第五十九話 初めて声を聞いた翌日に、次を決める代わりに、昨日の自分を急いで意味づけしないことにしました
初回一言接続の翌朝。
ノルンは管理領域へ入ると、昨日まで何度も確認していた予定欄を一度見た。
『初回一言接続:終了』
『次回意思:未確認』
『本日:個別状態確認』
文字はそれだけだった。
昨日まであれほど大きく見えていた「予定日」はもうない。代わりに残ったのは、接続後の二人がそれぞれどう過ごしているかを確かめるための、ごく短い記録だった。
それでもノルンは、その三行をしばらく見つめた。
「おはよう、ノルン」
「おはようございます、主様」
中央管理卓の向こうでは、主様が朝の記録を開いていた。いつもの照明、いつもの管理光、いつもの静かな空気。昨日一つの大きな接続が終わったからといって、管理領域全体が何か特別な場所に変わったわけではない。
「七時間四十八分。朝食済み。体調問題なし」
「二十四日連続ですね」
「まだ数えるんだ」
「ここまで来ましたので」
「ノルンは?」
「七時間三十四分。朝食済み、途中覚醒なし、体調良好です」
「ちゃんと食べた?」
「食べました!」
「昨日疲れたって言ってたから」
「今日は普通です」
ノルンはそう答えながら、自分でも少しだけ違和感があった。
普通。
確かに身体は普通だった。
でも昨日、二十五年間世界の外側から見ていたルークの声が初めてミレイアへ届いた。
ミレイアは泣いた。
ルークの怖さは八まで上がった。
それでも安全に終わった。
その翌朝を「普通」と呼ぶことに、少しだけためらいがある。
「ノルン」
「はい」
「昨日のこと、もう整理しようとしてる?」
主様の問いに、ノルンは手帳へ視線を落とした。
「少し」
「成功だったとか」
「それは昨日も決めませんでした」
「じゃあ、意味」
ノルンはしばらく黙った。
「ミレイア様にとって何だったか、ルークにとって何だったか」
「うん」
「それを知りたくはあります」
「今日聞く?」
ノルンはすぐ首を横に振った。
「聞きません」
「なんで?」
「昨日、接続後すぐに感情や次回意思を聞かないと決めました」
「翌日ならいいんじゃない?」
「翌日だから自動的にいい、ではないと思います」
主様が少し笑った。
「うん」
「まず通常状態の確認です」
「次に会いたいかは?」
「聞きません」
「昨日どう思ったかは?」
「本人から話したいと出たら受け取ります」
「ルークにも?」
「同じです」
ノルンは手帳の今日の予定へ、余計な項目を増やさなかった。
ただし一つだけ、自分への注意として小さく書き足す。
『昨日の意味を管理側で先に決めない』
それだけだった。
◇◇◇
ミレイアは朝、目を覚ました時に最初に「昨日」と思った。
昨日。
もう「今日聞くかもしれない」ではない。
聞いた。
ルークの声を。
知らなかった声が、今は頭の中に残っている。
「……こんにちは」
まだ寝台の中で、小さく呟いた。
自分の声なのに、昨日聞いた音をなぞろうとしてしまう。
当然、同じにはならない。
その違いが妙に気になった。
昨夜は眠れた。
すぐではなかった。
目を閉じるたび、あの一言が戻ってきた。
こんにちは。
それだけ。
もっと何か言うと思っていた。
ごめん。
どうして。
名前。
何か重い言葉。
でも実際に届いたのは、普通の挨拶だった。
その普通さが、夜になっても胸に残った。
泣いた理由もまだ分からない。
悲しかったからか。
怒っていたからか。
安心したからか。
やっと届いたからか。
分からない。
それでも眠れた。
何度か目を覚ました気はするが、朝まで来た。
ミレイアはゆっくり起き上がり、窓を開けた。
朝の空気が部屋へ入る。
昨日と同じ庭。
昨日と同じ光。
でも、自分の中にはもう知らない声ではない一つの声がある。
それだけが違った。
◇◇◇
朝食は昨日より食べられた。
途中で手が止まることもあったが、最後までほとんど残さずに済んだ。
近くにいた使用人も、昨日ほど心配そうな顔をしなかった。
「今日は大丈夫そうですね」
「はい。昨日はちょっと食欲なかっただけなので」
ミレイアは自然に答えた。
昨日何があったかは言わない。
秘密というほどではない。
ただ、今は誰かに説明したくなかった。
朝食後、自室へ戻る途中でエリスと会った。
「おはようございます」
「おはようございます」
ミレイアは一瞬だけ構えた。
昨日のことを聞かれる。
そう思った。
でもエリスが最初に尋ねたのは、いつもどおりだった。
「昨夜は眠れましたか?」
「はい。少し時間かかりましたけど」
「途中で何度も目が覚めましたか?」
「たぶん二回くらい。でもまた寝られました」
「朝食は?」
「今日はほとんど食べました」
「頭痛やめまいは?」
「ないです」
「手の震えは?」
ミレイアは右手を見た。
「今はないです」
「息苦しさは?」
「ないです」
エリスは記録する。
それで一度、通常確認は終わった。
ミレイアは待った。
どうでしたか。
何を思いましたか。
また会いたいですか。
そう聞かれると思った。
でもエリスは記録板を閉じた。
「以上です」
昨日の朝と同じように言う。
ミレイアは目を瞬いた。
「……本当に?」
「はい」
「昨日のことは?」
「今すぐ確認する必要はありません」
「感想とか」
「聞きません」
「次どうするかも?」
「聞きません」
ミレイアは少し黙った。
それから、小さく笑った。
「分かってたはずなんですけど」
「はい」
「本当に聞かれないと、変な感じします」
「何か話したいことがありますか?」
その聞き方なら違う。
話したいことがあるか。
聞き出されるのではなく、自分から出すかどうか。
ミレイアは少し考えた。
「……あります」
「聞いてもよいですか?」
「はい」
エリスは記録板を開き直さなかった。
まず話を聞く姿勢だけを取る。
ミレイアはそのことに気づき、少しだけ安心した。
「昨日」
言葉を出すまでに時間がかかった。
「声、思ってたより普通でした」
「はい」
「普通って言うのも変なんですけど」
ミレイアは窓の方を見た。
「もっと、変な声だと思ってました」
「どう変だと?」
「分からないです。人じゃないから」
世界の外側の存在。
二十五年間、自分達を見ていた存在。
名称接続を通じて声を作る存在。
だから、もっと異質な音を想像していた。
「でも」
ミレイアは指先をゆっくり組む。
「ちゃんと声でした」
「はい」
「若い感じで」
ノルン達はすでに知っていた。
でも自分は昨日初めて知った。
「少し……子供っぽいような」
言ってから首を傾げる。
「でも子供ではない感じもして」
「はい」
「変でした」
その言葉に少し笑いが混じる。
「嫌でしたか?」
エリスは慎重に聞いた。
ミレイアは少し考えた。
「分かんないです」
「はい」
「嫌じゃなかった、とも言い切れないし」
昨日泣いた。
胸が痛かった。
ずるい、とも思った。
ごめんじゃなかった、とも言った。
「でも」
ミレイアは続ける。
「聞かなきゃよかったとは、今は思ってないです」
エリスの視線が少しだけ柔らかくなる。
「その言葉を記録してよいですか?」
ミレイアは少し驚いた。
でもすぐ頷く。
「はい」
「『今は』も含めて」
「はい」
その部分が大切だった。
今日そう思う。
明日も同じとは限らない。
でも今は、聞かなきゃよかったとは思っていない。
「それから」
ミレイアは言いにくそうに少し視線を落とした。
「こんにちは、だったの」
「はい」
「ちょっと腹立ちました」
エリスは意味づけせず待つ。
「もっと重いこと言うと思ってたんです」
「はい」
「ごめん、とか」
ミレイアの指が少し強く組まれる。
「だから、こんにちはって聞いた時」
昨日の声を思い出す。
短い。
静かな。
普通の挨拶。
「なんか、ずるいなって」
「どういうところが?」
「分かんないです」
ミレイアは眉を寄せた。
「普通に始めようとしてるみたいで」
言ってから、自分で違うと思う。
「でも、たぶん違うんですよね」
「何がでしょう」
「普通に済ませようとしてたわけじゃないかもしれない」
それは推測だ。
だからミレイアはすぐ続ける。
「分かんないですけど」
エリスは頷くだけ。
「昨日は」
ミレイアの声が少し小さくなる。
「ごめんじゃなかったことに、ちょっと腹が立って」
「はい」
「でも夜になったら」
少し間が空く。
「ごめんって言われてたら、もっと無理だったかもしれないって思いました」
言葉にすると、胸が少し苦しくなる。
もし昨日。
あの声で。
最初から「ごめん」と言われていたら。
自分はどうなっていただろう。
怒りがもっと強くなったかもしれない。
返事ができないことが苦しくなったかもしれない。
許すか許さないかをその場で考え始めていたかもしれない。
「こんにちはだったから」
ミレイアはゆっくり言う。
「何も決めなくて済んだのかもしれないです」
エリスは少し間を置いてから尋ねる。
「そう思う自分と、腹が立つ自分は両方いますか?」
ミレイアは小さく笑った。
「はい」
「ほかにも?」
そこでエリスは、すぐ「また会いたいですか」とは聞かない。
今ある感情の中に、本人が自分で見つけているものがあるかだけ。
ミレイアはしばらく考えた。
「……安心、も少し」
「はい」
「本当にいたんだ、みたいな」
自分でも変な表現だと思う。
ルークがいること自体は知っていた。
これまで何度も管理側から聞いてきた。
でも声を聞くまでは、どこか記録の中の存在だった。
「声があると」
ミレイアは窓の外を見ながら言う。
「急に、いるって思いました」
その実感が安心なのか、怖さなのか。
たぶん両方だ。
「昨日より怖いですか?」
エリスが尋ねる。
ミレイアは少し考える。
「昨日の直前よりは低いです」
「数字にするなら?」
「五、くらい」
昨日は八だった。
今日は五。
でもそれだけで「慣れた」とは思わない。
「また声を聞くことを考えると?」
その問いに、ミレイアは一瞬固まった。
エリスもすぐ気づく。
「次回意思を確認する意図ではありません」
「あ」
ミレイアは息を吐いた。
「すみません」
「こちらの聞き方が不十分でした」
「いえ」
少し考えてから答える。
「想像すると、また上がります」
「どの程度ですか?」
「六とか七」
「分かりました」
そこでエリスは止めた。
次を望むかどうかは聞かない。
ミレイアも自分からは言わなかった。
◇◇◇
管理領域でエリスからの報告を受け取ったノルンは、最初の行からゆっくり読んだ。
『本人、昨夜睡眠あり。途中覚醒二回程度、再入眠可能』
『朝食ほぼ通常量』
『頭痛・めまい・手指振戦・息苦しさなし』
そこまでは通常状態。
続く。
『本人より自発的に昨日の接続について話したい希望あり』
ノルンの指が少し止まる。
『「声は思っていたより普通だった」』
『「聞かなきゃよかったとは、今は思っていない」』
『「こんにちはだったことに少し腹が立った」』
『「ごめんと言われていたら、もっと無理だったかもしれない」』
『「こんにちはだったから、何も決めなくて済んだのかもしれない」』
『「声があると、本当にいると思った」』
ノルンは最後まで読む。
『現在怖さ5程度』
『再度声を聞く想像では6〜7程度まで上昇する感覚あり』
『次回意思は未確認』
最後の一行に、ノルンは小さく息を吐いた。
「聞かなかったんだ」
主様が隣で言う。
「はい」
「でもいろいろ話した」
「本人からです」
「うん」
ノルンは記録板へ何か書こうとして、少し迷った。
「どうした?」
「昨日の『こんにちは』が、結果的にはよかったのかと」
「もう意味づけしようとしてる」
「……はい」
ノルンは手を止めた。
ミレイア自身が「こんにちはだったから何も決めなくて済んだのかもしれない」と言った。
でも同時に、腹も立っている。
それを管理側が「だからこんにちはが正解だった」とまとめてしまえば、本人の複雑さを消す。
「『こんにちはでよかった』とは記録しません」
「うん」
「本人の発言をそのまま分けて残します」
それで十分だった。
◇◇◇
ルークへの状態確認は、昼近くになってから行った。
昨日の午後に一度、自発接続があった。
怖さ六。
近い感覚なし。
ミレイアの反応を知りたいが、勝手に知らないと本人が確認した。
その後、夜間の異常接続はない。
ノルンはいつものように名称接続を開いた。
「ルーク」
『いる』
「今、少し大丈夫ですか?」
『大丈夫』
少し間があり、
『昨日』
と浮かぶ。
「はい」
『こんにちは』
「はい」
『届いた』
「はい」
ルークの光が静かに揺れる。
「今の怖さは?」
『四』
「昨日の終了直後は八でした」
『下がった』
「苦しさは?」
『ない』
「近い感覚は?」
『ない』
「分かりました」
ノルンはまず通常状態だけを記録する。
「眠る、という形ではありませんが、接続終了後に長く不安定な状態は続きましたか?」
『少し考えた』
「何を?」
『こんにちは』
『ごめん』
やはりそこだった。
ノルンは急いで続きを聞かず、ルークが自分から話すのを待つ。
『こんにちはでよかった?』
「ルークはどう思いますか?」
淡い光が揺れる。
『分かんない』
『昨日より』
少し間が空く。
『こんにちはでよかった気する』
「どうしてですか?」
『言えた』
「はい」
『止まらなかった』
「はい」
『ごめんだったら』
文字が遅くなる。
『途中止まったかも』
「そう思うのですね」
『返事ない』
「はい」
『それも嫌』
「はい」
『でも』
光が少し強くなる。
『ごめん言ってない』
「はい」
『まだ言いたい』
「分かりました」
『ミレイア怒った?』
ノルンは答えない。
「本人の反応は共有しません」
『うん』
ルークの光が少し小さくなる。
『知りたい』
「はい」
『でも約束』
「はい」
『勝手に知らない』
「ありがとうございます」
少し間がある。
『ミレイア』
「はい」
『僕の声聞いた』
「はい」
『それだけは分かる』
「それは安全終了情報として共有済みです」
『うん』
ルークはしばらく何も出さなかった。
「今日は、次の接続について聞きません」
『嫌』
「聞いてほしいのですか?」
『……』
思わぬ反応に、ノルンは少し注意を向ける。
『分かんない』
「次について考えていますか?」
『考える』
「はい」
『また会いたい』
ノルンの手が止まる。
ルークから自発的に出た。
ここで管理側が「では次は」と手続きを始めないことが重要だった。
「今、そう思っているのですね」
『うん』
『でも』
続く。
『怖い』
「はい」
『ごめん言いたい』
「はい」
『ミレイア嫌かも』
「可能性はあります」
『次ないかも』
「はい」
『だから会いたい』
少し間。
『でも待つ』
ノルンはゆっくり頷く。
「その発言を記録してよいですか?」
『うん』
「ミレイア様へ伝えてよいですか?」
ルークの光が止まる。
『……』
しばらく考える。
『今は嫌』
「分かりました」
『圧力』
ノルンは目を見開いた。
「その言葉を覚えていたのですか」
『他八人』
「はい」
『ミレイアも?』
「同じです」
『僕会いたい言ったら』
文字がゆっくり続く。
『ミレイア会わなきゃってなるかも』
「そう感じさせる可能性はあります」
『嫌』
「はい」
『じゃあ言わない』
「分かりました」
ルークは自分の希望を隠したいわけではない。
でも、相手の選択を押したくない。
以前のルークなら、会いたい気持ちの方が先に出ていた。
今はその先まで考えている。
『ノルン』
「はい」
『褒める?』
やはり来る。
ノルンは少し笑った。
「今日は、自分から『また会いたい』と思っていることを言えたこと」
『うん』
「その気持ちをミレイア様へ今すぐ伝えると、相手の選択へ圧力になるかもしれないと考えられたこと」
『うん』
「そして、『会いたいけれど待つ』を自分で選べたこと」
『もっと』
「三つです!」
『また三つ』
「本当に偶然です!」
◇◇◇
昼食後、ノルンは通常業務へ戻った。
昨日の接続が大きかったからといって、他世界の観察が消えるわけではない。
ある世界では、転生者が始めた小さな診療所の運用が現地側へ引き継がれ始めていた。
別の世界では、転生者本人が自分の知識を使わず、現地の職人から教わる側へ回っていた。
ノルンはそれらを一つずつ確認し、必要な範囲だけ記録する。
主様が横から一つの報告を見せる。
「これ、介入いる?」
「いりません」
「即答」
「現地側で解決可能です」
「じゃあ閉じる」
「はい」
以前より切り替えが早くなった。
昨日のことが頭から消えたわけではない。
でも、それだけに管理領域全体を支配させない。
その方がよい。
◇◇◇
午後、ミレイアは昨日と同じ観察区画には行かなかった。
今日は自室にいた。
窓辺で本を開いている。
文字は昨日より頭に入る。
でも、数頁ごとに声を思い出す。
「こんにちは」
頭の中で聞こえる。
そのたび、少し胸が動く。
昨日ほどではない。
でも完全に平気でもない。
ミレイアは本を閉じた。
「普通だったな」
また思う。
普通だったから腹が立つ。
普通だったから聞けた。
普通だったから、返事をしたくなった。
その三つが同時にある。
そしてもう一つ。
「……ごめん、言わなかったな」
気になる。
自分は謝ってほしかったのだろうか。
たぶん、ずっとどこかではそうだった。
でも実際に言われたら、どう答えればよいか分からない。
昨日の形では返事もできない。
だから「こんにちは」でよかったのかもしれない。
でもそれを認めると、何となく悔しい。
ミレイアは口元を少し歪めた。
「面倒くさいな、私」
独り言が漏れる。
すぐに、少し違うと思った。
面倒なのではない。
たぶん、簡単に一つへまとめられないだけだ。
ノルン達はずっと「両方でいい」と言ってきた。
今は三つや四つある。
それでもいいのだろう。
ミレイアは本をもう一度開いた。
次については考えない。
いや、正確には、考えないと決める必要もない。
考えてしまっても、その場で答えを出さなければいい。
その程度でいい。
◇◇◇
夕方前、エリスが短い通常確認へ来た。
「体調はいかがですか?」
「大丈夫です」
「昼食は?」
「普通に食べました」
「手の震えや息苦しさは?」
「ないです」
確認はそれだけ。
エリスは帰ろうとする。
ミレイアは少し迷ってから呼び止めた。
「エリスさん」
「はい」
「一つ聞いていいですか?」
「もちろんです」
「昨日」
ミレイアは言葉を探す。
「ルークは、私の反応を聞いたんですか?」
エリスは少しだけ間を置く。
「管理側へ確認した可能性について知りたい、という意味ですか?」
「はい」
「本人の詳細なやり取りそのものは、こちらから共有できません」
ミレイアは少し残念そうに目を伏せた。
「ですよね」
「ただし、管理側はミレイアさんの反応を本人の許可なく共有しない方針を継続しています」
「じゃあ」
ミレイアが顔を上げる。
「私が泣いたこととか」
「伝えていません」
「こんにちはって言い返したことも?」
「伝えていません」
「ずるいって言ったことも?」
「伝えていません」
ミレイアは少し長く息を吐いた。
安心。
でも少しだけ、変な寂しさもあった。
「何か伝えたいですか?」
エリスが尋ねる。
ミレイアはすぐ答えなかった。
伝えたい。
今なら何を。
昨日、声を聞いた。
それだけ。
泣いた。
返事をしたかった。
こんにちはがずるいと思った。
ごめんじゃなかったことに腹が立った。
でもごめんだったらもっと無理だったかもしれない。
そんな全部を相手へ伝えたいわけではない。
「今は」
ミレイアはゆっくり言う。
「何も伝えなくていいです」
「分かりました」
「でも」
少し間。
「向こうも、私が聞いたことだけは知ってるんですよね」
「はい」
「それで十分です」
その答えを口にすると、少し落ち着いた。
昨日は、お互いにそれだけを知っている。
ルークは声を送った。
ミレイアは聞いた。
それ以上はまだ知らない。
その距離が、今はちょうどいい。
◇◇◇
夕方、ノルンのもとへエリスから新しい報告が届く。
『本人、午後も通常生活継続』
『体調問題なし』
『本人から「ルークは自分の反応を聞いたか」と質問』
『詳細なやり取りは共有せず、本人反応を無断共有しない方針を説明』
『本人、「自分が聞いたことだけ向こうが知っていれば、今はそれで十分」と発言』
『相手へ伝えたい内容:現時点なし』
ノルンはその最後の二行を見て、しばらく黙った。
「ちょうど似てるね」
主様が横から言う。
「何がですか?」
「ルークも、ミレイアさんの反応を知りたいけど勝手には知らないって言った」
「はい」
「ミレイアさんも、向こうが自分の反応を知ってるか気にした」
「はい」
「でも今はそれ以上共有しない」
「はい」
双方が相手を気にしている。
でも、その事実を互いへ伝えない。
それはもどかしい。
けれど、まだ必要な距離でもある。
「すれ違い?」
主様が尋ねる。
ノルンは少し考えてから首を横に振った。
「今は、すれ違いとは呼びません」
「どうして?」
「お互いに知らないことが、間違いではないからです」
「うん」
「必要なら、後で本人達が選んで知れます」
「じゃあ今は」
「知らないままが安全な距離です」
主様が穏やかに頷いた。
◇◇◇
夜になって、ルークから短い接続要求が来た。
ノルンは今日すでに一度状態確認をしている。
緊急性はない。
それでも本人発信なので、短く受ける。
「ルーク」
『いる』
「どうしました?」
『怖さ三』
最初に状態を出す。
「下がりましたね」
『うん』
「何か伝えたいことがありますか?」
少し間がある。
『昨日』
「はい」
『こんにちは』
「はい」
『今日も覚えてる』
「はい」
『ごめん』
淡い光が揺れる。
『まだ言いたい』
「はい」
『でも今日言わない』
「今日は接続しません」
『うん』
『分かった』
少し間が空く。
『また会いたい』
昼にも出た言葉。
「はい」
『でもミレイアに言わない』
「今は、ですね」
『うん』
『僕が待つ』
「はい」
『ノルン』
「何でしょう」
『待つの』
文字がゆっくり出る。
『前は嫌だった』
「そうですね」
『今も嫌』
「はい」
『でも』
少し間。
『嫌でも待てる』
ノルンはその言葉を見つめた。
待つことが好きになったわけではない。
我慢を美徳にしたわけでもない。
嫌なまま。
でも相手の選択を守るために、待つことを選べる。
「それも記録してよいですか?」
『うん』
「ミレイア様へは?」
『言わない』
「分かりました」
『褒める?』
やはり最後はそこへ戻る。
ノルンは小さく笑う。
「今日は、『待つのが嫌でも待てる』と自分で言えたことを褒めます」
『一つ』
「今日は一つです」
『少ない』
「数を増やすために褒めるものではありません!」
『もっとある』
「自分で要求しないでくださいませ!」
光が楽しそうに揺れる。
その揺れを見て、ノルンは少し安心した。
◇◇◇
一日の終わり。
ノルンは記録をまとめる。
初回一言接続翌日。
ミレイア。
睡眠・食事・身体状態、おおむね通常へ回復。
本人から昨日の接続について自発的な発話あり。
「声は思っていたより普通だった」
「聞かなきゃよかったとは、今は思っていない」
「こんにちはだったことに少し腹が立った」
「ごめんと言われていたら、もっと無理だったかもしれない」
「こんにちはだったから、何も決めなくて済んだのかもしれない」
「声があると、本当にいると思った」
現在怖さ五程度。
再度声を聞く想像では六〜七程度。
次回意思、未確認。
午後、「ルークは自分の反応を聞いたか」と本人から質問。
相手へ現在伝えたい内容なし。
「自分が聞いたことだけ向こうが知っていれば、今はそれで十分」。
ルーク。
怖さ四→夜三。
身体的・接続的異常なし。
「こんにちはでよかった気もする」。
「ごめんはまだ言いたい」。
ミレイアの反応を知りたい気持ちはあるが、本人許可なく知ろうとしない。
本人から自発的に「また会いたい」と発話。
ただしミレイアへ現時点で共有することを希望せず。「圧力になるかもしれない」と認識。
「会いたいけれど待つ」。
夜、「待つのは今も嫌。でも嫌でも待てる」。
次回予定、未設定。
ノルンは最後まで書き、少し長く息を吐いた。
「今日は、次を決めなかったね」
主様が言う。
「はい」
「でも昨日のことは少し出た」
「本人達から」
「うん」
ノルンは手帳を見つめる。
「昨日の接続が何だったのか」
「うん」
「今日一日で答えは出ませんでした」
「出さなくていいんでしょ?」
「はい」
ミレイアは、聞かなきゃよかったとは今は思っていない。
でも腹が立った。
安心もある。
ごめんではなくてよかったのかもしれない。
でもごめんではなかったことが引っかかる。
ルークは、こんにちはでよかった気もする。
でもごめんはまだ言いたい。
また会いたい。
でも相手へ今すぐ伝えない。
待つのは嫌。
でも待てる。
「主様」
「何?」
「昨日より複雑になっています」
「声が届いたからね」
「はい」
「単純になると思ってた?」
ノルンは少し考えた。
「どこかで」
正直に答える。
「一度声が届けば、少し整理されると思っていました」
「逆だった」
「はい」
知らなかった時は、想像だけだった。
声を聞いたことで、新しい感情が増えた。
新しい疑問も。
新しい期待も。
新しい怒りも。
だから、接続は解決ではない。
ただ、関係の中に新しい事実が一つ増えただけだ。
「それでいいんだと思います」
ノルンは手帳を閉じる。
「明日は?」
主様が尋ねる。
「また通常状態を見ます」
「次回意思は?」
「本人から出なければ聞きません」
「いつ聞く?」
ノルンはすぐ答えなかった。
「待つだけにもしたくありません」
「うん」
「でも翌日、翌々日と急いで聞く必要もない」
「じゃあ?」
「少し生活へ戻す時間を置いて、それでも必要なら小さく確認します」
待つことは正義ではない。
でも、接続直後に次へ進むのも違う。
その間を探す。
「ミレイア様が自分から話し始めています」
「うん」
「ルークも自分から『また会いたい』と言いました」
「うん」
「今は、それを手続きに変えない方がよいです」
「そうだね」
管理領域の照明が少しずつ夜用へ落ちていく。
ノルンは最後の表示を閉じた。
昨日、一言が届いた。
今日は、その一言の意味を二人がそれぞれ自分の場所で考え始めた。
でもまだ、同じ意味にはなっていない。
同じ意味になる必要があるのかも分からない。
ミレイアにとっての「こんにちは」。
ルークにとっての「こんにちは」。
それぞれ違うものを抱えたままでいい。
今日、管理側がすべきだったのは、それを一つの答えへまとめることではなかった。
昨日の自分を。
昨日の涙を。
昨日選んだ言葉を。
今日すぐ「よかった」「間違っていた」「次へ進むべきだった」と決めずに置いておくこと。
そして必要なら、明日また違う気持ちになってもよいと残しておくことだった。
初めて声を聞いた翌日は、次の予定を決める日にはならなかった。
代わりに。
一度届いた一言が、それぞれの中で少しずつ違う形へ変わっていくのを、急がず見守る一日になった。第五十九話 初めて声を聞いた翌日に、次を決める代わりに、昨日の自分を急いで意味づけしないことにしました
初回一言接続の翌朝。
ノルンは管理領域へ入ると、昨日まで何度も確認していた予定欄を一度見た。
『初回一言接続:終了』
『次回意思:未確認』
『本日:個別状態確認』
文字はそれだけだった。
昨日まであれほど大きく見えていた「予定日」はもうない。代わりに残ったのは、接続後の二人がそれぞれどう過ごしているかを確かめるための、ごく短い記録だった。
それでもノルンは、その三行をしばらく見つめた。
「おはよう、ノルン」
「おはようございます、主様」
中央管理卓の向こうでは、主様が朝の記録を開いていた。いつもの照明、いつもの管理光、いつもの静かな空気。昨日一つの大きな接続が終わったからといって、管理領域全体が何か特別な場所に変わったわけではない。
「七時間四十八分。朝食済み。体調問題なし」
「二十四日連続ですね」
「まだ数えるんだ」
「ここまで来ましたので」
「ノルンは?」
「七時間三十四分。朝食済み、途中覚醒なし、体調良好です」
「ちゃんと食べた?」
「食べました!」
「昨日疲れたって言ってたから」
「今日は普通です」
ノルンはそう答えながら、自分でも少しだけ違和感があった。
普通。
確かに身体は普通だった。
でも昨日、二十五年間世界の外側から見ていたルークの声が初めてミレイアへ届いた。
ミレイアは泣いた。
ルークの怖さは八まで上がった。
それでも安全に終わった。
その翌朝を「普通」と呼ぶことに、少しだけためらいがある。
「ノルン」
「はい」
「昨日のこと、もう整理しようとしてる?」
主様の問いに、ノルンは手帳へ視線を落とした。
「少し」
「成功だったとか」
「それは昨日も決めませんでした」
「じゃあ、意味」
ノルンはしばらく黙った。
「ミレイア様にとって何だったか、ルークにとって何だったか」
「うん」
「それを知りたくはあります」
「今日聞く?」
ノルンはすぐ首を横に振った。
「聞きません」
「なんで?」
「昨日、接続後すぐに感情や次回意思を聞かないと決めました」
「翌日ならいいんじゃない?」
「翌日だから自動的にいい、ではないと思います」
主様が少し笑った。
「うん」
「まず通常状態の確認です」
「次に会いたいかは?」
「聞きません」
「昨日どう思ったかは?」
「本人から話したいと出たら受け取ります」
「ルークにも?」
「同じです」
ノルンは手帳の今日の予定へ、余計な項目を増やさなかった。
ただし一つだけ、自分への注意として小さく書き足す。
『昨日の意味を管理側で先に決めない』
それだけだった。
◇◇◇
ミレイアは朝、目を覚ました時に最初に「昨日」と思った。
昨日。
もう「今日聞くかもしれない」ではない。
聞いた。
ルークの声を。
知らなかった声が、今は頭の中に残っている。
「……こんにちは」
まだ寝台の中で、小さく呟いた。
自分の声なのに、昨日聞いた音をなぞろうとしてしまう。
当然、同じにはならない。
その違いが妙に気になった。
昨夜は眠れた。
すぐではなかった。
目を閉じるたび、あの一言が戻ってきた。
こんにちは。
それだけ。
もっと何か言うと思っていた。
ごめん。
どうして。
名前。
何か重い言葉。
でも実際に届いたのは、普通の挨拶だった。
その普通さが、夜になっても胸に残った。
泣いた理由もまだ分からない。
悲しかったからか。
怒っていたからか。
安心したからか。
やっと届いたからか。
分からない。
それでも眠れた。
何度か目を覚ました気はするが、朝まで来た。
ミレイアはゆっくり起き上がり、窓を開けた。
朝の空気が部屋へ入る。
昨日と同じ庭。
昨日と同じ光。
でも、自分の中にはもう知らない声ではない一つの声がある。
それだけが違った。
◇◇◇
朝食は昨日より食べられた。
途中で手が止まることもあったが、最後までほとんど残さずに済んだ。
近くにいた使用人も、昨日ほど心配そうな顔をしなかった。
「今日は大丈夫そうですね」
「はい。昨日はちょっと食欲なかっただけなので」
ミレイアは自然に答えた。
昨日何があったかは言わない。
秘密というほどではない。
ただ、今は誰かに説明したくなかった。
朝食後、自室へ戻る途中でエリスと会った。
「おはようございます」
「おはようございます」
ミレイアは一瞬だけ構えた。
昨日のことを聞かれる。
そう思った。
でもエリスが最初に尋ねたのは、いつもどおりだった。
「昨夜は眠れましたか?」
「はい。少し時間かかりましたけど」
「途中で何度も目が覚めましたか?」
「たぶん二回くらい。でもまた寝られました」
「朝食は?」
「今日はほとんど食べました」
「頭痛やめまいは?」
「ないです」
「手の震えは?」
ミレイアは右手を見た。
「今はないです」
「息苦しさは?」
「ないです」
エリスは記録する。
それで一度、通常確認は終わった。
ミレイアは待った。
どうでしたか。
何を思いましたか。
また会いたいですか。
そう聞かれると思った。
でもエリスは記録板を閉じた。
「以上です」
昨日の朝と同じように言う。
ミレイアは目を瞬いた。
「……本当に?」
「はい」
「昨日のことは?」
「今すぐ確認する必要はありません」
「感想とか」
「聞きません」
「次どうするかも?」
「聞きません」
ミレイアは少し黙った。
それから、小さく笑った。
「分かってたはずなんですけど」
「はい」
「本当に聞かれないと、変な感じします」
「何か話したいことがありますか?」
その聞き方なら違う。
話したいことがあるか。
聞き出されるのではなく、自分から出すかどうか。
ミレイアは少し考えた。
「……あります」
「聞いてもよいですか?」
「はい」
エリスは記録板を開き直さなかった。
まず話を聞く姿勢だけを取る。
ミレイアはそのことに気づき、少しだけ安心した。
「昨日」
言葉を出すまでに時間がかかった。
「声、思ってたより普通でした」
「はい」
「普通って言うのも変なんですけど」
ミレイアは窓の方を見た。
「もっと、変な声だと思ってました」
「どう変だと?」
「分からないです。人じゃないから」
世界の外側の存在。
二十五年間、自分達を見ていた存在。
名称接続を通じて声を作る存在。
だから、もっと異質な音を想像していた。
「でも」
ミレイアは指先をゆっくり組む。
「ちゃんと声でした」
「はい」
「若い感じで」
ノルン達はすでに知っていた。
でも自分は昨日初めて知った。
「少し……子供っぽいような」
言ってから首を傾げる。
「でも子供ではない感じもして」
「はい」
「変でした」
その言葉に少し笑いが混じる。
「嫌でしたか?」
エリスは慎重に聞いた。
ミレイアは少し考えた。
「分かんないです」
「はい」
「嫌じゃなかった、とも言い切れないし」
昨日泣いた。
胸が痛かった。
ずるい、とも思った。
ごめんじゃなかった、とも言った。
「でも」
ミレイアは続ける。
「聞かなきゃよかったとは、今は思ってないです」
エリスの視線が少しだけ柔らかくなる。
「その言葉を記録してよいですか?」
ミレイアは少し驚いた。
でもすぐ頷く。
「はい」
「『今は』も含めて」
「はい」
その部分が大切だった。
今日そう思う。
明日も同じとは限らない。
でも今は、聞かなきゃよかったとは思っていない。
「それから」
ミレイアは言いにくそうに少し視線を落とした。
「こんにちは、だったの」
「はい」
「ちょっと腹立ちました」
エリスは意味づけせず待つ。
「もっと重いこと言うと思ってたんです」
「はい」
「ごめん、とか」
ミレイアの指が少し強く組まれる。
「だから、こんにちはって聞いた時」
昨日の声を思い出す。
短い。
静かな。
普通の挨拶。
「なんか、ずるいなって」
「どういうところが?」
「分かんないです」
ミレイアは眉を寄せた。
「普通に始めようとしてるみたいで」
言ってから、自分で違うと思う。
「でも、たぶん違うんですよね」
「何がでしょう」
「普通に済ませようとしてたわけじゃないかもしれない」
それは推測だ。
だからミレイアはすぐ続ける。
「分かんないですけど」
エリスは頷くだけ。
「昨日は」
ミレイアの声が少し小さくなる。
「ごめんじゃなかったことに、ちょっと腹が立って」
「はい」
「でも夜になったら」
少し間が空く。
「ごめんって言われてたら、もっと無理だったかもしれないって思いました」
言葉にすると、胸が少し苦しくなる。
もし昨日。
あの声で。
最初から「ごめん」と言われていたら。
自分はどうなっていただろう。
怒りがもっと強くなったかもしれない。
返事ができないことが苦しくなったかもしれない。
許すか許さないかをその場で考え始めていたかもしれない。
「こんにちはだったから」
ミレイアはゆっくり言う。
「何も決めなくて済んだのかもしれないです」
エリスは少し間を置いてから尋ねる。
「そう思う自分と、腹が立つ自分は両方いますか?」
ミレイアは小さく笑った。
「はい」
「ほかにも?」
そこでエリスは、すぐ「また会いたいですか」とは聞かない。
今ある感情の中に、本人が自分で見つけているものがあるかだけ。
ミレイアはしばらく考えた。
「……安心、も少し」
「はい」
「本当にいたんだ、みたいな」
自分でも変な表現だと思う。
ルークがいること自体は知っていた。
これまで何度も管理側から聞いてきた。
でも声を聞くまでは、どこか記録の中の存在だった。
「声があると」
ミレイアは窓の外を見ながら言う。
「急に、いるって思いました」
その実感が安心なのか、怖さなのか。
たぶん両方だ。
「昨日より怖いですか?」
エリスが尋ねる。
ミレイアは少し考える。
「昨日の直前よりは低いです」
「数字にするなら?」
「五、くらい」
昨日は八だった。
今日は五。
でもそれだけで「慣れた」とは思わない。
「また声を聞くことを考えると?」
その問いに、ミレイアは一瞬固まった。
エリスもすぐ気づく。
「次回意思を確認する意図ではありません」
「あ」
ミレイアは息を吐いた。
「すみません」
「こちらの聞き方が不十分でした」
「いえ」
少し考えてから答える。
「想像すると、また上がります」
「どの程度ですか?」
「六とか七」
「分かりました」
そこでエリスは止めた。
次を望むかどうかは聞かない。
ミレイアも自分からは言わなかった。
◇◇◇
管理領域でエリスからの報告を受け取ったノルンは、最初の行からゆっくり読んだ。
『本人、昨夜睡眠あり。途中覚醒二回程度、再入眠可能』
『朝食ほぼ通常量』
『頭痛・めまい・手指振戦・息苦しさなし』
そこまでは通常状態。
続く。
『本人より自発的に昨日の接続について話したい希望あり』
ノルンの指が少し止まる。
『「声は思っていたより普通だった」』
『「聞かなきゃよかったとは、今は思っていない」』
『「こんにちはだったことに少し腹が立った」』
『「ごめんと言われていたら、もっと無理だったかもしれない」』
『「こんにちはだったから、何も決めなくて済んだのかもしれない」』
『「声があると、本当にいると思った」』
ノルンは最後まで読む。
『現在怖さ5程度』
『再度声を聞く想像では6〜7程度まで上昇する感覚あり』
『次回意思は未確認』
最後の一行に、ノルンは小さく息を吐いた。
「聞かなかったんだ」
主様が隣で言う。
「はい」
「でもいろいろ話した」
「本人からです」
「うん」
ノルンは記録板へ何か書こうとして、少し迷った。
「どうした?」
「昨日の『こんにちは』が、結果的にはよかったのかと」
「もう意味づけしようとしてる」
「……はい」
ノルンは手を止めた。
ミレイア自身が「こんにちはだったから何も決めなくて済んだのかもしれない」と言った。
でも同時に、腹も立っている。
それを管理側が「だからこんにちはが正解だった」とまとめてしまえば、本人の複雑さを消す。
「『こんにちはでよかった』とは記録しません」
「うん」
「本人の発言をそのまま分けて残します」
それで十分だった。
◇◇◇
ルークへの状態確認は、昼近くになってから行った。
昨日の午後に一度、自発接続があった。
怖さ六。
近い感覚なし。
ミレイアの反応を知りたいが、勝手に知らないと本人が確認した。
その後、夜間の異常接続はない。
ノルンはいつものように名称接続を開いた。
「ルーク」
『いる』
「今、少し大丈夫ですか?」
『大丈夫』
少し間があり、
『昨日』
と浮かぶ。
「はい」
『こんにちは』
「はい」
『届いた』
「はい」
ルークの光が静かに揺れる。
「今の怖さは?」
『四』
「昨日の終了直後は八でした」
『下がった』
「苦しさは?」
『ない』
「近い感覚は?」
『ない』
「分かりました」
ノルンはまず通常状態だけを記録する。
「眠る、という形ではありませんが、接続終了後に長く不安定な状態は続きましたか?」
『少し考えた』
「何を?」
『こんにちは』
『ごめん』
やはりそこだった。
ノルンは急いで続きを聞かず、ルークが自分から話すのを待つ。
『こんにちはでよかった?』
「ルークはどう思いますか?」
淡い光が揺れる。
『分かんない』
『昨日より』
少し間が空く。
『こんにちはでよかった気する』
「どうしてですか?」
『言えた』
「はい」
『止まらなかった』
「はい」
『ごめんだったら』
文字が遅くなる。
『途中止まったかも』
「そう思うのですね」
『返事ない』
「はい」
『それも嫌』
「はい」
『でも』
光が少し強くなる。
『ごめん言ってない』
「はい」
『まだ言いたい』
「分かりました」
『ミレイア怒った?』
ノルンは答えない。
「本人の反応は共有しません」
『うん』
ルークの光が少し小さくなる。
『知りたい』
「はい」
『でも約束』
「はい」
『勝手に知らない』
「ありがとうございます」
少し間がある。
『ミレイア』
「はい」
『僕の声聞いた』
「はい」
『それだけは分かる』
「それは安全終了情報として共有済みです」
『うん』
ルークはしばらく何も出さなかった。
「今日は、次の接続について聞きません」
『嫌』
「聞いてほしいのですか?」
『……』
思わぬ反応に、ノルンは少し注意を向ける。
『分かんない』
「次について考えていますか?」
『考える』
「はい」
『また会いたい』
ノルンの手が止まる。
ルークから自発的に出た。
ここで管理側が「では次は」と手続きを始めないことが重要だった。
「今、そう思っているのですね」
『うん』
『でも』
続く。
『怖い』
「はい」
『ごめん言いたい』
「はい」
『ミレイア嫌かも』
「可能性はあります」
『次ないかも』
「はい」
『だから会いたい』
少し間。
『でも待つ』
ノルンはゆっくり頷く。
「その発言を記録してよいですか?」
『うん』
「ミレイア様へ伝えてよいですか?」
ルークの光が止まる。
『……』
しばらく考える。
『今は嫌』
「分かりました」
『圧力』
ノルンは目を見開いた。
「その言葉を覚えていたのですか」
『他八人』
「はい」
『ミレイアも?』
「同じです」
『僕会いたい言ったら』
文字がゆっくり続く。
『ミレイア会わなきゃってなるかも』
「そう感じさせる可能性はあります」
『嫌』
「はい」
『じゃあ言わない』
「分かりました」
ルークは自分の希望を隠したいわけではない。
でも、相手の選択を押したくない。
以前のルークなら、会いたい気持ちの方が先に出ていた。
今はその先まで考えている。
『ノルン』
「はい」
『褒める?』
やはり来る。
ノルンは少し笑った。
「今日は、自分から『また会いたい』と思っていることを言えたこと」
『うん』
「その気持ちをミレイア様へ今すぐ伝えると、相手の選択へ圧力になるかもしれないと考えられたこと」
『うん』
「そして、『会いたいけれど待つ』を自分で選べたこと」
『もっと』
「三つです!」
『また三つ』
「本当に偶然です!」
◇◇◇
昼食後、ノルンは通常業務へ戻った。
昨日の接続が大きかったからといって、他世界の観察が消えるわけではない。
ある世界では、転生者が始めた小さな診療所の運用が現地側へ引き継がれ始めていた。
別の世界では、転生者本人が自分の知識を使わず、現地の職人から教わる側へ回っていた。
ノルンはそれらを一つずつ確認し、必要な範囲だけ記録する。
主様が横から一つの報告を見せる。
「これ、介入いる?」
「いりません」
「即答」
「現地側で解決可能です」
「じゃあ閉じる」
「はい」
以前より切り替えが早くなった。
昨日のことが頭から消えたわけではない。
でも、それだけに管理領域全体を支配させない。
その方がよい。
◇◇◇
午後、ミレイアは昨日と同じ観察区画には行かなかった。
今日は自室にいた。
窓辺で本を開いている。
文字は昨日より頭に入る。
でも、数頁ごとに声を思い出す。
「こんにちは」
頭の中で聞こえる。
そのたび、少し胸が動く。
昨日ほどではない。
でも完全に平気でもない。
ミレイアは本を閉じた。
「普通だったな」
また思う。
普通だったから腹が立つ。
普通だったから聞けた。
普通だったから、返事をしたくなった。
その三つが同時にある。
そしてもう一つ。
「……ごめん、言わなかったな」
気になる。
自分は謝ってほしかったのだろうか。
たぶん、ずっとどこかではそうだった。
でも実際に言われたら、どう答えればよいか分からない。
昨日の形では返事もできない。
だから「こんにちは」でよかったのかもしれない。
でもそれを認めると、何となく悔しい。
ミレイアは口元を少し歪めた。
「面倒くさいな、私」
独り言が漏れる。
すぐに、少し違うと思った。
面倒なのではない。
たぶん、簡単に一つへまとめられないだけだ。
ノルン達はずっと「両方でいい」と言ってきた。
今は三つや四つある。
それでもいいのだろう。
ミレイアは本をもう一度開いた。
次については考えない。
いや、正確には、考えないと決める必要もない。
考えてしまっても、その場で答えを出さなければいい。
その程度でいい。
◇◇◇
夕方前、エリスが短い通常確認へ来た。
「体調はいかがですか?」
「大丈夫です」
「昼食は?」
「普通に食べました」
「手の震えや息苦しさは?」
「ないです」
確認はそれだけ。
エリスは帰ろうとする。
ミレイアは少し迷ってから呼び止めた。
「エリスさん」
「はい」
「一つ聞いていいですか?」
「もちろんです」
「昨日」
ミレイアは言葉を探す。
「ルークは、私の反応を聞いたんですか?」
エリスは少しだけ間を置く。
「管理側へ確認した可能性について知りたい、という意味ですか?」
「はい」
「本人の詳細なやり取りそのものは、こちらから共有できません」
ミレイアは少し残念そうに目を伏せた。
「ですよね」
「ただし、管理側はミレイアさんの反応を本人の許可なく共有しない方針を継続しています」
「じゃあ」
ミレイアが顔を上げる。
「私が泣いたこととか」
「伝えていません」
「こんにちはって言い返したことも?」
「伝えていません」
「ずるいって言ったことも?」
「伝えていません」
ミレイアは少し長く息を吐いた。
安心。
でも少しだけ、変な寂しさもあった。
「何か伝えたいですか?」
エリスが尋ねる。
ミレイアはすぐ答えなかった。
伝えたい。
今なら何を。
昨日、声を聞いた。
それだけ。
泣いた。
返事をしたかった。
こんにちはがずるいと思った。
ごめんじゃなかったことに腹が立った。
でもごめんだったらもっと無理だったかもしれない。
そんな全部を相手へ伝えたいわけではない。
「今は」
ミレイアはゆっくり言う。
「何も伝えなくていいです」
「分かりました」
「でも」
少し間。
「向こうも、私が聞いたことだけは知ってるんですよね」
「はい」
「それで十分です」
その答えを口にすると、少し落ち着いた。
昨日は、お互いにそれだけを知っている。
ルークは声を送った。
ミレイアは聞いた。
それ以上はまだ知らない。
その距離が、今はちょうどいい。
◇◇◇
夕方、ノルンのもとへエリスから新しい報告が届く。
『本人、午後も通常生活継続』
『体調問題なし』
『本人から「ルークは自分の反応を聞いたか」と質問』
『詳細なやり取りは共有せず、本人反応を無断共有しない方針を説明』
『本人、「自分が聞いたことだけ向こうが知っていれば、今はそれで十分」と発言』
『相手へ伝えたい内容:現時点なし』
ノルンはその最後の二行を見て、しばらく黙った。
「ちょうど似てるね」
主様が横から言う。
「何がですか?」
「ルークも、ミレイアさんの反応を知りたいけど勝手には知らないって言った」
「はい」
「ミレイアさんも、向こうが自分の反応を知ってるか気にした」
「はい」
「でも今はそれ以上共有しない」
「はい」
双方が相手を気にしている。
でも、その事実を互いへ伝えない。
それはもどかしい。
けれど、まだ必要な距離でもある。
「すれ違い?」
主様が尋ねる。
ノルンは少し考えてから首を横に振った。
「今は、すれ違いとは呼びません」
「どうして?」
「お互いに知らないことが、間違いではないからです」
「うん」
「必要なら、後で本人達が選んで知れます」
「じゃあ今は」
「知らないままが安全な距離です」
主様が穏やかに頷いた。
◇◇◇
夜になって、ルークから短い接続要求が来た。
ノルンは今日すでに一度状態確認をしている。
緊急性はない。
それでも本人発信なので、短く受ける。
「ルーク」
『いる』
「どうしました?」
『怖さ三』
最初に状態を出す。
「下がりましたね」
『うん』
「何か伝えたいことがありますか?」
少し間がある。
『昨日』
「はい」
『こんにちは』
「はい」
『今日も覚えてる』
「はい」
『ごめん』
淡い光が揺れる。
『まだ言いたい』
「はい」
『でも今日言わない』
「今日は接続しません」
『うん』
『分かった』
少し間が空く。
『また会いたい』
昼にも出た言葉。
「はい」
『でもミレイアに言わない』
「今は、ですね」
『うん』
『僕が待つ』
「はい」
『ノルン』
「何でしょう」
『待つの』
文字がゆっくり出る。
『前は嫌だった』
「そうですね」
『今も嫌』
「はい」
『でも』
少し間。
『嫌でも待てる』
ノルンはその言葉を見つめた。
待つことが好きになったわけではない。
我慢を美徳にしたわけでもない。
嫌なまま。
でも相手の選択を守るために、待つことを選べる。
「それも記録してよいですか?」
『うん』
「ミレイア様へは?」
『言わない』
「分かりました」
『褒める?』
やはり最後はそこへ戻る。
ノルンは小さく笑う。
「今日は、『待つのが嫌でも待てる』と自分で言えたことを褒めます」
『一つ』
「今日は一つです」
『少ない』
「数を増やすために褒めるものではありません!」
『もっとある』
「自分で要求しないでくださいませ!」
光が楽しそうに揺れる。
その揺れを見て、ノルンは少し安心した。
◇◇◇
一日の終わり。
ノルンは記録をまとめる。
初回一言接続翌日。
ミレイア。
睡眠・食事・身体状態、おおむね通常へ回復。
本人から昨日の接続について自発的な発話あり。
「声は思っていたより普通だった」
「聞かなきゃよかったとは、今は思っていない」
「こんにちはだったことに少し腹が立った」
「ごめんと言われていたら、もっと無理だったかもしれない」
「こんにちはだったから、何も決めなくて済んだのかもしれない」
「声があると、本当にいると思った」
現在怖さ五程度。
再度声を聞く想像では六〜七程度。
次回意思、未確認。
午後、「ルークは自分の反応を聞いたか」と本人から質問。
相手へ現在伝えたい内容なし。
「自分が聞いたことだけ向こうが知っていれば、今はそれで十分」。
ルーク。
怖さ四→夜三。
身体的・接続的異常なし。
「こんにちはでよかった気もする」。
「ごめんはまだ言いたい」。
ミレイアの反応を知りたい気持ちはあるが、本人許可なく知ろうとしない。
本人から自発的に「また会いたい」と発話。
ただしミレイアへ現時点で共有することを希望せず。「圧力になるかもしれない」と認識。
「会いたいけれど待つ」。
夜、「待つのは今も嫌。でも嫌でも待てる」。
次回予定、未設定。
ノルンは最後まで書き、少し長く息を吐いた。
「今日は、次を決めなかったね」
主様が言う。
「はい」
「でも昨日のことは少し出た」
「本人達から」
「うん」
ノルンは手帳を見つめる。
「昨日の接続が何だったのか」
「うん」
「今日一日で答えは出ませんでした」
「出さなくていいんでしょ?」
「はい」
ミレイアは、聞かなきゃよかったとは今は思っていない。
でも腹が立った。
安心もある。
ごめんではなくてよかったのかもしれない。
でもごめんではなかったことが引っかかる。
ルークは、こんにちはでよかった気もする。
でもごめんはまだ言いたい。
また会いたい。
でも相手へ今すぐ伝えない。
待つのは嫌。
でも待てる。
「主様」
「何?」
「昨日より複雑になっています」
「声が届いたからね」
「はい」
「単純になると思ってた?」
ノルンは少し考えた。
「どこかで」
正直に答える。
「一度声が届けば、少し整理されると思っていました」
「逆だった」
「はい」
知らなかった時は、想像だけだった。
声を聞いたことで、新しい感情が増えた。
新しい疑問も。
新しい期待も。
新しい怒りも。
だから、接続は解決ではない。
ただ、関係の中に新しい事実が一つ増えただけだ。
「それでいいんだと思います」
ノルンは手帳を閉じる。
「明日は?」
主様が尋ねる。
「また通常状態を見ます」
「次回意思は?」
「本人から出なければ聞きません」
「いつ聞く?」
ノルンはすぐ答えなかった。
「待つだけにもしたくありません」
「うん」
「でも翌日、翌々日と急いで聞く必要もない」
「じゃあ?」
「少し生活へ戻す時間を置いて、それでも必要なら小さく確認します」
待つことは正義ではない。
でも、接続直後に次へ進むのも違う。
その間を探す。
「ミレイア様が自分から話し始めています」
「うん」
「ルークも自分から『また会いたい』と言いました」
「うん」
「今は、それを手続きに変えない方がよいです」
「そうだね」
管理領域の照明が少しずつ夜用へ落ちていく。
ノルンは最後の表示を閉じた。
昨日、一言が届いた。
今日は、その一言の意味を二人がそれぞれ自分の場所で考え始めた。
でもまだ、同じ意味にはなっていない。
同じ意味になる必要があるのかも分からない。
ミレイアにとっての「こんにちは」。
ルークにとっての「こんにちは」。
それぞれ違うものを抱えたままでいい。
今日、管理側がすべきだったのは、それを一つの答えへまとめることではなかった。
昨日の自分を。
昨日の涙を。
昨日選んだ言葉を。
今日すぐ「よかった」「間違っていた」「次へ進むべきだった」と決めずに置いておくこと。
そして必要なら、明日また違う気持ちになってもよいと残しておくことだった。
初めて声を聞いた翌日は、次の予定を決める日にはならなかった。
代わりに。
一度届いた一言が、それぞれの中で少しずつ違う形へ変わっていくのを、急がず見守る一日になった。




