第二十七話 名前を付けたら侵入されるのかと思いましたが、古い管理記録に書かれていたのは少し違うことでした
翌朝、ノルンが管理室へ入った時、主様はすでに机へ向かっていた。
昨日まで使っていた世界記録の隣には、例の古い管理記録板が三枚並んでいる。ただし、どれも閉じられたままで、夜通し調査を続けていたような形跡はない。むしろ机の端には温かな飲み物と簡単な朝食まで用意されており、その光景を確認したノルンは、記録板より先に主様の顔をじっと見つめた。
「おはようございます、主様」
「おはよう、ノルン」
「何時間眠られましたか?」
「第一声がそれなんだ」
「大切です」
真剣な顔で返すと、主様は少し困ったように笑った。それでも誤魔化すことはせず、手元の記録から顔を上げる。
「六時間ちょっと」
「本当ですか?」
「六時間二十三分」
「素晴らしいです!」
「そこまで褒められることかな」
「昨日は五時間半でしたので、大きな進歩です。今後も継続してくださいませ」
「ノルンに言われると、何とも言えないな……」
ノルンは満足そうに頷き、自分の席へ腰を下ろした。
自分も昨夜は六時間以上眠っている。途中で一度だけ、ルークの名前や古代管理記録のことが頭へ浮かび、目を開けそうになったのだが、そのたびに「続きは明日です」と自分へ言い聞かせて毛布へ潜り直した。
つい先日まで、佐倉七海が三日間ほとんど眠らず、高橋美咲を助ける方法を一人で探し続けていた姿を見ていた。休まなければ判断力そのものが鈍り、助けたいという気持ちさえ別の危険を生むことがある。今のノルンは、その事実を以前よりずっと重く受け止めている。
「それで、主様」
「うん」
ノルンの視線が、閉じられた三枚の古代記録板へ移る。
「昨日の続きをお願い致します」
「その前に朝ご飯」
「……食べながらでは駄目でしょうか」
「駄目」
「なぜです?」
「記録が気になって食べなくなるから」
「そこまでではございません」
「昨日、お茶を食事に数えようとした人が何か言ってる」
「……いただきます」
反論できなかった。
パンと果物、それから温かなスープを食べ始める。最初の数分、ノルンは何度も古代記録へ視線を向けたが、そのたびに主様が無言でこちらを見るため、最後には諦めて朝食だけに集中した。
スープを飲み終え、最後の果物まで食べてから、ノルンはきちんと手を合わせる。
「ごちそうさまでした」
「よろしい」
「では!」
「うん」
待っていましたとばかりに身を乗り出したノルンを見て、主様は小さく笑った。しかし、その表情はすぐに世界管理者としての真面目なものへ戻る。
「昨夜、ノルンが自室へ戻った後、古い記録がもう少し動いた」
ノルンの背筋がすぐに伸びた。
「主様から開かれたのですか?」
「開いてないよ。昨日、今日はもう見ないって約束したからね」
「守ってくださったのですね」
「一応ね。ただ、向こうから表示された」
「……それは少々ずるいですね」
「僕も反則だと思った」
主様が一枚だけ記録板を開く。
そこには昨日、ノルン自身も確認した文章が並んでいた。
『名称は接続を生む』
『接続は双方向性を持つ』
『接続を得た外在個体は、観測対象ではなくなる』
そして、その下に新しく解読された一文が加わっている。
『名称提供者を基点として、管理領域への位置を得る』
ノルンはしばらく黙って文字を読み、それから眉を寄せた。
「……『位置を得る』」
「うん」
「やはり、管理領域へ自由に侵入できるようになるという意味でしょうか」
「最初は僕もそれを疑った。でも、今のところそこまでは書かれてない」
「違う可能性が高い?」
「まだ断定はできない。ただ、もう少し具体的な文章が出た」
主様が別の箇所へ指を滑らせる。
『接続成立後、外在個体は名称提供者を介して管理領域内に座標を保持する』
ノルンは、すぐには何も言わなかった。
昨日までの自分なら、「管理領域」「座標」「ルーク」という三つの言葉を見ただけで、今頃は椅子から立ち上がっていたかもしれない。けれど今は、文章をもう一度ゆっくり読み、書かれていることと、自分が怖がって想像していることを分けようとした。
「『侵入できる』とは書かれておりません」
「うん」
「『権限を得る』とも」
「書いてない」
「ただ、『座標を保持する』」
「僕もそこが重要だと思ってる」
主様は机の上へ小さな世界模型を浮かべた。淡い光の球体がゆっくり回り、その周囲に世界間の境界を示す細い線が幾つも広がる。
「例えば、今までのルークは、管理側から見ると『世界の外にいる何か』だった」
「はい」
「存在していることは分かる。でも場所を示せない。普通の世界座標にも、神域座標にも、管理領域の座標にもいない」
「遊び場も記録外閉鎖空間でしたね」
「そう。ところが、ノルンが名前を付けた後は違う」
主様は一度言葉を止めた。
「昨日、ノルンが管理室で『ルーク』って呼んだ」
「はい」
「世界外干渉の通信経路を開いたわけでもない。遊び場へ接続したわけでもない。でも」
「ルークは返事をされました」
「『呼んだ?』ってね」
ノルンは無意識に胸元へ指先を置いた。
「つまり、私を基点として、ルークが『そこにいる』と管理領域側から認識できるようになった?」
「今のところ、僕はそう考えてる」
「管理領域へ家ができたようなものでしょうか」
「そこまで物理的じゃないと思う」
「住所?」
「それも近いようで少し違う」
「では……存在を指定するための場所?」
「それが一番近いかな」
ノルンは考え込んだ。
その時、昨日スカーレット公爵邸の洗濯場で、フローラと交わした会話が蘇る。
「主様」
「何?」
「昨日、フローラ様へ名前について尋ねたのです」
「そうなの?」
「はい。名前のなかった方へ名前を付けた場合、その方との関係は変わると思うかと」
「フローラは何て?」
「名前を知れば、次に会った時に呼べる、と仰いました」
主様が黙る。
ノルンも思い出しながら、ゆっくり続けた。
「知らない誰かなら、そのまますれ違って終わるかもしれない。でも名前を知れば、次に会った時に呼ぶことができる。そうすれば、その方はただの『知らない誰か』ではなく、『そこにいる人』になるのでは、と」
しばらく、管理室には世界模型が回転する微かな音だけが残った。
主様は古代記録へ視線を戻し、『座標を保持する』という文字をもう一度見つめる。
「……かなり本質に近いかもしれない」
「やはり?」
「名前そのものに特殊な魔法がある、というより、互いに存在を指し示せるようになる」
「相互認識」
「そう」
主様が別の記録を開いた。
昨夜、管理領域のさらに古い区画に浮かんだという文章が表示される。
『名称提供者を基点として、外在個体は所在を得る』
『所在を得た個体は、外在のみの存在ではなくなる』
そして、その下には短く。
『相互認識』
ノルンは長い間、その三つの文章を見つめた。
「ルークが世界の中へ入ったわけではない」
「たぶんね」
「でも、完全に世界の外から一方的に見ているだけの存在ではなくなった」
「それが『観測対象ではなくなる』の意味かもしれない」
ノルンは胸の奥からゆっくり息を吐いた。
怖さが消えたわけではない。何しろ古い管理記録には、はっきりと『名称を与えてはならない』と残されている。それだけ明確な禁止がある以上、理由もなく警戒を解くことはできない。
けれど少なくとも、名前を付けた瞬間にルークが管理領域へ自由に侵入できるようになった、という単純な話ではなさそうだった。
「主様。もう一つございますね」
「……気づいた?」
「第七記録です」
主様の表情が僅かに引き締まる。
別の古い記録板が開いた。
『名称接続例――第七記録』
その下には、昨日より少し明確になった文字が並んでいる。
『第七外在個体――再接続』
「再接続」
「うん」
「やはり今回が初めてではない」
「そう見える」
「第七ということは、以前に六件……いえ」
ノルンは途中で首を横へ振った。
「六件とは限りませんね」
「そう。『第七』が接続事例の番号なのか、外在個体そのものの番号なのか、まだ分からない」
「ルーク自身が『第七外在個体』と分類されている可能性もある」
「ある」
「そしてルークは以前、『昔、いろんな名前で呼ばれた気はする』と仰っていました」
「言ってたね」
二人は同時に黙り込んだ。
ルークには以前にも名前があった。
誰かが呼び。
ルークがそれへ応じた。
もし今と同じ現象が起きていたのなら、過去にも誰かとの間に名称接続が成立していた可能性は高い。
「そして、その接続は現在失われている」
「うん」
「なぜでしょう」
「それを調べる」
主様の声は落ち着いていた。
ノルンも頷く。
「ただし」
「はい」
「昨日決めた予定を全部投げ出して、古代記録だけ追い始めない」
「……」
「ノルン?」
「分かっております」
「顔が今すぐ古代記録へ突撃しそうなんだけど」
「しません!」
「じゃあ今日は?」
「まずミレイアさんへ、面会希望をルークへ伝えてよいか確認致します。その後、予定通りユウトさんへ伺います」
「そう」
ノルンは手帳を開いた。
そこには昨日、自分で残した一文がある。
『ミレイア――ルーク面会希望。面会希望を本人へ伝達してよいか未確認』
忘れてはいない。
「では参りましょう」
「まずリベルに連絡」
「はい」
◇◇◇
ラフェルディア側では、まだ朝の時間だった。
リベルへ管理用の連絡路を開くと、少し間を置いて反応が返ってくる。
『何』
「おはようございます、リベルさん!」
『朝から大きい』
「普通です!」
『用件』
「昨日のミレイアさんについてです。ルークへ、ミレイアさんが面会を希望されているとお伝えしてよいか確認したく、ご連絡致しました」
通信の向こうで、リベルが少し黙った。
『そこ、昨日聞かなかった?』
「……はい」
『忘れた?』
「正確には、そこまで確認する必要があると管理領域へ戻った後で気づきました」
『成長途中』
「その言い方は何ですか!」
『悪く言ってない』
「本当ですか」
『たぶん』
「主様と同じです!」
横を見ると、主様が顔を逸らしている。肩が少し揺れていた。
「主様!」
『主様もいるの?』
「おります!」
『止めて』
「任せて」
「なぜ毎回お二人が結託するのですか!」
朝から管理室へノルンの声が響いた。
ひとしきりいつものやり取りを終えると、リベルはミレイアの現在状況を確認した。
『今なら大丈夫』
「直接伺ってもよろしいでしょうか」
『その必要はない。僕から聞く』
「お願い致します」
数分待つことになった。
ノルンはその間にも、つい古代記録へ視線を向けそうになる。しかし主様が机を指先で軽く二度叩いたため、気づいたノルンは唇を尖らせながら手帳へ視線を戻した。
やがて、リベルの声が返ってくる。
『聞いた』
「はい!」
『伝えていいって。ただし条件あり』
「条件?」
『「会うと決めたことだけ伝えてほしい」って』
ノルンは少しだけ眉を寄せた。
「面会を希望された理由などは?」
『伝えない。本人から話すから』
「……なるほど」
昨日、ミレイア自身が言っていた。
ノルンから聞いた説明ではなく、どうして自分を選んだのか、なぜ音楽端末を持たせたのか、どうして二十五年間見ていたのか。
それをルーク本人から聞きたい。
そして、自分がどう感じているかも直接伝えたい。
「承知致しました」
『それと、日程はまだ決めない』
「安全確認が済んでから?」
『それもあるけど、ミレイア自身が少し整理したいって』
「もちろんです。急かすことは致しません」
『ルークが急かしても』
「止めます」
『ノルンが急かしても』
「私!?」
『念のため』
「信用してください!」
『してる』
「ではなぜ!」
『ノルンだから』
「説明になっておりません!」
通信の向こうで、ほんの僅かに息が漏れる音がした。
笑った。
おそらく。
ノルンが目を細める。
「今、笑われました?」
『気のせい』
「主様と同じことを!」
『ノルン』
「はい」
今度は少し真面目な声だった。
『昨日、ミレイアは少し安心してた』
「安心?」
『二十五年間見ていた相手が、何も考えてない存在じゃなかったって分かったから。怒ってないわけじゃない。勝手に人生を変えられたことは、ちゃんと怒ってる』
「はい」
『でも、ルーク自身が悪いことをしたと思っていて、謝りたいと言っている。そのことを知れたのは、意味があったみたい』
ノルンは胸元へ手を置いた。
「そのお話は」
『ルークには言わない。本人から許可されてないから』
「承知しております」
今度は迷わず答えられた。
『じゃあ、また何かあれば』
「ありがとうございます、リベルさん」
連絡が閉じる。
ノルンはすぐ手帳へ記録した。
『ミレイア――ルークへの面会希望伝達を許可』
『伝達内容は「会う意思あり」のみ』
『面会理由・現在の感情・質問内容等は本人が直接伝えるため非共有』
『面会日程は未定。本人の整理と安全確認後に調整』
「よし」
ノルンは小さく頷いた。
「これでルークへお伝えできます」
「うん」
ただし、すぐには呼ばない。
昨日、名称接続の意味が判明するまでは必要以上の接触を控えると決めたばかりである。
「主様」
「何?」
「こちらから連絡してもよろしいでしょうか」
「必要な連絡だからいいと思う」
「では」
ノルンは姿勢を正した。
机の上へ文字を出してほしいと願うのではなく、遊び場へ接続するのでもない。ただ相手そのものを意識する。
「ルーク」
静かに呼んだ。
数秒。
何も起きない。
けれど、その後、机の端へ淡い光がゆっくり浮かんだ。
『今いい?』
ノルンは思わず少し笑った。
「はい。今回は私からお呼び致しましたので大丈夫です」
『うん』
「昨日の件です。九人のうち、お一人から、あなたと会う意思があると確認できました」
光が僅かに強くなった。
『誰?』
「ミレイアさんです」
長い間、返事がなかった。
『ミレイア』
「はい」
『会ってくれる?』
「はい。ただし、今すぐではございません。ご本人が気持ちを整理され、安全確認を行った上で、日程を決めることになります」
『待つ』
短い返事。
けれど、ノルンの胸が少しだけ温かくなる。
以前のルークは、待つことも、相手に聞くこともほとんど知らなかった。
「それから、ミレイアさんがなぜ会おうと思われたのか、今何を考えておられるのか。それらについては、私からお伝えすることはできません」
少しだけ光が揺れた。
『聞いちゃ駄目?』
「私からはお伝え致しません。ご本人が、ルークへ直接お話しされます」
『じゃあ待つ』
「ありがとうございます」
しばらくして、また文字が浮かんだ。
『ノルン』
「はい」
『ミレイア、怒ってる?』
ノルンの表情も止まった。
答えは知っている。
ミレイアは怒っている。
けれど、それをルークへ伝えてよいとは聞いていない。
「それも、私からは申し上げません」
『……』
「ルーク?」
『分かった。本人に聞く』
「はい」
『会った時』
「それがよろしいかと」
『うん』
光が少しずつ薄くなる。
最後に。
『ノルン』
「はい」
『教えてくれてありがとう』
「どういたしまして」
『また呼ばれるまで待ってる』
「はい」
今度こそ光が消えた。
ノルンはしばらくその場所を眺めていた。
「主様」
「何?」
「今、ルークを少し褒めたくなりました」
「褒める?」
「ですが、今また呼ぶと必要以上の接触になります」
「じゃあ我慢?」
「後でまとめて褒めます」
「まとめて褒められるんだ……」
主様が思わず笑った。
◇◇◇
ミレイアへの確認を終えた後、次はユウトだった。
担当観察官から届いている記録を、ノルンは必要な範囲だけ確認する。
現在、大きな世界異常はない。転生後の生活も安定しており、ルークによる転生後の大規模な人生介入記録も確認されていない。そして今日は、本人への直接接触が可能だと報告されていた。
「主様」
「うん」
「ユウトさんへは、最初からルークというお名前までお伝え致しますか?」
「本人が知りたい範囲でいい」
「では、まず二十五年前にユウトさんの転生先を変えた存在を特定したこと。その存在が本人へ謝りたいと思っていて、会う意思があるか確認しに来たことをお伝えする」
「うん」
「詳しい経緯をどこまで聞くかは、ユウトさんご本人に決めていただきます」
「そう」
ノルンは頷いた。
九人全員へ、同じ説明を同じ順番ですればよいわけではない。
カイルはスマートフォンの異常を通じ、すでに調査へ深く関わっていた。
ミレイアは音楽端末を通じ、二十五年間、誰かに見られているかもしれないという感覚を持っていた。
ユウトには、ユウトの二十五年がある。
それをノルンが勝手に、他の誰かと同じ形へ並べてはいけない。
「行きましょう」
「僕は管理領域から見てる。何かあればすぐ呼んで」
「承知致しました」
ノルンが転移準備へ入ろうとした、その瞬間。
机の奥に置かれていた古代記録板が、ほんの僅かに光った。
主様が先に気づき、ノルンも転移を止める。
「主様」
「うん」
「また向こうからですか」
「みたい」
二人とも触れていない。
それでも古い文字が、記録板の表面へゆっくり浮かんでくる。
『名称接続例――第七記録』
昨日と同じ見出し。
その下へ、新しい一文が続いた。
『第七外在個体、第一接続者との接続消失後――』
そこで変換が止まった。
ノルンも主様も、しばらく動かなかった。
「第一接続者」
「うん」
「やはり、ルークには以前、誰かがいたのですね」
「少なくとも、この文章だけならそう読める」
「続きは?」
「まだ出ない」
ノルンは記録板を見つめた。
調べたい。
今すぐ、その『第一接続者』が誰なのか。なぜ接続が失われたのか。何が起きたのか。できるなら全部確認したい。
けれど、ユウトが待っている。
「主様」
「うん」
「後で、必ず確認致しましょう」
「もちろん」
ノルンは自分から古代記録板へ背を向けた。
「では、参ります」
「行ってらっしゃい」
◇◇◇
転移先へ着いた時、ノルンが最初に感じたのは、少し乾いた涼しい風だった。
タリウス王国とも、ラフェルディアとも違う。空には薄い雲が広がり、遠くには低い山並みが続いている。石造りの建物が並ぶ町の外れでは、昼の仕事を続ける職人達が荷物を運び、店先では商人が客へ声を掛け、子供達が道の端で遊んでいた。
どこにでもあるようで、この世界にしかない日常。
ノルンは転移直後に動き出さず、一度だけ周囲を見渡した。
自分が今どこにいるのか。
誰へ会いに来たのか。
ここで生活している人達にとって、今日はただの一日であること。
それを胸へ置いてから、ゆっくり歩き出す。
担当観察官から指定された場所は、町の中心から少し離れた小さな広場だった。
約束の相手は、すでにそこにいた。
広場の端に置かれた木製のベンチへ腰掛け、手元の紙を読んでいる男性。世界記録との照合反応は一致している。
「……ユウトさん」
本人には届かない程度の声で、ノルンは小さく呟いた。
『うん。本人だね』
耳元の連絡具から主様の声が返る。
「はい」
ノルンは一度だけ深く呼吸した。
カイルとも。
ミレイアとも違う。
三人目。
二十五年前、本人へ何も聞かれないまま、ルークによって人生の進む先を変えられた人。
けれど、その事実だけで目の前の人を決めつけない。
ノルンはゆっくりユウトへ近づいていった。
広場では、小さな子供達が木の輪を棒で転がして競争している。少し離れた露店からは焼いた穀物と香草の匂いが漂い、荷車が石畳を通るたびに乾いた音が響いていた。
ユウトは、そんな生活の中にいた。
特別な転生者としてではなく、この町で今日を過ごしている一人の人間として。
「失礼致します」
ノルンが声を掛ける。
男性が紙から顔を上げた。
「はい?」
「ユウトさんでいらっしゃいますか」
ユウトの目が、ほんの僅かに細くなる。知らない女性から突然名前を呼ばれたのだから、警戒するのは当然だった。
「そうだけど」
「突然申し訳ございません」
ノルンは以前のように、知っていることを先に並べなかった。
まず胸元へ手を置き、きちんと頭を下げる。
「私、ノルンと申します」
「ノルン?」
「はい。転生者を観察し、世界側との問題が発生していないか確認する仕事をしております」
ユウトの表情が固まった。
「……転生者?」
「はい」
「観察?」
一度だけ視線を周囲へ向ける。近くに人はいるものの、会話が聞こえるほどの距離ではない。
「それ、俺が転生者だって知ってて来たってこと?」
「はい」
ノルンは誤魔化さなかった。
ユウトはしばらく何も言わず、手元の紙をゆっくり折り畳んだ。
「……二十五年、誰にも前の世界のこと言ってないんだけど」
「そう伺っております」
「そこまで知ってるの?」
「必要な範囲だけです」
「必要な範囲って……」
ユウトは困ったように眉を寄せた。怒っているというより、理解が追いついていないようだった。
「俺、何かした?」
声が少しだけ低くなる。
その言葉が、ノルンの胸へ思った以上に強く刺さった。
知らない相手が突然現れ、自分が誰にも話していない前世を知っている。しかも、転生者を観察する仕事をしていると名乗る。
なら、自分が何か問題を起こしたのではないかと考えるのも当然だった。
「いいえ」
ノルンははっきり答えた。
「ユウトさんが何か問題を起こされたために参ったのではございません」
「……本当に?」
「はい」
「じゃあ、何の用?」
まだ警戒は残っているものの、ユウトの肩から僅かに力が抜けた。
ノルンはすぐには答えず、言葉を選んだ。
説明しすぎない。
隠しすぎない。
そして、本人が続きを聞くかどうか決められるように。
「二十五年前。ユウトさんが、この世界へ来られた時のことについて、新しく分かったことがございます」
広場を吹く風が、ユウトの手にある紙の端を揺らした。
ユウトは何も言わない。
ノルンも急かさない。
しばらく、子供達の声と遠くの商人の呼び声だけが二人の間へ入った。
「……聞いた方がいい話?」
やがて、ユウトから尋ねた。
「それは、私が決めることではないと思います」
「……」
「ただ、ユウトさんご自身の人生が、なぜこの世界へ繋がったのか。その一部に関わるお話です」
ユウトの指が、折り畳んだ紙の端を僅かに強く挟んだ。
「重い?」
「軽いとは申し上げられません」
「悪い話?」
「良い、悪いだけでは分けられません」
「……分かりづらいな」
「申し訳ありません」
「でも」
ユウトは少しだけ息を吐いた。
「聞かないで帰ってもらったら、多分あとでずっと気になる」
その言葉に、ノルンは僅かに目を見開いた。
「では」
「聞く」
ユウト自身が選んだ。
「分かりました」
ノルンは頷く。
「ただし、途中で聞きたくなくなりましたら、いつでも止めてください」
「そこまで?」
「はい」
ユウトは少しだけ苦笑した。
「立ったまま話されると余計怖いな。座れば?」
ベンチの横の空いた場所を軽く示す。
「よろしいのですか」
「俺が聞くって言ったんだから」
「……ありがとうございます」
ノルンは隣へ腰を下ろした。ただし、近すぎないよう少し間を空ける。
二人とも正面の広場を見る。
子供達が遊び、露店へ客が立ち寄り、荷車が行き交う。
そんな普通の一日の中で、ノルンは二十五年前に本人へ何も聞かず、人生の行き先を変えた存在について、今度は本人へきちんと話すために口を開いた。
「ユウトさんをこの世界へ送った方を、私達は見つけました」
隣でユウトの呼吸が僅かに止まった。
「……誰?」
すぐに出た言葉だった。
ノルンは答える前に、一つだけ確認する。
「その方が何者なのか。そして、なぜユウトさんを選んだのか。そこまでお聞きになりますか」
ユウトは少し不思議そうにノルンを見た。
「今、ここで俺が決めるの?」
「はい」
「……変な人だな」
「よく言われるようになりました」
「そこ認めるんだ」
「最近は」
ユウトの口元がほんの少しだけ緩んだ。
だが、すぐ真面目な顔へ戻る。
「聞くよ。全部じゃなくていい。まず、何で俺がここにいることになったのか。そこから聞きたい」
「承知致しました」
ノルンは小さく頷いた。
この数日、何度も同じことを繰り返している。
本人が選ぶ。
知る範囲を決める。
そして今また一人、自分でその線を引いた。
「二十五年前、ユウトさんが地球で亡くなられた後、本来であれば別の経路へ進む予定だった魂へ、世界の外側から干渉した存在がおりました」
「世界の外?」
「はい」
「神様?」
「いいえ」
「じゃあ何?」
「そこについては、私達もまだ完全には分かっておりません」
「……見つけたのに?」
「直接会いました」
「会った!?」
ユウトが思わずこちらを向く。
近くで遊んでいた子供が一瞬だけ二人を見るほど声が大きくなり、ユウトは慌てて声を落とした。
「いや、ちょっと待って。分からないって言ったじゃん」
「ご本人も、自分が何であるかを明確にはご存じないようです」
「何それ……」
「かなり長く生きておられるようで」
「どれくらい?」
「世界が増える前から、と」
「もっと分からなくなった」
「私もです」
あまりにも真面目に答えたため、ユウトは数秒ノルンを見つめ、それから少しだけ笑った。
「観察官って、大変なんだな」
「とても」
「そこ即答なんだ」
「はい」
ほんの僅かに空気が緩む。
だからこそ、ノルンは次の言葉を慎重に選んだ。
「その存在は、現在ルークと名乗っております」
「現在?」
「元々、お名前がございませんでしたので」
「……まさか」
ユウトが嫌な予感を覚えたようにノルンを見る。
「ノルンが付けた?」
「はい」
「何で?」
「お名前がなかったので」
「いや、それは分かるけど……」
ユウトは額へ手を当てた。
「何か、すごい話をしてるはずなのに、名前付けたところだけ妙に普通だな」
「私も昨日まではそう思っておりました」
「昨日までは?」
「少々、大きな問題が判明致しまして」
「大丈夫なのか?」
「調査中です!」
「そこで声張らなくていいから」
「申し訳ありません」
ユウトは小さく息を吐いた。
それから表情を戻し、正面を見た。
「で、そのルークって奴が、俺をこっちへ?」
「はい」
「何で?」
来た。
一番大切なところだ。
「ユウトさんが地球にいらした頃、異世界を題材にした作品を読まれていたためです」
ユウトの顔が完全に止まった。
「……は?」
「ルークは、そうした作品を読まれている方々は、本当に異世界へ行きたいのだと思っていたそうです。そして亡くなられた後の魂を、本人へ確認することなく別世界へ送りました」
広場の音が一瞬だけ遠くなったように感じた。
ユウトはしばらく何も言わず、折り畳んだ紙を強く握った。けれど、破ることはしなかった。
「それだけ?」
やがて出た声は低かった。
「……はい」
「異世界の話、読んでたから?」
「はい」
「俺が行きたいと思った?」
「そう判断した、と」
「勝手に?」
「はい」
ユウトは顔を伏せた。
「……馬鹿じゃないの」
ノルンは何も言わない。
「漫画読むのと、本当に行くのは違うだろ」
「はい」
「ゲームで戦争やってたら、戦争に行きたいってことになるのかよ」
「なりません」
「だよな」
ユウトは苦笑した。
しかし、その目にははっきりと怒りがあった。
「……何だよ、それ。二十五年だぞ」
「はい」
「俺、こっち来て最初の三年くらい」
そこまで言って、ユウトの言葉が止まった。
広場の向こうでは子供達が笑っている。露店から焼いた穀物の香りが流れ、どこかの家の窓から布が干されている。
今のユウトにとっては、すでに日常になった景色。
それを見つめながら、彼は静かに続けた。
「毎晩、帰りたいって思ってた」
ノルンの胸が強く鳴った。
世界記録は、そこまで細かな私生活を覗いていない。
これは今、ユウト自身が初めて話していることだった。
「言葉も分からない。何食えばいいかも分からない。金もないし、頼れる奴もいない」
「……はい」
「魔法なんて、全然楽しくなかった」
ユウトは拳を膝の上で握った。
「異世界って、もっと何か……楽しいと思ってたんだよ。でも普通に寒いし、腹は減るし、働かなきゃ死ぬし、怪我したら痛い」
「はい」
「……当たり前なんだけどな」
少しだけ笑う。
悲しさはある。
けれど、それだけではなかった。
「でも、今は」
ユウトが広場を見る。
少し離れた店先から一人の女性がユウトに気づき、軽く手を上げた。
ユウトも自然に手を返す。
「ここ、嫌いじゃない」
「はい」
「仕事もある。友達もいる。それに……家族もいる」
最後の言葉だけ、少し声が柔らかくなった。
「だから、今の俺が不幸だって話じゃない」
「はい」
「でも」
ユウトはノルンを見る。
「勝手に連れてきていいかは別だ」
「はい」
ノルンはしっかり頷いた。
カイルも同じことを言っていた。
今の人生を大切に思うことと。
過去に無断で人生の行き先を変えられたことをどう評価するか。
それは別だ。
「ルークも今は、そのことが間違っていたと理解し始めております」
「……始めて?」
「はい」
「完全じゃない?」
「完全ではないと思います」
「正直だな」
「嘘は申し上げられません」
「……そっか」
ユウトは少し考えた後、静かに尋ねた。
「ルーク、俺達に何か言ってる?」
「九人の皆様へ、謝りたいと仰っております」
ユウトの表情が僅かに動いた。
「直接?」
「ご本人が会うことを望まれるのであれば」
「……」
「無理に会う必要はございません。今日決める必要もありませんし、会いたくないと決めても、それもユウトさんの選択です」
長い沈黙が落ちた。
広場を子供達が走り抜け、露店の主人が鍋をかき混ぜ、通りを馬車が横切る。
ユウトはその全てを眺めていた。
二十五年かけて築いた。
今の自分の生活を。
「俺、ルークに聞きたいことはある」
ノルンの背筋が僅かに伸びる。
「はい」
「何で俺だったのか。本当に異世界ものを読んでたってだけなのか。他に何かあったのか」
「はい」
「あと」
一度だけ、ユウトは苦く笑った。
「こっちへ送った後、俺が泣いてた時」
視線が落ちる。
「見てたのか」
ノルンの胸が痛んだ。
「その可能性は高いです」
「……そっか」
少し時間を置いてから。
「それ、本人から聞きたい」
ノルンは姿勢を正しかける。
しかしユウトが続けた。
「でも、今日じゃない」
「はい」
「会うって、まだ決めない」
「承知致しました」
ノルンは迷わず頷いた。
「保留?」
「はい」
「カイルさんと同じです」
「他にも保留いるんだ」
「はい」
「……ちょっと安心した」
「なぜでしょう」
「俺だけ迷ってるんじゃないって分かるから」
ノルンは少し笑った。
「皆様、それぞれでよいと思います」
「そっか」
「はい」
ユウトは一度、大きく息を吐いた。
ノルンが来た時にあった警戒は完全には消えていない。
それでも、少なくとも今は、追い返そうとはしていなかった。
「ノルン」
「はい」
「ルークに、今の話って伝えるの?」
ノルンはすぐに答えず、逆に尋ねた。
「どこまでお伝えしてよろしいでしょうか」
ユウトの目が少し大きくなる。
「聞くんだ」
「はい」
「毎回?」
「必要なことは」
「……」
ユウトは少しだけ笑った。
「じゃあ、『会うかは保留』だけ」
「承知致しました」
「それ以外は、今は言わないで」
「お伝え致しません」
「もし今後伝えたくなったら、その時言う」
「はい」
ノルンは手帳を開いた。
本人が目の前にいる。
だからこそ、今ここで全てを書き始めるのではなく、必要最小限だけ記録する。
『ユウト――ルークとの面会意思:保留』
『ルークへの伝達許可:面会保留の事実のみ』
「そんなにきっちり書くんだ」
ユウトが横から見る。
「忘れると大変ですので」
「確かに」
「最近、特に」
「何かあった?」
「かなり」
「聞かない方がよさそうだな」
「長くなります」
「やめとく」
二人とも少しだけ笑った。
それからノルンは立ち上がり、ユウトへ頭を下げた。
「本日は、お話を聞いてくださりありがとうございました」
「いや」
ユウトは手元の紙を見た。
「俺の方こそ、教えてくれて……ありがとうでいいのかな」
「分かりません」
「そこ分からないんだ」
「私が勝手に決めることではないので」
「……本当に変な観察官だな」
「最近、よく言われます」
ユウトは少しだけ笑い、それから軽く片手を上げた。
「じゃあ、また」
ノルンの目が少し大きくなる。
「はい。必要がございましたら、また伺います」
「今度は名前知ってる理由、先に説明してくれ」
「……はい」
美咲の時も。
似た失敗をした。
「気をつけます」
「前にもやった?」
「……」
「やったんだ」
「申し訳ありません」
ユウトが今度こそ声を出して笑った。
◇◇◇
その頃、管理領域では主様が古代記録板の前にいた。
ただし触れてはいない。
ノルンが戻るまで待つつもりだった。
それでも、先ほど止まっていた文章は、こちらの都合など関係なく少しずつ解読を進めていた。
『第七外在個体、第一接続者との接続消失後――』
その先へ。
一語。
『記憶』
主様の目が細くなる。
続いて。
『欠損』
「……記憶、欠損」
まだ文章にはなっていない。
だから、ここで結論へ飛びつくことはできない。
第一接続者が記憶を失ったのか。
ルークが失ったのか。
両方なのか。
あるいは、まったく別の意味なのか。
「ノルンが戻るまで待つ」
自分へ言い聞かせるように口へ出した。
けれど、古い記録はさらに淡く光る。
『接続喪失時――』
そこでまた止まった。
主様は長く記録板を見つめる。
名称接続によって、誰かと誰かが繋がる。
互いに所在を得る。
相互に認識する。
もし、それだけなら。
なぜ。
『名称を与えてはならない』
という禁止が残されたのか。
危険なのは、接続が成立する時ではないのかもしれない。
失われる時。
そこに何かがある?
「接続が切れたら、何が起きるんだ」
返事はない。
ただ、古い記録板の端には解読されていない複雑な古代記号が並び、その中には第一接続者を示すと思われる印が残っていた。
そして、そのすぐ隣には。
現在のルークへ対応する第七外在個体の境界印がある。
重なるように。
寄り添うように。
遠い過去の記録へ残されている。
誰かが以前にもルークを見つけた。
名前を呼んだ。
ルークもその誰かを認識した。
そして、何らかの理由で接続が失われた。
その後に残された語が。
『記憶』
『欠損』
主様はそれ以上、仮説を進めなかった。
分からないことを、分かったつもりで埋めない。
今確認できる情報だけを記録する。
『第七外在個体には第一接続者が存在した可能性が高い』
『第一接続消失後の記録に「記憶」「欠損」の語を確認』
『欠損主体・対象・範囲は未確定』
そこまで残した後、主様は記録板を閉じた。
「ノルン」
誰もいない管理室で、小さく呟く。
「早く帰ってきて」
◇◇◇
ユウトとの話を終え、管理領域へ戻ったノルンが管理室の扉を開いた時、主様は机の前で待っていた。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
声はいつもと変わらない。
けれど、ノルンはすぐに何かがあったと気づいた。
「主様」
「うん」
「何かございましたね」
「分かる?」
「お顔が少し違います」
「どんな顔?」
「古代記録のお顔です」
「どんな顔なの、それ」
「今の主様です」
「説明になってないよ」
一瞬だけ二人とも笑ったが、すぐに空気は戻った。
「ユウトは?」
「面会意思は保留です。ルークへは、その事実のみ伝達を許可されました」
「分かった」
「それから、ご本人から色々伺いました」
「記録する?」
「はい。ただし、ルークへの共有不可情報と明確に分けます」
「そうしよう」
そこまで話してから、ノルンは古代記録板へ視線を向けた。
「では」
「うん」
「何が出ましたか」
主様は一度息を吐き、一枚の記録板を開いた。
『第七外在個体、第一接続者との接続消失後――』
その下。
『記憶』
『欠損』
ノルンの表情が変わった。
「……記憶」
「うん」
「欠損」
「うん」
「誰のですか」
「分からない」
「ルーク?」
「分からない」
「第一接続者?」
「それも分からない」
「両方という可能性も?」
「ある」
ノルンは何も言わなかった。
昨日、ルークが言っていた言葉が頭へ蘇る。
『昔、いろんな名前で呼ばれた気はする』
『忘れた』
『長いから』
あの時は、あまりにも長く生きているため記憶が曖昧になっているのだと思った。
でも。
「主様」
「うん」
「ルークが昔の名前を覚えていないこと」
「うん」
「接続が失われたことと、関係しているかもしれない」
「可能性はある」
ノルンの胸の奥が少し冷えた。
「そして今は、私とルークの間に名称接続がある」
「うん」
主様がノルンを見る。
「怖い?」
ノルンはすぐには答えなかった。
正直。
少し怖い。
名前を付けた。
繋がった。
もし、その接続が切れた時。
誰かの記憶が失われるのだとしたら。
ルークなのか。
自分なのか。
どこまでなのか。
まだ何も分からない。
「はい」
ノルンは素直に答えた。
「少し」
「僕も」
「主様も?」
「うん」
その返事を聞くだけで、ほんの少しだけ安心した。
自分一人が怖がっているわけではない。
「ですが、まだ何も決まっておりません」
「そう」
「記憶欠損が誰に起きたのかも分からない。名称接続そのものが原因かどうかも確定していない」
「うん」
「でしたら」
ノルンは一度深く息を吸った。
「調べます」
主様が少し笑う。
「それでいい」
「そして、必要な段階になりましたらルークへも説明致します」
「本人に関係することだからね」
「はい」
怖いから隠す。
危険かもしれないから即座に切る。
どちらでもない。
分かるまで調べる。
そして、関係する者同士で情報を共有する。
「主様」
「何?」
「もし今後、名称接続を切る必要が出た場合」
「うん」
「勝手には」
「しない」
即答だった。
ノルンの目が少し大きくなる。
「ルークにも?」
「話す」
「私にも?」
「もちろん」
「ありがとうございます」
「ただし」
主様の声が少し低くなった。
「緊急時は別」
「……はい」
「世界やノルンに即時危険があると確認された場合は、その時点で僕が判断する」
そこだけは、友人のように話す主様ではない。
世界管理者としての声だった。
ノルンも少し考え、それから頷く。
「承知致しました」
すべてを本人の選択だけへ任せるわけではない。
管理する側には、守る責任もある。
そこを忘れてはいけない。
「それから、本日のユウトさんについて記録致します」
「うん」
ノルンは手帳の新しい頁を開き、必要な情報を丁寧に書き込んでいった。
『ユウト――二十五年前の転生経緯について一部説明』
『ルークによる無断転生であったことを本人へ伝達』
『現世界での現在の生活そのものは否定せず。ただし、「現在の人生を気に入っていること」と「本人へ無断で転生先を変更されたことへの評価」は分けて考えている』
『転生直後の約三年間、前世界への帰還を強く望んでいた時期があったことを本人から確認』
『ルークへ直接聞きたい事項あり。ただし面会意思は現時点で保留』
『ルークへの共有許可:面会保留の事実のみ』
最後まで書き終えたところで、ノルンの筆が止まった。
「主様」
「何?」
「カイルさんも」
「うん」
「ユウトさんも、同じことを仰いました」
「今の人生を大切に思うことと、勝手に連れてこられたことをどう思うかは別だって」
「はい」
ノルンは手帳へ目を落とす。
「ルークへ、いつか分かっていただけるでしょうか」
「分かるかどうかは、ルーク次第」
「はい」
「でも」
主様は少しだけ穏やかに笑った。
「今のルークなら、少なくとも聞こうとはすると思う」
ノルンも少しだけ笑う。
「私も、そう思います」
その時だった。
閉じられていた古代記録板が、また微かに光った。
二人が同時にそちらを見る。
「……主様」
「今日は多いね」
「また向こうからです」
「うん」
ゆっくりと。
一行だけ。
文字が浮かぶ。
『接続喪失時、相互認識の――』
そこで止まった。
ノルンの呼吸が僅かに浅くなる。
「相互認識の……」
「続きはまだ」
「……」
昨日まで。
相互認識こそ、名称接続の本質なのかもしれないと考えていた。
名前を呼ぶ。
相手が返事をする。
互いに。
『あなたは、そこにいる』
と認める。
では。
その接続を失った時。
何が起きる?
「主様」
「うん」
「私、ルークへ名前を付けた時」
「うん」
「ただ、呼びにくかったので」
「知ってる」
「それだけだったのですが」
一度、ノルンは記録板を見た。
「随分、大変なことになりました」
主様が少し笑う。
「ノルンらしいね」
「褒めておられませんね?」
「半分くらい」
「主様!」
管理室へノルンの声が響いた。
だが今回は。
机の端へルークの光は出ない。
『また呼ばれるまで待ってる』
その約束を、きちんと守っている。
そのことに気づいたノルンは、怒ったような顔のまま少しだけ口元を緩めた。
「……よくできました」
「誰に言ったの?」
「ルークです」
「聞こえてないと思うよ」
「後ほどまとめて褒めます」
「本当にまとめるんだ」
主様が笑う。
ノルンも少しだけ笑った。
けれど、机の上では。
『接続喪失時、相互認識の――』
古い記録が。
その続きをまだ隠している。
名称接続。
誰かと繋がること。
互いの名前を呼び。
互いを。
『そこにいる』
と認めること。
それが本当に危険な行為だったから禁止されたのか。
それとも。
過去に誰かが接続を失った時。
取り返しのつかない何かが起きたから。
禁止だけが残されたのか。
まだ分からない。
ただ一つ。
昨日までは、ルークの過去を知るためだけの手掛かりだった『第一接続者』という存在が。
今では。
ノルン自身の未来にも関わるかもしれない人物へ変わり始めていた。
ルークは以前にも、誰かに名前を呼ばれていた。
以前にも。
誰かを名前で呼び返していた。
そして。
その接続は失われた。
その後に古い管理記録へ残された。
『記憶』
『欠損』
という二つの言葉。
九人への面会意思確認を止めるわけにはいかない。
次に確認すべき相手もいる。
カイルもユウトも保留のままで。
ミレイアとの面会準備も、これから始まる。
それでも同時に。
調べなければならないものが、もう一つ増えた。
ルークが最初に繋がった相手。
『第一接続者』
その者に何が起きたのか。
なぜ接続は失われたのか。
そして。
ルークが。
なぜ。
かつて自分を呼んでいた相手も。
与えられていた名前も。
ほとんど覚えていないのか。
その答えは。
まだ解読されていない古い記録の先にある。
けれど。
ノルン達が次に読むことになる記録は。
少なくとも。
ルークの記憶についてだけではなかった。
『接続喪失時、相互認識の――』
止まっていたその一文の先。
古い管理記録が次に示そうとしているのは。
名称を与えられたルークではなく。
名称を与えた側。
第一接続者に。
何が起きたのか。
その記録だった。




