第三十一話 封じられていた実施記録を開く前に、まず私自身が見ると決めなければなりませんでした
翌朝、ノルンが管理室へ入った時、主様は珍しく古代記録板ではなく、部屋の中央に浮かぶ薄い光の表示を見つめていた。
いつもの机には温かな飲み物が二つ用意され、日常業務に使う世界記録も整然と閉じられている。昨日までのノルンなら、管理室へ入るなり古代記録板が増えていないかを確認していただろう。けれど今日は、机の上より先に、部屋全体へ漂う僅かな緊張感の方が気になった。
「おはようございます、主様」
「おはよう、ノルン」
「朝食はきちんといただきました」
「今日は先に報告するんだね」
「昨日、『明日の私は朝食を食べた後の私です』と申し上げましたので、有言実行でございます」
「覚えてたんだ」
「もちろんです。それから、主様は?」
ノルンが少し目を細めると、主様は何を聞かれるのか分かっていたらしく、小さく肩を落とした。
「朝ご飯は食べたよ」
「睡眠時間は?」
「六時間四十一分」
「合格です」
「いつから僕はノルンに合否判定されるようになったんだろう」
「最近です」
「そうなんだ……」
いつものようなやり取りに、管理室の張り詰めていた空気がほんの僅かに和らぐ。けれどノルンはすぐ、主様の後ろに浮かぶ表示へ視線を戻した。
「それで、主様。そちらは何でしょうか」
「ノルンが来るまで開かなかったもの」
「……開かなかった?」
その言い方に、ノルンの表情が変わった。
主様は向かいの椅子を示し、自分も机の前へ腰を下ろす。それから管理室中央に浮かんでいた表示を少し拡大した。
『閲覧権限要求』
『対象記録:強制接続遮断時・第一接続者管理核記録』
『封鎖指定あり』
『現管理責任者による承認が必要』
文字を最後まで読んだノルンは、無意識に息を止めていた。昨日の調査を終えた時点では、確かにここまでの記録は出ていなかった。
「昨日の続き、ですね」
「うん。僕達が調査を切り上げた後、最古層から出てきたみたい」
「主様は開かれていないのですか?」
「開いてないよ」
「本当に?」
「ノルン」
「申し訳ありません。ですが、主様もかなり気にされていたので……」
「分かってる。僕だってものすごく気になったから」
怒るどころか、主様は困ったように笑った。
「それでも待ってくださったのですか?」
「これはノルンにも関係している可能性があるからね」
その一言で、ノルンは笑えなくなった。
第一接続者。約一万八百年前、旧管理領域で外縁監視者を務めていたと考えられる存在。第二外縁区画の第七反応群を担当し、世界の外側から届いた意味の分からない信号へ、最初に応答した者。
やがてその相手へ呼称を与え、反対に相手からも呼称を与えられた。現在、ノルン達がルークと呼んでいる境界外存在と、名称接続を結んだ人物である。
そして、ルークが当時の第一接続者へ与えた可能性のある名前は、『ノ――ルン』。
現在のノルンには、本来なら管理領域由来個体に残されているはずの命名管理記録が存在しない。管理領域由来という出自だけでなく、名前、行動傾向、役割への向き合い方まで、第一接続者との共通点が少しずつ増えていた。
それでも、まだ同一人物だと決まったわけではない。その線だけは、昨日まで何度も確認してきた。
「主様。この記録を開けば、第一接続者が強制遮断の時にどうなったのか、もっと詳しく分かる可能性があるのですよね」
「高いと思う」
「そして……私との関係も?」
ノルンは胸元へ手を置きながら尋ねた。
「ある程度は。ただし、どこまで分かるかは開いてみないと分からない」
主様は曖昧に安心させようとはしなかった。むしろ、表示へ視線を戻しながら、静かに続ける。
「それから、封鎖されている理由もまだ不明だよ」
その言葉へ、ノルンも再び表示を見た。
これまで古代記録は、こちらが望んでいなくても勝手に浮かび上がってきた。解読不能だった文字が少しずつ意味を取り戻し、忘れられていた最古層の区画が動き、過去の出来事が現在へ押し寄せてきた。
けれど今回、初めて『閲覧権限要求』が出ている。
つまり古い管理側は、この記録についてだけは、後世の誰もが簡単に読める状態へ残さなかった。意図的に封じたのだ。
「閲覧そのものに危険がある可能性もございますか?」
「ある。見るだけで何かが起きる記録なのかもしれないし、単純に個体情報を保護するための封鎖かもしれない。あるいは第一接続者の管理核へ直接関係する内容だから、本人以外に触れさせないためだった可能性もある」
「では、やはり……」
「全部、まだ分からない」
ノルンは思わず小さく息を吐いた。
「最近、そのお言葉をたくさん聞いております」
「僕も、ここ数日で何回言ったか分からない」
「以前の主様は、もっと何でもご存じの方だと思っておりました」
「幻滅した?」
「いいえ」
ノルンはすぐ首を横へ振った。
「むしろ、主様でも分からないことがあると知ってから、以前より相談しやすくなりました」
「それ、褒められてる?」
「もちろんです」
「じゃあ、いいか」
主様は少し笑ったものの、すぐ真面目な表情へ戻った。
「だから今日は、まず開くかどうかから決めよう」
「主様が決められるのでは?」
「管理責任者として承認するのは僕だよ。でも、見るかどうかはノルンにも決めてもらう」
「私にも?」
「第一接続者がノルンと関係している可能性がある。だったら、僕が『必要だから見る』って勝手に決めるのは違うと思う」
ノルンの胸が僅かに詰まった。
本人へ聞く。勝手に決めない。分からないことを、相手のためという理由だけで処理しない。
この数日、ノルンが何度も学んできたことだった。ルークへも、相手の意思を聞くことや、待つことを教えてきた。
その同じ考え方を、今度は主様がノルン自身へ返してくれている。
「主様」
「何?」
「ありがとうございます」
「まだ何もしてないよ」
「聞いてくださいました。それが嬉しいです」
主様はすぐには何も言わず、ただ少しだけ柔らかく笑った。
◇◇◇
すぐに答えを出さなくてもよいと言われたため、ノルンは一度席を離れ、管理室の窓際へ移動した。
管理領域には、本当の意味での朝日はない。それでも世界側の時間に合わせるように淡い光が満ち、白い床や壁を柔らかく照らしている。遠くでは複数の世界記録が静かに動き続け、管理用の鐘に似た小さな音が一度だけ響いた。
いつもと同じ管理領域であり、いつもと同じ仕事場のはずだった。
けれど、自分が一万八百年前の誰かと繋がっているかもしれないと思うだけで、目に映るものが少し違って見える。
「……私は」
ノルンは窓へ映る自分を見ながら、小さく呟いた。
転生者観察官ノルン。主様の部下で、近頃はスカーレット公爵邸の洗濯場へ臨時雇用として顔を出している。地球では美咲と連絡先を交換するためにスマートフォンを買おうと考えていて、リベルや主様にはよく声が大きいと言われ、ルークには最近ようやく「待つ」ことを覚えてもらっている。
それが今の自分だ。
もし、昔の第一接続者と何らかの関係があったとしても、今ここにいるノルンが消えるわけではない。主様からも、何度もそう言われている。
分かっている。
けれど、怖さまで簡単に消えてくれるわけではなかった。
「怖いです」
誰に向けるでもなく、静かに口にした。
自分の始まりだと思っていた場所よりも、さらに前に別の誰かがいるかもしれない。その誰かはルークと出会い、名前をもらい、関係を持ち、最後には管理側によって強制的にその繋がりを切られた。
そして、記憶を失った。
もし、その人物が何らかの形で自分へ繋がっているのなら。
今の記憶も、今の性格も、今の選択も。
第一接続者の残り物なのではないか。
そんな嫌な考えが、胸の奥から一瞬だけ浮かび上がった。
「……違います」
ノルンは今度は少し強い声で、自分へ言い聞かせた。
まだ、そこまで何も決まっていない。仮に第一接続者の一部を受け継いでいたとしても、今朝朝食を食べたことも、主様へ睡眠時間を確認したことも、美咲や七海と話したことも、ルークへ「待ってください」と言ったことも、今の自分が選んだことだ。
過去に何があったとしても。
今ここで何をするかまで。
昔の誰かへ明け渡す必要はない。
そう考えると、少しだけ呼吸が楽になった。
「ノルン」
背後から主様の声がした。
「はい」
「お茶、冷めるよ」
振り返れば、机の前で主様が一つのカップを持っている。もう一つはノルンの席の前に置かれたままだった。
「主様。今、かなり大切なことを考えておりました」
「うん」
「もう少し余韻を――」
「お茶も大事」
「……」
「飲んでから続きを考えれば?」
あまりにもいつも通りの言い方で、ノルンは思わず少し笑ってしまった。
「はい」
席へ戻り、温かな飲み物を一口含む。味を感じるまで少し時間が掛かったが、胸の奥へ残っていた冷たさは、確かに少し和らいだ。
「決まりましたか」
主様が尋ねる。
「はい」
ノルンはカップを両手で包みながら少し考え、やがて机へ静かに戻した。
「見たいです」
「理由は?」
「知りたいからです」
「それだけ?」
「……いいえ」
ノルンは正直に首を振った。
「第一接続者が誰なのか。私と関係しているのか。ルークと何があったのか。それも知りたいです。ですが、それ以上に」
一度息を整える。
「強制遮断によって何が起きたのかを知らなければ、今の私とルークの接続をどうするべきか判断できません」
「そうだね」
「もし、このまま接続を維持することで世界や管理領域へ大きな危険が生じるのでしたら、私は……切ることも考えます」
最後の言葉は、少しだけ出しにくかった。
ルークはようやく、待つことや聞くことを覚え始めた。九人へ謝ろうとしている。ミレイアは会う意思を示し、カイルとユウトは保留を選んだ。
そんな相手との接続を、自分の口で切る可能性を認めるのは嫌だった。
それでも、本当に世界を壊すほどの危険があるなら、自分の気持ちだけで残すとも言えない。
「ただし」
ノルンは顔を上げた。
「緊急時を除き、ルークへ何も知らせず勝手に切ることはしたくありません」
「うん」
「必要なら、本人にも説明して、一緒に考えたいです」
「分かった」
主様は迷わず頷いた。
「じゃあ、開こう」
◇◇◇
それでも、主様はすぐには承認しなかった。
まず封鎖記録に付随している注意事項を一つずつ確認していく。その慎重さを見て、ノルンも自然と姿勢を正した。
「閲覧者保護項目がある」
「あるのですか?」
「うん」
表示された文章を二人で読む。
『閲覧前確認』
『当該記録には旧管理核直結情報を含む』
『現管理個体への直接適用を禁止』
「直接適用とは?」
「昔の管理核情報を、現在の個体へそのまま流し込むなって意味だと思う」
「流し込めるのですか?」
「当時の技術なら可能だったのかもしれない」
ノルンの表情を見た主様は、すぐ続けた。
「やらないよ」
「まだ何も申し上げておりません」
「顔に書いてある」
「最近、皆様私の顔を読みすぎではございませんか」
「分かりやすいからね」
「不本意です」
言い返しながらも、ノルンは次の注意事項へ視線を移した。
『管理核照合は閲覧用複製体を用いること』
『生体・現管理核との直接同期禁止』
『記憶情報の強制復元禁止』
最後の一文で、ノルンは完全に止まった。
「……記憶情報」
「うん」
「復元できる可能性があるということですか?」
「第一接続者の記録が完全に残ってるなら、可能性はあるみたいだね」
胸が強く鳴った。
もし第一接続者が自分と関係していて。
その記憶を戻せるのなら。
ルークと昔どんな話をしたのか。なぜ『そこにいるから』と返したのか。どんな名前を付け、どんな名前をもらい、強制遮断の瞬間に何を感じていたのか。
全部。
知ることができるかもしれない。
「主様」
「しない」
「まだ何も聞いておりません!」
「聞く前から分かる」
主様の声音が少し真面目になる。
「この記録に第一接続者の記憶が残っていても、今のノルンへ直接入れない。少なくとも、何が起きるか完全に分かるまでは」
ノルンは少し目を伏せた。
知りたい。
けれど、それを今の自分へ流し込んだ時、自分がどうなるのかは分からない。
第一接続者の記憶を持った瞬間。
今の自分が、それに飲み込まれない保証もない。
「承知致しました」
しばらく考えた末、ノルンはゆっくり頷いた。
「私も、直接復元は望みません。今は記録として見ます」
「それがいい」
主様が承認操作を進める。
『現管理責任者確認』
『閲覧目的』
複数の選択肢が表示された。
『歴史調査』
『現接続安全評価』
『旧管理処分検証』
『個体同一性確認』
「全部選ぶ?」
主様が尋ねる。
ノルンはすぐには答えず、四つの項目を一つずつ見た。
そして。
「個体同一性確認は外しましょう」
「いいの?」
「はい」
「かなり気にしてたよね」
「今も気になっております。ものすごく」
「じゃあ、どうして?」
ノルンは少しだけ考えてから、はっきり答えた。
「今日は、第一接続者が私なのかを決めるために開くのではありません。強制遮断で何が起きたのか、現在の名称接続へ危険があるのか、当時の管理側が何をしたのか。それを確認するためです」
主様は数秒、ノルンを見ていた。
やがて、少し嬉しそうに笑う。
「本当に成長したね」
ノルンの目が少し大きくなった。
「……主様」
「何?」
「もう一度お願い致します」
「今の?」
「はい」
「本当に成長したね」
「ありがとうございます!」
「この緊張した流れでも褒め待ちするんだ」
「大切ですので!」
少しだけ笑いが生まれ、張り詰めていた空気が和らぐ。
主様は『個体同一性確認』を外し、『歴史調査』『現接続安全評価』『旧管理処分検証』の三つだけを選択した。
『承認』
表示が一度消える。
次の瞬間、管理室全体へ低く重い音が響いた。
普段の管理系統では聞いたことのない音だった。壁のさらに奥、管理領域そのものの古い骨組みが動き出したような響きに、ノルンは無意識に背筋を伸ばす。
「主様」
「うん」
「少し緊張しております」
「僕もだよ」
「本当に?」
「うん」
「それでしたら……少し安心致しました」
「一人だけ怖いよりは?」
「はい」
その直後、机の奥に置かれていた古代記録板とは違う一枚が、何もない空間からゆっくり姿を現した。
淡い銀色。
中央には、これまで見たものより遥かに複雑な封印印が刻まれている。
『強制接続遮断時・第一接続者管理核記録』
ノルンの呼吸が僅かに浅くなる。
隣には主様がいる。
そのことを一度だけ確かめるように見てから、ノルンは頷いた。
「開くよ」
「はい」
主様が承認を確定する。
銀色の記録板を覆っていた封印が、長い時間を逆に辿るように、静かにほどけていった。
◇◇◇
最初に表示されたのは、映像ではなかった。
第一接続者の管理核状態を記した、乾いた数値と時系列記録である。
『対象個体:外縁監視者――識別名欠損』
『管理核状態:正常』
『名称接続状態:固定』
『第七反応群外在個体との相互認識経路:稼働』
ノルンは黙って読んだ。
少なくとも強制遮断が始まる直前まで、第一接続者の管理核には異常がなかった。
主様が少し先へ進める。
『強制遮断準備開始』
『対象個体へ実施内容通知』
「通知はされていたのですね」
「うん。突然切ったわけではない」
ノルンはそれだけでも、少しだけ胸の緊張が緩むのを感じた。
しかし。
『対象個体、拒否』
次の一文で、すぐに表情が戻る。
『再説明』
『境界安定値低下』
『第七外在個体反応値増大』
『対象個体、遮断延期を申請』
「第一接続者は、最後まで切りたくなかった」
「そう読めるね」
さらに。
『延期却下』
『理由:第二外縁区画安定値、緊急基準到達』
管理側にも、これ以上待てない理由があった。
昨日読んだ記録でも、ルークは第一接続者を失うと思ったことで境界深部へ接触し、第二外縁区画の安定値は警戒域へ入っていた。
そして。
『対象個体、条件提示』
「条件?」
ノルンが身を乗り出す。
『第七外在個体へ説明する時間を要求』
その一文を見た瞬間、ノルンの目が止まった。
第一接続者は、ただ抵抗し続けたわけではない。
最後に。
ルークへ。
説明する時間を求めた。
『要求承認』
「……管理側も、聞いてくださったのですね」
「うん」
当時の管理評議会が、冷酷に一方的な処置を進めただけではなかったことが、また一つ分かった。
主様が付随記録を確認する。
「音声記録が残ってる」
ノルンの身体が僅かに強張った。
第一接続者の声。
もし聞けば、自分と似ているかどうかまで分かるかもしれない。
それは。
今。
まだ。
聞かない方がよい気がした。
「聞く?」
「……音声の前に、文字変換だけお願い致します」
「分かった」
主様はそれ以上勧めなかった。
ノルンが選んだ通り、音声そのものではなく、現在の管理言語へ変換された文章だけが表示される。
一部は欠けていた。
それでも。
『――聞こえる?』
第一接続者の問い。
ルーク側からの反応。
『いる』
『いる』
『行かないで』
ノルンの指先が冷たくなる。
昨日確認した記録。
『行く?』
『いなくなる?』
『嫌』
その続きだった。
『聞いて』
『少しだけ、話せなくなる』
ルーク。
『嫌』
『いなくなる?』
第一接続者。
『いなくならない』
その後、一部の文字が欠ける。
そして。
『忘れても』
ノルンは息を止めた。
「主様」
「見えてるよ」
さらに変換が進む。
『もし忘れても』
『また』
欠損。
その次。
『見つける』
管理室から、世界記録の微かな駆動音さえ消えたように感じた。
『だから』
『待って』
ルークからは、すぐには返事がなかったらしい。
やがて。
『分かんない』
『嫌』
『忘れる?』
第一接続者。
『たぶん』
『でも』
そこでまた一部が欠けた。
『名前』
『残るなら』
ノルンの胸が痛んだ。
第一接続者は、強制遮断によって何が起きるのか、完全には知らなかったのだろう。それでも、記憶に欠損が起きる可能性については説明を受けていた。
それでも。
『また見つける』
と。
ルークへ。
約束した。
『外在個体反応値、一時低下』
『境界安定値、警戒域内で停止』
「ルーク、少し落ち着いたのですね」
「第一接続者の言葉が届いたんだと思う」
「待って、と言われて」
「うん」
ノルンは唇を結び、しばらく記録を見つめた。
次に表示された一文。
『強制遮断実施』
身体が僅かに強張る。
「ここからが管理核記録だね」
「はい」
表示形式が変わった。
数値が急激に増え、処理の進行状況が細かく記録されている。
『相互認識経路切断開始』
『第七外在個体側抵抗反応』
『接続個体側管理核負荷上昇』
『遮断進行率十七パーセント』
『遮断進行率三十一パーセント』
『遮断進行率四十二パーセント』
ノルンは無意識に両手を握っていた。
次の一文で、その力がさらに強くなる。
『接続個体より停止要求』
「途中で……止めてほしいと」
「うん」
『要求却下』
胸の奥へ、昨日感じた怒りが一瞬だけ戻りかける。
しかし。
『理由:遮断処理中断時、接続経路不安定化の危険』
そこで止まった。
途中まで切断を進めた状態から戻す方が危険だった。始めてしまった処理を、もう安全には止められなかったのだ。
『遮断進行率六十八パーセント』
『対象認識情報に欠損発生』
『管理核内接続関連領域へ不規則反応』
『第七外在個体側反応、急激低下』
ルーク側でも何かが失われ始めていた可能性がある。
『遮断進行率八十一パーセント』
『接続個体、対象識別不能兆候』
そして。
『対象個体発話』
その下へ。
たった一つ。
『誰』
ノルンは目を閉じた。
少し前まで。
何度も呼んだ相手。
名前をもらい。
名前を与え。
業務時間外にも会いに行き。
いなくならないと伝え。
忘れてもまた見つけると約束した相手。
その相手へ。
『誰』
「ノルン」
「はい」
「止める?」
主様の問いかけに、ノルンはすぐ答えなかった。
胸が痛い。
怖い。
それでも。
ここで目を逸らせば、今の自分とルークに同じことが起きるかもしれない時、何を選べばいいのか分からない。
「続けます」
「無理はしないで」
「はい」
『遮断進行率九十二パーセント』
『接続個体側感情反応異常』
『対象識別不能』
『ただし情動値高止まり』
相手が誰だったのか分からない。
なのに。
悲しい。
怖い。
何かを失った。
その感覚だけが残っている。
『遮断完了』
数値が一瞬すべて止まった。
そして。
『第七外在個体反応――消失』
『相互認識経路――切断』
『接続個体管理核――損傷』
ノルンの顔から血の気が引いた。
「管理核……」
「うん」
『損傷率十九パーセント』
「十九パーセント」
「致命的ではない。でも、かなり大きい」
『接続関連領域復旧不能』
『管理核基礎構造、一部欠落』
ノルンは胸元へ手を置いた。
「これが、第一接続者がそのまま現在まで残れなかった理由へ繋がる可能性も?」
「あると思う」
さらに記録が続く。
『緊急補修実施』
『管理核安定化』
『個体維持成功』
ノルンはそこで、ようやく一度息を吐いた。
「少なくとも、この時点では生きていたのですね」
「うん」
しかし、記録はまだ終わっていない。
『対象個体、覚醒』
『第七外在個体に関する識別情報なし』
『自己識別名:保持』
「名前は残った」
「ルークから付けられた可能性のある名前だけはね」
『対象個体、強い欠落感を訴える』
『欠落対象を説明不能』
誰を忘れたのか分からない。
何を失ったのかも分からない。
それでも。
何かが。
ない。
そのことだけは分かっている。
『対象個体、外縁区画への復帰を希望』
ノルンの胸が強く締めつけられた。
「理由も分からないのに」
「戻りたいって思ったんだね」
『申請却下』
『理由:管理核損傷および外縁業務適性喪失』
一瞬、ノルンの中へ怒りが浮かんだ。
だが、すぐに記録を見直す。
管理核が損傷し、外縁監視適性そのものを失っている。本人を遠ざけるためだけに申請を拒んだとは、まだ言えない。
「続きがあります」
主様が記録を進めた。
『対象個体、休養区画へ移送』
『経過観測』
『欠落感継続』
『境界部への反復接近行動あり』
すでに別記録で見ていた内容が、ここへ繋がった。
理由を説明できないまま。
何度も。
境界へ戻っていた。
そして。
「ここからが、封鎖された理由みたいだね」
主様の声が少し低くなる。
『管理核損傷原因調査』
『遮断方式に構造上の欠陥を確認』
「……欠陥」
ノルンの声が僅かに震えた。
『名称接続経路のみを切断する想定に対し、接続個体管理核の一部を同一構造として巻き込み切断』
意味を理解するまで、少し時間が掛かった。
「同一構造……?」
「名称接続が、第一接続者の管理核の一部になっていたんだと思う」
「外に付いている連絡路のようなものではなく?」
「うん。長く繋がり続けたことで、接続そのものが第一接続者の構造へ組み込まれていた」
だから。
接続だけを切ったつもりで。
第一接続者自身の一部まで。
一緒に切ってしまった。
ノルンはしばらく何も言えなかった。
「主様」
「うん」
「では、今の私とルークの名称接続も」
「もし同じ深さまで進めば、切断する時にノルンの管理核を傷つける可能性がある」
胸の奥が冷たくなる。
ただし。
今の接続が、すでにそこまで深いとは決まっていない。
そのことも、忘れてはいけない。
「つまり、古い記録に残っていた『名称を与えてはならない』は」
「うん」
「接続そのものが悪いからではなく、深くなったあとに安全に切れなくなる可能性があるから?」
「正確には、切れば相手そのものを傷つける状態にまで接続が深くなる可能性がある、だね」
ノルンは目を伏せた。
第一接続者とルークは。
友達だったのかもしれない。
長い時間。
返事をし。
話し。
名前を呼び。
互いを大切にするようになった。
その関係は。
ただの通信経路ではなく。
第一接続者自身の一部へ。
なってしまった。
「……」
管理室には、遠くで動く世界記録の音だけが残っていた。
今も別の世界では誰かが生き、笑い、泣き、仕事をし、今日を過ごしている。
けれどノルンは、すぐには動けなかった。
「ノルン」
「はい」
「休憩する?」
以前なら。
続きを。
と答えていただろう。
けれど今は、自分の胸が重く、頭が少し熱くなっていることに気づいていた。
「はい」
ノルンは自分から頷いた。
「お願い致します」
◇◇◇
休息区画へ移動してから、ノルンはしばらく何も話さなかった。
主様も急かさない。
小さなテーブルの上には、温かな飲み物と焼き菓子が二つずつ置かれている。甘い香りはしていたが、ノルンは最初の数分、手を伸ばす気になれなかった。
頭の中では。
『誰』
という一文字が。
何度も。
繰り返されていた。
少し前まで、名前を呼んでいた。
大切にしていた。
忘れてもまた見つけると約束した。
それなのに。
ある瞬間。
誰なのか分からなくなる。
そして。
胸だけが。
痛い。
なぜ痛いのかさえ。
分からない。
「……嫌です」
ようやくノルンが口を開いた。
「うん」
「とても嫌です」
主様は否定せず、静かに頷いた。
「ですが、当時の管理評議会も、最初からこうなると知っていたわけではないのですよね」
「そうだね。識別障害や記録欠落の可能性は予測していた。でも、管理核そのものを十九パーセントも巻き込むとは分かってなかった」
「……はい」
ノルンはようやく焼き菓子を一つ手に取り、小さく齧った。
甘い。
少し遅れて、その味が分かる。
「主様」
「何?」
「第一接続者は、管理評議会を恨んだでしょうか」
「分からない」
「はい」
「そもそも、何をされたのかをどこまで覚えていたのかも分からないからね」
その答えも、少し辛かった。
怒りたい相手さえ分からない。
失ったものも分からない。
でも。
失った痛みだけ。
残っている。
「ノルン」
「はい」
「今、第一接続者を自分だと思ってる?」
突然問われ、ノルンは少しだけ動きを止めた。
「……少し」
正直に答える。
「でも、まだ決めません」
「うん」
「第一接続者の管理核が損傷したことと、今の私へどう繋がるのかは、まだ分かっておりません」
「そこは出てないね」
「ですから私は、今の私のまま続きを見ます」
主様は少し笑った。
「休憩の後でね」
「……」
「十五分」
「分かっております」
「あと九分」
ノルンは思わず主様を見る。
「私が十二分と交渉する前に先回りされました」
「学習した」
「主様まで成長しております!」
「褒められた」
「そこは私の役目です!」
思わず笑いが漏れる。
重かった空気が、ようやく少しだけ軽くなった。
◇◇◇
十五分後、二人は管理室へ戻った。
封鎖記録は開かれたままだが、先ほどよりノルンの呼吸は落ち着いている。
「続けます」
「うん」
次に表示された項目は。
『管理核損傷後処理』
『対象個体の通常業務復帰困難』
『外縁監視適性:喪失』
『管理核再構成を検討』
「再構成」
「今まで仮説に出てたものへ繋がりそうだね」
ノルンの緊張が再び少し強くなる。
『完全再構成:危険性高』
『部分再構成:実施可能』
『対象個体本人へ選択確認』
ノルンの目が大きくなった。
「本人へ聞いた」
「うん」
その事実が、とても大きく感じられた。
強制遮断については時間がなく、最終的に本人の拒否を押し切る形になった。それでも、その後の再構成については、管理側が第一接続者へ選択を返している。
『対象個体、部分再構成を希望』
そして。
『条件』
『自己識別名の保持』
ノルンの呼吸が止まりかける。
「名前」
「うん」
『感情残滓を削除しないこと』
さらに。
胸が。
痛んだ。
第一接続者は、誰を大切にしていたのか分からない。
なぜ胸が痛むのかも分からない。
それでも。
その感情を。
消さないことを。
選んだ。
「主様」
「うん」
「この方は……忘れたくなかったのでしょうか」
「何を忘れているかも分からないのにね」
「はい」
記憶そのものは戻らない。
けれど。
心へ残った何かまで。
なかったことにするのは。
嫌だった。
『対象個体発言記録』
その項目を見て、ノルンは少し身を乗り出した。
『理由は分からない』
『でも』
『これは』
一部欠損。
そして。
『私のもの』
ノルンの目が僅かに潤む。
『消さないで』
「……」
第一接続者は。
記憶がなくても。
自分の気持ちだけは。
自分のものだと。
選んだ。
「主様」
「うん」
「私、やはりこの方を好きです」
少し泣きそうな顔のまま、ノルンは笑った。
「自分かもしれないけど」
「それでもです」
「うん」
主様も少しだけ笑った。
記録はさらに続く。
『部分再構成実施』
『損傷領域を封鎖』
『管理核基礎機能維持』
『接続関連構造――残存』
ノルンの眉が動いた。
「残存?」
「完全には消えてないみたいだね」
「では、強制遮断は失敗した?」
「表面上の相互認識経路は切れた。でも、管理核の奥に接続残滓が残ったんだと思う」
それなら。
古い管理領域が現在のノルンとルークの接続へ反応したことにも、説明がつくかもしれない。
もちろん。
まだ推測。
けれど。
大きな手がかりだった。
『対象個体、管理業務復帰』
「復帰できたのですか?」
「外縁監視者ではないみたい」
その下。
『新規職務:内部観察補助』
ノルンの表情が変わった。
「内部……」
「世界の外を見る仕事から」
「世界の中を見る仕事へ?」
「そうみたいだね」
現在の転生者観察官と、まったく同じ職務ではない。
けれど。
方向性は明らかに近い。
第一接続者は、外を見る仕事へ戻れなくなったあと。
今度は。
世界の中にいる誰かを。
見る仕事へ移った。
「主様」
「うん」
「この方、今の観察官の前身に近い役割へ移られた可能性がございますね」
「あると思う」
また一つ。
現在のノルンと。
第一接続者の間に。
共通点が増えた。
でも。
今は。
決めない。
ノルンは自分へそう言い聞かせ、続きを読む。
『再構成個体、新規識別登録』
『旧識別情報、一部欠落』
『自己識別名――保持』
その下。
欠けた文字。
『ノ――ルン』
ノルンは自分の胸元へ手を置いた。
「部分再構成を受けても、名前は残った」
「本人が残したいって望んだからね」
「はい」
その事実は。
少しだけ。
嬉しかった。
『その後の継承記録――別区画』
「別区画?」
「この記録はここまでみたい」
ノルンは僅かに残念そうな顔をした。
けれど、すぐに自分の状態を確認する。
胸の中はいっぱいだった。
頭も少し疲れている。
今日は。
十分。
「主様」
「うん」
「第一接続者が、強制遮断後も管理領域で生きたこと」
「うん」
「本人へ選択が返され、その方自身が感情を残すと決めたこと」
「うん」
「そして、新しい仕事へ戻ったこと」
「うん」
「分かりました」
強制遮断で全てが終わったのではない。
壊れた。
失った。
それでも。
第一接続者は。
その後。
自分で。
選び直した。
「そして今の私との関係は」
「そこは次だね」
「……はい」
「ノルン、今日はもう十分」
以前なら。
その後の継承記録を。
すぐに探していたかもしれない。
でも今は。
自分で。
止められる。
「今日は、ここまでに致します」
「うん」
「主様」
「何?」
「褒めていただいても」
「よく止められました」
「ありがとうございます」
ノルンは少し笑いながら、手帳を閉じた。
◇◇◇
その日の記録整理は、必要な範囲へ絞った。
ノルンは一行ずつ、事実と推測を混ぜないよう慎重に書いていく。
『強制接続遮断前、第一接続者へ実施内容を通知』
『第一接続者、遮断延期を申請。却下理由は第二外縁区画安定値の緊急基準到達』
『第一接続者は第七外在個体へ説明する時間を要求し、管理側が承認』
『第一接続者、「忘れてもまた見つける」と伝えた可能性あり』
そこで筆が少し止まった。
けれど、ノルンは続ける。
『強制遮断中、第一接続者・第七外在個体双方に認識欠損が進行した可能性』
『第一接続者、遮断途中に停止要求。処理中断時の危険性により却下』
『遮断後、第一接続者管理核に十九パーセントの損傷』
『名称接続経路が管理核の一部と構造的に同化していたため、接続のみを切断する処理が管理核本体を巻き込んだ可能性』
『旧管理側は遮断方式の構造欠陥を確認』
『第一接続者、管理核部分再構成を選択』
『再構成条件:自己識別名保持/感情残滓を削除しない』
『第一接続者、「理由は分からないが、この感情は自分のものなので消さないでほしい」と希望した記録あり』
『再構成後、外縁監視適性は失われたが、内部観察補助として管理業務へ復帰』
『第一接続者名称断片「ノ――ルン」は再構成後も保持』
『その後の継承記録は別区画に存在』
最後。
『現ノルンとの同一性・継承関係は未確定』
そこまで書き、ノルンは長く息を吐いた。
「主様」
「何?」
「今日は少しだけ、第一接続者が遠い方ではなくなった気が致します」
「自分かもしれないから?」
「それもございます」
ノルンは少し考えてから、柔らかく笑った。
「ですが、それよりも。忘れてしまっても、理由が分からなくなっても、自分の中へ残った気持ちを『私のもの』だと選んだ方だったことが分かったので」
「うん」
「それが、何となく好きです」
「そっか」
主様も少し笑う。
「じゃあ明日は、その後の継承記録だね」
「はい。内部観察補助になった第一接続者が、その後どうなったのかを調べます」
「ただし」
「九人への面会意思確認も忘れておりません!」
「本当に?」
「もちろんです!」
主様がじっと見る。
ノルンも見返す。
数秒後。
「……次の方は」
「ノルン?」
「進行管理上、確認致します」
「忘れてるじゃん」
「違います! 確認です!」
「便利な言い方を覚えたね」
「主様!」
管理室へ少し大きな声が響き、主様が笑った。
ノルンも、少し遅れて笑う。
その声が。
自分には。
少し嬉しかった。
一万八百年前の第一接続者が何者であったとしても。
今。
ここで。
怒ったり。
笑ったり。
主様へ大きな声を出したりしている。
今の自分は。
確かにいる。
◇◇◇
ただし、その日の調査が終わったあと。
旧管理領域の最古層では、ノルン達の知らない処理が再び静かに動き始めていた。
『強制接続遮断時・第一接続者管理核記録――閲覧完了』
『現管理責任者承認を確認』
『次段階照合条件成立』
昨日まで、接続残滓の比較結果は九十二パーセントだった。
そこへ新たに、第一接続者の管理核再構成情報が追加される。
『旧接続残滓』
『再構成後管理核基礎構造』
『現個体管理核基礎構造』
三つの情報が、長い時間をかけて比較されていく。
名前だけではない。
記憶だけでもない。
管理核がどのように組み直され、何を残し、何を失ったのか。
現在のノルンが持つ管理核の基礎構造と、それがどこまで重なるのか。
処理の末。
『再構成構造一致率――八十七パーセント』
高い数値。
けれど。
『同一個体と断定不能』
古い管理系統は、やはりそこで結論へ飛ばなかった。
『継承構造の可能性』
さらに照合が進む。
『旧個体管理核の一部構造が、後代管理個体生成基盤へ転用された可能性を検出』
それは、今までノルン達が考えていなかった別の可能性だった。
第一接続者が、そのまま現在のノルンとして生き続けているのではない。
第一接続者の管理核の一部。
損傷後も残された基礎構造の何か。
それが長い時間の中で、後世の管理領域由来個体を生み出すための基盤へ転用された可能性。
つまり。
現在のノルンは。
第一接続者本人ではないのかもしれない。
けれど。
完全に無関係でもない。
記憶をそのまま引き継いだわけでもなく、人格が同一でもなく、それでも昔の誰かが持っていた何かが、今のノルンの中へ残っている可能性がある。
『転用経路照合』
表示が進む。
すると、新たな記録区画が反応した。
『内部観察補助制度・初期設計記録』
第一接続者は、強制遮断後、外縁監視者へ戻ることができなかった。
代わりに就いたのが。
『内部観察補助』
世界の外側を見る仕事ではなく。
世界の内側にいる誰かを。
見守る仕事。
その制度が後に何度も形を変え、長い時間を経て。
現在の。
『転生者観察官』
へ繋がった可能性があった。
さらに。
『初期設計者――』
文字がそこで止まる。
名前はまだ解読できない。
けれど、その横へ一つの境界印が現れた。
第一接続者の記録に残されていたものと、同じ印だった。
第一接続者は、ただ古い時代の観察官に近い存在だっただけではない。
世界の外を見る仕事を失った後。
今度は。
世界の中にいる誰かを。
勝手に変えず。
ただ見るための仕組み。
その始まりへ。
関わった可能性が出てきた。
そして今。
その仕事の先に。
ノルンがいる。
転生者観察官として。
誰かの人生を、管理側の都合だけで決めないように。
本人へ聞くことを学び。
待つことを学び。
自分の判断だけで相手の未来を決めないように。
何度も失敗しながら。
少しずつ。
仕事の意味そのものを。
考え直している。
一万八百年前。
第一接続者は、強制遮断によって何かを失った。
記憶を失い。
外縁監視者としての仕事を失い。
管理核の一部まで傷ついた。
それでも。
残すものを。
自分で選んだ。
感情を残した。
名前を残した。
そして。
別の仕事を始めた。
その先に何が続いたのか。
まだ誰も知らない。
◇◇◇
同じ頃。
自室へ戻ったノルンは、最古層でそんな照合が進んでいることなど何も知らず、寝台へ入る前に机へ置いた手帳を眺めていた。
今日。
何度も目にした。
一文。
『忘れても、また見つける』
第一接続者が。
ルークへ。
残した。
かもしれない。
約束。
今のルークは。
覚えていない。
第一接続者が誰だったのかも。
まだ分からない。
それでも。
「もし、本当に」
ノルンは自分の胸元へそっと手を置いた。
「見つけ直せたのでしたら」
一度だけ目を閉じる。
今。
自分は。
世界の外にいた存在へ。
『ルーク』
という名前を付けた。
相手も。
自分を。
『ノルン』
と呼んでいる。
「少しだけ」
ノルンは小さく笑った。
「嬉しいですね」
それ以上、過去へ意味を足さなかった。
まだ。
第一接続者を自分だとは決めない。
今の自分を。
昔の誰かへ。
明け渡さない。
けれど。
一万八百年前。
誰かが。
忘れてしまっても。
失ってしまっても。
もう一度見つけると。
約束していた。
その相手を。
今。
自分が。
ルークと呼んでいる。
それだけは。
偶然であっても。
少し不思議で。
そして。
確かに。
少しだけ。
温かかった。




