第二十五話 最初に「会ってもいい」と答えたのは、私達が一番慎重になると思っていた方でした
境界外存在へ『ルーク』という名前を付けた翌朝、ノルンは管理室へ足を踏み入れた瞬間、いつもとは少し違う空気に気づいた。
机の上には何冊もの世界記録が開かれている。主様がノルンより先に仕事を始めている朝なら、それ自体は珍しい光景ではない。けれど今日は、その横に見覚えのない三枚の記録板が整然と並べられていた。
どれも、ひどく古い。
もちろん、紙が黄ばんでいるとか、石板が欠けているという意味ではない。管理領域で保存される記録は物質的な劣化をほとんど受けないため、何千年前のものでも見た目だけなら新しい記録と大差がない。
それでも、そこへ刻まれた文字の形も、情報を保存する方式も、普段扱っている世界記録とは明らかに違っていた。何より、三枚の記録板からは、ノルンにも説明しにくいほど長い時間の重さが感じられる。
「主様、おはようございます」
「おはよう、ノルン」
机の向こうから顔を上げた主様へ挨拶を返した後、ノルンはすぐに彼の顔をじっと見つめた。
「……昨夜は、ちゃんと寝られましたか?」
「最初に聞くの、それ?」
「はい。とても大切です」
昨日は遊び場から戻った後も、ルークとの会話記録を整理し、九人へどこまで事情を説明するべきか話し合っていた。ノルン自身は途中で主様から自室へ戻るよう言われたが、その後も主様が仕事を続けていた可能性はかなり高い。
「何時間でしょう」
「ちゃんと寝たよ」
「ですから、何時間です?」
「……五時間半くらい」
「主様」
「ノルン」
「私には六時間以上休むよう仰っていましたよね?」
「それはノルンに言ったことで」
「ご自身は守らなくてよいと?」
穏やかに問い返すと、主様はほんの少し視線を逸らした。
その反応だけで答えは十分だった。
「私にはあれほど厳しく仰るのに」
「今日は早めに休むから」
「約束ですか?」
「約束」
「では、記録しておきます」
「そこまでしなくていいよ」
「主様の睡眠状況も、今後は管理対象へ加えた方がよいかもしれません」
「それは本当にやめて」
いつものようなやり取りが戻り、ノルンも僅かに頬を緩めた。
それでも、すぐに視線は机上の三枚へ戻る。
「それで、こちらは何でしょうか」
今度は主様の表情からも少しだけ笑みが消えた。
「昨日話してた、境界外存在に関する古い管理記録」
「見つかったのですか?」
「見つかったというより、向こうから出てきた、が近いかな」
「向こうから?」
ノルンが椅子を引いて隣へ座ると、主様は一枚目の記録板へ指先を触れさせた。
「昨日まで、境界外存在とか、世界外側とか、世界成立以前とか、思いつく限りの言葉で古い記録を検索してた。でも何も出てこなかったんだ」
「それが、ルークと直接お会いした後に?」
「そう。昨日の会話記録を管理領域へ正式保存した直後、今まで検索へ反応していなかった封鎖記録群が勝手に開き始めた」
主様が指を滑らせると、三枚の表面に古い文字が淡く浮かんだ。
一枚目。
『原初境界観測記録』
二枚目。
『外在反応分類――管理成立以前』
三枚目。
『接触禁止指定記録』
最後の題名を見た瞬間、ノルンの背筋が僅かに伸びた。
「接触禁止……」
「うん」
「ルークについての記録でしょうか」
「まだ分からない。題名だけで決めつけるのは危険だよ」
「はい」
「それに、この三枚は今の管理体系が成立するより前に作られたものらしい。誰が作成したのかも、まだ判別できてない」
ノルンは興味深そうに一枚目へ顔を近づけた。
「読めますか?」
「ほんの一部だけ。文字体系そのものが今と違うんだ」
「管理領域の自動翻訳でも?」
「ほとんど効かない」
それはかなり珍しいことだった。
世界ごとの言語差であれば、管理領域側が意味を補助してくれる。古代語や失われた文字であっても、記録が世界管理体系の内側に存在していれば、ある程度までは読み解けることが多い。
しかし、この三枚にはその補助が通らない。
「ルークの遊び場で見つけた札と似ておりますか?」
「雰囲気は近い。でも完全には一致しない」
「では、今日すぐに正体が判明するわけではないのですね」
ノルンが少し残念そうに息を吐くと、主様は小さく笑った。
「昨日まで『正体不明の何か』だったのが、今日は『正体を調べるための古代管理記録が三枚も出てきた何か』になったんだから、かなり進歩じゃない?」
「主様」
「何?」
「私の仕事が増えております」
「そこなの?」
「非常に重要です」
今度こそ主様が笑ったため、ノルンも釣られるように笑った。
けれど、今日の仕事はそれだけではない。
ノルンは手帳を開き、昨日整理した項目へ指先を置いた。
「九人の皆様への確認も始めなければなりません」
「うん。そっちが先だね」
ルークは、九人へ謝りたいと言った。
遊び場へ残していた前世物品も、本人が望むのであれば返すと言った。
そして、二十五年間続けてきた観察についても、これからは勝手に見るのではなく「見てもよいか」と聞くと答えた。
ならば次に必要なのは、ルーク側の意思ではない。
九人それぞれの意思だった。
◇◇◇
九人全員へ同じ手順で接触することはできなかった。
転生先も、現在の生活も、担当観察官も違う。カイルのようにノルン自身がすでに直接会っている者もいれば、ミレイアのように担当観察官であるリベルを介した方が自然な者もいる。
さらに、ユウト、アヤ、リュミについては、ノルン自身がまだ一度も顔を合わせていない。
残る二人も、現在地や基本情報の確認は進んでいるものの、現地担当との調整が必要だった。
「順番を決めましょう」
ノルンは手帳へ九人の名前を並べていく。
「まずカイルさん。一番お話ししやすい方です」
「うん」
「次にミレイアさん。こちらはリベルさん経由で」
「そうだね」
「その後、ユウトさんとアヤさん。担当観察官へ事情を先に共有します」
「リュミは?」
主様に尋ねられ、ノルンの筆が止まった。
「リュミさんについては、もう少し慎重にしたいです」
「理由は?」
「ルーク自身が『精霊は少し難しかった』と仰っていました」
「うん」
「つまり、リュミさんだけは明確に、転生先だけではなく器そのものまで試行対象として扱われた可能性が高いです」
前世では人間だった宮原凛。
本来であれば別世界へ人間として転生する予定だった魂が、途中で抜き取られ、オルフェリアの精霊核へ定着させられた。
現在まで大きな異常は確認されていない。
精霊として生きることにも適応している。
だからといって、本人の許可なく人間から精霊へ変えられた事実が軽くなるわけではない。
「私は、最後にしてもよいのではないかと思っています」
「無理に早く聞かない?」
「はい。こちらの都合で急がせる内容ではありません」
主様もすぐに頷いた。
「じゃあ、今日はカイルから」
「はい」
立ち上がったノルンは、そこで一度立ち止まる。
「昨日、美咲さんとお話しして改めて学びました」
「何を?」
「こちらが知っているからといって、何でも話してよいわけではないことです」
「うん」
「ですから、カイルさんにも、まず事情を話してよいか。ルークと会いたいか。前世物品についてどうしたいか。それぞれ分けて確認します」
主様が目を細めた。
「もう僕が言うことなくなってきたね」
「成長しておりますので」
「美咲に怒られた成果?」
「主様」
「はい」
「それもございます」
「素直でよろしい」
◇◇◇
カイルが暮らすタリウス王国の町は、昼前の穏やかな陽射しに包まれていた。
市場から少し外れた場所にある宿屋へ入ると、食堂では数人の冒険者や商人が遅めの朝食を取っている。焼いた肉と温かいスープの匂いが混ざり、奥の厨房からは食器を重ねる音が響いていた。
カイルは窓際の席に一人で座っていた。
黒パン、卵料理、厚めに切られた肉。
そして、その横には。
この世界には本来存在しないスマートフォンが置かれている。
二十五年前。
ルークがカイルへ持たせた前世物品。
長い時間を経ても壊れず、今も彼の傍にある。
「カイルさん」
ノルンが声を掛けると、パンを口へ運びかけていたカイルが顔を上げた。
「ん? ……ノルン?」
「はい。お久しぶりです」
「いや、そんなに久しぶりでもないだろ」
「気持ちの問題です」
「何だそれ」
カイルは笑いながら向かいの椅子を足で軽く引いた。
「座れよ。今度はスマホの回収じゃないよな?」
「回収致しません!」
一瞬、周囲の客がこちらを見る。
カイルが吹き出した。
「声」
「……申し訳ありません」
「相変わらずだな」
「最近、本当に皆様から同じご指摘を受けます」
「直す気は?」
「ございます」
「成果は?」
「努力中です」
「なるほど。つまりまだ駄目なんだな」
「厳しいですね」
ノルンが腰を下ろすと、店員が近づいてきた。
「何か飲む?」
「では、紅茶をお願い致します」
「普通だ」
「何を期待しておられるのですか」
「いや、前に妙なもの頼んでなかった?」
「記憶違いです」
「絶対違うだろ」
少しだけ軽いやり取りを挟んだ後、ノルンは表情を整えた。
「カイルさん」
「うん」
「前回、こちらのスマートフォンについてお話ししたことを覚えておられますか」
カイルの視線が自然と端末へ落ちる。
「誰かが壊れないようにしてたって話だろ」
「はい。その方と、昨日直接お会いしました」
カイルの動きが止まった。
ほんの少し前まで浮かんでいた笑みが、ゆっくり消える。
「……見つけたのか」
「はい」
「何者だった?」
「完全には分かっておりません」
「見つけたのに分からないのかよ」
「申し訳ありません」
「いや、謝らなくていいけど……」
カイルは眉を寄せた。
「少なくとも人間ではない?」
「はい。神様でもありません」
「……余計怖くなったな」
「私達も現在調査中です」
店内には変わらず日常の音が流れていた。
誰かが笑い、食器が置かれ、厨房から肉を焼く音がする。
その中で。
カイルだけが少し静かになった。
「そいつが」
「はい」
「俺をこの世界へ送った?」
「そうです」
「理由は?」
ノルンは誤魔化さなかった。
「カイルさんが前世で異世界を題材にした作品を読んでいたためです」
「……それだけ?」
「ルークは、それを見て『この方は異世界へ行きたいのだ』と思ったそうです」
「ルーク?」
「現在はそうお呼びしております」
「名前付けたの?」
「はい」
「ノルンが?」
「はい」
カイルは数秒ほど黙り込み、何とも言えない顔で額へ手を当てた。
「……何で?」
「お名前がなかったので」
「いや、それは分かったけど」
諦めたように息を吐く。
「まあいい。話戻そう」
「はい」
「異世界ものを読んでたから、行きたいと思った」
「そうです」
「本人に聞かず?」
「はい」
「……はあ」
今度の溜息は、先ほどより深かった。
「何だよ、それ」
「……」
「ノルンが謝るなよ」
「ですが」
「送ったのはノルンじゃないだろ」
「はい」
「じゃあ、ノルンが謝る必要はない」
静かだが、はっきりした声だった。
ノルンは一度だけ頭を下げ、それ以上は謝らなかった。
「ルークは」
カイルが続ける。
「今、そのことをどう思ってる?」
「勝手に人生を変えたことについて、悪いことをしたと理解し始めています」
「……」
「九人の皆様へ、謝りたいとも」
カイルの指先が、机の上で止まった。
「俺達に?」
「はい」
「直接?」
「カイルさんが、それを望まれるのであれば」
すぐには返事がなかった。
ノルンは急かさない。
カイルはしばらくスマートフォンを見た後、椅子の背へゆっくり体重を預けた。
「……今すぐ決めないと駄目か?」
「いいえ」
「何日か考えても?」
「もちろんです」
「一ヶ月とかでも?」
「必要であれば」
「そこまで待つのか」
「カイルさんが決めることですので」
そこで、カイルの口元がほんの少し緩んだ。
「じゃあ、保留」
「承知致しました」
「怒ってないわけじゃない」
「はい」
「いや……」
少し考え。
「やっぱり怒ってるな」
「はい」
「俺さ」
カイルはスマートフォンへ手を伸ばし、指先で端を軽く撫でた。
「今の世界、嫌いじゃないんだよ」
「はい」
「冒険して、仲間もできて、住む場所もあって。むしろ今の人生、結構好きだ」
「はい」
「でも」
そこで声が少し落ちる。
「今の人生が好きなことと、勝手に連れてこられたことを許せるかは、別だろ」
「……はい」
ノルンは美咲の言葉を思い出していた。
異世界ものが好きだったこと。
魔法を見たいと思うこと。
本当に帰れない異世界へ行くこと。
それらは全部違う。
そして。
結果的に今が幸せであることと。
過去にされたことが正しかったかどうかも、同じではない。
「だから、会うかどうかはもう少し考える」
「承知致しました」
ノルンが手帳へ記そうとすると、カイルが「あ」と声を上げた。
「一つだけ」
「何でしょう」
「ルークが謝りたいって言ってたこと」
「はい」
「それを聞けただけで、少しは違う」
ノルンの目が僅かに大きくなる。
「許すって意味じゃないぞ」
「はい」
「でも、何も考えず『面白かったからやりました』って言うだけの奴なら、会う気にはならなかったと思う」
「そのお言葉を、ルークへお伝えしても?」
「いや」
カイルはすぐに首を横へ振った。
「今はまだやめて」
「承知致しました」
前なら。
良い言葉だと思った瞬間に、そのままルークへ伝えてしまったかもしれない。
けれど今は。
本人へ聞けた。
それだけのことが、ノルンには少し嬉しかった。
「それから、前世物品についても確認がございます」
「俺のはここにあるけど」
「はい。遊び場には、他の方々の私物と思われる品が残されております」
「返せるのか?」
「ご本人が望むのであれば、ルークは返すと言っています」
カイルはしばらく黙り、それから小さく頷いた。
「だったら、返してやってほしいな」
「ご本人へ確認してから対応致します」
「うん。それがいい」
◇◇◇
管理領域へ戻ったノルンは、カイルの回答を正式な記録へ残した。
『面会意思:保留』
『現世界での人生に対する肯定と、本人の意思なく人生を変更されたことへの評価は分けて考えたいとの意向』
『ルークの謝罪意思については、一定の意味を感じている』
『当該発言のルークへの伝達については現時点で希望せず』
最後まで書き終えると、横から主様が覗き込んだ。
「ちゃんと聞いたね」
「はい」
「前だったら、そのままルークへ言ってた?」
「……可能性はございます」
「成長した」
「ありがとうございます」
ノルンは少しだけ胸を張った。
「次はミレイアさんです」
「リベルへ連絡する?」
「お願い致します」
主様が管理用連絡路を開くと、数分後に淡い光が浮かんだ。
『……ノルン?』
「はい!」
『何』
「ご相談がございます!」
『朝から声が大きい』
「なぜ皆様、最初にそこをご指摘されるのですか!」
『要件』
「はい……」
ノルンは少し肩を落としながらも、ルークと直接会ったこと、九人へ謝罪を望んでいること、前世物品の返却意思があること、そして今後の観察については本人の許可を得るつもりでいることを順番に説明した。
リベルは最後まで黙って聞いていた。
そして。
『……名前つけたの?』
「そこからですか!?」
『重要』
「ルークです」
『ノルンが?』
「はい」
『……そう』
「何でしょう」
『いや』
一拍。
『らしいと思っただけ』
「どういう意味ですか」
『説明すると長い』
「逃げましたね」
『本題』
相変わらず淡々としている。
けれどノルンは、もうリベルの声音だけで「冷たい」とは思わなくなっていた。
「ミレイアさんへ、お話ししてもよろしいでしょうか」
『本人の状態を先に確認する』
「はい」
『今日は村の祭り準備に参加してる』
「お忙しいのですね」
『昼過ぎなら時間を取れる』
「では、その頃に」
『ただし』
リベルの声が少し低くなる。
『ノルン』
「はい」
『いきなり全部言わない』
「分かっております」
『本当に?』
「なぜ皆様、私を信用してくださらないのですか!」
『実績』
「むう……」
横で主様が笑った。
「主様!」
『主様もいる?』
「おります」
『止めて』
「任せて」
「お二人とも!」
◇◇◇
昼過ぎ。
ラフェルディアの村は、小さな祭りを数日後に控えて賑わっていた。
広場には木組みの飾り台が作られ、色とりどりの布が風に揺れている。大人達は料理や露店の準備を進め、子供達はその合間を縫うように走り回っていた。
少し離れた場所からは、まだ音の揃わない笛と弦楽器の演奏も聞こえてくる。
ミレイアは広場の端で、三人の子供へ歌を教えていた。
「そこ、もう少しゆっくりで大丈夫よ」
「こう?」
「そう。今度は三人一緒にね」
子供達が一斉に歌い始める。
多少音程はずれていたものの、ミレイアは笑いながら最後まで聞いていた。
ノルンとリベルは少し離れた場所で、その様子を待っている。
「リベルさん」
「何」
「お久しぶりです」
「数日」
「そうでした」
「ノルン」
「はい」
「今は話しかけないで」
「なぜです?」
「歌を聞いてる」
リベルの表情はいつも通りほとんど変わらない。
けれど、子供達とミレイアへ向けられた視線だけは少し柔らかかった。
「こういう時間、お好きなのですね」
「何が」
「今のような」
「……嫌いじゃない」
ノルンは小さく笑った。
「何」
「何でもございません」
「顔」
「皆様、私の顔を読むのがお上手ですね」
やがて歌の練習が終わり、子供達はミレイアへ手を振って広場の反対側へ走っていった。
その姿を見送った後、ミレイアもこちらへ気づいた。
「あら。リベル、それから……」
「こんにちは」
ノルンが頭を下げる。
「ノルンさん」
「覚えていてくださったのですね」
「もちろん」
ミレイアは少し笑った。
「前に、とても声の大きな方だと思ったから」
「リベルさん!」
「私、何も言ってない」
「今です!」
ミレイアが声を上げて笑った。
祭りの準備が進む村。
子供達の声。
料理の匂い。
木々を抜ける風。
そうした日常の中に、彼女は確かに生きている。
二十五年前。
ルークが勝手に別世界へ送った魂。
その言葉だけでは、今のミレイアを表すことはできない。
「今日は何かございましたか?」
ミレイアの問いかけに、ノルンは一度リベルへ視線を向けた。
小さく頷かれる。
「はい。ミレイアさんがお持ちの、音楽再生端末についてです」
ミレイアの表情が少し変わった。
「前に言っていた、私を見ている誰か?」
「はい」
「見つかったの?」
「直接、お会い致しました」
ミレイアの手が、胸元に下げた小さな袋へ自然と触れる。
その中に。
二十五年前から持ち続けている音楽端末がある。
「……どんな人だった?」
ノルンは少し考えた。
「人ではありませんでした」
「……」
「神様でもありません」
「……」
「世界より外側にいる存在で」
「ノルン」
リベルの低い声が入る。
「順番」
「あ」
ミレイアが一瞬ぽかんとした後、小さく笑った。
「大丈夫。私も分かってないから」
「申し訳ありません。私達もまだ完全には分かっておりません」
「そうなの?」
「はい。ただ、お名前がなかったため」
一度だけ。
「ルークという名前を付けました」
ミレイアの目が少し大きくなる。
「ノルンさんが?」
「はい」
「……そう」
何か言いたそうにしたが。
今は飲み込んだらしい。
「そのルークさんが」
「はい」
ノルンは姿勢を正した。
「二十五年前、ミレイアさんの魂を本来とは違う世界へ送った方でした」
風が吹き、広場の飾り布が大きく揺れた。
遠くから子供達の笑い声が聞こえる。
ミレイアはしばらく何も言わず、胸元の袋へ触れたまま立っていた。
「理由は?」
やがて。
静かな声で聞く。
「何だったの?」
「ミレイアさんが前世で、異世界を題材にした物語をご覧になっていたからです」
「……」
「ルークは、それを見て『異世界へ行きたいのだ』と考えたそうです」
「勝手に?」
「はい」
ミレイアは目を閉じた。
怒るだろうか。
泣くだろうか。
ノルンは何も決めつけずに待った。
「私」
しばらくして。
「好きだったわ」
「はい」
「異世界の物語」
「はい」
「魔法のある世界も好きだったし、本当に行けたら楽しそうって思ったこともある」
「はい」
「でも」
ミレイアは目を開いた。
「だからって、何も聞かずに連れていっていいわけじゃない」
「はい」
ノルンは強く頷いた。
「ルークも、今はそれが違うと理解し始めています」
「……」
「そして、九人の皆様へ謝りたいと」
「私にも?」
「はい」
そこでノルンは言葉を止めた。
すぐに「会いますか」とは聞かない。
ミレイアが自分で考える時間を取る。
広場では、先ほどの子供達がまた歌の練習を始めていた。
風に乗って、少し外れた歌声がこちらまで届く。
「ルークさん」
ミレイアが静かに口を開いた。
「私のこと、ずっと見ていたの?」
「二十五年間」
「……ずっと?」
「はい。ただし、転生後に人生そのものへ大きく介入した記録は確認されておりません」
「見ていただけ」
「基本的には」
「この端末を光らせたことは?」
「ございます」
ミレイアが少し笑った。
「やっぱり」
「気づいておられたのですか」
「昔から、時々変だったから」
袋から音楽端末を取り出す。
二十五年間使われてきた小さな機械。
表面には細かな傷もある。
けれど。
壊れない。
「これが壊れないのも?」
「ルークによる干渉です」
「どうして?」
「ミレイアさんが寂しそうだったから、と」
その言葉に。
ミレイアの顔が止まった。
「私が?」
「はい」
「……当たってる」
小さな声だった。
「最初は、すごく寂しかった」
「……はい」
「何も分からなくて。言葉も、家族も、住む場所も。全部変わって」
ミレイアは端末を両手で包むように持った。
「これ、なかったら」
一度だけ笑う。
「もっと辛かったと思う」
ノルンの胸が少し締めつけられた。
ルークがしたことは勝手だった。
本人の意思を無視した。
それは変わらない。
けれど。
ルークのしたすべてが、悪意だけで作られていたわけでもない。
だからこそ。
簡単ではない。
「ノルンさん」
「はい」
「ルークさんには」
ミレイアが顔を上げた。
「会えるの?」
「はい」
「直接?」
「はい」
リベルの視線が僅かに動く。
ノルンは慎重に言葉を選んだ。
「ただし、ミレイアさんが会いたくないのであれば――」
「会う」
ノルンの言葉が止まった。
「……はい?」
「会ってもいい」
予想よりも早い。
あまりにも迷いの少ない返事だった。
「ミレイア」
今度はリベルの声が少しだけ強くなった。
「すぐ決めなくてもいい」
「うん。分かってる」
「怒ってないわけじゃないでしょ」
「怒ってるよ」
ミレイアは静かに答えた。
「勝手だったと思う。もし私が前の世界に残りたかったって強く思ってたなら、取り返せないことをしたんだと思う」
「……うん」
「だからこそ」
ミレイアは端末へ視線を落とし、親指で表面をゆっくり撫でた。
「本人から聞きたい」
ノルンの胸が強く鳴った。
「ノルンさんから聞いた説明じゃなくて」
「はい」
「どうして私を選んだのか」
「はい」
「どうして、この端末を持たせたのか」
「はい」
「それから」
ミレイアは少しだけ息を整えた。
「どうして二十五年間も、私を見ていたのか」
そして。
顔を上げる。
「自分で聞きたい」
その言葉に。
ノルンは、美咲が言っていたことを思い出した。
怖くても。
知らないままより。
知って。
自分で決めたい。
「承知致しました」
ノルンは深く頭を下げた。
「ただし」
リベルが横から入る。
「僕も同席」
「もちろんです」
「主様も?」
「主様にもお願いいたします」
「場所はルークのところ?」
「現在はその予定です」
「安全確認」
「必ず行います」
リベルはミレイアを見る。
「それでいい?」
「うん」
「本当に?」
「リベル」
ミレイアが少し笑った。
「心配しすぎ」
「仕事」
「それだけ?」
「……」
リベルが僅かに目を逸らす。
ミレイアが笑った。
ノルンも、つい口元が緩む。
「何」
リベルがすぐにこちらを見る。
「何でもございません」
「顔」
「本当に皆様、私の表情を読むのがお上手ですね」
◇◇◇
管理領域へ戻った後。
ノルンは新しい頁を開き、そこへ正式に記録した。
『九名へのルーク面会意思確認』
『カイル――保留』
『ミレイア――面会希望』
二行を並べたところで。
ノルンの筆が止まった。
「主様」
「うん」
「意外でした」
「ミレイアが最初だったこと?」
「はい」
「僕も少し驚いた」
「私はカイルさんの方が、先に会うと仰るかと思っておりました」
「うん」
「あるいは」
一度考え。
「誰もすぐには答えないのではないかと」
「ミレイアは」
主様が少し考える。
「九人の中でも、ルークの存在を一番長く近くに感じてきた人なのかもしれないね」
「音楽端末」
「うん」
「時々光る」
「壊れない」
「誰かに見られているような感覚」
「二十五年間」
ノルンは小さく頷いた。
「だから怖いだけではなく」
「ずっと、知りたかったのかも」
「本人から」
「うん」
「大切ですね」
「そうだね」
その時。
机の端へ、淡い光が浮かんだ。
ノルンと主様が同時に視線を向ける。
「連絡ですね」
「ちゃんと前置きするようになったかな」
やがて文字が現れた。
『ノルン』
「はい」
『今いい?』
ノルンは少し笑った。
「はい。今は大丈夫です」
『今日』
一拍。
『誰かに聞いた?』
「……」
早い。
だが。
ルークにとっては。
当然。
気になることなのだろう。
「はい」
『会うって?』
ノルンはすぐには答えなかった。
ミレイアが面会を希望したこと。
それを。
ルークへ伝えてよいか。
本人へ確認していない。
「ルーク」
『うん』
「申し訳ありません」
『何?』
「面会の意思をあなたへ伝えてよいか、ご本人へ確認しておりません」
光が止まる。
『……』
「ですので」
ノルンは静かに続けた。
「今はお答えできません」
少し長い沈黙。
以前のノルンなら。
この間に。
ルークが不機嫌になったのではないか。
と。
勝手に考えたかもしれない。
でも。
待つ。
そして。
『そっか』
「はい」
『じゃあ』
一度。
『聞いてから教えて』
ノルンの目が少し大きくなる。
「……はい」
『僕』
次の文字は。
少し遅かった。
『待てる』
たった一言。
それでも。
ノルンの胸に。
温かいものが残る。
「ありがとうございます」
『うん』
「それから」
『何?』
「今日は、きちんと連絡前に『今いい?』と聞いてくださいましたね」
光が僅かに揺れた。
『覚えた』
「素晴らしいです」
『褒めた?』
「はい」
『……』
光が。
ほんの少し。
明るくなったように見えた。
『もう一回』
「はい?」
『褒めて』
「……」
横で主様が顔を逸らした。
肩が少し揺れている。
「主様」
「笑ってない」
「笑っております!」
『ノルン』
「はい!」
『声大きい』
「あなたまで!」
管理室へ、またノルンの声が響いた。
けれど。
今回は。
本気で怒っているわけではない。
ノルン自身にも。
それが。
分かっていた。
「ルーク」
『うん』
「よくできました」
『……うん』
「これでよろしいでしょうか」
『うん』
どうやら満足したらしい。
「では、また後ほど」
『うん』
「ご連絡の際は」
『先に聞く』
「はい」
『分かった』
淡い光が消えた。
主様がようやく顔を戻す。
「ノルン」
「何でしょう」
「完全に懐かれてるね」
「……」
「窓口」
「主様」
「何?」
「半分」
「何が?」
「ルーク対応です」
「え?」
「主様も半分担当してください」
「そこ、割合で決める?」
「公平です!」
「ノルン」
「主様だけ安全な場所へ逃げるのは禁止です!」
「逃げてないよ」
「では半分です」
「強いなあ」
主様は困ったように笑った。
ノルンは手帳へ視線を戻す。
『カイル――保留』
『ミレイア――面会希望』
まだ二人。
残り七人。
その中には。
ルークへ怒る人もいるだろう。
会いたくない人もいるかもしれない。
前世のことなど、もう思い出したくない人がいてもおかしくない。
全員が許す必要はない。
全員が会う必要もない。
それぞれが。
自分で決めればいい。
今は。
それだけを。
忘れない。
「主様」
「うん」
「次はユウトさんですね」
「担当から返事が来てるよ」
「本当ですか?」
「明日の午前なら接触できるって」
「では、明日はユウトさんへ」
ノルンが手帳を閉じる。
ところが。
主様は少しだけ首を傾けた。
「その前に」
「はい?」
「洗濯場」
「……」
ノルンが完全に止まった。
「今日」
「行くって言ってなかった?」
「……」
「ノルン?」
「忘れておりました!」
「やっぱり」
ノルンは慌てて時計を確認した。
まだ間に合う。
「主様!」
「うん」
「行って参ります!」
「転移で?」
「普通に参ります!」
「成長」
「はい!」
勢いよく立ち上がったところで。
扉の前。
一度。
足を止める。
「主様」
「何?」
「ミレイアさんへ」
「うん」
「ルークへ面会希望を伝えてよいか、次に必ず確認致します」
「忘れないよう記録しておくよ」
「ありがとうございます」
それだけ言うと。
ノルンは今度こそ管理室を出ていった。
◇◇◇
一人になった管理室で。
主様はしばらく閉じられた扉を見ていた。
そして。
「さて」
小さく呟き。
机へ視線を戻した。
三枚の古い記録板。
そのうちの一枚。
『接触禁止指定記録』
今までほとんど読み取れなかった文字列の一部が。
淡く。
変化し始めている。
「……?」
主様は椅子へ座り直し、記録板を手元へ寄せた。
文字が一つずつ。
現在の管理言語へ。
ゆっくりと。
変換されていく。
全文ではない。
まだ。
断片。
それでも。
最初に。
一文。
意味が通った。
『外在個体との接触時、名称を与えてはならない』
「……」
主様の表情が消えた。
しばらく。
その一文を見つめる。
「ノルン」
当然。
返事はない。
本人はもう。
スカーレット公爵邸へ向かっている。
主様は片手で額を押さえた。
「名前」
一度。
深く。
息を吐く。
「もう付けちゃったよ」
その瞬間。
記録板の表面へ。
二つ目の文章が浮かぶ。
『名称は接続を生む』
続いて。
三つ目。
『接続を得た外在個体は、観測対象ではなくなる』
「……」
そこで翻訳は止まった。
その先。
まだ。
読めない。
主様は笑わなかった。
名前を与えたことが。
悪い。
とは。
まだ分からない。
危険だと。
断定もできない。
そもそも。
この記録が。
どの時代。
どの存在を対象に。
どのような事情で。
作られたのかさえ。
判明していない。
だから。
今すぐ。
恐れる必要はない。
でも。
一つだけ。
確実に。
昨日までとは変わっている。
世界の外側から。
一方的に。
人の人生を眺めていた存在。
名前を持たなかった外在個体。
それを。
ノルンが。
『ルーク』
と呼んだ。
ルークも。
『ノルン』
と呼んだ。
互いに。
名前を使い。
互いを。
一つの存在として。
認識した。
それを。
古い管理記録の言葉で表すなら。
『接続』
主様はゆっくりと記録板を閉じた。
「帰ってきたら」
ノルンのいない管理室へ。
小さく。
「ちゃんと話さないとね」
◇◇◇
その頃。
ノルンはスカーレット公爵邸へ向かっていた。
今日は洗濯場で何を頼まれていたのか。
マーサへ遅れたことをどう説明するか。
フローラが来ていたら、また「お疲れなのでは」と心配されるのではないか。
そんな。
ごく普通のことを。
考えていた。
だから。
気づかなかった。
手に持っている手帳。
その表紙の内側。
閉じたはずの頁の端へ。
ほんの一瞬。
淡い光が走ったことに。
それは。
ルークからの連絡ではない。
世界外干渉の反応とも違う。
もっと古い。
もっと深い。
管理領域そのものに残されていた。
何か。
その反応だった。
光はすぐに消えた。
ノルンは歩き続ける。
九人へ、ルークと会いたいかどうかを聞く。
次はユウト。
その次はアヤ。
時間を置いて。
リュミ。
そんな新しい仕事が始まったばかりだと思っている。
けれど。
ルークへ名前を与えたことで動き始めたものは。
九人の人生だけではなかった。
長い時間。
誰にも開かれず。
誰にも読まれず。
世界管理者達からさえ忘れられていた古い記録。
世界が。
今の形になるより。
さらに前。
その奥深くで。
境界外存在を示す印が。
一つ。
ゆっくりと。
灯り始めていた。




