第三十五話 断られたら終わりではなく、断ることも一つの答えだと昔の観察官も後から覚えたようです
翌朝、ノルンが管理室の扉を開いた時、主様はすでにいつもの席へ座っていた。
朝を模した淡い光が天井から静かに降り、白い床や壁際へ整然と並ぶ世界記録を柔らかく照らしている。ここ数日は古代記録用の閲覧台ばかりを気にしていたせいだろうか。主様が普段通りの机にいるだけで、管理室そのものが少し日常へ戻ったように感じられた。
「おはようございます、主様」
「おはよう、ノルン」
「朝食は?」
「食べたよ」
「睡眠時間は?」
「七時間二十三分」
「素晴らしいです!」
間髪入れず褒めると、主様が少し得意そうに胸を張った。
「今日はかなり自信あった」
「ついに主様ご自身から睡眠時間を誇れるようになられましたね!」
「そこまで大きな成長なのかな」
「重要な成長です。古代記録の調査は判断力を使いますから、寝不足のまま行うべきではございません」
「それは正しいけど、世界管理者が毎朝部下に健康状態を確認されるようになるとは思わなかったな」
「良いことではありませんか」
「ノルンに言われると、反論しにくいんだよね」
主様が苦笑するのを見ながら、ノルンは満足そうに自分の席へ向かった。椅子へ腰を下ろす前に、今度は主様がこちらを見る。
「ノルンは?」
「朝食済み、睡眠時間は六時間五十八分です。一度も目を覚ましませんでした」
「お」
「いかがでしょう」
「よく眠れました」
「ありがとうございます!」
「何で僕が先生みたいになってるんだろう」
「お互いに健康管理ができているということです。細かなことは気になさらなくてよろしいかと」
「便利なまとめ方だね」
そんな朝のやり取りを交わしてから、ノルンは三冊目の手帳を机へ置いた。
昨日、九人のうち六人目へ、ルークとの面会意思を確認した。その人物から返ってきた答えは、これまでとは違っていた。
『会わない』
初めて示された、明確な拒否だった。
ノルンは理由を聞かなかった。説得もしなかった。本人から許可された通り、『会わない』という意思だけをルークへ伝えた。
ルークは嫌だと言った。会いたいとも、謝りたいとも、悲しいとも口にした。けれど最後には、それでも面会を決めるのは自分ではないと受け入れた。ノルンへ理由を聞き出すよう頼むことも、もう一度説得するよう求めることもしなかった。
ルークにとっては、それだけでもかなり大きな変化だった。
「主様」
「うん」
「昨日のルークについて、もう一度考えておりました」
「夜中に?」
「眠る前です!」
すぐに訂正すると、主様が安心したように肩の力を抜いた。
「よかった」
「私も成長しておりますので!」
「そこは本当にそうだね」
「もう少し仰っていただいても構いません」
「調子に乗るから一回で十分」
「最近、主様の褒め方が厳しくなっております!」
少し頬を膨らませながらも、ノルンは手帳を開いた。昨日の面会記録、その横へ付けたルークの反応記録を指先でなぞる。
「ルークは面会を断られました。それでも、相手の回答を自分の希望する方向へ変えようとはしませんでした」
「うん」
「私は、それをかなり頑張ったことだと思っております」
「僕もそう思うよ」
「ですが、一つだけ気になったことがございます」
主様が視線を向ける。
ノルンは、昨日自分がルークへ伝えた言葉を思い返した。
「私は昨日、『ご本人が変更したいと仰れば変えられます』と説明致しました」
「そうだったね」
「その説明自体は間違っていないと思います。人の意思は未来永劫変えてはいけないものではございませんから」
「うん」
「ただ……ルークがそれを、『いつか変わるかもしれない答え』として待ち続けてしまう可能性がございます」
ノルンは一度口を閉じ、手帳に記された『会わない』という文字を見つめた。主様の表情も少し真面目なものへ変わる。
「『今は会わない』を、『まだ会わない』だと思ってしまう?」
「はい。今は断られたけれど、待てばいつか会える、と」
「あり得るね」
「それから、私自身も心のどこかで同じことを思っておりました」
「何を?」
「いつか気が変わればよいな、と」
それを口にした瞬間、自分の胸の中にあった小さな期待が、はっきり形を持った。
ルークは以前よりずっと相手の意思を聞けるようになった。自分のしたことが間違いだったと、少しずつ理解し始めている。謝りたいとも思っている。
だから、いつか一度くらい話す機会があれば。
そんな気持ちは、確かにノルンの中にもあった。
主様は否定しなかった。
「そう思うこと自体は、悪くないんじゃない?」
「はい。私も、気持ちまで消す必要はないと思います」
「でも?」
「それを前提に相手の回答を扱えば、『会わない』という現在の意思を弱くしてしまいます」
会わない。
それは次の回答を待つための仮置きではない。少なくとも今、その人が出した正式な答えである。
主様も考えるように視線を落とし、やがて小さく頷いた。
「今の返事は、今の返事として受け取る」
「はい」
「未来に意思が変わる可能性があることと、今の回答が保留であることは別」
「その通りです」
ノルンは新しい一行を書き加えた。
『面会拒否回答は、将来変更の可能性があっても、現時点では確定回答として扱う』
書いた文字を二度ほど読み直したところで、主様が机の端へ置かれていた薄い複製記録板へ視線を向けた。
「たぶん、それにちょうど関係する記録が出てる」
ノルンの指が止まった。
「……昨夜ですか?」
「うん」
「最古層?」
「うん」
「また私が寝ている間に?」
「古代記録はノルンの睡眠時間には配慮してくれないからね」
「少しは配慮していただきたいです!」
「でも今日は、勝手にノルンの管理核を照合したりはしてないよ」
「それは最低限守っていただかなければ困ります!」
思わず声が大きくなる。管理室の端に浮いていた小型記録端末が音声指示と誤認したらしく一瞬光ったため、ノルンはそちらへ「あなたには言っておりません」と小声で伝えてから、椅子を主様側へ少し寄せた。
「どの記録でしょう」
「内部観察補助制度の第二改訂、その追加規定」
主様が複製記録板へ触れる。
『本人意思確認手順・拒否回答』
その題名を見ただけで、ノルンの表情から少し笑みが消えた。
「昨日確認した『共有許可範囲』より後に追加された規定でしょうか」
「そうみたい」
「読みます」
姿勢を整え、最初の項目へ目を通す。
『拒否意思を異常回答として扱わない』
「異常回答……」
「管理側が期待した答えと違うからって、混乱してるとか、正常な判断ができてないとか、勝手に扱わないって意味だと思う」
「かなり重要です」
管理する側は、判断の基準を持っている。
安全か、危険か。許可できるか、介入するべきか。その基準から外れる回答が出れば、相手の判断能力そのものを疑いたくなる場合もあるだろう。
けれど、管理側の期待と違う回答であることと、本人の回答が異常であることは同じではない。
続きを読む。
『管理側希望と異なる回答であっても、再回答を強制しない』
『本人が理由提示を拒否した場合、理由開示を面会・支援・処置の条件としない』
ノルンの視線が止まった。
昨日、自分がしたこととほとんど同じだった。
「主様」
「うん」
「私は昨日、この規定を知りませんでした」
「知る前だったね」
「それでも、同じようにしました」
「うん」
ノルンはすぐには喜ばなかった。
少し前までなら、一万八百年前の第一接続者と同じ考え方へ辿り着いたこと自体に強く反応していたかもしれない。けれど今は、自分が何を理由にそうしたのかの方が大切だと思える。
胸元へ手を置き、昨日会った男性の顔を思い出した。
「昨日の私は、この規定に動かされていたわけではございません。目の前の方が、理由を言いたくないと仰いました。それなら、面会を断るために理由を提出していただく必要はないと、私自身が思いました」
「うん」
「ですから」
ようやく、ノルンの口元が少し緩んだ。
「嬉しいです」
「第一接続者と同じだったから?」
「いいえ」
一度首を横へ振る。
「知らなくても、自分でそこへ辿り着けたことがです」
主様の表情が柔らかくなった。
「うん。それはノルンのものだね」
「はい」
その一言だけで、胸の奥が少し温かくなった。
けれど、古い記録にはまだ続きがある。
『追加理由』
ノルンの表情が変わった。
「追加された理由が残っております」
「そこが今日の本題だと思う」
続きを読む。
『内部観察補助一号、拒否回答後に再確認を複数回実施』
ノルンの動きが完全に止まった。
「第一接続者」
「また失敗したみたい」
「……主様」
「何?」
「本当に、ものすごく安心致します」
「そんなに?」
「はい!」
「第一接続者、失敗記録が出るたびに喜ばれてかわいそうになってきたな」
「褒めております!」
「それは褒めてる人の反応かな」
「親近感です!」
主様が苦笑する。ノルンも少しだけ笑ったが、その先の記録を読み進めるにつれて、口元の笑みは自然に消えていった。
『対象個体、初回拒否』
『内部観察補助一号、理由確認』
『対象個体、回答拒否』
『内部観察補助一号、一定期間後に再確認』
『対象個体、再度拒否』
さらに。
『内部観察補助一号、別表現による意思確認を実施』
「……聞き方を変えております」
「そうみたいだね」
「同じ質問ではないから、問題ないと思ったのでしょうか」
「その可能性はありそう」
ノルンは少し想像した。
『なぜ嫌なのですか』
そう聞いて断られた。
なら。
『何が不安なのですか』
『条件が変われば受け入れられますか』
『この部分だけならどうですか』
言葉を変えれば、別の確認になる。
そう考えたのかもしれない。
けれど本人にとっては違う。答えはもう出している。それなのに、聞き方を変えた同じ問いが何度も戻ってくる。
やがて。
『対象個体、回答圧力を訴える』
ノルンはその一文から、しばらく視線を動かせなかった。
「回答圧力……」
「本人確認をしているつもりで、実際には答えを変えさせようとしてた」
「……はい」
悪意はなかったはずだ。
第一接続者は、以前の判断誤りを反省していた。本人へ聞かずに隔離を決めたことを悔やみ、『近くへ行っても最後は聞く』という考えへ辿り着いた。
だから次は、本人へ聞いた。
ただし。
何度も。
けれど、その本人は最初から答えていたのだ。
『嫌』
と。
「主様」
「何?」
「聞くという行為も、やり方を間違えれば、本人へ聞かずに決めることと似たところへ行ってしまうのですね」
「どういう意味?」
ノルンは手帳を開きながら、自分の中の考えをゆっくり言葉へした。
「本人に選んでもらっているように見えても、自分が納得する答えが出るまで聞き続ければ」
「選べる答えを実質的に狭めてる」
「はい。『その答えでは私は納得しません』と繰り返し伝えているようなものです」
手帳へ書く。
『本人へ聞くこと=意思尊重、とは限らない』
その下へ。
『回答後も、管理側が望む答えになるまで繰り返し確認すれば圧力になる』
そして、少しだけ筆を止めた。
『拒否は未回答ではない』
書き終えた瞬間、主様が古代記録へ目を向けた。
「同じ文章がある」
「え?」
その先には、本当に同じ言葉が残されていた。
『拒否は未回答ではない』
『拒否も回答である』
管理室へ静かな時間が落ちた。
外から聞こえる音などない管理領域の中で、壁際の世界記録だけが一定の速度で流れ続けている。
「……拒否も、回答」
「うん」
「はい」
あまりにも当たり前の言葉。
でも、管理する側からすると、きっと忘れやすい。
理由が欲しい。判断材料が欲しい。記録を埋めたい。危険がないか確かめたい。支援できることを探したい。
どれも悪いことではない。
むしろ真面目に仕事をしようとするほど、理由を知りたくなる。
だからこそ、『嫌です』だけでは足りないように感じてしまう。
「第一接続者は、理由を知りたかったのでしょうか」
「たぶんね」
「相手のために?」
「それもあったかもしれない」
「管理側として、安全を判断するために?」
「それも」
ノルンは少し考えた。
「それから、自分が納得したかった」
「……たぶん、それもあったと思う」
その答えが、ノルンには妙に腑に落ちた。
第一接続者は立派だった。
けれど、立派である前に迷う一人の観察者だった。
最後の規定が表示される。
『本人が変更を申し出るまで、回答を保持する』
そして。
『観察者が納得できる答えを得ることを、本人確認と呼んではならない』
ノルンは長くその一文を見つめた。
「厳しい文章ですね」
「誰に対して?」
「第一接続者ご自身へ、です」
「自分の失敗から作った規定だろうからね」
「はい」
本人へ聞かなかった。
失敗した。
だから『最後は聞く』と決めた。
今度は聞きすぎた。
また失敗した。
「一つ直すと、また別の失敗が見えるのですね」
「そういうものかもしれないね」
「第一接続者、かなり苦労されております」
「誰かさんみたいだね」
「誰でしょう」
「ノルン」
「主様!」
「観察官の苦労は終わらないね」
その言葉に、ノルンは一瞬だけ眉を寄せた。
「……非常に嫌な響きが致します」
「そう?」
「なぜか、とても他人事とは思えません!」
「今さらじゃない?」
「主様!」
主様が笑い、ノルンもつられて笑った。
少し笑えたことで、第一接続者の失敗を、憧れが崩れた出来事ではなく、一人の観察者が考え直した記録として受け止められた。
◇◇◇
古代記録を一度閉じたあと、ノルンは現在使われている転生者観察官の本人確認手順を開いた。
「早速比較する?」
「はい。昨日、現行制度そのものを見直す可能性についてお話し致しましたので」
ただし、昔が正しいから戻す、今が間違っているから捨てる、そう決めるつもりはない。
第一接続者自身が、何度も失敗して制度を変えてきたのだ。
ならば現在の制度にも、長い時間の中で追加された理由があるはずだった。
「まず現在の規定を見ます」
本人へ接触する場合の基本手順を開く。
『必要事項を確認』
『世界安定へ関係する情報を収集』
『対象個体の意思を必要に応じて記録』
ノルンの眉が少し動いた。
「『必要に応じて』」
「曖昧だね」
「はい」
次に、拒否回答について検索する。
『回答拒否時、必要性を再説明の上で再確認可能』
ノルンはしばらく文字を見た。
「再確認可能」
「うん」
「回数の上限は?」
「書いてないね」
「間隔もございません」
「理由提示を拒否した場合は?」
「……そこも、明確な規定がございません」
ノルンは考え込んだ。
だからといって、今の規定が間違っているとはまだ言えない。
転生者観察官が扱う案件には、世界そのものへ影響が出る場合もある。本人が危険な状態にあり、本人から情報を得なければ助けられないこともある。第三者を守るため、どうしても確認が必要になる場面だってあるだろう。
「主様」
「うん」
「古い規定には、『管理側に即時危険がない場合』という条件が付いておりました」
「そうだね」
「つまり、昔の制度でも拒否を絶対的なものとして扱っていたわけではない」
「緊急時まで何も聞かない、ではなかった」
「はい」
ノルンは少しだけ安心した。
「やはり、昔の制度をそのまま戻すだけでは駄目です」
「うん」
「今の制度にも、現在の形になった理由があるはずです」
「それを調べよう」
「はい」
手帳へ新しい欄を作る。
『現行本人確認手順・比較項目』
『拒否回答の扱い』
『再確認可能回数・間隔』
『理由開示を求める範囲』
『緊急時の例外』
『本人安全・第三者安全・世界安定の優先基準』
『共有許可範囲』
書き終える頃には、また調査項目が増えていた。
「かなり増えたね」
「調べれば増えるのです!」
「最近、一つ分かったら二つくらい増えてない?」
「慣れてきてしまいました」
「強くなったね」
「嬉しくない強さです!」
それでも、以前ほど調査項目が増えることへ焦らなくなった。
分からないところが増えたのではない。
今まで分からなかった場所が、ようやく見えるようになった。
そう思えるようになってきた。
◇◇◇
昼食前。
ノルンは机の端へ視線を向け、ルークとの名称接続を開くか少し迷った。
「主様」
「何?」
「昨日、次にお話しする時には、もう少しルークを褒めると決めておりました」
「うん」
「今、呼んでもよろしいでしょうか」
「褒めるためだけ?」
「それから、昨日の『会わない』というお返事を、ルークが今どのように受け止めているのか確認したいです」
今朝読んだ文章が、頭の中へ浮かぶ。
『拒否も回答である』
主様もその意図を理解したらしく、軽く頷いた。
「相手に聞き直させるためじゃなく?」
「はい」
「回答は変わらない前提で?」
「はい」
「それならいいと思う」
ノルンは軽く息を整えた。
「ルーク」
呼びかけてから数秒。
机の端へ淡い光が浮かぶ。
『ノルン』
「はい」
『今日、早い』
「少しお話ししたいことがございます」
『いいよ』
「ありがとうございます。昨日の方のお返事を覚えておられますか」
『会わない』
ほとんど迷わず返ってきた。
ノルンの胸が少し締めつけられる。
「はい」
『覚えてる』
「今は、どのように思われておりますか」
少し間があった。
『嫌』
「はい」
『悲しい』
「はい」
『会いたい』
「はい」
昨日と同じ気持ち。
それでよい。
ノルンは急かさず、次を待った。
『でも、その人が決めた』
ノルンの表情が柔らかくなる。
「覚えておられたのですね」
『うん』
「素晴らしいです」
『褒める?』
「もちろん褒めます」
『もっと』
「昨日も同じことを仰っておりました!」
『昨日よりもっと』
「褒め言葉に増量制度はございません!」
少し離れたところで主様が小さく笑う。
ノルンは一度だけそちらを睨んでから、またルークへ意識を戻した。
「それから、一つお伝えしたいことがございます」
『何?』
「昨日の方の『会わない』というお返事は、保留ではございません」
『分かってる』
「……」
『会わない』
「はい」
『待ったら会う、じゃない』
ノルンの目が少し大きくなった。
昨日からさらに一歩、理解している。
「はい。その通りです」
『でも』
一度、文字が止まる。
『変わるかもしれない?』
「ご本人が、ご自身で変えたいと思われれば、将来変わる可能性はございます」
『ルークは待つ?』
ノルンはすぐには答えなかった。
ここで『待ってください』と、いつものように答えてよいのか。
今朝から考えていたことがある。
「ルークは、どうされたいですか?」
『……』
長い沈黙。
やがて。
『待ちたい』
「はい」
『でも』
少し時間を置いて。
『待ったら会えるって思わない』
ノルンの胸が強く鳴った。
「……はい」
『会わないままかもしれない』
「はい」
『嫌』
「はい」
『でも』
また少し止まり。
『その人の答え』
「はい」
嬉しかった。
けれど、ただ褒めるだけではなく、もう一つ伝えたい。
「ルーク」
『いる』
「ルークが待ちたいと思うことは、ルークのお気持ちです」
『うん』
「ですが、その『待つ』というお気持ちを、相手の方へ背負わせないでください」
『分かんない』
ノルンは少し考え、具体的な形へ言葉を置き換えた。
「例えば、『私はずっと待っています。ですから、いつか会ってください』と繰り返し伝えることです」
光が止まる。
『だめ?』
「相手がそれを望んでいない場合は、負担になる可能性がございます」
『何で?』
「待っていると言われ続ければ、『いつか答えを変えなければ申し訳ない』と思わせてしまう場合があるからです」
『……』
「ルークが待つことと、相手の方が答えを変えることは別なのです」
長い沈黙。
『難しい』
「はい」
『ノルン』
「何でしょう」
『待つって』
一度。
『何もしない?』
ノルンは答えかけて、止まった。
分からない。
自分も、ちゃんと考えたことがない。
「場合によると思います」
『分かんない』
「実は私も、今ちょうど考え始めたところです」
『一緒?』
「はい」
しばらく光が静かに揺れた。
そして。
『じゃあ、その人には、もう言わない』
「何をでしょう」
『会いたい』
ノルンの目が大きくなる。
「ルーク」
『でも、ノルンには言う』
「……はい」
『会いたい』
「はい」
『悲しい』
「はい」
『嫌』
「はい」
『でも、その人には言わない』
胸が痛く、同時に温かかった。
ルークが会いたいと思うこと自体は悪くない。悲しいのも、嫌なのも、消さなくてよい。
ただ、その感情を拒否した相手へ何度も渡し、答えを変えさせる力にはしない。
「はい」
ノルンは静かに笑った。
「それでよいと思います」
『褒める?』
「ものすごく褒めます!」
『もっと』
「今日は特別に多めです!」
『やった』
文字が楽しそうに揺れた。
主様が横から声を掛ける。
「僕も褒めるよ」
『主も?』
「うん」
『二人』
「はい」
『もっと』
「そこから先は増えません!」
ノルンの大きな声が管理室へ響き、ルークの文字がまた小さく揺れた。
◇◇◇
昼食と休憩を終えたあと、ノルンは九人への面会意思確認状況を改めて開いた。
現時点では、面会希望あり一名、面会希望なし一名、保留四名、未確認三名となっている。
「今日、もう一人行く?」
主様に聞かれ、ノルンはすぐには答えなかった。
午前中だけでも、第一接続者の失敗記録、拒否回答の扱い、現在制度との比較、そしてルークとの話まで進めている。かなり頭を使っていた。
以前なら、残り三人を少しでも進めたいと思ったはずだ。
けれど今は、先に自分がどの程度疲れているのかを確かめる。
「……本日は、新しい方への意思確認は進めません」
主様が僅かに目を見開く。
「お」
「驚かないでくださいませ」
「前のノルンなら行ってたなって思って」
「私もそう思います」
「じゃあ午後は?」
「残る三人への接触準備と、それから、すでに保留回答をされた四人について整理致します」
「何を?」
ノルンは今朝の記録を見直した。
「次に、いつお聞きするのかです」
「なるほど」
「これまで私は、『保留』と伺った方には、時間を置いて改めて確認すればよいと思っておりました。ですが、どの程度時間を置けばよいかを管理側だけで決めるのも違う気が致します」
保留。
まだ決められない。
それも一つの回答だ。
なのに、一週間経ったから、一月経ったから、そろそろ決めたかと管理側の都合で繰り返し聞けば、第一接続者が失敗したこととあまり変わらなくなる。
「残る三人だけではなく、保留中の四人についても」
「うん」
「次回の確認を、いつ行ってよいのか。それ自体をご本人へ選んでいただく必要があると思います」
「管理側から再確認するか」
「はい」
「本人が決めたら自分から連絡するか」
「はい」
「期限を決めないという選択も?」
ノルンの目が少し大きくなった。
「それです!」
「声大きい」
「申し訳ありません!」
慌てて声量を落とし、手帳へ書く。
『保留回答者への追加確認』
『次回確認時期を本人が選択』
『管理側から再確認/本人から連絡/期限未設定を選択可能』
主様が横から見た。
「期限なしも認める?」
「今回の面会については、即時の危険性がございませんので」
「ルークは、ずっと待つことになるかもしれない」
「はい」
「ノルンも気になるでしょ」
「……はい」
少し胸が痛む。
ルークが待っていることを知っているから、なるべく早く答えを集めてあげたい。そんな気持ちも確かにある。
「それでも?」
主様が静かに聞く。
ノルンは頷いた。
「ルークが待つことと、九人が急いで答えなければならないことは別です。そこを混ぜてはいけません」
「じゃあ、それで進めよう」
「はい」
保留となっている四名分の記録を開く。
カイル。
ユウト。
その後に確認した二人。
本人へ直接すぐに再接触するのではなく、まず担当観察官を通して三点だけを確認することにした。
『次回の面会意思確認を管理側から行ってよいか』
『行う場合、希望時期はあるか』
『本人から連絡する方式を希望するか』
ノルンは依頼を送った。
一人目からは、すぐには返らない。
二人目も反応なし。
三人目。
少し時間が経ち、ようやく一件の返答が届いた。
「主様」
「来た?」
「はい」
表示された文字。
『次回確認――本人から連絡予定』
『管理側からの再確認不要』
ノルンは静かに読んだ。
一度。
もう一度。
「この方は、自分から決めた時に連絡する」
「うん」
「それまでは管理側から聞かない」
「そういう答えだね」
手帳へ記録する。
『管理側再確認――不要』
書き終えたあと、少しだけ胸がざわついた。
いつ答えが来るか分からない。
一週間か。
一月か。
一年か。
あるいは、ずっと来ないかもしれない。
「主様」
「何?」
「これ、管理する側にはかなり落ち着きませんね」
「そうだね」
「記録が完了しません。予定も立てられません。ルークも待ちます」
「うん」
「でも」
ノルンは表示された回答を見つめた。
「それが、この方の答えです」
今は決めない。
次に聞く時期も、管理側へは決めさせない。
決めたら、自分から伝える。
それも立派な回答なのだ。
「保留も、回答なのですね」
「うん」
「会わないも」
「うん」
「自分から連絡するまで聞かないで、も」
「うん」
ノルンは手帳へ新しい一文を書く。
『本人確認とは、管理側が答えを回収することではない』
主様が横から覗く。
「続きは?」
ノルンは少し考えた。
そして。
『本人が、自分の答えを自分で持てるようにすること』
そこまで書いた。
「どうでしょう」
「いいと思う」
「また後で、第一接続者の記録から似た文章が出てきそうな気が致します」
「出たら?」
ノルンは一瞬だけ考えた。
以前なら、また自分が第一接続者と同じなのだと不安になったかもしれない。
でも今は。
「少し嬉しいと思います」
「怖くはない?」
「はい」
自分の胸元へ手を置く。
「似ていたとしても、今考えたこの言葉は、今の私が今日の経験から考えたものだと思えますので」
主様が静かに笑った。
「うん」
◇◇◇
夕方。
通常の観察業務まで終えたノルンは、その日の最後に九人への面会意思確認状況を改めて整理した。
『面会希望――一名』
『面会希望なし――一名』
『保留――四名』
『未確認――三名』
さらに。
『保留者一名――次回確認は本人からの連絡待ち。管理側再確認不要』
そこまで書き終えると、ノルンはしばらく一覧を眺めていた。
「主様」
「何?」
「九人全員のお返事が揃うのは、思っていたよりずっと先になる可能性がございます」
「そうだね」
「管理記録としては、とても落ち着きません」
「完了欄が埋まらないから?」
「はい。いつ終わるのか分かりません」
「嫌?」
「少し」
ノルンは素直に答えた。
「ですが、もしかすると、全員の回答が同じ時期に揃う必要自体がないのかもしれません」
「どういうこと?」
「面会したい方は、安全確認と準備を進める。面会を希望されない方は、その意思を保持する。保留の方は、ご自分の時間で考える。自分から連絡すると決めた方は、その時まで待つ」
「うん」
「それぞれ、別でよいのですね」
主様は少し笑った。
「最初から、九人まとめて一つの案件だと思ってた?」
「……少しだけ」
「九人とも別の人だよ」
「はい」
言われれば、当たり前のことだった。
『誤転生者九名』
管理側の記録では一つの事故。
ルークが起こした一つの出来事。
でも、そこから二十五年。
九人はそれぞれ別の世界で、違う場所に住み、違う人と出会い、違う人生を生きてきた。
なら。
答えだって九つあってよい。
「主様」
「うん」
「私、まだ少しだけ九人を一つの案件として見ていたようです」
「気づけたならいいんじゃない?」
「はい」
「次は残り三人だね」
「はい。ですが急ぎません」
「うん」
「一人ずつです」
「そうしよう」
ノルンは手帳を閉じた。
以前なら、残り三名を早く全部終わらせたいと思っただろう。
今は少し違う。
終わらせるために聞くのではない。
本人が、自分の答えを持つために聞く。
そして答えが『会わない』でも、『保留』でも、『まだ聞かないで』でも、それを回答として受け取る。
簡単そうで、意外と難しい。
第一接続者も何度も間違えた。
だから今のノルンも、きっとまたどこかで間違えるのだろう。
それでも。
間違えたあとに考える。
必要なら直す。
同じ失敗を次へ残さないようにする。
それでよいのかもしれなかった。
◇◇◇
その夜。
管理室の灯りが落ち、ノルンも主様もそれぞれの休息へ戻ったあと。
誰もいない旧管理領域最古層では、昼間に現在側から閲覧された『本人意思確認手順・拒否回答』を起点として、さらに一つの関連記録が静かに復元されていた。
『内部観察補助一号・本人確認手順第三改訂』
第二改訂では、『本人へ聞く』という手順を追加した。
けれど第一接続者自身が、今度は聞きすぎた。
拒否の理由を知ろうとし、聞き方を変え、時間を置き、何度も確認した。
その失敗から。
『拒否も回答である』
という規定が作られた。
だが、第一接続者の失敗はそこで終わっていなかった。
『保留回答対象への定期再確認制度』
拒否なら聞かない。
では。
『分からない』
『まだ決められない』
そう答えた相手には、どうするのか。
初期手順では。
『一定期間ごとに再確認』
とされていた。
一年。
あるいは三年。
一定期間を待ち、その後もう一度『どうしますか』と聞く。
管理側から見れば合理的な方法だった。
永久に未処理の案件を残す必要がない。
本人にも考える時間を与えられる。
急かしてもいない。
そう思っていた。
けれど、運用記録には別の言葉が残っている。
『対象個体より申告』
『考える時間を管理側に区切られていると感じる』
さらに。
『再確認時期が近づくたび、回答準備への負担を訴える』
待つ。
そう言いながら。
管理側は時計を持っていた。
一年待った。
だから、そろそろ。
三年待った。
今度こそ。
どうする。
本人からすれば、それは待ってもらっているというより、回答期限を先へ延ばされているだけだったのかもしれない。
復元された記録が続く。
『内部観察補助一号、定期再確認制度の停止を提案』
『本人による再確認時期指定制度へ変更』
そして。
『本人が希望する場合、期限を設定しない』
一万八百年前。
第一接続者は、そこでまた一つ考え直した。
待つとは、管理側が『いつまで』と決めてから待つことではない。
少なくとも緊急性がないなら。
本人へ時計を持たせる。
そして今日。
一万八百年後。
何も知らないノルンは、ほとんど同じことを自分で考えていた。
『次回確認時期を本人に選択してもらう』
『本人から連絡する方式』
『期限未設定』
それでも、古い管理系統は二人を『同一』とは記録しない。
別の個体。
別の時間。
別の経験。
それぞれが自分の失敗と自分の出会いから、似た場所へ辿り着いた。
それだけだった。
さらに最古層の奥で、一つの補足記録がゆっくりと復元される。
『内部観察補助一号・第三改訂補足』
『待つとは』
一度文字が乱れ、古い構造を現在語へ直す処理が進む。
『相手へ期限を渡すことではない』
そして。
『戻ってこられる場所だけを残すこと』
そこで復元は止まった。
ルークは『待つ』ことを覚え始めた。
ノルンも何度も『待ってください』とルークへ伝えてきた。
けれど二人とも。
『待つ』
とは何なのか。
そこまで深く考えたことは、まだなかった。
答えが出るまで、その場でじっとしていることでもない。
相手が戻るまで、毎日その日を数えることでもない。
待つ側も、その間に自分の時間を生きる。
別の誰かと話す。
新しいことを覚える。
仕事をする。
時には笑う。
時には、待っていることさえ一瞬忘れる。
それでも。
相手が戻りたいと思った時に、戻れる場所をなくさない。
そして戻ってきたなら。
『おかえり』
と。
いつものように迎えられる。
それも、一つの待ち方なのかもしれない。
まだノルンも、ルークも、その答えを知らない。
ただ。
一万八百年前。
何度も失敗し。
何度も考え直した。
一人の観察者が最後に残した。
『戻ってこられる場所だけを残すこと』
という言葉だけが。
誰もいない最古層で淡い光を宿しながら。
次の朝を静かに待っていた。




