第五十六話 最初の一言を決めるために、正しい言葉を探すのではなく、今の自分が言える言葉を考えることにしました
一言接続の予定日まで、あと二日。
その数字を朝の予定欄で確認した瞬間、ノルンは昨日よりも少しだけ長く画面を見つめた。
三日後だったものが二日後になっただけで、接続方式も安全条件も何ひとつ変わっていない。それでも数字が一つ減るたび、予定が「決めた未来」から「もうすぐ来る時間」へ少しずつ形を変えているように感じられる。
昨日は、あえて大きな準備をしなかった。
ミレイアもルークも、それぞれの日常を過ごした。
そして今日。
ノルンの予定表には、昨日にはなかった一つの項目が置かれている。
『ルーク 一言内容相談候補』
決定、とは書いていない。
それを確認してから、ノルンは自分でも小さく頷いた。
「おはよう、ノルン」
「おはようございます、主様」
中央管理卓の向こうでは、主様が朝の記録を眺めながら、まだ少し湯気の立つ飲み物を手にしていた。管理領域の照明は淡い白色に整えられ、壁沿いを流れる各世界の観察記録にも、夜間の緊急警告は出ていない。
ノルンが健康確認を口にするより先に、主様が片手を軽く上げた。
「七時間三十八分。朝食済み。体調問題なし」
「二十一日連続ですね」
「もう三週間」
「素晴らしいです」
「そろそろ普通の生活として扱ってほしい」
「普通になったことを確認するために記録しております」
「終わらないやつだ」
主様が小さく笑う。
ノルンも自分の記録を開いた。
「私は七時間四十一分、途中覚醒なし、朝食済み、体調良好です」
「ノルンの方が寝てる」
「三分です」
「勝った顔してる」
「しておりません」
いつものやり取りのあと、二人は朝の通常確認へ移った。
九人の誤転生者に大きな変化はない。
ミレイアも夜間の急変なし。
エリスからは、昨夜も通常どおり眠れたとの簡潔な報告が届いている。
ルーク側にも異常な名称接続や境界変動は見られない。
旧管理領域最古層からの新規複製記録もなかった。
ノルンは必要なものだけ目を通し、順番に閉じていく。
最後に残ったのが、一言内容相談の予定だった。
「今日はやるんだ」
主様が画面を見て言う。
「候補です」
「また候補」
「大切な表現です」
「昨日は何もしない日だったから?」
「それもあります」
ノルンは椅子へ少し深く座り直した。
「本番まで二日ですので、一言の内容について考え始めるには不自然ではないと思います」
「今日決めないと間に合わない?」
「いいえ」
「じゃあ、どうして今日?」
その問いに、ノルンは少し考えた。
「前日に初めて向き合うより、今日一度考えて、答えが出なければ一晩置けるからです」
「うん」
「ただし、今日絶対決めるとはしません」
「相談だけ」
「はい」
一言は短い。
だからこそ簡単に決められるようにも見える。
けれど、ルークにとって「こんにちは」と「ごめん」は、文字数の違い以上に意味が違う。
挨拶なら、初めて声を聞いてもらう一言として自然だ。
謝罪なら、二十五年間抱えてきた思いに近い。
ただし、一言接続では返事がない。
謝罪を口にして、そのまま接続が終わる。
途中で怖くなれば、「ご」の一音だけで止まる可能性もある。
そうしたことを、すでにルーク自身も意識している。
「ノルン」
「はい」
「正解を決めようとしてない?」
主様の言葉に、ノルンの視線が少し止まった。
「……気をつけています」
「『最初はこんにちはの方が安全』って言いたくなってない?」
言いたくない、と即答できなかった。
技術的なことだけを考えれば、感情負荷の低い言葉を勧めるのは合理的だ。
これまでのルーク本人の申告でも、「ごめん」の方が怖い。
「安全だけで決めれば」
ノルンはゆっくり言った。
「『こんにちは』を推したくなると思います」
「でも?」
「安全な方法を用意することと、言いたい言葉まで管理側が決めることは違います」
「うん」
「ルークが『ごめん』を選ぶなら、その怖さを承知した上で、本人が言える形かを一緒に考えます」
「逆に『こんにちは』でも?」
「謝れなかった、とは扱いません」
そこは大切だった。
最初の一言で謝罪しなかったからといって、逃げたことにはならない。
挨拶から始めてもいい。
何も説明しなくてもいい。
この一回ですべてを伝える必要はない。
そもそも、次がある保証すらない。
「今日聞くのは」
ノルンは予定欄を書き換える。
『ルーク 一言内容相談候補』
から、
『ルーク 今言える一言の相談』
へ。
「正しい一言ではなく、今のルークが言える一言にします」
主様が少し微笑んだ。
「その方がよさそう」
◇◇◇
ミレイアの朝は、昨日より少しだけ落ち着かなかった。
目を覚ましてすぐ、「二日後」と思った。
その瞬間、胸の奥がきゅっと縮むような感覚はあったものの、昨日ほど長くは続かなかった。窓を開け、朝の空気を吸い込み、身支度を整えるうちに、身体はいつもの時間へ戻っていく。
朝食も普通に食べられた。
ただ、パンを半分ほど食べたところで、ふとルークの声を想像した。
これまで一度も聞いたことのない声。
低いのか、高いのか。
柔らかいのか。
自分が想像しているより人間らしいのか。
それとも、どこか違うのか。
以前、エリスからは詳しい印象を聞いていない。
試験で声が出せること。
管理側では安全に受け取れたこと。
それだけで十分だと、自分でも思っていた。
今になって、少し知りたい気持ちが強くなっている。
「……聞かない方がいいのかな」
ミレイアは自分でも気づかないほど小さく呟いた。
事前に声質を教えてもらえば、当日の驚きは減るかもしれない。
でも、それを知ったら知ったで、そこから二日間ずっと想像してしまうかもしれない。
どちらがよいか、自分でも分からない。
朝食後、エリスがいつもの確認へ来た。
「おはようございます」
「おはようございます」
睡眠。
食事。
体調。
強い動悸や息苦しさ。
普段どおりの項目を終える。
昨日と同じなら、ここで終了のはずだった。
ミレイアは少し待つ。
エリスは記録板を閉じた。
「以上です」
「あ」
思わず声が漏れた。
「何かありますか?」
「いえ」
ミレイアは一度首を横へ振ったものの、エリスがそのまま立ち去ろうとはせず、質問を待つ姿勢を取ってくれたことで、もう一度口を開いた。
「聞いてもいいですか?」
「はい」
「ルークの声って」
言いかけたところで、少し迷う。
「どんな声ですか?」
エリスはすぐには答えなかった。
「声質について知りたい、という意味でしょうか」
「はい」
「事前に知ることを希望されますか?」
質問を返され、ミレイアは少し眉を寄せる。
「分かんないです」
「では、今は説明せずに置くこともできます」
「それでもいいんですか?」
「はい」
ミレイアは膝の上で指を組んだ。
知りたい。
でも知ることが本当に自分を楽にするかは分からない。
「管理側は聞いたんですよね」
「はい」
「ノルンさんも?」
「はい」
少し羨ましいような、変な感覚が胸に浮かぶ。
自分より先に、ノルンはルークの声を知っている。
当たり前だ。
安全試験のためなのだから。
でも、これから自分が聞くものを、周りの人はもう知っている。
そのことが急に現実味を持った。
「……変な感じです」
「どのような?」
「私が一番関係あるはずなのに、まだ知らない」
言ったあと、自分で少し苦笑した。
「でも、安全確認だったから仕方ないんですけど」
「はい」
「怒ってるわけでもないです」
エリスは意味づけをせず、ただ頷く。
「事前に声質を知った場合、その情報をもとに二日間想像することになるかもしれません」
「ですよね」
「知らないままなら、初めて聞いた瞬間に知ることになります」
「それも怖いです」
「はい」
ミレイアは少し笑った。
「どっちも怖いですね」
「そのようですね」
しばらく考える。
窓の外からは、庭仕事をしている人達の声が遠くに聞こえていた。道具が土へ触れる乾いた音が、ときおり朝の静けさに混ざる。
「今日は」
ミレイアはゆっくり言った。
「聞かないでおきます」
「分かりました」
「明日、知りたくなったら聞いても?」
「もちろんです」
「当日でも?」
「はい」
それだけ確認すると、ミレイアは少し肩の力を抜いた。
「じゃあ、今日は知らないままにします」
その選択をした途端、少しだけ落ち着いた。
知らないことを減らすだけが準備ではない。
知らないまま置いておくことも、自分で選べる。
それが分かっただけで十分だった。
◇◇◇
午前の通常業務をいくつか終えたあと、ノルンはルークとの名称接続を開いた。
「ルーク」
淡い光が現れる。
『いる』
「今、少しお話しできますか?」
『できる』
すぐに次の文字が続く。
『二日後』
「はい」
『今日一言?』
ノルンは思わず小さく息を吐いた。
「考えていたのですね」
『うん』
『昨日決めなかった』
「はい」
『今日は?』
「相談したいと思っています」
光の揺れが少し止まる。
『決める?』
「決めてもいいですし、今日決めなくても構いません」
『また』
「またです」
『ノルンそれ好き』
「必要だから言っております!」
主様が少し離れたところで笑っている。
ノルンは視線だけで抗議してから、ルークへ戻った。
「まず、今の怖さは?」
『四』
「日付を考えた時は?」
『五なる時ある』
「今日は今のところ?」
『四』
「分かりました」
ノルンは記録へ残す。
「一言について、今考えているものはありますか?」
『こんにちは』
『ごめん』
以前と同じ二つが並ぶ。
「ほかは?」
少し間がある。
『分かんない』
「無理に増やさなくて大丈夫です」
『どっちがいい?』
来ると思っていた質問だった。
ノルンは少し呼吸を置く。
「私が決めることではありません」
『でもノルン聞いた』
「試験では聞きました」
『僕の声知ってる』
「はい」
『ミレイア知らない』
「そうですね」
『じゃあ最初何がいい?』
ルークの光が揺れる。
答えを求めている。
管理側の正解を。
それに乗れば簡単だった。
負荷の低さ。
返事のない一言接続との相性。
途中停止した時の本人の嫌悪感。
それらだけなら、「こんにちは」を勧める理由は十分ある。
でも、今日したいのは正解探しではない。
「ルーク」
『いる』
「『こんにちは』を言う時と、『ごめん』を言う時では、何が違いますか?」
『違う』
「どう違います?」
すぐには文字が出ない。
『こんにちはは』
少し間が空く。
『会う』
「はい」
『最初』
「はい」
『普通』
「普通に感じますか?」
『うん』
「では『ごめん』は?」
光が小さく揺れた。
『ずっと言いたい』
ノルンは黙って待つ。
『間違えた』
『九人』
『待った』
『でも何もしなかった』
文字が続くたび、ノルンは途中で説明を挟まなかった。
ルークにとっての二十五年。
誤転生。
九人を見つけたあと、どうすればよいか分からず、長く見ていただけの時間。
その全部を「ごめん」の三文字へ入れようとしている。
『だからごめん』
「ずっと言いたかったのですね」
『うん』
「でも怖い」
『うん』
「何が一番怖いですか?」
少し長い沈黙があった。
『返事ない』
「一言接続ですからね」
『ごめん言って終わる』
「はい」
『ミレイア何も言わない』
「返答は求めません」
『怒るかも』
「可能性はあります」
『泣くかも』
「はい」
『嫌って思うかも』
「はい」
光が弱くなる。
『分かんない』
ノルンは少しだけ声を柔らかくした。
「それは、一言接続では分からないまま終わる可能性があります」
『嫌』
「はい」
『ごめんって言ったのに』
「返事を得るための接続ではありません」
『分かる』
『でも嫌』
「はい」
ルークは規則を理解している。
理解しているから、嫌でなくなるわけではない。
「『こんにちは』なら?」
『返事なくても』
少し考えるように間が空く。
『まだいい』
「謝罪よりは?」
『うん』
「途中で止まった場合は?」
『こんにちは途中も嫌』
『でもごめん途中もっと嫌』
ここも変わらない。
ノルンは記録しながら、何かを決めるためではなく、ルーク本人が違いを見られるように言葉を返していく。
「今のお話をまとめると」
『うん』
「『こんにちは』は、会う最初の言葉として普通に感じる。返事がなくても、『ごめん』よりは受け止めやすい」
『うん』
「『ごめん』は、ずっと言いたかった言葉。でも返事がないまま終わることと、途中で止まる可能性が怖い」
『うん』
「どちらも本当ですね」
『うん』
『だから分かんない』
「はい」
ノルンはそこで少し間を置いた。
「では、別の聞き方をします」
『何』
「二日後、本当に声を出す直前のルークが、どちらなら言えそうですか?」
光が止まる。
すぐに返事は来なかった。
「正しい方ではありません」
ノルンは続ける。
「一番伝えたい方でもありません」
『言える方』
「はい」
『……』
「一言接続の最初の目的は、ルークの二十五年分の思いを全部伝えることではありません」
『でもごめん言いたい』
「その気持ちを消す必要はありません」
『じゃあ』
「言いたい言葉と、今言える言葉が違うこともあります」
ルークの光がゆっくり揺れる。
『違っていい?』
「はい」
『こんにちは言ったら』
文字が一度止まる。
『ごめん逃げた?』
「私はそうは扱いません」
ノルンは迷わず答えた。
「最初に挨拶を選んだからといって、謝罪しないと決めたことにはなりません」
『次ないかも』
「はい」
そこだけは誤魔化さない。
「次があるとは約束できません」
光が静かになる。
『じゃあごめん言えないかも』
「はい」
『ずっと言えないかも』
「可能性はあります」
『嫌』
「はい」
ノルンはその嫌を消そうとしない。
「でも、それでもミレイア様が次を望まないなら、その答えは守ります」
『うん』
『分かってる』
「だからこそ、今回の一言に全部を詰め込まなくてもいいと私は思っています」
『でも次ない』
「はい」
『難しい』
「難しいですね」
主様も口を挟まず、静かに見守っている。
ルークの文字はしばらく出なかった。
ノルンも待つ。
何かを考える時間そのものが必要なのだと思った。
やがて、淡い光の中へ文字が浮かぶ。
『こんにちは』
ノルンは目を瞬いた。
「今、そう思いましたか?」
『うん』
『今言えるの』
「『こんにちは』ですか?」
『たぶん』
「決定しますか?」
少し間がある。
『……まだ』
「分かりました」
ノルンはすぐ記録する。
『現時点で「今言える一言」として「こんにちは」が優位。ただし未決定』
ルークの光が揺れる。
『ごめん消さない』
「消しません」
『記録する?』
「『ずっと言いたい』という気持ちも記録します」
『ミレイアに言う?』
「本人の許可なく伝えません」
『うん』
少し安心したように光が弱まる。
『ノルン』
「はい」
『こんにちは選んだら』
『ごめん言いたいなくならない』
「はい」
『両方』
「そうですね」
『また両方』
「戻りましたね」
『全部じゃない?』
「今回は二つなので両方でよいと思います」
『分かった』
そのやり取りのあと、ノルンはもう一つだけ確認した。
「今の怖さは?」
『四』
「相談前と同じですね」
『途中五なった』
「どの時ですか?」
『次ないかもって』
「分かりました」
『今四』
「今日はここまでにしますか?」
『うん』
意外にも、ルークはすぐ答えた。
『決めないで終わる』
「はい」
『昨日何もしない』
『今日考えた』
「はい」
『明日決めるかも』
「それでよいです」
光が少し大きく揺れる。
『褒める?』
ノルンは思わず笑った。
「今日は、すぐ管理側へ答えを求めず、自分で『言いたい言葉』と『言えそうな言葉』の違いを考えられたことを褒めます」
『もっと』
「『こんにちは』が今は言えそうでも、『ごめん』を言いたい気持ちが消えないと伝えられたことも大切です」
『もっと』
「決めなくてよいところで、今日は決めないと選べたことも」
『もっと』
「終わりです!」
『三つ』
「十分です!」
◇◇◇
ルークとの接続を閉じたあと、ノルンはしばらく記録を眺めていた。
主様が横から覗き込む。
「こんにちは寄りになったね」
「現時点では」
「安全だから勧めた?」
「勧めておりません」
「うん」
そこは自分でも少し安心していた。
結果として、安全負荷が比較的低い「こんにちは」へ傾いた。
でも、その理由をノルンが与えたわけではない。
ルーク自身が「今言える一言」を考えた結果だった。
「もし明日『やっぱりごめん』になったら?」
「それも受け取ります」
「当日変えたら?」
「安全条件の範囲なら、本人が言う直前まで変更できます」
「直前に別の言葉を言いたくなったら?」
ノルンは少し考えた。
「名称や位置情報に関わる語、長すぎる発話など、安全条件を変える内容でなければ」
「うん」
「一言の範囲で、本人が選び直す余地は残したいです」
主様が頷いた。
「じゃあ『言葉を決める』って、完全固定じゃないんだ」
「はい」
「予定日と同じ」
「少し似ていますね」
今決めたことが、未来の自分を完全に縛るわけではない。
その原則は、日付だけでなく言葉にも当てはまる。
◇◇◇
昼過ぎ、ミレイアは庭ではなく室内の小さな読書室で過ごしていた。
窓の外は薄曇りで、昨日より光が柔らかい。棚から選んだ本を机へ広げていたものの、今日は何度か同じ行へ戻ってしまっていた。
原因は分かっている。
あと二日。
そして朝、自分からルークの声について尋ねた。
結局、声質は聞かなかった。
それでも質問したこと自体が、昨日までとは違う。
自分が「聞く側」であることを、少しずつ現実として考え始めている。
頁をめくろうとして、右手が止まる。
もし最初の一言が「こんにちは」だったら。
想像する。
知らない声で、自分へ届く。
もし「ごめん」だったら。
胸の奥が少し強く締まった。
謝られた時、自分はどう感じるのだろう。
怒るかもしれない。
泣くかもしれない。
何も感じないかもしれない。
あるいは、ずっと思っていたより普通に聞けてしまうかもしれない。
「……何言うんだろう」
ミレイアは小さく呟いた。
その内容は知らされていない。
事前に聞きたいかどうかも、まだ決めていない。
いや、そもそもルーク自身が決めているのかも分からない。
ミレイアは本を閉じた。
少し休もうと思った。
考え始めると、何でも想像できてしまう。
だからといって、考えるなと自分へ命じる必要もない。
椅子から立ち上がり、窓辺へ寄る。
曇った空の下、庭を歩く人の姿が小さく見えた。
ここにいる。
自分はこの世界で、自分の生活をしている。
ルークは世界の外側にいる。
二日後、声だけがここまで来る。
その距離を想像すると、怖さが少し上がった。
右手を閉じる。
停止用具を持つ時の動作。
そのまま数秒、ゆっくり呼吸する。
「やめてもいい」
自分に確認する。
「当日でも」
少し落ち着く。
そのあと、もう一つ言葉が浮かんだ。
「でも聞きたい」
昨日まで何度も繰り返した言葉。
今日は、それだけではなかった。
「何を言うか、知りたい」
自分でも少し驚いた。
声そのものだけでなく、その一言の内容を知りたい。
怖さとは別に、好奇心が生まれている。
それを認めると、胸の中が少しだけ軽くなった。
◇◇◇
午後、エリスから短い報告が届いた。
『本人、日中通常生活継続』
『朝、ルークの声質について本人から質問あり』
『事前説明を受けるか確認したところ、本人「今日は聞かない」と選択』
『今後、本人が希望すれば再度説明可能と伝達』
『体調変化なし』
『予定日撤回希望なし』
ノルンはその報告を読み、少し目を細めた。
「ミレイアさんから聞いたんだ」
主様も隣で見る。
「はい」
「声がどんなか」
「でも今日は知らない方を選びました」
「明日は変わるかも」
「はい」
そこも固定しない。
「ルークの一言内容を事前にミレイア様へ伝えるかどうか」
ノルンは手帳へ新しく項目を置きかけて、手を止めた。
「今決めない?」
「はい」
「本人から聞かれてないから?」
「それもあります」
ルーク自身もまだ一言を決めていない。
その状態で、「決まったらミレイアへ知らせますか」と先に制度化する必要はない。
「明日以降、必要になった時に考えます」
「うん」
ノルンは項目を作らず、手帳を閉じた。
◇◇◇
夕方。
通常業務が落ち着いた頃、ノルンは一度だけ地球訪問の予定を確認した。
一言接続予定日の二日後。
仮予定はそのままだ。
変更する理由も、今のところない。
美咲。
スマートフォン。
ずっと後回しにしてきた自分の用事。
それを眺めていると、主様が横から声をかけてきた。
「消さないね」
「何をですか?」
「地球の予定」
「消しません」
「一言接続が近いのに」
「だからこそです」
ノルンは少し笑った。
「全部終わってから、と言っていたら、また何か始まります」
「観察官だしね」
「はい」
「世界は待ってくれない」
「でも私の生活も、全部待たせ続けなくてよいと思いました」
主様が少し嬉しそうに目を細めた。
「それも成長」
「最近、何でも成長と言えばよいと思っていませんか?」
「便利だから」
「ルークと同じことをしないでくださいませ」
◇◇◇
夜になり、ミレイアは自室で灯りを少し落としていた。
今日は一日中落ち着かなかったわけではない。
本も読んだ。
食事も取った。
人と普通の話もした。
でも昨日より、一言接続について考えた時間は長かった。
声。
一言。
二日後。
それらが互いにつながり始めている。
ベッドへ腰を下ろし、右手を軽く握る。
「こんにちは、かな」
口にしてみる。
自分が言うわけではないのに、少し変な感じがする。
「ごめん、かな」
今度は胸の奥が少し痛んだ。
もし謝られたら。
自分は何を返したくなるのだろう。
返事をしなくていいと言われている。
でも、言いたくなるかもしれない。
怒鳴りたくなるかもしれない。
「どうして」と聞きたくなるかもしれない。
あるいは、何も言えないかもしれない。
ミレイアは膝へ両手を置いた。
「返事しなくていい」
自分へ確認する。
一言接続は、会話ではない。
自分が声を返す経路は用意されていない。
聞いて終わる。
だから、もし何か言いたくなっても、その場では言えない。
そのことを考えると、少し苦しい。
でも、最初から会話だったらもっと怖かった。
言われた瞬間に何か答えなければならない気がしてしまう。
今の形なら、受け取ったあとに自分の時間がある。
その理由を思い出すと、少しだけ納得できた。
「何を言うかは、まだ知らなくていいか」
ミレイアは小さく呟く。
明日になれば知りたくなるかもしれない。
それでも今日は、知らないままで眠る。
あと二日。
数字は減っている。
でも、今夜もまだ自分の時間だった。
◇◇◇
同じ頃、ルークは自分の中で二つの言葉を何度も並べていた。
『こんにちは』
『ごめん』
文字として浮かべるだけなら、どちらも簡単だった。
声にすることを想像すると違う。
「こんにちは」は、知らない扉を開くような怖さがある。
「ごめん」は、その扉の向こうへ自分がずっと抱えてきたものを置く怖さがある。
そして返事はない。
そこが一番違った。
ノルンとの接続はもう閉じている。
だから誰にも答えを求められない。
ルークは長い時間、二つの言葉を交互に考えた。
『こんにちは』
今なら、言える気がする。
『ごめん』
今でも、言いたい。
言えることと、言いたいことが違う。
最初は、それが嫌だった。
正しい方を選ばなければいけないと思っていた。
でもノルンは、違ってもいいと言った。
次がないかもしれない。
それでも、一回目に全部入れなくていい。
その言葉はまだ完全には納得できない。
次がないなら、言いたいことを言いたい。
でも、怖くて言えないならどうする。
ルークの光が小さく揺れる。
『こんにちは』
また浮かべる。
今度は少しだけ、その言葉の続きを想像した。
ミレイアが聞く。
返事はない。
接続は終わる。
それだけ。
でも、自分の声は届く。
『こんにちは』
最初に会う言葉。
それでもいいのかもしれない。
そう思った直後、
『ごめん』
がまた浮かぶ。
消えない。
消さなくていいと、ノルンは言った。
ルークは二つを並べたまま、今日はどちらも消さなかった。
◇◇◇
一日の最後、ノルンは今日の記録を整理した。
一言接続予定日まで二日。
ミレイア、通常生活継続。
本人からルークの声質について初めて質問あり。
事前に知るかどうかを本人へ返し、今日は「知らない」を選択。
予定日撤回なし。
ルーク、一言内容相談実施。
現時点での候補は「こんにちは」「ごめん」。
「こんにちは」は初対面の挨拶として普通で、返答がなくても比較的受け止めやすい。
「ごめん」は二十五年間ずっと言いたかった言葉だが、返答がないまま接続終了すること、途中停止した場合の未完了感が強く怖い。
ルーク本人が「言いたい言葉」と「今言える言葉」が異なる可能性を認識。
現時点では「今言える一言」として「こんにちは」がやや優位。
ただし未決定。
「ごめん」を言いたい気持ちは消失していない。
相談前怖さ四、途中一時五、終了時四。
ノルンは書き終えてから、記録の最後へ何か追加しようとして手を止めた。
「決めなかったね」
主様が言う。
「はい」
「明日で前日」
「はい」
「焦る?」
ノルンは少しだけ笑った。
「少し」
「でも?」
「明日決められなければ、当日まで考える余地もあります」
「当日変更も?」
「安全条件に触れない一言なら、直前に変わる可能性も許容したいです」
「じゃあ、完全固定する必要はない」
「はい」
ノルンは手帳を閉じた。
「今日、分かったことがあります」
「何?」
「一言を決めるのは、正しい言葉を選ぶことではありませんでした」
「うん」
「その人が今、口にできる言葉を探すことでした」
言いたいこと。
言えること。
伝えたいこと。
怖くないこと。
それらは同じとは限らない。
全部一致するまで待っていたら、いつまでも声を出せないかもしれない。
だからといって、怖さを押して一番重い言葉を言わせる必要もない。
今言える言葉を選ぶ。
その選択が、残りの思いを否定するわけではない。
「『こんにちは』を選んでも、『ごめん』が消えるわけではない」
主様が言う。
「はい」
「『ごめん』を選んでも、返事がない怖さが消えるわけじゃない」
「はい」
「結局また複数ある」
「そういうものなのでしょう」
ノルンは管理室の照明を一段落とした。
一言接続まで、あと二日。
日付は決まった。
方法も決まった。
停止手段もある。
でも、たった一言だけがまだ決まっていない。
以前のノルンなら、その未決定を問題として扱っていたかもしれない。
期限までに埋めなければならない空欄。
今日中に決めれば安全。
明日へ持ち越せば不安。
そんなふうに。
けれど今は違う。
空欄は、まだ本人が考えている場所だった。
管理側が先に答えを書き込む必要はない。
ルークは今日、「こんにちはなら今は言えそう」と自分で見つけた。
同時に、「ごめんをずっと言いたい」という気持ちも残した。
ミレイアは今日、ルークの声質を知りたいと思い、それでも「今日は知らない」を選んだ。
二人とも、何かを決めたようで、全部は決めていない。
それでよかった。
予定日へ近づくというのは、空白を一つずつ全部埋めていくことではない。
必要なものだけを決め、まだ決められないものは残し、そのまま当日へ近づいていくこともできる。
ノルンは最後に予定欄へ目を向けた。
『一言接続予定日:二日後』
その下には、まだ一つだけ空欄がある。
『最初の一言:未決定』
ノルンはそれを消さなかった。
明日には変わるかもしれない。
変わらないかもしれない。
それでも今日、その空欄は不足ではなかった。
ルークが自分の中にある二つの言葉を、どちらも捨てずに持っていられるための場所だった。




