第五十八話 予定日になっても最後まで始めるかを決めなかった二人が、ようやく一言だけ同じ時間に立ちました
予定日。
その二文字が朝の管理板に表示されているのを見て、ノルンはしばらく何も操作しなかった。
これまで何度も見てきた項目だった。
四日後。
三日後。
二日後。
前日。
数字が減るたびに現実味は増していたが、今日だけは表示の意味が違う。
『一言接続予定日:本日』
その下には、昨夜と変わらない注意書きが残っている。
『予定日は実施義務を意味しない』
『双方、開始前まで変更・中止可能』
『接続開始後も停止可能』
『第一候補:こんにちは』
『第二候補:ごめん』
『最終選択:当日本人』
ノルンは一つずつ目で追ってから、ようやく中央管理卓へ歩き出した。
「おはよう、ノルン」
主様はいつもと同じ場所にいた。
朝の管理領域も、いつもと大きく変わらない。淡い照明が天井から降り、壁沿いの記録光が静かな流れを作っている。遠くの管理卓では別担当の補助記録が自動整理されており、ときどき小さな通知音が響く。
今日だけ世界が特別になるわけではない。
その普通さに、ノルンは少し救われた。
「おはようございます、主様」
「朝食は?」
いきなり聞かれ、ノルンは眉を寄せる。
「食べました」
「睡眠」
「七時間三十分です。途中覚醒なし。体調良好です」
「よし」
「なぜ主様が確認するのですか」
「昨日宣言したから」
「私の仕事です!」
「今日は僕の仕事」
「交代しておりません!」
思わず声を上げたあと、自分でも少し笑ってしまった。
主様も笑いながら、自分の記録を開く。
「僕は七時間四十三分。朝食済み。体調問題なし」
「二十三日連続ですね」
「そこは数えるんだ」
「もちろんです」
短いやり取りが終わる。
それだけで、胸の奥に固まっていた緊張が少しだけほぐれた。
「今日は」
主様が管理板へ目を向ける。
「予定どおりなら、一言接続の日」
「はい」
「予定どおりなら、ね」
「はい」
ノルンはその言葉をしっかり受け止めた。
今日だからやるのではない。
今日、二人が始めたいと思えばやる。
それだけだ。
◇◇◇
朝の通常確認は、いつもどおり行った。
九人の誤転生者について、大きな異常なし。
旧管理領域最古層から新規の複製記録なし。
他世界に緊急介入案件なし。
ノルンは一言接続のことだけを見続けないよう、通常業務を一つずつ終わらせた。
その合間に、エリスから朝の記録が届く。
『本人起床済み』
『睡眠あり。途中覚醒二回。いずれも再入眠可能』
『朝食摂取量やや少なめだが、摂取可能』
『強い体調異常なし』
『本人、朝の時点で予定撤回希望なし』
最後の一文を見て、ノルンはすぐに次の段階へ進もうとはしなかった。
「食事、少し減ったね」
主様が言う。
「はい」
「実施不可?」
「現時点では、そこまでは判断しません」
「じゃあ?」
「エリスさんから、もう少し通常状態を見てもらいます」
朝起きてすぐの気持ちだけで決めない。
食事をし、少し時間を過ごした後でもまだ同じか。
それを見る。
◇◇◇
ミレイアは、朝食の最後までパンを食べきれなかった。
食べようと思えば食べられた。
吐き気があるわけではない。
ただ、途中から喉を通りにくくなった。
今日は予定日。
それを思い出すたび、身体の内側が少し固くなる。
「残しても大丈夫ですよ」
近くにいた使用人が心配そうに声をかける。
「大丈夫です。ちょっと、お腹いっぱいなだけなので」
ミレイアは笑って答えた。
嘘ではない。
でも全部でもない。
事情を知らない人に説明する必要はなかった。
朝食を終えたあと、自室へ戻る。
窓の外は晴れていた。
昨日まで残っていた雲も薄くなり、陽射しが濡れた庭へ反射している。葉の先に残った水滴が光り、風が吹くたび小さく揺れた。
こんな日に聞くのか。
ふと思う。
もっと暗い日を想像していた。
静かな曇り空。
少し寒い部屋。
そんなものを勝手に思い描いていた。
でも今日は、明るい。
世界は普通だ。
そのことが少し妙だった。
エリスが来たのは、朝食からしばらくしてからだった。
「おはようございます」
「おはようございます」
いつもの確認から始まる。
「眠れましたか?」
「はい。二回起きましたけど、また寝られました」
「朝食は?」
「少し残しました」
「吐き気や腹痛は?」
「ないです」
「息苦しさは?」
ミレイアは一度自分の胸へ意識を向けた。
「少しだけ」
「普段の生活ができないほどですか?」
「そこまでは」
エリスは記録する。
それから一度、記録板を下ろした。
「今の怖さを数字で言うなら」
ミレイアはすぐ答えられなかった。
昨日は七だった。
今は。
「……八、近いです」
口にすると、自分でも少し驚いた。
八。
数字だけ見ればかなり高い。
それでも、エリスは顔色を変えない。
「分かりました」
「やめた方がいいですか?」
ミレイアが先に聞いた。
「私から、それだけを理由に決めません」
「でも八です」
「数字は参考にします。ただ、今どうしたいかも確認します」
少し間を置いて、エリスが尋ねる。
「今、この時点で一言接続の予定を中止したいですか?」
ミレイアは膝の上で右手を握った。
まだ停止用具は持っていない。
それでも、何度も覚えた動作をする。
怖い。
かなり。
でも。
「……今は、やめたくないです」
声は少し小さくなった。
「分かりました」
エリスはそれ以上押さない。
「では、次の確認はすぐではなく、開始予定時刻より少し前に行います」
「まだ時間あるんですか」
「はい」
「今からずっと部屋で待つとかじゃない?」
「ありません」
それを聞いて、ミレイアの肩が少し下がった。
「普通にしてていい?」
「はい」
「普通にできるかは分からないですけど」
「できなくても構いません」
「……そうでした」
ミレイアは少し笑った。
◇◇◇
ルーク側の朝確認は、ミレイアより少し遅く行った。
「ルーク」
淡い光が現れる。
『いる』
『今日』
「はい」
『今日だね』
「そうです」
文字の揺れがいつもより少し速い。
「今の怖さは?」
『六』
「朝から?」
『五と六』
「今は六ですね」
『うん』
「苦しさは?」
『ない』
「世界側への近い感覚は?」
『まだない』
接続前だから当然ではあるが、本人の感覚として確認する。
「今日、一言接続を中止したいですか?」
淡い光が止まった。
『……』
ノルンは待つ。
『今はしない』
「中止しない、という意味ですか?」
『うん』
『やりたい』
「分かりました」
『一言』
「はい」
『こんにちは』
ノルンの指が止まる。
「第一候補ですね」
『うん』
『今は』
「『ごめん』は?」
『言いたい』
「はい」
『でも今日はこんにちはの方が言える』
「分かりました」
『決める?』
ノルンは少し考えた。
「今の時点では、第一候補としてそのまま置きます」
『決定じゃない』
「はい」
『直前まで』
「はい」
『分かった』
ルークの光が少し静かになる。
『ノルン』
「はい」
『今日ごめん言えなかったら』
「はい」
『もう言えないかも』
ノルンは返事を急がなかった。
「そうなる可能性はあります」
『嫌』
「はい」
『でもこんにちはなら言える』
「はい」
『だから』
少し間がある。
『今日はこんにちはがいい気がする』
それは昨日より少しだけ強い表現だった。
ノルンは記録する。
「今の怖さは変わりましたか?」
『六』
「分かりました」
今日はそれ以上、一言について掘らない。
「開始前に、もう一度確認します」
『うん』
『今日の僕は今やりたい』
「記録しました」
◇◇◇
午前中の残り時間を、ノルンはできるだけ通常業務に使った。
しかし昨日までより、予定時刻を意識する回数は多かった。
あと二刻。
あと一刻半。
そんなふうに考えてしまう。
そのたび、主様が何も言わず別の記録を差し出してくる。
「これ」
「何ですか?」
「第三管理区の観察報告」
「今ですか?」
「通常業務するって言ってた」
「……はい」
ノルンは受け取った。
内容は、転生者が現地の料理へ自分の故郷の調味方法を少し混ぜ始めたという、かなり平和な記録だった。
「問題ありませんね」
「うん」
「でもこの香辛料配合、少し気になります」
「食べたい?」
「別に」
「顔が食べたい」
「観察です!」
そんな会話をしている間だけ、予定時刻への意識が少し離れた。
それでよかった。
◇◇◇
開始予定時刻の少し前。
ミレイアはエリスと一緒に観察区画へ向かった。
廊下を歩く足音が、いつもより大きく聞こえる。
実際には二人分だけ。
人通りの少ない時間帯を選んでいるため、周囲に誰かがいるわけではない。
窓から入る午後の光は柔らかく、床へ長い四角を作っていた。
「まだ戻れます」
エリスが前を向いたまま言う。
「はい」
「部屋へ入らなくても構いません」
「はい」
ミレイアは返事をしながら歩く。
止まろうと思えば止まれる。
でも足は進んでいる。
予定室の前に着く。
扉を見た瞬間、胸が強く鳴った。
ここだ。
「……ちょっと待ってください」
「はい」
エリスは扉へ手を伸ばさない。
ミレイアは廊下で立ったまま、何度か呼吸した。
手のひらが少し湿っている。
右手を握る。
今はまだ何もない。
「怖いです」
「はい」
「かなり」
「はい」
「でも」
そこで言葉が止まる。
聞きたい。
前なら、すぐそう続けていた。
今日は少し違う。
怖さが大きすぎて、「でも」をつけることさえ負担に感じた。
「……聞きたいのも、あります」
エリスは頷く。
「両方ありますね」
「はい」
「今、部屋へ入りますか?」
ミレイアは扉を見る。
数秒。
「入ります」
エリスが扉を開けた。
◇◇◇
部屋の中は、以前停止用具を試した場所より少し広かった。
窓は一つ。
椅子が二脚。
そのうち一つがミレイア用。
少し離れた壁際に、エリスの席。
机の上には何もない。
音声を受け取る中継具は、目立たない位置に置かれていた。
ここへルークの声が届く。
そう思った瞬間、ミレイアの足が少し止まる。
「座りますか?」
「はい」
椅子へ腰を下ろす。
背もたれに寄りかかる気にはなれず、少し前寄りに座った。
エリスが乳白色の停止用具を差し出す。
「こちらです」
ミレイアは両手で受け取った。
柔らかい。
前と同じ。
軽く握るだけでは作動しない。
意識して指を閉じれば止まる。
分かっている。
でも本番の日に持つと、触り慣れた感触が全く別のものに思えた。
「一度、持ち方だけ確認しますか?」
「信号は出さなくていい?」
「はい」
ミレイアは右手の中へ収める。
指を軽く添える。
自然に保持できる。
「大丈夫です」
「分かりました」
エリスはそれ以上触れない。
室内には、しばらく何も起きなかった。
窓の外で風が葉を揺らす音だけが聞こえる。
この待ち時間が長く感じる。
「エリスさん」
「はい」
「今の怖さ」
ミレイアは少し息を吐いた。
「八です」
「分かりました」
「さっきより、はっきり八」
「はい」
「……やめた方がいいですか?」
また聞いた。
エリスは変わらない声で答える。
「私からは決めません」
「でも」
「ミレイアさんは今、始めたいですか?」
その問いに、ミレイアは停止用具を見た。
白い球体。
この手を閉じれば止まる。
「すぐじゃなくて」
「はい」
「少し待ってからなら」
「待ちます」
エリスは何も操作しない。
ミレイアは三度、ゆっくり呼吸した。
その間に怖さが劇的に下がることはなかった。
七にもならない。
八のまま。
でも、呼吸は少し整った。
「始めたいです」
ミレイアが言った。
「分かりました」
「ただ」
「はい」
「途中で無理なら止めます」
「はい」
それは許可を求める言葉ではなく、自分自身への宣言に近かった。
◇◇◇
管理領域では、同じ頃、ノルンが最終経路確認をしていた。
「第一受信点」
「正常」
主様が監視欄を見る。
「世界側転送経路」
「待機」
「名称情報」
「なし」
「人物情報」
「なし」
「世界識別逆流防止」
「有効」
「停止用具信号」
「受信待機」
「管理側安全遮断」
「有効」
ノルンは一つずつ確認した。
今日は試験ではない。
だからこそ、試験以上に余計なことをしない。
必要な項目だけ。
「ルークへ最終確認します」
「うん」
名称接続を開く。
「ルーク」
『いる』
「今の怖さは?」
『七』
ノルンの表情が少し変わる。
「上がりましたね」
『うん』
「苦しさは?」
『ない』
「声は出せそうですか?」
『たぶん』
「今、この一言接続を始めたいですか?」
淡い光が揺れる。
『……』
ノルンは待つ。
主様も何も言わない。
『やりたい』
「分かりました」
「一言は?」
少し間がある。
『こんにちは』
今度は、はっきり出た。
「最終選択として記録してよいですか?」
『うん』
ノルンは記録欄へ入力する。
『最終選択:こんにちは』
その文字が確定表示へ変わる。
『ごめん』
続けて出た。
ノルンは目を止める。
「言いたい気持ちは残っていますね」
『うん』
『でも今日はこんにちは』
「分かりました」
「世界側へ声が届くと、『近い』感覚が強くなる可能性があります」
『うん』
「怖さ六以上の申告は今できています」
『七』
「はい」
「八になったら」
『止まる』
「途中で嫌になったら?」
『止』
「それより前に声が出なくなったら?」
『やめる』
「分かりました」
ノルンは深く息を吸った。
自分まで緊張している。
主様が横から小さく言う。
「ノルン」
「はい」
「ゆっくり」
「分かっております」
そう答えた声が、少しだけ硬かった。
◇◇◇
エリス側から、開始希望確認の信号が届く。
『ミレイア本人、開始希望』
ノルンはその一文を見つめる。
ルークも開始希望。
双方。
ここまで来た。
「開始します」
でも、まだ始まっていない。
ノルンは最後の操作前にもう一度ルークへ言う。
「今から音声経路を開きます」
『うん』
「声を出す前でも止められます」
『うん』
「一言だけです」
『うん』
「終われば自動で切ります」
『分かった』
ノルンは操作する。
第一受信点が開く。
淡い監視表示が変化する。
ルーク側音声経路、接続。
文字接続、維持。
世界側転送、まだ閉鎖。
「怖さは?」
『七』
「位置感覚は?」
『ノルンの向こう』
「分かりました」
世界側転送を開く。
監視欄が動く。
『世界側中継点位置参照:検出なし』
『名称参照:なし』
『人物参照:なし』
『情報逆流:なし』
『境界反応:軽微上昇/安全範囲』
「ルーク?」
『近い』
「どれくらいですか?」
『前より』
「場所は?」
『分かんない』
「人は?」
『分かんない』
「怖さは?」
少し間がある。
『七』
上がっていない。
「続けますか?」
『うん』
◇◇◇
ミレイアの部屋では、中継具がまだ何も発していなかった。
それでも、開始信号が入ったことをエリスは確認している。
「接続が始まりました」
その一言に、ミレイアの指が少し強く停止用具へ触れた。
まだ信号は出ていない。
胸が速い。
耳が自分の鼓動を拾っている気がする。
何も聞こえない。
その数秒が、異様に長かった。
「……まだ?」
ミレイアが小さく言う。
「まだです」
エリスの声は落ち着いている。
ミレイアは停止用具を見た。
今止めれば。
まだ声を聞かずに終われる。
その道もある。
右手の指に少し力が入る。
信号が出るほどではない。
もう少し握れば止まる。
怖い。
やめたい気持ちが、一瞬だけ確かに出た。
その時。
中継具から、ほんのわずかな息のような音が聞こえた。
ミレイアの肩が跳ねる。
人の声が出る前の、空気を含む音。
それだけで、身体が固まった。
止める。
そう思った。
指が閉じかける。
でも、まだ完全には閉じない。
自分の中のもう一つの気持ちが残っていた。
聞きたい。
ほんの一言だけ。
ミレイアは息を止めた。
◇◇◇
管理側で、ルークの発話前反応がわずかに増える。
「怖さは?」
ノルンが尋ねる。
『七』
返事は文字。
「声を出せますか?」
数秒。
『うん』
そして。
ルークが息を吸った。
試験の時と同じ声。
静かで、若く聞こえる。
人間の声に近い。
でもどこか、長く誰かを真似して覚えたような不思議な響きがある。
ノルンは何度か聞いた声。
それが今日初めて、ミレイアへ届く。
「……こんにちは」
◇◇◇
声は、短かった。
本当に一言だけ。
ミレイアは最初、その意味を理解できなかった。
耳に音が届く。
知らない声。
思っていたより静か。
想像より高くも低くもない。
どこか幼いのに、幼い人間そのものとも違う。
そして言葉。
こんにちは。
その意味が頭へ届くまで、わずかな時間がかかった。
その瞬間。
胸の奥に溜まっていた何かが一気に動いた。
怒りなのか。
悲しみなのか。
安心なのか。
分からない。
目の奥が急に熱くなる。
息が詰まった。
でも、声はもう続かない。
次の言葉はない。
一言だけ。
約束どおり。
ミレイアは停止用具を握ったまま、動けなかった。
涙が一滴、頬を伝った。
自分でも気づくのが遅れた。
「……」
何か言いたい。
でも音声は向こうへ届かない。
分かっている。
返事をしなくていい。
なのに、喉の奥に言葉が上がってくる。
何。
どうして。
遅い。
ずっと待ってた。
知らない。
許してない。
こんにちは。
いろんなものが混ざって、どれも声にならない。
エリスは動かなかった。
泣いたからといって、何か意味づけしない。
何も尋ねない。
ただ、少し離れた場所にいる。
それだけだった。
◇◇◇
管理領域では、一言が最後まで出た瞬間に自動遮断が入った。
まず世界側転送。
次に第一受信点音声。
文字接続だけを短時間維持。
『世界側中継点位置参照:なし』
『名称参照:なし』
『人物参照:なし』
『情報逆流:なし』
『残留音声:なし』
『境界反応:低下開始』
「ルーク」
『いる』
「一言は終了しました」
『届いた?』
「はい」
ノルンは必要な事実だけ答える。
「安全に世界側へ届き、接続も終了しました」
『ミレイア聞いた?』
ノルンは少し間を置く。
「予定された聴取点へ届きました」
『聞いた?』
「本人の反応は、こちらから共有しません」
淡い光が止まる。
『うん』
少し間がある。
『怖さ』
「今いくつですか?」
『八』
ノルンの表情が変わる。
「止めます」
『もう終わった』
「文字接続も閉じます」
『待って』
「何ですか?」
『僕言えた』
ノルンは静かに答える。
「はい」
『こんにちは』
「はい」
『言えた』
「はい」
『ごめん言ってない』
「はい」
『嫌』
「はい」
『でも』
文字が少し遅れる。
『届いた』
「はい」
ルークの光が揺れる。
『怖い』
「はい」
『嬉しい』
「はい」
『ごめん言いたい』
「はい」
『全部』
ノルンは少しだけ微笑んだ。
「全部ありますね」
『うん』
「今日はもう続けません」
『うん』
「次を決めません」
『分かった』
「一言接続は安全に終了しました」
『うん』
「今は休んでください」
『ノルン』
「はい」
『褒める?』
こんな時でも出る言葉に、ノルンは思わず少し笑った。
「今日は」
声を柔らかくする。
「怖さが七まで上がっても、自分で開始を選べたこと」
『うん』
「最初の一言を自分で『こんにちは』に決められたこと」
『うん』
「そして、言い終えたあとに怖さ八まで上がったことをきちんと伝えられたこと」
『もっと』
「三つで十分です!」
淡い光が少し揺れる。
いつものような大きな楽しそうな揺れではない。
それでも、少しだけ緩んだように見えた。
「文字接続を閉じます」
『うん』
最後に一つだけ文字が出る。
『こんにちは届いた』
「はい」
そこでノルンは接続を閉じた。
◇◇◇
ミレイア側では、音声が終わってからもしばらく誰も話さなかった。
停止用具はまだ右手の中にある。
結局、押さなかった。
だから成功。
そんなふうには思わなかった。
押さなかっただけ。
聞いた。
聞けた。
それだけだ。
頬に涙がもう一筋流れる。
ミレイアは手の甲で拭おうとして、停止用具を持っていることに気づき、左手で拭った。
「……終わった?」
ようやく声が出た。
「はい」
エリスが答える。
「接続は終了しています」
「もう、来ない?」
「今日は来ません」
ミレイアはゆっくり息を吐いた。
「そっか」
それだけ。
また沈黙。
エリスは「どうでしたか」と聞かない。
そのことが今はありがたい。
ミレイアはしばらく停止用具を握ったまま、窓を見ていた。
外では風が木の葉を揺らしている。
さっきまでと同じ景色。
でも、自分の中は同じではない。
声を知ってしまった。
もう想像の声ではない。
実際に聞いた。
「こんにちは」
ミレイアの唇から、小さく同じ言葉が漏れた。
返事ではない。
もう向こうには届かない。
ただ、自分の中で音を確かめるように。
言った瞬間、また涙が出た。
「……ずるい」
エリスは何も言わない。
「ごめんじゃなかった」
その言葉にも、エリスは反応を急がない。
ミレイア自身も、自分がそれをどう感じているのか分からなかった。
安心したのか。
拍子抜けしたのか。
腹が立ったのか。
全部少しずつあるのかもしれない。
「こんにちはって」
ミレイアは少し笑いそうになり、でも涙は止まらない。
「普通すぎる」
その普通さが、かえって胸に刺さる。
二十五年。
誤転生。
ずっと外側にいた存在。
初めて届いた言葉が、こんにちは。
もっと重い言葉を想像していた。
だからこそ、短い挨拶だけが残る。
「私」
声が震える。
「何か言いたかったです」
エリスが初めて少しだけ身体を向ける。
「はい」
「でも言えなかった」
「はい」
「届かないって分かってたけど」
「はい」
「それでも」
ミレイアは言葉を探した。
「返事したかったのかもしれないです」
そこまで言って、自分で驚いた。
返事をしたかった。
その気持ちがあった。
でも、それが「また会いたい」という意味かは分からない。
「今、次の接続について決める必要はありません」
エリスが静かに言った。
ミレイアはすぐ頷いた。
「はい」
「今の言葉も、そのままで大丈夫です」
「……はい」
「身体の状態だけ確認します」
「お願いします」
それなら答えられる。
息苦しさ。
めまい。
手の震え。
接続残留感。
頭痛。
そうした身体と安全の確認だけ。
ミレイアの手は少し震えていた。
呼吸もまだ速い。
でも、接続異常はない。
停止用具を手放しても問題ないと確認されたあと、エリスが受け取る。
手の中が急に空になる。
そのことに少しだけ寂しさを感じた自分に、ミレイアはまた驚いた。
◇◇◇
管理領域へエリスから届いた最初の報告は、短かった。
『一言接続、終了』
『本人側接続異常なし』
『身体反応:涙、軽度手指振戦、呼吸増加』
『残留接続反応なし』
『現在、観察区画内で休息』
『感情確認・次回意思確認は未実施』
ノルンは最後の一行を見て、静かに息を吐いた。
「終わったね」
主様が言う。
「はい」
「安全に」
「はい」
その言葉は正しい。
でも、ノルンはそこで喜びきれなかった。
ルークの怖さは終了直後八まで上がった。
ミレイアは泣いた。
感情は大きく動いている。
安全に終わった。
それだけ。
「成功?」
主様が尋ねる。
ノルンは少し考えた。
「安全設計としては、予定していたところまで実施できました」
「うん」
「でも、この接続が本人達にとって何だったかは、まだ決めません」
「うん」
「本人達が決めることです」
主様が少し笑った。
「そうだね」
◇◇◇
ミレイアは、その後もしばらく観察区画にいた。
エリスは予定どおり、少し離れた場所に残っている。
近すぎず。
遠すぎず。
話したければ声をかけられる距離。
何も言わなくてもいい距離。
ミレイアは椅子に座り、両手を膝の上に置いた。
右手にはもう停止用具がない。
それでも、何度か無意識に指を閉じていた。
自分で気づき、少しだけ笑う。
「もう止めなくていいのに」
エリスは聞こえていても反応しなかった。
ミレイアは窓へ視線を戻す。
「こんにちは」
また思い出す。
声まで一緒に。
今まで想像していた声ではない。
本物の声。
それが頭の中で繰り返される。
「……怒ってないわけじゃない」
誰に言うでもなく、ミレイアは呟く。
「許したわけでもない」
少し間を置く。
「でも」
言葉が続かない。
今日は、それでいい。
エリスも待つ。
少しすると、ミレイアがまた口を開いた。
「エリスさん」
「はい」
「今日」
何を聞くか迷うように視線が揺れる。
「もう、何も決めなくていいんですよね」
「はい」
「次も」
「はい」
「何日後とかも」
「決めません」
「ルークがどうだったかも」
「本人の感情は、許可なくお伝えしません」
「……そっか」
少しだけ残念そうな声。
その反応に、自分で気づいたのか、ミレイアは眉を寄せた。
「私、知りたいのかな」
エリスは答えない。
代わりに、
「今日、決める必要はありません」
とだけ返した。
ミレイアはゆっくり頷いた。
◇◇◇
ルーク側には、その日はもうノルンから接続しなかった。
怖さ八。
接続直後。
それだけで、今日は十分だった。
次回予定。
ミレイアの反応。
謝罪の話。
何も聞かない。
ルーク自身から緊急接続がない限り、休ませる。
その方針を決め、ノルンは通常管理へ戻った。
けれど午後の半ば、短い名称接続要求が届いた。
『ノルン』
ノルンは少しだけ迷い、開く。
「今、少しなら大丈夫です」
淡い光が現れる。
『怖さ六』
最初に出た。
「下がりましたね」
『うん』
「苦しさは?」
『ない』
「近い感覚は?」
『ない』
「分かりました」
ノルンは記録する。
『こんにちは』
「はい」
『言った』
「はい」
『ごめん言ってない』
「はい」
その言葉がまた出る。
『後悔?』
ノルンは少し考えた。
「私が決めることではありません」
『僕』
「ルーク自身はどう感じますか?」
淡い光がゆっくり揺れる。
『分かんない』
『こんにちはでよかった気もする』
『ごめん言いたかったもある』
「はい」
『両方』
「はい」
『次』
ノルンの指が止まる。
『ある?』
「今日は決めません」
『嫌』
「はい」
『でも分かった』
少し間がある。
『ミレイア聞いた?』
また尋ねる。
「声は予定された聴取点へ届きました」
『反応』
「共有しません」
『うん』
ルークの光が少し弱まる。
『怖い』
「はい」
『知りたい』
「はい」
『でも勝手に知らない』
ノルンは静かに頷いた。
「その通りです」
『約束』
「はい」
ルーク自身が、そこを守ろうとしている。
「今日はここまでにしましょう」
『褒める?』
ノルンは少し笑う。
「今日は、自分から状態を伝えに来られたこと」
『うん』
「ミレイア様の反応を知りたい気持ちがあっても、勝手に知ろうとしないと選べたこと」
『うん』
「『こんにちはでよかった気もする』『ごめんを言いたかった気持ちもある』と両方残せたこと」
『もっと』
「今日は三つです!」
『やっぱり三つ』
「偶然です!」
◇◇◇
夕方。
ミレイアはようやく観察区画を出た。
エリスは一緒に歩くが、少し横ではなく半歩後ろを歩いている。
廊下へ出ると、外の光が朝より少し傾いていた。
時間が過ぎた。
たった一言を聞いただけなのに、午前中とは別の日のように感じる。
「戻ったら」
ミレイアが歩きながら言う。
「普通に夕食ですか?」
「はい」
「食べられなかったら?」
「無理に普段どおりの量を食べる必要はありません」
「誰かに今日のこと聞かれない?」
「事情を知らない方からは、通常どおり接されます」
ミレイアは少し息を吐いた。
「それ、助かります」
今は「どうだった?」と聞かれたくない。
誰にも。
でも一人きりにもなりたくない気がする。
その矛盾した感じも、今はそのままにしておく。
「エリスさん」
「はい」
「少しだけ」
ミレイアは言いにくそうに視線を落とす。
「夕食までは近くにいてもらっていいですか?」
「はい」
すぐ返ってくる。
ミレイアの肩が少しだけ下がった。
「ありがとうございます」
今日は、それで十分だった。
◇◇◇
夜になり、ノルンは一日の記録をまとめた。
一言接続予定日。
実施。
ミレイア側、開始前怖さ八程度。
本人、開始希望。
停止用具保持。
接続開始後も停止信号なし。
ルーク側、開始前怖さ七。
本人、開始希望。
最終一言は「こんにちは」。
世界側中継開放後、「近い」感覚あり。ただし具体的位置・方向・人物・名称の特定なし。
位置参照、第一受信点のみ微弱。
世界側中継点への位置参照なし。
名称参照なし。
人物参照なし。
情報逆流なし。
境界負荷、安全範囲。
ルーク発話。
「こんにちは」
一言終了後、規定どおり世界側転送・第一受信点音声を自動遮断。
残留なし。
ミレイア側、涙・軽度手指振戦・呼吸増加あり。接続異常なし。
感情・次回意思は確認せず。
ルーク側、終了直後怖さ八。後に六まで低下。
「こんにちはでよかった気もする」「ごめんを言いたかった気持ちもある」。
ミレイアの反応は共有せず。
次回予定、双方とも未設定。
ノルンは最後まで記録し、手を止めた。
長い。
でも、必要な事実だった。
「終わったね」
主様がもう一度言う。
「はい」
「今日でこの編、終わり?」
ノルンは少し考えた。
「いいえ」
「まだ?」
「接続が終わっただけです」
ミレイアは今、声を聞いたあとの時間を過ごしている。
ルークも、自分が言った一言を受け止めている。
その余韻を置かずに次へ進めば、ここまで守ってきたものが崩れる。
「明日は」
主様が尋ねる。
「通常状態の確認です」
「次に会いたいかは?」
「聞きません」
「ミレイアさんが何を感じたか」
「本人が話したければ受け取ります」
「ルークには?」
「安全終了後の状態確認のみです」
「ごめんは?」
「急ぎません」
主様が穏やかに頷いた。
「うん」
ノルンは管理板へ目を向ける。
朝まで表示されていた、
『一言接続予定日:本日』
という文字はもう必要ない。
代わりに、新しい記録が置かれている。
『初回一言接続:終了』
『次回意思:未確認』
『翌日以降、個別状態確認』
ノルンはしばらくその文字を見つめた。
初めての接続は、一言だけで終わった。
謝罪もなかった。
許しもなかった。
説明もなかった。
返事もなかった。
関係が解決したわけでもない。
それでも、二十五年間世界の外側から見ていたルークの声が、初めてミレイアへ届いた。
ミレイアは怖さ八のまま聞くことを選び、途中で止める権利を持ったまま、一言を最後まで受け取った。
ルークは怖さ七のまま、自分で「こんにちは」を選び、声を届けた。
終わったあと、双方の怖さはむしろ強くなった。
それでも接続は安全に終わり、それぞれ自分の場所へ戻った。
成功という言葉だけでは、少し足りない。
失敗ではない。
解決でもない。
始まりとも決めない。
ただ、一度だけ。
二人は同じ一言を挟んで、同じ時間に立った。
それで今日の役割は終わった。
「主様」
「何?」
「少し疲れました」
「うん」
「夕食を食べます」
「えらい」
「そこを褒められる側になるのは納得できません!」
「二十三日睡眠した僕の気持ち分かった?」
「……少しだけ」
主様が笑う。
ノルンも、ようやく少し笑えた。
管理室の照明を落とす。
明日になれば、また新しい記録が来る。
ミレイアが何を思うか。
ルークが何を思うか。
それは今日のノルンが決めることではない。
次の接続があるかどうかも。
謝罪を聞く日が来るかどうかも。
今日、「こんにちは」を聞いたことが、二人にとってどんな意味になるかも。
今はまだ分からない。
だから、分からないまま一日を終える。
ノルンは最後の表示を閉じた。
予定日は終わった。
でも二人の選択は、今日で終わったわけではない。
むしろようやく、初めて一つの声を受け取った後の時間が始まったところだった。




