第三十七話 十三年待った昔の観察官が「おかえり」とだけ言った理由を、少し考えてみることにしました
翌朝、ノルンが管理室の扉を開いた時、主様はいつもの席で温かな飲み物を口にしていた。
朝を模した淡い光が天井から降り、白い床を柔らかく照らしている。壁際の世界記録も静かに動き続けており、古代記録用の閲覧台には何も浮かんでいない。一見すると、ここ数日の中ではかなり穏やかな朝だった。
しかし、主様の机の中央には薄い複製記録板が一枚置かれている。
ノルンは扉を閉じ、そちらへ向かいかけた足を一度止めた。何が復元されたのか気にならないわけではない。むしろ、今すぐ駆け寄って確認したいくらいだったが、その前にやることがある。
「おはようございます、主様」
「おはよう、ノルン」
「朝食は?」
「食べたよ」
「睡眠時間は?」
「七時間二十九分」
ノルンの表情がぱっと明るくなった。
「素晴らしいです!」
「今日はかなり自信ある」
「昨日より十二分も増えております!」
「そこまで把握してるんだ」
「当然です。継続的な健康管理には比較が必要ですので」
「僕の睡眠時間が世界記録みたいに管理され始めてる」
「ご安心ください。手帳へは記録しておりません」
「今のところ?」
「……必要になれば」
「やめてね」
「承知致しました」
少し残念そうに答えると、主様が苦笑した。
「ノルンは?」
「朝食済み、睡眠時間七時間十一分です。一度も目を覚ましておりません」
「優秀」
「ありがとうございます!」
「古代記録を読まない方がよく眠れるんじゃない?」
「それは否定できません」
「即答なんだ」
「ですが、気になるものは気になります!」
そこでようやく、ノルンは机の中央へ置かれた複製記録板へ視線を戻した。
「昨夜も、復元されたのですね」
「うん」
「第一接続者関連ですか?」
「昨日の長期保留の続き」
その一言で、ノルンはすぐに何のことか理解した。
昨日、第一接続者が内部観察補助制度で行った第三改訂について確認した。保留という回答に対し、管理側が一年や三年という再確認時期を定めた結果、待たれる側にとって、それが『回答期限』として感じられてしまったという記録だ。
その失敗を受けて作られたのが、
『再確認時期――対象個体指定』
『本人希望時、期限設定なし』
『管理側からの再確認を希望しない場合、その意思を保持』
という仕組みだった。
さらに、
『待つとは、相手へ期限を渡すことではない』
『戻ってこられる場所だけを残すこと』
という補足も見つかっている。
その言葉を読んだノルンは昨日、ルークへ一つ新しいことを伝えた。
待っている間も笑っていい。別のことを考えていい。九人のことを一日中考え続けなくてもいい。相手が戻ってきた時に話せる場所さえ残しておけば、待つ側も自分の時間を過ごしてよいのではないか。
ルークは少し考えたあと、『今決めない』と、自分から新しく覚えた選択を使った。
「主様」
「うん」
「昨日の記録の続きということは、第一接続者が実際に誰かを長く待った記録でしょうか」
「みたいだね」
「どれくらい?」
「そこも読める」
「……非常に気になります」
「朝ご飯は?」
「いただきました!」
「水分は?」
「こちらに!」
ノルンは自分用のカップを持ち上げて示した。
「疲れたら?」
「休憩致します!」
「よろしい」
「では!」
「まだ座ってないよ」
「……」
勢いよく記録板へ手を伸ばしかけた姿勢のまま、ノルンが止まる。
それから何もなかったような顔を作り、ゆっくり椅子へ腰を下ろした。
「着席致しました」
「うん」
「主様」
「何?」
「最近、細かいです」
「ノルンが細かくなったからね」
「良い影響です!」
「自分で言うんだ」
そんなやり取りを挟んだあと、主様が複製記録板を開いた。
◇◇◇
『内部観察補助一号・長期保留対象運用記録』
題名の下には、すでにかなりの範囲まで復元された記録が並んでいた。
『対象個体――識別情報一部欠損』
『回答状態――保留』
『再確認――本人からの連絡を希望』
『管理側からの再確認――不要』
ノルンはそこまで読んで、昨日自分達が受け取った回答を思い出した。
『本人から連絡予定』
『管理側からの再確認不要』
ほとんど同じだった。
以前なら第一接続者との一致に驚いていただろう。けれど今のノルンは、それだけで自分と昔の誰かを重ねたりはしない。
「第一接続者の時代にも、同じ回答をされた方がいたのですね」
「うん」
「そのあとを見ます」
記録を進める。
『一年経過』
『対象記録確認』
『接触なし』
『二年経過』
『対象生活安定』
『接触なし』
『三年経過』
『対象記録確認』
『接触なし』
「……三年」
「まだ続くよ」
『五年経過』
『本人からの連絡なし』
『管理側接触なし』
『七年経過』
『対象生活安定』
『接触なし』
ノルンは読み進めるうちに、少しずつ眉を寄せていった。
「第一接続者は、毎年確認しております」
「そうだね」
「本人へは接触していない。催促もしていない。ですが……」
記録へ視線を落としたまま、ノルンは小さく息を吐いた。
「毎年、その方だけを見に行っております」
「そこが問題になったみたい」
さらに記録が続く。
『管理責任者指摘』
『本人への再確認は実施していないが、内部観察補助一号による個別記録確認頻度が通常対象を大幅に上回る』
『当該個体の回答変更を期待した継続観測である可能性』
『本人意思への直接干渉なし』
『ただし、内部観察補助側の待機状態固定を確認』
「待機状態固定……」
ノルンはその言葉を小さく繰り返した。
「相手を急かしてはいない。でも、第一接続者自身が、ずっと待つ場所へ残ってしまった」
「そう読めるね」
昨日、ノルンは待つ側も自分の時間を過ごしてよいのではないかと考えた。
けれど第一接続者は、最初からそこまで辿り着いていたわけではないらしい。
本人へ聞かないことはやめた。何度も聞くこともやめた。期限を渡すこともやめた。それでも今度は、相手には何も求めていないのに、自分がずっと『戻ってきたかもしれない相手』へ意識を置き続けた。
「主様」
「何?」
「これ、悪いことなのでしょうか」
「どうしてそう思う?」
「本人へ迷惑を掛けておりません。接触もしていない。生活を勝手に変えたわけでもございません。ただ……気にしていただけです」
誰かが戻ってくるかもしれない。だから時々様子を見る。
それくらいなら、むしろ優しさのようにも思える。
主様はすぐには答えず、複製記録板へ一度目を落とした。
「悪い、とは書いてないね」
「はい」
「ただ、第一接続者自身の時間が、その人の返事に引っ張られてたんじゃないかな」
「……」
「毎年、戻ったかなって見る。今年はどうだろう。来年はどうだろうって。その人が何も求めてないのに、待つ側だけがずっと答えの前に立ってる」
ノルンは黙った。
それは昨日までのルークにも、少し似ている。
九人へ催促しない。覗かない。答えを変えようともしない。けれど、もしルークが毎日『今日は?』『返事は?』『誰か戻った?』と、それだけを考え続ければ、九人へ何もしていなくてもルーク自身はずっとそこで止まってしまう。
「待つ相手へ圧力を掛けなければ、それで終わりではないのですね」
「たぶん」
「待つ側も、待つことだけに全部を使わなくていい」
「そういうことだと思う」
ノルンは手帳を開き、すぐに何かを書こうとした。
けれど、筆先が紙へ触れる直前で止める。
「……まだ書きません」
「お」
「先を見ます」
「成長」
「はい!」
「そこは返事するんだ」
「褒めてくださいましたので!」
少しだけ空気が和らぎ、二人は続きを読んだ。
◇◇◇
『内部観察補助一号、指摘を受領』
『当該対象個体に対する定期個別確認を停止』
『通常観察対象と同一確認頻度へ変更』
『本人からの連絡経路のみ保持』
ノルンの目が少し大きくなる。
「やめました」
「うん」
「毎年見ることを、本当に」
「補足があるよ」
『内部観察補助一号・個人記録』
『最初は不安』
その言葉を見て、ノルンの表情が柔らかく変わった。
『確認しない間に何か起きるのではないかと考える』
『本人が戻りたいと思った時、こちらが気づけないのではないかと考える』
『連絡経路は維持されている』
『本人から連絡可能』
『私が毎年確認する必要はない』
最後まで読み終えると、ノルンは少し笑った。
「第一接続者、かなり自分へ言い聞かせております」
「そうだね」
「私もやりそうです」
「僕もそう思う」
「そこは否定してください!」
「でもノルン、確認したくなるでしょ?」
「……なります」
「だよね」
「はい」
もし今、『本人から連絡するまで再確認不要』と答えた転生者が一年間何も言わなかったら。
ノルンは、きっと気になる。
二年。三年。
今どう思っているのか。生活は大丈夫なのか。何か困っていないのか。
そして、その好奇心や心配へ『安全確認です』という名前を付ければ、確認するためのもっともらしい理由にもできてしまう。
「主様」
「うん」
「非常に危険です」
「何が?」
「管理側は、大抵のことを『必要な確認です』と言えてしまいます」
主様の表情が少しだけ真面目になった。
「そうだね」
「安全確認。記録更新。状況把握。どれも必要そうに聞こえます」
「実際に必要な場合もある」
「はい。だから余計に難しいです」
本当に必要な確認と、自分が気になるだけの確認。
管理する側が、自分自身でその二つを区別しなければならない。
第一接続者も、そこで何度も迷ったのだろう。
「主様」
「何?」
「私、観察官という仕事が少し怖くなってきました」
「辞めたい?」
「いいえ」
ノルンはすぐに首を横へ振った。
「怖いと知っていた方がよい気が致します」
見る権限がある。知る手段がある。近づく力も、聞く立場もある。
だからこそ、できることを全部してよいとは限らない。
「その感覚は、僕も忘れない方がいいと思う」
「主様も?」
「僕の方が、ノルンよりずっとできることが多いからね」
「……」
言われてみれば、当然だった。
主様は世界管理者であり、ノルンよりはるかに大きな権限を持つ。
「では、主様も定期的に確認致します」
「何を?」
「権限を使いすぎていないか」
「ノルンが?」
「はい」
「誰が僕の上司なんだろう」
「主様です」
「だよね」
「ですが、間違えたら申し上げます。遠慮なく」
「少しは遠慮して」
「善処致します」
「しない顔だね」
ノルンは少しだけ笑った。
◇◇◇
第一接続者が個別確認をやめたあと、記録上の時間は大きく飛んでいた。
『八年経過』
『対象個体――通常観察範囲内』
『生活安定』
『十年経過』
『特記事項なし』
そして。
『十三年経過』
そこで、ノルンの視線が止まる。
「十三年」
「うん」
記録は次の瞬間、短い文章へ変わった。
『対象個体より連絡あり』
ノルンの呼吸が僅かに浅くなる。
「戻って……」
「きたみたい」
『連絡内容』
『話したい』
たった四文字だった。
けれど、そこへ至るまでに十三年ある。
誰にも急かされず。管理側から何度も確認されることもなく。本人自身が、自分の時間で選んだ言葉だった。
ノルンはしばらく何も言えなかった。
「主様」
「うん」
「十三年です」
「うん」
「第一接続者は、その時、何をしていたのでしょう」
「そこも残ってる」
補助記録が表示される。
『内部観察補助一号――第三区域観察業務中』
『連絡受信後、担当引継ぎ実施』
『対象個体との面談準備』
「別の仕事をしていたのですね」
「そうだね」
「待機していなかった」
「うん」
その人のために十三年間立っていたわけではない。
仕事をした。別の対象を見た。おそらく、また失敗もした。制度を直した日も、怒った日も、笑った日もあっただろう。忙しさの中で、待っている相手のことを何日も思い出さなかったことさえあったかもしれない。
それでも連絡は届いた。
第一接続者は、その知らせを受け取って戻った。
ノルンは少し緊張しながら、次の記録へ視線を移す。
『内部観察補助一号、対象個体へ応答』
そして。
『おかえり』
「……」
管理室が静かになった。
ノルンはその文字を一度読み、それからもう一度ゆっくり読んだ。
十三年。
それだけ待ったのに、『遅かった』ではない。
『待っていました』でも、『ようやくですね』でもない。
ただ。
『おかえり』
「主様」
「うん」
「これだけですか」
「応答として記録されてる最初の言葉はね」
ノルンは唇を少しだけ結んだ。
「ずるいです」
「何が?」
「第一接続者です」
「どうして?」
「こんな良い言葉を、急に残さないでくださいませ」
「本人は一万八百年後に読まれるつもりなかったと思うよ」
「それは分かっております!」
少し大きな声が管理室へ響く。
けれど、ノルンの目の奥には少し熱いものがあった。
「十三年ですよ」
「うん」
「十三年待って、それなのに、待った年数を相手へ渡しておりません」
主様の目が僅かに細くなる。
「そうだね」
「『十三年待ちました』と言えば、戻ってきた方は負担に思ったかもしれません」
「うん」
待っていたことは事実。
けれど、その十三年は第一接続者自身が選んで過ごした時間でもある。
それを戻ってきた人へ、『あなたのために使いました』と渡さない。
「おかえり」
ノルンは小さく、もう一度口にした。
「戻ってきたことだけを、受け取った」
「そう見える」
ノルンは一度目を閉じた。
第一接続者が最初からそんな待ち方を知っていたわけではない。
毎年確認した。気にした。戻るかどうかを見た。管理責任者に指摘されてやめた。やめたあとも、不安だった。それでも個別確認を再開せず、自分の仕事へ戻った。
そうして十三年が経った。
「主様」
「何?」
「私、第一接続者がまた好きになりました」
「失敗してるところも込みで?」
「はい」
「もうかなり好きだね」
「はい!」
「自分の構造元かもしれない人をここまで推すの、ちょっと面白いね」
「推す?」
「何でもない」
「主様?」
「続きを整理しようか」
「誤魔化しましたね!」
少し笑えた。
目の奥に残っていた熱も、それで少しだけ和らいだ。
◇◇◇
十五分の休憩を挟んだあと、ノルンは今日分かった内容を手帳へ整理した。
『長期保留対象――本人からの連絡待ち』
『第一接続者、管理側からの接触は停止したが、毎年対象記録を個別確認』
『管理責任者より、回答変更への期待を伴う待機状態固定の可能性を指摘』
『第一接続者、定期個別確認を停止』
『通常観察対象と同一頻度へ変更』
『本人からの連絡経路のみ保持』
少し考え、さらに続きを記す。
『その後十三年間、本人からの個別連絡なし』
『第一接続者は別業務を継続』
『十三年後、本人から「話したい」と連絡』
『第一接続者、最初の応答――「おかえり」』
最後の一行を書き終えたところで、ノルンの筆が止まった。
「主様」
「何?」
「『待つ』について、昨日より少しだけ分かった気が致します」
「書く?」
「はい。ただし、個人考察です」
「うん」
ノルンは正式な制度記録とは別の欄へ書き始めた。
『待つとは、相手が戻ることを期待し続けて、自分をその場へ固定することでもない』
『戻る経路を残した後は、待つ側も自分の生活・仕事・時間へ戻ってよい』
『戻ってきた相手へ、待った時間を負担として渡さない』
そこまで書いてから、少し考える。
そして最後に、
『戻ってきた時に必要なのは、「遅かった」ではなく、「おかえり」なのかもしれない』
と加えた。
主様は、その一行を少し長く見つめた。
「それも規定にしない?」
「はい」
「どうして?」
「十三年待った方全員が、『おかえり』とだけ言いたいとは限りません。怒りたい方も、寂しかったと伝えたい方もおられると思います」
「うん」
「ですから、これは第一接続者が選んだ待ち方です」
「ノルンは?」
「私?」
「もしノルンが誰かを十三年待って、その人が戻ってきたら」
「……」
ノルンは今度こそ、本気で考えた。
十三年。
あまりにも長い。
今の自分では、その年月を実感として想像しきれない。
「主様」
「うん」
「今は答えなくてもよろしいでしょうか」
「もちろん」
「十三年後の私へ任せます」
「それがいい」
「ただ……」
一度だけ、少し笑う。
「『遅いです!』くらいは言うかもしれません」
「ノルンっぽい」
「そのあと、『おかえりなさい』と言えたら」
少し間を置き、ノルンは柔らかく笑った。
「いいですね」
「うん」
主様も穏やかに頷いた。
◇◇◇
昼食と休憩を終えても、ノルンはすぐにはルークを呼ばなかった。
昨日も話した。
一昨日も、その前も話している。
そして昨日、ルークへ『待っている間も、自分の時間を過ごしてよい』と伝えたばかりだった。
「主様」
「何?」
「一つ問題がございます」
「何?」
「私は昨日、ルークへ『自分の時間を過ごしてください』と申し上げました」
「うん」
「ですが今日、私はルークとお話ししたいです」
「うん」
「呼べば、ルークの時間へ私が入り込むことになります」
主様は少し考えたあと、首を傾けた。
「話しかけること全部が駄目なわけじゃないと思うけど」
「はい」
「ルークもノルンと話したいかもしれない」
「はい」
「なら、聞けば?」
「……聞く?」
「今話せる?って」
ノルンは数秒、完全に動きを止めた。
「主様」
「何?」
「非常に単純でした」
「うん」
「なぜ私はこんなに悩んだのでしょう」
「最近、何でも深く考えるようになったから」
「良いことでしょうか」
「たぶん」
「たぶん?」
「決めない」
「便利です!」
ノルンは少し笑った。
それから名称接続を一気に開くのではなく、まず短く呼びかける。
「ルーク」
少し間があった。
『ノルン』
「はい」
『いる』
「今、お話ししてもよろしいでしょうか」
反応が止まる。
主様も、少しだけそちらへ目を向けた。
『今?』
「はい」
しばらく返事がない。
けれどノルンは、その沈黙を急かさなかった。
やがて。
『少し待って』
ノルンの目が大きくなる。
「はい」
すぐに頷いた。
「待ちます」
接続の向こうの反応が弱くなる。完全に切れたわけではないが、ルークは何か別のことへ意識を向けたらしい。
何をしているのだろう。
非常に気になる。
「主様」
「何?」
「気になります」
「うん」
「何をしているのでしょう」
「聞けば?」
「今は待って、と言われました!」
「じゃあ待とう」
「はい」
そう返したものの、ノルンは机の端に残る淡い光をじっと見続けそうになった。
そこで。
気づく。
「……」
「ノルン?」
「危ないところでした」
「何が?」
「ルークが戻るまで、ここでずっと見ているところでした」
主様が少し笑った。
「今日読んだばっかりなのに」
「難しいです!」
「何する?」
ノルンは机の上へ目を向けた。
通常の観察業務がある。
残る三名への確認準備もある。
観察官制度比較のため、他の観察官へ聞く質問項目もまだ整理途中だ。
「……仕事を致します」
「うん」
「ルークが戻ったら」
「呼ぶんじゃない?」
「はい」
名残惜しさを少し残しながらも、ノルンは淡い光から視線を外し、通常業務の記録板を手に取った。
◇◇◇
それから二十七分。
ノルンは通常の観察記録を処理した。
七分ほど経ったところで一度、机の端を見た。光はまだ弱い。
十三分頃にも、つい確認してしまう。やはり変わらない。
二十分を過ぎた頃、もう一度見そうになったが、今度は自分で踏みとどまった。
「主様」
「何?」
「褒めても」
「まだ何も言ってないよ」
「今、見ませんでした!」
「偉い」
「ありがとうございます!」
褒められたことで満足し、ノルンは残りの記録をもう一枚処理する。
そして二十七分後。
机の端に残っていた淡い光が、少しだけ強くなった。
『ノルン』
ノルンは手元の記録板から顔を上げる。
「はい」
『待った?』
「待ちました」
『何してた?』
「仕事です」
少し間が空いた。
『ずっと見てた?』
「……」
ノルンの動きが止まる。
「最初は少し」
『少し』
「ですが、途中から仕事をしておりました」
『待ってない?』
「いいえ」
今度は自然に笑うことができた。
「待っておりました」
『でも仕事した』
「はい」
『両方?』
「両方です」
昨日、ルークが同じことを言った。
『待ってる』
『でも笑った』
『両方?』
今は立場が反対になっている。
それに気づくと、ノルンは少しおかしくなった。
「ルーク」
『何?』
「昨日、ルークが教えてくださったことを、今日私もやりました」
『ルークが?』
「はい」
『何?』
「待ちながら、別のことをすることです」
反応が少しだけ明るくなる。
『ルーク、教えた?』
「結果的には」
『褒める?』
「……」
ノルンは主様を見る。
主様はすでに笑っている。
「はい。褒めます」
『もっと』
「そこまで含めて昨日と同じでなくてよろしいのです!」
光が楽しそうに揺れた。
「それで、ルーク」
『いる』
「今まで何をされていたのですか?」
『考えてた』
「何を?」
返事が来るまで、少し長い間があった。
『待ってる間』
「はい」
『何するか』
ノルンの表情が柔らかくなる。
「何か決まりましたか」
『まだ』
「はい」
『でも』
一度、文字が止まる。
『やってみたいのある』
ノルンは身を少しだけ前へ乗り出しかけた。
けれど、すぐに続きを求めることはしない。
「聞いてもよろしいでしょうか」
『うん』
光がゆっくり揺れた。
『名前』
「名前?」
『ルーク』
「はい」
『ノルンがくれた』
「はい」
『九人、名前ある』
「はい」
『主も』
「あるよ」
『みんなある』
ノルンはまだ、ルークが何を言おうとしているのか分からない。
けれど、急がず次の言葉を待つ。
『ルーク』
一度。
『名前、好き』
その一言で、ノルンの胸が少し温かくなった。
「ありがとうございます」
『だから』
次の文字が出るまでには、さらに時間が掛かった。
『名前、知りたい』
ノルンの表情が変わる。
「誰の?」
『世界』
「……」
『外から見える』
『たくさん』
『でも名前分かんない』
ルークは世界の外側にいる。
今まで彼にとって世界とは、反応のある場所や、何かがいる対象として見えていたのかもしれない。少なくとも、そこに固有の呼び名があり、そこに暮らす者達が同じ場所を一つの名前で呼んでいるという感覚は、十分に持っていなかった可能性がある。
「世界の名前を、知りたいのですか?」
『うん』
『勝手に中見ない』
「はい」
『でも、外から分かる名前』
ノルンは主様へ視線を向けた。
主様も少し驚いた顔をしていたが、すぐに真面目な表情へ戻る。
「主様。世界の名称だけを共有することは可能でしょうか」
「公開情報として扱える範囲なら、教える方法は作れると思う」
ルークの反応が強くなる。
『できる?』
「まだ決めません」
『……』
「安全確認が必要です」
『待つ?』
「はい」
『分かった』
一度、間が空く。
『待ってる間、別の見る』
ノルンは思わず笑った。
「はい」
『名前じゃないの見る』
「はい」
『笑いも練習する』
「それは……ほどほどにしてくださいませ」
『ははは』
「今は笑う場面ではございません!」
主様がとうとう声を出して笑った。
◇◇◇
その日の夕方。
ノルンは新しい個人記録を一つ作った。
『ルーク――待機中活動候補』
『世界内部への無断観測・干渉を行わない範囲で、外側から取得可能な公開情報への関心を示す』
『本人希望――世界の名称を知りたい』
『理由――自身が名称を得た経験から、外側から見える世界にも名称があることへ興味を持った可能性』
そこで一度筆を止める。
そして、『可能性』の文字へ印を付けた。
「主様」
「うん」
「勝手に理由を決めない」
「できてるね」
「はい」
「成長」
「ありがとうございます!」
その下へ続けて記録する。
『実施可否――未確認』
『管理領域情報開示範囲・境界安全性・名称接続への影響を調査予定』
書き終えたところで、ノルンはふと、今朝読んだ十三年後の記録を思い出した。
第一接続者は待っていた間、別の仕事をしていた。
そして戻ってきた人へ、『おかえり』と言った。
ルークも今、九人の答えを待っている。
けれど、待つこと以外に何かしてみたいと、自分から言った。
「主様」
「何?」
「一つ、繋がった気が致します」
「何が?」
「第一接続者が十三年間、別の仕事をしていたことと、ルークが今、世界の名前を知りたいと仰ったことです」
待つだけではなくなる。
少しずつ、自分自身の時間ができていく。
「私も」
一度、ノルンは自分の手帳を見る。
九人への意思確認。
第一接続者の記録調査。
観察官制度の見直し。
ルークとの関係。
やることは山ほどある。
「九人のお返事を待っている間、私は面会確認だけをする観察官ではございません」
「うん」
「古代記録を読むだけでもない。今の転生者の方々を見て、他の観察官の話を聞いて、現在の制度も調べる」
「うん」
そこまで言ったあと、ノルンは少し考えた。
「洗濯場にも行きたいです」
「そこ?」
「重要です!」
「フローラ達に会いたい?」
「はい」
答えは素直に出た。
フローラ。
マーサ。
リナ。
ミア。
彼女達はもう、管理対象や対象周辺人物という言葉だけで括れる相手ではない。
ノルンが実際に一緒に働き、話し、笑った人達だ。
「それから、美咲様ともまたお話ししたいです」
「スマートフォン」
「……」
ノルンの動きが止まった。
「主様」
「何?」
「まだ購入しておりません」
「知ってる」
「忘れていたわけでは」
「本当に?」
「……」
「ノルン」
「買います!」
「いつ?」
「……」
一度、真剣に考える。
「今度」
「それ、第一接続者の『一年後に再確認』と似た感じにならない?」
「違います!」
管理室へ大きな声が響いた。
けれど、その直後にはノルン自身もおかしくなり、笑ってしまう。
「では、明日でなくても、近いうちに地球へ行く用事を作ります」
「スマートフォンを買うために?」
「それだけではございません!」
「何するの?」
「……考えます」
「今決めない?」
「はい!」
「便利になったね」
「正しく使っております!」
主様が笑った。
◇◇◇
その夜。
ノルンが自室へ戻り、管理室の灯りも落ちたあと。
旧管理領域最古層では、十三年後の『おかえり』まで復元された記録を起点に、さらに別の情報がゆっくりと開き始めていた。
『内部観察補助一号・長期保留対象面談記録』
十三年ぶりに自分から戻ってきた対象個体。
第一接続者は、その人へ『おかえり』とだけ言った。
では、そのあと二人は何を話したのか。
なぜ十三年掛かったのか。
記録は一部欠損しているものの、少しずつ現在語への変換が進んでいる。
『対象個体発言』
『決められなかったわけではない』
次の部分は欠けていたが、しばらくすると新しい文字が戻る。
『途中で、決めなくてもよくなった』
さらに。
『最初は答えを出したかった』
『その後、答えを出さないまま生活できるようになった』
その対象個体は、十三年間ずっと『保留し続けていた』わけではなかったのかもしれない。
最初の頃は考えていた。
答えを出したいと思っていた。
けれど途中から、『考え中』ですらなくなった。
答えを持たないまま生活し、そのことで困らない時間が長く続いた。
そして十三年後。
何かのきっかけがあったのか、あるいは本当に理由などなかったのか。
ただ。
『話したい』
そう思った。
古い記録の次の部分が復元される。
『内部観察補助一号質問』
『なぜ今?』
もし今日のノルンがその場にいたなら、少し身構えたかもしれない。
理由を尋ねることが、また相手への圧力にならないかと。
けれど、その問いに対する対象個体の返答は簡単だった。
『話したくなったから』
第一接続者の応答。
『分かった』
それだけだった。
十三年の間に何があったのか。
なぜ今なのか。
どんなきっかけで戻ったのか。
それ以上の説明を求めない。
『話したくなったから』
という答えを、そのまま答えとして受け取っていた。
さらに記録が続く。
『対象個体より質問』
『十三年、何をしていた?』
今度は戻った側が、第一接続者へ尋ねた。
回答の復元には少し時間が掛かった。
『仕事』
次。
『たくさん失敗した』
さらに。
『怒られた』
『少し上手くなった』
そして最後に。
『あなたのことを考えない日もあった』
そこで、古い記録はしばらく止まった。
十三年ぶりに戻ってきた相手へ、それを言う。
一見すれば、冷たい言葉に見えるかもしれない。
ずっと待っていたわけではない。
毎日考えていたわけでもない。
忘れていた日さえある。
けれど。
復元処理が進み、その答えに対する対象個体の言葉が戻った。
『よかった』
それだけだった。
なぜ『よかった』のか。
まだ記録だけでは断定できない。
自分のせいで誰かの時間が十三年間止まっていなかったことに安心したのかもしれない。
第一接続者が自分の生活を続け、別の誰かと関わり、失敗し、少しずつ前へ進んでいたことが嬉しかったのかもしれない。
あるいは、もっと別の理由があったのかもしれない。
それは、まだ分からない。
ただ。
『あなたのことを考えない日もあった』
『よかった』
二つの短い言葉は、一つだけ確かな問いを残していた。
誰かを大切に待つことと、その人を毎日考え続けることは同じなのか。
考えない時間があるからといって、その相手が大切ではなくなるのか。
そして。
戻る側は、自分のために待つ側の人生が止まっていたことを、本当に望んでいるのか。
まだノルンは知らない。
主様も。
ルークも。
けれど旧管理領域最古層では、一万八百年前の二人が交わした、
『あなたのことを考えない日もあった』
『よかった』
という言葉だけが淡い光を宿しながら、静かに次の朝を待っていた。




