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『転生者観察官ノルンの苦労は終わらない 〜神様達がまたやらかしたので、今日も異世界を見回ります〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第五十七話 前日になっても一言を決めきれなかったので、迷ったまま本番を迎える方法まで用意することにしました

一言接続の予定日まで、あと一日。


 その数字を見た瞬間、ノルンは昨日までとは違う種類の緊張を感じた。


 四日後。


 三日後。


 二日後。


 そこまでは、まだ準備の余地が残っている数字だった。


 けれど「一日後」は違う。


 次に朝を迎えれば、その日になる。


 それだけで、予定欄に書かれた文字が急に重みを増したように見えた。


 管理領域の朝はいつもと変わらない。


 淡い白色の照明。


 壁沿いを静かに流れる各世界の観察記録。


 緊急警告は出ておらず、中央管理卓には夜間のまとめが整然と並んでいる。


 変わったのは、ノルンの意識だけだった。


「おはようございます、主様」


「おはよう、ノルン」


 主様はすでに朝の飲み物を用意し、いつもの席に座っていた。


 ノルンが健康確認を口にするより早く、主様が先に言う。


「七時間四十六分。朝食済み。体調問題なし」


「二十二日連続ですね」


「もう数えなくてもよくない?」


「ここまで来ると、逆に途切れる瞬間を見届けたくなります」


「やめて」


「冗談です」


「今の顔、本気だった」


 ノルンは少しだけ笑い、自分の記録も確認した。


「私は七時間三十七分、途中覚醒なし、朝食済み、体調良好です」


「うん。今日は二人とも安定」


「はい」


 朝の通常確認へ移る。


 九人の誤転生者に大きな異常はない。


 ミレイアは昨夜も睡眠確保。


 ルーク側にも名称接続の異常使用や、境界領域の急変はない。


 旧管理領域最古層から追加記録も届いていない。


 一通り見終えたところで、ノルンは最後の予定欄へ戻った。


『一言接続予定日:明日』


 その下には、


『最初の一言:未決定』


 と残っている。


 主様も同じ場所を見た。


「今日どうする?」


「一言内容をもう一度相談します」


「決める?」


「できれば決めたいです」


「できれば、ね」


「はい」


 ノルンは意識して「決めます」と言わなかった。


 昨日の時点で、ルークは「こんにちは」が今言えそうだと感じていた。


 けれど「ごめん」を言いたい気持ちは消えていない。


 一晩置いたことで変わるかもしれない。


 むしろ前日になったことで、どちらも言えないと思うかもしれない。


「もし今日も決まらなかったら?」


 主様に聞かれ、ノルンは少し考えた。


「当日に持ち越します」


「大丈夫?」


「安全条件そのものは、一言内容が未決定でも維持できます」


「名前とか位置に関わる言葉じゃなければ?」


「はい。短い一言の範囲なら」


 それでも、ノルンは少し落ち着かない。


「でも、本番直前まで迷わせるのは負担ではないでしょうか」


「決めさせる方が負担かもしれない」


 主様の言葉に、ノルンは黙った。


「ノルン」


「はい」


「空欄があるのが怖い?」


「少し」


「本人の空欄なのに?」


 また図星だった。


「……はい」


「じゃあ今日は、埋めるためじゃなくて、空欄のままでも本番を迎えられるかまで考えたら?」


 ノルンは顔を上げた。


「迷ったまま?」


「うん」


「本番直前に選ぶ?」


「それも一つ」


「その時に、どちらも無理なら?」


「やめる」


 単純な答えだった。


 けれど、ノルンはしばらく考え込んだ。


 日付も。


 一言も。


 今の気持ちを未来へ固定しない。


 ここまでずっと、その原則を積み重ねてきた。


 なら、「一言を前日までに必ず確定する」という規則だけを新しく作る必要はない。


「分かりました」


 ノルンは予定欄へ一行加えた。


『前日相談。未決定でも可。当日直前選択可』


 書いてから、自分でも少し肩の力が抜けた。


          ◇◇◇


 ミレイアは朝、目を覚ました瞬間に「明日」と思った。


 昨日の「二日後」よりもずっと近い。


 胸の奥が一気にざわつき、まだ寝台の上なのに右手を握っていた。


 停止用具はここにはない。


 それでも、あの柔らかな感触を思い出す。


「明日……」


 声にすると、さらに現実味が増した。


 今日は前日。


 明日のこの時間、自分はどうしているのだろう。


 普通に朝食を食べられるだろうか。


 エリスと話せるだろうか。


 接続する部屋へ入れるだろうか。


 それとも、朝の時点で「今日は無理」と言うのだろうか。


 ミレイアは布団の上で何度か深く息を吐いた。


 怖い。


 昨日より強い。


 でも今すぐ取り消したいわけではない。


 そこが自分でも不思議だった。


 起き上がり、窓を開ける。


 朝の空気は少し湿っていた。


 雲が多く、陽射しも弱い。


 庭では使用人が濡れた石畳を箒で掃いている。


 夜の間に少し雨が降ったらしい。


 地面の匂いが風に乗って部屋まで届く。


 その匂いを吸い込むと、少しだけ今いる場所へ戻れた。


          ◇◇◇


 朝食後、エリスが通常確認に来た。


 ミレイアは昨日より少し早く質問されるのを待っていた。


「昨夜は眠れましたか?」


「はい」


「途中覚醒は?」


「一回あった気がします。でも、すぐ眠れました」


「食欲は?」


「あります」


「今、強い動悸や息苦しさは?」


 ミレイアは少し考える。


「少し胸が速い感じはします」


「生活に支障が出るほどですか?」


「そこまでは」


 エリスは記録する。


 そこで通常確認は一度終わった。


 でも今日は、エリスが記録板を閉じない。


 ミレイアもそれに気づいた。


「今日は」


「はい」


「前日ですので、明日の一言接続について必要な確認を一つずつ行います」


 胸がまた強く鳴る。


 ミレイアは膝の上で指を組んだ。


「一つずつ、ですか」


「はい」


「全部まとめて聞かない?」


「はい」


 それだけで少し安心した。


「まず」


 エリスは静かに尋ねる。


「現在、明日の予定を取り消したいですか?」


 ミレイアはすぐには答えなかった。


 怖さはある。


 かなり。


 でも。


「今は、取り消したくないです」


「分かりました」


 エリスはそれ以上、「本当に?」とは聞かない。


 次へ進む。


「明日、朝の状態によっては中止できます」


「はい」


「部屋まで来てからでも」


「はい」


「停止用具を持ったあとでも」


「はい」


「接続開始後も、一言の途中で停止できます」


「はい」


 何度も聞いている内容。


 でも前日に聞くと、意味が違う。


 ミレイアは一つずつ頷いた。


「今の怖さを数字で表すなら?」


「……七くらいです」


 自分で口にして、少し驚いた。


 昨日より高い。


 エリスの表情は変わらない。


「かなり高いですね」


「はい」


「この数字を理由に、自動的に予定を取り消す必要はありません。ただ、今日は負担を増やさない方針にします」


「はい」


 ミレイアは少しだけ息を吐いた。


「明日、もっと上がるかもしれません」


「はい」


「八とか」


「その可能性もあります」


「八なら?」


「明日の状態を見て判断します。ミレイアさんが『無理』と言えば、その時点で中止です」


 ルーク側の数字とは運用が同じではない。


 ミレイアはその点も理解していた。


「私、怖さが高いだけでやめなきゃいけないわけじゃないですよね」


「はい」


「でも、怖いまま我慢し続けなきゃいけないわけでもない」


「はい」


 ミレイアは小さく頷いた。


 その二つが同時にある。


「それから」


 エリスが続ける。


「昨日、ルークの声質を事前に知るかどうか、今日は決めないとされました」


「はい」


「今はどうですか?」


 ミレイアは少し眉を寄せた。


 一晩考えた。


 何度か知りたいと思った。


 でも、想像を増やしたくない気持ちも残っている。


「……まだ聞かないでいいです」


「分かりました」


「明日、直前に聞きたくなったら?」


「その時に希望してください」


「じゃあ、それも明日まで保留で」


「はい」


 ミレイアは少し笑った。


「保留ばっかりですね」


「保留も回答です」


 エリスの返事に、ミレイアの口元が少し緩んだ。


「そうでした」


          ◇◇◇


 ノルンがルークへ接続したのは、午前の通常業務を終えてからだった。


 今日は昨日よりも接続前に少し長く記録を見直した。


 怖さ。


 一言候補。


 停止方法。


 世界側中継時の近接感覚。


 どれも新しく確認し直すためではない。


 今日の相談で余計なものまで持ち込まないために、自分が整理している。


「ルーク」


 淡い光が現れる。


『いる』


『明日』


 最初からだった。


「はい。明日です」


『怖い』


「今いくつですか?」


『五』


「朝から?」


『四と五』


「行き来していますか?」


『うん』


「分かりました」


 ノルンは記録する。


「今日は、一言についてもう一度相談したいです」


『うん』


『こんにちは』


『ごめん』


 昨日と同じ二つ。


「一晩考えて、変わりましたか?」


 光が少し揺れる。


『こんにちは言えそう』


「はい」


『ごめん言いたい』


「はい」


『変わらない』


「分かりました」


 ノルンはあえて決定を迫らない。


「今日、決めたいですか?」


 少し間がある。


『分かんない』


「では、決めなくてもいい方法を先に説明します」


 光が止まる。


『ある?』


「あります」


『何』


「明日、接続直前まで二つを残します」


『両方?』


「はい」


『直前に決める』


「それでも構いません」


『怖い』


「どの部分が?」


『直前決められない』


「その場合は?」


 ルークは少し考える。


『ノルン決める?』


「決めません」


『じゃあ』


「どちらも言えないなら、その日は接続しないこともできます」


 光が一瞬大きく揺れた。


『嫌』


「はい」


『明日なのに』


「はい」


『ミレイア待つ』


「ミレイア様にも中止権があります」


『僕が言えなくて中止』


「可能性はあります」


『失敗』


「いいえ」


 ノルンははっきり答えた。


「その日のルークが一言を言える状態ではなかった、というだけです」


『でも日付決めた』


「日付は実施義務ではありません」


『僕も?』


「もちろんです」


 ルークの光が少し静かになる。


『今決めたら安心?』


「するかもしれません」


『でも明日変わる?』


「可能性はあります」


『じゃあ決めても同じ』


「そうですね」


 ノルンは少し笑った。


「決めることが無意味という意味ではありません。今の気持ちを確認する意味はあります」


『今はこんにちは』


「言えそうなのは?」


『うん』


『ごめん言いたい』


「その二つは変わらない」


『うん』


「では、今日の時点では『こんにちはを第一候補』『ごめんを第二候補』として置く方法はどうでしょう」


 ルークの光が揺れた。


『順番?』


「はい。ただし、本番直前に入れ替えても構いません」


『こんにちは決定じゃない』


「はい」


『ごめん消さない』


「はい」


『それいい』


 ノルンは少し肩の力を抜いた。


「では、そうしましょうか?」


『うん』


 記録へ書き込む。


『第一候補:こんにちは』

『第二候補:ごめん』

『本番直前まで変更可』

『両方困難なら中止可』


 ルークが文字を追うように光を揺らしている。


『ノルン』


「はい」


『第三ある?』


「今はありません」


『何か出たら?』


「安全条件に合う短い一言なら、相談できます」


『今日出ても?』


「はい」


『明日出ても?』


「はい」


『直前?』


「はい」


『変』


「自由度が高いのです」


『ノルン前なら嫌だった?』


 ノルンは一瞬黙った。


 主様が少し離れたところでこちらを見る。


「……かなり嫌だったと思います」


『全部決める』


「はい」


『前日まで』


「はい」


『今違う』


「少しは」


『褒める?』


「私をですか!?」


『うん』


「結構です!」


『主様褒める?』


「なぜ主様へ行くのですか!」


 淡い光が楽しそうに揺れた。


          ◇◇◇


 軽いやり取りが落ち着いたあと、ノルンは本番前日の確認へ戻る。


「ルーク」


『いる』


「明日の接続について、今の時点で中止したい気持ちはありますか?」


『ない』


「怖いけれど?」


『うん』


『やりたい』


「分かりました」


「世界側へ声が届く時、『向こうが少し近い』感覚が出る可能性があります」


『覚えてる』


「前回は怖さが六まで上がりました」


『うん』


「明日、開始前から怖さが高い可能性もあります」


『うん』


「その時は、数値だけで進行しません」


『どうする?』


「ルークが声を出せるか、止めたいか、続けたいかを確認します」


『六なら?』


「申告してください」


『八なら止まる』


「はい。基本ルールはそのままです」


『七は?』


「状態を見ます」


『僕がやるって言ったら?』


「他の安全条件に問題がなければ、その意思も判断材料にします」


『ノルンが危ないって思ったら?』


「止めます」


『嫌』


「はい」


『でも分かった』


 ここまでのやり取りで、ルークは何度も同じ仕組みを学んできた。


 本人の意思だけで全部決まるわけではない。


 管理側の安全責任だけでも全部決まらない。


 両方がある。


「明日、接続直前にもう一度確認します」


『会いたい?』


「その聞き方はしません」


『何聞く?』


「『今、この一言接続を始めたいですか』です」


『違う?』


「少し違います」


『今の僕』


「はい」


『明日の僕』


「はい」


『今日やりたいでも明日やりたくないある』


「あります」


『明日やりたいなら』


「始めます」


『怖くても』


「安全条件内で、本人が希望するなら」


『分かった』


 ルークは少し黙った。


『明日の僕に任せる』


 ノルンの手が止まった。


「はい」


『今日の僕はやりたい』


「記録します」


『明日は明日』


「それでよいです」


 その言葉が、ノルンには少し嬉しかった。


 未来の自分を固定しない。


 昨日までは管理側が何度も説明していたことを、ルーク自身が言葉にした。


          ◇◇◇


 昼前、エリスからミレイア側の報告が届いた。


『本人、明日の予定撤回希望なし』


『本人自己申告怖さ7程度』


『通常生活は継続可能。食欲・睡眠大きな問題なし』


『声質の事前説明は本日も希望せず。当日希望時は説明可』


『明日も中止可能であることを再確認』


 ノルンは内容を読み、少し眉を寄せた。


「七」


 主様が言う。


「はい」


「高い」


「高いです」


「自動中止にする?」


「しません」


 ノルンは即答した。


「ミレイア様側には、ルークと同じ固定数値ルールは設定していません」


「うん」


「通常生活は継続できていて、本人も撤回を希望していない」


「でも明日もっと上がったら?」


「明日の状態で判断します」


 決めつけない。


 今日の七が、明日の七と同じ意味とは限らない。


 怖さが高くても進みたい場合もある。


 逆に数字が低くても「今日は無理」と言うこともある。


「ノルン」


「はい」


「ミレイアさんにも、一言内容を事前に知らせるか聞く?」


 ノルンは少し考えた。


 まだルークの一言は第一候補と第二候補があるだけだ。


 固定されていない。


「今日は聞きません」


「どうして?」


「本人から、一言内容を事前に知りたいという希望はまだ出ていないからです」


「声質は聞いたけど」


「はい。でも内容は別です」


「明日直前に聞いたら?」


「その時に、ルーク側の許可も含めて調整します」


 勝手に共有しない。


 勝手に秘密にも設定しない。


 必要になった時に考える。


 その方針を維持する。


          ◇◇◇


 午後、ミレイアはいつもの読書室へ行かなかった。


 今日は本を開いても、ほとんど頭に入らない気がしたからだ。


 代わりに、屋根のある渡り廊下をゆっくり歩いていた。


 午前中にまた小雨が降ったらしく、庭の葉には水滴が残っている。


 空は明るくなってきたものの、湿った風はまだ少し冷たい。


 歩く音が廊下へ柔らかく響く。


 明日。


 何度考えても、その言葉が頭へ戻る。


 でも今日は、無理に本を読んで忘れようとは思わなかった。


 考える時間があってもいい。


 考えすぎて苦しくなったら、別のことをすればいい。


 その程度にしておく。


 ミレイアは渡り廊下の端で立ち止まり、庭を見た。


 もし明日、部屋へ入った瞬間に無理だと思ったら。


 やめる。


 もし停止用具を持っただけで手が震えて、声を聞きたくないと思ったら。


 やめる。


 もし接続が始まり、最初の音が聞こえた瞬間に怖くなったら。


 止める。


 考えれば考えるほど、やめる道ばかり浮かぶ。


 以前なら、それを「逃げる準備」と感じたかもしれない。


 でも今は少し違う。


 やめられるからこそ、明日を迎えられる。


「……聞けたら、聞きたい」


 小さく呟く。


 絶対に聞く、ではない。


 聞けたら。


 その言い方が、今の自分にはちょうどよかった。


 少し遠くで使用人が二人、洗濯物を運びながら話している。


 笑い声が一度だけ響き、すぐ日常の音へ戻る。


 誰も自分の明日のことを知らない。


 その普通さがありがたい。


          ◇◇◇


 夕方前、エリスがもう一度ミレイアのところへ来た。


 通常確認ではない。


 明日の場所と時間について、必要な実務説明だけだった。


「明日は朝の通常状態確認後、実施可否を一度確認します」


「はい」


「実施を希望された場合、開始予定時刻の少し前に観察区画へ移動します」


「本番の部屋」


「はい」


 ミレイアの喉が少し乾く。


「停止用具は部屋に入ってから?」


「はい。実物をお渡しします」


「今日持って帰るとかじゃないんですね」


「ありません」


 少し安心した。


 今夜ずっと握っていたら、たぶん考え続けてしまう。


「エリスさんは?」


「室内にはいます。ただし、正面ではなく少し離れた位置にいます」


「ノルンさんは?」


「管理領域側です」


「ルークも?」


「管理側の第一受信点へ接続します」


 知っている内容でも、前日に聞くと現実味が増す。


 ミレイアは一度呼吸を整えた。


「声が聞こえたら」


「はい」


「一言だけで終わるんですよね」


「はい」


「私が何か言っても、向こうには届かない」


「はい」


「……もし、言いたくなっても」


 エリスは少しだけ間を置く。


「今回は届きません」


「分かりました」


 胸が少し痛む。


 でも、その形を選んだのは自分だ。


 最初から会話にしない。


 聞くだけ。


 それでいいと決めた。


「終わったあと、すぐ聞かないでくださいね」


 ミレイアが自分から言う。


「何をでしょう」


「どうでしたか、とか」


「聞きません」


「また会いたいですか、とか」


「聞きません」


「怒ってますか、とか」


「聞きません」


 エリスの返事は変わらない。


 ミレイアは少しだけ笑った。


「覚えてますね」


「重要ですから」


 それで十分だった。


          ◇◇◇


 夕方、ルークから名称接続要求が届いた。


 ノルンは少し迷った。


 午前に前日確認は終えている。


 今日さらに大きな判断は増やさないつもりだった。


 ただ、ルーク側からの自発接続である。


 短時間なら受ける。


「ルーク」


『いる』


「どうしました?」


『一言』


 ノルンの表情が少し変わる。


「何か変わりましたか?」


『こんにちは』


「はい」


『第一』


「はい」


『そのまま』


「今のところ?」


『うん』


 淡い光が揺れる。


『ごめん第二』


「はい」


『でも』


 少し間がある。


『明日、こんにちは言ったあと』


 文字が止まる。


「はい」


『終わる』


「そうです」


『ごめん言えない』


「今回は」


『嫌』


「はい」


 やはり、そこは消えない。


『でも』


 続く。


『こんにちはの方が言える』


「はい」


『だから第一そのまま』


「分かりました」


 ルークは自分で確認しに来た。


 決めきるためではなく、今の順番が変わっていないことを伝えに。


「今の怖さは?」


『六』


 ノルンの指が止まる。


「上がっていますね」


『明日思った』


「苦しさは?」


『ない』


「接続をやめたいですか?」


『ない』


「今日はこれ以上考えますか?」


『嫌』


「分かりました」


『六言った』


「はい。きちんと申告できました」


『褒める?』


「もちろんです」


『もっと』


「まだ一つです!」


 少し笑いが戻る。


「怖さ六まで上がった状態で、無理に一言を確定し直そうとせず、『今日はこれ以上考えたくない』と言えたのも大切です」


『もっと』


「第一候補が変わっていないことを、自分から確認しに来られました」


『もっと』


「三つです!」


『昨日も三つ』


「定数ではありません!」


 光が楽しそうに揺れた。


 笑いが落ち着いたあと、ルークが最後に一つだけ文字を出す。


『明日』


「はい」


『僕が決める』


「はい」


『今日の僕じゃなく』


「明日のルークが」


『うん』


 ノルンは静かに頷いた。


「待っています」


          ◇◇◇


 夜。


 ミレイアは寝台へ入る前に、いつもより少し長く窓の外を見ていた。


 雨はもう止んでいる。


 雲の切れ間から月が少しだけ見え、濡れた庭の石が淡く光っていた。


 明日。


 本当に明日になった。


 怖さは、朝の七から大きく下がっていない気がする。


 むしろ夜になると、また少し上がったかもしれない。


 でも、今すぐエリスを呼んで中止を伝えたいとは思わない。


 それが自分の答えだった。


「明日の私に任せる」


 小さく声にする。


 ルークが同じようなことを言っているとは知らない。


 それでも、今夜のミレイアも同じところへ辿り着いていた。


 今日の自分は、聞きたい。


 明日の自分がどう思うかは、明日の自分にしか分からない。


「朝、無理ならやめる」


 言葉にする。


「行けそうなら行く」


 もう一つ。


「部屋で無理なら、やめる」


 さらに。


「聞けそうなら……聞く」


 そこで止めた。


 それ以上は必要なかった。


 何を言われるか。


 どんな声か。


 自分が泣くか。


 怒るか。


 何も感じないか。


 考えても分からない。


 分からないものを、今夜全部予測する必要もない。


 ミレイアは窓を閉め、寝台へ入った。


 右手を一度だけ握る。


 明日は、本物の停止用具がそこにある。


 そのことを思い出しながら目を閉じた。


          ◇◇◇


 ルークもまた、長い時間、自分の中に二つの言葉を置いていた。


『こんにちは』


『ごめん』


 第一。


 第二。


 順番は決めた。


 でも固定ではない。


 明日の自分が入れ替えてもいい。


 どちらも言えなければ、やめてもいい。


 それは嫌だった。


 とても嫌だった。


 けれど、無理に言って壊れるよりはいいのだと、少しずつ分かってきた。


『こんにちは』


 今は言えそう。


『ごめん』


 今も言いたい。


 その二つを並べたまま、ルークは今日は決め直さなかった。


          ◇◇◇


 管理領域では、ノルンが一日の最終記録をまとめていた。


 一言接続予定日まで一日。


 ミレイア。


 予定撤回希望なし。


 前日自己申告怖さ七程度。


 睡眠・食欲・通常生活は維持。


 声質の事前説明は本日も希望せず。当日希望時は対応可能。


 本番後の感想・次回意思を即時に聞かないことを本人から再確認。既定運用どおり。


 ルーク。


 午前怖さ五前後。


 一言候補は「こんにちは」「ごめん」。


 第一候補「こんにちは」。


 第二候補「ごめん」。


 本番直前まで変更可能。


 両方言えない場合は中止可能。


 夕方、本人から候補順継続を自発報告。


 怖さ六まで上昇するが、苦しさなし、接続希望撤回なし。


 「今日はこれ以上考えたくない」と本人申告。


 最終決定は明日本人が行う。


 ノルンは書き終えたあと、最後の一行を見つめた。


『最終決定は明日本人が行う』


「結局、決めなかったね」


 主様が隣で言う。


「第一候補までは決まりました」


「でも最終は明日」


「はい」


「不安?」


 ノルンは少し考える。


「昨日よりは、不安ではありません」


「どうして?」


「決まっていないことが、そのまま安全条件の不足ではないと分かったからです」


 主様が頷く。


「一言が未確定でも、止め方は決まってる」


「はい」


「接続経路も」


「はい」


「戻り方も」


「はい」


「じゃあ、最後の言葉だけ本人に残ってる」


「そうです」


 ノルンは静かに手帳を閉じた。


 明日。


 ついに予定日になる。


 でも、予定日はゴールではない。


 明日の朝、ミレイアはまた選ぶ。


 ルークも選ぶ。


 開始直前にも選ぶ。


 その瞬間に「やめる」と言えば、明日は一言接続の日ではなくなる。


 それでもいい。


 逆に、二人とも「始めたい」と言えば、初めてその時に接続は始まる。


「主様」


「何?」


「明日は、たぶん私も緊張します」


「もうしてるでしょ」


「しております」


「ちゃんと食べてね」


 ノルンは少し目を見開いた。


「私が言われる側ですか?」


「こういう日は忘れそうだから」


「忘れません!」


「朝食確認する」


「私の役目です!」


「明日は僕の役」


「勝手に交代しないでくださいませ!」


 管理室に小さな笑いが広がる。


 その軽さが、ノルンにはありがたかった。


 重要な日を迎えるからといって、すべてを重くしなくていい。


 明日は大切だ。


 でも今日の夜まで、管理側が緊張を増幅させる必要はない。


 ノルンは照明を一段落とす。


 予定欄には、


『一言接続予定日:明日』


 と表示されている。


 その下には、


『第一候補:こんにちは』

『第二候補:ごめん』

『最終選択:当日本人』


 と並んでいた。


 前日の夜まで、完全には決まらなかった。


 以前のノルンなら、それを不安要素として消そうとしただろう。


 けれど今は、その未決定を残したまま照明を落とせる。


 明日の本人に、明日の選択を残すために。


 一言接続まで、あと一日。


 そして、明日が来ても。


 二人の選択は、接続が始まるその瞬間まで終わらない。

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