第六十話 次を聞かずに待つだけでも足りないと気づいたので、会いたいかではなく、今困っていることだけを聞くことにしました
初回一言接続から二日目の朝。
管理領域へ入ったノルンは、昨日まで中央管理卓の目立つ位置に置かれていた一言接続関連の記録が、通常観察欄の一角へ戻されていることに気づいた。
『初回一言接続:終了』
『接続後状態観察:継続』
『次回意思:未確認』
その三行は残っている。
けれど、赤くも大きくも表示されていない。
昨日までのように「今日何を決めるか」を迫る項目もない。
それを見て少し安心した反面、ノルンの胸には別の引っかかりが残っていた。
「おはよう、ノルン」
「おはようございます、主様」
「先に言う?」
「お願いします」
「七時間五十分。朝食済み。体調問題なし」
「二十五日連続ですね」
「ついに四分の一百日」
「何ですか、その数え方は」
「ノルンが毎日数えるから、変化が欲しくなって」
「普通に二十五日で結構です」
ノルンは少し呆れながら、自分の記録も開いた。
「私は七時間四十二分。途中覚醒なし、朝食済み、体調良好です」
「今日は僕より寝た」
「八分です」
「昨日三分で勝った顔してた」
「しておりません」
いつものやり取り。
昨日も、一昨日も。
重要な接続が終わっても続いている。
それを確認してから、ノルンは朝の通常観察へ移った。
九人の誤転生者に大きな異常なし。
他八人の面会意思にも新しい申告はない。
誰にもミレイアの接続進行は共有していない。
旧管理領域最古層からの新規複製記録なし。
フローラ側にも緊急対応の必要なし。
他世界の転生者観察についても、直接介入が必要な案件は見当たらなかった。
一通り閉じたあと、ノルンはミレイアとルークの記録へ戻った。
「主様」
「うん」
「昨日、私は『本人から次回意思が出なければ、すぐには聞かない』としました」
「うん」
「それ自体は今も変わりません」
「でも何か気になってる?」
ノルンは少し黙った。
主様はこういう時、答えを先に言わない。
だからこそ、自分で考える。
「待つことを、また目的にしていないかと思いまして」
主様がわずかに目を細める。
「どのへんが?」
「ミレイア様もルークも、初回接続後に自分からいろいろ話してくださいました」
「うん」
「こちらから急いで次回意思を聞かないのは大切です」
「うん」
「でも、『何も聞かないこと』だけを安全だと思い始めると」
ノルンは手帳を開いた。
「今度は、本人が困っていることまで本人から言い出すのを待つ運用になる可能性があります」
昨日、ミレイアは自分から昨日の接続について話した。
ルークも自分から「また会いたい」と言った。
二人とも、管理側へ何も言えない状態ではない。
それでも、こちらが聞かない限り出にくいこともある。
「次に会いたいですか、は聞かない」
「はい」
「昨日の一言はどういう意味でしたか、も?」
「聞きません」
「じゃあ何なら聞く?」
ノルンは少し考えた。
「今、接続後の生活で困っていることがあるか」
「それだけ?」
「はい」
「例えば?」
「眠れない。思い出して苦しい。声が頭から離れない。逆に何も感じなくて戸惑う。相手へ聞きたいことがある。でも次回希望とはまだ分からない。そういったものです」
「うん」
「今後の関係を決める質問ではなく、今の生活を支えるための確認です」
主様が頷く。
「それなら、管理側が聞く意味もある」
「はい」
本人意思尊重は、全部本人発信を待つことではない。
本人が選ぶべきところを本人へ返しつつ、管理側で支えられる生活上の問題は小さく確認してよい。
それが、ここまで実践してきた考え方だった。
「じゃあ今日は聞く?」
「ミレイア様には、通常確認のあと『今困っていることはありますか』を一度だけ」
「ルークは?」
「同じです」
「会いたいかは?」
「聞きません」
「相手に何か伝えたいかは?」
ノルンは少し考える。
「本人から話が広がった場合のみ受け取ります。こちらからは始めません」
「うん」
主様はそこで、少し楽しそうに笑った。
「ノルン、質問減らすの上手くなったね」
「以前が多すぎたように言わないでくださいませ」
「多かった」
「……否定しきれません」
◇◇◇
ミレイアは朝食を終えたあと、自室ではなく庭へ出ていた。
一言接続の翌日は、声を何度も思い出した。
二日目の今日は、目を覚ました瞬間には思い出さなかった。
顔を洗い、着替え、朝食の席へ着いてから。
湯気の立つ飲み物を手に取った時に、ふと頭へ浮かんだ。
「こんにちは」
あの声。
そこでようやく「ああ、昨日じゃなくて一昨日なんだ」と思った。
時間が一つ進んだ。
それだけで、少し距離ができたような気もする。
でも忘れたわけではない。
庭の小道を歩く。
昨日までの雨で土はまだ少し湿っているものの、空は明るく、風も穏やかだった。花壇の端では使用人が枯れた花を摘み、少し離れたところでは二人が洗濯物を干している。
生活の音がある。
それが今は心地よかった。
「ミレイアさん」
後ろから声をかけられ、振り返る。
エリスだった。
「おはようございます」
「おはようございます」
ミレイアは少しだけ笑う。
「今日は庭なんですね」
「本、まだちょっと集中しづらいので」
「分かりました」
エリスはそこで一言接続の話へ入らず、いつもの確認を始めた。
「昨夜は眠れましたか?」
「はい。前の日より普通に」
「途中覚醒は?」
「一回だけです」
「食事は?」
「普通です」
「頭痛、めまい、息苦しさ、手の震えは?」
「ないです」
「声を思い出して生活が止まるような時間はありましたか?」
少しだけ接続後に寄った質問。
でも「どう感じましたか」ではない。
ミレイアは考える。
「止まるほどじゃないです」
「分かりました」
通常確認が終わる。
エリスは記録板を閉じかけ、それから一度だけミレイアへ視線を戻した。
「もう一つだけ、聞いてもよいですか?」
「はい」
この言い方も、ずっと変わらない。
「今、一言接続のあとで、何か困っていることはありますか?」
ミレイアは少し目を瞬いた。
「困ってること?」
「はい。次に会いたいか、という確認ではありません」
「あ」
そこを先に言われて、少し身体が緩む。
「今の生活の中で、管理側に相談した方がよいことがあるかだけです」
「……」
ミレイアは庭の先へ視線を向けた。
困っている。
そう言われると、大きな問題はない。
眠れている。
食べられている。
昨日よりは落ち着いている。
声を思い出して泣き続けるわけでもない。
でも、何もないかと聞かれると少し違う。
「困ってる、っていうほどじゃないんですけど」
「はい」
「頭の中で」
ミレイアは右手の指先を左手で軽く触る。
「時々、声を思い出します」
「はい」
「それ自体は嫌じゃないです」
そこで少し顔をしかめる。
「嫌じゃないって言うのも変なんですけど」
「はい」
「でも、思い出したあとに」
言葉を探す。
「その続きが勝手に出てくるんです」
「続き?」
「こんにちは、のあと」
風が吹き、近くの葉が小さく揺れた。
「本当は何を言いたかったんだろう、とか」
エリスは黙って聞く。
「ごめんって言うつもりだったのかな、とか」
昨日も気にしていた。
でも今日は、それがもう少し具体的になっている。
「なんで、こんにちはだったんだろうって」
「理由を知りたいですか?」
ミレイアはすぐ答えなかった。
「……ちょっと」
言ってから、すぐ付け足す。
「でも、聞いたら何か始まる感じがして嫌です」
エリスの表情は変わらない。
「理由を知ることと、次の接続を決めることは分けられます」
ミレイアが顔を上げる。
「分けられるんですか?」
「管理側で共有可能な情報かどうか、ルーク本人の許可も必要です。ただ、質問すること自体が次回接続への同意になることはありません」
ミレイアは少し長く黙った。
知りたい。
でも、知りたいと言ったら次へ進まなければならない気がする。
その不安があったのだと、言われて初めて自覚した。
「じゃあ」
ミレイアは慎重に言う。
「聞きたいって言っても、また会いたいって意味にはしないでください」
「しません」
「次の予定も決めない」
「はい」
「ただ、なんで『こんにちは』だったのか」
言葉が少し小さくなる。
「本人が話していいなら、知りたいです」
「分かりました」
エリスはすぐ送信しない。
「この希望を管理側へ伝えてよいですか?」
「はい」
「ルーク本人へ、『ミレイアさんが理由を知りたいと希望している』ことを伝えてよいですか?」
そこまで聞かれると、胸が少し強く鳴った。
自分が気にしていることを、ルークが知る。
それは少し怖い。
「……私が気にしてるって、分かるんですよね」
「はい」
「圧力になったりしないですか?」
「その可能性も考えて、本人へは『答えたくなければ答えなくてよい』『次の接続希望を意味しない』と明確に伝えます」
ミレイアはしばらく考え、やがて頷いた。
「お願いします」
「分かりました」
そこでエリスは記録する。
ミレイアは少しほっとした。
でも同時に、胸の奥へ新しい緊張も生まれた。
「返事、今日来ますか?」
「分かりません」
「本人が考えたいなら待つ?」
「はい」
「……それでいいです」
今日は知りたいと伝えるだけ。
返事まで急がない。
それくらいならできる気がした。
◇◇◇
管理領域へ届いたエリスの報告を読んだノルンは、最後の部分で手を止めた。
『本人、現在の生活上の大きな困難なし』
『声を思い出した後、「なぜこんにちはだったのか」「本当は何を言いたかったのか」が気になる』
『本人、「理由を知りたいと言っても、また会いたいという意味にはしないでほしい」と明言』
『本人、ルークが回答を望む場合のみ理由共有を希望』
『ルーク本人へ質問希望を伝えることに同意』
『次回接続希望は未確認』
ノルンは少し長く息を吐いた。
「出たね」
主様が横から言う。
「はい」
「次回じゃない質問」
「はい」
これは大きかった。
ミレイアが相手について知りたいと思った。
でも、それをすぐ「また会いたい」と結びつけたくないとも明確に言った。
「知ることと会うことを分けたい」
「そうですね」
「できる?」
「できます」
ノルンは即答した。
「ルーク本人が答えてよいとするなら、管理側から文字情報としてミレイア様へ返せます」
「直接接続なし」
「はい」
「ルークが断ったら?」
「断ったことだけ伝えます。理由は求めません」
「答える時、ミレイアさんが聞きたがってるって言う?」
「必要最低限で言います」
ノルンは少し考え、ルークへの伝達文を組み立てる。
「『ミレイア様から、初回の一言に「こんにちは」を選んだ理由を、あなたが話してよいと思う範囲で知りたいという希望がありました』」
「うん」
「『この希望は次回接続への同意ではありません』」
「大事」
「『今答えなくても、答えなくても構いません』」
「うん」
「『回答する場合、管理側が文字で伝えます。直接接続はしません』」
主様が頷いた。
「それでよさそう」
「では、通常確認時に伝えます」
◇◇◇
ルークへの接続は、午前の通常業務を終えたあとに行った。
「ルーク」
淡い光が現れる。
『いる』
「今、少し大丈夫ですか?」
『大丈夫』
「今の怖さは?」
『三』
「苦しさ、近い感覚、名称側の違和感は?」
『ない』
「分かりました」
通常状態は安定している。
ノルンはそこで、朝考えた小さな質問を先にする。
「今、接続後の生活――という表現が合うかは分かりませんが、今の状態で困っていることはありますか?」
ルークの光が少し揺れる。
『困る』
「何でしょう」
『ごめん』
やはりそこが出る。
『言ってない』
「はい」
『考える』
「ずっとですか?」
『ずっとじゃない』
「考えると苦しい?」
『少し』
「次の接続を今決めたいから困っていますか?」
『違う』
返事は早い。
『言いたいの残る』
「残っていること自体が気になる」
『うん』
ノルンは記録する。
「ほかには?」
少し間がある。
『ミレイア何思ったか知りたい』
「はい」
『でも聞かない』
「自分で決めていますね」
『うん』
『困るけど待つ』
「分かりました」
ここまでで十分だった。
次回意思を確認しなくても、ルークが今何に困っているかは見えた。
「では、もう一つ伝えたいことがあります」
『何』
ノルンは慎重に言葉を選ぶ。
「ミレイア様から、初回の一言に『こんにちは』を選んだ理由を、ルークが話してよいと思う範囲で知りたいという希望がありました」
淡い光が完全に止まった。
『……』
ノルンは続けない。
しばらく待つ。
『ミレイア』
「はい」
『僕の一言』
「はい」
『理由知りたい?』
「そう希望されました」
光が大きく揺れる。
『何で』
「そこは共有されていません」
『次?』
「次回接続への同意ではありません」
『会いたい?』
「その確認もしていません」
ノルンははっきり答える。
「理由を知りたいという希望と、また会いたいかどうかは別に扱います」
光が少し静かになる。
『分ける』
「はい」
『僕答える?』
「今答えても、後で答えても、答えなくても構いません」
『僕が決める』
「はい」
『直接?』
「直接接続はしません。回答する場合、管理側が文字情報としてミレイア様へ伝えます」
『ミレイア僕の声また聞かない』
「このやり取りだけでは聞きません」
『分かった』
ルークの光がしばらく静かに揺れた。
『理由』
「はい」
『こんにちは言えそうだった』
「はい」
『ごめん言いたかった』
「はい」
『でも怖かった』
ノルンは途中でまとめない。
『ごめん言って返事ないの嫌だった』
『途中止まるのもっと嫌だった』
『こんにちはなら』
少し間。
『最初の言葉』
『会う言葉』
『言えそうだった』
「はい」
『逃げた?』
その文字に、ノルンは少し息を止めた。
「ルーク自身はどう思いますか?」
『分かんない』
『ごめん言わなかったから』
光が弱くなる。
『逃げた気もする』
「はい」
『でもこんにちは言いたかったもある』
「はい」
『ミレイアに会う最初』
「はい」
『だから』
少し長く間が空く。
『こんにちはにした』
ノルンは静かに記録する。
「今のお話を、そのままミレイア様へ伝えてよいですか?」
淡い光が揺れる。
『全部?』
「あなたが許可する範囲だけです」
『ごめん怖かった』
「はい」
『言っていい』
「はい」
『返事ない嫌』
「はい」
『言っていい』
「はい」
『逃げた気もする』
光が少し止まる。
『それは』
迷う。
『言わない』
「分かりました」
『こんにちは言えそうだった』
「はい」
『最初の言葉だと思った』
「はい」
『ごめんは言いたかったけど怖かった』
「はい」
『それ言う』
「分かりました」
『あと』
光が少し強くなる。
『ミレイアに聞いてほしかった』
ノルンの指が止まる。
「それも伝えますか?」
『うん』
『こんにちはを』
少し間。
『僕の声を』
「はい」
『それは言う』
ノルンは一つずつ確認して記録した。
「では、共有内容はこうします」
文章を読み上げる。
「『ルークは「ごめん」を言いたい気持ちがあったが、返事がないまま終わることや途中で止まることが怖かった。「こんにちは」は最初に会う言葉として、今の自分でも言えそうだと思った。ミレイア様に、自分の声と「こんにちは」を聞いてほしかった』」
『うん』
「これでよいですか?」
『いい』
「『逃げた気もする』は共有しません」
『うん』
「次回接続希望についても共有しません」
『うん』
ルークの光が少し落ち着く。
『ノルン』
「はい」
『ミレイア理由知りたい』
「はい」
『嬉しい』
文字が出た。
ノルンは少しだけ目を細める。
「その気持ちを伝えますか?」
ルークはしばらく考えた。
『……今は言わない』
「分かりました」
『圧力なる?』
「可能性を気にしていますね」
『うん』
「では、今は共有しません」
『うん』
『でも嬉しい』
「こちらには記録してよいですか?」
『いい』
ノルンは静かに記録した。
◇◇◇
ルークとの接続を閉じたあと、主様がすぐ隣へ来た。
「どうだった?」
「回答許可が出ました」
「全部?」
「一部です」
ノルンは共有許可部分だけを表示する。
主様は目を通し、頷いた。
「逃げた気もする、は出さない」
「本人が希望しませんでした」
「嬉しいも」
「今は共有しません」
「本人が決めた」
「はい」
情報は事実だから全部共有すべき、ではない。
本人がどこまで相手に見せるかも本人の選択だ。
「送る?」
「はい。ただしエリスさん経由で、ミレイア様が今受け取りたいかをもう一度確認してからです」
「聞きたいって言ってたのに?」
「午前中と午後で気持ちが変わるかもしれません」
「なるほど」
「答えが来たから、今すぐ受け取らなければならないわけではありません」
◇◇◇
昼食後。
ミレイアは自室で本を読んでいた。
午前中に「理由を知りたい」と言ったことが、少し気になっている。
ルークにもう伝わっただろうか。
答えるのだろうか。
嫌がるだろうか。
自分が気にしていると知って、何を思うだろう。
そこまで考えて、本を閉じかける。
「……また考えてる」
自分で小さく笑った。
でも、朝エリスに聞かれた「困っていること」は、少し軽くなっていた。
理由を知りたい。
その気持ちを自分の中だけで回しているより、質問として外へ出したことで少し楽になった。
答えがなくても、聞きたいと言えた。
それだけで違う。
ほどなく、扉が軽く叩かれた。
「はい」
エリスが入ってくる。
その表情はいつもと変わらない。
「先ほどの質問について、ルーク本人から管理側へ回答がありました」
ミレイアの身体が少し固まる。
思ったより早い。
「……もう?」
「はい」
「今、聞かなければいけないですか?」
「いいえ」
すぐ返ってくる。
ミレイアは息を吐いた。
「後でも?」
「はい」
「明日でも?」
「はい」
「……」
少し考える。
怖い。
でも、今知りたい。
「聞きます」
「分かりました」
エリスは椅子へ座る。
「ルーク本人が共有を許可した範囲だけをお伝えします」
「はい」
「『ごめん』を言いたい気持ちはあったそうです」
ミレイアの指が止まる。
胸の奥が一度強く鳴った。
やっぱり。
そう思う。
「ただし、『ごめん』と言って返事がないまま終わること、途中で止まって言い切れなくなることが怖かったと」
ミレイアの眉が少し寄る。
「……怖かったんだ」
思わず漏れる。
エリスは続ける。
「『こんにちは』は、最初に会う言葉として、今の自分でも言えそうだと思ったそうです」
少し間を置く。
「そして、ミレイアさんに自分の声と『こんにちは』を聞いてほしかった、と」
そこまで。
エリスは止まる。
ミレイアはしばらく何も言えなかった。
窓の外で風が吹いている。
カーテンの端が少し揺れる。
「……そっか」
やっと出た。
それだけ。
胸の中には、いくつも感情がある。
ごめんを言いたかった。
でも怖かった。
こんにちはなら言えそうだった。
自分に聞いてほしかった。
「ずるい」
また同じ言葉が出た。
でも一昨日とは少し意味が違う。
「何がでしょう」
エリスは静かに尋ねる。
「こっちだけ怖かったわけじゃないんだなって」
ミレイアは少し笑う。
笑いながら、目の奥が少し熱くなる。
「私、勝手に」
言葉を探す。
「ルークはずっと会いたがってたから、向こうは怖くないんだと思ってたのかもしれないです」
実際には、管理側からルークも怖さを申告していると詳細に聞かされてはいなかった。
安全上、非特定の近接感覚があり、本人も新条件を知って進むと選んだことだけ。
「でも怖かったんですね」
「本人が共有を許可したのは、『ごめん』を言うことが怖かったという部分です」
エリスは必要以上に広げない。
「はい」
ミレイアもそれ以上推測しない。
「ごめん言いたかったんだ」
胸の奥が痛む。
でも、一昨日のような鋭い痛みではない。
何か重いものが、少しだけ場所を変えた感じだった。
「私」
ミレイアは膝の上で手を重ねる。
「ごめんじゃなくて腹立ったって言いましたよね」
「はい」
「今聞いたら」
少し迷う。
「こんにちはでよかった、って言い切るのも違うんですけど」
「はい」
「でも、あれしか言えなかったなら」
言葉を選ぶ。
「それでよかったのかもしれないって、前より思います」
エリスは頷く。
「その言葉を記録してよいですか?」
ミレイアは少し考えた。
「『かもしれない』まで入れてください」
「はい」
「絶対よかった、じゃないです」
「分かりました」
それが大事だった。
今日少し納得したからといって、一昨日の怒りが間違いになるわけではない。
「それから」
ミレイアは少し視線を落とす。
「私が理由を聞いたって、本人は知ってるんですよね」
「はい」
「何か言ってました?」
エリスは少し間を置く。
「共有許可された回答以外の本人反応はお伝えできません」
「あ」
ミレイアはすぐ頷いた。
「すみません」
「謝る必要はありません」
「知りたくなっちゃいますね」
「はい」
「でも、全部知らなくてもいい」
ミレイアは自分で言った。
「今日は理由を聞けただけで十分です」
「分かりました」
エリスはそこから次回接続へ話を広げなかった。
ミレイアも、今は広げたくなかった。
◇◇◇
夕方の報告を読んだノルンは、少し長く画面を見つめていた。
『本人、ルーク回答受領』
『「ごめんを言いたかったんだ」と発言』
『「こっちだけ怖かったわけじゃないんだなって」と発言。ただし共有された怖さ情報の範囲を逸脱しないよう観察官側で訂正・限定』
『「こんにちはでよかった、と言い切るのも違う。でも、あれしか言えなかったなら、それでよかったのかもしれない」』
『“かもしれない”を含めて記録希望』
『本人、追加のルーク反応を知りたがるが、非共有情報であることを理解』
『「今日は理由を聞けただけで十分」』
『次回接続意思:未確認』
主様も隣で読む。
「進んだ?」
「何がでしょう」
「関係」
ノルンは少し考える。
「分かりません」
「でも相手の理由を一つ知った」
「はい」
「ルークも、ミレイアさんが理由を知りたがったことを知った」
「はい」
「それでも次回は決まってない」
「はい」
ノルンは少し微笑んだ。
「それでいいと思います」
接続しなくても、情報のやり取りはできる。
ただし何でもではない。
本人が知りたいと選んだこと。
相手が答えてよいと選んだこと。
その交差した部分だけ。
「主様」
「何?」
「今まで私は、接続するかしないかで考えすぎていたかもしれません」
「どういう意味?」
「会うか、会わないか。その二択だけではありませんでした」
「うん」
「直接声を聞かなくても、管理側を通して一つ質問できる」
「うん」
「理由だけ知ることもできる」
「うん」
「今後もし必要なら、同じような中間の方法があるかもしれません」
主様が少し笑う。
「でも、それも増やしすぎない」
「もちろんです」
「なんでも質問箱にしたら別の関係になる」
「はい」
直接接続の代わりに、管理側が永遠に伝言役をするわけではない。
でも、最初の接続直後のような時期に、一つの疑問を安全な形で解けることはある。
「今回の一問は、必要だったと思います」
「どうして?」
「ミレイア様の生活上の引っかかりとして残っていたからです」
「次へ進むためじゃない」
「はい。今を少し楽にするためです」
◇◇◇
夜、ルーク側から短い接続要求が届いた。
『ノルン』
「はい。今、少し大丈夫です」
淡い光が現れる。
『伝えた?』
「はい」
『ミレイア聞いた?』
「回答は本人へ届きました」
ルークの光が大きく揺れる。
『それだけ?』
「それだけです」
『反応』
「共有しません」
『うん』
返事は以前より早かった。
『分かった』
「今の怖さは?」
『四』
「朝は三でした」
『伝わったから上がった』
「分かりました」
『嫌じゃない』
「はい」
『でも怖い』
「はい」
『僕の理由知った』
「そうです」
ルークの光がしばらく揺れる。
『ノルン』
「はい」
『僕』
文字が止まる。
『少し近くなった気する』
ノルンの表情が変わる。
「接続時の位置感覚ですか?」
『違う』
返事はすぐだった。
『位置じゃない』
「では?」
少し間。
『ミレイア僕のこと一個知った』
「はい」
『僕も』
さらに間。
『ミレイアが知りたいって思ったの知った』
「はい」
『それ』
ルークは言葉を探す。
『近い』
ノルンはすぐ記録へ「位置参照」とは書かなかった。
これは関係の感覚だ。
「気持ちの距離が近い、という意味でしょうか」
『たぶん』
「怖いですか?」
『少し』
「嬉しい?」
『うん』
『両方』
「そうですか」
『でも会う決まってない』
「はい」
『知ってる』
「はい」
『僕待つ』
「はい」
ノルンは少しだけ微笑んだ。
『褒める?』
「今日は、位置感覚と気持ちの『近い』を分けて説明できたことを褒めます」
『一つ』
「また数えるのですか」
『もっと』
「今日は、回答がミレイア様へ届いたあとも、反応を勝手に知ろうとしなかったこと」
『二つ』
「そして、少し嬉しくて少し怖いことを両方言えたこと」
『三つ』
「満足でしょう!」
『あと一つ』
「増えましたね!?」
光が楽しそうに揺れる。
ノルンは呆れながらも笑った。
◇◇◇
一日の終わり。
ノルンは第六十話分となる今日の記録を整理した。
初回一言接続から二日。
ミレイア。
睡眠・食事・身体状態ほぼ通常。
接続後、声を思い出すことはあるが生活停止なし。
管理側から「次回意思」ではなく「現在困っていること」のみ確認。
本人より、「なぜ『こんにちは』だったのか」「本当は何を言いたかったのか」が気になると申告。
本人、「理由を知りたいと言っても、また会いたいという意味にはしないでほしい」と明確に希望。
ルーク本人が回答を望む範囲のみ知りたいと希望。
ルーク。
接続後の現在の困りごとは、「ごめんを言っていないことが残る」「ミレイアが何を思ったか知りたいが、勝手には知らない」。
ミレイアから理由質問希望があることを伝達。
ルークは次回接続への同意ではないことを理解。
回答共有を選択。
共有許可内容。
『「ごめん」を言いたい気持ちはあった』
『返事がないまま終わること、途中で止まることが怖かった』
『「こんにちは」は最初に会う言葉として、今の自分でも言えそうだった』
『自分の声と「こんにちは」をミレイアに聞いてほしかった』
非共有希望。
『「ごめん」を言わなかったことを逃げたように感じる部分』
『ミレイアが理由を知りたがったことへの嬉しさ』
ミレイア、回答受領。
『「ごめんを言いたかったんだ」』
『「こんにちはでよかったと言い切るのも違う。でも、あれしか言えなかったなら、それでよかったのかもしれない」』
『“かもしれない”を含め記録希望』
『「今日は理由を聞けただけで十分」』
次回接続意思は依然未確認。
ルーク、回答が伝わった後の怖さ四。
位置参照ではない関係上の感覚として「少し近くなった気がする」と表現。
理由は「ミレイアが自分のことを一つ知った」「自分も、ミレイアが知りたいと思ったことを知った」。
嬉しさと怖さの両方あり。
次回は決まっていないことを理解し、待つ意思継続。
ノルンは最後まで書き終えて、手帳を閉じずに少し眺めた。
「第六十話だね」
主様が言う。
「はい」
「十話ごとの区切り」
「そうですね」
五十一話から始まった停止用具の実物確認。
ルークの「止」試験。
世界側中継経路の最終確認。
日付相談。
何もしない日。
一言内容相談。
前日。
本番。
翌日。
そして今日。
振り返ると、ずいぶん遠くまで来たように見える。
でも、関係としては一言しか交わしていない。
いや、交わしてすらいない。
ルークが「こんにちは」と言い、ミレイアが聞いた。
それだけ。
そのあと一つだけ質問が管理側を経由し、一つだけ理由が返った。
「少しずつですね」
ノルンが言う。
「遅い?」
主様が尋ねる。
「いいえ」
ノルンはすぐ答えた。
「今はこれくらいでよいと思います」
「次回接続は?」
「まだ聞きません」
「ずっと?」
「いいえ」
ノルンは少し笑う。
「待つことを目的にはしません」
「じゃあいつ?」
「通常生活へ戻る時間をもう少し置きます」
「うん」
「その間に本人から次について出れば受け取る」
「出なければ?」
「必要な時期に、管理側から小さく確認します」
「どんな聞き方?」
ノルンは少し考えた。
「『もう一度会いたいですか』ではなく」
手帳の空白へ、仮の言葉を書く。
『今後、ルークとの接触について考えること自体を、今は避けたいですか。それとも、まだ決めずに置きたいですか』
主様が覗き込む。
「また細かい」
「大切です!」
「でも今すぐじゃない」
「はい」
今はまだ、その質問すら必要ない。
今日、ミレイアは「理由を知りたい」という自分の疑問を一つ解いた。
ルークは、自分の言葉の理由を一つだけ相手に渡した。
それだけで今日には十分な重さがある。
「主様」
「何?」
「直接会わなくても、関係が少し動くことがあるんですね」
「人間関係なら普通じゃない?」
「管理案件として考えすぎていました」
「ノルンだからね」
「その言い方、最近雑ではありませんか?」
主様が笑う。
ノルンも少し笑った。
照明を一段落とす。
一言接続から二日。
次の予定はない。
謝罪もまだ届いていない。
許しもない。
もう一度会うかも決まっていない。
それでも今日、ミレイアはルークが「こんにちは」を選んだ理由を知った。
ルークは、ミレイアがその理由を知りたいと思ったことを知った。
たったそれだけの情報が、お互いの中に新しいものを残した。
知らなかったことを一つ知る。
でも、その一つを知ったからといって次へ進む義務はない。
質問したから会う必要もない。
答えたから許されるわけでもない。
関係を決めずに、一つだけ知ることもできる。
ノルンはそのことを今日の記録へ最後に一行だけ残した。
『接触の有無だけを関係進行の尺度にしない。本人同士が許可した小さな情報共有も、独立した選択として扱う』
そして、もう一つ。
『待つことを目的にしない。ただし、次へ進ませるために質問しない。現在の生活で必要な小さな確認だけを行う』
書き終えたところで、ノルンはようやく手帳を閉じた。
第六十話。
一つの大きな区切りに見える数字だった。
けれど物語の中の二人にとっては、何かが完成した日ではない。
ただ。
最初の「こんにちは」の理由が、二日遅れて相手へ届いた日。
今は、それだけで十分だった。




