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『転生者観察官ノルンの苦労は終わらない 〜神様達がまたやらかしたので、今日も異世界を見回ります〜』  作者: 伊佐波瑞樹


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第五十六話 最初の一言を決めるために、正しい言葉を探すのではなく、今の自分が言える言葉を考えることにしました

 一言接続の予定日まで、あと二日。


 その数字を朝の予定欄で確認した瞬間、ノルンは昨日よりも少しだけ長く画面を見つめた。


 三日後だったものが二日後になっただけで、接続方式も安全条件も何ひとつ変わっていない。それでも数字が一つ減るたび、予定が「決めた未来」から「もうすぐ来る時間」へ少しずつ形を変えているように感じられる。


 昨日は、あえて大きな準備をしなかった。


 ミレイアもルークも、それぞれの日常を過ごした。


 そして今日。


 ノルンの予定表には、昨日にはなかった一つの項目が置かれている。


『ルーク 一言内容相談候補』


 決定、とは書いていない。


 それを確認してから、ノルンは自分でも小さく頷いた。


「おはよう、ノルン」


「おはようございます、主様」


 中央管理卓の向こうでは、主様が朝の記録を眺めながら、まだ少し湯気の立つ飲み物を手にしていた。管理領域の照明は淡い白色に整えられ、壁沿いを流れる各世界の観察記録にも、夜間の緊急警告は出ていない。


 ノルンが健康確認を口にするより先に、主様が片手を軽く上げた。


「七時間三十八分。朝食済み。体調問題なし」


「二十一日連続ですね」


「もう三週間」


「素晴らしいです」


「そろそろ普通の生活として扱ってほしい」


「普通になったことを確認するために記録しております」


「終わらないやつだ」


 主様が小さく笑う。


 ノルンも自分の記録を開いた。


「私は七時間四十一分、途中覚醒なし、朝食済み、体調良好です」


「ノルンの方が寝てる」


「三分です」


「勝った顔してる」


「しておりません」


 いつものやり取りのあと、二人は朝の通常確認へ移った。


 九人の誤転生者に大きな変化はない。


 ミレイアも夜間の急変なし。


 エリスからは、昨夜も通常どおり眠れたとの簡潔な報告が届いている。


 ルーク側にも異常な名称接続や境界変動は見られない。


 旧管理領域最古層からの新規複製記録もなかった。


 ノルンは必要なものだけ目を通し、順番に閉じていく。


 最後に残ったのが、一言内容相談の予定だった。


「今日はやるんだ」


 主様が画面を見て言う。


「候補です」


「また候補」


「大切な表現です」


「昨日は何もしない日だったから?」


「それもあります」


 ノルンは椅子へ少し深く座り直した。


「本番まで二日ですので、一言の内容について考え始めるには不自然ではないと思います」


「今日決めないと間に合わない?」


「いいえ」


「じゃあ、どうして今日?」


 その問いに、ノルンは少し考えた。


「前日に初めて向き合うより、今日一度考えて、答えが出なければ一晩置けるからです」


「うん」


「ただし、今日絶対決めるとはしません」


「相談だけ」


「はい」


 一言は短い。


 だからこそ簡単に決められるようにも見える。


 けれど、ルークにとって「こんにちは」と「ごめん」は、文字数の違い以上に意味が違う。


 挨拶なら、初めて声を聞いてもらう一言として自然だ。


 謝罪なら、二十五年間抱えてきた思いに近い。


 ただし、一言接続では返事がない。


 謝罪を口にして、そのまま接続が終わる。


 途中で怖くなれば、「ご」の一音だけで止まる可能性もある。


 そうしたことを、すでにルーク自身も意識している。


「ノルン」


「はい」


「正解を決めようとしてない?」


 主様の言葉に、ノルンの視線が少し止まった。


「……気をつけています」


「『最初はこんにちはの方が安全』って言いたくなってない?」


 言いたくない、と即答できなかった。


 技術的なことだけを考えれば、感情負荷の低い言葉を勧めるのは合理的だ。


 これまでのルーク本人の申告でも、「ごめん」の方が怖い。


「安全だけで決めれば」


 ノルンはゆっくり言った。


「『こんにちは』を推したくなると思います」


「でも?」


「安全な方法を用意することと、言いたい言葉まで管理側が決めることは違います」


「うん」


「ルークが『ごめん』を選ぶなら、その怖さを承知した上で、本人が言える形かを一緒に考えます」


「逆に『こんにちは』でも?」


「謝れなかった、とは扱いません」


 そこは大切だった。


 最初の一言で謝罪しなかったからといって、逃げたことにはならない。


 挨拶から始めてもいい。


 何も説明しなくてもいい。


 この一回ですべてを伝える必要はない。


 そもそも、次がある保証すらない。


「今日聞くのは」


 ノルンは予定欄を書き換える。


『ルーク 一言内容相談候補』

 から、

『ルーク 今言える一言の相談』


 へ。


「正しい一言ではなく、今のルークが言える一言にします」


 主様が少し微笑んだ。


「その方がよさそう」


          ◇◇◇


 ミレイアの朝は、昨日より少しだけ落ち着かなかった。


 目を覚ましてすぐ、「二日後」と思った。


 その瞬間、胸の奥がきゅっと縮むような感覚はあったものの、昨日ほど長くは続かなかった。窓を開け、朝の空気を吸い込み、身支度を整えるうちに、身体はいつもの時間へ戻っていく。


 朝食も普通に食べられた。


 ただ、パンを半分ほど食べたところで、ふとルークの声を想像した。


 これまで一度も聞いたことのない声。


 低いのか、高いのか。


 柔らかいのか。


 自分が想像しているより人間らしいのか。


 それとも、どこか違うのか。


 以前、エリスからは詳しい印象を聞いていない。


 試験で声が出せること。


 管理側では安全に受け取れたこと。


 それだけで十分だと、自分でも思っていた。


 今になって、少し知りたい気持ちが強くなっている。


「……聞かない方がいいのかな」


 ミレイアは自分でも気づかないほど小さく呟いた。


 事前に声質を教えてもらえば、当日の驚きは減るかもしれない。


 でも、それを知ったら知ったで、そこから二日間ずっと想像してしまうかもしれない。


 どちらがよいか、自分でも分からない。


 朝食後、エリスがいつもの確認へ来た。


「おはようございます」


「おはようございます」


 睡眠。


 食事。


 体調。


 強い動悸や息苦しさ。


 普段どおりの項目を終える。


 昨日と同じなら、ここで終了のはずだった。


 ミレイアは少し待つ。


 エリスは記録板を閉じた。


「以上です」


「あ」


 思わず声が漏れた。


「何かありますか?」


「いえ」


 ミレイアは一度首を横へ振ったものの、エリスがそのまま立ち去ろうとはせず、質問を待つ姿勢を取ってくれたことで、もう一度口を開いた。


「聞いてもいいですか?」


「はい」


「ルークの声って」


 言いかけたところで、少し迷う。


「どんな声ですか?」


 エリスはすぐには答えなかった。


「声質について知りたい、という意味でしょうか」


「はい」


「事前に知ることを希望されますか?」


 質問を返され、ミレイアは少し眉を寄せる。


「分かんないです」


「では、今は説明せずに置くこともできます」


「それでもいいんですか?」


「はい」


 ミレイアは膝の上で指を組んだ。


 知りたい。


 でも知ることが本当に自分を楽にするかは分からない。


「管理側は聞いたんですよね」


「はい」


「ノルンさんも?」


「はい」


 少し羨ましいような、変な感覚が胸に浮かぶ。


 自分より先に、ノルンはルークの声を知っている。


 当たり前だ。


 安全試験のためなのだから。


 でも、これから自分が聞くものを、周りの人はもう知っている。


 そのことが急に現実味を持った。


「……変な感じです」


「どのような?」


「私が一番関係あるはずなのに、まだ知らない」


 言ったあと、自分で少し苦笑した。


「でも、安全確認だったから仕方ないんですけど」


「はい」


「怒ってるわけでもないです」


 エリスは意味づけをせず、ただ頷く。


「事前に声質を知った場合、その情報をもとに二日間想像することになるかもしれません」


「ですよね」


「知らないままなら、初めて聞いた瞬間に知ることになります」


「それも怖いです」


「はい」


 ミレイアは少し笑った。


「どっちも怖いですね」


「そのようですね」


 しばらく考える。


 窓の外からは、庭仕事をしている人達の声が遠くに聞こえていた。道具が土へ触れる乾いた音が、ときおり朝の静けさに混ざる。


「今日は」


 ミレイアはゆっくり言った。


「聞かないでおきます」


「分かりました」


「明日、知りたくなったら聞いても?」


「もちろんです」


「当日でも?」


「はい」


 それだけ確認すると、ミレイアは少し肩の力を抜いた。


「じゃあ、今日は知らないままにします」


 その選択をした途端、少しだけ落ち着いた。


 知らないことを減らすだけが準備ではない。


 知らないまま置いておくことも、自分で選べる。


 それが分かっただけで十分だった。


          ◇◇◇


 午前の通常業務をいくつか終えたあと、ノルンはルークとの名称接続を開いた。


「ルーク」


 淡い光が現れる。


『いる』


「今、少しお話しできますか?」


『できる』


 すぐに次の文字が続く。


『二日後』


「はい」


『今日一言?』


 ノルンは思わず小さく息を吐いた。


「考えていたのですね」


『うん』


『昨日決めなかった』


「はい」


『今日は?』


「相談したいと思っています」


 光の揺れが少し止まる。


『決める?』


「決めてもいいですし、今日決めなくても構いません」


『また』


「またです」


『ノルンそれ好き』


「必要だから言っております!」


 主様が少し離れたところで笑っている。


 ノルンは視線だけで抗議してから、ルークへ戻った。


「まず、今の怖さは?」


『四』


「日付を考えた時は?」


『五なる時ある』


「今日は今のところ?」


『四』


「分かりました」


 ノルンは記録へ残す。


「一言について、今考えているものはありますか?」


『こんにちは』


『ごめん』


 以前と同じ二つが並ぶ。


「ほかは?」


 少し間がある。


『分かんない』


「無理に増やさなくて大丈夫です」


『どっちがいい?』


 来ると思っていた質問だった。


 ノルンは少し呼吸を置く。


「私が決めることではありません」


『でもノルン聞いた』


「試験では聞きました」


『僕の声知ってる』


「はい」


『ミレイア知らない』


「そうですね」


『じゃあ最初何がいい?』


 ルークの光が揺れる。


 答えを求めている。


 管理側の正解を。


 それに乗れば簡単だった。


 負荷の低さ。


 返事のない一言接続との相性。


 途中停止した時の本人の嫌悪感。


 それらだけなら、「こんにちは」を勧める理由は十分ある。


 でも、今日したいのは正解探しではない。


「ルーク」


『いる』


「『こんにちは』を言う時と、『ごめん』を言う時では、何が違いますか?」


『違う』


「どう違います?」


 すぐには文字が出ない。


『こんにちはは』


 少し間が空く。


『会う』


「はい」


『最初』


「はい」


『普通』


「普通に感じますか?」


『うん』


「では『ごめん』は?」


 光が小さく揺れた。


『ずっと言いたい』


 ノルンは黙って待つ。


『間違えた』


『九人』


『待った』


『でも何もしなかった』


 文字が続くたび、ノルンは途中で説明を挟まなかった。


 ルークにとっての二十五年。


 誤転生。


 九人を見つけたあと、どうすればよいか分からず、長く見ていただけの時間。


 その全部を「ごめん」の三文字へ入れようとしている。


『だからごめん』


「ずっと言いたかったのですね」


『うん』


「でも怖い」


『うん』


「何が一番怖いですか?」


 少し長い沈黙があった。


『返事ない』


「一言接続ですからね」


『ごめん言って終わる』


「はい」


『ミレイア何も言わない』


「返答は求めません」


『怒るかも』


「可能性はあります」


『泣くかも』


「はい」


『嫌って思うかも』


「はい」


 光が弱くなる。


『分かんない』


 ノルンは少しだけ声を柔らかくした。


「それは、一言接続では分からないまま終わる可能性があります」


『嫌』


「はい」


『ごめんって言ったのに』


「返事を得るための接続ではありません」


『分かる』


『でも嫌』


「はい」


 ルークは規則を理解している。


 理解しているから、嫌でなくなるわけではない。


「『こんにちは』なら?」


『返事なくても』


 少し考えるように間が空く。


『まだいい』


「謝罪よりは?」


『うん』


「途中で止まった場合は?」


『こんにちは途中も嫌』


『でもごめん途中もっと嫌』


 ここも変わらない。


 ノルンは記録しながら、何かを決めるためではなく、ルーク本人が違いを見られるように言葉を返していく。


「今のお話をまとめると」


『うん』


「『こんにちは』は、会う最初の言葉として普通に感じる。返事がなくても、『ごめん』よりは受け止めやすい」


『うん』


「『ごめん』は、ずっと言いたかった言葉。でも返事がないまま終わることと、途中で止まる可能性が怖い」


『うん』


「どちらも本当ですね」


『うん』


『だから分かんない』


「はい」


 ノルンはそこで少し間を置いた。


「では、別の聞き方をします」


『何』


「二日後、本当に声を出す直前のルークが、どちらなら言えそうですか?」


 光が止まる。


 すぐに返事は来なかった。


「正しい方ではありません」


 ノルンは続ける。


「一番伝えたい方でもありません」


『言える方』


「はい」


『……』


「一言接続の最初の目的は、ルークの二十五年分の思いを全部伝えることではありません」


『でもごめん言いたい』


「その気持ちを消す必要はありません」


『じゃあ』


「言いたい言葉と、今言える言葉が違うこともあります」


 ルークの光がゆっくり揺れる。


『違っていい?』


「はい」


『こんにちは言ったら』


 文字が一度止まる。


『ごめん逃げた?』


「私はそうは扱いません」


 ノルンは迷わず答えた。


「最初に挨拶を選んだからといって、謝罪しないと決めたことにはなりません」


『次ないかも』


「はい」


 そこだけは誤魔化さない。


「次があるとは約束できません」


 光が静かになる。


『じゃあごめん言えないかも』


「はい」


『ずっと言えないかも』


「可能性はあります」


『嫌』


「はい」


 ノルンはその嫌を消そうとしない。


「でも、それでもミレイア様が次を望まないなら、その答えは守ります」


『うん』


『分かってる』


「だからこそ、今回の一言に全部を詰め込まなくてもいいと私は思っています」


『でも次ない』


「はい」


『難しい』


「難しいですね」


 主様も口を挟まず、静かに見守っている。


 ルークの文字はしばらく出なかった。


 ノルンも待つ。


 何かを考える時間そのものが必要なのだと思った。


 やがて、淡い光の中へ文字が浮かぶ。


『こんにちは』


 ノルンは目を瞬いた。


「今、そう思いましたか?」


『うん』


『今言えるの』


「『こんにちは』ですか?」


『たぶん』


「決定しますか?」


 少し間がある。


『……まだ』


「分かりました」


 ノルンはすぐ記録する。


『現時点で「今言える一言」として「こんにちは」が優位。ただし未決定』


 ルークの光が揺れる。


『ごめん消さない』


「消しません」


『記録する?』


「『ずっと言いたい』という気持ちも記録します」


『ミレイアに言う?』


「本人の許可なく伝えません」


『うん』


 少し安心したように光が弱まる。


『ノルン』


「はい」


『こんにちは選んだら』


『ごめん言いたいなくならない』


「はい」


『両方』


「そうですね」


『また両方』


「戻りましたね」


『全部じゃない?』


「今回は二つなので両方でよいと思います」


『分かった』


 そのやり取りのあと、ノルンはもう一つだけ確認した。


「今の怖さは?」


『四』


「相談前と同じですね」


『途中五なった』


「どの時ですか?」


『次ないかもって』


「分かりました」


『今四』


「今日はここまでにしますか?」


『うん』


 意外にも、ルークはすぐ答えた。


『決めないで終わる』


「はい」


『昨日何もしない』


『今日考えた』


「はい」


『明日決めるかも』


「それでよいです」


 光が少し大きく揺れる。


『褒める?』


 ノルンは思わず笑った。


「今日は、すぐ管理側へ答えを求めず、自分で『言いたい言葉』と『言えそうな言葉』の違いを考えられたことを褒めます」


『もっと』


「『こんにちは』が今は言えそうでも、『ごめん』を言いたい気持ちが消えないと伝えられたことも大切です」


『もっと』


「決めなくてよいところで、今日は決めないと選べたことも」


『もっと』


「終わりです!」


『三つ』


「十分です!」


          ◇◇◇


 ルークとの接続を閉じたあと、ノルンはしばらく記録を眺めていた。


 主様が横から覗き込む。


「こんにちは寄りになったね」


「現時点では」


「安全だから勧めた?」


「勧めておりません」


「うん」


 そこは自分でも少し安心していた。


 結果として、安全負荷が比較的低い「こんにちは」へ傾いた。


 でも、その理由をノルンが与えたわけではない。


 ルーク自身が「今言える一言」を考えた結果だった。


「もし明日『やっぱりごめん』になったら?」


「それも受け取ります」


「当日変えたら?」


「安全条件の範囲なら、本人が言う直前まで変更できます」


「直前に別の言葉を言いたくなったら?」


 ノルンは少し考えた。


「名称や位置情報に関わる語、長すぎる発話など、安全条件を変える内容でなければ」


「うん」


「一言の範囲で、本人が選び直す余地は残したいです」


 主様が頷いた。


「じゃあ『言葉を決める』って、完全固定じゃないんだ」


「はい」


「予定日と同じ」


「少し似ていますね」


 今決めたことが、未来の自分を完全に縛るわけではない。


 その原則は、日付だけでなく言葉にも当てはまる。


          ◇◇◇


 昼過ぎ、ミレイアは庭ではなく室内の小さな読書室で過ごしていた。


 窓の外は薄曇りで、昨日より光が柔らかい。棚から選んだ本を机へ広げていたものの、今日は何度か同じ行へ戻ってしまっていた。


 原因は分かっている。


 あと二日。


 そして朝、自分からルークの声について尋ねた。


 結局、声質は聞かなかった。


 それでも質問したこと自体が、昨日までとは違う。


 自分が「聞く側」であることを、少しずつ現実として考え始めている。


 頁をめくろうとして、右手が止まる。


 もし最初の一言が「こんにちは」だったら。


 想像する。


 知らない声で、自分へ届く。


 もし「ごめん」だったら。


 胸の奥が少し強く締まった。


 謝られた時、自分はどう感じるのだろう。


 怒るかもしれない。


 泣くかもしれない。


 何も感じないかもしれない。


 あるいは、ずっと思っていたより普通に聞けてしまうかもしれない。


「……何言うんだろう」


 ミレイアは小さく呟いた。


 その内容は知らされていない。


 事前に聞きたいかどうかも、まだ決めていない。


 いや、そもそもルーク自身が決めているのかも分からない。


 ミレイアは本を閉じた。


 少し休もうと思った。


 考え始めると、何でも想像できてしまう。


 だからといって、考えるなと自分へ命じる必要もない。


 椅子から立ち上がり、窓辺へ寄る。


 曇った空の下、庭を歩く人の姿が小さく見えた。


 ここにいる。


 自分はこの世界で、自分の生活をしている。


 ルークは世界の外側にいる。


 二日後、声だけがここまで来る。


 その距離を想像すると、怖さが少し上がった。


 右手を閉じる。


 停止用具を持つ時の動作。


 そのまま数秒、ゆっくり呼吸する。


「やめてもいい」


 自分に確認する。


「当日でも」


 少し落ち着く。


 そのあと、もう一つ言葉が浮かんだ。


「でも聞きたい」


 昨日まで何度も繰り返した言葉。


 今日は、それだけではなかった。


「何を言うか、知りたい」


 自分でも少し驚いた。


 声そのものだけでなく、その一言の内容を知りたい。


 怖さとは別に、好奇心が生まれている。


 それを認めると、胸の中が少しだけ軽くなった。


          ◇◇◇


 午後、エリスから短い報告が届いた。


『本人、日中通常生活継続』


『朝、ルークの声質について本人から質問あり』


『事前説明を受けるか確認したところ、本人「今日は聞かない」と選択』


『今後、本人が希望すれば再度説明可能と伝達』


『体調変化なし』


『予定日撤回希望なし』


 ノルンはその報告を読み、少し目を細めた。


「ミレイアさんから聞いたんだ」


 主様も隣で見る。


「はい」


「声がどんなか」


「でも今日は知らない方を選びました」


「明日は変わるかも」


「はい」


 そこも固定しない。


「ルークの一言内容を事前にミレイア様へ伝えるかどうか」


 ノルンは手帳へ新しく項目を置きかけて、手を止めた。


「今決めない?」


「はい」


「本人から聞かれてないから?」


「それもあります」


 ルーク自身もまだ一言を決めていない。


 その状態で、「決まったらミレイアへ知らせますか」と先に制度化する必要はない。


「明日以降、必要になった時に考えます」


「うん」


 ノルンは項目を作らず、手帳を閉じた。


          ◇◇◇


 夕方。


 通常業務が落ち着いた頃、ノルンは一度だけ地球訪問の予定を確認した。


 一言接続予定日の二日後。


 仮予定はそのままだ。


 変更する理由も、今のところない。


 美咲。


 スマートフォン。


 ずっと後回しにしてきた自分の用事。


 それを眺めていると、主様が横から声をかけてきた。


「消さないね」


「何をですか?」


「地球の予定」


「消しません」


「一言接続が近いのに」


「だからこそです」


 ノルンは少し笑った。


「全部終わってから、と言っていたら、また何か始まります」


「観察官だしね」


「はい」


「世界は待ってくれない」


「でも私の生活も、全部待たせ続けなくてよいと思いました」


 主様が少し嬉しそうに目を細めた。


「それも成長」


「最近、何でも成長と言えばよいと思っていませんか?」


「便利だから」


「ルークと同じことをしないでくださいませ」


          ◇◇◇


 夜になり、ミレイアは自室で灯りを少し落としていた。


 今日は一日中落ち着かなかったわけではない。


 本も読んだ。


 食事も取った。


 人と普通の話もした。


 でも昨日より、一言接続について考えた時間は長かった。


 声。


 一言。


 二日後。


 それらが互いにつながり始めている。


 ベッドへ腰を下ろし、右手を軽く握る。


「こんにちは、かな」


 口にしてみる。


 自分が言うわけではないのに、少し変な感じがする。


「ごめん、かな」


 今度は胸の奥が少し痛んだ。


 もし謝られたら。


 自分は何を返したくなるのだろう。


 返事をしなくていいと言われている。


 でも、言いたくなるかもしれない。


 怒鳴りたくなるかもしれない。


 「どうして」と聞きたくなるかもしれない。


 あるいは、何も言えないかもしれない。


 ミレイアは膝へ両手を置いた。


「返事しなくていい」


 自分へ確認する。


 一言接続は、会話ではない。


 自分が声を返す経路は用意されていない。


 聞いて終わる。


 だから、もし何か言いたくなっても、その場では言えない。


 そのことを考えると、少し苦しい。


 でも、最初から会話だったらもっと怖かった。


 言われた瞬間に何か答えなければならない気がしてしまう。


 今の形なら、受け取ったあとに自分の時間がある。


 その理由を思い出すと、少しだけ納得できた。


「何を言うかは、まだ知らなくていいか」


 ミレイアは小さく呟く。


 明日になれば知りたくなるかもしれない。


 それでも今日は、知らないままで眠る。


 あと二日。


 数字は減っている。


 でも、今夜もまだ自分の時間だった。


          ◇◇◇


 同じ頃、ルークは自分の中で二つの言葉を何度も並べていた。


『こんにちは』


『ごめん』


 文字として浮かべるだけなら、どちらも簡単だった。


 声にすることを想像すると違う。


 「こんにちは」は、知らない扉を開くような怖さがある。


 「ごめん」は、その扉の向こうへ自分がずっと抱えてきたものを置く怖さがある。


 そして返事はない。


 そこが一番違った。


 ノルンとの接続はもう閉じている。


 だから誰にも答えを求められない。


 ルークは長い時間、二つの言葉を交互に考えた。


『こんにちは』


 今なら、言える気がする。


『ごめん』


 今でも、言いたい。


 言えることと、言いたいことが違う。


 最初は、それが嫌だった。


 正しい方を選ばなければいけないと思っていた。


 でもノルンは、違ってもいいと言った。


 次がないかもしれない。


 それでも、一回目に全部入れなくていい。


 その言葉はまだ完全には納得できない。


 次がないなら、言いたいことを言いたい。


 でも、怖くて言えないならどうする。


 ルークの光が小さく揺れる。


『こんにちは』


 また浮かべる。


 今度は少しだけ、その言葉の続きを想像した。


 ミレイアが聞く。


 返事はない。


 接続は終わる。


 それだけ。


 でも、自分の声は届く。


『こんにちは』


 最初に会う言葉。


 それでもいいのかもしれない。


 そう思った直後、


『ごめん』


 がまた浮かぶ。


 消えない。


 消さなくていいと、ノルンは言った。


 ルークは二つを並べたまま、今日はどちらも消さなかった。


          ◇◇◇


 一日の最後、ノルンは今日の記録を整理した。


 一言接続予定日まで二日。


 ミレイア、通常生活継続。


 本人からルークの声質について初めて質問あり。


 事前に知るかどうかを本人へ返し、今日は「知らない」を選択。


 予定日撤回なし。


 ルーク、一言内容相談実施。


 現時点での候補は「こんにちは」「ごめん」。


 「こんにちは」は初対面の挨拶として普通で、返答がなくても比較的受け止めやすい。


 「ごめん」は二十五年間ずっと言いたかった言葉だが、返答がないまま接続終了すること、途中停止した場合の未完了感が強く怖い。


 ルーク本人が「言いたい言葉」と「今言える言葉」が異なる可能性を認識。


 現時点では「今言える一言」として「こんにちは」がやや優位。


 ただし未決定。


 「ごめん」を言いたい気持ちは消失していない。


 相談前怖さ四、途中一時五、終了時四。


 ノルンは書き終えてから、記録の最後へ何か追加しようとして手を止めた。


「決めなかったね」


 主様が言う。


「はい」


「明日で前日」


「はい」


「焦る?」


 ノルンは少しだけ笑った。


「少し」


「でも?」


「明日決められなければ、当日まで考える余地もあります」


「当日変更も?」


「安全条件に触れない一言なら、直前に変わる可能性も許容したいです」


「じゃあ、完全固定する必要はない」


「はい」


 ノルンは手帳を閉じた。


「今日、分かったことがあります」


「何?」


「一言を決めるのは、正しい言葉を選ぶことではありませんでした」


「うん」


「その人が今、口にできる言葉を探すことでした」


 言いたいこと。


 言えること。


 伝えたいこと。


 怖くないこと。


 それらは同じとは限らない。


 全部一致するまで待っていたら、いつまでも声を出せないかもしれない。


 だからといって、怖さを押して一番重い言葉を言わせる必要もない。


 今言える言葉を選ぶ。


 その選択が、残りの思いを否定するわけではない。


「『こんにちは』を選んでも、『ごめん』が消えるわけではない」


 主様が言う。


「はい」


「『ごめん』を選んでも、返事がない怖さが消えるわけじゃない」


「はい」


「結局また複数ある」


「そういうものなのでしょう」


 ノルンは管理室の照明を一段落とした。


 一言接続まで、あと二日。


 日付は決まった。


 方法も決まった。


 停止手段もある。


 でも、たった一言だけがまだ決まっていない。


 以前のノルンなら、その未決定を問題として扱っていたかもしれない。


 期限までに埋めなければならない空欄。


 今日中に決めれば安全。


 明日へ持ち越せば不安。


 そんなふうに。


 けれど今は違う。


 空欄は、まだ本人が考えている場所だった。


 管理側が先に答えを書き込む必要はない。


 ルークは今日、「こんにちはなら今は言えそう」と自分で見つけた。


 同時に、「ごめんをずっと言いたい」という気持ちも残した。


 ミレイアは今日、ルークの声質を知りたいと思い、それでも「今日は知らない」を選んだ。


 二人とも、何かを決めたようで、全部は決めていない。


 それでよかった。


 予定日へ近づくというのは、空白を一つずつ全部埋めていくことではない。


 必要なものだけを決め、まだ決められないものは残し、そのまま当日へ近づいていくこともできる。


 ノルンは最後に予定欄へ目を向けた。


『一言接続予定日:二日後』


 その下には、まだ一つだけ空欄がある。


『最初の一言:未決定』


 ノルンはそれを消さなかった。


 明日には変わるかもしれない。


 変わらないかもしれない。


 それでも今日、その空欄は不足ではなかった。


 ルークが自分の中にある二つの言葉を、どちらも捨てずに持っていられるための場所だった。

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