第七十五話 会う前日に『楽しみ』と送るだけなのに、送信ボタンを押すまで三分かかりました
翌朝、ノルンは目を覚ますと、枕元へ置いていたスマートフォンを手に取った。
時刻を確認する。
それから、通知欄へ視線を落とした。
美咲から新しいメッセージが一件届いている。
まだ起き上がる前だったため、ノルンは一度スマートフォンを胸元へ下ろした。仕事上の緊急連絡ならともかく、美咲からの連絡を寝床の中で急いで読む必要はない。そう考えてみたものの、すでに内容が気になっている以上、わざわざ我慢する方が不自然にも思えた。
「……これは、確認していいですよね」
誰に許可を求めているのか自分でも分からないまま、画面を開く。
美咲からの文面は短かった。
『明日よろしく! 14時くらいに前の辺り着くようにするね。もし何かあったら連絡してー!』
ノルンはその一文を、なぜか二度読んだ。
明日。
十四時。
以前会った辺り。
何も変わっていない。
すでに決めた予定を、美咲が改めて確認しただけだ。
それなのに、「明日」という二文字を見ると、予定が急に近づいたように感じる。
「……明日なんですね」
当然だった。
何日も前から分かっていた。
それでも、予定表の中にある「来週木曜日」と、目の前にある「明日」では、感じ方が少し違う。
ノルンは返信欄を開いた。
『こちらこそよろしくお願いします。14時頃に行きます。』
そこまで入力する。
悪くない。
必要な内容は入っている。
しかし、少し固い気がした。
全文を消す。
『明日よろしくお願いします。私も14時頃に向かいます。』
今度は自然になった気がする。
だが、美咲の文面と比べると、まだ仕事の連絡に近い。
しばらく考え、
『明日よろしくお願いします。私も14時頃に向かいます。会えるのを楽しみにしています。』
と付け足した。
そこで指が止まった。
「……楽しみにしています」
声に出してみる。
変ではない。
以前、自分から「会えたら嬉しい」と送っている。
美咲からも「私もまた会えたら嬉しい」と返ってきている。
すでに互いに会いたいことは分かっている。
なら、「楽しみにしています」と送っても何も問題はない。
ないはずなのに。
ノルンは送信ボタンの上で指を止めたまま、妙に長く考えた。
これを送ると、美咲に何かを要求しているように見えないだろうか。
楽しい時間にしなければならないと感じさせないだろうか。
明日は絶対に来なければいけないという圧力にならないだろうか。
そこまで考えて、ノルンは目を閉じた。
「……違いますね」
これは、最古層記録の「待っていると知らせる」問題ではない。
十三年間待った側の期待を、相手へ背負わせる話でもない。
会うことを迷っている人へ、「楽しみにしている」と伝えて判断を迫る場面でもない。
美咲は自分から会いたいと言った。
日程を提示した。
場所も時間も一緒に決めた。
そして今、明日の確認を自分から送ってくれている。
状況が違う。
同じ言葉でも、関係と文脈が違えば意味も変わる。
ノルンは小さく息を吐いて、送信した。
画面に自分の文章が表示される。
『明日よろしくお願いします。私も14時頃に向かいます。会えるのを楽しみにしています。』
送ってしまえば、どうということのない一文だった。
「……三分も悩むことではありませんでした」
そう呟きながらも、少しだけ頬が緩んだ。
起床後の支度を整え、朝食を済ませる。
衣装棚の前でも昨日より長くは迷わなかった。
明日着る服については、昨夜のうちに二着まで候補を絞っていたからだ。
最終的には、普段より少しだけ柔らかな印象のある服を選んだ。華美ではなく、仕事着ほど堅くもない。長時間歩いても疲れにくそうなもの。
鏡の前で合わせてみる。
「……これでいいです」
昨日までの自分なら、「もっと適したものがあるかもしれない」と衣装棚へ戻っていた気がする。
今日は戻さなかった。
完璧な服を探す必要はない。
美咲に会うために、自分がこれでいいと思えたなら、それで十分だった。
管理区域へ入ると、主様はいつもの席にいた。
ノルンの顔を見るなり、開口一番、
「決まった?」
と聞いてきた。
「何がですか」
「服」
「なぜそれが朝一番なんですか」
「昨日ずっと悩んでたから」
「決まりました」
「おお」
「その反応は何ですか」
「ちゃんと進んでるなって」
「服を一着選んだだけです」
「でも昨日は決めてなかった」
「昨日決める必要がなかったからです」
「今日は決めたかった?」
「はい」
ノルンが素直に答えると、主様は一瞬だけ目を丸くした。
「いいね」
「何がですか」
「今の」
「普通に答えただけです」
「うん。その普通がいい」
また何か言われそうだったので、ノルンは先に資料を机へ置いた。
「睡眠報告をお願いします」
「はいはい。七時間五十一分。途中覚醒なし。朝食済み。体調問題なし」
主様はそこで一度、わざと口を閉じた。
ノルンは待つ。
「……四十日連続」
「言うんですね」
「言わないと気持ち悪くなってきた」
「習慣化していませんか」
「観測記録としては節目じゃない?」
「健康が継続していることは良いことです。ただし、四十日を達成したから明日も絶対八時間近く寝なければならない、という目標に変えないでください」
「分かってます」
「本当に?」
「もう何回言われたと思ってるの」
「今後も必要なら言います」
「それも分かってる」
主様が苦笑する。
ノルン自身は七時間四十五分。途中覚醒なし。朝食済み。体調異常なし。
朝の基礎確認を終え、各案件の夜間報告へ移る。
ミレイアに大きな変化はない。
昨日の夕方は家族と食事をし、その後は自室で読書をして眠った。ルークに関する自発的な発言はなく、次回接続についての希望も出ていない。
ルークにも異常なし。
名称関連の違和感なし。
位置相当感覚なし。
接続衝動なし。
自分の過去の名前についての新しい質問もない。
昨日の記録削除希望を出した人物については、補助メモ削除後の追加申告なし。担当観察者との関係にも現時点で目立った変化はない。
フローラとアーノルドの慈善行事についても、王家側の出席者はまだ確定していなかった。
「今日は静かですね」
ノルンが一覧を閉じると、主様が頷く。
「うん」
「最古層記録を再開してもいいかもしれません」
口にしてから、ノルンは自分の感覚を確かめた。
第六十九話で名称固定化事故の重い記録を読んだ翌日、一度調査を休んだ。
その後も目の前の案件が続き、最古層へ戻っていない。
調査を避けているわけではない。
ただ、必要以上に優先しなくなった。
「調べたい?」
主様に聞かれ、ノルンは少し考える。
「はい」
「今日やる必要ある?」
「……あります、とは言い切れません」
「じゃあ?」
「予定していた一枠だけ調べます。その後は現在案件へ戻ります」
「了解」
以前なら、「時間があるならできるだけ読む」としていただろう。
今は一枠だけ。
それで十分だ。
ノルンは最古層記録を開いた。
今回調べたいのは、名称固定化事故そのものの続きではない。
もっと手前に残っていた疑問。
第一接続者は、後世に問題となった名称固定化事例を知っていたのか。
もし知っていたなら、「名前を固定しない」「見つけやすくしすぎない」という判断に、その旧事故が影響していた可能性がある。
逆に知らなかったなら、第一接続者は別の経験から同様の結論へたどり着いたことになる。
どちらかで、記録の読み方が変わる。
ただし、それを確定させる資料はまだ見つかっていない。
「検索条件は狭くします」
主様が横から覗く。
「第一接続者と旧事故の両方が出る記録?」
「はい。ただし、後世の要約資料は一度外します」
「なんで?」
「『第一接続者は過去の失敗を踏まえて名称を避けた』と後から整理されている可能性があります。まず同時代資料を探します」
「最近、後世のまとめ信用しなくなったね」
「信用しないのではなく、原資料と区別しています」
「はいはい」
検索を始める。
古い管理記録は損傷が多く、同じ時期の資料でも保存状態に差がある。
しばらくは、該当しない記録ばかりが続いた。
接続頻度。
反応波形。
外在反応群の分類。
観察補助者の交代記録。
第一接続者本人の休養記録。
そして、その中に一つ、気になる文書が混ざっていた。
――『接続者教育資料 改訂第三版 閲覧者記録』
「教育資料?」
ノルンが呟く。
主様が顔を寄せる。
「昔の観察側向け?」
「おそらく」
文書自体はかなり傷んでいた。
閲覧者の一覧も多くが欠けている。
ただし、第一接続者の識別記号と一致する可能性のある文字列が一箇所あった。
「これだけでは確定できません」
「見たかもしれない?」
「はい。でも、同じ識別記号体系を別担当が使っていた可能性もあります」
ノルンは先へ進む。
教育資料の本文はほとんど残っていない。
それでも、目次断片だけは読めた。
『個体識別の利点と危険』
『呼称固定による応答偏向』
『管理便宜上の名称付与を避ける条件』
『既存識別構造へ介入する際の注意』
ノルンの指が止まる。
「かなり近いですね」
「第一接続者がこれを読んでたなら、名称を避けた理由の一部になる?」
「可能性はあります」
「でもまだ可能性」
「はい」
閲覧者記録をさらに追う。
第一接続者と一致するかもしれない識別記号の横に、日付らしき断片がある。
それは、外在個体との再接続が始まるより前。
おそらく数年前。
「……時系列上は読める位置にあります」
「じゃあ読んだ?」
「主様」
「分かってる。まだ確定じゃない」
「はい」
ノルンは少し笑った。
主様も最近、先走った結論を言った後に自分で止まるようになっている。
教育資料そのものを探す。
しかし、完全版は見つからない。
代わりに改訂履歴の一部が出てきた。
そこには、第三版へ追加された項目として、
――『呼称固定後の強制分離事例を追記』
という記述があった。
「名称固定化事故のことかもしれません」
「かもしれない、ね」
「はい」
さらに、
――『接続者本人の善意による呼称反復も固定化要因となり得るため、悪意・強制の有無のみで安全判断しない』
という断片。
ノルンはその行を何度も読んだ。
「善意でも起こる」
「うん」
「これは今の制度にも重要ですね」
「ルークがミレイアの名前を呼びたいって言ってる件?」
「直接同じ仕組みかは未確定です。ただ、『優しい目的だから安全とは限らない』という考え方自体は参考になります」
ルークがミレイアの名前を呼びたい理由は、相手へ直接言葉を届けたいからだ。
支配したいわけでも、縛りたいわけでもない。
むしろ丁寧に伝えたいという気持ちに近い。
だからこそ、「悪意がないので大丈夫」と判断してはいけない。
ただし、逆も同じだ。
古い事故で危険だったから、現在の名前使用も必ず危険だと決めるべきではない。
「……同じに見える二つを、本人が同じと言う前に一つにしない」
ノルンがぽつりと呟くと、主様が頷いた。
「セレナと作った考え方だね」
「はい。ここでも使えます」
最古層記録で見つかったのは、それだけだった。
第一接続者が教育資料第三版を実際に読んだ確証はない。
ただ、時代的にはアクセス可能だった。
閲覧者記録にも一致する可能性のある識別記号がある。
さらに、第三版には呼称固定後の強制分離事例が追記されていたらしい。
つまり、「第一接続者は旧事故を知らなかった」とも言えなくなった。
しかし、「知っていた」ともまだ言えない。
ノルンは調査枠の終了時刻を確認した。
残り七分。
以前なら、もう一つだけ関連資料を開いていた。
今日は閉じた。
「終わり?」
主様が尋ねる。
「はい」
「あと七分あるけど」
「次を開けば七分では終わりません」
「正解」
「問題を出していたんですか」
「別に。でも前なら開いてたよね」
「……開いていました」
認めると、主様は満足そうに笑った。
最古層の資料を閉じたあと、ノルンはセレナへ新しい断片だけ共有した。
ただし、現在制度の根拠としては使わない。
第一接続者が旧事故を知っていた可能性についても、未確定として扱う。
「教育資料の改訂履歴は興味深いですね」
セレナは目次断片を読みながら言った。
「特に『善意による呼称反復も固定化要因となり得る』という部分です」
「今の名称接続検討に使えますか」
「直接適用はまだ早いでしょう。ただ、『意図の善悪と技術的安全性は分けて考える』という理由資料には使えるかもしれません」
「やはりそこですね」
「ええ。ただし、これも古い資料を権威として使わないように」
「分かっています」
「ノルンさん、最近はそこで即答しますね」
「何度も注意されていますから」
「注意だけで変わる人ばかりなら制度はもっと簡単なんですが」
セレナの言葉に、ノルンは少し笑った。
制度整理を終えた頃、スマートフォンが一度だけ震えた。
業務中は机の端へ伏せて置いていたが、通知音は切っている。振動だけが木の机を小さく揺らした。
ノルンは反射的に手を伸ばしかけ、止めた。
今すぐ確認しなければならない連絡か。
美咲からなら、明日の予定に関する可能性がある。
業務上、今は大きな対応中ではない。
「見れば?」
主様が言った。
「仕事中です」
「一区切りついてるじゃん」
「でも」
「緊急じゃないなら後で見る、でもいいし。今見たいなら今見てもいい」
ノルンは少し考え、スマートフォンを取った。
美咲からだった。
『私も楽しみ! 明日会ったらスマホちゃんと使えてるかチェックするからね(笑)』
ノルンは思わず画面を見つめた。
「何て?」
主様が聞く。
「スマートフォンをちゃんと使えているか確認すると」
「チェックされるんだ」
「笑わないでください」
「ちゃんと使えてる?」
「連絡はできています」
「それ以外は?」
「……必要な機能は」
「それ以外は?」
「必要になったら覚えます」
「美咲、教えがいありそう」
「なぜ主様が嬉しそうなんですか」
ノルンは少しむっとしながら返信欄を開いた。
『連絡には使えています。まだ分からない機能も多いので、明日教えてもらえると助かります。』
そこまで打ち、
『楽しみにしています。』
をもう一度付けようとして止めた。
朝すでに書いた。
同じ言葉を何度も送る必要はない。
代わりに、
『よろしくお願いします。』
とだけ加えた。
送信する。
今度は三分もかからなかった。
「早かったね」
「見ていたんですか」
「顔」
「本当に便利ですね、私の顔」
「だから言ったじゃん」
午後、ミレイア側の定時確認が行われた。
今日はエリスから、次回接続について尋ねる予定はない。
昨日も一昨日も新しい申告はなく、日常生活が続いている。
ミレイアは窓辺の机で手紙を書いていた。
親族へ送る季節の挨拶らしい。
紙の上を走るペン先が一度止まり、彼女はインクの乾きを待つように手を浮かせた。
エリスは近くにいるが、急かさない。
「エリス」
「はい」
「少し聞いてもいいですか」
ミレイアから話しかけた。
ノルンは観測記録の表示密度を上げず、そのまま通常状態で見守った。
「どうぞ」
「前に……次の接続を考える話を、今日はしますかって聞きましたよね」
「はい」
「あの時、私はしないって言いました」
「はい」
ミレイアはペンを置いた。
すぐにはエリスを見ず、便箋の端へ視線を落としている。
「もし、また考えるとしたら」
一度言葉が止まった。
「……どういうことを決めるんですか」
エリスの表情は変わらなかった。
「次回接続そのものを決めたいという意味ですか?」
ミレイアはすぐに首を横へ振った。
「まだ、そこじゃないです」
「分かりました」
「ただ、考えるって……何を考えるのかなって」
これは、次回接続への同意ではない。
聞きたいと言ったわけでもない。
謝罪を受け取る意思でもない。
ただ、もし考えるなら何を考えるのか、その内容を知りたい。
ノルンは昨日までの出来事を思い出した。
知りたいことと、会いたいことは別。
情報を受け取ることと、判断することも別。
エリスも同じように考えたらしい。
「説明だけ聞きますか?」
「はい」
「その説明を聞いた後、今日決める必要はありません」
ミレイアの肩がわずかに下がった。
「それなら」
エリスは急がず説明した。
次回接続を考える時に確認することは、一つではない。
接続自体をもう一度してもいいと思えるか。
時間をどの程度にするか。
ルークが何を話す可能性を許容するか。
謝罪を聞くことを含めるか、含めないか。
ミレイアから何かを話したいか。
返答を求めない形式にするか。
途中で止めたくなった時の終了方法。
そして、名前を使うかどうかについては、安全面が未確認なので現時点では選択肢へ入れない。
ただし、これらを全部一度に決める必要はない。
「例えば、『もう一度声を聞くことを考えてもいいか』だけを先に考えることもできます」
エリスが言う。
「『ごめん』を聞くかは別?」
「はい」
「私が何か言うかも?」
「別です」
「会う時間も?」
「別です」
ミレイアはしばらく黙っていた。
質問と回答の機械的な往復にはならなかった。
エリスはミレイアが次に何を考えるのかを待ち、その沈黙へ言葉を足さない。
窓の外では、庭師が遠くで枝を整えている。時折、剪定鋏の乾いた音が風に乗って届く。
「……全部一緒だと思ってました」
やがてミレイアが言った。
「もう一回つなぐって決めたら、ごめんも聞くのかなって」
「そうする必要はありません」
「ルークが言いたいって知ってるから」
「知っていることと、聞く約束をすることは同じではありません」
ミレイアはその言葉を聞いて、膝の上で指を組み直した。
「じゃあ……」
声が少しだけ小さくなる。
「もう一回、声を聞くことだけなら」
そこまで言って、止まる。
エリスは待った。
「……考えてもいいのかもしれないです」
ノルンは息を止めそうになり、意識して呼吸を保った。
これは接続希望ではない。
考えることへの許可。
しかもまだ「かもしれない」が付いている。
エリスもその違いを崩さなかった。
「その内容を記録してもいいですか」
ミレイアは少し考える。
「……『次の接続をする』じゃなくて」
「はい」
「『もう一度声を聞くことについて、考えてもいいかもしれない』なら」
「そのまま記録します」
「お願いします」
記録許可が出た。
それ以上、エリスは進めなかった。
「今日は実際に考えますか?」
その問いだけを置く。
ミレイアはすぐに答えなかった。
便箋へ視線を戻し、まだ書きかけだった季節の挨拶を見つめる。
「……今日は、まだいいです」
「分かりました」
「でも」
ミレイアが少しだけ顔を上げた。
「聞いてよかったです」
「説明を?」
「はい」
その言葉も記録していいかと尋ねると、ミレイアは頷いた。
そこで確認は終わった。
次回接続は決まっていない。
ルークの謝罪を聞くことも決まっていない。
時間も内容も決まっていない。
ただ、ミレイアの中で「次の接続を考える」という一つの大きな塊が、いくつかの選べる項目へ分かれた。
それによって、「全部決めなければならないから考えたくない」という圧力が少し下がったのかもしれない。
ただし、それもノルンの推測にすぎない。
本人がそう言っていない以上、正式記録には書かない。
「……進みましたね」
観測終了後、主様が静かに言った。
ノルンは少し考えてから答えた。
「はい。でも、接続へ進んだわけではありません」
「分かってる」
「考えることを考えてもいい、くらいです」
「うん」
「かなり手前です」
「うん」
「でも」
ノルンは記録へ目を落とした。
「手前でも、その人が自分でそこへ来たなら、大切だと思います」
「俺もそう思う」
ルークへは共有しない。
ミレイアが共有を許可したのは、管理記録への記載だけであり、ルークへの伝達ではない。
それをノルンは改めて確認した。
ここでルークへ「ミレイアが次を考え始めた」と伝えれば、期待を生む。
その期待が悪いわけではない。
しかし、それをミレイアへ返せば、また圧力になる。
今はまだ、それぞれの側で持っておけばいい。
夕方のルーク側確認も、通常通り行った。
「身体的不調は?」
「ない」
「名称違和感は?」
「ないよ」
「位置相当感覚は?」
「ない」
「接続したい衝動は?」
ルークは少し考えた。
「会いたい気持ちはあるけど、勝手につながりそうとかはない」
「分けて答えてくれてありがとうございます」
「最近慣れた」
ルークは少し笑った。
「会いたいのは前からだし」
「はい」
「でも、今日つなぎたいって意味じゃない」
「分かりました」
ノルンは必要な範囲だけ記録した。
ミレイア側の今日の変化は伝えない。
ルークは何も知らないまま、いつもの確認を終える。
それでいい。
「ノルン、明日美咲に会うんだっけ」
「はい」
「もう準備した?」
「手土産はあります。服も決めました。スマートフォンも充電します」
「すごい準備」
「普通です」
「話すことは?」
「決めていません」
「前に言ってたね」
ルークは少しだけ笑い、それ以上は何も言わなかった。
その顔に、ミレイアとのことを重ねているのかもしれない。
けれど、ノルンは聞かなかった。
ルークも言わなかった。
言葉にならないものまで全部拾い上げる必要はない。
「楽しんできてね」
「ありがとうございます」
「手土産、渡す時に緊張する?」
「……たぶん少し」
「ノルンでも?」
「私でもです」
「そっか」
「何ですか」
「ちょっと安心した」
ルークはそう言ってから、すぐ続けた。
「これ、美咲には言わなくていいよ」
「そもそも美咲へあなたの話をする予定はありません」
「あ、そっか」
少し間があり、二人とも笑った。
業務終了後、ノルンは今日の記録をまとめた。
最古層では、第一接続者が名称固定化事故に関する教育資料へ接触していた可能性が少し高まった。
しかし未確定。
現行制度へ直接適用しない。
ミレイアは、「もう一度声を聞くことについて、考えてもいいかもしれない」と記録することを許可した。
だが、今日は実際に考えない。
接続希望ではない。
ルークへ共有しない。
ルークは会いたい気持ちと接続衝動を自分で分けて答えた。
名称関連の異常なし。
フローラ達にも新しい動きなし。
大きく見れば、静かな一日だった。
しかし、ノルンにとって最も印象に残ったのは、朝に送った一文だった。
会えるのを楽しみにしています。
たったそれだけ。
そして、美咲は、
私も楽しみ。
と返してくれた。
誰かの期待は、いつも負担になるわけではない。
待っていることを知らせるのが、いつも危険なわけでもない。
会いたいと言うことが、いつも相手の自由を奪うわけでもない。
相手が迷っている時。
関係に大きな非対称がある時。
拒否しづらい立場にいる時。
長い時間や罪悪感や謝罪を背負っている時。
そういう状況では、同じ言葉が重くなることがある。
けれど、美咲と自分のように、互いに会うことを選び、予定を決めた後なら、「楽しみ」という言葉はただ気持ちを分け合うものにもなる。
ノルンは制度見直し用の個人メモへ、今日の最後の一文を書いた。
『同じ言葉でも、相手の選択状況、関係性、断る自由、すでに成立している合意によって重さは変わる。言葉だけを危険・安全に分類しない。』
少し考えて、その下へもう一行。
『「楽しみ」と伝えることが負担になる場合もあれば、互いの楽しみを確かめるだけの場合もある。』
書き終えてから、ノルンは苦笑した。
「……これ、美咲に会う前日に考えることですかね」
「仕事にしない方がいいと思うよ」
背後から主様の声が飛んできた。
「聞いていたんですか」
「独り言だったじゃん」
「そうでした」
「明日は制度の実地試験じゃないからね」
「分かっています」
「美咲との再会観察報告とか書かないでよ」
「書きません」
「会話内容を項目別に整理したり」
「しません」
「スマホ指導、理解度八――」
「主様」
「はい」
ノルンは呆れながら資料を閉じた。
鞄へスマートフォンを入れる前に、充電残量を確認する。
十分ある。
それでも今夜は充電しておこう。
焼き菓子も忘れない位置へ置く。
明日の服も決まっている。
場所と時間も分かっている。
準備は、それで十分だ。
「明日、何か仕事で起きたら」
ノルンが何気なく言いかけると、主様がすぐに遮った。
「普通の範囲ならこっちで見る」
「でも」
「本当にノルンが必要な異常なら連絡する。それ以外は美咲と会ってきて」
ノルンは黙った。
以前なら、世界管理に何か起きるかもしれないという可能性だけで、予定を暫定扱いにしていただろう。
だが今は、木曜日十四時という予定を、正式に自分の時間として確保している。
「……お願いします」
「任せて」
「無理はしないでくださいね」
「そこで俺の健康管理入れる?」
「主様が倒れたら困ります」
「はいはい」
主様は笑いながら手を振った。
ノルンは管理室を出た。
明日、美咲に会う。
何を話すかは決めていない。
焼き菓子を渡すタイミングも決めていない。
スマートフォンについて何を教えてもらうのかも決めていない。
何時間一緒にいるかも、どこへ行くかも決めていない。
以前の自分なら、それだけ未確定なことがあれば不安になったかもしれない。
今も少しは不安だ。
けれど、その不安をなくすために予定を細かく埋める必要はないと思えた。
明日になったら会う。
会ったら挨拶をする。
その先は、二人で決めればいい。
それくらいの未確定なら、持ったまま眠れそうだった。
自室へ戻ったノルンは、スマートフォンを充電器へつなぎ、衣装棚の前へ立った。
明日着る予定の服を一度だけ確認する。
変えなかった。
次に、焼き菓子の箱を鞄へ入れるにはまだ早いと思い、机の端へ置く。
忘れないように。
しかし、何度も確認しなくていい場所へ。
最後に、美咲とのメッセージ画面を開いた。
『私も楽しみ!』
短い一文。
ノルンはそれを読んで、小さく笑った。
返事はもう送っている。
だから、追加で何かを書く必要はない。
画面を閉じる。
明日会えばいい。
今日のところは、それだけで十分だった。




