第六十一話 全部終わってから自分の用事を済ませようとすると、たぶん永遠に終わらないので、今日は地球へ行くことにしました
初回一言接続から三日目。
朝の管理領域で通常記録を確認していたノルンは、一つの小さな予定表示に気づいた瞬間、指を止めた。
『地球訪問予定――仮』
日付は今日だった。
第五十五話、一言接続の日程が決まったあとに置いた予定である。接続そのものが安全に終わった二日後を目安として、自分の生活へ戻るためにあえて確保した時間だったが、第六十話ではミレイアから新しい質問が出て、ルークからの回答を管理側経由で伝えるところまで進んだため、その予定を実行する余裕はなかった。
結果として、一日ずれている。
もちろん、それ自体に問題はない。最初から変更可能な仮予定として置いていたのだから、接続後の対応が必要なら動かしてよい。
問題なのは、今日も動かしたくなっている自分だった。
「……明日にしましょうか」
小さく呟いた声が、思ったより静かな管理室へよく響いた。
朝の照明は白く柔らかい。壁沿いの観察記録はいつもどおり一定の速度で流れ、世界ごとの異常通知も今のところ出ていない。主様は少し離れた管理卓で朝の記録を確認していたが、ノルンの独り言を聞き逃さなかったらしい。
「何を?」
「地球です」
「ああ」
主様がこちらを見る。
「今日だったね」
「正確には昨日でした」
「延期したから今日」
「はい」
「また延期する?」
ノルンは予定欄を見た。
「ミレイア様とルークの接続後経過を、もう少し確認してからの方が」
「昨日確認したよね」
「はい」
「今朝もするんでしょ?」
「はい」
「異常あった?」
「まだ朝の全確認が終わっていません」
「じゃあ終わってから決めたら?」
それはその通りだった。
ノルンは反論せず、通常確認へ戻った。
主様の健康状態は七時間四十五分睡眠、朝食済み、体調問題なし。これで二十六日連続七時間以上になる。
「二十六日ですね」
「地球の話から逃げた」
「逃げておりません。朝の確認です」
「ノルンは?」
「七時間三十九分、途中覚醒なし、朝食済みです」
「健康」
「はい」
「じゃあ地球行ける」
「まだそこへ戻りますか」
「だって今日の話でしょ」
主様は楽しそうだったが、ノルンは少しだけ頬を膨らませながら他の記録を開いた。
九人の誤転生者について大きな異常なし。
ミレイアは昨夜も睡眠を確保し、朝食も通常量。昨日ルークの回答を受け取ったあとに強い身体症状は出ていない。
ルーク側も夜間の名称接続異常なし。境界反応安定。こちらへの緊急接続要求なし。
他八人についても、新しい面会希望や拒否の変更はない。保留している者は保留のまま、会わないと決めた者もそのままだ。
旧管理領域最古層にも、昨夜から今朝にかけて新たな重要資料の出現はない。
さらに他世界の観察案件を確認していく。
一件、転生者が現地の水路工事へ知識を持ち込みすぎているように見える記録があったため少し詳しく確認したが、実際には本人が直接指示しているのではなく、現地の技師から質問された範囲だけを答えている状態だった。介入不要。
別世界では、転生者が作った保存食の製法を巡って商人同士の揉め事が起きていたが、現地法と商業組合で対応可能。こちらも介入不要。
緊急案件はなかった。
ノルンは一通り終えると、もう一度地球訪問予定へ戻る。
「……行けますね」
「うん」
「ですが」
「まだある?」
「ミレイア様とルークの通常確認を」
「それはやればいい」
「そのあと、何か出るかもしれません」
「何か出たら?」
「必要なら延期します」
「じゃあ今は?」
ノルンは黙った。
主様は正面から答えを押しつけてこない。ただ、逃げ道ばかり増やしていないかを確かめるように待っている。
「今は、予定を残します」
「うん」
ノルンは地球訪問欄に書き込んだ。
『本日午後。午前の通常確認終了後、緊急対応の必要がなければ実施』
その下へ、もう一つ。
『緊急案件発生時は即時帰還』
「それくらいでいいと思う」
「念のため、主様にも」
「僕いるよ」
「分かっております」
「じゃあ任せて」
軽い返事だった。
以前のノルンなら、地球へ行く数時間のために管理手順を十数項目作っていたかもしれない。
観察対象一覧。
優先順位。
帰還判断。
代替担当。
緊急度。
通知方法。
確認時刻。
その全部を細かく固定し、出発する前から疲れていた可能性がある。
今は、そこまでしない。
主様がいる。
通常の管理運用もある。
何か起きたら戻る。
それで十分だった。
◇◇◇
ミレイアの朝は、昨日よりさらに普通に近づいていた。
目を覚ました瞬間にルークの声を思い出したわけではない。
着替えて、朝食を済ませ、窓辺で髪を整えている途中でふと「こんにちは」が浮かんだ。
その時も、胸が大きく締めつけられることはなかった。
少しだけ止まる。
少しだけ思い出す。
そしてまた手を動かす。
その程度だった。
エリスが来たのは午前の早い時間である。
「おはようございます」
「おはようございます」
ミレイアは今日は自室の窓際にいた。外では薄い雲の間から陽が差し、庭の木々の影がゆっくり動いている。遠くから使用人達の声や食器を運ぶ音が聞こえ、屋敷はいつもどおり朝の仕事へ戻っていた。
「昨夜は眠れましたか?」
「はい」
「途中覚醒は?」
「覚えてないので、たぶんないです」
「食事は?」
「普通です」
「昨日の回答を受け取ったあと、頭痛、息苦しさ、手の震えは?」
「ありません」
エリスは一つずつ記録する。
「声を思い出すことは?」
「あります。でも、前より普通に思い出す感じです」
「生活が止まるほどではない?」
「はい」
ここまでで通常確認は終了した。
昨日なら、ノルン側から「困っていること」を一つ聞く方針があった。今日はそこまで新しい確認項目はない。
エリスは記録板を閉じた。
「以上です」
ミレイアは少しだけ驚く。
「今日は、本当にそれだけ?」
「はい」
「昨日みたいな質問は?」
「今のところ必要ありません」
「……そっか」
少し拍子抜けしたような顔をしたあと、ミレイアは窓の外を見る。
そのまま終わってもよかった。
けれど、エリスが扉へ向かう前に、ミレイアが自分から口を開いた。
「エリスさん」
「はい」
「昨日の返事」
ルークが「こんにちは」を選んだ理由。
それを思い出しながら、ミレイアは少しだけ視線を落とす。
「聞けてよかったです」
エリスは急いで意味づけしない。
「はい」
「でも」
ミレイアは苦笑する。
「聞いたら聞いたで、今度は別のことが気になりますね」
「何でしょう」
「……本人が、私が理由を聞きたがったことをどう思ったか」
昨日も一度気にした。
しかし、その部分はルークから共有許可が出ていないため教えられなかった。
「そこは現在、共有対象ではありません」
「ですよね」
ミレイアはすぐ頷く。
「分かってます」
嫌そうではない。
ただ、少しだけもどかしい。
「何でも知れるようになるのも、違うんでしょうね」
「はい」
「聞きたいって思ったら、全部教えてもらえる関係でもない」
「今はそうですね」
ミレイアは少し考える。
「今は」
その言葉を自分でも繰り返す。
「それでいいです」
「分かりました」
「気になるけど」
「はい」
「気になるままでも大丈夫です」
それを言えたことに、ミレイア自身が少し驚いていた。
少し前なら、気になることは解消しなければ不安だった。
今は、分からないものを全部埋めなくてもよいと少しずつ感じ始めている。
「これ、記録しますか?」
「希望されるなら」
「じゃあ」
ミレイアは少し笑った。
「『気になるけど、気になるままでも今は大丈夫』って」
「分かりました」
エリスはそのまま記録した。
次回接続については、最後まで聞かなかった。
◇◇◇
ルーク側の確認も大きな変化はなかった。
「ルーク」
『いる』
「今の怖さは?」
『三』
「苦しさ、近い感覚、名称側の違和感は?」
『ない』
「昨日、理由をミレイア様へ伝えたあとから変わりありませんか?」
『ない』
淡い光は安定している。
「今、困っていることは?」
昨日のように接続後生活上の問題を探すためではなく、通常状態確認の一部として簡単に尋ねる。
『ごめん』
「まだ残っていますね」
『うん』
『でも昨日より少し平気』
「何がですか?」
『言ってないこと』
ノルンは少しだけ目を細めた。
「消えたわけではない?」
『言いたい』
「はい」
『でも今すぐじゃなくてもいい気する』
それは新しい変化だった。
以前は、「ごめん」を言えなかったことがそのまま次の接続への焦りへ繋がりそうになっていた。
今は少し違う。
「その理由は分かりますか?」
ルークの光がしばらく揺れる。
『こんにちは届いた』
「はい」
『理由も届いた』
「はい」
『だから』
少し間が空く。
『何も届いてないじゃない』
ノルンはしばらくその言葉を見つめた。
謝罪はまだ届いていない。
でも声は届いた。
最初の言葉も。
その言葉を選んだ理由も。
ゼロではない。
「そうですね」
『ごめんはまだ』
「はい」
『でもゼロじゃない』
「はい」
ルークはしばらく何も出さなかった。
やがて、
『待てる』
と短く出す。
「昨日までと同じですか?」
『少し違う』
「どう違いますか?」
『昨日は我慢』
『今日は』
光が小さく揺れる。
『急がなくてもいい』
ノルンはその違いを慎重に記録した。
「その言葉を記録してよいですか?」
『いい』
「ミレイア様への共有は?」
『しない』
「分かりました」
『ノルン』
「はい」
『褒める?』
やはり最後はそこへ戻る。
「今日は、『待つ』の中身が変わったことを自分で言葉にできたことを褒めます」
『一つ』
「朝から数を数えないでください」
『もっとある』
「まだ午前です!」
『午後また褒める?』
「予約制ではありません!」
淡い光が楽しそうに揺れる。
ノルンも笑いながら接続を閉じた。
◇◇◇
午前の状態確認を終える頃には、地球訪問を延期する理由は見つからなかった。
ミレイアは通常生活を維持している。
ルークも安定している。
二人とも、新たな接続を今日求めていない。
他の八人にも動きはない。
旧管理領域にも緊急案件はない。
それでもノルンは、出発前の管理卓で少し迷っていた。
「まだ行かない?」
主様が声をかける。
「行きます」
「即答じゃない」
「確認しているだけです」
「何を?」
「本当に今行ってよいのかを」
「さっき全部確認したよね」
「はい」
「じゃあ?」
ノルンは少し口を閉じた。
「私がいない間に、ミレイア様が何か言うかもしれません」
「エリスがいる」
「ルークが接続要求を」
「僕がいる」
「旧管理領域が」
「通知来る」
「他世界で」
「通常運用ある」
全部返される。
ノルンは眉を寄せた。
「主様、今日は妙に強いですね」
「だってノルンが行くって自分で予定したから」
「……はい」
「一言接続が終わったら行く、って」
「はい」
「それで接続後に必要なことがあったから一日ずらした」
「はい」
「今日も全部終わってからにする?」
その問いで、ノルンは黙った。
全部終わってから。
ミレイアとルークの問題が完全に終わるのはいつだろう。
次回接続。
謝罪。
五分面会。
名前。
他八人。
第一接続者。
観察官制度。
その先にも、別の転生者が現れる。
別の問題が起こる。
世界管理という仕事に「全部終わる日」など、おそらくない。
「……そうでした」
「うん」
「全部終わってからでは、いつまでも行けません」
「うん」
ノルンは深く息を吐き、地球訪問予定の表示を『実施』へ切り替えた。
「午後の数時間だけ行ってきます」
「いってらっしゃい」
「緊急案件があれば」
「呼ぶ」
「ミレイア様側で」
「エリスから来る」
「ルークが」
「必要なら僕が受ける」
「旧管理領域」
「通知見る」
「……」
ノルンは少しだけ不満そうに主様を見る。
「全部言われました」
「安心した?」
「少し」
「じゃあ行っておいで」
主様の声は穏やかだった。
ノルンはようやく頷いた。
◇◇◇
地球へ戻った瞬間、最初に感じたのは音だった。
車の走行音。
人の話し声。
遠くで鳴る信号機の案内音。
どこかの店から流れてくる軽い音楽。
管理領域にはない種類の雑多さが、一度に耳へ入ってくる。
ノルンは人通りの邪魔にならない場所へ移動し、周囲を見回した。
見慣れた日本の街並み。
道路沿いには飲食店と小売店が並び、少し先には家電量販店の大きな看板が見える。昼を少し過ぎた時間帯で、買い物袋を持つ人や学生らしい集団、仕事の途中らしい人達が行き交っていた。
「……帰ってきましたね」
誰に言うでもなく呟く。
地球へ来ること自体が目的だったわけではない。
今日はスマートフォンを見る。
必要なら購入する。
美咲にも、タイミングが合えば連絡する。
ただし何もかも今日やる必要はない。
ノルンはそこを最初に自分へ言い聞かせた。
以前なら、せっかく来たのだから全部済ませようとしただろう。
スマートフォン。
契約。
連絡手段。
必要アプリ。
安全設定。
地球側情報収集。
美咲への連絡。
買い物。
食事。
全部を一日に詰め込んで、帰る頃には管理業務より疲れていたかもしれない。
「今日は、スマートフォンを見る」
小さく確認する。
「買うかどうかは、その場で決めます」
そこまでにした。
家電量販店へ入ると、外より少し冷たい空調の風が頬へ当たった。入口近くには季節家電が並び、奥のスマートフォン売り場からは明るい案内放送が聞こえてくる。
ノルンは足を止める。
機種が多い。
「……多いですね」
思わず本音が出た。
棚には大きさも色も価格も違う端末がずらりと並んでいる。通信会社のプラン表示、乗り換え案内、割引条件、容量、カメラ性能、電池持ち、処理性能。
管理領域で世界を観察するより、少し面倒に見えた。
「いらっしゃいませ」
店員に声をかけられ、ノルンは少しだけ背筋を伸ばす。
「スマートフォンをお探しですか?」
「はい」
「今お使いの端末からのお買い替えでしょうか?」
最初から難問だった。
ノルンは一瞬考える。
「新しく持ちたいのですが」
「新規契約ですね」
「たぶん」
店員が少しだけ首を傾げた。
「用途はどんな感じでしょう。通話、SNS、動画、ゲーム、写真など」
ノルンは考える。
「連絡と、調べものです」
「ゲームは?」
「しません」
「動画は?」
「たぶん少し」
「カメラは?」
「……普通に撮れれば」
店員は慣れた様子で、いくつかの機種へ案内する。
「でしたら、最上位モデルでなくても十分だと思いますよ」
その一言に、ノルンは少し驚いた。
「一番良いものではなくていいのですか?」
「もちろん性能は上がりますけど、使い方によっては持て余しますからね」
ノルンは並んだ端末を見る。
高性能。
高価格。
多機能。
何でもできる。
それが必ずしも本人に必要とは限らない。
「……なるほど」
「何か?」
「いえ」
妙に仕事と似ていると思っただけだった。
最も多く選択肢を与えることが、最もよい支援ではない。
必要なものだけで足りる人へ、全部を持たせる必要はない。
「電池が長く持って、操作が分かりやすいものがいいです」
「でしたら、この辺りが候補ですね」
店員は二機種を示した。
ノルンは一台ずつ手に取る。
思っていたより重い。
画面は大きい。
操作するとすぐに画面が動く。
「便利ですね」
「今のスマホは大体こんな感じですよ」
ノルンは少し触ってみる。
地図。
連絡。
検索。
写真。
予定。
必要なら管理領域とは別に、地球側の自分の生活を持つこともできる。
その考えに触れた瞬間、少し不思議な気分になった。
ノルンは観察官だ。
転生者を見守る側だ。
世界を跨いで管理する立場だ。
けれど、それだけではない。
地球に来て、買い物をして、誰かへ連絡する。
自分にも自分の時間がある。
「こちらにします」
ノルンは最終的に、派手すぎず扱いやすい一台を選んだ。
「ありがとうございます。では新規契約ですね」
「はい」
手続きは思ったより長かった。
本人確認。
プラン。
容量。
補償。
支払い。
説明。
ノルンは途中で、「観察官制度の説明より多いのでは」と思ったが、さすがに口には出さなかった。
ただ、補償サービスを三種類続けて説明されたところで少し眉が寄る。
「全部必要ですか?」
「いえ、お客様の使い方次第ですね」
「……それを最初に言っていただけると助かります」
店員が少し苦笑した。
「すみません」
「いえ」
結局、必要最低限のものだけを選んだ。
全部つけない。
全部拒否もしない。
必要なものだけ。
最近、どこへ行っても同じことを学んでいる気がした。
◇◇◇
店を出た時には、午後の日差しが少し傾き始めていた。
ノルンの手には、小さな紙袋が一つある。
その中に新しいスマートフォンが入っている。
まだほとんど何も設定していない。
連絡先もない。
アプリも最低限。
それでも、自分のものになった。
「買ってしまいました」
紙袋を見ながら、少しだけ笑う。
ずっと候補だった。
何度も後回しにした。
世界の問題が落ち着いてから。
接続が終わってから。
次の安全確認が終わってから。
そうやって後ろへ送ってきたものを、今日ようやく一つ済ませた。
ただし、これで地球側の用事が全部終わったわけではない。
美咲への連絡もある。
必要な設定もある。
地球側でどこまで外部情報へ触れるか、安全運用も考えなければならない。
それでも今日は、そこまでやらなくていい。
ノルンは近くのベンチへ座り、紙袋から端末を取り出した。
黒い画面に自分の顔が薄く映る。
電源を入れる。
新しい画面。
まだ何もないホーム画面。
「……空っぽですね」
でも、その空白は嫌ではなかった。
これから必要なものだけを入れればいい。
ノルンは時計を確認する。
まだ管理領域へ戻るまで少し時間がある。
美咲へ今日連絡するか。
そこで指が止まった。
「……今日は、やめましょう」
嫌だからではない。
会いたくないからでもない。
スマートフォンを買った。
それだけで今日の目的は十分達成した。
連絡まで一気に進めなくてもよい。
「次にします」
自分で決める。
その時、端末が小さく振動した。
驚いて画面を見ると、ただの初期設定案内だった。
「……びっくりさせないでくださいませ」
誰に怒っているのか自分でも分からず、ノルンは少し笑った。
◇◇◇
管理領域へ戻った時、主様はいつもの席にいた。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
「買った?」
ノルンは紙袋を持ち上げる。
「買いました」
「見せて」
「なぜそんなに興味があるのですか」
「ノルンがずっと買う買う言って買わなかったから」
「そこまで言っておりません!」
「何回延期した?」
「数えないでくださいませ」
主様は楽しそうに端末を見る。
「普通のやつだ」
「普通でよいのです」
「一番高いのにしなかった?」
「必要ありませんでした」
「成長」
「何の話ですか!」
軽いやり取りのあと、ノルンはすぐに管理記録を確認した。
留守中、大きな異常なし。
ミレイア側にも緊急報告なし。
ルークからも接続要求なし。
他世界にも介入案件なし。
ノルンはそれを一つずつ確認し、ようやく肩の力を抜いた。
「何もなかったでしょ」
「はい」
「行ってよかった?」
ノルンは少し考える。
「はい」
「即答」
「今回はできます」
自分が数時間いなくても、管理は壊れなかった。
ミレイアもルークも、その間に管理側へ何かを求める必要がなかった。
主様もいる。
エリスもいる。
通常運用もある。
それは当たり前のことなのに、ノルンには少し大きな確認だった。
「私がずっと見ていなくても、大丈夫なんですね」
「今さら?」
「分かってはいました」
「でも実感した」
「はい」
主様が頷く。
「観察官が生活しちゃいけない規則ないからね」
「当然です」
「でもノルン、自分には適用してなかった」
返す言葉がない。
「……今後は気をつけます」
「何を?」
「全部終わってから自分のことをやろうとしないように」
「うん」
「仕事は、たぶん全部終わりませんので」
「それはそう」
ノルンは新しいスマートフォンを机の端へ置いた。
管理領域の機器の中では、それだけ妙に日常的な形をしている。
「美咲には連絡した?」
「していません」
「なんで?」
「今日はスマートフォンを買うところまでと決めました」
主様が少し意外そうに見る。
「前なら全部やったね」
「はい」
「買って、設定して、連絡して、何か食べて、ついでに必要なもの買って、帰ってから疲れる」
「……かなりありそうです」
「でしょ」
「今日はやりませんでした」
「えらい」
「また褒められる側ですか」
「ルークに言われてる気持ち分かった?」
「少しだけ!」
◇◇◇
夜の最終記録。
ミレイアは終日大きな体調変化なし。
午後も通常生活。
次回接続希望、自発申告なし。
ただし、「ルークが自分の質問をどう受け止めたかは気になるが、今は気になるままでも大丈夫」と発言。
ルーク。
恐怖三。
名称接続異常なし。
「ごめん」をまだ言いたい気持ちは残る。
ただし、以前のような「言っていないことへの焦り」は少し弱まり、「今すぐでなくてもいい気がする」と変化。
理由として、「こんにちはが届いた」「その理由も届いた」「何も届いていないわけではない」と本人が認識。
待つ感覚について、「昨日までは我慢に近かったが、今日は急がなくてもいい」と表現。
次回接続希望についての新しい共有許可なし。
その他八人、大きな変更なし。
旧管理領域、新規重要記録なし。
そこまで書き終えたあと、ノルンは今日の自分の記録も追加した。
『地球訪問実施』
『スマートフォン新規購入』
『美咲への連絡は未実施』
『必要設定・外部情報運用は今後』
『地球滞在中、管理領域に緊急案件なし』
主様が横から覗き込む。
「自分のことも記録するんだ」
「必要です」
「スマホ買ったまで管理記録?」
「今後、外部情報へ接続する端末ですから」
「ノルンらしい」
「安全上必要です」
ノルンは少しむっとしながらも、その下へもう一行加えた。
『自分の生活上の予定を、管理案件が完全終了するまで無期限延期しない』
書いたあと、少し恥ずかしくなった。
「それも制度?」
主様が笑う。
「私個人の注意事項です!」
「大事だね」
「はい」
今日、ミレイアとルークの関係は大きく進まなかった。
次の接続も決まらない。
謝罪も届かない。
新しい質問もない。
でも、それでよかった。
二人はそれぞれ少しずつ日常へ戻り、昨日よりも「待つ」という状態の中身が変わっている。
そしてノルン自身も、自分の生活へ一つ戻った。
世界を見守ることと、自分の時間を持つこと。
どちらか一方を選ぶ必要はない。
管理対象にばかり「普通の生活を守ってください」と言いながら、自分だけ全部を後回しにするのはおかしい。
「主様」
「何?」
「明日はスマートフォンの設定を少し進めます」
「全部?」
「少しです」
「美咲には?」
「まだ決めません」
「うん」
「ただ、近いうちには連絡したいです」
「それならいいんじゃない」
ノルンは机の端に置いた端末へ視線を向けた。
黒い画面。
まだほとんど空っぽ。
でも今日は、それで十分だった。
全部終わってからではなく。
必要な仕事をしながら。
本人達の選択を待ちながら。
自分の予定も、一つずつ進めていく。
観察官だからといって、観察しているだけの人生を送る必要はない。
その当たり前のことを、ノルンは六十一話目になってようやく少しだけ、自分自身にも適用できるようになっていた。




