第三十八話 毎日考えなくても大切ではなくならないのなら、待っている間にも新しいものを好きになってよいのだと思います
翌朝、ノルンが管理室へ入った時、主様は机の上に二つのカップを並べながら、何とも言えない表情を浮かべていた。
朝を模した淡い光が白い床へ柔らかく広がり、壁際に並ぶ世界記録には、今日も幾つもの世界の時間が静かに流れている。古代記録用の閲覧台には何も浮かんでいなかったものの、主様の右手側には、ここ数日ですっかり見慣れた薄い複製記録板が一枚置かれていた。
ノルンはその記録板へ目を向けた。何が復元されたのか気になって仕方がないが、以前のように真っ先に駆け寄ることはしない。
「おはようございます、主様」
「おはよう、ノルン」
「朝食は?」
「食べたよ」
「睡眠時間は?」
「七時間三十四分」
ノルンは一度だけ目を大きくし、それから満足そうに頷いた。
「素晴らしいです。三日連続で七時間を超えております」
「三日連続まで把握してるんだ」
「継続的な健康管理には比較が必要ですので」
「僕の睡眠時間、記録してないんだよね?」
「まだ」
「その『まだ』が怖いんだよね」
主様が小さく笑う。毎朝の確認が始まった頃には困惑していたはずなのに、今では自分から正確な睡眠時間を答えるようになっている辺り、主様も十分この習慣へ馴染んでいた。
「ノルンは?」
「朝食済み、睡眠時間は七時間六分です」
「よく眠れた?」
「はい。眠る直前に一度だけ、昨日読んだ第一接続者の『おかえり』を思い出しましたが、その後は朝までぐっすりです」
「なら合格」
「ありがとうございます!」
ノルンは迷わず褒め言葉を受け取ると、自分用に用意されていたカップを手に取った。温かな飲み物を一口含み、喉を潤してから、ようやく複製記録板へ視線を戻す。
「それで、主様」
「うん」
「今朝のそのお顔は何でしょう。少し困っていて、少し笑いそうで、でも少し考え込んでいらっしゃるように見えます」
「よく分かるね」
「最近、主様も以前より分かりやすくなりました」
「ノルンに言われるとは思わなかったな」
「それで?」
促され、主様は椅子へ腰を下ろすと、複製記録板を軽く指先で叩いた。
「昨日の十三年後の面談記録、続きが復元された」
その一言で、ノルンの表情がすぐに変わった。
昨日読んだのは、本人からの連絡を十三年間待った第一接続者の記録だった。
最初の頃、第一接続者は毎年その人の記録を個別に確認していた。戻ってきたか、気が変わったか、もう話したくなってはいないか。本人へ直接催促してはいなかったものの、待つ側である第一接続者自身が、その人の回答へ時間を縛られていた。
管理責任者からそれを指摘され、第一接続者は個別確認をやめた。通常の観察業務へ戻り、別の対象と関わり、別の失敗をし、それでも本人から連絡できる経路だけは残した。
そして十三年後。
『話したい』
本人から連絡が来た。
第一接続者が最初に返した言葉は、『遅かった』でも『ずっと待っていた』でもなかった。
『おかえり』
ただ、それだけだった。
「昨夜、最古層ではその面談の続きまで復元されたみたい」
「十三年間、その方が何をしていたかも分かったのでしょうか」
「それも少し。ただ、今回は戻ってきた相手の方から第一接続者へ質問してる」
「質問?」
「うん」
「読みます」
ノルンは反射的に身を乗り出しかけたが、途中でぴたりと止まった。
「主様」
「何?」
「まだカップを安全な場所へ置いておりませんでした」
「そこに気づけるようになったんだ」
「成長です」
勢い余って飲み物を倒す未来を回避するため、ノルンはカップを机の端へきちんと寄せた。主様が笑いを堪えるように口元を緩める中、今度こそ椅子へ深く座り直す。
「それでは、読みます」
「うん」
◇◇◇
『内部観察補助一号・長期保留対象面談記録』
そこには、昨日の続きがかなりの範囲まで復元されていた。
『対象個体発言』
『決められなかったわけではない』
『途中で、決めなくてもよくなった』
ノルンは一度読み、それから僅かに眉を寄せた。
「決めなくても、よくなった……」
「うん」
次の文章が続く。
『最初は答えを出したかった』
『その後、答えを出さないまま生活できるようになった』
十三年間、ずっとその人が一つの問いを抱え続けていたわけではなかった。
最初は考えたのだろう。管理側から提示された何かについて、どう答えるべきなのか、何を選ぶべきなのか、自分なりに結論を出そうとした。
けれど時間が流れる中で、答えを持っていなくても普通に生活できるようになった。朝起き、仕事をし、誰かと話し、食事をして、眠る。その日々にとって、かつて管理側から投げかけられた問いは、必ずしも毎日答えを求め続けるものではなくなっていったらしい。
「主様」
「うん」
「これは、途中から『保留』ですらなくなったのでしょうか」
「ノルンはどう思う?」
聞き返され、ノルンはすぐには答えなかった。
保留とは、まだ決めないということだ。
ただ、その言葉の中にはどこか「いつかは決める」という前提が含まれているようにも感じる。
「……途中から、その方は『考え中』ですらなかったのかもしれません」
「うん」
「答えを持たないことが、その方の日常になった。決めていないことを気にしなくても生活できるようになった」
「僕もそう読んだ」
ノルンは手帳を開こうとして、途中で指を止めた。
「まだ書きません。先を読みます」
「うん」
その判断に主様が僅かに笑う。
次に表示されたのは、第一接続者からの質問だった。
『内部観察補助一号質問』
『なぜ今?』
ノルンの眉が少し上がる。
「聞いておりますね」
「うん」
「理由を」
昨日まで、第一接続者が理由を聞きすぎたことで本人へ圧力を掛けてしまった記録を読んできた。それだけに、ノルンはこの短い質問を見ただけでも少し身構えてしまう。
「これは大丈夫だったのでしょうか」
「昨日までの失敗を見てると気になるよね」
「はい」
理由を聞くこと自体が悪いわけではない。
知りたいと思うことも、話してくれるなら聞くこともできる。
問題なのは、理由を要求することだ。理由を説明できなければ回答として認めない。管理側が納得できなければ何度も聞く。それでは、本人へ選ばせているように見えて、実際には答えを狭めてしまう。
ノルンは慎重に続きを見た。
『対象個体回答』
『話したくなったから』
それだけだった。
そして第一接続者も。
『分かった』
それだけを返している。
「……終わりですか?」
「この質問についてはね」
「十三年間に何があったのかも、なぜ昨日ではなく今日だったのかも、聞いておりません」
「うん」
「ただ、『話したくなったから』を理由として受け取った」
「そうみたい」
ノルンは少し口元を緩めた。
「主様」
「何?」
「第一接続者、かなり上手になっております」
「上から目線だね」
「観察官としての評価です!」
「本人へ言う機会があったら、言い方は考えてね」
「まだ会えるかも分かっておりません!」
「分かってるよ」
短い笑いが交わされる。
しかし記録は、さらに続いていた。
『対象個体より質問』
『十三年、何をしていた?』
今度は、待たれていた側から第一接続者への質問だった。
第一接続者の返答は短い。
『仕事』
続いて。
『たくさん失敗した』
その一文でノルンの口元が僅かに緩んだが、まだ笑わずに続きを待つ。
『怒られた』
「……」
「笑っていいと思うよ」
「まだです!」
主様の囁きを退けるように手を上げ、さらに読む。
『少し上手くなった』
そして最後に。
『あなたのことを考えない日もあった』
管理室へ静かな時間が落ちた。
ノルンは、その文章を長く見つめた。
「……言ったのですね」
「うん」
「十三年ぶりに戻ってきた方へ、『あなたのことを考えない日もあった』と」
第一接続者は待っていた。
だが、その人のことを毎日考え続けていたわけではない。
仕事へ向き合い、失敗し、怒られ、少しずつ上手くなった。その時間の中には、おそらく待っている相手のことを一度も思い出さない日もあった。
それを隠さなかった。
「少し冷たく聞こえる可能性もございます」
「あるね」
「私なら……」
ノルンは自分が十三年間誰かを待ち、その人がようやく戻ってきた場面を想像してみた。そこで相手から「あなたを考えない日もあった」と言われたら。
「少し寂しいと思うかもしれません」
「うん」
「ですが」
次の記録。
『対象個体』
『よかった』
ノルンはそこで再び黙った。
目を閉じ、少しだけ考える。
「主様」
「うん」
「なぜ『よかった』のでしょう」
「分からない」
主様は即答した。
「記録に理由は?」
「今のところない」
「でしたら」
ノルンは少し笑った。
「決めません」
「うん」
「自分が戻らない間も第一接続者の人生が止まっていなかったことへ安心した可能性はございます」
「あるね」
「第一接続者に自分以外の生活があったことが嬉しかった可能性も」
「うん」
「ですが、それ以外の理由もあるかもしれません」
「そうだね」
「ですから、今は事実だけ書きます」
ノルンは手帳を開き、ゆっくり記録した。
『対象個体、「あなたのことを考えない日もあった」に対し「よかった」と返答』
その下へ。
『理由――不明』
さらに。
『現在側による推測は保留』
「できてるね」
「はい」
「褒める?」
「もちろんです」
「自分から聞くんだ」
「褒めていただける機会を逃さないのも大切です!」
「本人確認の効率化みたいに言わないでね」
「分かっております!」
少し大きな声が管理室へ響き、遠くの小型端末が一瞬だけ反応しかける。ノルンはそちらを見て口を閉じ、主様は肩を揺らして笑っていた。
◇◇◇
古代記録を一度閉じても、ノルンの頭には二つの言葉が残っていた。
『あなたのことを考えない日もあった』
『よかった』
第一接続者は十三年間待った。
けれど、その十三年間の全部を待つことだけには使わなかった。仕事をし、失敗し、怒られ、少し上手くなり、別のことへ夢中になった日もあっただろう。
「主様」
「何?」
「私、少し怖かったことがございます」
「何が?」
ノルンは自分の手帳へ視線を落とし、言葉を探した。
「誰かを大切に思っているのに、その方のことを考えていない時間があることです」
主様は急かさず続きを待った。
「フローラ様も、美咲様も、九人の方々も、ルークも。私が別の方の観察をしている時、他の仕事をしている時には、頭から外れていることがございます」
「うん」
「洗濯場にいる時は、古代記録のことを忘れているでしょうし、地球へ行けば九人のことを考えない時間もございます。ルークについても、何時間も全く思い出さないことがあります」
だからといって、その人達が大切ではなくなったわけではない。
理解はしている。
けれど、観察官として長く働くうちに、ノルンの中には別の感覚も生まれていた。
「一度関わった方を、ずっと覚えて、ずっと気にしていることが責任だと思っていたところがございました」
「観察官として?」
「はい」
対象を見つけた。
関わった。
なら、その後もずっと覚えていなければいけない。異常が起きていないか、困っていないか、変化していないか、自分の頭の片隅へ常に置いていなければいけない。
それが責任だと。
いつの間にか、少し思っていた。
「でも」
主様が静かに口を開く。
「覚えてることと、毎日考えてることは違うよね」
「……はい」
「記録は残ってる」
「はい」
「必要になれば確認できる。本人から連絡できる道も残せる」
「はい」
「だから、ノルンの頭の中全部を、今まで関わった全員で埋めなくてもいい」
ノルンは僅かに目を伏せた。
「それは、少し楽です」
「うん」
「ですが、少し不安でもございます」
「大切じゃなくなった気がする?」
「少しだけ」
大切なら考える。
考えないなら、大切ではない。
そんな単純な話ではない。
第一接続者は十三年間待った相手を考えない日があった。それでも連絡経路を消さず、戻ってきた時には『おかえり』と言えた。
「主様」
「うん」
「大切にすることと、ずっと気にし続けることは」
「同じじゃない」
「はい」
ノルンは手帳の『個人考察』欄を開いた。
『誰かを大切に思うことと、その人を毎日考えることは同じではない可能性』
少し考えてから、もう一行加える。
『考えない時間があっても、再び関わる時に大切に受け取れるなら、その関係が消えたとは限らない』
書き終え、ノルンは少しだけ息を吐いた。
「これは規定には致しません」
「うん」
「私自身が、これから覚えていきたいことです」
主様は静かに頷いた。
◇◇◇
午前の古代記録調査はそこで終えることにした。
以前のノルンなら、復元されているなら読めるところまで読んでしまおうとしただろう。けれど今は、頭の中がいっぱいになる前に別の仕事へ移った方がよいと分かっている。
そして、今日進めたいことは他にもあった。
昨日、ルークが初めて自分から言った希望。
『世界の名前を知りたい』
世界の内部を勝手に覗きたいわけではない。
世界の外側から見えるものに、どんな名前があるのかを知りたい。
主様も、管理領域側で公開情報として扱える範囲なら、方法を作れるかもしれないと言っていた。
「主様」
「うん」
「世界名称の共有について、少し調べてもよろしいでしょうか」
「いいよ」
「まずは、どうすれば教えられるかではなく、何が危険かを確認致します」
「いきなり一つ教えて試したりしない?」
「当然です!」
「昔のノルンなら?」
「……『一つくらいなら』と思った可能性がございます」
「成長したね」
「はい!」
そこは素直に認める。
ノルンは現在の管理規定と、これまでに得た名称接続の情報を並べた。
世界には、内部の住民が使う名称がある。
一方で管理領域は、世界ごとに別の識別情報を持っている。管理識別情報には位置や境界情報と結びつくものも含まれており、当然ながら外部へそのまま開示できるものではない。
問題は。
ルークにとって『名前』が、ただの言葉ではない可能性が高いことだった。
「主様」
「うん」
「名称というものが、ルークにとって通常の情報ではない可能性がございます」
「ノルンとの名称接続のことだね」
「はい」
ルークがノルンという名前を認識し、ノルンがルークと名付けたことで、二人の間には通常の呼称以上の経路が生まれている。
一万八百年前も、第一接続者との名称接続を通じ、ルーク側から管理領域の位置を強く認識できるようになっていた可能性が高い。
「世界の名前を教えた結果、ルークがその世界を今より強く認識できるようになる可能性があります」
「あるね」
「位置まで分かるようになる可能性は?」
「今は分からない」
「境界反応値への影響も」
「調べないと分からない」
「でしたら」
ノルンは安易に『名称共有可』とは書かなかった。
「安全確認が必要です」
「うん」
「ただし、ルークへ何も説明せず、『安全試験です』と勝手に参加させるのも違います」
「そうだね」
ルーク本人が「世界の名前を知りたい」と希望した。
けれど、その希望を利用し、本人へ知らせないまま管理側の実験対象にすることはしたくない。
「まず、どのような確認が必要かを整理します。その後ルークへ試験内容を説明し、参加するかどうかは本人へ確認致します」
「それで進めよう」
ノルンは新しい欄を作った。
『世界名称共有・事前安全確認』
『確認一:名称認識のみで外部からの位置固定が生じるか』
『確認二:境界反応値への影響』
『確認三:既存名称接続との共鳴有無』
『確認四:公開可能名称と管理識別情報を安全に分離可能か』
『確認五:試験内容説明後、ルーク本人へ参加意思確認』
書き終えたノルンは、しばらくその五項目を眺めた。
「主様」
「何?」
「名前を一つ教えるだけなのに、五つになりました」
「名称で一回かなり大きな事故が起きてるからね」
「……そうでした」
そこで笑うことはせず、ノルンは静かに頷いた。
「慎重に致します」
「うん」
ただ。
その慎重さは、以前のものとは少し違っている。
危険かもしれない。
ならば禁止する。
触れない。
教えない。
それで終わるのではない。
「主様」
「何?」
「以前の私でしたら、『少しでも危険性があるなら教えない方がよい』と考えたかもしれません」
「うん」
「今は、安全に教えられる方法があるかを調べたいです」
「ルークが初めて自分から興味を持ったことだから?」
「はい」
待っている間に何をするのか。
ルークが自分で考え始め、その中で出てきた最初の希望だった。
『世界の名前を知りたい』
その気持ちを、大切にしたい。
「ただし、どうしても危険なら中止致します」
「うん」
「そこは甘くしません」
「ちゃんと両方見られてて偉いよ」
「ありがとうございます!」
褒められ、ノルンは一瞬だけ胸を張った。
◇◇◇
昼食と休憩をきちんと終えたあと、ノルンは今日は自分からルークを呼ばないことにした。
話したくないわけではない。
むしろ、話したい。
昨日の「世界の名前」についても、今朝考えたことについても、言葉を交わしたい気持ちはある。
けれど昨日、ルークへ伝えたばかりだった。
待っている間も、自分の時間を過ごしてよい。
九人のことを一日中考えなくてよい。
ならば、ノルン自身が「話したいから」という理由だけで毎日ルークを呼び続ける必要もないのかもしれない。
「主様」
「何?」
「今日は、私からルークを呼ばないことに致します」
「話したくない?」
「いいえ。お話ししたいです」
「じゃあ、どうして?」
ノルンは少し困ったように笑った。
「話したいことと、毎日必ず呼ぶことは別なのだと思いました」
「昨日の話?」
「はい。ルークも、自分の時間を過ごしているかもしれませんので」
「ルークから来たら?」
「もちろんお話し致します」
「来なかったら?」
「今日はお話ししません」
「寂しい?」
「少し」
「それでいい?」
ノルンは自分の胸へ一度問いかけ、それから頷いた。
「はい」
通常業務へ戻る。
転生反応の定期確認。
観察官から届いた報告を一件読む。
世界安定値に異常のない案件を確認し、必要な記録だけを整理する。
古代記録から離れ、ルークのことも考えない時間ができた。
一時間。
二時間。
気づけば、ルークから連絡はないままだった。
その事実に気づいた瞬間、胸の奥が少しだけざわつく。
「主様」
「何?」
「今、少しルークが気になりました」
「呼ぶ?」
ノルンは机の端を見た。
呼べば、すぐ返事があるかもしれない。
何をしているのか確かめられる。
けれど。
「いいえ」
ゆっくり首を横へ振った。
「今は、気になったことをそのまま行動へ変えない練習を致します」
「必要があるなら?」
「呼びます」
「ただ気になるだけなら?」
「少し待ちます」
「いいと思う」
「では三時間経っても連絡がなかったら――」
「ノルン」
「はい」
「自分で時間を決めたら、それも期限にならない?」
「……」
ノルンは完全に止まった。
数秒後。
「危ないところでした!」
「今日の朝に読んだばかりなのに」
「難しいです!」
管理室へ声が響き、その直後、ノルン自身もおかしくなって笑った。
◇◇◇
午後の後半、ノルンは現行の観察官制度調査を一歩だけ進めた。
すでに質問項目は作ってある。
『保留回答者への再確認時期をどう決めているか』
『拒否回答者へ再確認した経験はあるか』
『理由開示拒否時にどう対応しているか』
『本人から連絡する方式を使用した経験』
『期限未設定案件を保持した経験』
『緊急性と本人意思の優先をどう分けているか』
今度は、それを誰へ聞くか。
「主様」
「うん」
「まずリベルさんへお願いしようと思います」
「いいと思う」
「ただし、リベルさん一人のやり方を制度全体の実態とは考えません」
「そこは昨日決めてたね」
「はい」
「何人くらい聞く?」
「まず三人です」
「理由は?」
「一人では少なく、十人では多いからです」
「三人は?」
「……ちょうどよい気が」
「それは理由というより感覚だね」
「……」
ノルンは少し唸った。
「では、経験年数の異なる三名にします」
「うん」
「担当してきた案件傾向もできるだけ違う方を選びます。その三名で運用が大きく異なる場合は、追加で聞き取りを行います」
「それなら意味がありそう」
「ありがとうございます!」
候補は、慎重な運用をする中堅のリベル。
さらに、長く観察官を務めている人物を一人。
比較的経験の浅い観察官を一人。
今日すぐ呼び出すことはしない。
まず聞き取りをしたいという依頼を送り、相手の都合のよい時間を選んでもらう。
「では、リベルさんへ送ります」
『観察官本人確認手順の実運用について、後日お話を伺いたいです』
『緊急案件ではございません』
『ご都合のよい日時をご指定ください』
送信する。
「できました」
「うん」
「返事は待ちます」
「その間は?」
「別の仕事を致します」
「完璧」
「ありがとうございます!」
◇◇◇
夕方になり、管理室へ橙色を模した光が差し始めた頃。
ノルンの前には、今日一日で整理した幾つもの記録が並んでいた。
第一接続者の十三年後の面談。
ルークへ世界名称を共有するための安全確認。
現行観察官制度の実運用調査。
九人への面会意思確認については、残り三人のまま一件も進んでいない。
けれど。
以前ほど、その数字に焦りを覚えなかった。
「主様」
「何?」
「今日、九人への意思確認は一件も進みませんでした」
「うん」
「でも、何も進まなかった感じが致しません」
「そう?」
「はい」
待つということへの理解は少し進んだ。
ルークが世界の名前を知るための準備も始めた。
現行制度の調査は、他の観察官へ実際の運用を聞く段階へ入った。
「同じ案件の件数が進まなくても、物語は進むのですね」
「物語?」
「……こちらの話です!」
「また?」
「何でもございません!」
主様が笑う。
ノルンは少し頬を膨らませながら、今日の個人考察をまとめた。
『大切な相手について考えない時間があってもよい』
『考えない間、自分の生活を進めてよい』
『その時間の中で、新しいものを知ったり、好きになったりしてもよい』
そこで、筆が止まる。
昨日、ルークは世界の名前を知りたいと言った。
今日、ノルンはその希望を安全に叶えられるかを調べ始めた。
待っている間にも、新しい興味が生まれる。
それは。
「……」
ノルンは一行付け足した。
『待っている間に新しいものを好きになっても、待っていた相手を大切ではなくなったことにはならない』
「主様」
「何?」
「この考え、私は好きです」
「規定にする?」
「致しません!」
「早いね」
「これは今の私が好きだと思った考えです。全員へ当てはめる規則とは別です」
「分かってるよ」
二人で少し笑った、その時だった。
机の端へ淡い光が浮かんだ。
『ノルン』
ノルンの表情が変わる。
今日は一度も、自分からルークを呼んでいない。
それでも。
ルークの方から来た。
「はい」
ノルンは慌てて立ち上がらず、手帳を静かに置いてから机の端へ向き直った。
「おります」
『今日』
「はい」
『呼ばなかった』
胸の奥が、僅かに痛んだ。
嫌だったのだろうか。
寂しかったのか。
そんな考えが一瞬浮かんだが、決めつけず続きを待つ。
『忙しい?』
「少しお仕事をしておりました」
『ルークも』
ノルンの目が僅かに大きくなる。
「何をされていたのですか?」
『見てた』
その一言に、反射的な警戒が出た。
「何を、でしょう」
『外』
「世界の中を勝手に覗いたりは?」
『ない』
返事は早かった。
『約束』
ノルンの胸から、少しだけ力が抜ける。
「はい。覚えていてくださったのですね」
『光』
「光?」
『世界の外』
『動く』
どうやらルークは、世界内部ではなく境界の外側を流れている何かを見つけたらしい。それが何なのかは、今の情報だけでは分からない。
「面白かったですか?」
少し間を置いて。
『うん』
「そうですか」
『名前ない』
ノルンは少し笑った。
「何にでも名前があるとは限りません」
『じゃあ』
一度、反応が揺れる。
『名前ないのも、見る』
「はい」
『面白い』
「よかったです」
ルークが自分から何かを見つけた。
九人を待つこととは別に、自分の興味を一つ見つけた。
それだけで、ノルンの胸は少し温かくなる。
『ノルン』
「何でしょう」
『九人』
「はい」
『今日、少し考えなかった』
ノルンは今朝の古代記録を思い出した。
『あなたのことを考えない日もあった』
第一接続者の言葉。
そこで、焦りはしなかった。
「はい」
『でも、今、会いたい』
「はい」
『両方?』
昨日から、ルークは何度もこの言葉を使う。
待っている。
でも笑った。
会いたい。
でも別のものを見た。
ノルンは柔らかく笑った。
「両方です」
『大丈夫?』
「大丈夫だと思います」
『忘れてない?』
「はい」
少しして。
『じゃあ、よかった』
ノルンの呼吸が一瞬止まりそうになった。
「……ルーク」
『何?』
「今のお言葉」
『よかった』
「はい」
『だめ?』
「いいえ」
ノルンは少しだけ目元を熱くしながら、それでも笑った。
「とてもよいと思います」
『褒める?』
「そこへ戻るのですね!」
主様が横でとうとう吹き出した。
『主』
「いるよ」
『ノルン今日うるさい』
「ルーク!」
『いつも?』
「主様!」
「僕は何も言ってないよ」
「お顔が完全に同意しております!」
名称接続の光が楽しそうに揺れ、管理室へ笑いが戻った。
その中でノルンは、静かに思う。
第一接続者は十三年間待った人を考えない日があった。
それでも、戻ってきた時には『おかえり』と言えた。
ルークも今日、九人を少し考えなかった。
それでも今は『会いたい』と思っている。
なら。
大切さというものは。
毎日確認し続けなければ消えるほど、脆いものではないのかもしれない。
「ルーク」
『いる』
「世界の名前を知りたいという件ですが」
光の反応が少し強くなった。
『できる?』
「まだ確認中です」
『待つ』
「はい。ただし、安全確認のためにルークにも協力をお願いする可能性がございます」
『何する?』
「まだ試験内容を整理している段階です」
『分かった』
「実施する前に、何をするのか、どんな危険が考えられるのか、きちんとご説明致します」
『ルークが決める?』
ノルンの表情が柔らかくなる。
「はい。説明を聞いた上で、参加するかどうかはルークが決めてください」
『うん』
少し考えたあと。
『今決めない』
「はい」
『褒める?』
「もちろんです!」
『もっと』
「褒められる量だけは考えずにすぐ決めるのですね!」
再び管理室へ笑い声が響いた。
◇◇◇
その夜。
ノルンが自室へ戻り、主様も通常の管理業務を終えた頃。
旧管理領域最古層では、十三年後の面談記録がさらに少しだけ復元されていた。
『対象個体』
『よかった』
その理由は、朝の時点では分かっていなかった。
だが。
途切れていた文章が、少しずつ現在語へ変換されていく。
『内部観察補助一号』
『何が?』
第一接続者は聞いていた。
対象個体の返答。
『私がいない間も、あなたに時間があったこと』
続いて。
『私が戻らなくても、あなたの生活が続いていたこと』
さらに、欠損していた部分が戻る。
『もし私のせいで、あなたが十三年ずっと止まっていたら』
その先はまだ完全には読めない。
それでも。
朝、ノルン達が保留した『よかった』の意味が、少しだけ見え始めていた。
対象個体は戻ってきた。
けれど、自分が戻るまで第一接続者が十三年間ずっと同じ場所へ立ち、自分だけを待ち続けていたのなら、それを嬉しいとは思わなかったのかもしれない。
第一接続者の返答も復元される。
『止まっていた時期もあった』
隠さなかった。
『途中でやめた』
対象個体は。
『なら、よかった』
と返した。
さらに続く。
『待ってくれたことは嬉しい』
そして。
『待つためだけに生きなかったことも嬉しい』
二つは、矛盾しなかった。
待っていてくれたことは嬉しい。
でも、自分のためだけに誰かの十三年間が止まることは望んでいない。
どちらも、その人の本当の気持ちだった。
『内部観察補助一号』
『分かった』
少し先。
『今度は待たせない?』
第一接続者からの質問だった。
対象個体は、しばらく時間を置いたあと。
『分からない』
と答えた。
第一接続者は。
『分かった』
それだけを返した。
今度こそ、約束を取ろうとはしなかった。
もう待たせないと言わせることも、次はいつ来るのかを決めさせることもない。
そして最後に。
『また話したくなったら来る』
対象個体がそう言い。
『うん』
第一接続者は受け取った。
その人はまた来るかもしれない。
来ないかもしれない。
何年後かも分からない。
それでも、戻れる経路は残る。
第一接続者はその間、自分の仕事と自分の時間を生きる。
一万八百年後。
ノルンとルークもまた、少しずつ同じ問いへ向き合い始めていた。
誰かを大切に思いながら、別のものを好きになってよい。
誰かを待ちながら、笑ってよい。
その人を考えない日があってもよい。
戻る人を迎えられる場所さえ消さなければ、その関係は毎日見つめ続けなくても失われるとは限らない。
そして同じ頃。
自室へ戻ったノルンは、最古層でそんな続きが復元されていることを知らず、寝台へ入る前に机の上の手帳を見ていた。
今日最後に書いた一文がある。
『待っている間に新しいものを好きになっても、待っていた相手を大切ではなくなったことにはならない』
ノルンはその文章を指先でなぞり、少しだけ笑った。
ルークは世界の名前を知りたいと言った。
今日は名前のない光を見つけて、それを面白いと言った。
九人を待っている間に、九人とは別のものへ興味を持った。
それは、きっと悪いことではない。
「私も、もっと色々なものを好きになってよいのでしょうね」
フローラ達と働く洗濯場。
美咲との会話。
まだ購入できていないスマートフォン。
主様との、いつの間にか日課になった朝の健康確認。
転生者観察官という仕事。
少し怖いけれど、知りたいと思える古代記録。
そして、ルーク。
大切なものが一つ増えたからといって、以前から大切だったものが一つ押し出されるわけではない。
きっと大切なものは、並んで増えていく。
ある日は一つを強く考え、別の日にはその存在をすっかり忘れて別のことへ夢中になる。それでも、再び思い出した時に大切だと思えるなら、消えていたわけではないのだろう。
「……明日」
ノルンは手帳を閉じた。
「スマートフォンについても、少しくらい調べましょう」
そこまで言ってから、少しだけ間を置く。
「本当に、少しくらいは」
誰も聞いていないのに、自分へ言い訳するように付け加えてから寝台へ入った。
明日もやることはたくさんある。
けれど。
全部を明日終わらせる必要はない。
誰かを待っている間にも、自分の時間は進んでいく。
それならノルンも今夜はきちんと眠り、今日できなかったことも、まだ分からなかったことも、明日の自分へ渡せばよかった。




