問の理由も違う。
「回答できるの?」
主様が尋ねた。
「確認が必要です」
「王太子が会おうとしてるか?」
「はい。ただし、彼が心の中で会いたいと思っているかではありません。フローラが尋ねているのは、『会おうとしていないのか』です」
「行動の方?」
「少なくとも現在の文面では、そう読めます」
「じゃあ勝手に気持ちまで調べない?」
ノルンは頷いた。
「はい」
アーノルドが何を感じているか。
会いたいと思っているか。
後悔しているか。
それらまで調べてフローラへ渡す必要はない。
まず確認するべきなのは、フローラが拒否した後、彼がその境界を守っているか。
接触を試みているか。
使者を送っているか。
別の経路から情報を得ようとしているか。
そうした行動の範囲だ。
ノルンはすぐに観察担当者へ詳細確認を求めようとして、手を止めた。
「どうしたの?」
「先に、フローラがどこまで回答を求めているか確認します」
「もう聞いてるんじゃない?」
「『会おうとしていないか』だけなら、行動の有無を答えれば足ります。ただ、例えば謝罪文以降に王太子殿下が彼女の近況を誰かへ尋ねたことまで『会おうとしている』に含めるのかは曖昧です」
「細かいね」
「必要な細かさです」
ノルンは少し考えた。
しかし、質問を重ねすぎれば、今度はフローラへ答えの定義を作らせることになる。
本人がただ「本当に何もしていないのか」と知りたいだけなのに、管理側から細かな分類を大量に提示する必要はない。
「まずは、直接的な接触行動があるかを確認します」
「うん」
「その回答だけでフローラが足りると言えば、そこで止めます」
「もっと知りたいって言ったら?」
「その時に範囲を確認します」
「いいんじゃない?」
ノルンは必要な記録を開いた。
アーノルド側。
監視撤収後。
謝罪文送付後。
フローラが「今は会わない」と示した後の行動。
読み進める。
直接訪問なし。
面会要求なし。
私的な使者なし。
贈り物なし。
返事の催促なし。
共通の知人を介した説得もなし。
少なくとも、フローラへ届く形での接触行動は取られていない。
ノルンはそこで止めた。
さらに深く読めば、アーノルドが何を考え、誰とどのような会話をしたかまで確認できる。
しかし、それは今の問いへの回答に必要ない。
「直接的な接触行動はありません」
「じゃあ答えられるね」
「はい」
ノルンはフローラの観察担当者へ、回答可能な範囲を伝えた。
ただし、勝手に「王太子はあなたの意思を尊重しています」と評価を付けない。
確認できた事実だけ。
フローラが会わないと伝えて以降、直接訪問、面会要求、私的な使者、贈り物、返事の催促、共通知人を介した説得は確認されていない。
それ以上の情報を求める場合は、何を知りたいのか改めて確認する。
「送信しました」
「すぐ返事来る?」
「分かりません」
「待つ?」
「待ちません」
「お」
「フローラがいつ答えるかはフローラが決めます。私は他の仕事をします」
「昨日の影響?」
「何でも美咲へ結びつけないでください」
「でもちょっとあるでしょ」
ノルンは答えなかった。
ないとは言い切れない。
けれど、美咲との時間を何もかも仕事へ変換するのも違う。
昨日は昨日。
今日は今日。
ただ、自分の中で経験したことが、判断の仕方へ少し影響することはある。
それだけだ。
ノルンは次の記録へ手を伸ばした。
午前の仕事が一段落した頃、フローラの観察担当者から返答が届いた。
ノルンは手元の作業を終えてから開く。
急がない。
記録には、回答を聞いたフローラの様子が丁寧に残されていた。
窓辺の小さな机。
午前の光。
手元には読みかけの本。
観察担当者が、確認できた事実だけを伝えた。
王太子は、フローラが「今は会わない」と示して以降、直接訪問していない。
面会を求めていない。
私的な使者も送っていない。
贈り物も、返事の催促も、他人を介した説得も確認されていない。
フローラはすぐには答えなかったという。
膝の上に置いた本の端を、指先でゆっくり撫でていた。
それから、小さく息を吐いた。
『……本当に、してないんだ』
その声が、安心なのか、意外なのか、寂しさなのか。
観察担当者は決めつけていない。
表情だけを記録している。
眉間の力が少し抜けた。
けれど、口元は笑っていなかった。
しばらく窓の外を見ていた。
そして。
『分かった。ありがとう』
それだけ。
観察担当者は、「会いたくなったのか」と尋ねていない。
「安心したのか」とも。
「残念だったのか」とも。
ノルンは記録を読みながら、静かに頷いた。
「これで終わり?」
主様が尋ねる。
「今日のところは」
「フローラ、どう思ったんだろうね」
「分かりません」
「気にならない?」
「気にはなります」
「聞かないの?」
「今は」
ノルンは記録を閉じる。
「本人がまだ言葉にしていないものを、こちらが早く名前にする必要はありません」
「うん」
「それに、『本当にしてないんだ』が何を意味するかは一つではありません」
自分の拒否が守られて安心したのかもしれない。
本当に何もしてこないことを意外に思ったのかもしれない。
少し寂しく感じた可能性もある。
逆に、完全に安心しただけかもしれない。
そのすべてを候補として並べることすら、今は必要ない。
「でも、前は『今は会わない』だったよね」
「はい」
「今も?」
「変更されたという情報はありません」
「じゃあ今も会わない」
「少なくとも、管理上はそう扱います」
「質問しただけだもんね」
「はい」
知りたい。
だから聞いた。
答えを聞いた。
それでも、会わないという選択はそのままでいていい。
昨日、別の一人について書いたことと似ている。
けれど、ノルンはそれをすぐ制度文書へ移さなかった。
一例が二例になったからといって、即座に基本原則へ昇格させる必要はない。
何より、フローラ自身の話はまだ途中だ。
彼女が今後何を思うのか。
何も変わらないのか。
少しずつ変わるのか。
それは本人が生きる時間の中で決まっていく。
「ノルン」
「はい」
「今日、最古層読む?」
ノルンは時計を見る。
予定していた研究枠まで、まだ少し時間がある。
昨日は読まなかった。
一昨日も、別の案件を優先した。
調べたいことは残っている。
第一接続者が、名称固定による事故の記録を知っていたのか。
ルークの「名前なくなった人いる?」という問いと、古い強制切断事故に関係があるのか。
「第七外在個体」と現在のルークの関係。
セレナという音への反応。
分からないことは多い。
「読みます」
「休んだ翌日だからいっぱい?」
「一枠だけです」
「よし」
「そこは変えません」
「何調べるの?」
ノルンは少し考えた。
「第一接続者が、名称固定後の事故記録を参照できる立場だったか。それを確認します」
「ルークと結びつけるため?」
「違います」
ノルンははっきり答えた。
「第一接続者が名称使用を避けた理由について、本人自身の経験だけで形成された判断なのか、過去の事故記録から学んだ判断も含まれていたのかを分けるためです」
「もし読んでたら?」
「名称を避けた理由の背景が一つ増えます」
「読んでなかったら?」
「本人が別の経験から似た判断へ至った可能性が高くなります」
「どっちならルークなの?」
「どちらでもルークだとは分かりません」
「そっか」
「そこを結びつける質問ではありません」
主様が頷いた。
ノルンは研究開始時刻を確認する。
まだ少しある。
すぐに資料を開かない。
その前に休憩を取る。
立ち上がり、水分を取る。
窓のように作られた管理領域の光景へ目を向けると、穏やかな光が広がっていた。
昨日、美咲と歩いた街とは違う。
けれど、こちらにもこちらの時間がある。
ノルンはふと、昨夜書いたメモ帳の一文を思い出した。
『友達に会いに行った。』
それを思い出しても、今の仕事が嫌になるわけではない。
仕事へ戻ったから、昨日が消えるわけでもない。
逆に、昨日休んだからといって、今日の仕事を過剰に増やす必要もない。
両方あっていい。
「何笑ってるの?」
主様に言われ、ノルンは自分の口元へ手を触れた。
「笑っていましたか?」
「ちょっと」
「……秘密です」
「また秘密!」
「私にも秘密くらいあります」
「昨日から急に増えたなあ」
「数を管理しないでください」
「はいはい」
主様が笑う。
ノルンも休憩を終え、自分の席へ戻った。
研究枠の開始まで、あと少し。
フローラの問いは、今日はもう追わない。
ミレイアへ次回接続を尋ねない。
ルークの名前の過去も刺激しない。
昨日の美咲との時間も、制度資料にはしない。
今すぐ進めなくていいものを、それぞれその場所へ置いておく。
やがて予定していた時刻になる。
ノルンは最古層資料への閲覧経路を開いた。
淡い光の中に、古い記録群が静かに並んでいく。
目的は一つ。
第一接続者が、あの名称固定事故を知っていたのか。
検索条件を絞る。
名称。
呼称。
固定。
過去事例参照。
第一接続者。
いくつかの記録が候補から外れ、残った資料がゆっくりと整理されていく。
ノルンは焦らず待った。
そして、一件。
これまで開いていなかった古い参照履歴が残った。
完全な本文ではない。
閲覧記録だけ。
第一接続者の識別番号と、古い事故記録群の管理番号が同じ欄に並んでいる。
「……ありました」
主様が少し離れたところから顔を上げる。
「読んでた?」
「まだ分かりません」
ノルンはすぐに結論を出さなかった。
参照履歴に名前がある。
それだけでは、本人が全文を読んだとは限らない。
閲覧申請。
管理側からの提示。
関連資料として自動的に紐づけられただけ。
可能性はいくつもある。
ノルンは次の項目へ視線を移した。
そこには、短い付記が残されていた。
『第一接続者より、旧呼称固定事例の閲覧を希望。理由――』
その先が欠けている。
「欠損しています」
「理由分からない?」
「ここでは」
ノルンは残り時間を確認した。
まだある。
けれど、追跡できる資料は複数に分かれている。
今日一枠ですべて追えば、また急ぐことになる。
「続き探す?」
主様が尋ねた。
ノルンは欠けた文字列を見つめた。
知りたい。
かなり。
第一接続者は自分から事故記録を見ようとした。
少なくとも、その可能性は高くなった。
なぜ。
いつ。
外在個体への名称使用を拒む前か、後か。
事故を知ったから拒んだのか。
すでに拒んでいて、理由を確かめるために読んだのか。
順番だけでも意味が大きく変わる。
「今日は、参照時期まで確認します」
「理由は?」
「次回です」
「気になるのに?」
「気になります」
「どれくらい?」
「九です」
「高い」
「ですが、今日全部読む必要はありません」
ノルンは別の記録から日付を照合した。
そして、見つけた。
第一接続者が旧呼称固定事例の閲覧を希望した時期。
それは、十三年後の再応答より後。
「いる?」と「ここにいる」に相当する短い応答が始まった後。
しかし――管理側が個体呼称の設定を提案するより前だった。
ノルンの指が止まる。
「……先に読んでいます」
「何より?」
「管理側から、外在個体へ呼称を設定する提案が出るより前です」
「じゃあ、名前つけようって言われる前に?」
「はい」
第一接続者は、管理側から呼称設定を提案されるより先に、過去の名称固定事故について調べようとしていた。
その後。
管理側が識別安定化のために呼称設定を提案した時。
第一接続者は拒んだ。
『呼べば、こちらが見つけやすくなる』
『見つけやすくなれば、見つけることをやめられなくなる』
『向こうが来た時だけ分かればよい』
あの言葉が残された。
「事故を知ったから拒否した?」
主様が尋ねる。
「まだ分かりません」
「でも先に読んでた」
「閲覧を希望したことと、どこまで内容を読んだかはまだ確認できていません。それに、事故記録だけが拒否理由だったとも言えません」
「じゃあ今分かったのは?」
ノルンは記録へ目を落とした。
「第一接続者は、呼称設定を提案される前に、自分から旧呼称固定事例の閲覧を希望していた。その時期だけです」
「理由は次?」
「はい」
「時間まだちょっとあるよ」
「あります」
「読まない?」
ノルンは研究枠の残り時間を見る。
確かに、もう一件くらいなら開けるかもしれない。
しかし、理由の記録が長ければ途中で切ることになる。
あるいは、読んだ後に関連記録を追いたくなる。
「読みません」
「おお」
「次回、理由を読む時間を確保してから開きます」
「気になる?」
「九です」
「我慢できる?」
「我慢ではありません」
ノルンは閲覧画面を閉じる準備をする。
「続きがあると分かっていて、次に読むと決めただけです」
主様が一瞬黙った。
それから、少し笑った。
「昨日、次に美咲と会う日も決めなかったのに?」
「それとこれは違います」
「違う?」
「こちらは研究予定ですから」
「なるほど」
「何でも同じにしないでください」
「はい」
ノルンは資料を閉じた。
研究枠終了。
理由は分からない。
第一接続者が何を恐れて事故記録を求めたのか。
どこまで読んだのか。
その記録が、後の呼称拒否へどの程度影響したのか。
答えは次回へ残った。
それでいい。
今日の仕事には、今日の終わりがある。
昨日の午後にも、昨日の終わりがあった。
けれど、終わったから消えたわけではない。
美咲と過ごした時間も。
フローラが王太子の現在を尋ねたことも。
第一接続者が古い事故記録を求めた理由も。
それぞれが、それぞれの続き方で残っている。
ノルンは最後に研究記録へ、確認できた事実だけを記した。
『第一接続者は、管理側による個体呼称設定提案以前に、旧呼称固定事例の閲覧を自ら希望していた。閲覧希望理由、実際の閲覧範囲、後の呼称拒否判断への影響は未確認。次回調査対象とする。』
そこまで書いて、手を止める。
余計な推測は足さない。
ルークとの関連も書かない。
昨日の経験も混ぜない。
今分かったことだけで十分だった。
「終わり?」
「はい」
「じゃあ今日は?」
「まだ通常業務があります」
「そっか」
「昨日休んだからといって、今日は休みではありません」
「残念」
「なぜ主様が残念なのですか」
「またメモ帳書くのかなと思って」
「それは仕事が終わってからです」
「書くんだ?」
ノルンは口を閉じた。
主様がにやりとする。
「今のは秘密にしなかったね」
「……主様」
「はい」
「仕事へ戻ります」
「逃げた」
「戻ったのです」
主様の笑い声を背中で聞きながら、ノルンは次の通常記録を開いた。
昨日は友達に会った。
今日は仕事をする。
そのどちらかを選ばなければならないわけではない。
楽しかった一日が終わっても、すぐに全部を仕事へ戻して埋め合わせる必要はなかったし、仕事へ戻ったからといって、その一日がただの休暇記録へ変わるわけでもなかった。
世界は、ノルンが美咲と笑っている間も続いていた。
そしてノルン自身の生活も、仕事へ戻ったから終わったわけではない。
机の上ではなく、自分の部屋に置いてきた小さなメモ帳の中に、そのことを証明する必要のない一行が残っている。
『友達に会いに行った。』
今日の夜、そこへ何かを書き足すかどうかは、まだ決めていなかった。




