第五十四話 日付を決めたら逃げられなくなると思っていた方に、決めたあとでもやめられる予定を一緒に置くことにしました
翌朝、管理領域へ入ったノルンは、中央管理卓へ向かう前に一度だけ足を止めた。
昨日までなら、そこには次に行うべき安全試験が表示されていた。ミレイアの停止用具、ルークの文字による途中停止、本番用世界側中継経路。どれも終わるたびに次の確認が残り、管理側には「まだ準備中」と言える明確な理由があった。
けれど、今朝の予定欄に残っている言葉は違う。
『双方状態確認後、ミレイアへ日付相談開始を提示』
試験ではない。
安全装置の確認でもない。
ここから先は、管理側がさらに条件を積み上げるのではなく、整えた道を本人へ返す段階だった。
ノルンはその一行を見たまま、少し長く息を吐いた。
「おはよう、ノルン」
主様の声に振り返ると、中央管理卓の向こうではすでに朝の記録が開かれている。窓のない管理領域には天候の変化こそないものの、時間帯に合わせて照明は柔らかな朝色へ落ち着き、壁沿いを流れる記録光も夜間より穏やかだった。
「おはようございます、主様」
「十九日目」
「まだ何も聞いておりませんが」
「七時間四十分。朝食済み。体調問題なし」
ノルンは一瞬だけ口を閉じ、それから満足そうに頷いた。
「大変結構でございます」
「もう僕が報告するのが当たり前になった」
「理想的ですね」
「ノルンの理想だったんだ」
「健康管理に関しては」
主様が苦笑する。
「ノルンは?」
「七時間三十三分、途中覚醒なし、朝食済み、体調良好です」
「こっちも十九日目くらい続いてそう」
「数えなくてもよろしいです」
「僕だけ数えられてる」
「主様ですから」
「理由になってるようでなってない」
いつもの軽いやり取りを終えると、ノルンは朝の通常記録へ目を通した。
九人の誤転生者について、夜間の急変はない。他の世界でも、管理側が直接介入しなければならないほどの異常は確認されていなかった。旧管理領域最古層から新しい複製記録も届いておらず、第一接続者に関する調査は今日も待機のままだ。
ノルンは一つずつ必要な範囲だけ確認し、表示を閉じた。
「主様」
「うん」
「予定どおり、今日はミレイア様へ日付相談を始めたいと思います」
「始める、ね」
「はい。決める、ではありません」
その違いを、ノルンは自分にも言い聞かせるように口にした。
昨日までに大きな安全確認はすべて終わった。
ミレイアは、準備が整ったら自分から言い出すのを待たず、管理側から日付相談を始めてほしいと希望している。
ルークも、世界側へ声が届くことで「近い」と感じ、怖さが一時六まで上がる可能性を経験したうえで、それでも本番準備へ進みたいと答えた。
だから、もう管理側が「本人を急かさないため」という理由だけで日付の話を避け続けることは、本人の希望に反する。
「ただし、今日提示するのは候補です」
「何日か並べる?」
「その前に」
ノルンは手帳へ視線を落とした。
「日付相談そのものを受けられる状態か、通常確認のあとエリスさんから一度だけ確かめてもらいます」
「昨日『相談を始める』って決めたのに?」
「昨日と今日では本人の状態が違う可能性があります」
「意思を最初から聞き直すわけじゃない」
「はい。『ルークの声を聞きたいですか』ではなく、『本日、以前希望された日付相談を始めても大丈夫ですか』です」
主様が頷く。
「新しい段階へ入る当日の状態確認」
「そうです」
ノルンはさらに続けた。
「それから、安全確認の結果も必要な範囲では説明します」
「ルークが六まで上がったことも?」
「そのまま感情情報としては伝えません」
ミレイアには、ルークの細かな怖さの数値を知る必要はない。
けれど、本番用経路を試した結果、ルーク側に「世界へ声が届くことで距離が近づいたように感じる反応」が起きること、その感覚は接続終了後に消失し、位置・人物・名称の特定にはつながらなかったことは、安全構造として共有する意味がある。
「『完全に何も感じない方式ではありません』とは伝えます」
「うん」
「ただし、『ルークが怖がっています』『六になりました』とミレイア様へ背負わせる形にはしません」
「相手が怖いなら自分がやめた方がいいって考えるかもしれない」
「はい」
それはルーク本人が判断することだ。
ミレイアが代わりに背負うことではない。
「候補日は?」
主様に聞かれ、ノルンは予定板を開いた。
「最短で二日後から可能です。ただ」
「最短を最初に言うと、そこに引っ張られる?」
「少し心配です」
選択肢を提示するつもりが、「一番早い日を選ぶのが前向き」と暗黙に感じさせてしまうこともある。
逆に、遠い日ばかり提示すれば、管理側がまだ実施したくないようにも見える。
「ですので、日付そのものより先に三つの進め方を提示したいです」
「三つ?」
「今日その場で候補日を見る。今日は候補の幅だけ聞いて、具体日は後で決める。今日は日付相談を始めるだけにして、候補自体は次回にする」
「日付相談なのに、日付を見ない選択肢もあるんだ」
「ございます」
ノルンは少し笑った。
「相談を始めることと、今日決定することを同じにしないためです」
「なるほど」
「もし候補を見るなら、最短日だけでなく複数提示します」
「二日後、四日後、もう少し先とか?」
「その程度の幅を考えています。ただし本人の生活予定もありますので、エリスさん側で調整可能な日を確認してからです」
主様はしばらく予定板を眺め、それからノルンへ視線を戻した。
「緊張してる?」
「しております」
「昨日も言ってたね」
「今日の方が少し強いです」
「何が怖い?」
ノルンはすぐに答えず、自分の胸の内を探った。
「こちらから日付を出した瞬間に」
言葉を選ぶ。
「今まで守ってきた余白を、急に狭くしてしまわないか心配です」
「でも本人は出してほしいと言った」
「はい」
「じゃあ、日付を出すこと自体じゃなく、出し方を守ればいい」
主様の言葉に、ノルンはゆっくり頷いた。
「そうですね」
日付を決める。
それは、逃げ道を閉じることではない。
仮に予定を置いても、その日に必ず実施する義務はない。
前日でも。
当日でも。
接続直前でも。
どちらかが止めたいと言えば止められる。
それを日付相談と一緒に、もう一度明確にする。
「では、エリスさんへ連絡します」
◇◇◇
ミレイアは、朝食を終えてからしばらく、自分の部屋で本を開いていた。
読めていないわけではない。
昨日までは、一言接続のことを考え始めると同じ頁を何度も見直すこともあった。今朝はそこまでではなく、数頁進むたびにふと気持ちが戻り、また本へ戻る程度だった。
ただ、胸の内には朝から小さな予感があった。
昨日は何も聞かされなかった。
一昨日、残る大きな確認は二つだと聞いた。
その後どこまで進んだかは知らない。
けれど、自分から「準備が整ったら、そちらから日付の話をしてほしい」と頼んだことは覚えている。
だからエリスが部屋を訪ねてきた時、いつもより早く本を閉じた。
「おはようございます」
「おはようございます」
エリスはまず、普段と変わらない確認から始めた。
睡眠はどうだったか。
朝食は取れたか。
頭痛や息苦しさはないか。
昨夜、強く眠れないほど考え続けることはなかったか。
ミレイアは一つずつ答える。
「眠れました。途中で一回起きた気はしますけど、すぐまた寝ました」
「体調は?」
「大丈夫です」
「今、強い息苦しさや動悸は?」
「ないです」
そこまで終えると、エリスは少しだけ間を置いた。
ミレイアの指が、本の表紙をなぞる。
何となく分かった。
「今日」
ミレイアの方が先に口を開いた。
「日付の話ですか?」
エリスは頷いた。
「以前、準備が整ったら管理側から日付相談を始めてほしいと希望されていました」
胸が一度、強く鳴った。
やっぱり。
ミレイアは反射的に背筋を伸ばしかけ、その動きに自分で気づいて少しだけ肩を下ろした。
「準備……終わったんですか?」
「予定していた大きな安全確認は、一通り終わっています」
「全部?」
「はい」
その返事は、思っていたより重かった。
昨日までの「あと二つ」が、いつの間にかゼロになっている。
何か一つ終わるたびに知らされていたわけではない。だからこそ、今まとめて聞いた「終わっています」が、胸の奥へ一気に落ちてきた。
ミレイアはすぐ言葉を出せなかった。
エリスは続けない。
部屋の外では、廊下を通る人の足音が一度遠くに聞こえ、そのまま消えた。窓辺から入る朝の光が本の表紙へ斜めに落ち、閉じた頁の縁だけを白く照らしている。
「……怖いです」
やがてミレイアが言った。
「はい」
「かなり」
「はい」
「でも」
言葉を続けようとして、ミレイアは少し苦笑した。
「また言いますけど」
「大丈夫です」
「聞きたいです」
エリスはそれを記録する前に、一度だけ確認した。
「その発言を管理側へ伝えてよいですか?」
「はい」
ミレイアは頷いた。
「それから、日付相談を今日始めても大丈夫です」
自分から続けた。
「分かりました」
「ただ」
ミレイアはそこで指先を重ねる。
「今日、絶対決めなきゃいけないわけじゃないですよね」
「ありません」
「日を見て、怖くなって、やっぱり今日は決められないって言っても?」
「構いません」
「決めたあとに、やっぱりその日は無理って言っても?」
「構いません」
「当日でも?」
「はい」
何度も聞いている。
停止用具の確認をした時も。
その前にも。
それでも、具体的な日付という言葉が目の前に来ると、もう一度確かめたくなる。
「すみません。同じことばかり」
「謝る必要はありません」
エリスは静かに返した。
「状況が具体的になると、以前確認した条件をもう一度確かめたくなることはあります」
ミレイアは少しだけ唇を緩めた。
「ノルンさんもそう言いそうです」
「かなり近いことを言っていました」
「やっぱり」
小さな笑いが生まれる。
その短い緩みがあったおかげで、ミレイアは次の説明を少し落ち着いて聞けた。
「日付を見る前に、安全確認結果について一つお伝えします」
エリスの声がわずかに真剣になる。
「本番用の中継方式は、ミレイアさん本人がいない場所で最終確認を行いました。ルークから管理側へ声を届け、そこから世界側の無人の場所へ音声だけを送る方法です」
ミレイアの手が少しだけ強く重なる。
「声、本当にこっちへ来たんですか?」
「はい。誰もいない場所へ一度だけ」
「……そうなんだ」
まだ自分は聞いていない。
でも、ルークの声はもうこの世界へ届いた。
その事実を想像すると、停止用具を初めて握った時と似た感覚が胸へ広がった。
「位置情報や名前、人の情報がルーク側へ戻る反応は確認されていません」
エリスは必要な事実だけを続ける。
「ただし、世界側へ音声を送る経路を開くと、ルーク側には、管理側より先にも何かがあるような『近くなった感覚』が生じることが分かりました」
ミレイアの眉がわずかに寄る。
「私の場所が分かるってことですか?」
「いいえ」
「私がいるって分かる?」
「それも確認されていません」
「名前は?」
「接続から名称が伝わる反応もありません」
ミレイアは息を吐いた。
「じゃあ、何が近いんですか?」
「本人にも、具体的な場所、方向、人は分からないそうです。ただ、声が管理側だけではなく、その先へ届いていることを感覚的に少し強く感じるようです」
「それは危なくないんですか?」
「管理側では、本番候補として継続可能な範囲と判断しています」
エリスはそこで言葉を切る。
「ただし、完全に何も感じない方法ではないことは、ミレイアさんにも説明した上で日付相談へ進むべきだと判断されました」
ミレイアは少し長く黙った。
安全だと言われれば、それで全部終わると思っていたところがあった。
けれど、そうではないらしい。
ルーク側にも何かは起こる。
自分が声を聞くことで、向こうにとっても接触が現実になる。
「ルークは」
口を開きかけて、ミレイアは止まる。
「はい」
「……怖がってるんですか?」
エリスはすぐ答えなかった。
「ルーク本人の詳しい感情状態は、本人の許可なくこちらから共有していません」
ミレイアは少し目を伏せた。
「そうですよね」
「ただし」
エリスは続ける。
「管理側は、今回分かった新しい条件をルーク本人へ説明し、その上で本番準備へ進めてよいか確認しています」
「何て?」
「進む、という意思は確認されています」
ミレイアの指先から少し力が抜けた。
「そっか」
それ以上を聞く必要はない気がした。
怖いかどうか。
どれくらい怖いのか。
自分が知ったら、たぶん気にする。
相手が怖いならやめた方がいいのではないかと考えるかもしれない。
でも、そこはルーク自身が決めた。
自分もそうしてもらっている。
「じゃあ」
ミレイアはゆっくり顔を上げる。
「日付の話、聞きたいです」
◇◇◇
エリスは、すぐ具体的な日を並べなかった。
「日付相談の進め方を三つ用意しています」
「三つ?」
「今日、実際の候補日を見る方法。今日は実施できる時期の幅だけ聞いて、具体的な候補日は後日に見る方法。そして今日は『日付相談へ進める状態になった』ことだけ確認し、具体的な話は次回にする方法です」
ミレイアは少し呆気に取られた。
「そこも選べるんですか?」
「はい」
「日付の相談をするって言ったのに、日付を見ないのも?」
「構いません」
思わず、ミレイアは笑った。
「なんか」
「はい」
「ここまで来ても、やっぱりノルンさんですね」
「本人はかなり悩んでいました」
「悩むんだ」
「日付を提示したことで、今まで作った余白を一気に狭くしないかと」
その話を聞いた瞬間、ミレイアの表情が少し変わった。
ノルンも緊張するのだ。
管理する側は、全部分かっていて迷わず進めているように見えていた。
けれど、そうではない。
「……見たいです」
ミレイアは言った。
「候補日を?」
「はい」
怖い。
胸はもうさっきより強く鳴っている。
でも、「どれくらい先なのか分からない」状態を、今日は一つ進めたいと思った。
「分かりました」
エリスは管理側から届いている予定候補を開いた。
「現在、管理側とこちら側の安全配置を確保できる候補として、最も早い日が二日後。その次が四日後。さらに一週間程度先にも設定可能です」
「二日後……」
声にしただけで、喉が少し乾いた。
二日。
今日を含めず、眠る回数で考えれば二回。
思っていたより近い。
「二日後が早すぎると感じるなら、選ぶ必要はありません」
「はい」
「最も早い日を選ぶことが前向き、という扱いもしません」
先回りするような説明に、ミレイアは少し笑いそうになった。
「それもノルンさんですか?」
「かなり強く言われました」
「やっぱり」
笑いはしたものの、視線は候補から離れなかった。
二日後。
四日後。
一週間程度先。
どれを見ても怖い。
不思議なことに、一週間先を見れば安心するというわけでもなかった。
遠ければ遠いほど、その間ずっと待つことになる。
毎朝考える。
明日ではない。
まだ。
あと何日。
それも嫌な気がする。
「二日後は」
ミレイアがゆっくり口を開く。
「ちょっと近すぎる気がします」
「はい」
「でも一週間後は」
少し迷う。
「長いです」
「はい」
「四日後……」
その言葉を出すと、胸がまた強く鳴った。
四日後。
遠すぎない。
近すぎるとも言い切れない。
数日間、心の準備をする時間はある。
でも、ずっと待ち続けるほどではない。
「今、決めなくても大丈夫です」
エリスが言う。
「分かってます」
ミレイアは候補を見たまま答えた。
「でも、四日後が気になります」
「候補として残しますか?」
「はい」
その瞬間、ミレイアは自分の胸がさらに硬くなるのを感じた。
まだ決めていない。
候補として残しただけ。
なのに、四日後という数字が自分の未来へ置かれたように感じる。
「……怖い」
小さく漏れる。
エリスは何も急かさない。
「今、日付相談を止めますか?」
ミレイアは少し考えた。
「止めたくはないです」
「では、このまま考えますか?」
「はい」
少し沈黙が続く。
窓の外では風が弱まり、枝先の葉がほとんど動かなくなっていた。
ミレイアは自分の両手を見つめる。
本番の日には、あの乳白色の球体を持つ。
一言が届く。
途中で無理なら止められる。
一言が終われば、それでその日は終わる。
返事はしなくていい。
次を決めなくていい。
エリスは近くにいてくれる。
四日後を選んでも、それらは何も消えない。
「日付を決めたら」
ミレイアが静かに言う。
「もう、その日まで逃げられないみたいに思ってました」
エリスは言葉を挟まない。
「でも違うんですよね」
「はい」
「四日後に決めても、前日にやめてもいい」
「はい」
「当日の朝でも」
「はい」
「ここに来てからでも?」
「はい」
「停止用具を持ったあとでも?」
「接続開始前なら、もちろんです」
「始まったあとでも、一言の途中なら止められる」
「はい」
ミレイアはゆっくり息を吐いた。
日付は、約束ではある。
でも拘束ではない。
決めたら絶対に守らなければならないものではない。
少なくとも、この接続では。
「だったら」
声が少し震える。
「四日後にしたいです」
言った。
部屋は何も変わらない。
窓も。
机も。
エリスの位置も。
それなのに、ミレイアには空気が少しだけ重くなったように感じた。
自分で日を選んだ。
四日後。
ルークの声を聞く日。
「仮予定として記録しますか?」
エリスが尋ねる。
ミレイアは顔を上げた。
「仮?」
「ルーク側の予定と状態確認も必要です。そのため、まずミレイアさんの希望日として管理側へ伝えます」
「あ」
まだ、自分だけで決まるわけではない。
当然なのに、一瞬忘れていた。
「そうですよね」
「はい」
「じゃあ……四日後を希望します」
「分かりました」
「でも」
ミレイアは少し迷い、もう一度確認する。
「ルークが別の日がいいって言ったら?」
「その場合は再調整します」
「私に無理に合わせるわけじゃない?」
「ありません」
その答えにも安心した。
自分が選んだ四日後が、相手に押しつけられるわけではない。
双方が同じ日を選べる時だけ、本当に予定になる。
「お願いします」
「分かりました」
エリスが記録板へ入力する。
ミレイアはその動きを眺めながら、右手を静かに握った。
手の中には停止用具はない。
それでも、あの感触を思い出す。
「今の怖さを、数字にするならどれくらいでしょう」
エリスが尋ねた。
ミレイアは少し考える。
これまで自分はルークほど細かく数字を使ってこなかった。
けれど今なら、何となく分かる。
「……六くらい」
「かなり高いですね」
「はい」
「今日は日付相談をここで終えますか?」
ミレイアは頷いた。
「はい」
「希望自体は撤回しますか?」
「しません」
そこは、意外なほどはっきり言えた。
「四日後を希望したままで、今日は終わりたいです」
「分かりました」
エリスは記録板を閉じた。
追加の質問はなかった。
今後どうしたいかも。
何を言うつもりかも。
日付を決めて勇気が出たかも。
何も聞かれない。
ミレイアは少しだけ肩の力を抜いた。
「……本当に終わりなんですね」
「今日はここまでです」
「ありがとうございます」
立ち上がる。
足は普通に動く。
扉まで歩ける。
外へ出れば、いつもの廊下がある。
それでも、四日後という言葉だけが胸の中に残った。
怖い。
かなり。
でも、聞きたい。
その二つを抱えたまま、ミレイアは部屋を出た。
◇◇◇
エリスから報告が届いたのは昼前だった。
ノルンはちょうど通常業務の記録を閉じたところで、主様と一緒に内容を開く。
『本人、本日日付相談受領可』
『安全確認結果の必要範囲を説明。世界側中継時に外在個体側へ非特定的な近接感覚が発生するが、位置・方向・人物・名称の特定なし。本人、説明理解』
『本人より候補日提示を希望』
『二日後/四日後/一週間程度先を提示』
『本人、二日後は「近すぎる」、一週間程度先は「長い」と発言』
『四日後を希望』
『日付決定後も前日・当日・接続直前・接続中に停止/中止可能であることを再確認』
『希望提示後、本人怖さ自己申告約六』
『本人、「四日後を希望したままで、今日は終わりたい」と発言』
『接触希望撤回なし』
ノルンは最後まで読んだあと、大きく息を吐いた。
「六」
主様が言う。
「はい」
「高いね」
「高いです」
だからこそ、今日はこれ以上ミレイアへ何も求めない。
四日後を希望した。
その一つだけで十分だった。
「日付が具体的になった分、怖さが増えた」
「はい」
「でも希望は残した」
「はい」
ノルンは記録へ、余計な評価を書き足さない。
勇気がある。
覚悟ができた。
克服した。
そんな言葉は必要ない。
怖さ六。
四日後希望。
今日は終わりたい。
全部が同時に本人の答えだった。
「ではルークへ確認します」
「今すぐ?」
ノルンは時計代わりの管理光を見る。
昼食の時間が近い。
「……昼食後にします」
「えらい」
「もう習慣になっております!」
「でも一瞬行こうとした?」
「しておりません!」
「間があった」
「昼食です!」
◇◇◇
食事と短い休憩を終えてから、ノルンはルークへ接続した。
「ルーク」
淡い光が現れる。
『いる』
『日付?』
あまりに早い文字に、ノルンは思わず目を瞬いた。
「どうして分かったのです?」
『昨日全部終わった』
「全部、とは言っておりません」
『大きいの全部』
「覚えていたのですね」
『うん』
『日付?』
「はい」
淡い光が大きく揺れた。
『決まった?』
「まだです」
『嫌』
「ミレイア様から希望日が出ました」
光の揺れが止まる。
『いつ』
「四日後です」
しばらく文字が出ない。
ノルンは待った。
『四日』
「はい」
『近い』
「そう感じますか?」
『うん』
「怖さは?」
少し間がある。
『五』
「昨日、通常状態へ戻った時は四でしたね」
『日付で上がった』
「分かりました」
『ミレイア選んだ?』
「はい。複数候補から、ご本人が四日後を希望されました」
『僕も四日後?』
「それを今確認します」
『やる』
返事が早い。
けれどノルンはそのまま確定しなかった。
「少し待ってください」
『嫌』
「日付を聞いた直後です」
『でもやる』
「はい。その意思は受け取りました」
ノルンは少し声を柔らかくする。
「四日後を予定日にした場合でも、前日や当日に怖さが強くなり、実施したくないと思えば中止できます」
『僕も?』
「もちろんです」
『ミレイアも?』
「はい」
『日付決めても?』
「はい」
ルークの光が少し静かになる。
『じゃあ四日後』
「今の時点で希望しますか?」
『うん』
「本番用世界側試験で感じた『近い』感覚が、実際にはより強くなる可能性があります」
『分かる』
「声を聞く相手が実際にいることも、試験とは違います」
『分かる』
「それでも?」
少し間がある。
『四日後やる』
「分かりました」
ノルンは記録する。
「では、双方の希望が一致しましたので」
一度息を整える。
「四日後を、一言接続の予定日として仮確定します」
『仮?』
「当日まで変更・中止可能だからです」
『本当の日じゃない?』
「予定日は本当です」
『でも変わる』
「はい」
『変』
「予定というのは、そういうものです」
『ノルン地球予定候補』
「なぜ今それを出すのですか!」
主様が隣で吹き出した。
『スマートフォン』
「本番準備中に私の予定を混ぜないでくださいませ!」
『同じ?』
「少し違います!」
ルークの光が楽しそうに揺れた。
その軽いやり取りが落ち着いてから、ノルンは大切なところへ戻る。
「本日は、一言の内容までは決めません」
『うん』
意外にも、ルークはすぐ了承した。
「迷っていますか?」
『うん』
『こんにちは』
「はい」
『ごめん』
「はい」
『四日後って思ったら』
文字が止まる。
『ごめん怖い』
「今はそう感じるのですね」
『こんにちはも怖い』
「はい」
『でもごめんもっと』
昨日と変わっていない。
むしろ、日付が置かれたことで実感が増している。
「一言の内容は、別の日に考えましょう」
『明日?』
「まだ決めません」
『嫌』
「でも今日は日付だけで十分です」
『分かった』
少し間がある。
『四日後』
「はい」
『ミレイア聞く』
「予定では」
『僕の声』
「はい」
『怖い』
「はい」
『嬉しいもある』
ノルンの指が止まった。
「嬉しいのですか?」
『うん』
『聞いてほしい』
「分かりました」
『怖い。嬉しい。会いたい』
「三つありますね」
『両方じゃない』
「増えましたね」
『三方?』
「それは少し違います」
『じゃあ何』
「全部でよいです」
ルークの光がしばらく静かになった。
『全部』
「はい」
『それいい』
「便利でしょう?」
『うん』
ノルンは少し笑った。
「今日の怖さは今も五ですか?」
『五』
「これ以上は進めません」
『日付決まったから?』
「それもあります。今日の大きな決定は一つで十分です」
『褒める?』
「日付が決まったことを褒めるのではありません」
『じゃあ何』
「怖さが上がったことをきちんと言えたこと。四日後を自分でも希望したこと。そして、嬉しい気持ちもあると後から伝えられたことは大切でした」
『もっと』
「今日は終了です!」
『日付決まった日なのに』
「だからこそです!」
◇◇◇
夕方、ノルンはエリスへ必要な結果だけを返した。
『ルーク側、四日後希望』
『双方希望一致のため、一言接続予定日を四日後として仮確定』
『予定決定後も、双方いつでも変更・中止可能』
『本日は本人へ追加判断を求めないこと』
しばらくして、エリスから短い返信が届く。
『了解』
さらに少し時間が経ってから、もう一つだけ記録が届いた。
『本人へ四日後仮確定を伝達』
『本人、一時沈黙後「分かりました」と回答』
『本人より再確認:「当日の朝に無理でも中止できますか」』
『可能と回答』
『本人「じゃあ、四日後のままでお願いします」』
『追加会話希望なし』
ノルンはそこまで読み、静かに画面を閉じた。
「決まったね」
主様が言う。
「はい」
四日後。
本当に日付が置かれた。
けれど、ノルンが想像していたほど達成感はなかった。
むしろ、ここから大切なのだと感じる。
「何か嬉しくない?」
「嬉しくないわけではありません」
「でも?」
「日付が決まることを、到達点にしたくありません」
主様は穏やかに頷く。
「うん」
「四日後に実施できなくても、準備が無駄だったことにはなりません」
「うん」
「当日中止になっても失敗ではない」
「うん」
「一言の途中で止まっても」
「うん」
「それを、私が本当に守れるかは四日後に試される気がします」
安全設計を作ることはできる。
規則を書くこともできる。
「いつでもやめてよい」と説明することもできる。
けれど本当にその瞬間が来た時、管理側が落胆を見せないか。
せっかく準備したのにと思わないか。
ここまで来たのだから、と続行を勧めないか。
それこそが重要だった。
「ノルン」
「はい」
「今から四日間、毎日確認増やさないでね」
ノルンの表情が固まる。
「……増やしません」
「間があった」
「必要な確認だけです!」
「その『必要』が増えそう」
「増やしません!」
主様が笑う。
ノルンも少しだけ頬を膨らませたあと、真面目な表情へ戻った。
「実際、四日間を全部準備日にしない方がよいと思っています」
「うん」
「本人達はもう十分準備しています」
「じゃあ何する?」
「一言内容の確認は必要です。前日またはそれ以前に双方の通常状態も確認します。本番当日の中止条件と、運用担当者側の役割は最終共有します」
「それ以外は?」
「生活です」
ノルンははっきり答えた。
「普通に過ごしていただきます」
◇◇◇
その夜、ミレイアは自室のベッドへ腰を下ろし、窓の外を見ていた。
四日後。
もう「いつか」ではない。
日付がある。
朝起きるたび、残りの日数が一つずつ減る。
そのことを考えると、胸の奥が少し苦しくなる。
エリスから「ルーク側も四日後を希望した」と聞いた時、しばらく返事ができなかった。
自分だけが候補を出した段階なら、まだ少し遠かった。
でも相手も同じ日を選んだことで、本当に予定になった。
「四日後……」
声にしてみる。
やはり怖い。
今日は六くらいだと答えた。
今もたぶん、それくらいある。
もしかしたら夜になって少し上がっているかもしれない。
でも、今すぐエリスを呼んで取り消したいとは思わなかった。
ミレイアは右手を握る。
停止用具の感触を思い出す。
日付を決めても、この手は残る。
当日の朝に無理なら中止できる。
部屋へ入ってからでもやめられる。
接続が始まってからでも、一言の途中なら止められる。
「日付が決まっても」
ゆっくり言葉にする。
「戻れるんだ」
そのことが、今日一番大きかった。
以前の自分なら、日付を決めることを覚悟だと思っていた。
決めた以上は行かなければならない。
約束した以上は最後までやらなければならない。
怖くなって中止すれば、相手を傷つける。
逃げたと思われる。
そう考えていた。
でも今は、少し違う。
日付を決めることは、その日にできればやってみたいと今の自分が選んだだけだ。
四日後の自分へ命令を出したわけではない。
四日後の自分にも、まだ選ぶ権利が残っている。
そのことを考えると、胸の苦しさが少しだけ和らいだ。
「聞きたいな」
ミレイアは小さく呟く。
怖い。
でも、聞きたい。
今夜もどちらもある。
さらに今日は、少しだけ別のものもあった。
何だろうと思い、しばらく考える。
楽しみ。
そう言うには、まだ怖さの方が大きい。
期待。
それなら少し近いかもしれない。
四日後に何が起きるか分からない。
でも、これまで二十五年という時間の向こう側にいた存在の声を、自分が初めて聞く。
そのことを想像すると、怖さとは違う胸の高鳴りも確かにあった。
「……これもあっていいのかな」
誰も答えない。
けれど、たぶんノルンなら言うだろう。
両方でも。
三つでも。
もっとあってもいいと。
ミレイアは少しだけ笑い、横になった。
四日後。
その日まで、ずっとルークのことだけを考えて過ごすつもりはない。
明日も朝食を食べる。
本も読む。
いつもの時間を過ごす。
怖くなれば、怖いと言う。
気になれば、確認する。
それで四日後まで行けるなら、その時もう一度、自分に聞けばいい。
今日の自分は、四日後を選んだ。
それだけで、今夜は十分だった。
◇◇◇
管理領域では、ノルンが最後の記録へ予定日を書き込んでいた。
『一言接続予定日:四日後』
文字を入れたあと、そのすぐ横へ大きく注記を加える。
『双方いつでも変更・中止可能。予定日は実施義務を意味しない』
さらにその下へ、
『当日開始前、双方の実施意思を個別確認』
と記す。
ノルンは少し眺めてから、もう一行付け足した。
『接続開始後も双方停止権維持』
「多いね」
主様が横から言う。
「重要です」
「日付より注記の方が長い」
「それでよいのです」
ノルンは手帳を閉じる。
四日後。
そこに日付が置かれた。
でも、道は閉じていない。
途中には何度でも戻れる場所がある。
予定を変えてもいい。
当日やめてもいい。
一言を言わなくてもいい。
一言を聞かなくてもいい。
途中で止めてもいい。
終わったあとに、次を望まなくてもいい。
それらを全部残したまま、初めて日付を決めることができた。
「主様」
「何?」
「明日は、本番準備をあまりしない日にしたいです」
「何するの?」
「通常業務です」
「ルークとミレイアさんには?」
「通常観察だけ」
「一言の内容は?」
「明日でなくても構いません」
「ノルンが?」
「何ですか、その驚きは!」
主様が楽しそうに笑う。
ノルンも少しむっとしながら、管理室の照明を一段落とした。
今までは、戻れる道を作るために日付を決めなかった。
今日は初めて、戻れる道を残したまま日付を決めた。
その違いは大きかった。
予定とは、未来の自分を縛る鎖ではない。
今の自分が、そこまで歩いてみたいと思った場所へ置く目印にすぎない。
歩いている途中で止まってもいい。
目印の前まで来て、今日は行かないと決めてもいい。
それでも、今この瞬間に「四日後なら」と選んだ気持ちまで否定する必要はない。
ノルンは最後に予定欄をもう一度確認し、静かに表示を閉じた。
四日後。
初めて、ルークの声をミレイアが聞く予定の日。
けれど、その予定よりもっと大切なのは、四日後になっても、二人の選択がまだ終わっていないことだった。




