第二十八話 名前を忘れたのはルークだけだと思っていましたが、第一接続者の記録にはもっと困ることが残っていました
翌朝、管理室へ入ったノルンは、扉を閉めたところでぴたりと足を止めた。
「……主様」
「おはよう、ノルン」
「おはようございます」
挨拶そのものはいつも通り返したものの、ノルンの視線は主様へ向いていなかった。その向こう、管理室の中央に置かれた机の上へ釘付けになっている。
昨日まで三枚だった古代記録板が、四枚になっていた。
しかも、増えた一枚だけが開かれている。淡い光を帯びた表面には、昨日まで存在しなかった古代文字が幾つも浮かんでいた。
ノルンは数秒それを見つめたあと、ゆっくりと主様へ顔を向ける。
「主様」
「うん」
「何時間眠られましたか?」
「そこから?」
「そこからです」
真顔だった。
昨日の調査では、『接続喪失時、相互認識の――』という非常に気になるところで記録が途切れている。あれだけのものを目の前にして、主様が自分の帰ったあと一人で夜更けまで調査を続けていた可能性を、ノルンはまったく信用していなかった。
「六時間四十八分」
「……本当ですか?」
「今日は秒まで必要?」
「必要であれば確認いたします」
「六時間四十八分十二秒」
「素晴らしいです!」
「僕、世界管理者なんだけど」
「存じております」
「最近、部下に睡眠時間を報告するのが日課になってない?」
「健康管理も重要なお仕事です」
「誰の仕事?」
「私のです」
「いつ決まったの?」
「今です」
主様が呆れたように息を吐く。それでも口元には小さな笑みがあった。
「ノルンは?」
「六時間三十七分です」
「夜中に起きた?」
「一度だけです」
「何考えた?」
「第一接続者です」
「やっぱり」
「ですが、その後はきちんと眠りました」
「偉い」
「ありがとうございます!」
「素直だなあ」
褒められたノルンは、少しだけ胸を張った。
もっとも、その間にも視線は何度か机へ戻っている。本人なりに我慢しているらしいが、四枚目の記録板が気になって仕方がないことは、誰が見ても明らかだった。
「ノルン」
「はい」
「朝ご飯」
「……」
「まだ何も言ってないよ」
「分かっております」
「顔が『先に一行だけ読みたいです』って言ってる」
「一行だけでしたら問題ないのでは?」
「駄目」
「では二行」
「増えたね?」
「交渉です」
「朝ご飯」
「……はい」
今日も負けた。
ノルンは名残惜しそうに記録板から視線を外し、自分の席へ座った。用意されていたパンと卵料理、それから温かなスープを食べ始める。
昨日よりも意識して、古代記録を見ないようにした。
けれど、一度目は耐えられても二度目になると気になり、三度目にはスープを飲みながら視線だけが横へ流れる。そして四度目には完全に記録板を見てしまったところで、向かい側にいる主様と目が合った。
「……食べております」
「うん」
「きちんと噛んでおります」
「うん」
「ですから少しくらい見ても」
「駄目」
「厳しいです」
「昨日、ユウトのところへ行く直前にも新しい記録が出たけど、それでも予定を優先できたでしょ」
「はい」
「だから今日もできる」
その言葉に、ノルンの手がわずかに止まった。
以前なら、主様に止められたから我慢するのだと思っていたかもしれない。けれど今は、ほんの少し違う。
調べたいことがある。知りたいことがある。そして、知ることが少し怖くなってきたものもある。
だからこそ、食事をする。眠る。すでに決めた予定を守り、他の誰かとの時間を古代記録だけで押し潰さない。調査を続けるための自分自身を、きちんと残しておく。
佐倉七海との関わりの中でノルンが覚えたことは、たぶんそういうことだった。
「……はい」
今度は素直に頷き、最後まで朝食を終える。温かな飲み物もきちんと飲んでから、ノルンは満足そうに手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
「よろしい」
「では!」
「昨日も同じだったね」
「昨日より一枚増えております!」
「そうだね」
「なぜ増えたのですか!」
「僕が出したんじゃないよ」
主様が四枚目の記録板へ視線を向ける。
「昨日、ノルンが帰ったあと、古い区画から転送されてきたんだ」
「転送?」
「うん。正確には、今まで記録として認識されていなかったものが、こっちの管理系統へ接続されたみたい」
「名称接続について調べ始めたことが原因でしょうか」
「可能性はある。でも、まだ分からない」
「……また分からないことが増えました」
「今回ずっとそれだね」
「一つ分かるたびに二つ増えております」
「調査ってそういうものだから」
「嬉しくありません」
「でも気になる?」
「ものすごく」
「知ってる」
主様が四枚目の記録板をノルンの正面へ少し移動させる。それだけでノルンの表情から先ほどまでの軽さが消え、観察官としての真剣なものへ変わった。
「昨日の続きから確認しよう」
「はい」
昨日、最後に確認できた文章。
『接続喪失時、相互認識の――』
その続きを、四枚目の記録板が保持していた。
『接続喪失時、相互認識の保持を保証せず』
ノルンはすぐに結論を出さなかった。一度目は黙読し、二度目は言葉の意味を確かめるようにゆっくりと目で追う。
「……『保持を保証せず』」
「うん」
「相互認識そのものが消える可能性がある、ということでしょうか」
「可能性はある」
「ですが、『必ず消失する』とは書かれておりません」
「そこは大事だね」
「はい。あくまで『保証せず』です」
ノルンは手帳を開き、まず原文をそのまま書き写した。
『接続喪失時、相互認識の保持を保証せず』
その下へ、少し間を空けて自分たちの現時点での解釈を書く。
『相互認識消失の可能性あり。ただし必発とは未確定』
「ちゃんと分けたね」
「昨日、主様がされていたので」
「見てたんだ」
「はい」
「いいこと覚えた」
「褒められました」
「そこ拾う?」
「大切です」
わずかに緊張が緩む。
しかし、次の文章を読んだ瞬間、その笑みは自然と消えた。
『第一接続者――接続喪失後、対象認識欠損』
「……対象認識」
「うん」
「第一接続者側に、欠損が起きた」
「少なくとも、この一文だけならそう読める」
「では、昨日確認した『記憶』『欠損』という記録は……」
「第一接続者についてだった可能性が上がったね」
「ルークだけではなく、名前を付けた側にも何かが起こる」
ノルンは背筋を伸ばしたまま、しばらく動かなかった。
昨日、主様から怖いかと聞かれた時、ノルンは「少し」と答えた。
今は、その「少し」が昨日より大きくなっている。
自分はルークへ名前を付けた。そして古い記録では、それによって名称接続が成立したとされている。もし接続を失った時、何かが起こるのだとしたら、それはもう遠い昔の誰かだけの話ではなかった。
「続きがございます」
「うん」
次の行へ視線を移す。
『対象認識欠損――第七外在個体に関する識別情報の保持不能』
ノルンの指先が、手帳の上で止まった。
「識別情報……」
「名前とか、誰なのかとか」
「存在についての記憶そのものも含まれるのでしょうか」
「その可能性は高いと思う」
「つまり、第一接続者は接続を失ったあと、第七外在個体を……」
そこで言葉を止める。
口にしてしまえば簡単だった。
けれど、その簡単な言葉が示すものを考えると、すぐには言いたくなかった。
「……忘れた?」
主様は即座には頷かなかった。
「今ある記録だけなら、その可能性はかなり高い。でも、何もかも全部とは限らない」
「全部ではない?」
「次を見て」
さらに下へ視線を移す。
『感情残滓あり』
たった六文字だった。
けれどノルンは、先ほどまでの長い記録よりも、その短い文章を長く見つめた。
「……感情」
「残ったみたいだね」
「記憶がなくても?」
「少なくとも、この記録では」
第一接続者は、第七外在個体が誰だったのかを思い出せなくなった。名前も、存在を識別するための情報も保持できなくなった可能性が高い。
それなのに、感情だけが残った。
「もし、とても大切な方だったとして」
「うん」
「その方のことだけ忘れてしまって、大切だったという気持ちだけが残ったら……それは、どのような感じなのでしょう」
「……分からない」
主様もすぐには答えられなかった。古代記録へ視線を向けたまま、しばらく考えてから静かに続ける。
「何かが足りない、って感じるのかもしれないね」
「何が足りないかは分からないのに?」
「うん」
ノルンは想像した。
誰かと話していた。誰かを呼んでいた。その誰かから自分も呼ばれていた。
楽しかったこともあったかもしれない。嬉しかった日も、腹を立てた日も、喧嘩した日もあったかもしれない。そんな時間を幾つも積み重ねたあと、ある日突然、その相手だけが記憶から抜け落ちる。
顔も分からない。名前も分からない。どんな声だったかも思い出せない。
なのに心のどこかには、確かに誰かを大切にしていた跡だけが残っている。
「……嫌です」
ノルンは胸元へ置いていた手を、わずかに握った。
「それは、とても嫌です」
「うん」
主様は否定しなかった。大丈夫とも言わず、ただノルンが自分で考えられるだけの時間を残してくれた。
その沈黙の中で、ノルンは何度か小さく呼吸する。
「ですが、まだ第一接続者の話です」
「そうだね」
「私にも同じことが起こるとは決まっておりません。第七外在個体との接続を失った時に、必ず起こるとも書かれていない」
「うん」
「でしたら、続きを確認します」
「そうしよう」
怖いから止めるのではなく、怖いからこそ決めつけない。
その姿勢を崩さないまま、ノルンは次の文章を読んだ。
『第一接続者――対象認識欠損後も境界部へ反復接近』
「反復接近……何度も来た?」
「そういう意味だと思う」
「境界部とは、第七外在個体がいた場所でしょうか」
「それもまだ分からない。でも、その可能性はある」
さらに、その下。
『理由申告不能』
ノルンの眉がわずかに下がった。
「覚えていないのに、何度も来た」
「うん」
「なぜ来たのか聞かれても、本人にも説明できなかった」
「そう読めるね」
先ほどの『感情残滓あり』という一文が、急に重くなった。
「……会いたかったのでしょうか」
「可能性はある」
「でも、誰に会いたいのか分からない」
「うん」
管理室に長い沈黙が落ちる。
部屋の端では、幾つもの世界記録が静かに流れ続けていた。どこかの世界では朝になり、人々が起き、働き、食べ、誰かと笑い合っている。誰か一人が大切な存在を忘れたとしても、世界そのものは何事もなかったように進んでいく。
そんな中で、理由も分からないまま何度も同じ場所へ戻ってくる者がいた。
何を探しているのか本人にも分からない。
それでも、そこへ行かなければならないような気がしたのかもしれない。
「……ルークは」
ノルンが小さく呟く。
「第一接続者が何度も来ていたことを覚えているのでしょうか」
「昨日の様子を見る限り、難しそうだね」
「はい」
ルークは、『昔、いろんな名前で呼ばれた気はする』と言っていた。
誰が呼んだのか。どんな名前で呼ばれたのか。それは覚えていない。
「でも、第一接続者だけが忘れたとは限りません」
「そうだね」
「ルーク側にも記憶欠損が起きた可能性は残っています。もしそうなら……」
「両方が、互いを忘れた可能性もある」
それは、先ほどよりもさらに嫌な想像だった。
互いに誰かがいたことだけが心のどこかへ残っている。けれど、誰だったのか思い出せない。会いたい理由も、探している理由も、自分たちがかつて互いを何と呼んでいたのかさえ分からない。
ノルンは古い禁止文へ視線を戻した。
『名称を与えてはならない』
「接続を生むこと自体が危険なのではなく、接続が失われた時の危険を避けるため……?」
「その可能性は上がったと思う」
「でも、まだ決めない」
「うん」
ノルンは頷き、手帳へ新たな項目を書き加えようとしたところで、ふと手を止めた。
「主様」
「何?」
「そもそも接続は、どうすれば失われるのでしょう」
「……そこなんだよね」
主様の表情も少し変わった。
「僕も次に調べるべきだと思ってた」
「名前を呼ばなくなっただけで消える?」
「分からない」
「距離が離れすぎると?」
「分からない」
「どちらかの死亡?」
「可能性はある」
「管理者による意図的な切断や、管理系統からの干渉は?」
「それもあり得る」
分からない。
分からない。
分からない。
けれど以前のノルンなら、その分からなさを埋めるために推測を重ねすぎていたかもしれない。今は手帳へ、分からないものを分からないまま記録できる。
『未確認――名称接続の喪失条件』
『自然消失/距離/死亡/意図的切断/管理干渉等、いずれも未確定』
「もし第一接続者が亡くなったために接続が切れたのでしたら、防げない場合もあります」
「そうだね」
「名前を付けたら永遠に離れられない、ということでもない」
「それはそれで困るね」
「とても困ります」
「ノルン、ルークと永遠に?」
「……」
ノルンは想像してしまった。
千年。
一万年。
百万年。
世界が増える前から存在しているというルークに対して、自分は観察官だ。普通の人間とは比べものにならないほど長く存在できるとしても、ルークと同じなのかは分からない。
「主様」
「何?」
「私、ルークより先に寿命が来るのでは?」
「たぶん」
「……」
「今さら気づいた?」
「考えないようにしておりました!」
「何で?」
「規模が大きすぎるからです!」
主様がとうとう笑った。
「でも、観察官もかなり長生きだよ」
「存じております!」
「じゃあ当分大丈夫」
「その『当分』は何年ですか!」
「さあ」
「主様!」
重くなりすぎていた空気が、少しだけ緩んだ。
それでもノルンの胸には、新しい問題が残っている。
いつか接続が切れる可能性がある。
その時、自分はルークを忘れるのか。
ルークも、自分を忘れるのか。
机の端へ視線を移す。
昨日、ルークが最後に残した文字がそこにあった。
『また呼ばれるまで待ってる』
そして本当に待っている。
今朝はまだ、一度も自分から割り込んできていない。
「主様。ルークへ、このことを話しますか?」
「ノルンはどうしたい?」
問い返され、少し考える。
「……まだ、話しません」
「僕もそれでいいと思う」
「隠すつもりではございません。ですが、情報が不完全すぎます。第一接続者に何が起きたのか、接続喪失条件は何なのか、ルーク側にはどのような影響があったのか……少なくとも、何を説明するべきか整理できるところまでは確認したいです」
「そうしよう」
その時だった。
四枚目の古代記録板が、淡く光った。
二人が同時にそちらを見る。
「主様」
「僕、何もしてないよ」
「私もです」
新しい文字が浮かび上がる。
『第一接続者――』
そこで止まった。
十秒。
二十秒。
待っても続きが出ない。
「……焦らしますね」
「記録に言っても仕方ないよ」
「ですが、ここで止まりますか普通!」
「待とう」
「はい……」
さらに少し経ったところで、ようやく次の文字が現れた。
『第七外在個体への名称付与記録――』
ノルンの呼吸が浅くなる。
「名前……昔のルークの?」
「かもしれない」
続いて現れた文字はひどく崩れていた。完全には読めない。それでも文章ではなく、短い名称であることだけは分かる。
「主様、解読できませんか?」
「待って。記録そのものには触れずに、管理系統から解読補助だけかける」
一つ。
また一つ。
古代文字が現在の管理文字へ置き換えられていく。
そして表示されたのは、欠けた名称の末尾らしき、たった三文字だった。
『――アウ』
「……アウ?」
「全部じゃないと思う。途中が欠けてる」
「ルークの昔の名前でしょうか」
「可能性はある」
ノルンはその三文字を長く見つめた。
記録として書き写す前に、確認するように小さく声へ出す。
「……アウ」
その瞬間だった。
机の端に、淡い光が灯った。
「……え?」
ノルンが固まり、主様も椅子から身を起こす。
『今』
文字が現れる。
『何て呼んだ?』
ノルンの心臓が強く鳴った。
「ルーク?」
『違う』
返事は早かった。
『その前』
ノルンは主様を見る。主様もすでに状況を理解していた。
「……反応したね」
「はい」
机の光が、普段より少しだけ強く揺れている。
『ノルン』
「はい」
『今の』
そこで一度文字が途切れ、少しして続きを作った。
『知ってる気がする』
すぐには答えられなかった。
情報は不完全だ。まだ名前だったとさえ確定していない。
けれど、ルークはもう聞いてしまった。そして反応している。
ならば、何もなかったことにはできない。
「ルーク。今の言葉は、古い管理記録に残っていたものです」
『僕の?』
「その可能性がございます」
光が小さく揺れた。
『名前?』
「まだ確定しておりません。解読できたのも三文字だけです」
『アウ』
ルーク自身が文字を作った。
もう一度。
『アウ』
少し間が空く。
『……変』
「何がでしょう」
『胸』
ノルンが目を見開く。
『胸ないけど』
「どちらですか!」
横で主様が吹き出した。
けれどルークの文字は、少し間を置いて続いた。
『でも』
『何かある』
ノルンの表情から笑いが消える。
「思い出せますか?」
『分からない』
「では、無理に思い出そうとしないでください」
『何で?』
「記憶に関係する記録が出ております」
『僕の?』
「まだ分かりません」
『ノルンの?』
その問いには、一瞬だけ答えが遅れた。
「……第一接続者と呼ばれる方についての記録です」
『第一接続者』
「はい」
『誰?』
「分かりません」
『僕、知ってる?』
「おそらく」
『でも知らない』
「……はい」
ルークからしばらく文字が出なかった。
やがて、ぽつりと一言だけ現れる。
『変』
「はい」
『知らないのに』
さらに間を置いて。
『知ってた気がする』
ノルンの胸の奥が締めつけられた。
古い記録に残っていた『感情残滓あり』という言葉が、頭から離れない。
「ルーク。今日は、そこまでに致しましょう」
『何で?』
「分からない記憶を無理に掘り起こしてよいのか、まだ判断できません」
『でも気になる』
「私もです」
『すごく?』
「ものすごく」
『じゃあ調べよう』
「ですが、急ぎません」
『何で?』
ノルンは少し迷ったあと、誤魔化さずに答えた。
「壊したくないからです。記憶も、ルークも」
文字が止まった。
『僕、壊れる?』
「分かりません」
『ノルンも?』
「それも分かりません」
今度の沈黙は長かった。
けれどノルンは急かさなかった。
「ですから、分かるまでゆっくりです」
やがて。
『分かった』
その返事を見て、ノルンは少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
『でも』
「はい」
『アウ』
ルークが、先ほどの音をもう一度表示する。
『忘れそう』
ノルンの笑みが消えた。
「……今ですか?」
『うん』
「今、聞いたばかりですよ?」
『うん』
少し間が空く。
『でも、もう薄い』
今度は主様の表情も変わった。
「ルーク。僕から確認していい?」
『主様』
「今、ノルンが言った言葉は?」
『アウ』
「覚えてる?」
『うん』
「じゃあ少しだけ別の話をしよう」
『何?』
「ノルンの朝ご飯」
「なぜですか!」
『食べた?』
「食べました!」
『ちゃんと?』
「主様にも確認されました!」
『偉い』
「ありがとうございます!」
「ノルン、褒められるとすぐ戻るね」
「何がですか!」
ほんの数十秒。
本当に、それだけだった。
主様は頃合いを見て、もう一度ルークへ問いかけた。
「ルーク。さっきの言葉は?」
『……』
返事が来ない。
いつもならすぐに文字を出すルークが、しばらく沈黙したあと、ようやく短い文字を作った。
『何だっけ』
ノルンの顔から表情が消えた。
「ルーク、本当に覚えていないのですか?」
『うん』
「ア――」
「ノルン」
主様が静かに止めた。
ノルンもすぐに口を閉じる。
「もう一度刺激するのは待とう」
「……はい」
『何?』
「何でもございません」
『変なノルン』
「最近よく言われます!」
『僕も言った?』
「言われておりません!」
『じゃあ今言う』
少し間を置いて。
『変なノルン』
「わざわざありがとうございます!」
主様が笑った。
ノルンもつられて少し笑ったものの、胸の奥には冷たいものが残っている。
ルークは確かに反応した。
『知ってる気がする』
そう言った。
なのに数十秒だけ別の話をしたら、その音を自力では思い出せなくなった。
「ルーク。少し休んでください」
『僕、休む必要ある?』
「気分です!」
『分かった』
「またこちらからお呼び致します」
『うん』
それで終わるかと思ったが、光がもう一度揺れた。
『ノルン』
「はい」
『何か見つけた?』
ノルンは少しだけ迷った。
それでも嘘はつかなかった。
「はい」
『僕の?』
「おそらく」
少し間を置いて、文字が浮かぶ。
『じゃあ、大事にして』
ノルンの胸が強く鳴った。
「……はい」
『なくさないで』
「必ず」
『うん』
それを最後に、机の端から光が消えた。
管理室へ静けさが戻る。
ノルンはしばらくルークがいた場所を見つめていたが、やがて手帳を開いた。
『第七外在個体への過去名称と思われる記録断片「――アウ」を確認』
『ルーク、音に即時反応。「知ってる気がする」と発言』
『数十秒後、同語を自発想起不能』
『再提示は安全確認まで中止』
書いている途中、指先が少し震えた。
主様も気づいていたはずだが、止めなかった。ノルン自身も震えを隠そうとはせず、最後の一文字まで記録する。
「ルークが昔の名前を覚えていないのは、単純に長く生きすぎたからではないのかもしれません」
「記憶欠損の可能性は上がったね」
「ですが、音には反応した。完全に消えているわけではない?」
「記憶とは違う形で残っているのかもしれない」
「……感情残滓」
「第一接続者側と似てる」
その言葉で、ノルンは古代記録へ視線を戻した。
第一接続者は、理由も分からず何度も境界へ来た。
ルークは、古い名前らしき音を聞いた瞬間、「知ってる気がする」と言った。
互いの記憶を失っても、何かだけが残った可能性がある。
「……嫌です」
「うん」
「やっぱり、とても嫌です」
「だから調べよう」
「はい」
「でも?」
「急ぎません」
「うん」
ノルンは深く頷いた。
それから手帳の別の頁を開く。
「本日の予定もございます」
「覚えてた?」
「当然です!」
「誰だっけ」
「九人の面会意思確認の続きです。それから、ミレイアさんとの面会について安全条件の整理。カイルさんとユウトさんは引き続き保留です」
「うん」
「ルークへの必要以上の接触も控えます。古代記録については……時間を決めて調べます」
「偉い」
「また褒められました」
「そこは絶対拾うんだ」
「はい!」
ノルンが立ち上がる。
今度こそ予定へ向かおうとした、その瞬間。
四枚目の記録板が、また淡く光った。
「……」
足が止まった。
「主様」
「うん」
「時間を決めると言った直後です」
「記録はノルンの予定知らないから」
「少しは配慮してほしいです!」
文句を言いながらも、二人で新しい一文だけを確認する。
『第一接続者――対象識別不能後も、第七外在個体より付与された名称を保持』
ノルンは一度読み、意味を確認するためもう一度ゆっくり読んだ。
「……第一接続者も、ルークから名前を付けられていた?」
「そう読めるね」
名前を付けた側だけではなかった。
第一接続者も、第七外在個体から名前をもらっていた。
「相互……名称接続」
「うん」
「一方が名前を付けたから繋がっただけではない?」
「少なくとも第一接続者との間では、互いに名前を与えていたみたいだね」
その直後、さらに新しい文字が浮かび上がった。
『第一接続者名称――』
ノルンも主様も黙った。
続く部分は欠損している。
主様が管理系統から解読補助をかけると、しばらくして最初の一文字だけが浮かんだ。
『ノ――』
「……」
管理室の空気が変わった。
「主様」
「まだ一部だよ」
「はい」
「偶然かもしれない」
「はい」
「だから今は?」
「決めません」
ノルンは答えながらも、自分の名前を意識してしまう。
ノルン。
そして、第一接続者の古い名称。
『ノ――』
たった一文字が同じだけだ。
それだけなのに、胸の奥が妙にざわついた。
「名前の最初が同じ方など、たくさんおります」
「うん」
「ですから、関連があるとは考えません」
「それでいい」
ノルンは手帳へ記録する。
『第一接続者も第七外在個体より名称を付与されていた可能性』
『名称記録断片「ノ――」』
『現時点で現接続者ノルンとの関連を示す根拠なし』
最後の一文だけは、普段より少し強く書いた。
「自分で釘刺したね」
「必要です。私はこういう時、すぐに情報同士を繋げて考えてしまいますので」
「知ってる」
「主様!」
「だから、いい記録だと思うよ」
「……それでしたら許します」
ノルンは手帳を閉じた。
「では今度こそ、予定へ行って参ります」
「行ってらっしゃい」
古代記録から離れ、扉へ向かう。
ところが一度だけ振り返った。
「ノルン」
「一度だけです!」
「何も言ってないよ」
「では行って参ります!」
逃げるように管理室を出ていったノルンを見送り、主様は小さく笑った。
扉が閉じる。
管理室に一人残った主様は、しばらく古代記録板を見つめていた。
「……ノ、か」
それ以上は考えない。
ノルン自身が書いた通りだ。
『関連を示す根拠なし』
今は、それが正しい。
ただ、一つ新しく分かったことがある。
名称接続は、単に名前を持たない外在個体へ管理側の誰かが名前を与える行為ではなかった。
少なくとも第一接続者と第七外在個体の間では、互いに名前を与えている。
互いを呼べるようにした。
互いを、そこにいる存在として認識した。
そして接続が失われたあと、第一接続者は第七外在個体を識別できなくなった。それでも何度も境界へ戻った。
ルークも昔の名前を覚えていない。それでも、その断片らしき音を聞いた瞬間だけは、『知ってる気がする』と答えた。
記憶がなくなっても、全部がなくなるわけではない。
だからこそ、古い管理者たちはそれを危険と判断したのかもしれない。
名前を与えなければ、接続は生まれない。
接続が生まれなければ、失うこともない。
忘れたあと、理由も分からず誰かを探し続けることもない。
ならば最初から。
『名称を与えてはならない』
それが一番安全だったのかもしれない。
けれど主様は、ルークが文字を出していた机の端へ目を向けた。
「安全なら、それで全部いいのかな」
返事はない。
ノルンはルークへ名前を付けた。
そのあとルークは、待つことを覚えた。
勝手に相手の気持ちを覗くのではなく、本人へ聞くことを覚え始めた。
相手が呼ぶまで待つという選択もした。
危険がある。
だから調べなければならない。
けれど、危険があることと、繋がったことそのものが間違いだったということは、同じではない。
「……難しいね」
主様はそう呟くと、古代記録板を静かに閉じた。
◇◇◇
それから数時間後。
予定していた確認を終えたノルンが管理室へ戻ると、主様は別の世界記録を整理していた。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
「古代記録は!」
「触ってない」
「本当ですか?」
「本当」
「光りましたか?」
「二回」
「二回!?」
「でも開いてない」
ノルンはじっと主様を見る。
疑っているわけではない。ただ、二回も光った記録板を前にして本当に待ったのか確認しているらしい。
「……素晴らしいです」
「ノルンに褒められた」
「嬉しいでしょう?」
「まあ、少し」
「では今後も続けてください」
「調子に乗らない」
「はい」
ノルンは自分の席へ座ると、まず今日行った確認事項を整理した。
先に古代記録へ飛びつかない。
予定していた仕事を終わらせ、記録まで残してから、ようやく四枚目へ向き直った。
「主様」
「うん」
「続けましょう」
「時間は?」
「一時間です」
「その後は?」
「休憩します」
「よろしい」
「なぜ主様が判定されるのですか?」
「言いたくなったから」
「……では、お願いします」
ノルンも少し笑って、四枚目の記録板を開く。
朝に最後まで解読できなかった名称。
『第一接続者名称――ノ――』
そこはまだ変わっていない。
けれど、その下には別の文章が増えていた。
『第一接続者――接続喪失後、第七外在個体への名称識別不能』
『自己名称――保持』
ノルンは眉を寄せた。
「自分の名前は忘れていない」
「そう読めるね」
「ルークから付けられた名前なのに?」
「そこが変なんだよね」
「相手のことは忘れた。でも、相手からもらった自分の名前は残った」
ノルンはその意味をゆっくり考えた。
第一接続者は、ルークを忘れた。
誰だったのかも、何と呼んでいたのかも思い出せなくなった。
けれど、ルークからもらった自分自身の名前だけは残った。
「主様。これ……少し」
「怖い?」
「いいえ」
ノルンは首を横へ振った。
「悲しいです」
もし第一接続者が、その後もその名前を使い続けていたのなら。
毎日誰かから呼ばれ、自分でも名乗っただろう。
けれど、その名前を最初にくれた相手のことだけは覚えていない。
「誰からもらったのか分からないのに、名前だけ残る」
「うん」
「名前とは、不思議ですね」
「急にどうしたの」
「今までは、相手を識別するためのものだと思っておりました。でも……誰かに呼ばれたことまで、名前の中には残るのかもしれません」
「……そうかもしれないね」
ノルンは少しだけ考え、自分の名前を頭の中で呼んだ。
ノルン。
自分にとっては当たり前の名前。
主様も、他の観察官も、関わってきた転生者たちも、その名前で自分を呼ぶ。
「ルークも、私が『ルーク』と付けたことを、いつか忘れるのでしょうか」
主様はすぐには答えなかった。
「分からない」
「はい」
「でも、今は覚えてる」
ノルンは少しだけ笑った。
「……はい」
その時、記録板が淡く光った。
朝から途中だった第一接続者の名称記録が、わずかに更新される。
『ノ――ル』
二人とも黙った。
「主様」
「まだ決めない」
「分かっております」
ノルンは手帳へ書く。
『第一接続者名称断片――ノ――ル』
『現接続者ノルンとの一致・関連は未確認』
「ノルン」
「はい」
「手、震えてる」
言われて初めて気づいた。
ほんの少しだけ、筆を持つ手が震えている。
「……偶然です」
「うん」
「きっと」
「うん」
「似た名前など、幾らでもあります」
「あるね」
主様は否定も肯定もしない。
ただ隣で、一緒に記録を見る。
その直後。
さらに一つ、古代文字の欠損部分が補われた。
『ノ――ルン』
ノルンの呼吸が止まった。
管理室から音が消えたように感じた。
もちろん、本当に消えたわけではない。世界記録は流れているし、管理装置の微かな作動音も続いている。
それでも今だけは、目の前の文字しか見えなかった。
「……主様」
「うん」
「私の名前は、ノルンです」
「うん」
「第一接続者の名前も……」
「そう読める」
完全に同じと決まったわけではない。
古代記録にはまだ欠損がある。途中の文字は判別できず、現在見えているのは最初の『ノ』と末尾に近い『ルン』だけだ。
それでも、似ている。
あまりにも。
「偶然です」
ノルンは、自分へ言い聞かせるように呟いた。
「まだ偶然です」
「そうだね」
「同名の者が存在する可能性もあります」
「うん」
「ですから、決めません」
深く息を吸う。
それでも視線は記録から外さなかった。
「決めませんが、調べます」
「もちろん」
そして、まるで二人が結論を急がなかったことを待っていたかのように、その下へ新しい文章が浮かび上がった。
『第一接続者――管理領域所属』
ノルンの顔から完全に笑みが消えた。
「……管理領域」
「うん」
「世界側の人間ではない」
「そうみたいだね」
「観察官でしょうか」
「まだ分からない」
「管理者?」
「それも分からない」
「ですが、私も管理領域所属です」
「うん」
同じ名前かもしれない。
同じ管理領域に所属していた。
そして、第七外在個体――現在ルークと呼ばれている存在と名称接続を持っていた。
そこまで一致すると、偶然という言葉だけで片づけることも難しくなってくる。
「主様」
「うん」
「私……昔、ルークに会ったことなど」
「ない」
即答だった。
ノルンが驚いて主様を見る。
「少なくとも、僕が確認できるノルンの履歴にはない」
「……はい」
「だから、ノルンが第一接続者だとは今は考えない」
「はい」
「名前が似ている。管理領域所属。それだけ」
「……はい」
それだけ。
けれど、それだけでも十分すぎるほど気になった。
ノルンは記録板を見つめたまま、しばらく動けなかった。
「主様」
「何?」
「一時間」
「まだ四十二分」
「……長いですね」
「休憩する?」
普段なら、まだ十八分しか経っていないと言ったかもしれない。
けれど今日は違った。
ノルンは記録板と手帳を交互に見てから、静かに頷く。
「はい。休憩致します」
「本当に?」
「なぜ驚かれるのですか!」
「いや、ノルンだから」
「リベルさんと同じことを言わないでください!」
「成長途中」
「それも言われました!」
少し怒った顔で立ち上がったノルンだったが、すぐに表情が緩んだ。
「お茶を淹れます」
「お願い」
「甘いものもございますか?」
「あるよ」
「素晴らしいです」
古代記録板を閉じる。
分からないことを、分からないまま一度置く。
それも今のノルンにはできるようになった。
ただ、閉じる直前に一度だけ視線を落とした。
『第一接続者――管理領域所属』
そして。
『ノ――ルン』
ルークは以前にも誰かから名前をもらった。
その誰かも、ルークから名前をもらっていた。
やがて接続が失われ、互いを忘れた可能性がある。それでも気持ちだけが残り、第一接続者は理由も分からないまま何度も境界へ戻った。
その者は管理領域に所属していた。
そして現在ルークと名称接続を持つノルンと、あまりにも似た名前を持っていた。
偶然かもしれない。
まだ何も決められない。
だからこそ、次に何を調べるべきかは決められる。
「主様」
「何?」
「お茶の後、第一接続者の所属記録から調べましょう」
「名前じゃなく?」
「はい」
ノルンははっきり頷いた。
「名前が似ているから私と同一人物だ、と考えるのではなく、第一接続者が実際に誰だったのかを調べます。職務、所属時期、担当世界。それから記録が残っていれば、第七外在個体との接触経緯も」
「それがいい」
「一つずつ確認致します」
主様が少し笑った。
「本当に成長したね」
お茶の準備をしていたノルンの手が止まる。
「……主様」
「何?」
「もう一度お願い致します」
「何を?」
「今のお言葉です」
「本当に成長したね」
「ありがとうございます!」
「嬉しそうだなあ」
「褒められましたので!」
明るい声が管理室へ響いた。
閉じられた古代記録板は、もう光らない。
けれど、その中に残された第一接続者の記録は、まだ途中だった。
ルークには昔、誰かがいた。
その誰かはルークへ名前を与え、ルークからも名前をもらった。
接続を失ったあと、第一接続者はルークを識別できなくなった。それでも感情だけは残り、理由も分からないまま何度も境界へ戻った。
ルークもまた、古い名前らしき音を聞いた時だけは反応した。
記憶を失っても、全部が消えるわけではない。
そして今、もう一度ルークを名前で呼ぶ者が現れた。
ノルン。
ルーク。
二人の間には、新しい名称接続が生まれている。
古い管理記録に残されていた『再接続』という言葉が何を意味しているのかは、まだ分からない。
同じことが繰り返されているのか。
それとも、今度は違うのか。
答えを急いで決めることはできない。
だからノルンは、まずお茶を淹れた。主様の分と自分の分を二つ並べ、湯気の立つカップを机へ置く。
「熱いのでお気をつけください」
「ありがとう」
「それから、一時間後には昼食です」
「分かってる」
「調査中でも食べます」
「ノルンもね」
「もちろんです」
「本当に?」
「……もちろんです!」
「今ちょっと間があった」
「気のせいです!」
そんな、いつも通りのやり取りのすぐ横に、世界が増えるよりも前から残されていた記録がある。
『ノ――ルン』
第一接続者の欠けた名前。
そして、その者へ名前を与えた第七外在個体。
今はルークと呼ばれている存在。
誰かの名前を呼ぶこと。
誰かから名前を呼ばれること。
ノルンは、その意味をまだ全部知らない。
けれど少なくとも、古い管理記録が『名称を与えてはならない』と残した理由は、名前を付ければ外在個体に侵入されるから、という単純なものではなさそうだった。
名前を付ければ、名前のなかった何かが『そこにいる誰か』になる。
そして一度、そこにいると知ってしまった相手を失った時、記憶だけが綺麗になくなってくれるとは限らない。
忘れたのに、心だけが覚えている。
誰を探しているのか分からないのに、同じ場所へ何度も戻ってしまう。
そんな、もっと困ることが起きる可能性があった。
だから古い管理者たちは、最初から繋がらないことを選んだのかもしれない。
けれどノルンは、もうルークを知っている。
ルークもノルンを知っている。
今さら『知らなかったこと』には戻れないし、戻るべきなのかさえ分からない。
ならば調べるしかない。
次に調べるのは、その最初の例。
第一接続者。
管理領域に所属し、ルークと互いに名前を与え合った者。
接続を失ったあとも、理由すら分からないまま境界へ何度も戻った者。
そして古い記録の中で、現在のノルンとあまりにも似た名前を持っていた者。
その人物が誰だったのか。
なぜルークと繋がったのか。
そして、なぜその接続は失われたのか。
ノルンたちの調査は、ようやく名称接続そのものを調べる段階から、その始まりにいた人物を追う段階へ進もうとしていた。




