第五十三話 最後の安全確認だからと本番に近づけすぎず、本人がいない場所へ一言だけ声を届けることにしました
翌朝、管理領域へ入ったノルンは、中央管理卓へ向かう途中で一度だけ足を止めた。
昨日まで使っていた試験区画には、今朝も第一受信点を示す淡い光が浮かんでいる。ただし、その先に置かれているのは模擬聴取点ではない。
今日は、実際にミレイアが暮らす世界側へ音声を送るための中継経路を確認する。
もちろん、ミレイア本人はいない。
本番で使用する予定の部屋も使わない。
本人の生活場所や日常動線へ unnecessary な接続情報を近づけないため、エリスの管理下にある別の空室を、一時的な試験聴取点として借りる予定だった。
そこで音声が再生される。
でも、その場所がどこにあるのかをルークへは接続情報として渡さない。
世界名も。
地名も。
ミレイアの名称も。
音声を受け取る「誰か」も置かない。
ただ、管理側で一度受け取った声が、実在する世界の一地点まで運ばれる。
今日はそこだけを確かめる。
ノルンは手帳を開き、昨夜書いた残りの一項目へ指を置いた。
『本番用世界側中継経路最終確認』
この試験が問題なく終われば、大きな安全確認はひとまず揃う。
その次は、ミレイア本人が希望した通り、管理側から日付相談を始める段階へ進む。
文字だけ見れば、いよいよだった。
だからこそ、ノルンはいつもより少し慎重に呼吸を整えた。
「おはようございます、主様」
「おはよう、ノルン」
中央管理卓では、主様がすでに朝の記録を開いていた。
ノルンが何も言わないうちに、主様は視線だけこちらへ向ける。
「七時間四十四分。朝食済み。体調問題なし」
ノルンは目を瞬いた。
「……早いですね」
「十八日目にもなると」
「大変結構です」
「もう褒め方が健康診断の人」
「健康を維持されている方への正当な評価です」
ノルンも自分の状態を確認する。
「私は七時間三十二分、朝食済み、途中覚醒なし、体調良好です」
「うん。今日も問題なし」
「はい」
いつもの短いやり取りが済んだあと、二人はそれぞれ朝の世界記録へ目を通した。
九人の誤転生者に大きな変化はない。
旧管理領域最古層から、新たな複製記録も届いていない。
フローラを含む既存の観察対象にも、すぐ介入を必要とする異常はない。
ノルンは確認した順に表示を閉じ、最後にルーク関連の試験記録だけを残した。
「主様」
「うん」
「今日、世界側中継経路の最終試験を行ってよいと思います」
「昨日は朝の状態を見て決めるって言ってたね」
「はい」
「急ぎたいから?」
ノルンはすぐには答えず、自分の気持ちを一度確かめた。
大きな安全確認は、あと一つ。
終われば日付相談へ進める。
早くここまで辿り着きたい気持ちは、確かにある。
「少しはあります」
「うん」
「でも、それだけではありません」
ノルンは管理板へ今日の条件を表示した。
「ルークは昨日の試験後、怖さ三まで戻っています。追加試験を求めず、自分で止められたことへの安心も後から言葉にできました」
「ミレイアさん側は?」
「昨日は追加の面会準備確認を入れておりません。停止用具の実物確認後も通常生活を継続し、撤回希望なしです」
「世界側の部屋は?」
「エリスさんが本人不在の空室を確保できると回答しています」
「なら、条件としては揃ってる」
「はい」
今日試験する理由は、「残り一つだから」だけではない。
試験を行うための各条件が、今そろっている。
「ただし」
ノルンは指を一本立てた。
「本番に近づけすぎません」
「どういう意味?」
「部屋だけ本番用にしない。停止用具も置かない。エリスさん本人も室内へ入れない。誰も聞かない」
「音だけ出す」
「はい」
技術確認のためだからといって、実際の面会環境を全部再現する必要はない。
むしろ、本番に近い要素を増やせば増やすほど、接続経路へ余計な情報が混ざる可能性もある。
「確認したいのは、管理受信点から実在世界側への一方向転送で、ルーク側に位置参照が伸びないことです」
「それ以外は入れない」
「はい」
主様が少し笑った。
「前なら、本番完全再現やりたがった?」
「……やったかもしれません」
「だよね」
「安全確認ですから、丁寧に!」
「でも丁寧と全部再現は違う」
「分かっております!」
ノルンは少しだけ頬を膨らませた。
それでも、否定しきれない。
以前の自分なら、本番と同じ部屋。
同じ椅子。
同じ停止用具。
同じ観察配置。
同じ時間帯。
できる限り全部そろえて「これなら安全」と確認しようとしていたかもしれない。
けれど、それでは試験のために本人の生活や選択まで先に再現することになる。
「今日は道だけ見ます」
「うん」
「通った先に、誰がいるかまでは作りません」
◇◇◇
午前の通常業務を終えたあと、ノルンはまずエリスへ連絡を取った。
『本日、世界側中継経路の最終確認を実施したいです』
『ミレイア様本人の参加は不要です』
『本番予定室も使用しません』
『観察区画内の空室を一時聴取点として借用し、室内無人で音声再生のみ確認します』
ほどなく返事が届く。
『了解』
『本人への追加説明は必要ですか』
ノルンは少し考える。
管理側が安全準備を進めること自体は、ミレイアにも説明済みだ。
今日は本人に何か選んでもらうわけではない。
参加も不要。
通常生活を中断する理由もない。
『本日は不要です』
『本人から進行状況を質問された場合のみ、管理側で安全確認中と回答してください』
『試験成功・失敗を即時報告する必要もありません』
エリスから短く了承が返った。
ノルンはそこまで確認してから、主様へ振り返る。
「本人へ言わないんだ」
「隠すのではありません」
「うん」
「ミレイア様が決める必要のない技術試験ですから」
「聞かれたら答える」
「はい」
安全の透明性と、管理作業の逐一報告は同じではない。
その区別も、最近何度も確認してきた。
◇◇◇
世界側で用意された空室は、普段エリスが資料整理に使うこともある小さな部屋だった。
白い壁。
細長い窓。
木製の机が一つと椅子が二脚。
棚には何も置かれていない。
本番時にミレイアが使う予定の場所とは別区画にあり、生活動線からも少し離れている。
エリスは室外から簡単な管理確認だけを行い、中には入らなかった。
部屋の中央には、管理側から送られた音声だけを一時的に再生する小さな中継具が置かれる。
こちらも名称情報を持たない。
場所の固有名も登録しない。
今日の試験が終われば、対応づけ自体を解除する。
管理領域側のノルンは、その世界側中継具が準備されたことを確認すると、監視項目を一つずつ並べた。
「第一受信点」
「正常」
「世界側中継点」
「待機状態」
「経路間の情報逆流遮断」
「有効」
「名称情報」
「なし」
「世界識別情報」
「音声転送層には含めない」
「位置参照監視」
「第一受信点、転送経路、世界側中継点の三段階」
主様と一緒に最終確認する。
「もし世界側中継点に位置参照が出たら?」
「即時終了です」
「第一受信点より強くなったら?」
「終了」
「情報逆流」
「微弱でも検出した時点で終了」
「境界負荷」
「既定値以上で終了」
「ルークの怖さ」
「六で申告、八停止。数値に関係なく本人から停止意思が出れば終了」
主様が頷く。
「じゃあ、本人説明」
「はい」
ノルンは一度手帳を閉じ、ルークとの接続を開いた。
◇◇◇
「ルーク」
淡い光が現れる。
『いる』
「今、お話ししてもよろしいですか?」
『いい』
少し間があって、
『昨日の続き?』
「別の試験です」
『止は終わった?』
「現時点では、必須の再試験は予定していません」
『できたから?』
「はい。技術的には確認できました」
淡い光が少し大きく揺れる。
『褒める?』
「昨日十分褒めました!」
『今日も』
「後で必要なら!」
ルークの光が楽しそうに揺れたあと、少しだけ静かになる。
『何する?』
「今日は、あなたの声を管理側が一度受け取ったあと、実際の世界側へ音声だけ送る試験です」
『ミレイア?』
「聞きません」
『いない?』
「はい」
ルークの反応が少し止まる。
『でも世界』
「はい」
『ミレイアいる世界?』
ノルンは答える前に少し間を置いた。
ここは説明が必要な部分だった。
「本番で使用する予定の世界側中継方式と同じ種類の経路を使います」
『それミレイア世界?』
「実際の世界側です。ただし、あなたへ世界名や場所情報は渡しません」
『ミレイアいる?』
「ミレイア様本人は試験地点にいません」
『聞かない』
「はい」
『どこか分からない』
「はい」
ルークの光がゆっくり揺れる。
『でも僕の声そこ行く』
「そうです」
『本番近い』
「技術的には、本番に近い試験です」
『怖い』
「今、いくつですか?」
『四』
ノルンは記録する。
「昨日より少し高いですね」
『世界行くから』
「はい」
『向こう近くなる?』
「それを確認します」
『嫌』
「試験をやめたいですか?」
しばらく返事がない。
『やる』
「分かりました」
『でも嫌ある』
「はい。そのまま記録します」
ノルンは続けて、今日の試験条件を説明した。
「言う内容は、昨日の本番候補とは関係のない試験用語にします」
『こんにちは?』
「それも本番候補に近いので使いません」
『じゃあ何』
「『確認します』でどうでしょう」
『固い』
「安全試験でございます!」
『ノルンっぽい』
「どういう意味ですか」
『そのまま』
「……では採用します」
主様が隣で小さく笑っている。
「今回は一度だけ発話します」
『一回』
「はい」
『もう一回言わない』
「問題がなければ、今日は一回で終わります」
『嫌』
「はい」
『でも一回』
「はい」
『分かった』
「声を出している途中で止めたくなれば?」
『止』
「覚えていますね」
『うん』
「音声と文字は今日も同時に開きます」
『怖さ六言う』
「はい」
『八止める』
「はい」
ノルンは一度呼吸を整えた。
「この試験へ参加されますか?」
ルークの光が静かになる。
数秒。
それから、
『やる』
と文字が浮かんだ。
◇◇◇
接続準備が始まった。
第一受信点が開く。
ルーク側との音声経路がつながる。
文字接続も維持。
管理側の第一受信点から、世界側中継点へ伸びる一方向転送経路は、まだ閉じている。
「今の怖さは?」
『四』
「負荷感は?」
『普通』
「位置感覚は?」
『ノルンの向こう』
「第一受信点だけですか?」
『たぶん』
「分かりました」
ここまでは昨日までと同じだった。
次に、管理側から世界側への音声転送経路だけを開く。
ただし、まだルークは声を出さない。
監視表示が一斉に動く。
『第一受信点位置参照――既定範囲』
『転送経路位置参照――なし』
『世界側中継点位置参照――なし』
『名称参照――なし』
『情報逆流――なし』
『世界識別逆流――なし』
『境界反応――平常範囲』
ノルンは表示を見ながら、ルークへ問いかける。
「何か変わりましたか?」
『……』
「ルーク?」
『何かある』
ノルンの指が停止操作へ寄る。
「何が分かりますか?」
『向こう』
「第一受信点とは別ですか?」
『分かんない』
「近いですか?」
『少し』
主様も監視表示を見ている。
数値上、世界側中継点への位置参照は出ていない。
けれどルーク本人には、何かが増えた感覚がある。
「怖さは?」
『五』
ノルンはすぐ発話へ進まなかった。
「いったん転送経路だけ閉じます」
『まだ言ってない』
「はい。今の感覚を確認します」
世界側への転送経路を閉じる。
表示が戻る。
「今は?」
少し間がある。
『減った』
「『向こう』の感じが?」
『うん』
ノルンと主様が目を合わせる。
「数値には出てない」
主様が小さく言う。
「はい」
位置参照として検出できるほどではない。
けれど、ルーク側には「何か先がある」ような感覚が生まれている。
これは無視してはいけない。
「主様」
「うん」
「このまま発話試験まで進むべきでしょうか」
「ノルンは?」
また問い返される。
ノルンは少し考えた。
怖さは五。
安全基準内。
負荷も正常。
位置参照は検出されていない。
技術的には続行できる。
でも、今日初めて分かった本人の感覚がある。
その意味を確認せず、予定していたからと発話まで進める必要はない。
「今日は、ここで止めても試験として意味があります」
「うん」
『言わない?』
ルークの文字が出る。
ノルンは正直に答える。
「迷っています」
『何で』
「ルークが、世界側経路を開いただけで『何かある』『少し近い』と感じたからです」
『危ない?』
「今のところ数値上の危険は出ていません」
『じゃあやる』
「そう簡単には決めません」
『嫌』
「はい」
『でも僕やる』
「参加意思は分かりました」
ノルンはルークの希望を受け取りつつ、管理側の責任も切り離さない。
「もう一度だけ、転送経路を開いて、発話せず感覚の再現性を確認してもよろしいですか?」
『それで終わる?』
「そこで同じ感覚が強く出るなら、今日は発話しない可能性があります」
『嫌』
「はい」
『でも分かった』
「ありがとうございます」
◇◇◇
二度目。
第一受信点への接続は維持したまま、世界側転送経路だけを再び開く。
数値は先ほどと同じだった。
位置参照なし。
名称参照なし。
逆流なし。
境界負荷なし。
「ルーク?」
『ある』
返事は早かった。
「同じ感じですか?」
『うん』
「強さは?」
『少し』
「第一受信点より先に何かあると感じますか?」
『たぶん』
「場所は分かりますか?」
『分かんない』
「方向は?」
『分かんない』
「世界は?」
『分かんない』
「人がいる感じは?」
『ない』
「ミレイアを感じますか?」
少し間がある。
『ない』
ノルンはそこを慎重に記録する。
世界側の具体的位置。
方向。
人物。
名称。
どれも分からない。
ただ、「第一受信点の先にも何かがある」という程度の感覚だけが生じる。
「怖さは?」
『五』
「増えてはいませんね」
『うん』
ノルンはさらに少し考えた。
この程度の感覚が本番時に発生するなら、ルークに事前説明しておく必要はある。
本人が「世界へ声が届く」と知っている以上、完全に何も感じないことだけを安全条件へする必要もない。
問題は、その感覚が位置特定や人物特定につながるかどうかだ。
現時点では、そこまでは起きていない。
「主様」
「うん」
「一度だけ発話まで進めたいです」
「理由は?」
「経路を開いただけでこの感覚が出るなら、音声を実際に通した時に強くなるか確認しないと、本番可否を判断できません」
「怖さ五」
「はい」
「ルーク本人は?」
ノルンはルークへ戻る。
「今の状態で、一度だけ発話試験を続けたいですか?」
『やる』
「怖さが六へ上がったら?」
『言う』
「途中で嫌になったら?」
『止』
「分かりました」
主様も頷いた。
「じゃあ、一回だけ」
「はい」
◇◇◇
管理室の空気が少しだけ張りつめる。
世界側では無人の空室が静かに待っている。
窓から入る昼前の光が床へ細長く落ち、机の上に置かれた中継具だけが微かな光を帯びていた。
そこには誰もいない。
エリスも室外にいる。
ミレイアは別の場所で、今日も自分の日常を過ごしている。
ノルンはその事実を意識しながら、ルークへ伝えた。
「発話は『確認します』です」
『うん』
「一度だけです」
『うん』
「現在の怖さは?」
『五』
「続けますか?」
『やる』
「ではお願いします」
淡い光が揺れる。
数秒後。
「……確認します」
ルークの声が第一受信点へ届く。
管理側で受け取られた音声情報だけが、そのまま世界側中継経路へ流れる。
無人の空室。
小さな中継具。
そこから、ほんのわずかな遅れを伴って同じ声が再生された。
「……確認します」
誰もいない部屋に、若く静かな声が一度だけ響く。
窓の外では木の葉が風に揺れ、遠くで鳥の声が聞こえていた。
その日常の音の中へ、世界の外側にいるルークの声が混ざる。
管理側では同時に監視表示が更新された。
『第一受信点位置参照――微弱』
『転送経路位置参照――検出なし』
『世界側中継点位置参照――検出なし』
『名称参照――なし』
『人物参照――なし』
『情報逆流――なし』
『世界識別逆流――なし』
『音声外情報混入――なし』
『境界反応――軽微上昇/安全範囲』
『管理領域負荷――軽微』
『外在個体側負荷――軽微上昇』
ノルンは表示を確認しながら、予定どおり一言終了と同時に世界側転送を閉じた。
続いて第一受信点も閉じる。
文字接続だけを短く残す。
「ルーク」
『いる』
「今の怖さは?」
少し間がある。
『六』
ノルンの表情が変わる。
「上がりましたね」
『うん』
「苦しいですか?」
『ない』
「近さは?」
『さっきよりある』
「場所が分かりますか?」
『分かんない』
「方向は?」
『分かんない』
「人は?」
『いない』
「ミレイアは?」
『分かんない』
「名前は浮かびますか?」
『考えた』
ノルンの指が一瞬止まる。
「接続側から浮かびましたか。それとも、自分でミレイア様を思い出したという意味ですか?」
少し間がある。
『僕が思った』
「分かりました」
ここは重要だった。
声が世界へ届いたことで、ルーク自身がミレイアを思い浮かべた。
でも接続経路から名称が与えられたわけではない。
「今の『近い』は、昨日の模擬試験より強いですか?」
『うん』
「どれくらい?」
『少しだけ』
「場所を探したい気持ちは?」
しばらく返事がなかった。
『ある』
ノルンは黙って待つ。
『でも探さない』
「なぜですか?」
『約束』
淡い光が静かに揺れる。
『ミレイア場所知らない』
「はい」
『知らないまま』
「守れますか?」
『うん』
ノルンの胸の奥に、少しだけ安堵が広がる。
ただし、これで安全と即断はしない。
「怖さ六ですので、今日はここで終了します」
『もう一回なし』
「ありません」
『嫌』
「はい」
『でも終わる』
「はい」
『分かった』
その返事が出たところで、ノルンは文字接続も閉じた。
◇◇◇
試験後の監視には、予定より長く時間を取った。
第一受信点への微弱位置参照は接続終了とともに消失。
世界側中継点には、最後まで測定可能な位置参照は出なかった。
名称参照なし。
人物参照なし。
情報逆流なし。
世界識別情報の流出なし。
境界反応も基準値へ戻った。
けれど、技術表示だけでは記録できないものが一つ残った。
ルーク本人の感覚。
世界側経路を開くだけで、「第一受信点の先に何かある」と感じる。
実際に声を通すと、その感覚は少し強くなる。
場所も。
方向も。
人物も。
名称も分からない。
でも「声が世界のどこかへ届いた」という近さは感じる。
「主様」
「うん」
「これを安全と判断してよいでしょうか」
「ノルンは?」
今日何度目かの問い返しだった。
ノルンは少しだけ苦笑しそうになるのを抑え、真剣に考えた。
危険な位置参照は出ていない。
ミレイア本人への識別もない。
ルークが位置を探せる状態でもない。
しかし、完全に何も感じない方式ではない。
「本番前に、ルークへ明確に説明する必要があります」
「何を?」
「一言を世界側へ届けると、今までより『近い』と感じる可能性があること」
「うん」
「でも、それはミレイア様の位置が分かることではない」
「うん」
「そして、その感覚が怖さを上げる可能性がある」
「今日五から六へ上がった」
「はい」
ノルンは記録へ線を引く。
「本番当日は、ルーク側の開始前怖さが高い場合、実施を見送る条件が必要です」
「具体的に?」
「まだ固定しません」
「理由は?」
「今日六へ上がったのは発話後です。開始前がいくつなら危険か、今日だけで数値を決めるのは早いです」
六で申告。
八で停止。
この基本は維持する。
ただし、開始前から六ならどうするか。
それは本番設計として、改めてルーク本人とも相談した方がよい。
「じゃあ、この試験は成功?」
主様が尋ねる。
ノルンはすぐには頷かなかった。
「技術的には、必要な確認は取れました」
「でも?」
「『問題なし』と一行で終わらせたくありません」
ノルンは少し考えてから、言葉を選んだ。
「世界側中継方式は、本番候補として継続可能です。ただし、ルーク本人には世界側へ届くことで近さが増す感覚があり、怖さも上昇します。それを含めて事前説明と当日判断が必要です」
「うん」
「つまり、安全装置だけの問題ではなくなりました」
「本人の感覚も条件に入る」
「はい」
最終試験をすれば、きれいに「全部安全」と言える。
どこかでそう期待していた自分がいたことを、ノルンは認めた。
でも現実は、完全な無反応ではなかった。
技術上は安全範囲。
感覚上は、本番に近づいたぶん怖さが上がる。
その両方が結果だった。
◇◇◇
昼食後、ノルンはエリスから通常記録を受け取った。
『本人、午前中通常生活』
『体調変化なし』
『面会準備に関する追加質問なし』
ノルンはしばらく画面を見つめた。
今日の試験は終わった。
大きな安全確認は、予定していた三つすべて実施したことになる。
停止用具。
ルーク側停止信号。
世界側中継経路。
だからといって、この瞬間に日付相談へ進める必要はない。
「今日は聞かない?」
主様が隣から尋ねる。
「はい」
「準備終わったって」
「今日の結果を整理してからです」
「うん」
「それに、ルークの怖さが六まで上がりました」
「まずそっち」
「はい」
ミレイアへ日付相談を始める前に、ルーク側にも今日の感覚をもう一度確認する必要がある。
ルークも当事者だ。
ミレイアの希望が整ったからという理由だけで日付を進めてよいわけではない。
「今日の試験を受けて、ルークがまだ一言接続を望むか」
「再確認?」
「少し違います」
ノルンは考えながら言葉を整える。
「毎回『本当に会いたいですか』と聞き直すのではありません」
「じゃあ?」
「今日新しく分かった条件を説明した上で、本番設計へ進めてよいかを確認します」
「なるほど」
意思を最初からやり直すのではない。
新しい情報が増えた時、その情報を知った本人がどう判断するかを確認する。
「ミレイア様側にも」
ノルンは続けた。
「世界側中継は技術的に通ったこと。ただし、ルーク側に『近い』感覚が少し増え、怖さが上がること。それをどこまで伝えるか整理したいです」
「ルークの細かい感情を勝手に伝えない」
「はい」
本人同士の感情情報は、必要以上に共有しない。
ただし、安全構造に関わる事実は伝える必要がある場合もある。
「そこも明日以降です」
「今日は終わり?」
「今日は試験の余韻を置きます」
主様が微笑む。
「ノルンが余韻って言うようになった」
「小説ではありません!」
「でも大事でしょ」
「……大事です」
◇◇◇
夕方近く。
ルーク側から接続要求が来た。
『ノルン』
ノルンは少しだけ迷ったが、すぐ接続を開く。
「今、少しなら大丈夫です」
淡い光が現れた。
『怖さ四』
最初の文字がそれだった。
ノルンは少し目を見開く。
「先に教えてくださったのですね」
『うん』
「六から下がりましたか」
『うん』
「体調に変な感じは?」
『ない』
「『近い』感覚は?」
少し間がある。
『もうない』
「完全に?」
『たぶん』
「場所が残っている感じも?」
『ない』
「分かりました」
ノルンは一つずつ記録する。
『でも』
「はい」
『声行った』
「はい」
『世界に』
「そうです」
『本番もっと怖い?』
ノルンはすぐ答えなかった。
「可能性はあります」
『ミレイア聞くから』
「はい」
『今日誰もいない』
「そうです」
『でも六』
「はい」
ルークの光が静かになる。
『本番八なる?』
「分かりません」
『止まる?』
「八なら止めます」
『七は?』
「その時の状態を見ます」
『僕嫌言ったら?』
「数値に関係なく止めます」
『分かった』
少し間がある。
『でもやりたい』
ノルンはその文字を見つめる。
「今日の試験を経験したあとでも?」
『うん』
『怖い増える』
「はい」
『でも声聞いてほしい』
「はい」
『両方』
「はい」
ノルンは静かに頷いた。
「では、本番準備へ進めてもよいですか?」
あえて言葉を変えた。
会いたいか、ではない。
今日分かった新しい感覚を知った上で、次の準備へ進むかどうか。
ルークの光がしばらく揺れる。
『進む』
「分かりました」
『でも』
「はい」
『日付すぐ?』
「すぐ決めるとは限りません」
『嫌』
「早く決めたい?」
『うん』
それから少し遅れて、
『怖い』
が浮かぶ。
ノルンは少しだけ笑った。
「両方ですね」
『うん』
『褒める?』
「今日、世界側へ実際に声を送ったあと、怖さ六まで上がったことをきちんと申告できました」
『もっと』
「接続後、自分の状態を確認して四まで下がったことを教えに来てくださったのも助かりました」
『もっと』
「本番でも怖さが上がるかもしれないと、ご自分で考えられたことも大切です」
『もっと』
「いつまで続けるのですか!」
『日付決まるまで』
「長すぎます!」
ルークの光が大きく揺れる。
しばらく笑うような揺れが続いたあと、もう一度文字が出た。
『一言』
「はい」
『まだ決めない?』
「内容ですか?」
『うん』
「今日は決めません」
『よかった』
「ルークから言ったのに安心するのですね」
『今日ごめん無理』
ノルンの表情が少し変わる。
「今は『ごめん』を言うことを想像すると怖いですか?」
『うん』
『世界行っただけで六』
「はい」
『ごめんもっと怖い』
「そう感じるのですね」
『こんにちはも怖い』
「はい」
『でも少しまし』
その差も記録する。
最初の一言は、いよいよ本番が近づいた今、以前より重みを増している。
だからこそ、早く決めない方がよい。
「日付相談へ入っても、一言の内容を同時に決める必要はありません」
『別?』
「はい」
『日付決めてからでも?』
「可能です」
『その日まで?』
「直前に慌てない範囲で、別に考えましょう」
『分かった』
『それ安心』
ノルンは頷いた。
「今日はここまでにします」
『うん』
『ノルン』
「はい」
『進む』
もう一度、同じ文字が浮かんだ。
ノルンは今度こそ、少しだけ柔らかく微笑む。
「はい。記録しておきます」
◇◇◇
その夜、ミレイアは今日も面会準備について新しい説明を受けなかった。
午前も午後も、エリスから聞かれたのは睡眠や食事、体調などいつものことだけだった。
昨日と同じ。
何も聞かされない一日。
けれど、今日は少しだけ違った。
自分の中で、気になる気持ちが昨日より強かった。
残り二つの確認。
どちらかは終わったのだろうか。
まだなのだろうか。
ミレイアは夕食を終え、自室へ戻る途中で何度かエリスへ聞こうかと思った。
でも、そのたびにやめた。
聞いてはいけないからではない。
知りたくなったら聞いていいと言われている。
それでも今日は、自分が本当に知りたいのか、それとも「気になるから確認しなければ」と思っているだけなのか、少し見分けたかった。
部屋へ戻り、窓を開ける。
夜風が入ってきた。
外では木々が静かに揺れている。
ミレイアは窓辺の椅子へ座り、膝の上へ両手を重ねた。
「……聞けばよかったかな」
小さく呟く。
少しだけ後悔する。
でも、まだエリスを呼ぶほどではない。
明日になっても気になるなら、その時聞けばいい。
そう思える。
以前なら、答えを知らないまま夜を過ごすこと自体が落ち着かなかったかもしれない。
今は、分からないまま一晩置くこともできる。
ただし、気にならなくなったわけではない。
「あと二つ」
数日前に聞いた言葉を思い出す。
その数が今も同じかは分からない。
もし一つ減っていたら。
もし全部終わっていたら。
次は日付相談だ。
胸が少し強く打つ。
ミレイアは無意識に右手を閉じた。
停止用具を握る時と同じ動作。
手の中には何もない。
それでも、その動作だけで少し落ち着く。
「聞きたい」
自分の気持ちを確かめるように言う。
今日はエリスへ言っていない。
誰にも聞かれていない。
それでも声にしてみた。
「怖い」
続ける。
どちらも変わっていない。
準備の数を知らなくても。
日付がまだなくても。
その二つは、自分の中に残っている。
ミレイアは窓から入る夜風を受けながら、ゆっくり息を吐いた。
明日、もし日付の話が来たら。
決められるかどうかは分からない。
でも、話を聞くことはできる気がした。
その程度の答えで、今夜は十分だった。
◇◇◇
管理領域では、ノルンが一日の最終記録をまとめていた。
本番用世界側中継経路。
本人不在。
本番予定室不使用。
無人空室で音声のみ転送。
第一受信点から世界側中継点まで、位置参照検出なし。
名称参照なし。
人物参照なし。
情報逆流なし。
世界識別情報逆流なし。
音声以外の情報混入なし。
残留なし。
ただし、転送経路を開くとルーク本人に「第一受信点の先に何かある」「少し近い」という感覚が発生。
発話後、その感覚はわずかに増加。
場所・方向・人物・名称の特定は不可。
ミレイア本人の感知なし。
試験前怖さ四。
経路開放後五。
発話後六。
接続終了後、時間経過で四へ低下。
後刻ルーク本人より、本番準備継続希望を明確に確認。
ノルンは最後まで書き終え、手を止めた。
「主様」
「何?」
「予定していた大きな安全確認は、全部終わりました」
「うん」
その言葉を口にすると、管理室の空気が少し変わったように感じた。
実際には何も変わっていない。
照明も。
記録の流れも。
主様のカップも。
けれど、ここまで何話もかけて積み上げてきた準備が、ひとまず一つの地点へ到達した。
ミレイアは、一言だけ聞く方法を選んだ。
止める方法を実際に手へ持った。
聞いたあと、何も話さなくてもよい場所を選んだ。
ルークは、自分も途中で止められると知った。
実際に「止」を使った。
言い切れなかったことを嫌がり、それでも後から「自分で止めた」と受け止め直した。
今日、声は初めて実際の世界側へ届いた。
誰も聞いていない部屋へ。
位置を渡さず。
名前を渡さず。
人をつながず。
それでも、ルークには「近い」という感覚が少し生まれた。
完全に何も起きない方法ではなかった。
だから、そのことも含めて本番へ持っていく。
「明日、日付相談を始めますか?」
主様が尋ねる。
ノルンはすぐには答えなかった。
ミレイア自身が、準備が整ったら管理側から日付相談を始めてほしいと希望している。
ルークも、今日新しく分かった怖さを含めて「進む」と答えた。
管理側の大きな安全確認も、ひとまず終わった。
条件は揃っている。
「明日の朝、双方の通常状態に大きな変化がなければ」
ノルンはゆっくり答えた。
「ミレイア様へ、日付相談を始めてもよいかを伝えます」
「『会いますか』じゃなく?」
「はい」
「『今日決めてください』でもなく?」
「はい」
「日付を相談する段階へ入れることを伝える」
「そうです」
日付相談の開始。
それ自体も、一つの段階だ。
その場で決められなくてもいい。
候補日を見て怖くなり、また後日にしてもいい。
当日になって中止してもいい。
それらを消さずに、具体的な日付を考える。
「主様」
「うん」
「少し緊張しております」
「ノルンが?」
「はい」
「何で?」
ノルンは少し考えた。
「ここまで、ずっと『まだ決めなくていい』を守ってきたからだと思います」
「うん」
「今度は、こちらから『そろそろ日付を考えられます』と伝える番です」
「怖い?」
「少し」
「でも?」
ノルンは主様を見た。
主様がわずかに笑っている。
「……進めたいです」
「両方」
「はい」
今度は素直に答えた。
ノルンは手帳を閉じる。
今日の試験は、完全な無反応という意味での理想的な結果ではなかった。
ルークには近さが生まれた。
怖さも六まで上がった。
それでも、場所は分からない。
名前も分からない。
人物も特定できない。
接続を閉じれば、その感覚も消える。
そして本人は、その条件を知った上でまだ進みたいと答えた。
安全とは、何も感じなくすることではない。
怖さをゼロにすることでもない。
全部の不確定を消すことでもない。
何が起きるかをできる範囲で知り、止められる道を持ち、終わったあと戻れる場所を用意した上で、それでも本人が選べることなのだと思う。
ノルンは管理室の照明を落とす前に、明日の予定欄へ一行だけ書き込んだ。
『双方状態確認後、ミレイアへ日付相談開始を提示』
書いてから、少しだけ胸が高鳴る。
一言の日は、まだ決まっていない。
けれど、とうとう「安全確認が終わるまで待つ」という段階は越えた。
次に必要なのは、準備を増やすことではない。
本人へ、選べるところまで来たと返すことだった。
日付を決めるか。
今日はまだ決めないか。
候補だけ見るか。
それすら後日にするか。
そこから先は、またミレイアの時間になる。
ノルンは静かに最後の表示を閉じた。
明日、管理側はようやく扉を開く。
通るよう押すためではない。
ここまでなら安全に歩けると示した上で、その扉の前に立つかどうかを、もう一度本人自身へ返すために。




