第五十五話 会う日が決まった翌日に何もしないで過ごしてみたら、待つ時間まで準備に変えなくてもよいと分かりました
四日後。
昨日、初めて具体的な予定として置かれたその日付を、ノルンは朝から何度か思い出していた。
一言接続。
ルークが管理側の第一受信点へ声を届け、その音声だけを一方向の中継経路でミレイアのいる世界へ送る。ミレイアは停止用具を手元に置き、一言の途中でも自分から終わらせることができる。ルークにも文字による停止手段があり、双方とも接続前、接続中を問わず中止を選べる。
安全確認は一通り終わった。
日付も決まった。
だから今日、やることは――特にない。
その事実が、ノルンには妙に落ち着かなかった。
「おはようございます、主様」
「おはよう、ノルン」
中央管理卓の向こうでは、主様がいつものように朝の記録を眺めながら温かい飲み物を口へ運んでいる。管理領域の照明は柔らかな朝色で、壁際を流れる世界記録にも緊急性の高い警告は出ていなかった。
ノルンは席へ着きながら、主様が何か言う前に視線を向ける。
主様は少し笑った。
「七時間五十一分。朝食済み。体調問題なし」
「二十日連続ですね」
「ついに二十」
「大変素晴らしいです」
「これ何日まで記録するの?」
「少なくとも健康習慣として安定したと私が安心するまでは」
「二十日でもまだ?」
「主様は前歴がありますので」
「信用回復期間が長い」
ノルンはわずかに口元を緩め、自分の状態も続けて報告した。
「私は七時間三十五分、途中覚醒なし、朝食済み、体調良好です」
「うん。こっちも安定」
「はい」
朝のやり取りを終えると、ノルンは通常記録へ目を通した。
九人の誤転生者の通常観察に大きな変化はない。
ミレイアにも夜間の体調急変なし。
ルーク側にも異常な名称接続要求や境界変化は確認されていない。
旧管理領域最古層から新しい複製記録は届いておらず、第一接続者についての調査も継続待機。
他世界の観察案件も、直接介入が必要なものはなかった。
ノルンは一つずつ表示を閉じていく。
そして最後に、一言接続予定欄が残った。
『一言接続予定日:三日後』
昨日までは四日後だった。
一晩過ぎたから、今日は三日後。
当然の変化なのに、数字が一つ減っただけで少し胸がざわつく。
「ノルン」
「はい」
「今、何か増やそうとした?」
主様の言葉に、ノルンの手が止まった。
「何をでしょう」
「今日の準備」
「まだ何も言っておりません」
「顔が『三日前だから確認した方がいいことありますよね』って顔してる」
「顔からそこまで読み取らないでくださいませ!」
「観察官の上司だから」
「便利に使わないでください!」
ノルンは少し頬を膨らませたあと、手帳へ視線を落とした。
実際、考えていた。
三日前。
なら、何か確認した方がよいのではないか。
停止用具をもう一度。
中継経路の記録をもう一度。
ルークの怖さ。
ミレイアの怖さ。
一言の内容。
当日の流れ。
エリスの役割。
管理側の遮断手順。
思いつくだけならいくらでもある。
でも、その大半はすでに確認済みだった。
「昨日、私」
「うん」
「今日をあまり準備しない日にすると言いましたね」
「言った」
「覚えておられましたか」
「ノルンが破りそうだったから」
「破りません!」
否定しながら、ノルンは少しだけ肩の力を抜いた。
「……今日は通常業務をします」
「うん」
「ミレイア様もルークも、通常確認以上は入れません」
「一言の内容も?」
「今日は聞きません」
「本当に?」
「聞きません!」
主様が笑う。
ノルンはその笑いに少し不満そうな顔をしたものの、自分でも分かっていた。
一言の内容はまだ決まっていない。
だからといって、日付が決まった翌日にすぐ決める必要はない。
昨日だけでも、ミレイアとルークの双方にとって大きな変化があった。
四日後という日付が置かれた。
それだけで十分だった。
「主様」
「何?」
「予定が決まると、準備したくなりますね」
「うん」
「何もしないと、怠けているような感じがします」
「安全確認が終わったのに?」
「はい」
「それ、準備してないと不安なだけじゃない?」
ノルンは少し黙った。
図星だった。
「……そうかもしれません」
「本人達のためじゃなくて、ノルンの不安を減らす準備になる可能性がある」
「はい」
その線引きは大切だった。
管理側が不安だから確認する。
管理側が安心したいから本人へ何度も聞く。
それが積み重なれば、本人にとっては「予定日までずっと試される時間」になってしまう。
「今日は、何もしないことをやります」
「日本語が変」
「でも意味は分かるでしょう!」
「分かる」
◇◇◇
ミレイアが目を覚ました時、最初に四日後のことを考えた。
正確には、もう三日後だった。
昨日、日付を決めた。
寝て起きれば一日減る。
そんな当たり前のことが、朝一番に胸へ落ちてきた。
「三日……」
まだ布団の中で、小さく呟く。
昨夜は眠れた。
思っていたよりは。
何度か四日後のことを考えたし、寝る前に右手を握って停止用具の感触を思い出した。それでも眠れないほどではなく、夜中に目を覚ました記憶もほとんどない。
だから体調は悪くない。
でも、朝になった瞬間に「三日後」と思った。
これが明日になれば二日後になる。
次の日には前日。
その考え方をすると、急に近い。
ミレイアは寝台から起き上がり、窓を開けた。
朝の空気は少し冷たく、頬に触れる風が眠気を散らしていく。外では使用人達が庭先を行き来し、遠くから食器の触れ合う音も聞こえ始めていた。
世界はいつもどおりだった。
自分だけが三日後を意識している。
そのことが、少し不思議だった。
◇◇◇
朝食後、エリスから通常確認があった。
いつもの短いものだった。
「眠れましたか?」
「はい」
「途中で何度も目が覚めることは?」
「なかったと思います」
「食欲は?」
「あります」
「強い動悸や息苦しさは?」
「今はないです」
ミレイアは答えながら、次に日付の話が来るのだろうかと少し身構えた。
けれど、エリスは記録板を閉じた。
「以上です」
「……以上?」
「はい」
ミレイアは思わず目を瞬いた。
「今日は、何もないんですか?」
「追加確認は予定されていません」
「一言の内容とか」
「今日は聞きません」
「当日の流れとか」
「今日はありません」
ミレイアはしばらく黙った。
拍子抜けした。
日付が決まったのだから、今日から本番へ向けて毎日何か確認されると思っていた。
「何でですか?」
思わず聞く。
エリスは少しだけ考えてから答えた。
「大きな安全確認はすでに終わっています。昨日は日付を決めました。今日は、日付を決めた翌日です」
「それだけ?」
「はい」
ミレイアは少し笑った。
「ノルンさん、何かしたがってませんでした?」
エリスの口元がほんの少し緩む。
「していたようです」
「やっぱり」
「主様に止められたと聞いています」
「想像できます」
軽い笑いが落ちる。
でも、そのあとミレイアは少しだけ視線を下げた。
「私」
「はい」
「今日、何か聞かれると思ってました」
「はい」
「だから、朝から何を聞かれるんだろうって少し考えてて」
自分でもそこまで大きな不安ではなかったと思う。
けれど、日付が決まった以上、毎日そこへ向かって何かしなければならないような気がしていた。
「何もないなら」
ミレイアは息を吐いた。
「ちょっと安心します」
「今日は普段どおり過ごしてください」
「でも三日後なんですよね」
「はい」
「普通に過ごせるかな」
エリスはそこへ「大丈夫です」とは言わなかった。
「普通に過ごせない時間があっても構いません」
ミレイアは顔を上げる。
「考えてしまったら?」
「考えて構いません」
「怖くなったら?」
「必要なら伝えてください」
「でも毎回報告しなくても?」
「はい」
その答えがありがたかった。
怖くなること自体を管理されなくていい。
一言接続のことを考えた回数を申告しなくていい。
何度胸がざわついたか、毎日記録しなくていい。
「何もしなくていいんですね」
「必ず何か準備しなければならない日は、今日は予定されていません」
ミレイアはしばらくその言葉を受け止めた。
日付が決まった。
それでも、今日一日を「一言接続のための日」にしなくていい。
朝食を食べる。
本を読む。
歩く。
眠る。
いつものことをする。
それで一日が終わってもいい。
「分かりました」
ミレイアは頷いた。
「今日は普通にします」
言ったあと、少し考える。
「できる範囲で」
「はい」
エリスもそれ以上は求めなかった。
◇◇◇
午前の管理領域では、ノルンが本当に通常業務をしていた。
ある世界では、転生者が持ち込んだ農業知識を現地の村人達が自分達なりに改良し始めていた。転生者本人の方法をそのまま真似するのではなく、土壌や気候に合わせて変化させている。
ノルンは記録を眺めながら、少し興味深そうに目を細めた。
「うまく現地化されていますね」
「観察だけでいい?」
主様が尋ねる。
「はい。世界秩序への異常な技術加速もありません」
「じゃあ閉じる?」
「閉じます」
以前なら、どの作物が何割増収になるのかまで計算し始めていたかもしれない。
今は、必要な範囲で問題がないと分かれば生活へ返す。
次の記録へ移る。
別世界では、転生者が現地の子供達に簡単な遊びを教え、それが地域で流行していた。
「これは?」
「問題ございません」
「早い」
「遊びまで管理しません!」
「成長」
「普通です!」
そんなやり取りを続けながら、午前は過ぎていった。
ノルンは一言接続の予定欄を何度も開きそうになった。
けれど開かなかった。
必要な通知が来れば、管理板が知らせる。
自分から見に行く必要はない。
その事実に慣れるまで少し時間がかかった。
◇◇◇
昼前、エリスから通常報告が届いた。
『本人、朝の通常確認後、読書・散歩等の通常活動』
『食欲あり。体調変化なし』
『一言接続予定の撤回希望なし』
『本人から追加確認要求なし』
それだけだった。
ノルンは一度読み、閉じる。
「短い」
主様が言う。
「十分です」
「何か書き足したい?」
「書きません!」
少し反射的に強く答えてしまい、ノルンは自分で苦笑した。
「通常生活をしている、というだけで十分ですね」
「うん」
「日付が決まった人を、毎日『日付が決まった人』として扱わない」
「大事かもね」
「はい」
ミレイアは、一言接続を待つ人である前に、自分の生活をしている。
それを忘れない。
ノルンは記録へ『通常生活継続』とだけ残した。
◇◇◇
ルークへ通常確認を行ったのは、午後に入ってからだった。
日付が決まった翌日だからといって、朝一番に接続する必要はない。
ノルンは通常業務と昼食を終え、休憩も取ってから名称接続を開いた。
「ルーク」
淡い光が現れる。
『いる』
「今、少しよろしいですか?」
『いい』
すぐに、
『三日後』
と文字が浮かんだ。
ノルンは目を瞬く。
「数えているのですね」
『うん』
「朝から?」
『起きてない』
「……そうでした」
ルークには人間と同じ睡眠生活があるわけではない。
『でも昨日から一つ減った』
「はい」
『三日後』
「そうですね」
光が少し大きく揺れる。
『今日何する?』
「通常確認です」
『試験?』
「しません」
『一言決める?』
「今日は決めません」
ルークの光が止まる。
『何もしない?』
「大きな準備はしません」
『何で』
「昨日、日付を決めたからです」
『だから準備する』
「そう思いますよね」
『うん』
ノルンは少し笑った。
「私もそう思いました」
『ノルンも』
「はい」
『じゃあする』
「しません」
『変』
「主様に止められました」
『主様えらい』
「そこだけ褒めないでくださいませ!」
離れた場所で主様が笑っている。
『でも三日後』
「はい」
『何もしない怖い』
その文字に、ノルンの表情が少し変わった。
「何もしないことが怖いのですか?」
『うん』
「どうしてでしょう」
少し間がある。
『忘れる?』
「何を?」
『声』
「出し方を?」
『うん』
ルークが声を作れることは、これまで何度か試験で確認している。
でも三日間何もしなければ、本番でうまく声が出なくなるのではないか。
そう考えているらしい。
『止も』
「停止方法も忘れそうですか?」
『少し』
「今、『止』と文字を出せますか?」
『止』
すぐに浮かぶ。
「出せましたね」
『今は』
「声は?」
『出せると思う』
「では、今日もう一度試す必要はありますか?」
ルークの光が少し静かになる。
『分かんない』
「三日間練習しないと、本番でできなくなると思いますか?」
『怖い』
「はい」
ノルンはそこで、単に「大丈夫です」と言い切らなかった。
「三日後に、今日と同じ状態とは限りません」
『うん』
「だから当日、接続前に声を出せる状態かは確認します」
『当日試験?』
「本番前の状態確認です。必要以上に練習を重ねる予定ではありません」
『今日しなくていい?』
「今のところ、必要ありません」
『でも僕やりたい』
ノルンは少し黙った。
やりたい。
それも本人の意思だ。
管理側が不要と判断したからといって、全部無視してよいわけではない。
「何をしたいですか?」
『声出す』
「一言ですか?」
『うん』
「本番候補の言葉を?」
『……』
光が止まった。
『それ嫌』
「では試験用の言葉?」
『うん』
「どうして声を出したいのでしょう」
ルークはすぐ答えない。
『できるって知りたい』
ノルンはその文字を見つめた。
練習したいというより、できることを確認して安心したい。
その気持ちは理解できる。
けれど、毎日確認して安心を得る運用を始めれば、翌日も同じ確認が必要になるかもしれない。
「ルーク」
『いる』
「今日確認したら、明日も確認したくなる可能性はありますか?」
少し間がある。
『ある』
「明後日も?」
『ある』
「毎日やりたいですか?」
『……分かんない』
「私は、毎日声を出せることを証明し続ける必要はないと思っています」
『でも怖い』
「はい」
『三日後失敗』
「本番で声が出なければ?」
『嫌』
「それは失敗でしょうか」
『声聞いてもらえない』
「その日は接続をやめることになるかもしれません」
『嫌』
「はい」
ノルンは少し時間を置いた。
「でも、声が出なかったのに無理に出そうとする方が、安全ではありません」
『うん』
「本番の日に声が出ないなら、その日のルークは声を出せない状態だった、ということです」
『次?』
「次を望むなら、また考えられます」
ルークの光が静かに揺れる。
『四日後じゃなくなる』
「可能性はあります」
『嫌』
「はい」
『でも』
少し待つ。
『毎日試験も嫌』
「そうですか」
『試験嫌』
「それは以前からおっしゃっていますね」
『うん』
ノルンは少しだけ笑った。
「では今日は、声を出す試験はしません」
『嫌少し』
「はい」
『安心も少し』
「両方ですね」
『うん』
「今の怖さは?」
『四』
「日付が決まった昨日は五でした」
『今日は四』
「分かりました」
『でも三日後思うと五になる時ある』
ノルンの指が止まる。
「ずっと四ではないのですね」
『うん』
「上がった時、何をしていますか?」
『考える』
「何を?」
『声』
『ミレイア聞く』
『こんにちは』
『ごめん』
最初の一言候補。
そこがやはり怖さへ繋がっている。
「今日は内容を決めません」
『うん』
『よかった』
「でも、考えてはいけないわけではありません」
『考えていい』
「はい。ただ、今日中に答えを出さなくていいです」
『分かった』
ルークの光が少し落ち着いた。
『ノルン』
「はい」
『何もしない日』
「今日はそうです」
『変』
「私もまだ少し変です」
『でも一緒』
「一緒にしないでくださいませ」
『両方』
「それも何でも使わないでください!」
光が楽しそうに揺れる。
そのあとルークは、少しだけ間を置いて続けた。
『今日褒める?』
「何もしない日です!」
『何もしないできた』
「まだ半日です!」
『じゃあ夜』
「報告しなくて結構です!」
◇◇◇
午後の後半、ノルンは地球関連の予定板を開いた。
本当に少しだけだった。
来週の候補日。
スマートフォンの購入。
地球側の時間。
美咲との再接触をどうするか。
まだ確定した予定ではない。
けれど、一言接続の日付が決まったことで、逆にその後の自分の予定も少し見え始めていた。
「一言接続が三日後」
ノルンは予定板を見ながら呟く。
「その翌日は、双方の状態確認が必要でしょうね」
「うん」
「その次の日は」
「地球?」
主様に言われ、ノルンは少し眉を寄せた。
「まだ候補です」
「また予定候補」
「大切な表現です!」
「予定日決めても変えられるって昨日学んだのに」
「自分の予定はまた別です!」
「何が違うの?」
「……」
ノルンは黙った。
主様が少し笑う。
「地球行くのも、予定置いて後で変えていいんじゃない?」
「それは」
言われてみれば、その通りだった。
予定を置くと絶対に守らなければならない。
ノルンにも、少しその感覚があるのかもしれない。
だから予定候補と言い続け、確定を避ける。
「……私もミレイア様へ言っていることを、自分には適用できていませんね」
「少しね」
「では」
ノルンは予定板へ一つの日を仮置きした。
一言接続予定日の二日後。
地球側へ行く候補。
ただし緊急業務や接続後状態によって変更可能。
「仮予定です」
「やっぱり仮」
「予定は本当です!」
「ルークと同じこと言ってる」
「嫌です!」
「そこ嫌なんだ」
ノルンは少し笑いながら予定板を閉じた。
何もしない日に、自分の予定が一つだけ置かれた。
それも悪くない気がした。
◇◇◇
夕方、ミレイアは庭の端にある小さなベンチへ座っていた。
昼間は本を読み、そのあと少し歩いた。
一言接続のことを考えなかった時間もあった。
気づけば一刻近く、物語の内容だけを追っていた。
そのことに後から気づいた時、少し驚いた。
日付を決めたのだから、頭の中がずっとそのことでいっぱいになると思っていた。
でも、そうではない。
三日後でも。
生活はまだ生活だった。
風が頬を撫で、庭の草木が揺れている。
少し離れたところでは、誰かが洗濯物を取り込んでいた。布が風を受けて大きく膨らみ、夕方の光に白く透けている。
ミレイアはその様子を眺めながら、ふと笑った。
「普通だな」
日付を決めても、世界は変わらない。
自分の生活も、急に全部本番準備へ変わるわけではない。
そのことがありがたかった。
でも、完全に忘れていたわけでもない。
ふとした瞬間に三日後を思い出す。
そのたび、胸の奥が少し締まる。
朝より今の方が怖さは低い気がした。
たぶん五くらい。
昨日の六よりは少し下がっている。
でも数字をエリスへ報告する必要はない。
自分の中でそう感じるだけでいい。
ミレイアは右手を一度握った。
停止用具の形を思い出す。
もうこの動作も、自分を落ち着かせる癖のようになり始めていた。
「三日後」
声にしてみる。
やはり緊張はする。
でも、昨日ほど現実に押しつぶされる感じはない。
日付が決まって最初の一日を、何も大きな準備をせず過ごした。
それだけで、三日後までずっと構え続けなくてもいいのだと少し分かった。
明日も何かあるとは限らない。
明後日には一言の内容について聞かれるかもしれない。
前日にはもっと怖くなるかもしれない。
それでも今日の夕方は、ただ庭に座っていていい。
その時間を持てたことが、思っていた以上に大きかった。
◇◇◇
夕方の通常報告が届いた時、ノルンは内容を静かに読んだ。
『本人、日中通常生活継続』
『読書・散歩あり』
『体調変化なし』
『予定日撤回希望なし』
『追加確認希望なし』
朝とほとんど同じだった。
それでいい。
むしろ、その同じさが今日の記録だった。
「主様」
「うん」
「本当に何も起きませんでした」
「いいことじゃない?」
「はい」
ノルンは少しだけ笑った。
「今日は『何も起きなかった』が必要だったのだと思います」
「日付が決まっても、毎日イベントにならない」
「はい」
「普通の日が挟まる」
「それでいいです」
物語のように、重要な予定が決まったら、そこへ向けて毎日何かが起きるわけではない。
人はその間にも食事をし、笑い、仕事をし、別のことを考える。
その普通の時間があるからこそ、重要な出来事だけに生活全部を支配されずに済む。
◇◇◇
夜になって、ルーク側から短い接続要求が届いた。
『ノルン』
ノルンは少し迷ったが、通常確認後の状態に問題はなかったため、短時間だけ接続する。
「今、少しなら大丈夫です」
『何もしない日終わる?』
「まだこちらの一日は少し残っております」
『僕は分かんない』
「そうでした」
『でも』
少し間がある。
『声出さなかった』
「はい」
『止も練習しなかった』
「はい」
『一言決めなかった』
「はい」
淡い光が静かに揺れる。
『大丈夫だった』
ノルンはその文字を見つめた。
「何が大丈夫でしたか?」
『忘れなかった』
「停止方法を?」
『うん』
『声も出せると思う』
「はい」
『三日後も覚えてる』
「それは忘れないと思います」
『何もしないでも』
「はい」
ルークは少し考えたように光を弱めた。
『変だったけど』
「はい」
『試験ないの少し楽』
「そうですか」
『でも少し不安』
「両方ですね」
『うん』
今日はルークの方から先にその言葉を使わなかった。
ノルンは少しだけ口元を緩める。
「今の怖さは?」
『三』
「下がっていますね」
『うん』
「日中、五になることもあると言っていました」
『今は三』
「分かりました」
ノルンは記録する。
『ノルン』
「はい」
『明日は何かする?』
「まだ決めておりません」
『嫌』
「何もないのが?」
『分かんないのが』
「明日の状態を見て決めます」
『一言はいつ?』
「少なくとも本番当日までに決める必要はあります」
『前日?』
「前日に初めて考えるのは少し慌ただしいかもしれません」
『じゃあ明日?』
「可能性はあります」
『決める?』
「相談するだけかもしれません」
『分かった』
少し間があり、
『今日決めなくてよかった』
と文字が浮かんだ。
「そう感じますか?」
『うん』
『昨日四日後決めた』
『今日一言も決めたら多い』
ノルンは思わず目を見開いた。
「ルークからそれを言うのですね」
『何』
「一日に決めることが多すぎない方がよい、と」
『ノルン言う』
「言いましたけれど!」
『覚えた』
「えらいです」
『もっと』
「結局そこへ戻るのですね!」
淡い光が大きく揺れた。
「今日は、何もしない日をそのまま過ごせたことを褒めます」
『もっと』
「不安があったことも言えました」
『もっと』
「試験がないことを少し楽だと感じたことも分かりました」
『もっと』
「終了です!」
『明日も褒める?』
「明日のことは明日です!」
◇◇◇
管理領域の照明を落とす前、ノルンは今日の記録をまとめた。
一言接続予定日まで三日。
ミレイア、通常生活継続。
体調問題なし。
予定日撤回希望なし。
準備に関する追加要求なし。
ルーク、通常確認時怖さ四。日中、予定を考えることで五程度へ上がることがあると自己申告。
声・停止方法の再試験を希望する気持ちはあったが、毎日の反復試験も嫌だと表明。
追加試験なし。
夜、本人より「何もしなくても忘れなかった」「試験がないのは少し楽」「少し不安」と報告。
怖さ三。
一言内容は未決定。
ノルンは最後まで書いてから、少しだけ考えた。
「主様」
「何?」
「今日、準備は進んでいません」
「うん」
「でも、進まなかったわけでもない気がします」
「どういう意味?」
ノルンは手帳の頁を見つめる。
「日付を決めたあとでも、普通に一日を過ごせると分かりました」
「うん」
「ルークも、毎日試験をしなくても声や停止方法を忘れないと少し分かった」
「うん」
「ミレイア様も、日付が決まったからといって一日中そのことだけを考え続けるわけではなかった」
主様が微笑む。
「それも準備?」
「……準備にしてしまうと、また何でも準備になってしまいますね」
「じゃあ?」
ノルンは少し考え、それから笑った。
「ただの一日です」
「うん」
「それでいいです」
予定日までの時間全部に意味を持たせなくていい。
毎日少しずつ心の準備が進まなくてもいい。
不安が減る日もあれば、増える日もある。
一言のことを考えず、本へ夢中になる時間があってもいい。
試験をしないことで少し不安になり、その一方で楽だと感じてもいい。
日付が決まったからといって、そこまでの日々が全部「本番前」へ変わる必要はない。
「明日は」
主様が尋ねる。
「明日の朝に考えます」
「一言の内容?」
「候補です」
「今日は決めない」
「はい」
「地球は?」
ノルンは少しだけ得意げに予定板を開いた。
「一言接続予定日の二日後を、地球訪問の仮予定として置きました」
「おお」
「ただし変更可能です」
「予定は本当?」
「本当です!」
「成長」
「そこまで褒めることではありません!」
ノルンは照れたように予定板を閉じた。
管理室の光を一段落とす。
一言接続まで、あと三日。
昨日までは、数字が減ること自体が前進のように見えていた。
でも今日、何もしない一日を過ごしたことで少し分かった。
時間は、全部を準備に使わなくていい。
待つ間に生活をしていい。
別のことを考えていい。
笑ってもいい。
不安を忘れてもいい。
そして夜になってまた思い出してもいい。
日付を決めたからといって、その予定まで自分をずっと緊張させ続ける必要はない。
今日ミレイアは本を読み、庭を歩いた。
ルークは試験をせず、自分が停止方法を忘れていないと後から気づいた。
ノルンも通常業務を行い、地球へ戻る自分自身の予定を一つ置いた。
何も大きなことが起きなかった。
何も新しく決めなかった。
それでも、その一日は無駄ではない。
いや、無駄であってもよかったのかもしれない。
すべての日に意味を付けなくていい。
すべての待ち時間を成長へ変えなくていい。
四日後を選んだ昨日と、一言を聞く予定の日の間には、ただ普通に過ぎていく今日があってよかった。
ノルンは最後に予定欄へ目を向けた。
『一言接続予定日:三日後』
数字は確かに一つ減っている。
けれど今日、一番守れたものは、その数字ではなかった。
予定へ向かう途中にも、その人自身の生活があること。
待っている時間まで、管理側のものにしないこと。
その当たり前を壊さずに一日を終えられたことが、ノルンには少しだけ嬉しかった。




