第七十六話 久しぶりに会った美咲は、私のスマホより先に私の顔を確認しました
木曜日の朝、ノルンは目覚ましが鳴るより少し前に目を覚ました。
薄く開いたカーテンの向こうから差し込む朝の光はまだ柔らかく、部屋の中には夜の静けさがわずかに残っている。普段なら目を開けたあと、その日の観察予定や前夜から継続している案件が自然と頭へ浮かんでくるのだが、今日はそれより先に一つの予定が意識へ上がってきた。
今日、美咲に会う。
何日も前から決まっていたことで、昨日もメッセージを送り合っている。それなのに実際に当日の朝を迎えてみると、十四時という時刻が昨日までよりずっと近く感じられた。
ノルンは枕元のスマートフォンへ手を伸ばした。
時刻を確認する。
通知欄にも目を通す。
美咲から新しいメッセージはない。
昨日の最後のやり取りは、今日十四時頃に以前会った辺りで落ち合うという確認だった。何かあれば連絡すると美咲も言っているのだから、新しい連絡がないのは予定に変更がないというだけのことだろう。
そう理解して、ノルンは画面を閉じた。
ところが数秒もしないうちに、もう一度スマートフォンへ視線が向いた。
「……確認しました」
小さく口に出してから、今度こそ枕元へ戻す。
美咲は連絡すると言った。
自分も連絡できる。
予定も決まっている。
今のところ何も問題はない。
それでも胸の奥には、仕事の前とは少し違う落ち着かなさがあった。
「緊張……でしょうか」
自分へ尋ねても、はっきりした答えは出ない。
嫌なわけではない。むしろ会えることは楽しみにしているし、それは昨日、美咲へも自分の言葉で伝えた。
楽しみなのに落ち着かない。
その二つが同時にあってもいいのだと、最近のノルンなら理解できる。
それでも、実際に自分の中で起きているとなると、観察対象の感情を整理する時ほど簡単にはいかなかった。
布団から出て、窓を少し開ける。
朝の空気が部屋へ入り、寝起きの熱を残していた頬へ触れた。遠くから聞こえる生活音も、今日に限ってはいつもより少し鮮明に感じられる。
まだ朝だ。
十四時までは何時間もある。
朝食を食べ、午前中の管理業務を確認し、引き継ぎを済ませる。それから地球側へ向かえば十分に間に合う。
予定を頭の中で並べると、少し落ち着いた。
ところが洗面を済ませ、髪を整えているうちに、今度は服装が気になった。
昨日までに決めてある。
華美すぎず、仕事着ほど堅くもなく、普段より少し柔らかな印象のもの。美咲へ会うためだけに特別な装いを用意したわけではないが、自分が今日着たいと思えるものを選んだ。
衣装棚を開き、予定していた服を取り出す。
その隣にある別の服へ視線が移った。
「……こちらでも問題はありませんが」
手が伸びかける。
しかし、昨日すでに選んだ。
今日になって問題が見つかったわけでもない。
美咲から服装を指定されたわけでもない。
「昨日の私が選んだものを信用しましょう」
そう言って、最初に決めていた服へ着替えた。
鏡の前へ立つ。
仕事中より少しだけ柔らかく見える。
似合っているかどうかを客観的に評価しようとして、途中でやめた。
今日の服装に評価表は必要ない。
「……これで行きたいです」
鏡の中の自分へ向けて言う。
その言葉が意外なほど素直に出たことに、ノルン自身が少し驚いた。
次に確認したのは、机の端へ置いてある焼き菓子だった。
第七十三話で主様と地球側へ出た時に選んだ、小さくて持ち帰りやすく、高価すぎないもの。美咲に気を遣わせるためではなく、久しぶりに会う時に自分が何か渡したいと思ったから買ったものだ。
包装に崩れはない。
賞味期限も確認済み。
鞄へ入れても潰れにくい位置へ収める。
スマートフォン。
財布。
必要なものを順番に入れ、鞄を閉じた。
三秒後。
ノルンはもう一度開けた。
「焼き菓子……あります」
当然ある。
自分で入れたばかりなのだから。
スマートフォンもある。
財布もある。
充電も十分。
鞄を閉じる。
今度こそ終わりにしようとしたところで、手が止まりかけた。
その瞬間、ノルンは自分の指先を見つめた。
「確認は一度で十分です」
誰かへ言うような口調で、自分へ言う。
何度も確認することで安心しようとすれば、今度は確認しないことが不安になる。
ただし、これはルークの存在確認や接続維持とは違う。
手土産を忘れないよう確認すること自体は悪くない。
似ているところがあるからと、何でも同じ仕組みへまとめる必要もない。
「……朝から制度へ結びつけるのはやめましょう」
思わず息を吐く。
今日は美咲に会う日だ。
観察制度の実地試験ではない。
そのことを忘れないようにして、ノルンは管理区域へ向かった。
朝の管理室は、いつもと変わらない淡い光に包まれていた。
複数世界の観測面が静かに浮かび、夜間に蓄積された報告が順番に整理されている。遠くでは補助記録の更新音が小さく響き、勤務を始めた観察担当者達がそれぞれの席で確認を進めていた。
主様はすでに自分の席についていた。
ノルンが入ってくると、資料から顔を上げる。
いつもなら「おはよう」と言ってすぐ報告へ入るところだが、今日は主様の視線がノルンの顔から足元まで一度ゆっくり動いた。
「おはよう」
「おはようございます」
「それ?」
「何がですか」
「今日の服」
ノルンは反射的に自分の服へ視線を落とした。
「はい」
「いいじゃん」
「……ありがとうございます」
返事をしたあと、主様が少し驚いた顔をした。
「何ですか」
「いや」
「何でしょう」
「もっと確認されるかと思った」
「何をです?」
「『どこがいいんですか』『本当に適切ですか』『美咲に会う服として問題ありませんか』って」
「私はそこまで面倒ではありません」
「昨日まで服一着で悩んでたの誰だっけ」
ノルンは口を閉じた。
否定する材料がなかった。
「……昨日決めましたから」
「うん。それでいいと思う」
「主様に評価していただくために着てきたわけではありません」
「分かってるって」
主様が笑う。
周囲で仕事をしていた補助担当の一人が、会話が聞こえたのかほんの少しだけ口元を緩めた。ノルンがそちらへ目を向けると、すぐに資料へ視線を戻される。
「今、笑いましたか?」
「仕事しよう、ノルン」
「主様が始めたのでは?」
「はいはい」
朝から少しだけ騒がしい。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
ノルンは自分の席へ着き、夜間報告を開いた。
「今日は早めに引き継ぎを終えます」
「その予定」
「異常があれば連絡してください」
「本当にノルンが必要ならね」
「判断が難しい場合は――」
「こっちで判断する」
「接続異常や本人の安全に関わる場合は――」
「ノルン」
主様の声が少しだけ低くなった。
叱るほどではない。
けれど、からかっている時とも違う。
ノルンは言葉を止めた。
「はい」
「昨日も言ったけど、今日は途中から私用の時間なんでしょ?」
「はい」
「だったら、俺達に任せるところまでが仕事」
管理室の空気の中で、その言葉だけが少し長く残った。
ノルンは開いていた資料へ目を落とした。
任せる。
自分がいなくても動くように整える。
必要な時だけ呼んでもらう。
観察対象には「自分で全部背負わなくていい」と何度も伝えてきた。
けれど自分の仕事となると、どうしても「念のため」「もしものため」と一つずつ握り直したくなる。
「……分かりました」
「よし」
「ただし、本当に必要な場合は遠慮しないでください」
「そこはするって」
「世界破壊級だけでなくてもいいですからね」
「分かってる」
「本人の生命、安全、重大な接続異常――」
「もう始まってるじゃん」
「これは条件確認です」
「三回目」
「……では終わります」
主様が満足そうに頷いた。
「健康報告いく?」
「お願いします」
「七時間四十七分。途中覚醒なし。朝食済み。体調問題なし」
そこで主様が止まった。
ノルンは数秒待った。
「……連続日数は?」
「言わない方がいいかと思って」
「なぜですか」
「目標にしないんでしょ?」
「記録として確認することまでやめる必要はありません」
「じゃあ四十一日連続」
「はい。健康が継続していて何よりです」
「結局聞くんだ」
「記録は記録です。連続日数を伸ばすために無理をすることが問題なのであって、結果として継続していることまで無視する必要はありません」
「朝から細かいなあ」
「健康管理です」
ノルン自身は七時間四十三分。
途中覚醒なし。
朝食済み。
体調異常なし。
目覚ましより少し早く起きたものの、睡眠時間は十分に確保できている。
その後、各案件の夜間報告へ移った。
ミレイアは安定。
昨日、自分からエリスへ「次の接続を考えるなら何を決めるのか」と尋ね、説明を受けた。そのうえで「もう一度声を聞くことについて、考えてもいいかもしれない」と記録することを許可したが、昨夜それ以上の進展はない。
家族と夕食を取り、自室で本を読み、普段と大きく変わらない時間に眠っている。
それでいい。
むしろ昨日「今日はまだいい」と言った人へ、翌朝から再び同じ問いを差し出す理由はない。
ルークも安定していた。
名称違和感なし。
位置相当感覚なし。
自動接続兆候なし。
ミレイアの昨日の変化は、もちろん知らない。
フローラにも大きな変化はない。
慈善行事については、まだ王家側の出席者が正式決定していない。フローラ自身も参加を決めておらず、アーノルドが出席回避方向で調整していることも共有されていない。
先日、自分の感情的発言に関する補助メモの削除を希望した人物からも追加申告なし。
ルークが九人の生活をどこまで知っているのか尋ねた別の人物も、新しい質問はしていない。
一覧を最後まで確認し、ノルンは小さく息を吐いた。
「大きな異常はありませんね」
「うん」
「最古層調査は今日は行いません」
主様が少し眉を上げた。
「お」
「何ですか」
「俺が止める前に言った」
「昨日、一枠使いました。今日は美咲と会います。中途半端に新しい資料を開いて、時間ぎりぎりまで調査する必要はありません」
「成長した」
「以前から必要なら止めています」
「七分残ってるのに次の資料開かなかったの、昨日かなり偉かったよ」
「子供ではありません」
「褒められるの嫌?」
ルークと似たことを言われた。
ノルンは一瞬だけ黙る。
「……嫌ではありません」
「じゃあ偉い」
「軽いです」
「注文多いなあ」
主様が笑う。
ノルンもわずかに口元を緩めてから、朝の報告を閉じた。
午前中は、通常の観察確認と制度整理に使った。
セレナとの打ち合わせでは、昨日見つけた教育資料第三版について、現在分かっている範囲だけを整理する。
第一接続者の識別記号と一致する可能性のある文字列が閲覧者記録に存在する。
しかし保存損傷があり、識別体系の重複可能性も否定できない。
したがって、第一接続者が名称固定化事故の教育資料を読んだとは確定しない。
ノルンがその内容を確認すると、セレナは静かに頷いた。
「それで維持しましょう」
「追加照合は次の調査枠で行います」
「今日やらなくていいんですね」
「……なぜ皆さん、今日は私が調査しないことを確認するんですか」
「昨日までなら、七分残っていたら次の資料を開くか悩んでいたからです」
「開きませんでした」
「ですから成長しています」
「主様と同じことを言わないでください」
セレナが少し笑った。
その後、ミレイアの記録も確認する。
「今日はエリスから再確認しません」
「昨日、本人が『今日はまだいい』と言っていますからね」
「はい。ただ、『もう一度声を聞くことについて考えてもいいかもしれない』という発言があったため、管理側としては変化を見落とさないよう――」
そこまで言って、ノルンは止まった。
セレナは何も言わず待っている。
「……見落とさないことと、毎日確認することは同じではありません」
「そうですね」
「昨日の変化を、今日の宿題にしない方がいいです」
「私もそう思います」
ミレイアが一歩進んだように見えたからといって、次の一歩を管理側がすぐ差し出す必要はない。
昨日「考えてもいいかもしれない」と思えた。
今日はそのまま生活していい。
明日も何も考えないかもしれない。
それで昨日の言葉が無効になるわけではない。
資料を閉じる。
セレナが時刻を確認した。
「今日はここまでで大丈夫です」
「まだ少し時間があります」
「何か追加で始める必要がありますか?」
ノルンの頭には、いくつかの案件がすぐ浮かんだ。
観察される側へ観察範囲を説明する制度。
記録削除希望の扱い。
名称接続の安全条件。
フローラの慈善行事。
どれも考えようと思えば考えられる。
しかし、今始めなければ困るものではない。
「……ありません」
「では終わりましょう」
セレナはあっさり立ち上がった。
ノルンも資料をまとめる。
その時、セレナの視線が机の横へ置いた鞄へ向いた。
「手土産、入っていますか?」
「なぜセレナまで確認するんですか」
「昨日、主様から聞きました」
ノルンはゆっくり主様の方を見る。
少し離れた席で、主様が露骨に別の観測面へ顔を向けた。
「主様」
「何?」
「なぜ話したんですか」
「秘密じゃないでしょ?」
「秘密ではありませんが」
「セレナも何選んだか気にしてたし」
たしかに、買い物へ行く前にセレナから「何を選んだか後で少し気になります」と言われていた。
「……小さな焼き菓子にしました」
「いいと思います」
セレナはそれ以上、値段や種類を尋ねなかった。
「美咲さんとの時間を楽しんできてください」
「はい」
どこへ行くのか。
何を話すのか。
何時まで一緒にいるのか。
何も聞かれない。
それが今のノルンには、ありがたかった。
昼を過ぎる頃には、引き継ぎも終わった。
ノルンは最後に自分の席へ座り、観測一覧を一度だけ確認した。
異常なし。
ミレイアも、ルークも、他の案件も安定。
その画面を閉じる。
指が、もう一度開くための操作へ動きかけた。
止める。
「行ってきます」
ノルンは立ち上がった。
主様が顔を上げる。
「いってらっしゃい」
「何かあれば――」
「連絡する」
「はい」
「本当に必要ならね」
「お願いします」
「ノルン」
「何ですか」
「十四時に仕事のこと考えてたら、美咲に怒られてきて」
「なぜ怒られる前提なんですか」
「スマホチェックするって言ってる人なんでしょ?」
「それと仕事は関係ありません」
「スマホに仕事の通知来たら没収されるかも」
「美咲はそんなことをしません」
「もう美咲のことは信用してるんだ」
ノルンは返事に詰まった。
主様が楽しそうに笑う。
「ほら、行っておいで」
「……行ってきます」
今度こそ、ノルンは管理区域を後にした。
地球側へ移った時、空はよく晴れていた。
午後の日差しは夏の盛りほど強くなく、建物の影へ入ると風が少し涼しく感じられる。道沿いには買い物へ向かう人や、スマートフォンを見ながら歩く人、誰かと笑い合いながら進む人がいて、それぞれが自分の一日を過ごしていた。
ノルンも、その中へ混じって歩く。
今日は観察のためではない。
世界の異常を探すためでもない。
美咲と会うためにここへ来た。
それだけの理由で地球側を歩いていることが、少し不思議だった。
待ち合わせ場所へ着いたのは、十四時より少し前だった。
以前、美咲と会った辺り。
特別な場所ではない。
人通りがあり、周囲には店や建物が並び、時折車道から走行音が届く。近くでは買い物袋を持った人が立ち止まり、少し離れたところでは二人組がスマートフォンの画面を見ながら何かを相談していた。
ノルンは人の流れを邪魔しない位置へ移動し、スマートフォンを取り出した。
十三時五十三分。
「……少し早かったですね」
七分。
待ち合わせとしては大きな問題ではないだろう。
美咲へ「着きました」と送ろうかと考える。
しかし、美咲は十四時頃に着くと言っている。
今送れば、まだ移動中だった場合に急がせるかもしれない。
送らない。
ノルンはスマートフォンを鞄へ戻した。
道の向こうへ目を向ける。
知らない人が通る。
また一人。
さらに一人。
その度に、美咲ではないと確認している自分に気づいた。
「これは普通ですよね」
待ち合わせ相手を探しているのだから、相手らしい人へ視線を向けるのは当然だ。
また観察制度へ結びつけかけた自分がおかしくなり、ノルンは小さく笑った。
数分が、いつもより長く感じられる。
仕事中なら同じ時間でいくつかの報告を確認できる。
しかし今は、何も処理する必要がない。
ただ待つ。
人の足音を聞き、風を感じ、時折道の向こうを見る。
待っていることを美咲へ知らせ続ける必要もない。
美咲は来ると約束している。
自分もここにいる。
それだけでよかった。
十三時五十七分。
鞄の中でスマートフォンが震えた。
取り出す。
美咲からだった。
『着いたよー。どの辺いる?』
ノルンは周囲を見回し、近くにある分かりやすい目印を使って現在位置を返信した。
送信。
十数秒。
少し離れた場所で、スマートフォンを見ながら歩いていた女性が顔を上げた。
視線が合う。
ノルンの呼吸が一瞬だけ浅くなった。
美咲だった。
写真ではない。
映像でもない。
メッセージの文字でもない。
以前会った時と同じように、自分の足でこちらへ歩いてくる。
美咲もノルンを見つけたらしい。
一瞬だけ目を大きくしたあと、すぐに表情が明るくなった。
「ノルン!」
片手を上げる。
周囲を歩いていた何人かが一瞬だけ声の方へ視線を向けたが、すぐそれぞれの道へ戻っていく。
ノルンも手を上げた。
「美咲」
名前を呼ぶ。
たったそれだけなのに、スマートフォンで名前を打った時とはまるで違った。
美咲が近づいてくる。
あと十歩ほど。
五歩。
数歩。
ノルンは胸の奥が少し速く動いていることに気づいた。
何を言うのか、事前には決めなかった。
会ってから決めればいい。
そう考えていた。
それなのに、いざ目の前まで来ると最初の言葉が分からない。
美咲が足を止めた。
「久しぶり!」
「……はい。久しぶりです」
「ほんとに久しぶりだね」
「はい」
二度同じ返事をした。
ノルン自身が気づいた時には、美咲の口元がもう緩んでいた。
「緊張してる?」
「少し」
「なんでよ」
「私にも分かりません」
正直に答えると、美咲は声を上げて笑った。
その笑い方を聞いた瞬間、ノルンの肩から少しだけ力が抜けた。
ああ、この人だ。
そんな感覚が、胸の内側へ広がる。
記憶の中にいた美咲。
スマートフォンの向こうから返信してきた美咲。
今、自分の前で笑っている美咲。
それらがようやく一人の相手としてつながったように感じた。
「とりあえず」
美咲がノルンの顔をじっと見る。
ノルンは反射的に姿勢を正した。
「何ですか」
「元気そう」
「……はい?」
「いや、まずそこ見るでしょ。久しぶりなんだから」
「スマートフォンではないんですか」
「何でスマホが先なの」
「昨日、ちゃんと使えているか確認すると」
「あれ冗談半分だから!」
美咲がまた笑った。
「会っていきなり『スマホ見せて』って言うと思ってたの?」
「少し」
「ノルン、相変わらずだね」
その言葉に、ノルンは一度瞬いた。
相変わらず。
以前と同じ。
自分は変わったと思う。
少なくとも以前より、仕事以外の時間を持とうとしている。
人の感情を一つの答えへまとめないようになった。
待つことと、待っていると伝えることを分けるようになった。
知りたいことと、会いたいことを同じにしなくなった。
記録できることを、何でも残すべきだとは思わなくなった。
それでも、美咲から見れば変わらない部分もある。
「……変わっていませんか?」
思わず尋ねた。
美咲が少し驚いた顔をする。
「え?」
「いえ、その……相変わらず、と」
「ああ」
美咲はノルンをもう一度見る。
今度はからかうためではなく、本当に考えているようだった。
「変わってるところもあるんじゃない?」
「例えば?」
「まだ会って一分くらいなんだけど」
「そうでした」
「判定早いよ」
美咲は笑い、それからノルンの服装へ一度視線を落とした。
「でも、前よりちょっと柔らかい感じする」
「服がですか?」
「そこもだけど」
「そこも?」
「うん。まだ一分だから詳しくは分かんないけど」
美咲は少し照れたように頬を緩めた。
「連絡くれたの、嬉しかったよ」
ノルンの呼吸が止まりかける。
似たことはメッセージでも聞いていた。
けれど、目の前で表情と一緒に受け取ると、文字とは違う重さがあった。
「……私も」
「うん」
「連絡してよかったと思っています」
美咲が少し黙る。
車道を車が通り過ぎる音がした。
近くを歩いていた親子の会話が一瞬聞こえ、すぐ遠ざかる。
二人だけの世界ではない。
普通の街の中で、普通の人達がそれぞれの時間を過ごしている。
その中で、美咲が柔らかく笑った。
「そっか」
「はい」
「じゃあ、とりあえずどっか行こ。ずっとここで立ってる?」
「そうですね」
「何か決めてきた?」
「いいえ」
「私も」
美咲は周囲を見回す。
「歩きながら決めよ」
「はい」
二人で並んで歩き始めた。
どちらかが強く先導するわけでもなく、人の流れに合わせてゆっくり進む。
数歩歩いたところで、ノルンは鞄の中の焼き菓子を思い出した。
今渡すべきか。
座ってからの方がいいか。
別れ際でもいいのか。
そもそも歩きながら渡すのは――。
「今、何か考えてるでしょ」
横から美咲の顔が覗き込んできた。
「……分かりますか」
「顔」
「最近、それをよく言われます」
「誰に?」
「主様です」
「誰?」
「あ」
ノルンは少しだけ困った。
美咲へ主様のことをどこまで話していたのか、ここで都合よく過去を補うわけにはいかない。
「仕事関係の人です」
「へえ。ノルンの顔分かる人なんだ」
「最近、よく顔で判断されます」
「分かりやすいんじゃない?」
「そんなはずはありません」
「今も『そんなはずない』って顔してる」
ノルンは黙った。
美咲が楽しそうに笑う。
その笑い声を聞いているうちに、手土産を渡す完璧なタイミングを考えていたことが少し馬鹿らしくなった。
「あの、美咲」
「ん?」
「これを」
ノルンは人の流れを邪魔しない場所へ寄り、鞄から焼き菓子の箱を取り出した。
美咲が目を丸くする。
「え、何?」
「久しぶりに会うので、何か渡したいと思って」
「わざわざ買ってきたの?」
「はい」
「えー、いいのに」
美咲はそう言ったものの、すぐには手を出さなかった。
ノルンの胸に小さな不安が生まれる。
重かっただろうか。
気を遣わせたのではないか。
選択を間違えたのかもしれない。
そんな考えが顔へ出たらしい。
「違う違う、嫌じゃないよ」
美咲が慌てて手を振った。
「ただ、私何も持ってきてないから」
「必要ありません」
「でもさ」
「私が渡したかっただけです」
言ってから、ノルンは少しだけ間を置いた。
「受け取ってもらえたら、私は嬉しいです。ただ、何か返さなければとは思わないでください」
美咲が一瞬黙る。
それから、ふっと笑った。
「そこまで説明する?」
「……しない方がよかったですか」
「いや。ノルンらしいなと思って」
美咲は両手で箱を受け取った。
「ありがとう。嬉しい」
「はい」
「家帰って食べるね」
「賞味期限はまだ余裕があります」
「そこまで確認済みなんだ」
「当然です」
「やっぱりノルンだ」
また笑われた。
でも、嫌ではなかった。
むしろ「ノルンらしい」と言われるたび、少し安心している自分に気づく。
変わったところを見つけてほしい。
それと同時に、変わらない自分も覚えていてほしい。
どちらか片方だけを望む必要はないのかもしれない。
しばらく歩いたあと、二人は腰を落ち着けられる場所を見つけた。
周囲には他にも何組か人がいる。
飲み物を手に話している二人組。
買い物途中らしい家族。
少し離れた席では、一人の男性がイヤホンをつけてスマートフォンを見ている。
適度なざわめきがあり、二人の会話だけが周囲から切り離されることもない。
「で」
美咲が座るなり手を出した。
「スマホ」
「やはり確認するんですね」
「するよ。昨日言ったじゃん」
「冗談半分では?」
「半分は本気」
ノルンは鞄からスマートフォンを取り出した。
「おお、本当に持ってる」
「連絡していたでしょう」
「それはそうなんだけど。実物見るとちょっと面白い」
「なぜです?」
「ノルンがスマホ持ってる」
「それの何が面白いんですか」
「なんとなく」
美咲は勝手に触らず、ノルンが持ったままの画面を覗き込んだ。
「普段何に使ってる?」
「美咲との連絡」
「それだけ?」
「時刻確認」
「時計じゃん」
「必要な機能です」
「他は?」
「少し調べ物をします」
「写真は?」
「ほとんど撮っていません」
「動画とか音楽とかは?」
「特には」
「地図」
「必要な時だけです」
美咲の表情が、質問を重ねるたびに少しずつ変わっていく。
やがて、何とも言えない顔でノルンを見た。
「ノルン」
「はい」
「スマホ、全然遊んでないね」
「遊ぶために買ったわけではありません」
「でも遊んでもいいんだよ」
その言葉に、ノルンは少しだけ止まった。
遊んでもいい。
昨日まで、自分用のお菓子を買うことについても似たことを考えていた。
仕事に必要だからではない。
誰かへ渡すからでもない。
ただ、自分が食べたいから買う。
スマートフォンも、必要だから使うだけではなくていいのだろうか。
「何をすればいいんですか」
「そこから?」
「はい」
美咲が笑いながら自分のスマートフォンを取り出す。
「別に何でもいいよ。写真撮ったり、気になるもの調べたり、友達と連絡したり。便利な機能探すのもいいし」
「友達」
「うん」
美咲は自然に言った。
ノルンはその言葉へ少しだけ意識を引かれた。
以前、自分から美咲を友達と呼んでいいのか迷ったことがある。
ルークへ聞かれた時も、「そう呼んでもいいと思います」と少し曖昧な答え方をした。
今、美咲は何のためらいもなく友達という言葉を使った。
自分を含んでいるとは限らない。
一般論かもしれない。
そう考えかけたところで、美咲が続ける。
「私にも普通に送ってよ。用事なくても」
「用事がなくても?」
「うん。『今日こんなの見た』とか」
「それは返信が必要ですか」
「別にすぐじゃなくていいよ」
「返さなくても?」
「内容によるけど、雑談なら後でもいいし。私も忙しかったら遅くなるし」
ノルンは黙って美咲を見る。
以前、美咲からの返信を待ったことを思い出す。
あの時、美咲は返信が遅れた理由を説明してくれた。
ノルンはそこで、待つ側の時間について考えた。
けれど美咲は今、もっと簡単に言っている。
すぐ返さなくてもいい。
用事がなくても送っていい。
返事が遅くても、それだけで何かが壊れるわけではない。
「……難しいですね」
「何が?」
「用事のない連絡です」
「そんな真剣に考える?」
「何を送ればいいのか分かりません」
「じゃあ練習する?」
「練習?」
美咲が周囲を見回した。
少し離れたところに、季節を感じさせる小さな飾りが置かれている。
「あれ、写真撮ってみたら?」
「なぜですか」
「なんとなく可愛いから」
「なんとなく」
「そう。なんとなく」
ノルンは飾りを見る。
管理上の価値はない。
安全記録にも使わない。
資料にもならない。
美咲が「なんとなく可愛い」と思った。
それだけだ。
「撮ってどうするんですか」
「残しとけば?」
「何のために?」
「後で見て、『美咲と会った日に撮ったな』って思うかも」
ノルンの指が止まった。
昨日、自分達は記録を残さないことについて考えていた。
本人が残してほしくないもの。
未来のためという理由で、管理側が勝手に所有し続けてはいけないもの。
忘れる余地を残すこと。
けれど今、美咲は自分へ「残したいものを残す」話をしている。
管理記録ではない。
観察記録でもない。
誰かを評価するためでもない。
自分が後で見たいと思うかもしれないから残す写真。
「……撮ってみます」
「うん」
ノルンはカメラを開いた。
慣れていないため、最初は画面上の表示へ視線が迷う。
美咲が横から指を伸ばすが、勝手に操作せず、ノルンが見える位置で示した。
「ここ押せば撮れる。ちょっと上向けた方が入りやすいかも」
「こうですか」
「うん。あ、でもノルンが好きな感じでいいよ」
「好きな感じ」
「写真に正解ないから」
「……また難しいことを言いますね」
「なんでよ」
美咲に笑われながら、ノルンは一枚撮った。
小さな撮影音。
画面に写真が残る。
少し傾いている。
「傾きました」
「初々しい」
「撮り直します」
「いいけど、最初のも消さなくてよくない?」
削除しかけた指が止まる。
「失敗では?」
「別に。最初に撮ったやつでしょ?」
ノルンは画面を見つめる。
綺麗な写真とは言いにくい。
構図も少しずれている。
それでも、自分が初めて「必要だから」ではなく撮った写真だった。
「……残します」
「うん」
二枚目を撮る。
今度は少しまっすぐになった。
「上手くなった」
「一枚で?」
「成長率すごい」
「比較対象が少なすぎます」
「そういう返しするところ、本当に変わらないね」
美咲が笑う。
ノルンも、今度は自然に笑った。
その後、美咲にいくつか基本的な操作を教えてもらった。
写真の見方。
不要な通知を整理する方法。
必要な機能を探す時に、全部を一度に覚えなくてもいいこと。
美咲は「これも」「あれも」と一気に詰め込まず、ノルンが一つ操作するたびに待ってくれた。
「全部今日覚える必要ないからね」
「忘れた場合は?」
「また聞けばいいじゃん」
「美咲に?」
「私でもいいし、調べてもいいし」
「同じことを二度聞いても?」
「いいよ」
「何度までですか」
「回数決めるの?」
美咲が笑う。
「分かんなくなったら聞けばいいって」
「……分かりました」
「絶対今、内部で『質問回数上限なし』って記録したでしょ」
「していません」
「顔がしてる」
「顔でそこまで分かりません」
二人の笑い声が周囲のざわめきへ溶けていく。
スマートフォンの話が一段落すると、会話は少しずつ別の方向へ移った。
「最近どうしてたの?」
美咲が飲み物へ口をつけながら尋ねる。
「仕事をしていました」
「うん、それは知ってる」
「……それ以外ですか」
「そう。それ以外」
ノルンは少し考えた。
仕事以外。
以前なら、そこで答えが止まっていたかもしれない。
「最近は、前より休むようになりました」
「ほんと?」
「はい」
「ちゃんと寝てる?」
「七時間以上は確保しています」
「おお。えらい」
「主様も最近、七時間以上を継続しています」
「だから誰なの、その主様って」
また出してしまった。
美咲が可笑しそうに笑う。
「仕事上の上司に近い人です」
「近い?」
「厳密な役職関係を説明すると長くなるので」
「じゃあいいや」
あっさり引かれた。
ノルンは少し意外に思う。
「聞かないんですか」
「今、長くなるって言ったじゃん」
「はい」
「じゃあ今度でいいよ」
今度。
美咲は自然にそう言った。
次に会う日程を決めたわけでもない。
それでも「今度」という言葉を使う。
未来の約束というより、続きを話せる余地を残しているだけのように聞こえた。
「仲いいの? その人と」
「どうでしょう」
「その顔は仲いいやつじゃない?」
「また顔ですか」
「だって分かりやすいんだもん」
「そんなはずはありません」
「今日何回目、それ」
美咲が笑う。
ノルンも少しだけ笑った。
「でも、前より仕事の人の話するようになった気がする」
その言葉に、ノルンは少し考えた。
以前の自分が美咲へどこまで仕事の話をしていたのか、細部まで正確に思い出せるわけではない。
ただ、今は主様やセレナを「仕事を行うために存在する人」としてだけではなく、一緒に過ごす相手として自然に思い浮かべている。
「……そうかもしれません」
「仕事はまだ大変?」
「大変です」
「即答だ」
「神様達が問題を増やしますので」
美咲が一瞬止まる。
それから吹き出した。
「そこは変わんないんだ」
「変わってほしいです」
「無理そう?」
「今のところは」
二人で笑った。
会話は途切れなかった。
正確には、何度か沈黙はあった。
美咲が飲み物を口へ運ぶ時。
ノルンが質問への答えを考える時。
近くを通った人の声へ一瞬意識が向く時。
けれど、その沈黙を急いで埋める必要はなかった。
少し黙る。
風が通る。
またどちらかが話す。
それだけで会話は続いていた。
「ノルンさ」
美咲がふと、少し声を落とした。
「はい」
「連絡くれた時、びっくりしたって送ったじゃん」
「はい」
「本当にびっくりしたんだよね」
美咲は手元の容器を見ながら、指でその縁をなぞった。
「もう連絡来ないかもって、ちょっと思ってたから」
ノルンはすぐに言葉を返せなかった。
胸の奥へ、小さな重みが落ちる。
自分が連絡しなかった時間。
仕事が終わったら。
落ち着いたら。
余裕ができたら。
そうやって先へ送っていた間にも、美咲には美咲の時間が流れていた。
「責めてるわけじゃないよ」
美咲がすぐ続けた。
「それは分かっています」
「忙しいんだろうなって思ってたし。ノルン、そういう人だし」
「そういう人」
「仕事あると全部そっちやろうとする人」
否定できなかった。
ノルンは膝の上で重ねていた指へ少し力を入れる。
「だから、連絡来た時嬉しかった」
美咲が顔を上げた。
「スマホ持ったってことより、ノルンが『連絡しよう』って思ってくれたのが」
ノルンは美咲の目を見る。
スマートフォンを買った日。
連絡先を開いた日。
最初の文章を何度か見直して、送信した時。
あの時は、自分の生活を仕事の外へ少し広げるための行動だと思っていた。
けれど、その向こうには美咲がいた。
自分からの連絡を受け取る人がいた。
嬉しいと思ってくれた人がいた。
「……遅くなって、すみません」
自然に言葉が出た。
美咲は少し眉を下げる。
「謝ってほしいわけじゃないって」
「でも」
「じゃあさ」
美咲は少し考えたあと、声を柔らかくした。
「今度は、また何年も空けなきゃいいんじゃない?」
ノルンは顔を上げた。
「毎日連絡しろとかじゃないよ。私もそんなマメじゃないし」
「はい」
「たまに何かあったら送るとか。何もなくても、さっきの写真みたいなの送るとか」
「用事がなくても」
「そう」
「返信がすぐなくても」
「そうそう」
「会う予定がなくても?」
「送っていいよ」
美咲は笑った。
「友達なんだから」
今度は一般論ではなかった。
はっきりとノルンへ向けられた言葉だった。
胸の奥が温かくなる。
すぐに分析しようとする自分がいた。
これは安心なのか。
嬉しさなのか。
過去の空白に対する安堵なのか。
けれど、途中でやめた。
今は分類しなくていい。
「……はい」
ようやく出た声は、少しだけ小さかった。
「友達です」
「うん」
「私も、美咲を友達だと思っています」
「知ってる」
「知っていたんですか」
「今の流れで違ったら結構ショックだよ」
「それは……そうですね」
二人とも笑った。
ノルンは目元が少しだけ熱くなるのを感じた。
泣くほどではない。
けれど、長く閉じていた場所へ風が通ったような感覚があった。
観察官である自分。
世界の安全を考える自分。
神様達の失敗を確認し、本人の選択を守るために制度を考える自分。
それだけではない。
友達と会い、用事のない連絡をしてもいい自分がいる。
仕事と私生活のどちらか一方を選ばなければならないわけではない。
「じゃあさ」
美咲がスマートフォンを持ち上げた。
「せっかくだし、一緒に写真撮る?」
「一緒に?」
「嫌ならいいけど」
ノルンは一瞬考えた。
写真を残す。
今度は飾りではない。
自分と美咲を。
管理のためではない。
本人確認でもない。
証拠でもない。
後で見たいと思うから。
「……撮りたいです」
自分の口から出た言葉に、少しだけ驚いた。
美咲が笑う。
「お、素直」
「今日はよく言われます」
「じゃあこっち来て」
美咲が少し身体を寄せた。
ノルンも隣へ近づく。
肩が触れそうな距離になる。
スマートフォンの画面の中へ、二人の顔が入った。
美咲は自然に笑っている。
ノルンは、自分の顔が明らかに固いことに気づいた。
「硬い硬い」
「どうすればいいんですか」
「普通に笑って」
「普通にと言われても」
「さっき笑ってたじゃん」
「意識すると難しいです」
「じゃあ笑わせる?」
「何を――」
美咲が突然、先ほどノルンが写真を撮った時の真似をして、妙に真剣な顔でスマートフォンを構えた。
「『これは管理記録ではありません』」
「そんな言い方はしていません」
「顔が言ってた」
「また顔ですか」
美咲が吹き出す。
ノルンも耐えきれず笑った。
その瞬間。
撮影音が鳴った。
「あ、今のいい」
美咲が画面を見る。
ノルンも隣から覗き込む。
そこには笑っている美咲と、その横で自然に笑っている自分がいた。
仕事中に記録用の映像へ映る時とは違う。
何かを説明している顔でもない。
誰かの安全を確認している表情でもない。
ただ、美咲の隣で笑っている。
「……私、こんな顔していたんですね」
「するよ」
「管理中にはあまり」
「今日は管理中じゃないでしょ」
美咲の一言が、静かに胸へ残った。
今日は管理中ではない。
分かっていたはずだった。
主様にも任せてきた。
セレナにも送り出された。
それでも、どこかで自分はまだ「仕事を一時中断している観察官」だった。
美咲に言われて初めて、その考えが少し変わった。
今は、美咲と会っているノルンだ。
「写真、送るね」
「お願いします」
「ノルンのスマホにも残しときな」
「はい」
美咲が操作を教えながら写真を送る。
少しして、ノルンのスマートフォンへ通知が届いた。
受け取った写真を開く。
さっき撮ったばかりなのに、最初に撮った季節の飾りよりずっと長く見ていたくなった。
「消さないでね」
美咲が冗談めかして言う。
ノルンは画面から顔を上げた。
「消しません」
迷わなかった。
「これは、残したいです」
美咲が少しだけ目を丸くした。
そのあと、柔らかく笑った。
「そっか」
「はい」
昨日、自分達は誰かの記録を削除した。
本人が残してほしくないと望んだから。
今日は、自分が写真を残したいと思っている。
どちらも同じ方向を向いている。
残すことが正しいのではない。
消すことが正しいのでもない。
誰のために、誰が残したいのか。
今、この写真について決めるのはノルン自身だった。
そのことが、妙に嬉しかった。
しばらくして、スマートフォンが一度震えた。
ノルンは反射的に画面を見る。
管理側からの緊急連絡ではない。
美咲が送った写真の通知が、少し遅れてもう一度表示されただけだった。
「仕事?」
美咲が尋ねる。
「違いました」
「何かあったら戻らなきゃいけない?」
「本当に私が必要な異常なら、連絡すると言われています」
「じゃあ今は?」
ノルンはスマートフォンを伏せた。
管理一覧を確認する必要はない。
主様がいる。
セレナもいる。
他の観察担当者もいる。
「今は大丈夫です」
「ならよかった」
美咲はそれ以上聞かなかった。
どんな仕事なのか。
何が起きれば戻るのか。
なぜノルンでなければならないことがあるのか。
聞こうと思えば、いくらでも聞けるはずだ。
けれど美咲は、ノルンが今話した範囲で止まった。
ノルンはそのことにも、少しだけ安心した。
知りたいことがあるからと、全部を聞く必要はない。
話せる範囲を相手が示したなら、そこで止まることもできる。
制度としてではなく、目の前の友達が自然にそうしていることが、ノルンには少し新鮮だった。
「もう少し歩く?」
美咲が尋ねた。
ノルンは時刻を確認しようとして、途中で手を止めた。
戻る時間は決めていない。
主様からも終了時刻を指定されていない。
本当に必要なら連絡が来る。
「はい」
「どこ行く?」
ノルンは周囲を見る。
行きたい場所を事前に調べてはいない。
今日の目的は美咲と会うことだった。
その先を決めていないことが、朝までは少し不安だった。
今は違う。
「……歩きながら決めてもいいですか」
美咲が笑った。
「もちろん」
二人は立ち上がった。
午後の街は、待ち合わせをした頃より少しだけ光の角度が変わっている。人の流れは相変わらず途切れず、遠くから聞こえる話し声や車の走行音、店先から漏れる音が重なり合っていた。
ノルンは美咲と並んで歩く。
手土産は渡した。
スマートフォンの使い方も少し教えてもらった。
友達だと、互いに言葉にした。
写真も残った。
それでも、今日をここで「再会は成功した」とまとめる必要はない。
何か一つ結論を出すために会ったわけではない。
このあと何をするかは、まだ決まっていない。
何を話すかも分からない。
何時に別れるかも決めていない。
次にいつ会うのかも決めていない。
それなのに、不安ではなかった。
美咲が隣にいる。
少し先に人の流れがあり、二人はそれに合わせて歩いていく。
途中、美咲が店先に並んでいるものへ目を向けた。
「あ、ちょっと見てもいい?」
「はい」
「ノルン、興味なかったら外で待っててもいいよ」
「一緒に見ます」
「お」
「何ですか」
「いや、即答だったから」
「一緒に歩いている途中ですから」
「そっか」
美咲は嬉しそうに笑った。
二人は並んだまま、店先へ少し近づく。
何かを買うと決めたわけではない。
そこへ行くことも予定にはなかった。
美咲が気になったから、少し見る。
ノルンも一緒に見る。
それだけだった。
仕事であれば、目的を定める。
必要な情報を集める。
終了条件を確認する。
けれど今は、目的が途中で増えてもいい。
予定になかった場所へ立ち寄ってもいい。
何も買わずに出てもいい。
その自由さを、ノルンはまだ完全には使いこなせていない。
それでも、以前よりは分かる。
用事のない連絡をしてもいい。
役に立たない写真を残してもいい。
行き先を決めずに歩いてもいい。
友達と過ごす時間に、達成項目を用意しなくてもいい。
美咲が何かを見つけ、少し楽しそうにノルンを呼ぶ。
「ノルン、これ見て」
「何ですか?」
呼ばれた方へ歩く。
その瞬間、ノルンは自分がスマートフォンも、管理区域も、今日の終了時刻も気にしていないことに気づいた。
だからといって、仕事を忘れたわけではない。
責任を捨てたわけでもない。
ただ今は、そこへ戻らなくていいだけだ。
美咲の隣へ立つ。
二人で同じものを見る。
それが何か特別な出来事につながる必要はない。
今日の残り時間がどうなるのかも、まだ分からない。
けれど、ノルンはそれを急いで決めようとは思わなかった。
久しぶりに会った友達と、もう少し一緒に歩きたい。
今のノルンには、その気持ちだけで次の場所へ向かう理由として十分だった。




