第七十七話 友達と過ごす午後には、終了条件を決めなくてもよかったようです
美咲に呼ばれて店先へ近づいたノルンは、彼女が何を見つけたのか確認しようとして、並んでいる品物へ視線を向けた。
そこには、日常で使う小物や季節に合わせた雑貨が、限られた場所へ収まるよう整然と並べられていた。店の奥からは小さな音楽が流れ、入口付近を通る人の足音や、商品を手に取った客同士の話し声がほどよく混ざっている。
「これ」
美咲が指したのは、手のひらに収まりそうな小さな品だった。
ノルンは見る。
特別な機能があるようには見えない。
世界間接続の補助にもならない。
観察記録を保存できるわけでもなければ、緊急時に役立つ道具でもない。
「……これは?」
「見れば分かるでしょ」
「用途を聞いています」
「たぶん、ほぼ飾るだけ」
「ほぼ」
「うん」
美咲は一つ手に取ると、角度を変えながら眺めた。必要な品物を選別しているというより、単純に見た目を楽しんでいるようだった。
「可愛くない?」
ノルンも改めて見る。
丸みのある形。
少しだけ愛嬌のある表情。
色合いも柔らかく、棚に置けば部屋の雰囲気を変えることくらいはできるかもしれない。
「可愛い……とは思います」
「でしょ?」
「ですが、何に使うのでしょう」
「だから飾るの」
「飾った後は?」
「見る」
「見るだけですか?」
「見るだけ」
美咲が笑った。
ノルンは商品をもう一度見た。
以前の自分なら、おそらくここで会話が終わっていた。
用途がない。
必要性もない。
ならば買う理由もない。
けれど昨日、自分用のお菓子を買った。
今日は、必要ではない写真を撮った。
しかも、そのうち一枚は少し傾いている。それでも削除せずに残している。
必要ではないことと、価値がないことは同じではない。
「買うんですか?」
「迷ってる」
「欲しいのですか?」
「ちょっと欲しい」
「では買えばいいのでは?」
「でも、家に似たようなのあるんだよね」
今度はノルンが黙った。
「すでにあるのですか?」
「ある」
「なら、不要なのでは?」
「そうなるよねえ」
美咲は笑いながら商品を棚へ戻した。
「だから見て終わりでもいいの」
「欲しかったのでは?」
「欲しいけど、買わないこともあるよ」
「……欲しいのに?」
「うん。見て可愛いって思って、それで満足する時もあるし」
ノルンは棚と美咲を交互に見た。
欲しい。
だから買う。
必要ない。
だから買わない。
その二つだけではないらしい。
欲しいと思っても買わない。
可愛いと思ったことだけ持ち帰る。
何も決めずに眺めて終わる。
それも選択の一つだった。
「ノルン、また何か難しく考えてる?」
「少し」
「雑貨一個で?」
「美咲が複雑なことをするからです」
「私のせいなの?」
「欲しいのに買わないという行動を、今理解しようとしています」
美咲は数秒ほど真顔でノルンを見たあと、耐えきれなくなったように吹き出した。
「理解しなくていいよ!」
「では、どうすれば?」
「ノルンも何か気になるの見たら見ればいいの」
「見るだけでも?」
「もちろん」
「買わなくても?」
「いいよ」
「買っても?」
「それもいい」
「……自由ですね」
「買い物だからね」
美咲が隣の棚へ移動する。
ノルンも後を追った。
店内には他にも何人か客がいて、それぞれが品物を手に取っていた。すぐ籠へ入れる人もいれば、値札を見て棚へ戻す人もいる。二つの商品を長く見比べている人もいた。
誰も、選ばなかった品物について理由を提出してはいない。
当然のことなのだろう。
けれどノルンは、そうした普通の光景を、今日は少し違った目で見ていた。
「これとかどう?」
美咲が別の小物を指す。
「私にですか?」
「うん」
「なぜこれを?」
「ノルンの部屋にあったら面白そう」
「面白さで選ぶのですか」
「ダメ?」
「駄目ではありませんが……」
ノルンは手に取ってみた。
軽い。
小さい。
機能らしい機能はない。
値段も高くない。
それでも、買う理由を探そうとすると見つからなかった。
部屋に必要か。
なくても困らない。
仕事で使うか。
使わない。
美咲へ渡すのか。
違う。
自分が欲しいのか。
そこまで強くはない。
「買いません」
「うん」
美咲はあっさり頷いた。
「……理由を聞かないんですか?」
「何で?」
「勧めたのに」
「勧めただけだし」
「残念では?」
「別に?」
ノルンは商品を元の位置へ戻した。
美咲はすでに別の棚を見ている。
その背中を眺めながら、ノルンは少しだけ胸の内側が軽くなるのを感じた。
提案された。
断った。
それで終わった。
美咲は理由を求めなかった。
気を悪くもしなかった。
次の商品を勧めることで決定を覆そうともしない。
制度として整理するほどのことではない。
ただ、こういうやり取りが普通に存在するのだと分かった。
しばらく店内を歩いていると、ノルンの足が一つの棚の前で自然に止まった。
小さな文具や日用品が並んでいる。
その中に、簡素な小型のメモ帳があった。
仕事で使うものなら、管理区域に十分な記録媒体がある。
地球側で必要な情報を記録するだけなら、スマートフォンでも足りる。
買う必要はない。
それでも、ノルンは少しだけ表紙を眺めた。
「気になる?」
隣から美咲の声がした。
「……少し」
「いいじゃん」
「ですが、記録用ならすでに――」
「仕事用?」
「そうなります」
「じゃあ仕事じゃないこと書けば?」
ノルンは美咲を見る。
「仕事ではないこと?」
「今日食べたものとか、行きたいところとか」
「それを記録する必要がありますか?」
「必要はない」
美咲は即答した。
ノルンは黙った。
美咲が笑う。
「その顔好きだわ」
「どの顔ですか」
「『必要ないのに何でやるんですか』って顔」
「実際、そう思いました」
「じゃあ買わなくていいよ」
また、あっさりしている。
ノルンはメモ帳を棚へ戻そうとした。
けれど指が止まった。
今日撮った写真を思い出す。
必要ではない。
けれど残したい。
それと似ているようで、少し違う。
写真は、その時見たものを残す。
メモ帳なら、自分が何を思ったかを書くこともできる。
管理記録ではなく。
観察報告でもなく。
誰かに提出する必要もなく。
「……例えば」
「うん?」
「書いたものを、誰にも見せなくてもいいんですか?」
「自分のメモ帳ならね」
「後で不要だと思ったら?」
「捨ててもいいし」
「途中までしか使わなくても?」
「いいよ」
「毎日書かなくても?」
「もちろん」
ノルンは表紙へ指を滑らせた。
規則がない。
記録頻度もない。
保存期間もない。
閲覧者も自分だけ。
書かない日があっても欠測扱いにはならない。
「……買います」
「お」
美咲が少し嬉しそうに笑った。
「決めた?」
「はい。ただし、何を書くかはまだ決めていません」
「それでいいんじゃない?」
「買ってから決めても?」
「全然いい」
ノルンはメモ帳を一冊だけ手に取った。
その時、美咲が何か言いかけたように見えたが、結局口にはしなかった。
「何ですか?」
「いや」
「何か言おうとしましたよね」
「ノルンが自分のもの選んだなって」
「先日も自分用のお菓子を買いました」
「おお」
「そこまで驚くことですか」
「だって、なんかいいじゃん」
美咲はそれ以上説明しなかった。
ノルンも理由を求めなかった。
会計を済ませ、店を出る。
外の空気は店内より少し涼しく感じられた。午後の日差しはまだ明るいものの、建物が作る影は待ち合わせをした頃より長くなっている。
美咲が歩きながらノルンの小さな買い物袋を見る。
「最初に何書くの?」
「決めていません」
「今日のこと書けば?」
「今日のこと」
「私と会った、とか」
ノルンは少し考える。
「それなら、写真もあります」
「写真と文章は別じゃない?」
「別……ですか」
「写真に写ってないこともあるし」
美咲は歩道の端へ寄り、向かいから来た人へ道を譲った。ノルンも自然にその隣へ寄る。
「例えばさ、今日ノルンが何考えてたかって、写真だけじゃ分かんないじゃん」
「そうですね」
「後で自分が覚えてたら、書かなくてもいいし。忘れそうだから書きたいなら書けばいいし」
「忘れるために書かないこともできます」
「できるんじゃない?」
美咲の返事は軽かった。
けれど、ノルンの中ではその言葉が少し長く残った。
残したいなら残す。
残したくないなら残さない。
あとから変えてもいい。
管理制度で考えてきたことと似ている部分はある。
しかし今は、それを制度へ持ち帰って規則にする必要はない。
自分の小さなメモ帳について、自分で決めればいい。
「何か食べる?」
美咲が尋ねた。
「お腹空いてない?」
ノルンは自分の身体へ意識を向ける。
昼食は済ませている。
強い空腹はない。
けれど、何か少しなら食べられそうだった。
「少しなら」
「甘いのでもいい?」
「はい」
「昨日自分用のお菓子買った人だもんね」
「なぜ知っているんですか」
「え?」
美咲が止まる。
ノルンも止まった。
数秒、二人で見つめ合う。
「……言っていませんでした」
「言ってないよ」
「では、今のは?」
「適当に言っただけなんだけど」
「偶然ですか」
「何買ったの?」
「小さなお菓子を」
「本当に買ってた!」
美咲が声を上げて笑った。
通りすがりの人が一瞬だけこちらを見たため、ノルンは少しだけ声を落とすよう視線で訴えた。
「そんなに笑わなくても」
「ごめん。だって当たると思わなかった」
「昨日、自分用に一つ買いました」
「いいじゃん」
「美咲への焼き菓子を選んだあとに」
「あ、あれ昨日買ったんだ」
「はい」
「で、自分のも買ったと」
「そうです」
「成長してるねえ」
「なぜ皆さん、私を育成対象のように扱うのでしょう」
「みんな言うの?」
「主様がよく」
「その主様って人と私、たぶん気が合うかも」
「やめてください」
「なんで!?」
思わず即答したノルンに、美咲がまた笑った。
もし本当に二人が同じ場所にいたら、ノルンが一方的にからかわれる時間が増える気がする。
もちろん、美咲と主様を会わせる予定などない。
ないのだが、想像だけで少し疲れた。
「何か甘いものにしましょう」
「話そらした」
「空腹の確認をしていたはずです」
「はいはい」
二人は近くで休める場所を探し、軽く甘いものを食べられる店へ入った。
店内には午後の休憩を取っている人が多く、窓際の席には柔らかな光が落ちている。食器が触れ合う小さな音と、控えめな話し声が重なり、外を歩いていた時より時間の流れが少しゆっくりしたように感じられた。
二人はそれぞれ食べたいものを選んだ。
ノルンは注文する直前まで、量や値段や必要性を比較しかけた。
しかし今日は仕事の経費ではない。
自分のお金で、自分が食べる。
それなら、食べたいものを選べばいい。
「決まった?」
「はい」
「早かったね」
「以前よりは」
「前はもっとかかってたの?」
「必要性を考えますので」
「おやつに必要性求めるのやめようよ」
「最近、それを学んでいます」
「どこで?」
「色々なところで」
主様との買い物。
美咲との写真。
今買ったメモ帳。
それらを一つの教訓としてまとめることはできる。
けれど、今日はまとめなくてもいい気がした。
注文したものが運ばれてくると、美咲は嬉しそうにスマートフォンを取り出した。
「撮ろ」
「食べ物をですか?」
「うん」
「なぜ?」
「美味しそうだから」
「……また、なんとなくですか」
「そう、なんとなく」
美咲は慣れた手つきで写真を撮る。
ノルンも自分のスマートフォンを見る。
「ノルンも撮る?」
「撮ってみます」
今度は自分からカメラを開いた。
午前中までの自分なら、食べる前に写真を撮ることへ意味を求めていただろう。
今も完全に理解しているわけではない。
それでも、撮りたいと思った。
画面の中へ食べ物を収める。
撮影音。
「お、今度まっすぐ」
「先ほど学習しましたから」
「上達早いなあ」
美咲が覗き込む。
「いいじゃん」
「はい」
「私にも送って」
「これを?」
「うん」
「美咲も自分で撮りましたよね」
「ノルンが撮ったやつも欲しい」
同じものなのに。
少し角度が違うだけなのに。
それでも欲しいらしい。
「分かりました」
教えてもらった操作を思い出しながら送る。
少し時間はかかったが、美咲は急かさず待っていた。
送信が完了すると、美咲のスマートフォンが震える。
「来た」
「はい」
「ありがと」
ただ写真を一枚送っただけだった。
なのに、ノルンは少し嬉しかった。
用事のない連絡。
返事を要求するものでもない。
美咲が欲しいと言った写真を送った。
その程度のやり取りが、妙に新鮮だった。
二人で食べ始める。
甘さが口の中へ広がり、歩いた後の身体が少し緩む。
「美味しい?」
美咲に聞かれ、ノルンは頷いた。
「はい」
「よかった」
「美咲の方は?」
「美味しいよ」
それだけの会話だった。
何か重要な情報が含まれているわけではない。
関係を進めるための質問でもない。
けれど、こういう言葉を交わしながら食べる時間を、ノルンは思っていた以上に心地よく感じていた。
しばらくすると、美咲が頬杖をつかない程度に身体を少し前へ傾けた。
「そういえばさ」
「はい」
「ノルン、今日何時まで大丈夫なの?」
ノルンの手が止まった。
来ると思っていなかった質問ではない。
むしろ、朝の段階では自分から説明しておくべきかと考えていた。
「決めていません」
「え?」
美咲が少し目を丸くする。
「帰る時間?」
「はい」
「決めてないの?」
「本当に私が必要な異常が発生した場合は連絡が来ます。それ以外は任せてありますので」
「じゃあ、急いで帰らなくてもいい?」
「はい」
美咲は少しだけ嬉しそうな顔をした。
「そっか」
「ただし、夜まで無制限という意味ではありません」
「分かってるよ」
「夕食や睡眠時間もありますので」
「急に生活指導みたいになった」
「重要です」
「はいはい」
美咲は笑いながら一口食べる。
ノルンも続きを口へ運んだ。
帰る時間を決めていない。
それは以前の自分なら、不安になる条件だったかもしれない。
開始時刻。
終了時刻。
目的。
確認事項。
予定を整えておけば、動きやすい。
けれど今日は十四時に会うことしか決めていなかった。
行き先も。
食べるものも。
何時まで一緒にいるかも。
その場で決めている。
それでも困っていない。
「美咲は?」
「私?」
「今日は何時まで大丈夫なんですか?」
「私も特に決めてないよ。夕方くらいまでかなって思ってたけど」
「くらい」
「うん。疲れたら帰るし、もうちょっと話したかったらいるし」
「……それでいいんですね」
「何が?」
「終了時刻を正確に決めなくても」
美咲はスプーンを持ったまま、少し考えた。
「まあ、次に予定あるなら決めるけど。今日はないし」
「なるほど」
「ノルン、遊ぶ時まで終了条件いるの?」
「……今までは、あった方が安心でした」
「今日は?」
ノルンはすぐには答えなかった。
窓の向こうでは、人が行き交っている。
外の光はまだ明るい。
スマートフォンには管理区域からの通知はない。
美咲は目の前にいる。
疲れてもいない。
帰りたいとも思っていない。
「今日は、なくても大丈夫そうです」
言ってみると、それが今の自分に一番近かった。
美咲は大げさに褒めなかった。
ただ、「そっか」と笑った。
その反応も心地よかった。
「じゃあ、食べ終わったらまた歩く?」
「はい」
「疲れてない?」
「大丈夫です」
「疲れたら言ってね」
「美咲も」
「うん」
互いにそれだけ確認する。
限界値を数字で決める必要はない。
もちろん、ルークの接続試験や危険を伴う観察なら、停止条件を曖昧にしてはいけない。
けれど友達と歩く時間まで同じ管理方法を使う必要はない。
ノルンはそこまで考えたところで、また制度へ戻りかけている自分に気づいた。
「……危ないところでした」
「何が?」
「仕事のことを考えそうになりました」
「今?」
「はい」
「禁止」
「禁止ですか」
「少なくとも食べてる間は禁止」
「なぜです?」
「せっかく美味しいもの食べてるから」
美咲が自分の皿を指す。
「今はこっち」
ノルンは自分の前の甘いものを見る。
まだ半分ほど残っている。
「……分かりました」
「素直」
「今日はよく言われます」
少し笑いながら、もう一口食べた。
美味しい。
その感想を分析せず、しばらく味わった。
食べ終えて店を出る頃には、午後の空気が少しずつ夕方へ近づいていた。
まだ日が沈むには早い。
それでも、光の色は待ち合わせをした時より穏やかになっている。
二人はまた歩き始めた。
今度は美咲だけが行き先を決めるのではなく、途中でノルンも気になったものへ足を止めた。
店先の季節の飾り。
少し変わった看板。
道端に並んだ花。
すべてを写真に撮るわけではない。
見て終わるものもある。
「撮らないの?」
一度、美咲に聞かれた。
「これは見ただけでいいです」
「うん」
それで終わる。
残さないから価値がないわけではない。
写真にしなくても、自分が今見たことは消えない。
いつか忘れるかもしれない。
それでも構わない。
すべての瞬間を保存しなければ、今日が失われるわけではなかった。
歩きながら、美咲が自分の日常について少し話した。
詳しい仕事や生活背景へ踏み込むような内容ではなく、最近見かけたものや、ちょっとした失敗、面白かった出来事。ノルンも笑ったり、分からない部分を聞いたりしながら聞いていた。
その中で、美咲がふと尋ねた。
「ノルンって、休みの日何してるの?」
「休みの日」
「うん」
また難しい質問だった。
「最近は……休む練習をしています」
「練習?」
「仕事をしない時間を作るという意味です」
「休みって練習いるんだ……」
「私には必要でした」
美咲は笑いかけて、途中でやめた。
ノルンの顔を見て、少しだけ表情を柔らかくする。
「そっか」
「はい」
「じゃあ今日も練習?」
ノルンは考えた。
練習。
それだと今日が、何か別の目的のための訓練のように聞こえる。
美咲と会うことを、私生活を取り戻すための課題にしてしまう。
それは少し違う気がした。
「……いいえ」
「違う?」
「今日は、美咲に会いに来ました」
美咲の足がほんの少しだけゆっくりになった。
ノルンも隣で歩調を合わせる。
「休む練習のためではなく?」
「はい」
「スマホの練習でもなく?」
「それは少し教えてもらいましたが」
「制度の研究でもなく?」
「なぜ美咲がそれを言うんですか」
「なんとなくノルンなら考えてそうだから」
「……否定しきれません」
美咲が笑う。
ノルンも少し笑ってから、続けた。
「でも、今日ここへ来た理由は、美咲に会いたかったからです」
今度は言い切った。
言葉にしたあとで、胸の奥に少しだけ照れに似たものが生まれる。
友達へ会いたかった。
ただそれだけ。
以前なら、その理由だけで時間を使うことにどこか不安があったかもしれない。
今は、十分な理由だと思える。
「……そっか」
美咲が前を向いた。
横顔が少しだけ嬉しそうに見えた。
「じゃあ私も、会えてよかった」
「はい」
「連絡来た時も嬉しかったけど、実際会う方がやっぱいいね」
「私もそう思います」
「スマホいらない?」
「それは必要です」
「即答」
「今日会えたのもスマートフォンがあったからです」
「真面目だなあ」
「それに、写真もあります」
「お」
美咲が嬉しそうに振り返る。
「もう使いこなしてるじゃん」
「まだ数枚撮っただけです」
「十分十分」
「基準が低くありませんか」
「最初はそんなもんだって」
会話を続けながら、二人はゆっくり歩いた。
しばらくして、ノルンのスマートフォンが鞄の中で一度震えた。
身体が反応する。
足がほんの少し止まりかけた。
美咲も気づいたらしく、ノルンを見る。
「通知?」
「はい」
取り出す。
画面を確認する。
管理区域からではない。
一般的な通知だった。
緊急性はない。
「仕事じゃなかった?」
「違いました」
「そっか」
美咲はそれ以上気にせず歩き始める。
ノルンもスマートフォンをしまった。
そのまま数歩進んだところで、自分が管理区域の状態を追加確認しようとしなかったことに気づく。
通知が来た。
仕事ではなかった。
だから終わり。
「念のため」観察一覧を開かなかった。
朝なら、これを成長として主様へ報告するところだったかもしれない。
けれど今は、報告しなくてもいい。
美咲との会話へ戻る。
「そういえば」
「ん?」
「さっきのメモ帳」
「ああ」
「最初に書くことを決めました」
「何?」
「まだ言いません」
美咲が目を丸くした。
「秘密?」
「自分だけのものでもいいと言ったのは美咲です」
「あ、確かに」
「ですから、今は秘密にします」
「いいじゃん」
美咲は笑った。
「そういう使い方でいいと思う」
何を書くか。
ノルンの中では、もうほとんど決まっていた。
今日、美咲に会った。
友達だと言った。
一緒に写真を撮った。
それだけではない。
最初に残したいと思ったのは、もっと小さなことだった。
美咲と歩いていて、帰る時刻を決めていないことが怖くなかった。
用事のない時間にも、ちゃんと中身があった。
それを、誰かの制度へ使うためではなく、自分が覚えていたいから書いてみたい。
ただし、今すぐ書く必要はない。
今日はまだ美咲が隣にいる。
メモを取るより、今の時間を過ごしたかった。
さらに歩いたところで、美咲が時刻を確認した。
「あ、結構歩いたね」
「そうですね」
「疲れてない?」
「少し足は疲れました」
「じゃあ、どっか座る?」
ノルンは身体の感覚を確かめる。
無理をするほどではない。
けれど、休んだ方が楽だとは思う。
「はい。休みたいです」
以前なら「まだ大丈夫です」と答えていたかもしれない。
限界ではないから。
動けるから。
問題ないから。
しかし今は、限界まで歩く理由がない。
美咲も自然に頷いた。
「じゃあ座れるとこ探そ」
「はい」
近くの休める場所へ移動し、二人で腰を下ろした。
夕方へ向かう風が、歩いて温まった頬へ心地よく触れる。周囲では買い物を終えた人達が行き交い、少し離れたところでは子供の笑い声が聞こえた。
ノルンは鞄を膝の上へ置く。
その中には今日買ったメモ帳がある。
スマートフォンには、美咲と撮った写真。
自分で撮った少し傾いた写真。
甘いものの写真。
どれも仕事には必要ない。
けれど、今はどれも持って帰りたいと思っている。
「今日、どう?」
美咲が突然尋ねた。
「どう、とは?」
「楽しい?」
ノルンは答える前に、少しだけ考えた。
楽しい。
その一言で処理していいのだろうか。
美咲と会う前は緊張した。
会った直後も少し戸惑った。
何を話せばいいか分からない瞬間もあった。
買い物では必要性を考えすぎた。
スマートフォンの使い方もまだ慣れない。
それでも。
「……楽しいです」
ノルンは答えた。
美咲が笑う。
「よかった」
「ただ、少し疲れました」
「それも言えるようになったじゃん」
「疲れているのに隠す必要はありませんから」
「うん」
「美咲は?」
「私も楽しい。あと、ちょっと歩き疲れた」
「では同じですね」
「そうだね」
二人でしばらく座った。
沈黙が落ちる。
けれど、やはり気まずくはない。
遠くを通る車の音。
風に揺れる木の葉。
誰かが笑う声。
スマートフォンを操作する小さな音。
美咲は何かを確認していたが、ノルンは覗かなかった。
自分も鞄からスマートフォンを取り出す。
時刻を見る。
思っていたより時間が経っていた。
それでも、焦りはなかった。
「そろそろ帰る?」
美咲が尋ねた。
ノルンは時刻と、自分の身体と、今の気持ちを順番に確かめる。
まだ一緒にいたい気持ちはある。
けれど、十分に過ごしたとも思う。
帰りたくないわけではない。
名残惜しいからと、限界まで時間を延ばす必要もない。
「……もう少し休んでからなら、帰ってもいいと思います」
「じゃあそうしよっか」
「はい」
決まった。
正確な終了時刻を朝から設定していなくても、その時になれば決められる。
それで何も困らなかった。
美咲が少し身体を伸ばす。
「次、いつ会えるかな」
ノルンの胸が小さく動いた。
次。
以前なら、その場で日程を確認したかもしれない。
カレンダーを開く。
管理予定を確認する。
候補日を出す。
次回を確定すれば安心できる。
けれど、美咲は続けた。
「まあ、また連絡すればいいか」
スマートフォンへ伸びかけたノルンの手が止まる。
「今、決めないんですか?」
「ノルン、予定分かる?」
「確認すれば」
「私もまだ分かんないし」
美咲は気楽に笑った。
「また会いたくなったら連絡しよ」
「……会いたくなったら」
「うん。私から送るかもしれないし、ノルンからでもいいし」
「用事がなくても?」
「そこ今日何回確認するの」
「重要なので」
「いいよ。用事なくても」
美咲は少しだけ声を柔らかくした。
「次の予定決めなくても、今日会ったことなくならないから」
ノルンは何も言えなかった。
今日会ったことはなくならない。
次の約束がなくても。
毎日の連絡を約束しなくても。
関係を維持するための確認を設定しなくても。
今日一緒に歩き、笑い、写真を撮ったことはそのまま残る。
そして、写真がなくても、本当はなくならない。
「……そうですね」
「うん」
「では、次は決めません」
「そうしよ」
「ただし」
「何?」
「美咲からの連絡を待つだけにはしません」
美咲が少し驚く。
「私からも、送りたいと思ったら送ります」
言ってから、ノルンは自分の言葉を確かめた。
送らなければならない、ではない。
定期連絡でもない。
送りたいと思ったら。
美咲が嬉しそうに笑った。
「うん。待ってる」
その言葉に、ノルンの意識が一瞬だけ仕事へ触れた。
待ってる。
以前なら、それが相手への負担になる場合について考えていた。
実際、そうなる状況もある。
けれど美咲の「待ってる」は、ノルンへ返信期限を課すようには聞こえなかった。
それでも、同じ言葉が誰に対しても同じ意味になるわけではない。
ここで制度の結論を作る必要はない。
今は、美咲が自分からの連絡を歓迎してくれている。
それだけ受け取ればいい。
「はい」
ノルンは頷いた。
「送ります。送りたい時に」
「うん」
二人はもう少しだけ休んだ。
空の明るさはまだ残っている。
けれど、午後の終わりが少しずつ近づいていることは分かった。
やがて二人は立ち上がり、待ち合わせをした辺りへ戻る方向へゆっくり歩き始めた。
来た時とは違って、ノルンの鞄には一冊の小さなメモ帳が増えている。
スマートフォンには写真が増えた。
そして、それ以上に、自分の中へいくつもの小さな感覚が残っている。
全部を今日中に整理しなくてもいい。
管理記録へ変えなくてもいい。
制度改善へ利用しなくてもいい。
美咲と会った時間は、美咲と会った時間のままでいい。
隣を歩く美咲が、ふとこちらを見た。
「ノルン」
「はい」
「今日、スマホ教える約束だったけどさ」
「はい」
「結局、そんなに教えてないね」
ノルンは少し考える。
「写真を撮りました」
「うん」
「送り方も教わりました」
「うん」
「用事がなくても連絡してよいことも」
「それスマホの使い方かな」
「重要です」
「まあ、いいか」
美咲が笑う。
「次会った時、また何か教えるよ」
次会った時。
日付はない。
時刻もない。
場所もない。
それでも、その言葉を聞いても不安にはならなかった。
「お願いします」
「覚えてたらね」
「忘れる可能性があるんですか」
「あるよ」
「では、私が覚えておきます」
「そこは覚えるんだ」
「教わりたいことですから」
「はいはい」
美咲の笑い声が、夕方へ近づく街のざわめきに混じる。
ノルンも隣で笑った。
今日の終わりは、まだもう少し先にある。
別れの言葉も、管理区域へ戻った後の報告も、買ったメモ帳へ最初に何を書くのかも、今はまだそこまで進めなくていい。
友達と過ごす午後には、予定表に書かれた終了条件がなくても、その時々で「もう少し歩きたい」「少し休みたい」「そろそろ帰ってもいい」と決めることができた。
そして次に会う日を決めなくても、次がなくなるわけではない。
ノルンはそれを制度上の新しい原則として記録しなかった。
ただ、美咲と並んで歩きながら、自分自身の感覚として覚えておくことにした。
少なくとも今日のところは、それで十分だった。




