第三十三話 昔の誰かが残した「勝手に決めない」は、今の私が守りたいものと同じでした
翌朝、ノルンが管理室へ入った時、主様はいつもの机ではなく、部屋の奥に設けられた古代記録用の閲覧台の前へ立っていた。
朝を模した淡い光が白い床へ柔らかく広がり、壁際に並ぶ世界記録の縁を静かに照らしている。遠くでは管理用の小さな鐘が一度だけ鳴り、どこかの世界で新しい観察案件が登録されたことを知らせていた。
以前のノルンなら、主様の姿を見るなり「また古代記録が動いたのですか」と駆け寄っていたかもしれない。けれど今日は、閲覧台へ向かいかけた足を一度止め、まず毎朝の確認を優先した。
「おはようございます、主様」
「おはよう、ノルン」
「朝食は?」
「食べたよ」
「睡眠時間は?」
「七時間四分」
「素晴らしいです!」
満足そうに頷くノルンを見て、主様は少しだけ肩を落とした。
「やっぱり今日もそこからなんだね」
「重要ですので。睡眠不足の状態で一万八百年前の記録など読んではいけません」
「それは正しいけど、世界管理者が部下に毎朝睡眠時間を確認されるようになるとは思わなかったな」
「健康管理のできる上司は素晴らしい上司です。誇ってくださいませ」
「僕が自分で管理してるというより、ノルンに管理されてる気がするんだけど」
「結果が同じなら問題ございません」
「そうかなあ」
主様は困ったように笑ったが、もう本気で抵抗するつもりはないらしい。ここ数日ですっかり恒例になったやり取りである。
「ノルンは?」
「朝食済み、睡眠時間六時間五十二分です」
「夜中に起きた?」
「一度だけ」
「何を考えたの?」
「昨日、復元途中だった『対象が自分で答えを選べるまで』という記録の続きを少々」
「やっぱり考えてたんだ」
「ですが、きちんと『続きは明日です』と自分へ申し上げて寝直しました」
「偉い」
「ありがとうございます!」
褒められた言葉を迷わず受け取り、ノルンは少し胸を張った。主様がそれを見て小さく笑う。
そんな朝のやり取りを終えてから、ノルンは改めて古代記録用の閲覧台へ目を向けた。昨日までと違い、そこには古代記録そのものではなく、安全のため現在の管理体系へ複製された薄い記録板が置かれている。
「それで、続きが復元されたのですね」
「かなりね」
主様の声音から少しだけ軽さが消えた。
「僕が夜中に勝手に開いたわけじゃないからね」
「分かっております」
「今日は疑わないんだ」
「主様は最近、きちんと約束を守ってくださっておりますので」
「最近?」
「あっ、以前が守っていなかったという意味ではございません!」
「分かってるよ」
慌てるノルンを見て主様は笑い、それから複製記録板へ指先を触れた。
『設計補足・復元率九十七パーセント』
「昨日は七十三パーセントでしたね」
「うん。残り三パーセントは署名の一部と補足欄みたいだけど、本文はほとんど戻ってる」
「でしたら――」
ノルンは椅子へ座ろうとしたが、途中で動きを止めた。
「主様。読む前に、一つだけ確認してもよろしいでしょうか」
「もちろん」
ノルンはすぐには腰を下ろさず、自分の胸元へ軽く手を置いた。
「昨日、私は第一接続者が残したと思われる考え方と、ここ最近の私自身が学んできたことが、とてもよく似ていると知りました」
「うん」
「さらに、第一接続者の管理核構造の一部が、後代の管理領域由来個体を生成する基盤へ転用された可能性もございます」
「そこまで出たね」
「ですから今日、もっと私と似た言葉が出てきたとしても、それだけで『これは私の記憶です』とか、『私は第一接続者そのものです』とは決めないように致します」
主様は口を挟まず、静かに聞いている。
「第一接続者の考えと今の私の考えが似ていても、第一接続者が作った制度の先で私が働いていても、私自身がフローラ様達へ会い、迷い、失敗し、考えたことまで、昔の誰かへ渡したくありません」
言葉にしてみると、それは昨日から胸の奥にあった不安の形そのものだった。
第一接続者との関係が深くなるほど、今の自分まで過去の誰かに吸い込まれてしまうような怖さがあった。けれど、今のノルンが経験した時間は誰かの残り物ではない。
主様はしばらくノルンを見つめたあと、ゆっくり頷いた。
「それでいいと思う」
「はい」
「それと、逆もね」
「逆?」
「第一接続者の人生を、今のノルンが全部自分のものにしない」
ノルンの目が僅かに大きくなった。
それは、昨日自分でも考えたことだった。
第一接続者の人生を奪わない。
今の自分の人生も明け渡さない。
関係があったとしても、似ていたとしても、そこに境界を残す。
「はい」
今度は静かに頷いた。
「それも大切に致します」
「じゃあ、読もう」
「はい」
◇◇◇
復元された記録は、昨日途切れた場所から始まっていた。
『観察者がすべきことは、答えを与えることではなく』
『対象が自分で答えを選べるまで』
そこまでは、すでに読んでいる。
その先に、昨夜新しく復元された一文があった。
『隣にいること』
ノルンはすぐには声を出さなかった。文字を追い直し、その意味を確かめるようにもう一度読む。
「……隣にいる」
「うん」
「観察する仕事なのに?」
「続きを見よう」
主様が記録を進める。
『観察とは、離れて見ることだけではない』
『必要であれば近くへ行く』
『ただし、相手の人生を自分のものにしない』
その文章を見た瞬間、ノルンの中へ幾つもの顔が浮かんだ。
スカーレット公爵邸の洗濯場で働くフローラ。王都で話した美咲。三日間ほとんど眠らず、美咲を守ろうとしていた七海。
カイル。
ミレイア。
ユウト。
そして、世界の外側にいるルーク。
観察官になったばかりの頃、ノルンは観察というものをもっと単純に考えていた。
離れて見る。異常を記録する。世界へ悪影響があれば報告する。そして必要なら、管理側が処置を決める。
対象へ近づきすぎれば情が入り、判断が鈍る。それは観察官として避けるべきことだと考えていた。
「主様」
「うん」
「私、最初にフローラ様の洗濯場へ臨時で働きに行くと決めた時、自分でもかなり変なことをしていると思っておりました」
「僕も少し思ってた」
「主様!」
「でも、止めなかったでしょ」
「それはそうですが」
ノルンは少し唇を尖らせたものの、すぐ記録へ視線を戻した。
「今になって考えれば、近くへ行ったからこそ分かったことがございました。フローラ様が『誤転生者』という管理上の言葉だけでは表せない方であることも、スカーレット公爵家で家族と暮らし、洗濯場の方々と働き、笑ったり失敗したりする一人の人間であることも」
洗濯物が風に揺れていた光景を、ノルンは今でも覚えている。
乾いた布の匂い。働く人達の声。忙しい合間に交わされる冗談。
遠くから世界記録だけを眺めていた頃には、決して知ることのできなかったものだった。
「洗濯場の方々も、フローラ様を世界へ入り込んだ異常な存在ではなく、一緒に働く仲間として見ておられました」
「遠くから数値を見てるだけじゃ分からなかった?」
「はい」
主様はそこで少し考え、記録の最後の一文へ視線を向けた。
「でも、近くへ行けば情も移る」
「はい」
「好きになることもある」
「ございます」
「怒ることも」
「かなり」
「助けたいと思うことも」
そこでノルンは少しだけ間を置いた。
「……ございます」
「だから、『相手の人生を自分のものにしない』が必要になるのかもしれないね」
ノルンの表情から笑みが消えた。
近づく。
見る。
聞く。
大切に思う。
そこまではよい。
けれど、大切だから。守りたいから。
そう思った瞬間、相手の代わりに選び始めることがある。
そこまで進めば、七海が美咲へしたことと似る。
そして、ルークが九人へしたこととも。
「難しいです」
「うん」
「離れすぎれば、その方が何を思っているか分からない。でも近づきすぎれば、自分がその方を理解しているつもりになってしまう」
「そして、代わりに決めたくなる」
「はい」
ノルンは手帳を開き、少し考えてから二行を書いた。
『近くで見ることと、代わりに決めることは別』
『大切に思うことと、所有することも別』
横から見ていた主様が頷いた。
「いい記録だね」
「ありがとうございます」
「ルークにも必要そう」
「はい」
ノルンは一度、自分の書いた言葉を見直した。
「私にも必要です」
「うん」
◇◇◇
次の記録からは、制度の説明ではなく、記録者自身の言葉に近い文章が始まっていた。
『私は、外を見ていた時』
『分からないものを怖がった』
『管理する側も怖がった』
『だから切った』
ノルンの表情が少し硬くなる。
一万八百年前。
第一接続者とルークの間にあった名称接続。
管理評議会による強制接続遮断。
この文章を書いた者が誰であれ、その出来事をかなり近い位置から知っていることだけは間違いない。
『必要だったのかもしれない』
『でも』
『正しかったとは、今も言えない』
管理室へ静かな時間が落ちた。
壁際では通常の世界記録が何事もなかったように流れ続けている。どこかの世界では人が起き、働き、笑い、争っている。その全てを支える管理領域の中で、一万八百年前の誰かが残した迷いだけが、今ここへ戻ってきていた。
「主様」
「うん」
「第一接続者は、強制遮断そのものを完全に否定していたわけではないのでしょうか」
「そう読める」
「必要だった可能性は認めている」
「うん」
「でも、正しかったとは言えない」
「たぶんね」
ノルンは目を伏せた。
当時、世界境界は警戒域まで低下していた。
ルークに敵意はなかった。
第一接続者を失いたくない。
ただそれだけだった。
けれど、その感情があまりにも大きな力と結びついていたため、世界境界そのものへ影響してしまった。
管理側は、何かを選ばなければならなかった。
今から結果だけを見て「全部間違いだった」と言うことは簡単だ。
けれど、その時点では誰にも正解が分からなかった。
「この方」
ノルンは小さく息を吐いた。
「当時の管理評議会へ怒っていたでしょうか」
「たぶん怒ってたと思う」
「でも、それだけではなかった」
「僕もそう思う」
ノルン自身も同じだった。
最初、強制遮断という文字だけを見た時には、昔の管理側へ強い怒りを感じた。
けれど調べるほど、彼らが何も考えずに切ったわけではないことが分かった。穏当な方法を幾つも試し、危険性を評価し、内部でも意見が割れた。それでも最後には、世界を守るために決断した。
第一接続者も、きっと。
怒りながら。
傷つきながら。
それでも管理側の事情を理解してしまったのかもしれない。
「……好きです」
「急だね」
「この方を、です」
「分かってるよ」
「昨日より、かなり」
「増えたね」
「はい」
主様が少し笑い、そのおかげで重くなりすぎた空気が僅かに和らいだ。
◇◇◇
記録の続きには、内部観察補助制度が作られた理由がさらに明確に残されていた。
『だから、中を見る仕事では』
『先に決めない仕組みを作る』
ノルンは椅子へ座り直した。
昨日読んだ初期設計思想。
『まず見る』
『次に聞く』
『分からない場合は、決定を保留する』
なぜそんな仕組みが作られたのか。
その理由が、ようやく一本へ繋がり始めた。
「外を見る仕事で、分からないものを怖がった」
「うん」
「管理側だけで先に結論を出した」
「うん」
「その結果、第一接続者とルークは……少なくとも、本人達が望んだ形ではない別れ方をした」
「そうだね」
「だから次に作る仕事では、本人へ聞く仕組みを入れた」
「そう見える」
ノルンは手帳へ慎重に記録する。
『内部観察補助制度――強制遮断の経験を受け、管理側のみで結論を先行させないための制度として設計された可能性』
そして、その下へ忘れずに書く。
『未確定』
「ちゃんと付けたね」
「当然です」
「もう言われなくてもできる」
「成長しておりますので」
「はいはい」
主様が笑う。
次の一文が表示された。
『もし私がまた忘れても』
ノルンの筆が止まった。
『この仕組みが残れば』
『次の誰かは』
『私と同じ失敗をしなくて済む』
ノルンは、すぐにはその意味を言葉へできなかった。
胸の奥へゆっくりと沈んでいく。
第一接続者はルークを忘れた。
自分が何を失ったのかも、はっきり分からなくなった。
それでも感情を消さないと選んだ。
名前を残した。
管理領域へ戻り、新しい仕事を始めた。
そして。
自分自身が、いつかまた何かを忘れる可能性さえ考えていた。
「主様」
「うん」
「この方は、自分がまた忘れるかもしれないと思っていたのですね」
「そうみたいだね」
「だから、自分が覚えていなくても」
「仕組みさえ残れば」
「次の誰かが同じ失敗をしなくて済む」
ノルンは長く息を吐いた。
「私に、そこまでできるでしょうか」
「何が?」
「自分が忘れるかもしれないのに、それでも次の誰かのために仕事を残すことです」
主様はすぐには答えなかった。
何でもすぐ答えない。
最近の二人は、それを以前より大切にするようになっている。
「できるかどうか、今決めなくてもいいんじゃない?」
「……」
「ノルンは今、忘れてない」
「はい」
「なら、今できることをすればいい」
ノルンは少しだけ笑った。
「最近、主様もかなり私達らしくなっておりますね」
「ノルンに移ったのかな」
「何がです?」
「すぐ決めないところ」
「それは良い影響です!」
「自分で言うんだ」
小さな笑いが交わされた。
そのあと、主様が記録末尾を表示する。
『記録者――内部観察補助』
名前は欠損している。
けれど、その横には一つの古い登録印が残っていた。
自動照合。
『第一接続者登録印との一致――確定』
ノルンはゆっくりと目を見開いた。
「……確定」
「うん」
「今までは、第一接続者がこの制度へ関わった可能性が高い、でした」
「そう」
「でも」
「この設計補足を書いた内部観察補助は、第一接続者と同じ登録印を持ってる」
ノルンは一度深く息を吸った。
「では、少なくとも」
「この文章を書いたのは」
「第一接続者本人」
「そう考えていいと思う」
現在のノルンと同一人物だという意味ではない。
そこはまだ違う。
けれど、一万八百年前にルークと繋がり、強制遮断で傷つき、それでも管理領域へ残った第一接続者本人が、今の転生者観察官へ繋がる仕事の考え方を残していた。
そう考えると、胸の奥にあったものが静かに形を変えた。
「……主様」
「何?」
「私、第一接続者へ少しお礼を申し上げたいです」
「何のお礼?」
「今の仕事を残してくださったことです」
「今の観察官制度へ全部そのまま残ったわけじゃないけどね」
「はい。考え方の一部も薄れております」
「うん」
「それでも」
ノルンは、自分の手帳を見た。
そこにはフローラの記録がある。
美咲。
七海。
カイル。
ミレイア。
ユウト。
ルーク。
全部。
転生者観察官だったからこそ出会った。
「何も残っていなければ、私は転生者観察官ではなかったかもしれません」
「そうかもね」
「フローラ様にも、美咲様にも、ルークにも会っていなかったかもしれません」
ノルンは古い記録へ向き直った。
返事など返ってこない。
分かっている。
それでも、少しだけ頭を下げた。
「ありがとうございます」
管理室は静かなままだった。
ただ、一万八百年前の記録だけが淡い光を保っている。
ノルンには、それで十分だった。
◇◇◇
最古層は、さらに関連記録を提示した。
『内部観察補助制度・設置申請』
「まだございますね」
「うん」
ノルンは姿勢を正す。
『申請理由』
その下。
『外在個体との接続事故再発防止ではない』
ノルンの眉が僅かに動いた。
「……違う?」
「続きを」
『管理側による一方的判断の再発防止』
管理室の空気が変わった。
ノルンはその文章を何度も読み返した。
第一接続者は、ルークとの接触に危険がなかったとは記録していない。
むしろ危険はあった。
ルークが第一接続者を大切に思うほど、境界反応は大きくなった。名称接続によって管理領域の位置を外在側から識別できるようになり、接続が深まれば容易には切れなくなった。
事故そのものを二度と起こしたくないなら、最も簡単な答えは一つだった。
外在個体へ接触しない。
名前を与えない。
実際、後世には『名称を与えてはならない』という禁止だけが強く残った。
けれど、第一接続者が新しい制度で防ごうとしたものは、それだけではなかった。
「主様」
「うん」
「第一接続者は、自分とルークのような接続だけを防ごうとしたわけではなかったのですね」
「そうみたいだね」
「分からないものを管理側が怖がること自体ではなく、怖いからといって本人へ聞かずに先に結論を出すこと」
「そこを問題にした」
ノルンは少しだけ喉が詰まるような感覚を覚えた。
フローラは誤転生者だった。
管理記録だけを見れば、本来そこにいてはいけない存在。
でも、本人は何も悪くない。
誰かの娘であり、誰かの友人であり、洗濯場で働き、その世界で生活している。
ルークも、世界の外側にいる未知の存在だ。
非常に大きな力を持つ。
危険になる可能性もある。
だからといって。
危険かもしれない。
その一言だけで。
存在そのものを切り捨ててよいわけではない。
「主様」
「何?」
「私、やはり現在の観察官制度を見直したいです」
「昨日より強く思った?」
「はい」
「第一接続者がそうしたかったから?」
「……」
ノルンは一度答えかけた。
「第一接続者がそう望んだから――」
そこまで言って、自分で止まる。
言葉にした瞬間、どこか違うと気づいたのだ。
「……違います」
主様は何も言わず、続きを待った。
「第一接続者が望んだから、ではございません」
「うん」
「私はフローラ様の件で、管理側も間違えることを知りました。美咲様と七海様の件で、大切に思っていても、本人へ聞かずに代わりに決めることが危険だと知りました」
主様は静かに頷く。
「ルークと九人の件では、善意でも本人の人生を勝手に変えてはいけないと学びました。そして今、一万八百年前にも同じような失敗があり、そこから同じような考え方が生まれていたと知りました」
ノルンは主様を真っ直ぐ見た。
「ですから、第一接続者が望んだからではなく、今の私自身が必要だと思うからです」
主様の表情が僅かに柔らかくなる。
「それなら、進めよう」
「……本当ですか?」
「現行制度と初期設計思想を比較する」
「はい」
「何が残って、何が抜け落ちたのかを見る」
「はい」
「他の観察官にも聞く」
「リベルさん達にも?」
「もちろん」
「それから、制度を変えるなら影響も確認する」
ノルンは強く頷いた。
「はい」
「いきなり変えない」
「はい」
「昔の制度が正しかったから戻す、でもない」
「はい」
「今の制度は間違いだ、と先に決めない」
そこでノルンが少し笑った。
「それこそ、第一接続者が残した考え方と同じですね」
「まず見る」
「次に聞く」
「分からない場合は」
「決めない」
二人は少しだけ笑った。
管理制度そのものを見直す。
かなり大きな話になりそうだった。
けれど、それも今すぐ答えを出す必要はない。
まず、調べるところから始めればよい。
◇◇◇
「では」
ノルンは自分から記録板を閉じた。
主様が少し驚く。
「午前中は、ここまでに致します」
「自分から?」
「はい」
「続き、気にならない?」
「ものすごく気になります」
「でも?」
「九人への面会意思確認も進めます」
主様は少しだけ嬉しそうに笑った。
「本当に成長したね」
「はい!」
「そこは謙遜しないんだ」
「褒められましたので!」
ノルンは手帳を開く。
これまでに確認した者。
ミレイアは会う意思あり。
カイルは保留。
ユウトも保留。
そして昨日確認した一人も、まだ決めずに保留を選んでいる。
残るのは五人。
「本日は、この方へ伺います」
「担当観察官には連絡した?」
「すでに昨日のうちに済ませております」
「お」
「褒めても構いません」
「準備できて偉い」
「ありがとうございます!」
「本当に全部受け取るね」
「いただけるものはいただきます」
ノルンは手帳を閉じかけたが、ふと古代記録へ振り返った。
「主様」
「何?」
「第一接続者が残した『勝手に決めない』を、昔の誰かが言ったから守るのではなく」
「うん」
「今の私自身が守りたいものとして、今日も使ってみます」
主様は穏やかに頷いた。
「いってらっしゃい」
「はい。行ってまいります」
◇◇◇
転移先へ着いたノルンの耳へ、最初に届いたのは大きな水音だった。
町の中央を幅の広い川が流れている。両岸には赤茶色の屋根を持つ建物が並び、水車がゆっくりと回りながら絶え間なく水を掻いていた。
昼前ということもあり、人通りは多い。野菜を積んだ荷車が石畳を通り、籠を抱えた女性達が露店で値段を尋ねている。釣り竿を担いだ子供達が川辺を走り、少し離れたパン屋からは焼きたての小麦と蜂蜜の甘い香りが流れてきた。
ノルンは転移したその場から、すぐに対象者へ向かわなかった。
一度だけ、周囲を見る。
この町には、ノルン達の事情とは関係なく続いている生活がある。
今日これから話をする転生者にも、この町で積み重ねてきた時間がある。
ノルンが来る前から。
そして、帰った後も。
『観察とは、離れて見ることだけではない』
『必要であれば近くへ行く』
『ただし、相手の人生を自分のものにしない』
「……はい」
自分へ言い聞かせるように小さく答え、ノルンは歩き出した。
担当観察官から指定された待ち合わせ場所は、川沿いにある小さな食堂だった。
扉を開くと、昼食前の店内には数組の客がいる。厨房では鍋を動かす音が響き、香草を焼く匂いが漂っていた。窓際の席に、一人の男性が座っている。
世界記録との照合。
一致。
前世名も。
現在の名前も。
ノルンは知っている。
けれど、いきなり前世名では呼ばなかった。
美咲の時、何も説明せず名前を知っていることを示して驚かせた。その失敗を覚えているからだ。
店員へ軽く頭を下げ、本人の前まで進む。
「失礼致します」
男性が顔を上げた。
「はい?」
「お時間をいただき、ありがとうございます」
「……あなたが?」
「はい」
ノルンは胸元へ手を置いた。
「ノルンと申します」
一度、相手の表情を確認する。
警戒している。
当然だった。
「現在、この世界で生活されている方々の中で、別の世界から来られた方について確認を行う仕事をしております」
男性の目が僅かに細くなる。
「それって」
声を少し落とし、周囲へ視線を向けた。
「ここで話していい内容?」
ノルンはすぐに首を横へ振った。
「いいえ」
男性が少し驚く。
「ご希望でしたら、もっと人の少ない場所へ移動致します。ここで続きを聞くかどうかも、ご本人に決めていただきたいです」
男性は数秒ほどノルンを見た。
「変わった人だね」
「最近、よく言われます」
「自覚あるんだ」
「少しずつ」
男性の口元が僅かに緩む。
完全に警戒が解けたわけではない。
それでも、最初より少しだけ空気が柔らかくなった。
「裏に小さい庭があるんだ。そっちなら昼まではあまり人が来ない」
「承知致しました」
ノルンはその提案を受け入れた。
自分が話しやすい場所ではなく。
相手が選んだ場所へ行く。
◇◇◇
食堂の裏庭には、小さな木が二本と、幾つかの木製椅子が置かれていた。
建物を挟んでも川の流れる音が柔らかく聞こえる。乾いた土と草の匂いに、厨房から漏れる香辛料の香りが僅かに混じっていた。
二人は正面から向かい合うのではなく、少し角度をずらした椅子へ腰掛けた。
距離は近すぎない。
出入口も塞がない。
相手がいつでも立ち上がれる。
以前なら、そこまで考えていなかった。
けれど今は、自分が相手からどう見えるのかも考えるようになった。
「それで」
男性が先に口を開いた。
「別世界から来た人って、俺のこと?」
「はい」
「どうして知ってる?」
「そのご説明からしてもよろしいでしょうか」
男性が僅かに眉を上げた。
「毎回そうやって聞くの?」
「大切なことについては」
「面倒じゃない?」
「少し」
「正直だな」
「ですが、面倒だからと省略すると、後でもっと大変になることを学びました」
「何かあった?」
「たくさん」
「聞かないでおく」
「助かります」
男性が少しだけ笑った。
「じゃあ、説明して」
「はい」
ノルンは必要以上のことを一度に並べなかった。
転生者観察官という仕事。
世界の管理記録が存在すること。
前世を知っているのはそのためであり、日常生活の全てを常時覗いているわけではないこと。
そして。
今日ここへ来た理由。
「二十五年前」
その言葉を出した瞬間、男性の表情が変わった。
「あなたがこの世界へ来られた時、本来予定されていたものとは異なる世界へ、第三者によって行き先を変更されていたことが分かりました」
「……」
「その存在を、私達は特定しております」
男性はすぐに質問しなかった。
手元に視線を落とし、風が庭の葉を揺らす音をしばらく聞いている。
ノルンも急かさなかった。
やがて男性が顔を上げる。
「聞くかどうかも、俺が決めていい?」
ノルンの胸が少しだけ温かくなった。
今朝。
第一接続者の記録を読んだ。
『対象が自分で答えを選べるまで、隣にいる』
けれど今この瞬間、ノルンが「はい」と答えるのは、第一接続者がそう書いたからではない。
目の前の相手に選んでもらいたい。
今のノルン自身が、そう思ったからだ。
「はい」
しっかり頷く。
「ご自身でお決めください」
「……そっか」
男性は長く息を吐いた。
「じゃあ今日は、誰がやったのかだけ聞く」
「はい」
「理由は、今はいい」
「承知致しました」
「それと」
「はい」
「そいつに会うかどうかも、今日決めなくていい?」
ノルンは少しだけ笑った。
「もちろんです」
男性の肩から僅かに力が抜けた。
「じゃあ、今日はそこまで」
「承知致しました」
ノルンは、許された範囲だけ説明する。
「その存在は、現在『ルーク』と呼ばれております」
「現在?」
「元々、お名前がございませんでしたので」
「誰が付けたの?」
「私です」
「……」
「何でしょう」
男性が額へ手を当てた。
「世界の外にいる何かを調べてる立場の人が、その相手に名前付けるんだなって」
「私も現在、その件で少々大変なことになっております」
「何したの?」
「名前を付けました」
「それだけ?」
「それだけのはずでした」
男性が耐えきれないように小さく笑った。
「何か、すごい話の途中なのに妙に普通だな」
「私もそう思っておりました」
その短いやり取りのおかげで、庭にあった緊張が少しだけ薄くなった。
「ルーク」
男性は、その名前を自分の口で確かめるように一度呼んだ。
「そいつが、俺をこの世界へ?」
「はい」
「理由は聞かない。今日は」
「承知致しました」
ノルンは続きを言わない。
説明することはできる。
けれど相手が今日はそこまでと決めた。
なら、そこで止める。
「会うかどうかは……保留で」
「承知致しました」
「あと、ルークに」
「はい」
「俺が保留ってことだけなら伝えていい」
「その他のお気持ちや、本日お話しされた内容は?」
「言わないで」
「承知致しました」
ノルンは手帳へ短く記録する。
『面会意思――保留』
『ルークへの伝達許可――保留の事実のみ』
男性が横から覗き込んだ。
「本当にそれだけ書くんだ」
「はい」
「俺が今どう思ったとかは?」
「私が感じたことは別の記録です。それに、ルークへ共有するための記録へ、ご本人から許可されていない内容は混ぜません」
男性が少し驚いたようにノルンを見る。
「そこまでやる?」
「以前、やらずに失敗致しましたので」
「なるほど」
「はい」
少しだけ静かな時間が流れた。
川の音。
庭を抜ける風。
厨房から聞こえる皿の触れ合う音。
その中で、男性はノルンをしばらく見ていた。
やがて。
「じゃあ」
「はい」
「信用してみる」
ノルンの筆が止まった。
「今?」
「今は、少しだけ」
その言葉が嬉しい。
けれど、それだけで全部信用されたとは思わない。
勝手に広げない。
今日もらったものは。
今日もらった分だけ。
「ありがとうございます」
少しだけ。
それで十分だった。
◇◇◇
管理領域へ戻った頃には、夕方を模した淡い橙色の光が管理室へ広がっていた。
主様は通常の世界記録を整理していたが、扉が開くとすぐ顔を上げた。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
「どうだった?」
「面会意思は保留です」
「これで四人目?」
「はい」
「ルークへは?」
「保留であるという事実のみ、伝達を許可されました」
「分かった」
ノルンは自分の席へ座り、手帳を机へ置いた。
そこで初めて、少しだけ深く息を吐く。
「主様」
「何?」
「今日、第一接続者の記録を読んだ後で、実際にご本人へ確認へ行きました」
「うん」
「少し不思議でした」
「何が?」
「昔の方が残した言葉と、今の私がやろうとしていることが、とても似ております」
「うん」
ノルンは一度、自分の手を見る。
「もし第一接続者が作った仕組みや管理核の構造に、私はただ動かされているだけなのではないか。そんなことを、少しだけ考えておりました」
「怖かった?」
「はい」
誤魔化さない。
「ですが」
今日会った男性の顔を思い出す。
どこまで聞くか。
今日決めるのか。
ルークへ何を伝えるのか。
全部。
本人が選んだ。
「実際に目の前の方へお会いした時、第一接続者のことはほとんど考えておりませんでした」
「じゃあ、何を考えてた?」
「この方は今、何を知りたいのか。何を知りたくないのか。どこまでなら私へ話してよいと思っておられるのか」
ノルンは少し笑った。
「それだけでした」
主様の表情が柔らかくなる。
「ですから、大丈夫かもしれません」
「何が?」
ノルンは胸元へ手を置いた。
「今の私は、ちゃんと今を見ております」
主様はしばらく何も言わなかった。
それから。
「うん」
ただ一言。
それだけ答えた。
ノルンも、それで十分だった。
◇◇◇
その夜。
ノルンが自室へ戻り、主様も通常管理業務へ戻ったあと。
誰もいない旧管理領域最古層では、昼間に現在側から閲覧された『内部観察補助制度・設置申請』を起点として、新しい関連記録が静かに目を覚まし始めていた。
『制度設置後・初期運用評価』
『内部観察補助一号記録』
第一接続者は、強制接続遮断によって傷つき、外縁監視者としての適性を失った。
その後、内部観察補助という新しい仕事へ移り、その制度の思想を残した。
けれど。
それで突然、何も間違えない観察者になったわけではなかった。
少しずつ復元された初期運用時の評価には、意外な内容が残されている。
『観察対象との距離――近すぎるとの指摘』
続いて。
『内部観察補助一号、回答』
欠損した文章の中から、一部だけが現在語へ戻る。
『遠すぎれば、声が聞こえない』
さらに。
『近すぎれば、代わりに決めたくなる』
その先。
『だから――』
続きはまだ読めない。
それでも、そこまでで一つ分かることがあった。
第一接続者自身も、新しい仕事を始めた当初から完璧な距離を取れていたわけではない。
対象へ近づきすぎる。
情が移る。
理解したつもりになる。
その結果、相手のためと思って先に判断しようとしてしまう。
第一接続者も、その問題へぶつかっていた。
さらに別の記録が開く。
『内部観察補助制度・第二改訂』
『対象個体への本人確認手順を追加』
初期設計段階から。
『本人へ聞く』
という仕組みが。
完全な形で存在していたわけではなかった。
運用を始め。
失敗し。
そこから。
追加された。
『改訂理由――内部観察補助一号による判断誤り』
そこで一度、解読が止まった。
第一接続者は強制接続遮断によって、管理側が一方的に決める危険を知った。
だから新しい制度を作った。
けれど新しい制度を作った自分自身も、また別の場面で誰かのためを思い、本人へ十分に聞かないまま先に何かを決めた可能性がある。
少しして。
さらに一文が復元された。
『判断誤り対象――管理領域外部由来個体』
その下。
『処分予定個体への本人確認不足』
今のノルンが。
フローラの件で。
犯しかけた失敗。
それとよく似た何かを。
第一接続者も一万八百年前に経験していた可能性が高くなる。
第一接続者は、最初から正しい答えを全て知っていた人物ではなかった。
傷ついた。
考えた。
制度を作った。
それでもまた失敗した。
その失敗を認め。
考え直し。
今度は制度そのものへ新しい手順として残した。
次に同じ立場へ立つ誰かが、同じ間違いを繰り返さないように。
最古層の記録には、さらにもう一つ、復元途中の評価が浮かんでいた。
『内部観察補助一号・再評価』
『観察技術――優良』
『対象理解――高』
『距離管理――要改善』
『本人意思確認――』
そこから先は、まだ戻らない。
けれど。
翌朝。
ノルンがこの記録を見れば。
第一接続者を見る目は。
きっと少し変わる。
憧れるだけの昔の誰かではない。
何でも知っていた完璧な観察者でもない。
自分と同じように誰かへ近づき、気になり、大切に思い、そのせいで時には間違え、指摘され、考え直し、少しずつ仕事のやり方を変えていった。
一人の観察者。
だった。
そして。
その失敗を受けて追加された可能性が高い。
『対象個体への本人確認手順』
それは一万八百年後。
今のノルンが。
九人へ。
一人ずつ。
何度も。
繰り返していることだった。




