第二十四話 約束通り遊び場へ行ったら、そこにいたのは神様でも人間でもありませんでした
高橋美咲が無事に日付を越えた翌朝、ノルンは管理領域の自室で、いつもより少し長く鏡の前に立っていた。
身につけているのは、普段と変わらない白いワンピースである。腰まで伸びた白髪を丁寧に整え、襟元や袖に乱れがないことを確かめているだけなのだが、それでも何度か鏡へ目を戻してしまう。
今日向かうのは地球ではない。
二十五年前、カイルやミレイアを含む九人の魂が一度集められたと考えられている記録外閉鎖空間――ノルン達が仮称として『遊び場』と呼んできた場所だ。
そして、そこには。
これまで文字や干渉痕を通してしか接触できなかった、正体不明の観測者が待っている。
「……緊張しておりますね、私」
鏡の中の自分へ小さく呟いた。
少し前までなら、もっと単純だった。
見つける。
事情を聞く。
二十五年前に九人の人生を勝手に変えたことについて、必要ならしっかり注意する。
それだけだった。
けれど、高橋美咲との一件を経た今は違う。
観測者は、美咲が「帰れないのであれば異世界へ行きたくない」と答えた時、その意思を受け入れた。無理に異世界へ送ることもせず、美咲が亡くなった場合には正規の死後処理へ戻すと約束した。
さらに。
『僕も学んでる』
『人に聞くこと』
そんな言葉まで残している。
許せないことが消えたわけではない。
二十五年前に九人へしたことは、相手がどれだけ無邪気だったとしても変わらない。
だが、悪意だけで人の人生を弄んでいた存在とも、もう思えなかった。
「ノルン」
管理室の方から主様の声が届いた。
「はい!」
「そろそろ行けそう?」
「ただいま参ります!」
「別に急がなくていいよ」
「ですが、今日は初めて直接お会いするのです」
「うん」
ノルンはもう一度だけ髪を整え、鏡の前で姿勢を正した。
「初対面の方へお会いするのですから、きちんとした格好で伺うべきかと」
少しの沈黙。
そして、管理室側から笑いを堪えているような声が返ってきた。
「ノルン」
「はい」
「いつもと同じ服だよね」
「……」
「違った?」
「髪をいつもより丁寧に整えました」
「そっか。それは大事だね」
「今、子供を見るようなお顔をされておりませんか」
「気のせいだよ」
「本当でしょうか」
「ほら、早くおいで」
「話を逸らされました!」
それでも、そんなやり取りをしているうちに少しだけ肩の力が抜けた。
ノルンは自室を出て、管理室へ向かった。
◇◇◇
管理室へ入ると、中央の机にはすでに『遊び場』の観測記録が展開されていた。
白い閉鎖空間。
中央の円形机と六脚の椅子。
壁際へ並べられた本や玩具、複数世界の模型。
そして、奥には第二組の三人が使ったと考えられている別室へ続く扉がある。
昨日まで外側から何度も見てきた景色だ。
「主様、おはようございます」
「おはよう、ノルン」
「観測者さんからの連絡はございましたか」
「昨夜の後はないよ」
「約束を反故にされた可能性は?」
「今のところ考えなくていいと思う」
主様は、遊び場の記録へ指先を滑らせた。
「これまでのやり取りを見る限り、あの存在は少なくとも『約束』って言ったことは守ってる」
「美咲さんの死へ干渉しないこと」
「うん」
「美咲さんが異世界を望まなかった場合、正規の死後処理へ戻すこと」
「そう」
「それから、美咲さんが生きて今日を迎えられたら、私達と会うこと」
「それも」
ノルンは少しだけ息を吐いた。
「では、伺いましょう」
「その前に安全確認」
主様の声が少し真面目になる。
「遊び場へつながる入口が、朝方から開いてる」
「もう?」
「文字やメッセージは来てないけど、接続だけは待機状態になってる」
主様が別の記録板を開く。
『接続先:記録外閉鎖空間』
『接続元:遊び場内部』
『状態:待機』
ノルンは椅子から少し身を乗り出した。
「本当に招待されているようですね」
「そう見える」
「入れますか」
「入れる」
「危険性は?」
「分からない」
即答だった。
ノルンの表情が引き締まる。
「では、主様にはこちらで待機していただき、私が」
「逆」
「はい?」
「僕も行く」
ノルンは目を瞬いた。
「主様も?」
「うん」
「管理領域を離れて?」
「今回ばかりは、管理領域から見ているだけじゃ足りないと思う」
主様が立ち上がる。
普段と変わらない穏やかな表情だったが、その奥には明確な警戒があった。
世界管理者である主様自身にも、あの観測者が何者なのか分かっていない。
それだけでも、今回がいつもの観察任務とは違うのだと分かる。
「ノルン」
「はい」
「中へ入った後、勝手に物へ触らない」
「承知しております」
「勝手に扉を開けない」
「はい」
「相手が現れても、逃げられないようにいきなり掴まない」
「……」
「ノルン」
「少しだけ考えてしまいました」
「掴まない」
「はい」
「説教も最初から始めない」
「まずお話を伺います」
「本当に?」
「主様!」
主様が小さく笑った。
その笑いが消えた後、二人は同時に遊び場への接続記録を見た。
「行こうか」
ノルンは胸元へ手を置き、一度深く呼吸した。
「はい」
◇◇◇
遊び場への入口は、通常の転移門とはまるで違っていた。
光の輪もなければ、その向こうに目的地の景色が見えることもない。
管理室の中央に、縦へ細長い裂け目が生まれただけだった。
黒いわけでも白いわけでもない。
色という概念自体がうまく当てはまらない、世界と世界の隙間が一瞬だけ表へ露出したような裂け目だった。
「……主様」
「うん」
「率直に申し上げます」
「どうぞ」
「かなり入りたくない見た目です」
「僕も同じ感想」
「帰路は確保されていますね」
「こっちで固定してる。何かあればすぐ戻せる」
「では」
ノルンが一歩前へ出る。
同時に主様も動いた。
「僕が先」
「いえ、主様を危険な場所へ先に行かせるわけには」
「僕の方が防御力高いから」
「……」
「ノルン」
主様は穏やかな声のまま、少しだけ表情を引き締めた。
「こういう時は任せて」
ノルンは数秒迷った後、小さく頷いた。
「……はい」
主様が先に裂け目へ入る。
光も音も起きなかった。
ただ、姿が向こう側へ消える。
「ノルン」
すぐに声が聞こえた。
「大丈夫。入っておいで」
「はい!」
ノルンも裂け目を越えた。
◇◇◇
一歩踏み込んだ瞬間、足元の感触が変わった。
確かに床はある。
けれど、石でも木でもなく、少し弾力のある不思議な感触だった。
目を開く。
そこに広がっていたのは、昨日まで何度も外側から観測していた白い部屋だった。
実際に立ってみると、想像していたよりも広い。
天井は高く、白い壁にはほんの僅かに青が混じっている。どこにも灯りらしいものはないのに、室内全体が柔らかな明るさで満たされていた。
中央には円形の机。
その周囲に六脚の椅子。
壁際には積み木や玩具、何冊もの本、地図、そして二十を超える世界模型が並べられている。
「……静かですね」
「うん」
主様も周囲を見回す。
「誰もいないようには見える」
「ですが」
「いるね」
「はい」
ノルンにも感じられた。
魔力でも神力でもない。
これまでカイルのスマートフォンやミレイアの音楽端末へ残っていた世界外干渉痕に似ているが、それよりもずっと濃い。
まるで。
この空間そのものが。
誰かの気配で満たされている。
「見られております」
「そうみたい」
「……やはり落ち着きません」
「観察される側って嫌だよね」
「はい。今後、観察対象の皆様へより一層配慮したいと思います」
「いい経験になったね」
「嬉しくはございません」
「知ってる」
二人はゆっくり中央の机へ近づいた。
六脚の椅子は、人間の成人が普通に座れる大きさだった。
ここへ。
二十五年前。
カイル達がいたのかもしれない。
そう思うと、ノルンの胸にまた別の重さが生まれる。
けれど、椅子へ触れることはしなかった。
「観測者さん」
ノルンの声が、静かな部屋へ響く。
「約束通り参りました」
返事はない。
「いらっしゃいますか」
主様も黙って周囲を警戒している。
数秒後。
部屋の奥で。
こつ。
小さな音がした。
ノルンと主様が同時にそちらを見る。
棚の上へ置かれていた一つの世界模型が、ゆっくり宙へ浮かび上がっていた。
模型はそのまま中央の机まで移動し、淡い光へ変わる。
『おはよう』
見慣れた文字が浮かんだ。
「……いらっしゃるのでしたら」
ノルンは少しだけ眉を寄せる。
「今日は文字ではなく、お姿を見せていただけませんか」
少しの間。
『緊張する』
「……」
ノルンは完全に言葉を失った。
主様も目を瞬いている。
「緊張?」
『うん』
「あなたが?」
『うん』
「なぜですか」
『直接会うの、久しぶりだから』
ノルンと主様が視線を合わせる。
「久しぶりということは」
主様が静かに聞いた。
「以前は誰かと直接会っていた?」
『たぶん』
「たぶん?」
『昔すぎて、よく覚えてない』
ノルンは少しだけ迷った後、机の上の光へ向き直る。
「私も緊張しております」
『ほんと?』
「はい」
『怒ってる?』
「少しは」
『やっぱり』
「ですが」
ノルンは一度呼吸を整えた。
「今日はまず、お話をしたいと思っております」
光が少しだけ揺れた。
『……うん』
今までのやり取りより。
ほんの少し。
声が小さく感じた。
そして。
机の向こう側の空間が。
ゆっくり歪み始めた。
◇◇◇
最初に現れたのは、人の形に近い影だった。
背丈はノルンより少し高く、主様よりは低い。
頭があり、腕があり、脚もある。
けれど。
それを人間だと思うことはできなかった。
輪郭そのものが一定ではない。
夜空のように見えたかと思えば、次の瞬間には水面のように揺れ、薄い雲や星の光が内部を通り過ぎる。黒でも白でもなく、見る角度によって色彩そのものが変化していた。
顔らしい場所はある。
しかし。
目も。
鼻も。
口も。
ない。
人間の形を。
理解しやすいように借りているだけ。
ノルンには、そんな印象を受けた。
『これで』
初めて。
文字ではない声が聞こえた。
耳から聞こえているようで、違う。
空間全体が直接言葉を伝えてくるような声。
男性にも女性にも聞こえず、大人とも子供とも判断できない。
『いい?』
ノルンはしばらく相手を見つめた後、ゆっくり頷いた。
「はい」
一度。
「あなたが」
声が少し硬くなる。
「二十五年前、カイルさんやミレイアさん達、九人の魂を本来とは異なる世界へ送った方ですか」
『そうだよ』
あまりにもあっさり認められた。
胸の奥に。
熱いものが上がる。
それでもノルンは、拳を握らなかった。
『怒った?』
「怒っております」
『うん』
「ですが、その前に」
一度呼吸する。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
影が僅かに首を傾げた。
『名前?』
「はい」
『ないよ』
「……ない?」
『うん』
「これまで呼ばれていたお名前も?」
『たぶん、ない』
今度は主様が聞く。
「さっきから“たぶん”が多いね」
影が主様の方へ向いた。
『昔、いろんな呼ばれ方をした気はする』
「誰に?」
『忘れた』
「どれくらい昔?」
『長いから』
ノルンは眉を寄せた。
「どの程度、生きておられるのですか」
影が少し考えるように揺れる。
『分かんない』
「ご自分の年齢をご存じない?」
『時間、あんまり数えないから』
一度止まり。
『世界が増える前からいた』
主様の表情が変わった。
明らかだった。
「主様?」
「……それが事実なら」
主様の声が低くなる。
「神々より古い可能性がある」
ノルンは改めて影を見た。
「神様ではないのですね」
『違うよ』
「世界管理者でもない」
『違う』
「では」
一度。
「何者なのですか」
影が少し揺れる。
『外にいるもの』
「世界の外側?」
『もっと外』
ノルンは言葉を失った。
世界。
神域。
管理領域。
それらすべてより、さらに外。
以前主様は言っていた。
世界があり。
それを管理する領域があり。
神域がある。
けれど。
それらすべてを包んでいるものが何なのか。
主様にも全部は分からないと。
「境界外存在」
主様が静かに言った。
影が止まる。
『それ』
「知ってる?」
『昔、誰かがそう呼んだ』
「主様」
ノルンは初めて聞いた言葉だった。
「詳しいことは後で話す」
「承知致しました」
主様は影へ視線を戻す。
「君は外から侵入してきた存在じゃない?」
『違う』
「最初から外側にいた」
『うん』
「世界ができる前から?」
『たぶん』
また。
たぶん。
ノルンは相手の時間感覚そのものが、自分達とまるで違うのだと理解し始めていた。
二十五年。
ノルン達にとっては長い。
人間にとっては、人生の大きな一部。
だが。
この存在にとっては。
ほんの短い時間なのかもしれない。
それでも。
だから許されるわけではない。
「では」
ノルンは姿勢を正した。
「二十五年前について伺います」
『うん』
「なぜ、九人だったのですか」
影の動きが止まる。
「カイルさん。ミレイアさん。レオンさん。セラさん。ユウトさん。アヤさん。リュミさん。そして、まだ直接確認できていないお二人」
『うん』
「なぜ、その九人を選ばれたのでしょう」
少しの沈黙。
『見てたから』
「何を?」
『話』
「話?」
『みんな、異世界の話見てた』
ノルンの表情が変わる。
「二十五年前、地球の投稿交流サイトにあった作品」
『うん』
「『神様の手違いで異世界へ行くことになりました』」
『そう』
「作者名は」
『観測者』
「やはり」
ノルンは胸の奥へ息を落とした。
「あなたが投稿していたのですね」
『うん』
「なぜ、地球で小説を?」
『知りたかった』
「何をですか」
『人が』
一度。
『別の世界をどう思ってるか』
ノルンは黙る。
『感想、面白かった』
「感想欄を読んでいた?」
『うん』
「九人のうち、感想を書かれていない方もおられました」
『読むだけの子も見てた』
ノルンの眉が寄る。
「閲覧者まで」
『見れたから』
「勝手に?」
『うん』
「……」
『怒った?』
「少し増えました」
影が僅かに揺れた。
どこか笑っているようにも見える。
ノルンは咳払いを一つして話を戻した。
「それで、異世界を題材とした作品を読んでいた九人を、亡くなった後に」
『拾った』
「拾った、ではありません」
『じゃあ』
「魂です」
『魂、拾った』
「……」
あまり改善していない。
「本来の行き先から変えたのですね」
『うん』
「どうして本人へ聞かなかったのですか」
そこで。
初めて。
影が長く止まった。
ノルンも急かさなかった。
主様も黙っている。
『聞くって』
一度。
『思いつかなかった』
「……」
ノルンは完全に止まった。
「思いつかなかった?」
『うん』
「異世界へ本当に行きたいのか、本人へ確認することを?」
『みんな、異世界の話見てたから』
「はい」
『行きたいんだと思った』
ノルンの中へ。
美咲の言葉が戻る。
『旅行なら行ってみたいです』
『帰れないなら、それは嫌かな』
フローラも。
似たことを言っていた。
物語として読むことと。
自分が本当にそこで生きることは。
違う。
「それは」
ノルンは静かに告げた。
「違います」
『うん』
すぐに返ってきた。
ノルンの目が僅かに大きくなる。
『今は分かる』
「……美咲さんから?」
『うん』
一度。
『好きなのと、行きたいのは違う』
観測者は。
ちゃんと聞いていた。
昨日。
美咲が自分で言った言葉を。
「二十五年前は」
『知らなかった』
「今は?」
『少し分かる』
「完全に?」
『まだ』
また。
正直だった。
ノルンは小さく息を吐く。
「では、一つだけ」
『うん』
「本人へ確認せず、勝手に人生の行き先を変えることは」
『駄目』
先に言われた。
ノルンは目を瞬く。
「分かっておられるのですね」
『今は』
「……」
影の輪郭が。
ほんの少し。
小さくなったように見えた。
『ごめん』
ノルンは息を止めた。
主様も。
何も言わない。
『九人に』
一度。
『悪いことした』
軽い言葉ではなかった。
少なくとも。
ノルンにはそう聞こえた。
「それを」
一度。
慎重に聞く。
「九人の皆様へ、直接伝えたいですか」
『会える?』
「謝りたいのですか」
『うん』
ノルンは主様を見る。
主様は、ほんの少しだけ頷いた。
「すぐにはお会いさせられません」
『うん』
「まず、ご本人達へ確認致します」
『聞く』
「はい」
『会っていい?って』
「そうです」
『分かった』
ノルンの胸に。
ほんの少し。
温かいものが生まれた。
◇◇◇
「前世物品についても確認させてください」
『うん』
「カイルさんのスマートフォン」
『持たせた』
「ミレイアさんの音楽再生端末」
『持たせた』
「なぜ、このお二人だけ?」
影が少し机の周囲を見回した。
『寂しそうだったから』
「寂しそう」
『カイル、前の世界すごく気にしてた』
「はい」
『ミレイアも』
「……はい」
『だから、持ってた物あげた』
「“あげた”というより、元々ご本人の物です」
『そうなの?』
「そうです」
『そっか』
ノルンは少しだけ額を押さえたくなった。
「では、こちらへ残されている四点は」
棚に置かれた箱へ視線を向ける。
腕時計。
キーホルダー。
ペン。
写真。
『残した』
「なぜ?」
『なくても大丈夫そうだった』
「……」
観測者にとって。
それは。
遊びの条件差。
だったのかもしれない。
だが。
人間にとっては。
前世の自分が持っていた。
大切な物。
かもしれない。
「これは」
ノルンは少しだけ声を強めた。
「あなたの収集物ではございません」
『うん』
「ご本人へ返却できるのであれば」
『返す』
即答だった。
ノルンは少し驚く。
「本当に?」
『うん』
「勝手に渡すのではなく」
『聞く』
「……」
『欲しい?って』
ノルンの目が僅かに大きくなった。
「はい」
ゆっくり頷く。
「それがよろしいと思います」
『分かった』
◇◇◇
そこで、主様が一歩前へ出た。
「僕からもいい?」
『うん』
「この遊び場を作ったのは君?」
『そう』
「いつ?」
『ずっと前』
「二十五年前より?」
『もっと前』
「何のために」
影が部屋の中を見回す。
本。
玩具。
積み木。
地図。
世界模型。
そして。
『暇だった』
ノルンが目を瞬く。
「……暇」
『うん』
「それだけですか」
『最初は』
主様の目が少し細くなる。
「この世界模型は?」
『見つけた世界』
「二十以上あるね」
『もっとあるよ』
ノルンの背中に。
少し。
冷たいものが走る。
「他にも?」
『ある』
「遊び場が?」
『うん』
ノルンと主様が同時に黙った。
『どうしたの』
「主様」
「うん」
「嫌な予感が致します」
「僕も」
ノルンは観測者へ視線を向け直した。
「他の場所でも、九人と同じようなことを?」
『してない』
今度はすぐに否定された。
「本当に?」
『九人だけ』
「なぜやめたのですか」
影が少し揺れる。
『途中で』
一度。
『つまんなくなった』
ノルンの眉が動いた。
「……つまらなく?」
『うん』
「人の人生を勝手に変えておいて」
「ノルン」
主様が静かに止める。
ノルンは一度口を閉じた。
『怒った』
「怒ります!」
今度は声が部屋へ響いた。
影がほんの少しだけ後ろへ下がった。
「あ……」
ノルンは自分で気づき、すぐ呼吸を整える。
「申し訳ありません。ですが、理由はきちんと伺います」
『うん』
「何が、つまらなくなったのですか」
『最初』
一度。
『どの世界へ送ったらどうなるか、すごく気になった』
「はい」
『でも、見てたら』
影は少し考えるように揺れた。
『みんな普通に生きた』
カイル。
ミレイア。
レオン。
セラ。
ユウト。
アヤ。
リュミ。
そして。
まだ直接会えていない二人。
『すごいこと』
一度。
『あんまりしなかった』
ノルンの胸が少し冷える。
「それが、最初はつまらなかった?」
『うん』
正直だった。
けれど。
観測者は続ける。
『でも』
「はい」
『ずっと見てたら』
間があった。
『普通って、いろいろある』
ノルンの目が僅かに大きくなる。
『カイル』
「はい」
『泣いたり、笑ったり、仲間できたりした』
「はい」
『ミレイア』
「はい」
『お母さんに怒られたり、村の子に歌教えたり』
「……はい」
『アヤ』
一度。
『しょうゆ作るのに三年かかった』
ノルンは少しだけ口元を緩めた。
「そこまで見ておられたのですか」
『うん。いっぱい失敗した』
「笑っていたのですか」
『違う』
「では」
『次どうするかなって、ずっと気になった』
その言葉で。
ノルンは少しだけ。
観測者の変化を理解した気がした。
最初は。
刺激を求めていた。
異世界へ送れば。
どんな大事件を起こすのか。
どれほど世界を変えるのか。
それを見たかった。
けれど。
実際の人間は。
物語の登場人物のように。
大きな事件ばかり起こすわけではない。
仕事をして。
友人を作って。
料理を失敗して。
誰かに怒られて。
時には泣き。
少しずつ。
日々を生きていく。
観測者は。
二十五年かけて。
そこを見るようになった。
「それで」
ノルンは聞いた。
「九人以降、新しく誰かを別世界へ送ることは」
『してない』
「二十五年間?」
『うん』
「ずっと観察だけを?」
『うん』
「途中で直接干渉は」
『ほとんどしなかった』
主様の目が細くなる。
「“ほとんど”?」
『ミレイアの音箱、光らせた』
「……それは存じております」
『あと、カイルのスマホ壊れないようにした』
「それは転生時からでしょうか」
『うん』
「他には?」
『ない』
主様が静かに聞く。
「本人達の選択や世界の出来事へ介入した?」
『してない』
「証明できる?」
『できるよ』
観測者が腕らしい部分を上げる。
その瞬間。
白い壁の一面へ。
膨大な記録が浮かび上がった。
九人。
二十五年間。
どの時点で。
何を見て。
どこへ。
どの程度。
干渉したのか。
細かい履歴。
主様は無言で確認を始めた。
ノルンも。
急かさず待つ。
しばらくして。
主様が小さく息を吐いた。
「少なくとも」
一度。
「この記録が改竄されていない前提なら、転生後の人生へ大規模な介入をした形跡はない」
ノルンの肩から少し力が抜ける。
「では」
「見てただけ、という主張とは一致してる」
「ただし」
ノルンは観測者を見る。
「ご本人達の許可なく」
『うん』
「二十五年間、見続けた」
『うん』
「それについては」
『聞く』
また。
先に答えられた。
ノルンは目を瞬く。
『見ていい?って』
「……はい」
『嫌って言ったら見ない』
「本当にできますか」
『できるよ』
「それなら」
ノルンは静かに頷いた。
「そうしてください」
『うん』
主様が少しだけ笑った。
「かなり変わったね」
「観測者さんが?」
「うん」
影が揺れる。
『ノルンがうるさいから』
「……」
ノルンの眉が動いた。
「主様」
「聞こえた」
「今、うるさいと」
『声大きいし』
「リベルさんと同じことを!」
『リベル?』
「あ」
『眼鏡の人?』
ノルンはじっと観測者を見た。
「ご存じなのですか」
『見てた』
「無断で?」
『昨日まで』
「今後は」
『聞く』
「はい」
主様が笑いを堪えている。
「主様」
「何?」
「笑っておられますね」
「少しだけ」
「もう!」
白い遊び場へ。
少しだけ。
柔らかい空気が広がった。
◇◇◇
しばらくして。
ノルンは。
今日一番。
聞きたかったことへ。
ようやく辿り着いた。
「観測者さん」
『うん』
「最後に、一番伺いたかったことがあります」
影の動きが止まる。
「なぜ今」
一度。
「私達へ、ご自分から接触されたのですか」
『……』
「二十五年間、管理側へ存在を知られないまま」
「うん」
「フローラ様の誤転生からカイルさんへ辿り着き、世界外干渉を調べ始めた直後」
「うん」
「あなたは」
ノルンはまっすぐ相手を見た。
「『見つけられるかな?』と、私達へ自分から文字を送られました」
『うん』
「なぜです?」
今回。
一番長い沈黙だった。
主様も。
何も言わない。
ノルンも。
待つ。
やがて。
影の輪郭が。
少し。
小さく揺れた。
『寂しかった』
「……」
ノルンは何も言えなかった。
主様の表情も、ほんの僅かに変わった。
『ずっと見てた』
一度。
『でも、誰も僕を見ない』
静かな声だった。
『当たり前なんだけど』
「……」
『僕、外にいるから』
ノルンの胸が。
小さく痛んだ。
『ミレイアが』
「はい」
『音箱が光るの、気づいた』
「はい」
『こっち見た』
観測者は。
二十五年間。
世界の外側から。
人を見ていた。
でも。
見られることはなかった。
存在に気づかれることも。
名前を呼ばれることも。
自分へ話しかけられることも。
ほとんどなかった。
『でも』
一度。
『話せない』
「生きている方へは直接話せない」
『うん』
「だから」
『ノルン達が来た』
影が。
まっすぐ。
ノルンへ向いた。
『僕を探した』
ノルンの胸が鳴る。
『初めて』
「初めて?」
『僕が隠れたんじゃない』
一度。
『誰も探さなかった』
主様の目が僅かに動く。
『主様も』
「僕達は君の存在自体を知らなかった」
『うん』
『だから』
一度。
『見つけられるかなって』
ノルンは。
最初に見た文字を思い出した。
『見つけられるかな?』
あの時は。
完全な挑発だと思った。
遊ばれている。
こちらの反応を楽しんでいる。
そう。
思っていた。
確かに。
遊んでいる部分もあったのだろう。
でも。
それだけではなかった。
「私達が」
一度。
「あなたを探したこと」
『うん』
「嬉しかったのですか」
影が少し揺れる。
『……うん』
ノルンは胸元へ手を置いた。
怒りが。
全部。
消えるわけではない。
九人へしたことは変わらない。
けれど。
少しだけ。
分かった。
「それでも」
『うん』
「九人の方々へしたことは」
『駄目』
また。
先に言われた。
「今は分かっておられるのですね」
『うん』
『だから』
一度。
『謝りたい』
ノルンは少し目を伏せる。
「それを許すかどうかは」
『九人が決める』
「……はい」
『分かった』
ノルンは顔を上げた。
「ただ」
『うん』
「私は」
一度。
少し笑う。
「今日、お話しできてよかったと思っております」
影が止まった。
『……』
「あなたが何も考えていない方ではなかったこと」
『うん』
「人の意思について、学ぼうとしていること」
『うん』
「そして」
一度。
「寂しかったこと」
影の輪郭が。
少しだけ。
小さくなる。
「少しだけ」
ノルンは柔らかく続けた。
「分かりました」
長い。
間。
『ノルン』
「はい」
『ありがとう』
今度は。
ノルンも自然に笑った。
「どういたしまして」
◇◇◇
主様は二人のやり取りを見届けた後、一歩前へ出た。
「最後に、管理側として確認するね」
『うん』
「今後、無許可で魂路へ介入しない」
『しない』
「生者へ直接的な世界外干渉をしない」
『しない』
「管理領域を勝手に覗かない」
影が。
一瞬。
止まった。
『……』
「そこ迷う?」
『ノルン見れない』
「見なくていい」
『……』
ノルンの眉が動く。
「主様」
「うん」
「そこは即答していただきたいところです」
『……分かった』
「本当に?」
『聞く』
「誰に?」
『ノルン』
「私に?」
『見ていい?って』
ノルンは少し考えた。
「嫌です」
『え』
「今のところは」
一度。
「嫌です」
影が。
分かりやすいほど。
少し小さくなった。
しょんぼり。
している。
ように見える。
「ですが」
『うん』
「会話をするために管理領域へ来ることについては」
一度。
ノルンは主様を見る。
「主様の許可があれば」
「僕に振る?」
「管理領域の管理者は主様ですので」
「まあ、それはそうだけど」
主様は少し考えた。
「無断じゃなければ、たまになら」
『来ていい?』
「毎日は駄目」
『何で?』
「仕事があるから」
『そっか』
「それから、突然文字を出してノルンを驚かせるのも」
「主様?」
「何?」
「なぜ私だけ指定されました?」
「一番反応大きいから」
「主様!」
影が揺れた。
今度は。
はっきり。
笑っているように見えた。
『ノルン』
「何でしょう」
『声大きい』
「あなたまで!」
白い部屋に。
ノルンの声。
主様の笑い。
そして。
声を出さず。
形だけで笑う。
正体不明だった存在。
そんな。
少し前まで。
想像もしなかった空気が生まれていた。
◇◇◇
「そうでした」
ノルンはふと気づいた。
『何?』
「お呼びするお名前がありません」
『観測者でいいよ』
「それは肩書きに近いでしょう」
『僕、名前ない』
「でしたら」
ノルンは考え込む。
主様がすぐに嫌な予感を察したような顔をした。
「ノルン」
「何でしょう」
「勝手にものすごく変な名前つけないでね」
「失礼です!」
『名前』
観測者が少し身を乗り出すように見えた。
『つけるの?』
「ご希望でしたら」
『うん』
「……」
まさか。
本当に。
頼まれるとは。
思っていなかった。
「主様」
「僕に聞くの?」
「大切なお名前ですので」
「本人がいいなら、ノルンが考えてあげたら」
観測者は。
机の向こう側で。
静かに待っている。
ノルンは少しだけ考えた。
世界の外側から。
長い時間。
人や世界を見てきた存在。
誰にも見つけられず。
名前もなく。
ただ。
誰かが自分へ気づくのを。
知らないうちに。
待っていた存在。
「……ルーク」
ふと。
言葉が出た。
『ルーク』
「はい」
「意味は?」
主様が聞く。
ノルンは少し考える。
「……響きです」
「そこは何か考えてたんじゃないの?」
「今、自然に浮かびました」
影が一度大きく揺れた。
『いい』
「本当ですか」
『うん』
一度。
『僕、ルーク』
ノルンの口元が自然に緩んだ。
「では」
姿勢を正す。
「改めまして。私は転生者観察官ノルンと申します」
『知ってる』
「存じております!」
『うん』
「最後まで言わせてください」
『分かった』
「そして、こちらは」
『主様』
先に言われた。
主様が一瞬止まる。
「僕の名前は?」
『知らない』
「そっか」
ノルンは思わず笑った。
「私にとっては主様です」
「ノルンにとってはね」
『主様』
ルークまで呼ぶ。
「まあ」
主様は少しだけ困ったように笑った。
「今はそれでいいか」
白い遊び場に。
三人が立っていた。
世界管理者。
転生者観察官。
そして。
世界や神域、管理領域よりもさらに外側。
境界の向こうで、誰にも知られないまま長い時間を過ごしてきた存在。
ルーク。
敵。
と決められる相手ではない。
けれど。
まだ。
味方でもない。
九人へ謝る必要がある。
管理側の決まりも覚えてもらわなければならない。
何より。
境界外存在というもの自体。
分からないことばかりだった。
それでも。
文字の向こうにしかいなかった相手は。
もう。
正体不明ではなくなった。
◇◇◇
帰る前。
ノルンは円形机と六脚の椅子をもう一度見た。
その奥には。
第二組のために用意されていた三脚の椅子がある。
九人。
二十五年前。
人生の行き先を変えられた者達。
「ルーク」
『うん』
「この遊び場は、今後どうされますか」
ルークは周囲を見回した。
『分かんない』
「九人の記録が残っております」
『うん』
「前世物品も」
『ある』
「でしたら」
一度。
「勝手に処分しないでください」
『しない』
「記録についても」
『聞く』
「はい」
『見ていい?って』
「そうしてください」
ノルンが頷く。
少しの間。
『ノルン』
「はい」
『また来る?』
今度は。
ノルンの方が止まった。
「必要がございましたら」
『必要なくても』
「……」
『遊びに』
ノルンは主様を見る。
主様は少しだけ笑った。
「ノルンが決めていいよ」
「私が?」
「誘われたのノルンだから」
ノルンは少し考えた。
この場所は。
最初。
とても嫌な場所に見えた。
人の人生を条件ごとに変え。
その違いを眺めるための。
遊び場。
けれど。
過去は変えられない。
なら。
これから。
ここで何をするか。
それは。
変えられる。
「では」
一度。
少しだけ笑う。
「今度は、人を勝手に転生させない遊びを致しましょう」
ルークが止まる。
『何それ』
「普通にお話をしたり」
『うん』
「ゲームをしたり」
『ゲーム』
「はい」
『地球の?』
「私は詳しくありません」
ノルンが主様を見る。
「そこで僕を見る?」
「主様はお詳しそうです」
「まあ、少しは」
『やりたい』
即答だった。
ノルンは思わず笑った。
「では、その程度でしたら」
『また』
「はい」
「また参ります」
ルークが腕らしい部分を上げる。
ノルンは首を傾げた。
「何を?」
『これ』
「はい?」
『別れる時』
一度。
『手、振るんでしょ』
ノルンは目を瞬いた。
「どなたから教わったのですか」
『見て覚えた』
九人を。
世界を。
二十五年間。
見てきた。
その中で。
誰かが誰かへ。
またね。
と。
手を振る場面も。
何度も見たのだろう。
ノルンの胸が少し柔らかくなる。
「はい」
自分も手を上げる。
「また」
『またね、ノルン』
「はい」
『主様も』
「またね」
主様も小さく手を上げた。
管理領域へ戻るための裂け目が開く。
ノルンは一歩踏み出し。
最後に。
もう一度だけ。
振り返った。
白い部屋の中央。
ルークが一人で立っている。
長い。
長い時間。
誰にも見つけてもらえず。
ただ。
他人の人生を見ることしか知らなかった存在。
でも。
今は。
誰かを見送る側へ。
初めて。
立っている。
ノルンは小さく笑った。
「また参ります」
『うん』
そして。
主様とともに。
管理領域へ戻った。
◇◇◇
裂け目が閉じた後。
ノルンは管理室の中央で立ち尽くし。
やがて。
長く息を吐いた。
「主様」
「何?」
「疲れました」
「珍しく素直だね」
「かなり緊張しておりました」
「僕も」
ノルンは少し驚く。
「主様も?」
「うん」
「何となく」
一度。
肩の力が抜ける。
「安心致しました」
「ノルンだけじゃないよ」
「はい」
主様は机へ戻り、遊び場の接続記録を確認する。
「でも」
「はい」
「思っていたよりは話せる相手だった」
ノルンも頷いた。
「悪意だけで動いていた方ではありませんでした」
「うん」
「むしろ」
一度。
「かなり子供っぽいところが」
「僕も思った」
「ですよね」
「存在してる時間だけなら僕らよりずっと長そうなのに」
主様は少しだけ考え込む。
「人と関わった経験は、たぶんかなり少ない」
「だから」
ノルンもゆっくり整理する。
「本人へ聞くことも」
「うん」
「勝手に見られることが嫌だという感覚も」
「うん」
「名前を持つことも」
「別れ際に手を振ることも」
「今さら学んでる」
ノルンは少し黙った。
それなら。
少し。
分かる気もする。
許す。
とは。
別。
でも。
理解することはできる。
「主様」
「何?」
「今後はどう致しましょう」
「まず九人」
「はい」
「接触可能な対象から、ルークについてどこまで伝えるか整理する」
「そして」
「会いたいかどうか、本人へ確認」
「はい」
「前世物品についても、返却を望むか聞く」
「はい」
「それから」
主様の表情が少し真面目になる。
「境界外存在について、神域側の古い記録を調べる」
「ルーク自身も、ご自分が何なのか詳しくご存じないようでした」
「だからこそ確認が必要だね」
ノルンは頷いた。
正体不明の観測者を見つける。
それで。
全部。
終わると思っていた時期もあった。
でも。
実際は。
名前がついたことで。
新しい調査が始まっただけだった。
「主様」
「何?」
「私の苦労は」
「うん」
「少しは減りましたでしょうか」
主様は真剣に考えた。
「正体不明ではなくなった」
「はい」
「でも、境界外存在ルークとの窓口がノルンになった」
「……」
「九人への説明もある」
「……」
「神域との調整も必要になる」
「主様」
「何?」
「増えておりませんか」
「たぶん」
ノルンは机へ両手をついた。
「なぜですか!」
「僕に聞かれても!」
久しぶりに。
管理領域へ。
大きな声が響いた。
その直後。
机の端へ。
淡い光が浮かぶ。
『声大きい』
「ルーク!」
ノルンが目を見開く。
『聞こえた』
「もう勝手に覗かない約束では!」
『覗いてない』
「では、なぜ聞こえるのですか!」
『連絡』
「……」
ノルンは止まった。
主様が額へ手を当てる。
「早速覚えたんだ」
『聞いていい?』
続けて文字が出る。
『これならいい?』
ノルンは少しだけ言葉を失った。
勝手に覗くのではなく。
まず。
聞く。
さっき。
覚えたばかりのことを。
もう。
使っている。
「……はい」
一度。
ノルンは少しだけ笑った。
「連絡であれば構いません」
『よかった』
「ただし」
『うん』
「急ぎでない場合は、できれば仕事中を避けてください」
『分かった』
「それから」
『うん』
ノルンは少し疲れた笑顔になる。
「今は、少し休ませてください」
光が止まる。
『疲れた?』
「かなり」
『ごめん』
「……」
素直に謝られた。
ノルンは。
今度こそ。
少しだけ笑った。
「では」
一度。
「また後ほど」
『うん』
光が消える。
主様がノルンを見る。
「ノルン」
「はい」
「窓口」
「……」
「頑張って」
ノルンは真顔で主様を見返した。
「主様も一緒です」
「僕も?」
「当然です」
「そこは分担しようよ」
「主様!」
また。
声が響く。
けれど。
今度は。
ルークから。
何も返ってこなかった。
ノルンが休ませてほしいと言ったから。
ちゃんと。
連絡を止めた。
そんな。
小さな変化が。
少しだけ。
嬉しかった。
ただ。
ノルンはまだ知らない。
この日。
境界外存在へ『ルーク』という名前が与えられ。
世界管理側との正式な会話が初めて成立したこと。
その記録が。
神域のさらに奥。
長い間誰にも開かれていなかった古い管理記録を。
静かに。
反応させ始めていることを。
そして。
二十五年前に人生を変えられた九人へ、ルークと会いたいかを確認した時。
真っ先に。
「会ってもいい」
そう答える人物が。
ノルン達の予想していた相手とは。
少し違うことも。
今のノルンは。
まだ知らなかった。




