第二十三話 最初の偶然を探していたら、誰かを助けるはずだった小さな行動が始まりでした
午後六時八分。
高橋美咲と佐倉七海が会社の前を離れた頃、東京の空はすでに夕方の色へ変わり始めていた。
ビルの隙間から差し込む西日は、ガラス張りの建物へ淡い橙色を映し、長く伸びた影が歩道を横切っている。昼間とは違い、仕事を終えた会社員や学生達が駅へ向かって絶え間なく流れ始め、道路を走る車の数も少しずつ増えていた。
その人波の中を、美咲と七海は並んで歩いている。
七海が美咲の腕を掴んでいるわけではない。前を歩いて安全な道へ誘導しているわけでもなければ、駅とは違う方向へ無理に連れていっているわけでもなかった。
美咲自身が、七海と一緒に帰ると決めた。
それだけだ。
けれど、その小さな違いによって、一本へ固まりかけていた未来は大きく揺らいだ。
最初に十四パーセントしかなかった高橋美咲の生存可能性は、四十二パーセントまで上昇している。
世界そのものが彼女の死へ向かって複数の偶然を収束させていた因果固定も、半分近くまで弱まっていた。
ノルンは二人から少し距離を空け、同じ歩道を歩いていた。
昨日、美咲から「ついて来ないでください」と言われたことを忘れてはいない。今日については美咲本人から拒絶されていないものの、それでも観察官だからという理由で必要以上に近づくつもりはなかった。
視界の中へ二人の姿を置きながら、耳元の連絡具へ小さく声を落とす。
「主様」
『うん』
「現在も四十二パーセントでしょうか」
『ほとんど変わってないよ。四十二・三』
「因果固定は?」
『外側はかなり崩れた。でも中心だけ残ってる』
主様の声は管理領域から届いている。
ノルンは周囲の人々へ不自然に思われないよう、連絡具へ触れることもせず、歩調を崩さないまま聞いた。
「中心というのは、まだ美咲さんが亡くなる未来を引き寄せている部分ですか」
『そう。七海が一人で未来を変えようとしていた時よりずっと弱いけどね』
「完全には消えていない」
『うん』
前方では、美咲と七海が何かを話していた。
七海は道路を走る車へ何度も目を向けそうになり、そのたびに途中で自分を止めている。美咲もそれに気づいているらしく、苦笑しながら声を掛けた。
「七海さん」
「……何?」
「そんなに周りを見なくて大丈夫です」
「でも」
「怖いのは私も同じですけど、全部見張ってたら七海さんが先に倒れますよ」
「私は平気」
「三日寝てない人が言っても説得力ないです」
「……少しは寝たよ」
「何時間ですか」
「一時間くらい」
「それは寝たに入りません」
七海が黙る。
美咲は少し笑っていたが、その表情にも緊張は残っている。道路を渡る時には信号を以前より慎重に確認し、横を自転車が通り過ぎれば肩が僅かに強張った。
怖くないわけではない。
むしろ、怖いからこそ。
それでも、美咲は自分の足で歩いていた。
七海の後ろではなく。
隣を。
「主様」
『聞こえてたよ』
「七海さん、少し変わられましたね」
『うん』
「美咲さんを守ろうとされていることは変わりませんが」
『自分だけで全部決めるのはやめようとしてる』
「はい」
ノルンは少しだけ目元を和らげた。
ほんの数時間前まで、七海は美咲を駅へ行かせないため、適当な理由を作って別の道へ連れていこうとしていた。
悪意などない。
ただ助けたかった。
大切な人が死ぬ夢を何度も見て、どうすれば助けられるか分からないまま一人で必死になっていた。
けれど今は違う。
美咲へ話した。
怖がられるかもしれないと思いながら。
信じてもらえないかもしれないと思いながら。
それでも、自分一人で決めることをやめた。
美咲もまた、知らされた上で七海と一緒に帰ることを選んだ。
それによって未来は四十二パーセントまで開いた。
だが。
まだ。
半分にも届いていない。
「主様」
『何?』
「先ほど仰っていた、因果固定の中心についてです」
『うん』
「最初の偶然とは、どの程度まで遡ればよいのでしょうか」
『そこを今探してる』
「十九時十二分の駅の階段ではない?」
『あれは結果』
「美咲さんの前で倒れる男性も」
『その時点だと、もうかなり後ろ』
ノルンは眉を寄せた。
現在確認できている最初の死亡未来。
十九時十二分。
会社から最寄り駅へ向かい、いつもの階段を下りる美咲。その前を歩いていた男性が突然倒れ、美咲が避けようとして足を踏み外す。
階段から落ち。
打ち所が悪く。
命を失う。
だが、その事故を避けようと七海が美咲の道を変えれば、今度は車にはねられる。
さらに避ければ工事現場で落下物。
別方向へ帰れば自宅近くの交差点。
未来を一つ避けるたび、別の事故が美咲の死を引き受けるように現れる。
原因は事故そのものではなかった。
もっと前。
世界が高橋美咲という一人の人間を「今日死ぬ可能性の高い存在」として収束させ始めた、その最初。
「未来分岐の共通点を、さらに前へ戻せますか」
『今朝はもう確認した』
「昨日」
『残ってる』
「一昨日は?」
『今戻してる』
ノルンの手が僅かに強く握られた。
事故予定時刻までは約一時間。
一時間ある。
そう考えるか。
一時間しかないと考えるか。
胸の中では後者が勝ちそうになる。
それでも、急いで一つの答えへ飛びつけば、また別の何かを見落とす。
主様から何度も言われてきたことだった。
「焦らない」
『うん』
「でも急ぐ」
『それでいい』
ノルンは一度深く息を吸い、夕方の空気をゆっくり吐き出した。
◇◇◇
午後六時十五分。
美咲と七海は駅とは反対側の道へ進んでいた。
七海が少し不安そうに周囲を見回す。
「美咲、本当にこっちでいいの?」
「はい」
「駅を避けるためじゃなく?」
「それだけじゃないです」
美咲は歩きながら、小さく肩をすくめた。
「さすがに、今日死ぬかもしれないって聞いた直後に満員電車へ乗る気分にはなれません」
「……そうだよね」
「一駅分くらい歩こうかなって」
「歩くの?」
「少し落ち着きたいんです」
「だったら会社近くの喫茶店とかでも」
「七海さん」
「うん」
「また私の予定決めようとしてません?」
七海が固まった。
「あ」
「別に怒ってないです」
「……ごめん」
「謝りすぎです」
美咲は少し笑った。
その笑顔はいつものものより弱い。
それでも、笑えている。
「私が歩きたいから歩くんです。危なくなったら、その時また考えましょう」
「うん」
「七海さんも考えてください」
「私も?」
「私のことだけじゃなくて、自分のこともです。顔、本当にひどいですから」
「そんなに?」
「化粧で隠せてないです」
「……最悪」
美咲が小さく笑った。
七海も少しだけ口元を緩める。
その会話を聞きながら、ノルンは距離を保って歩いていた。
そして。
耳元から届く主様の声が。
変わった。
『ノルン』
「はい」
『見つけた』
ノルンの表情から、先ほどまでの柔らかさが消える。
「いつですか」
『三日前』
「七海さんが最初の予知夢を見られた日」
『同じ日。ただし夢より前』
「何がありました」
主様は少し間を置いた。
『……本当に小さい』
「小さい?」
『普段なら記録上、異常として拾う必要もないくらいの出来事』
ノルンは前を歩く美咲を見た。
「教えてください」
『美咲が駅で人を助けてる』
「誰を?」
『年配の女性』
「事故から?」
『違う。荷物を持っただけ』
「荷物……」
拍子抜けしそうになるほど、普通の言葉だった。
『夕方。駅の階段で、買い物袋を二つ持った女性がいた。片方がかなり重かったみたいで、美咲が声を掛けて上まで運んでる』
ノルンは黙った。
人を助けた。
ただ。
それだけ。
「それが」
『始まりに一番近い』
胸の奥に、嫌な感覚が生まれた。
「……主様」
『続きがある』
「はい」
『もし美咲がその女性を助けなかった場合』
主様の声は慎重だった。
『女性は階段の途中で足を滑らせる』
ノルンの歩みがほんの僅かに遅くなる。
「怪我を?」
『軽くはない。救急搬送される』
「美咲さんが助けたことで、その事故が起きなかった」
『そう』
「それは」
ノルンは眉を寄せた。
「よいことではありませんか」
『よいことだよ』
主様は否定しなかった。
『少なくとも、その女性にとっては』
「では、なぜ」
『女性が転倒していたら、階段は一時的に塞がれる』
「はい」
『周囲の人が立ち止まる。駅員が来る。救急対応が入る』
「それで」
『数分』
主様が静かに告げる。
『別の人の移動が遅れる』
ノルンの胸に冷たいものが落ちた。
誰なのか。
聞く前から。
何となく。
分かってしまった。
「今日、美咲さんの前で倒れる予定の男性」
『うん』
ノルンは一度目を閉じかけた。
でも、歩きながらでは危ない。
すぐに前を見る。
「三日前、美咲さんが女性を助けたことで」
『その男性は階段を予定通り上れた』
「はい」
『一本早い電車に乗った』
「そして?」
『その車内で、昔の知人と偶然再会した』
「……」
『久しぶりだからって話になって、今日の夜に食事する約束をした』
「つまり」
『その約束がなければ、その男性は今日の十九時十二分にあの階段を通らない』
ノルンは言葉を失った。
三日前。
重い荷物を持つ女性。
美咲が声を掛けた。
荷物を持った。
女性は転ばなかった。
階段は塞がれなかった。
一人の男性が予定通り電車へ乗った。
昔の知人と会った。
食事の約束をした。
三日後。
その約束へ向かうため。
同じ駅の階段を歩く。
そこで倒れる。
美咲が避ける。
落ちる。
死ぬ。
誰一人。
悪いことをしていない。
「……理不尽です」
声が出ていた。
『うん』
「美咲さんは、人を助けただけです」
『そうだね』
「それなのに」
ノルンは喉の奥に詰まるものを押さえた。
「その行動が巡り巡って、ご自身の死へ繋がるなんて」
『世界は、善い行動には善い結果を返すっていう仕組みじゃないから』
「……」
『悪いことをしたら必ず罰を受けるわけでもない』
主様の声には、突き放すような響きはなかった。
ただ。
事実を。
ノルンが受け止められるように。
静かに伝えている。
「では」
ノルンは少しだけ呼吸を整えた。
「美咲さんが人を助けたことへの代償ではない」
『違う』
「罰でもない」
『違う』
「何かを助けた分、別の命を差し出さなければならないような世界の規則も」
『ないよ』
「ただ」
『偶然が連鎖した』
その言葉が。
一番。
納得しづらく。
一番。
本当なのだろう。
「因果固定の中心は」
『美咲が人を助けたこと、そのものじゃない』
「では?」
『本来起こるはずだった小さな事故が消えた。それで周囲の因果が再配置された』
「はい」
『その再配置が、さらに別の偶然を呼んで、それがまた次へ繋がった』
「その連鎖が」
『今日、美咲の死へ集まりすぎた』
ノルンは一度だけ、前を歩く美咲の背中を見た。
本人は。
まだ知らない。
三日前にした。
おそらく。
本人にとっては忘れかけているくらいの小さな親切が。
今日へ繋がっている。
「主様」
『うん』
「このことを、美咲さんへ伝える必要がありますか」
主様はすぐに答えなかった。
『ノルンは?』
「……」
また。
自分で考える。
最近。
主様は。
答えを全部渡してくれなくなったような気がする。
でも。
それが嫌ではない。
「原因を取り除くために必要な情報であれば」
『うん』
「本人に隠したまま処理するのは、今回ここまでやってきたことと違うと思います」
『僕もそう思う』
「ただ」
ノルンは眉を下げた。
「伝え方を間違えれば」
『人を助けたせいで死ぬ、って思う』
「はい」
『それは違う』
「分かっております」
だからこそ。
慎重に。
◇◇◇
午後六時二十二分。
三人は道路から少し入った小さな公園へ立ち寄った。
美咲が自分から、「少し座ってもいいですか」と言ったためだった。
子供達がボールを蹴り、犬を連れた男性が園内の端をゆっくり歩いている。買い物帰りらしい高齢の女性が袋を両手に提げて通り過ぎ、その姿を見た瞬間、ノルンは先ほど聞いた三日前の出来事を思い出した。
どこにでもある。
普通の光景。
だから。
余計に怖い。
日常の中で行う一つ一つの選択が。
何日後。
何年後。
どこへ繋がるかなど。
誰にも分からない。
美咲と七海は同じベンチへ座り、ノルンは少し離れた隣のベンチへ腰を下ろした。
美咲がこちらを見る。
「ノルン」
「はい」
「呼び捨てでいいですか」
「もちろんです」
「本当にノルンって名前なんですね」
「はい」
「外国の人……ではないんですよね」
「はい」
「異世界の人」
「厳密には少し違いますが」
「もういいです。そこは後で」
美咲は疲れたように笑った。
昨日は明確に警戒され。
「ついて来ないでください」
そう言われた。
それが。
今日は。
同じ公園。
同じ空間。
話すことを許されている。
その変化が。
ノルンには少し嬉しかった。
「あと」
美咲がノルンの耳元を見る。
「その上司の人」
「主様ですか?」
「ずっと聞いてるんですよね」
「はい」
「……かなり嫌なんですけど」
ノルンが固まった。
「申し訳ありません!」
思わず声が大きくなり、ボールを蹴っていた子供達が一斉にこちらを見る。
ノルンは慌てて声を落とした。
「申し訳ありません」
「いや」
美咲は少し吹き出した。
「そこまで謝らなくても」
「ですが、私は最近、観察される側の不快感を学びましたので」
「何ですかそれ」
「色々ありまして」
『僕も聞こえてるんだけどな』
主様の声。
ノルンは連絡具越しに小さく返す。
「主様は少しお静かに」
「今のも上司?」
「はい」
「仲良いですね」
「はい!」
「即答なんだ」
美咲が少しだけ笑う。
七海も。
三日前からまともに眠れていない、疲れ切った顔のまま。
僅かに口元を緩めた。
重い空気が。
ほんの少しだけ。
ほどける。
だからこそ。
ノルンは今だと思った。
「美咲さん」
「はい」
「一つ、新しく分かったことがございます」
美咲の表情から、笑みが消えた。
七海も背筋を伸ばす。
「事故について?」
「はい」
美咲は少し怖そうに息を吸った。
それでも。
「聞きます」
逃げなかった。
「今日の危険へ繋がる、最も古いきっかけが三日前にございました」
「三日前……」
美咲は眉を寄せた。
「何かしたかな」
「駅で、ご年配の女性のお荷物を運ばれませんでしたか」
その瞬間。
美咲の目が少し大きくなる。
「あ」
「覚えておられますか」
「はい。買い物袋、すごく重そうで」
七海が美咲を見る。
「私、それ知らない」
「わざわざ話すほどのことじゃないですよ」
美咲はそう言った。
本当に。
それくらいのこと。
だったのだ。
ノルンは一度だけ息を整えた。
「その女性は、美咲さんが手伝わなかった場合、階段の途中で転倒する可能性が高かったそうです」
美咲の顔から。
少し。
色が引いた。
「……じゃあ」
「ですが」
ノルンはすぐに続けた。
「美咲さんが悪いという話ではありません」
「でも」
美咲の視線が揺れる。
「関係はあるんですよね」
「はい」
そこを誤魔化すことはしない。
ノルンは、女性が転倒していた場合に階段が一時的に塞がれたこと。
その影響で一人の男性の移動が数分遅れる予定だったこと。
しかし、美咲が女性を助けたことで事故は起きず、その男性が一本早い電車へ乗ったこと。
そこで以前の知人と偶然再会したこと。
今日、食事へ行く約束ができたこと。
そして。
十九時十二分。
美咲の前で倒れる可能性があるのが。
その男性であること。
一つずつ。
なるべく。
因果と責任を混同しないように。
丁寧に説明した。
話し終わっても。
美咲はしばらく何も言わなかった。
夕方の公園には、子供達の声が響いている。
犬の首輪についた金具が鳴る。
道路を車が走る。
誰かが笑っている。
そんな普通の世界の音の中で。
美咲は膝の上へ置いた両手を見ていた。
「私」
やがて。
声が出る。
「助けなければよかったんですか」
七海が息を呑む。
ノルンも。
その言葉が来ることは。
分かっていた。
「いいえ」
だからこそ。
迷わず答えた。
「それは違います」
「でも」
「美咲さんがあの時、その女性を助けたことは」
ノルンは美咲を見つめた。
「あの時点では、確かに一人の方を助けた行動です」
「……」
「その後に起きることを、三日前の美咲さんが知る方法はありません」
美咲の唇が僅かに震える。
「人を助けたから、今日その代償として亡くなるわけではありません」
「……本当に?」
「はい」
「罰とか」
「違います」
「誰かを助けたから、その分」
「違います」
ノルンは少し強く言った。
「命の数を合わせるような規則はございません」
美咲がようやく顔を上げた。
「ただ」
ノルンは続けた。
「偶然が繋がりました」
「偶然」
「はい」
「それだけで?」
「それだけだからこそ」
一度。
言葉を選ぶ。
「誰にも、事前には分からなかったのです」
美咲は目を伏せた。
「そんなの」
声が震えた。
「分かるわけないじゃないですか」
「はい」
「荷物持つ時に」
美咲の目に薄く涙が浮かぶ。
「三日後に自分が死ぬかもしれないなんて」
「はい」
「考えるわけない」
「その通りです」
「だったら」
一度。
深く息を吸う。
「私、悪くないですよね」
「悪くありません」
ノルンは迷わなかった。
その瞬間。
少しだけ。
美咲の肩が落ちた。
「……よかった」
小さかった。
本当に。
小さな声だった。
七海が隣から美咲を見ている。
手を伸ばしそうになって。
途中で止める。
美咲は。
その手に気づいた。
そして。
自分から。
七海の手を取った。
「七海さん」
「うん」
「大丈夫です」
「……うん」
「まだ怖いけど」
「うん」
「でも」
美咲は涙を拭いながら、少しだけ笑った。
「人助けした自分まで嫌いになるのは、何か違う気がします」
その言葉を聞いた瞬間。
主様の声が。
ノルンの耳元へ強く届いた。
『ノルン』
「はい」
『中心が反応してる』
ノルンは立ち上がりそうになったが。
美咲を驚かせそうで。
踏みとどまった。
「どういう状態ですか」
『今、美咲が自分の過去の選択をどう受け止めるかが、最後の固定に直結してる』
「過去を?」
『うん』
主様は短く説明した。
世界の因果固定は、「三日前の選択から今日の死へ」という一本の繋がりを強く認識している。
もし今。
美咲本人が。
『あの時助けなければよかった』
と強く思えば。
その選択と死の結果が、本人の中でも一つの因果として結びつく。
固定を。
逆に補強する可能性がある。
「では」
『結果と選択を分けられればいい』
「……」
ノルンは美咲を見る。
この質問は。
重い。
かなり。
重い。
それでも。
本人の中でしか。
決められない。
「美咲さん」
「はい」
「一つだけ」
ノルンはゆっくり言った。
「今すぐ答えられなくても構いません」
美咲がこちらを見る。
「もし」
一拍。
「三日前へ戻れたとして」
美咲の指が七海の手を少し強く握った。
「今日のことをすべて知った上で」
ノルンも胸が痛かった。
それでも。
続ける。
「同じ女性が、重い荷物を持って階段を上ろうとしていたら」
美咲の目が揺れる。
「美咲さんは、どうされますか」
長い。
沈黙が落ちた。
子供達のボールが地面を跳ねる音。
木々を抜ける風。
夕方の道路。
信号の電子音。
時間は。
止まってくれない。
「……ずるい質問ですね」
美咲が少しだけ笑った。
でも。
目には涙が残っていた。
「はい」
ノルンも否定しなかった。
「申し訳ありません」
「だって」
美咲は自分の膝を見た。
「助けたら今日、死ぬかもしれないって知ってるんですよね」
「はい」
「だったら」
言葉が一度止まる。
「助けたくないって思います」
ノルンは。
何も挟まない。
「怖いから」
「はい」
「私だって死にたくないです」
「はい」
「明日、お母さんの唐揚げ食べたいし」
「はい」
「仕事終わったら温泉行きたいし」
「はい」
「積んでる小説も」
「そこ、本当に大事なんだね」
七海が少し泣き笑いになった。
「大事です」
美咲もほんの少し笑う。
その笑みが消えた後。
また。
考える。
「でも」
声が変わった。
「そのおばあちゃん」
「はい」
「私が助けなかったら、転ぶんですよね」
「可能性は高いです」
「怪我する?」
「します」
「死んだりは?」
「そこまでの可能性は高くありません」
美咲は少しだけ安心した顔をした。
でも。
すぐに。
また考える。
「なら」
一度。
大きく息を吐く。
「声は掛けると思います」
ノルンの胸が鳴る。
「荷物を持つかは」
美咲は苦笑した。
「今の私なら、めちゃくちゃ怖くて迷いますけど」
「はい」
「でも」
自分の手を見る。
「たぶん」
一度。
「結局、持つと思います」
七海の目が潤んだ。
「美咲」
「だって」
美咲は七海を見る。
「目の前で転ぶって知ってて、知らないふりするのも無理ですよ」
「……」
「それに」
今度はノルンを見る。
「三日前の私は」
「はい」
「今日のことを何も知らなかった」
「はい」
「なら」
声は少し震えていた。
けれど。
まっすぐだった。
「間違ってないですよね」
「はい」
ノルンは答えた。
「間違っておりません」
美咲は。
ゆっくり。
目を閉じた。
「じゃあ」
深く。
息を吸う。
「助けたことは」
一度。
自分の中へ落とすように。
「間違ってなかったことにします」
次の瞬間。
『ノルン!』
主様の声が響いた。
「はい!」
思わず声が大きくなり。
美咲と七海が驚く。
「す、すみません」
『固定が崩れた』
「完全に?」
『中心の八割以上、一気に剥がれた』
ノルンの目が大きくなる。
「生存可能性は?」
一瞬。
主様が計算する。
『六十八パーセント』
十四。
十七。
二十一。
二十六。
四十二。
そして。
六十八。
ノルンは思わず美咲を見つめた。
本人は。
何も。
世界の仕組みを操作していない。
魔法も。
神力も。
使っていない。
ただ。
過去の自分を。
否定しなかった。
「ノルン?」
美咲が不安そうに聞く。
「どうしました」
ノルンの表情が。
少し。
緩む。
「今」
一度。
「美咲さんが明日を迎えられる可能性が、大きく上がりました」
美咲と七海が同時に息を止めた。
「本当?」
「はい」
「どれくらい」
今までは。
数字を言わなかった。
本人へ余計な恐怖を与える可能性があったから。
でも。
今。
美咲自身が聞いている。
「現在」
ノルンは答えた。
「六十八パーセントです」
美咲は。
しばらく。
固まった。
「六十八」
「はい」
「さっきは?」
ノルンは迷った。
でも。
答えた。
「最初は十四パーセントでした」
七海が顔を青くした。
「そんなに低かったの……?」
「はい」
美咲も。
さすがに。
言葉を失う。
「……十四」
呟いて。
それから。
ゆっくり息を吐いた。
「まだ三十二パーセント」
「はい」
「死ぬ可能性がある」
「ございます」
ノルンはそこも誤魔化さない。
美咲は目を閉じる。
怖い。
当然。
それでも。
少しして顔を上げた。
「なら」
「はい」
「まだ上げられますよね」
ノルンは少し驚いた。
七海も。
美咲を見る。
「美咲」
「だって」
美咲は涙の跡を指で拭った。
「十四から六十八まで上がったんですよね」
「はい」
「なら」
七海の手を握る。
「考えましょう」
七海の目が赤くなる。
「……うん」
「二人で」
「うん」
「いや」
美咲はノルンを見る。
「三人?」
ノルンの目が少し大きくなる。
そして。
自然に笑った。
「はい」
「あとは」
美咲がノルンの耳元を見る。
「その上司の人」
『僕も?』
主様の声が聞こえる。
「四人ですね」
ノルンが答える。
美咲は少し笑った。
「見えない人まで数えるとややこしいなあ」
七海も。
久しぶりに。
自然な笑い声を漏らした。
◇◇◇
午後六時三十六分。
管理領域側で残った未来分岐を整理していた主様から、再び連絡が入った。
『ノルン』
「はい」
『中心はほぼ解除できた』
「因果固定は?」
『美咲を無理やり死へ収束させていた状態は、ほとんど終わった』
ノルンは胸の奥から息を吐いた。
「では」
『残りの三十二パーセントは、普通の事故危険が中心』
「普通の」
『うん』
その言葉。
さっきまでなら。
安心できないはずだった。
普通の事故でも。
人は死ぬ。
でも。
意味が違う。
「一つの危険を避ければ」
『別の死が代わりに追ってくる状態じゃない』
七海にも聞こえるよう、ノルンは説明した。
「佐倉さん」
「はい」
「もう、一つの事故を避けたことによって、別の事故へ強く引き寄せられる状態ではなくなりました」
七海の瞳が大きくなる。
「じゃあ」
「はい」
「駅を避けても」
「意味があります」
七海は。
一度。
顔を伏せた。
「……よかった」
その声。
震えていた。
「本当に」
三日前から。
夢の中で。
何度助けても。
美咲が死ぬ。
一つの事故を避ければ。
別の事故。
その次。
また。
死ぬ。
何をしても。
救えない。
そんな未来を。
一人で見続けてきた。
ようやく。
今。
避けることに。
意味がある。
「美咲」
「はい」
「駅は」
七海は以前のように言い切らなかった。
「今日は、やめない?」
美咲は少し考える。
そして。
「うん」
自分で答えた。
「やめます」
「道路も」
「全部避けるのは無理です」
「……そうだよね」
「でも、人通りのあるところを選んで」
「うん」
「工事現場は避けましょう」
「うん」
「タクシーは?」
美咲は少し考えた。
「一駅分歩こうと思ったけど」
「うん」
「今日はやめます」
「私が呼んでいい?」
七海がスマートフォンを取り出しかけ。
止まる。
ちゃんと。
聞いた。
美咲はそれに気づき。
少し笑った。
「お願いします」
「うん」
七海が配車アプリを開く。
ノルンはそのやり取りを見ながら、胸の奥がほんの少し温かくなるのを感じた。
七海は。
もう。
美咲を勝手に守るだけではない。
確認する。
本人へ。
小さなことでも。
◇◇◇
午後六時四十一分。
空中へ。
小さな光が浮かんだ。
他の人間には見えない。
ノルンと。
主様にだけ。
認識できる。
『すごい』
観測者。
ノルンは少しだけ眉を寄せた。
「ずっと見ておられたのですか」
『ほとんど』
「……そうですか」
『ノルン』
「はい」
『そうするんだね』
「何のことでしょう」
『助けるでも』
一度。
『見捨てるでもなく』
続く。
『本人に戻した』
ノルンは。
少し。
黙った。
美咲と七海は数歩離れた場所でタクシーを探している。
「私が戻したのではありません」
『え?』
「美咲さんが、ご自身で選ばれました」
『うん』
「七海さんも」
『うん』
「美咲さんへ話すと、自分で決めました」
『うん』
「私は」
ノルンは胸元へ手を置く。
「そこまでのお話を、少ししただけです」
しばらく。
光から返事がなかった。
そして。
『それ』
「はい?」
『観察官って、そういう仕事なんだね』
ノルンの目が僅かに大きくなる。
観測者は。
観察官という存在を知っていた。
主様。
管理領域。
リベル。
ノルン。
名前も。
役職も。
知っていた。
けれど。
役割そのものを。
理解していたわけではなかったのかもしれない。
「私も」
一度。
少し笑う。
「まだ学んでいる途中です」
『そうなんだ』
「はい」
『じゃあ』
一拍。
『僕も学んでる』
ノルンの表情が変わる。
「何をでしょう」
『人に聞くこと』
ミレイアの時。
ノルンが伝えた。
本人の意思を無視して人生を決めるのは違う。
だから。
観測者は。
次の子。
美咲には。
聞くと言った。
ただし。
生きている者には直接話せないから。
ノルンへ頼んだ。
そして。
美咲は。
帰れない異世界へは行きたくないと答えた。
観測者は。
それを。
受け入れた。
『勝手に決めない方が』
一度。
『おもしろいね』
ノルンの眉が僅かに寄る。
「そこは」
『うん?』
「面白いかどうかではございません」
『うん』
「ご本人にとって大切だからです」
少し。
長い間。
『……うん』
「分かっていただけましたか」
『まだ』
ノルンは瞬いた。
「まだ?」
『そこは、まだ分かんない』
正直だった。
ごまかさない。
そして。
続いた言葉が。
ノルンの胸を。
強く鳴らした。
『僕、人じゃないから』
ノルンの表情が変わる。
「では」
聞く。
今まで。
ずっと。
知りたかった。
「神様なのですか」
『違うよ』
「世界管理者?」
『違う』
「では、何者で」
『今日はそこまで』
「お待ちください!」
文字が揺れる。
まるで。
笑っている。
よう。
『約束』
ノルンが止まる。
「約束」
『次の子を見つけたら会うって言ったでしょ』
「はい」
『見つけた』
ノルンの胸が大きく鳴った。
「では」
『うん』
「お会いできるのですか」
『できるよ』
「いつ?」
返事。
『美咲が今日を越えたら』
ノルンの表情が引き締まる。
そうだ。
まだ。
終わっていない。
『ちゃんと生きて』
一度。
『明日になったら』
そして。
『遊び場に来て』
「罠ではございませんね?」
『たぶん』
「たぶん!?」
『僕は罠のつもりないよ』
「罠を仕掛ける方がそう仰っても信用できません」
『だから罠じゃないって』
「主様」
『全部聞いてるよ』
「どう致しましょう」
『まず美咲』
「はい」
『話はそれから』
ノルンは一度息を整えた。
「承知致しました」
観測者の光。
最後。
『じゃあ』
一拍。
『明日ね、ノルン』
そして。
消えた。
「……明日」
ノルンは小さく呟く。
明日。
会う。
なら。
まず。
美咲に。
明日を迎えてもらう。
◇◇◇
午後六時五十二分。
配車されたタクシーが公園近くへ到着した。
七海はアプリに表示された車両番号を確認し、その画面を美咲にも見せる。
「これです」
「うん」
美咲が乗ろうとして。
ノルンを見る。
「ノルンは?」
「私は」
一瞬。
迷う。
昨日。
美咲は。
はっきり。
ついて来ないでほしいと言った。
だから。
今日も。
本人が何も言わないまま。
勝手についていくことはできない。
「ご一緒してもよろしいでしょうか」
美咲は少しだけ驚いた顔をした。
そして。
数秒。
考えた。
「今日は」
一度。
「いいです」
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「途中で変な異世界勧誘は禁止です」
「致しません!」
声が大きくなる。
「声」
七海が小さく言う。
「……申し訳ありません」
美咲が笑った。
三人がタクシーへ乗り込む。
運転手がバックミラー越しに確認した。
「どちらまでですか?」
美咲が自分で住所を告げる。
七海は。
何も。
口を挟まない。
ノルンはその小さな違いを見ていた。
車が動き出す。
夕方の街が窓の外を流れ始めた。
「主様」
『七十一』
「上がりました?」
『三パーセント』
「なぜでしょう」
『帰宅方法を美咲自身が選んだからかな』
「なるほど」
「何が七十一?」
美咲に聞かれ。
ノルンは止まった。
もう。
隠す理由はない。
「生存確率です」
美咲が目を見開く。
「七十一?」
「はい」
「さっき六十八でしたよね」
「はい」
「三パーセント」
「今は大きいです」
美咲はシートへ少し深く背を預けた。
窓の外を見ながら。
「……じゃあ」
少し。
笑う。
「あと二十九ですね」
「その数え方やめようよ」
七海が困ったように笑う。
「怖いから、そうでもしないと」
「……そっか」
七海が美咲の手を握る。
今度は。
美咲も。
自然に。
握り返した。
◇◇◇
午後七時十二分。
本来なら。
最初の死亡事故が起きていた時刻。
タクシーはまだ。
美咲の自宅へ向かう道路を走っていた。
ノルンは時計を確認する。
「主様」
『うん』
「十九時十二分です」
『越えたね』
「駅では」
少しだけ。
怖い。
でも。
確認する。
『男性は倒れた』
ノルンの胸が強く鳴る。
「周囲の方は?」
『すぐ近くにいた人が支えてる。駅員も来てる。救急要請済み』
「階段から落ちた方は?」
『いない』
ノルンは。
ゆっくり。
息を吐いた。
男性は。
倒れた。
でも。
美咲がいない。
だから。
誰も。
巻き込まれなかった。
事故そのものを。
世界から消したわけではない。
でも。
犠牲になる人間が。
増えなかった。
「美咲さん」
「はい」
「最初に七海さんが見た夢の時刻を越えました」
「……七時十二分」
「はい」
七海もスマートフォンを確認する。
十九時十二分。
二人とも。
ほぼ同時に。
息を吐いた。
「まだ」
美咲が自分から言った。
「終わりじゃないですよね」
「はい」
「分かりました」
怖い。
でも。
浮かれない。
ノルンは少し感心してしまった。
「主様」
『七十八』
「また上がりました」
「いくつ?」
「七十八パーセントです」
美咲が小さく拳を握った。
「よし」
「だからゲームみたいにしないでって」
七海が泣き笑いになる。
「でも」
美咲は。
少しだけ。
本当の笑顔を見せた。
「あと二十二」
◇◇◇
午後七時二十六分。
タクシーは美咲の住むマンション前へ到着した。
支払いをしようとすると、七海が財布を出す。
「私払う」
「いいです」
「でも」
「私がタクシーにするって決めたんで」
「……じゃあ半分」
「それなら」
そのやり取りを見ながら、ノルンは少し微笑んだ。
三人がマンションの入口へ向かう。
その時だった。
『ノルン』
主様の声。
低い。
「はい」
『止まって』
ノルンの足が止まった。
美咲と七海も振り返る。
「どうしたんですか?」
「少し」
ノルンは周囲を見る。
道路。
駐輪場。
植え込み。
マンション入口。
世界外干渉はない。
因果固定の反応も。
ない。
「主様?」
『固定じゃない』
「では?」
『普通の危険』
次の瞬間。
『上』
ノルンが見上げた。
二階の外廊下。
引っ越し作業をしているらしい男性二人が、大きな植木鉢を移動させている。
片方が手すり近くへ一時的に置いた。
もう一人が段ボールを避けようとして身体をひねる。
肘。
鉢。
触れる。
傾いた。
「下がってください!」
ノルンの声が響いた。
美咲と七海が状況を理解する前に、ノルンは二人の肩へ手を添え、強く突き飛ばさない程度に後ろへ下がらせる。
自分も一歩。
後退。
次の瞬間。
大きな植木鉢が落下した。
激しい音。
鉢が割れる。
土がコンクリートへ広がり、破片が跳ねた。
「きゃっ!」
美咲が息を呑む。
七海も顔を青くした。
二階から作業員が身を乗り出す。
「すみません! 大丈夫ですか!」
周囲の住人が何事かと顔を出す。
ノルンは。
心臓。
強く。
鳴っていた。
でも。
分かる。
これは。
今日まで続いていた。
世界による死の収束ではない。
たまたま。
起こった。
普通の。
事故。
その言葉は。
少し。
怖い。
それでも。
意味は。
全く違う。
「ノルン」
美咲が割れた鉢を見たまま聞く。
「今のも」
「これは」
ノルンは静かに答えた。
「普通の事故です」
「普通って……」
七海が呟く。
「はい」
ノルンは少しだけ笑った。
「だから」
「……」
「避けてよいのです」
美咲が目を瞬いた。
そして。
数秒。
割れた鉢を見た後。
少し。
笑った。
顔はまだ青い。
「じゃあ」
「はい」
「今のは」
一度。
「助けてもらっていいやつ?」
ノルンも。
笑った。
「はい」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
『八十五』
主様の声。
美咲がすぐ反応する。
「上がりました?」
「八十五パーセントです」
七海が。
大きく。
息を吐いた。
「あと十五」
美咲。
言う。
「もうその数え方やめようってば」
七海。
泣きそうなのに。
笑っていた。
◇◇◇
午後八時十一分。
美咲の部屋。
七海は帰らなかった。
美咲自身が。
「今日は泊まっていってください」
そう頼んだからだった。
「本当に?」
「はい」
「私がいることで事故が」
「もう、そこは大丈夫なんですよね?」
七海がノルンを見る。
「はい。一つの選択を変えるたび、別の死へ強制的に収束する状態ではございません」
「なら」
美咲は七海を見る。
「いてください」
「……うん」
ノルンは玄関の前で少し迷った。
美咲がこちらを見る。
「ノルンも」
「はい?」
「今日は」
一度。
「いてください」
ノルンの目が少し大きくなった。
「よろしいのですか」
「昨日はついて来ないでって言いましたけど」
「はい」
「今日は」
美咲が少し照れたように視線を外す。
「私がいてほしいって言ってます」
ノルンの胸。
温かい。
「承知致しました」
部屋へ入る。
一人暮らし用の小さな部屋。
本棚には小説や漫画が並び、棚へ収まりきらない本が床近くへ積まれている。
ノルンの視線。
止まる。
「積んでおりますね」
「そこ最初に見ます?」
「かなり」
「読む予定なんです」
「どのくらい前から?」
「……」
「美咲」
七海が笑う。
「死ねない理由増えたじゃん」
「だから大事だって言ったんです」
重かった一日。
それでも。
少し。
笑える。
その後は三人で近くのコンビニへ行った。
もちろん。
美咲自身が。
「食べるもの何もないので買いに行きます」
そう決めて。
七海もノルンも。
同行。
戻る。
簡単な夕食。
テレビ。
普通の夜。
午後九時。
生存可能性は九十一パーセント。
午後十時。
九十五パーセント。
時間が進むごとに。
今日という一日に残っていた事故の枝が。
少しずつ。
消えていく。
七海は。
何度も。
眠そうに目を擦った。
「七海さん」
「大丈夫」
「寝てください」
「でも」
「三日寝てないんですよね」
「今日くらい」
「私が言います」
美咲が少し強めに遮った。
「勝手に守ろうとしない」
「……」
七海は。
少しだけ。
困った顔になった。
「うん」
「私は起きてます」
「一人で?」
「ノルンもいます」
ノルン。
胸を張る。
「はい!」
「声」
美咲と七海。
同時だった。
「……申し訳ありません」
二人が笑う。
ノルンも。
少し。
笑った。
◇◇◇
午後十一時五十六分。
七海はソファで眠っていた。
三日前からまともに休めていなかった身体は限界だったのだろう。美咲から毛布を掛けてもらい、少し前から静かな寝息を立てている。
美咲はリビングの床へ座り。
壁掛け時計を見ていた。
ノルンは窓際。
カーテンの隙間から見える夜の街を少しだけ眺める。
「主様」
声。
小さく。
『うん』
「現在は?」
『九十九・四』
ノルンは。
ほんの少し。
目を閉じた。
「因果固定は」
『完全消失』
「今日中の死亡可能性」
『もう普通の一日とほとんど変わらない』
「では」
『でも』
主様が続ける。
『日付が変わるまでは、ちゃんと見よう』
「はい」
ノルンも。
それがいいと思った。
あと。
四分。
「あと四分ですね」
美咲が言った。
「はい」
「何か起きます?」
「分かりません」
「それ、今言うと怖いですよ」
「申し訳ありません」
美咲は少し笑った。
それから。
しばらく。
時計。
見る。
「ノルン」
「はい」
「今日」
一度。
「助けてくれて、ありがとうございました」
ノルンはすぐ首を横に振った。
「私は」
「はい」
「美咲さんお一人を助けたわけではございません」
「……」
「七海さんが」
眠る七海へ視線を向ける。
「一人で抱えるのをやめました」
「はい」
「美咲さんも」
「うん」
「ご自身で選ばれました」
美咲は静かに聞いている。
「三日前のご自分を、否定しなかった」
「……」
「だから」
一度。
「私だけが助けたとは思っておりません」
美咲は少し考えた。
「でも」
「はい」
「最初に来てくれたのは、ノルンですよね」
「……はい」
「だったら」
美咲は少し笑った。
「ありがとうでいいんです」
ノルンの目。
ほんの少し。
大きくなる。
「……ありがとうございます」
「何でノルンが返すんですか」
「嬉しかったので」
「やっぱり変な人」
「最近、本当によく言われます」
時計の秒針が。
音を立てながら。
進む。
十一時五十八分。
五十九分。
美咲の指。
膝の上で。
少し。
握られる。
怖い。
まだ。
完全には。
消えない。
でも。
逃げない。
ノルンも。
何も言わず。
隣にいる。
やがて。
秒針が一周した。
日付が変わる。
午前零時。
『ノルン』
主様の声。
「はい」
一拍。
『百』
ノルンは。
ゆっくり。
息を吐いた。
本当に。
深く。
胸の奥に溜まっていたものまで。
全部。
吐き出すように。
「美咲さん」
「はい」
美咲の目。
少し。
潤んでいる。
「日付が変わりました」
「……」
「高橋美咲さん」
一度。
声を整える。
「今日を越えられました」
美咲は。
すぐには。
何も言わなかった。
時計。
見る。
零時。
スマートフォンも。
日付が変わっている。
「……そっか」
声が掠れた。
「はい」
「生きてる」
「はい」
次の瞬間。
美咲は両手で顔を覆った。
「よかった……」
涙が落ちる。
「本当に」
その声で。
七海が目を覚ました。
「美咲?」
「七海さん」
「何時……」
「零時」
七海の目が。
完全に開く。
「……え」
「生きてます」
美咲が。
泣きながら。
笑った。
「私」
七海は数秒。
動けなかった。
それから。
起き上がり。
美咲へ抱きついた。
「よかった……!」
声。
完全に。
崩れる。
「本当に……よかった……!」
「七海さん」
「ごめん」
「何で謝るんですか」
「怖かった」
「私もです」
「本当に」
「はい」
二人が抱き合う。
泣く。
笑う。
言葉が。
途中から。
うまく出な くなっても、二人とも離れようとはしなかった。
美咲は七海の肩へ額を押しつけ、何度も「生きてる」と確かめるように呟いていた。七海もまた、美咲の背中へ腕を回したまま、堪えきれなくなった涙を流している。三日間、眠ることさえ怖くなるほど繰り返し見続けた光景とは正反対の現実が、ようやく目の前にあった。
「本当に……いる」
「いますよ」
「明日も?」
「明日もいます」
「唐揚げも?」
「食べます」
「温泉も?」
「行きます」
涙声のまま交わされる会話に、ノルンは思わず口元を緩めた。
今日までなら、美咲のことを「緊急観察対象」や「転生候補」といった言葉で記録していたかもしれない。けれど、今そこにいるのは、そんな一行の情報だけでは到底表せない一人の女性だった。
怖いと認め、それでも自分で選び、大切な人と一緒に明日へ進んだ人。
その結果として、高橋美咲は生きている。
『ノルン』
耳元から、主様の穏やかな声が届いた。
「はい」
『お疲れ様』
その一言を聞いた瞬間、張りつめていたものが少しだけほどけた。
「……ありがとうございます」
『頑張ったね』
「ですが、私だけではございません」
ノルンは抱き合ったままの美咲と七海へ視線を向けた。
「美咲さんがご自分で選ばれました。七海さんも、一人で抱え込むことをやめました」
『うん』
「主様も、ずっと一緒に考えてくださいました」
『そうだね』
「ですので」
一度だけ胸元へ手を置き、ノルンは小さく笑った。
「四人とも、お疲れ様でした」
連絡具の向こうで、主様も少し笑った気配がした。
『じゃあ、四人ともお疲れ様』
「はい」
それから、ノルンが改めて美咲達へ視線を戻そうとした、その時だった。
窓際の空間へ、ごく淡い光が浮かんだ。
室内の照明とは違う。魔力でも、神力でもない。ここ数日のうちに何度も見た、世界外干渉特有の不自然な光だった。
美咲と七海には見えていないらしい。
ノルンだけが、その存在へ視線を向けた。
『おめでとう』
「……観測者さん」
自然と声が低くなる。
『生きたね』
「はい」
『ちゃんと、自分で決めて』
一拍置いて文字が続く。
『今日を越えた』
ノルンはすぐには答えなかった。
観測者が何を考えているのか、今も完全には分からない。
二十五年前、本人達の意思を聞かず九人の魂の行き先を変えた。
世界を変え、器を変え、前世の物品を持たせ、その後の人生を眺め続けていた。
その行動を許せるわけではない。
けれど、美咲については違った。
ノルンが「本人へ聞くべきだ」と伝えた後、観測者は実際に美咲の意思を確認しようとした。
そして美咲が「帰れない異世界へは行きたくない」と答えた時、それを受け入れた。
少なくとも。
変わろうとしている。
その可能性まで否定するつもりはなかった。
「観測者さん」
『うん?』
「約束を覚えておられますか」
『覚えてるよ』
「美咲さんは今日を越えました」
『うん』
「でしたら」
ノルンの胸が少しだけ高鳴った。
「次は、あなたの番です」
光が一度だけ揺れる。
『僕の番』
「はい。あなたが何者なのか、なぜ九人の方々を選んだのか。それから、どうして二十五年前からあの場所で人の人生を見続けていたのか」
一つずつ、問いを並べる。
「きちんと、お話を聞かせてください」
少しの間を置いて。
『いいよ』
返事が来た。
『明日』
「明日?」
『遊び場に来て』
ノルンは僅かに眉を寄せる。
「場所は分かりますが、入口はまだ完全に開いておりません」
『もう開けられるよ』
「……どういう意味でしょう」
『鍵、外したから』
ノルンの表情が一気に険しくなった。
「どこの鍵を外されたのですか」
『遊び場の』
「管理領域へ勝手に接続されたわけではございませんね?」
『してないよ』
「本当ですか」
『ノルン』
「はい」
『疑いすぎ』
「これまでの行動を考えれば当然でしょう!」
思わず声が大きくなった。
美咲と七海が同時にこちらを見る。
「ノルン?」
「どうしました?」
七海はまだ泣いた直後の顔で、美咲も目元を赤くしたままこちらを見ていた。
ノルンは一瞬固まり、それから小さく頭を下げる。
「申し訳ありません。少々、話がこじれまして」
「上司の人と?」
「今回は違います」
「じゃあ」
美咲が少し眉を寄せる。
「その観測者?」
「はい」
もう隠しても仕方がない。
「美咲さんが今日を無事に越えられましたので、明日、直接会うことになりました」
美咲の表情が変わった。
「ノルンが?」
「はい」
「その人に?」
「人かどうかは、まだ分かりません」
「……そうでした」
美咲は今日一日で聞かされた常識外れの情報を思い返したらしく、少し疲れた顔で額へ手を当てた。
「神様じゃないんですよね」
「本人は違うと仰っています」
「世界管理者でも?」
「違うそうです」
「人でもない」
「はい」
「じゃあ何なんですか」
「それを明日、聞いてまいります」
「危なくないんですか?」
今度は七海だった。
泣いたばかりだというのに、その顔にはもう心配が浮かんでいる。
「分かりません」
「分からないのに行くんですか?」
「はい」
「ノルン」
美咲も呆れたようにこちらを見る。
「今日、散々『一人で勝手に危ないことをしない方がいい』みたいな話してましたよね」
「……」
「七海さんにも」
「はい」
「私にも」
「はい」
「なのに、自分は一人で行くんですか」
「私は観察官ですので」
「そういう問題ですか?」
ノルンの返事が止まる。
『美咲の言う通り』
耳元から主様の声。
「主様まで!」
また声が大きくなった。
美咲が思わず吹き出し、七海も涙の跡を残したまま笑う。
「やっぱり仲良いですね」
「今はそのお話ではございません!」
「声」
「……申し訳ありません」
少し前まで、日付が変わる瞬間を息を詰めて待っていた部屋に、今は笑い声がある。
そのことが、ノルンには何より嬉しかった。
◇◇◇
午前零時十二分。
七海がようやく少し落ち着いた頃、美咲はスマートフォンを手に取った。
「お母さんに電話してもいいですか」
「もちろんです」
ノルンが答えるまでもないことだったが、美咲は少し照れたように笑ってから通話ボタンを押した。
数回の呼び出し音の後。
『もしもし?』
「お母さん?」
『美咲? どうしたの、こんな時間に』
「ううん」
一度、美咲は言葉を止めた。
何も知らない母へ、今日の出来事をすべて話せるわけではない。
けれど、声だけは聞きたかったのだろう。
「声聞きたくなって」
『何よ、急に』
「明日」
『うん?』
「唐揚げ、作るって言ってたじゃん」
『言ったけど』
「食べに行ってもいい?」
『最初から来るって話だったでしょう』
「……うん」
『美咲?』
母親の声に、ほんの少し心配が混じる。
「何でもない」
一度だけ鼻をすすり、美咲は笑った。
「明日行くから」
『分かった。じゃあ、多めに作っておくから』
「ありがとう」
通話を終えた後も、美咲はすぐにはスマートフォンを下ろさなかった。
胸元へ抱え、しばらく目を閉じている。
「唐揚げ」
七海が静かに言った。
「食べられますね」
「うん」
「温泉も」
「行きます」
「積んでる小説も」
「読みます」
美咲が笑った。
「全部、明日からできます」
その言葉に、ノルンの胸が少しだけ締めつけられた。
明日が来る。
多くの人にとって、それはわざわざ意識する必要のないほど当たり前のことだ。
けれど今日、美咲はその当たり前を一度失いかけた。
だからこそ。
「美咲さん」
「はい」
「明日を、楽しんでください」
美咲が少し驚いた顔をする。
「観察官って、そんなこと言うんですね」
「言います」
「仕事っぽくない」
「私も最近」
ノルンは少し困ったように笑う。
「どこまでが仕事なのか分からなくなってまいりました」
『それは前からじゃない?』
「主様」
「何て?」
「余計なことを仰いました」
『余計じゃないよ』
「無視致します」
美咲がまた笑った。
「やっぱり仲良いですね」
「美咲さんまで!」
今日は何度目になるか分からないやり取りに、七海も小さく笑う。
◇◇◇
午前零時二十五分。
七海は再びソファで眠っていた。
三日間、まともに睡眠を取らず、美咲が死ぬ未来をどうすれば変えられるのか一人で考え続けた。その緊張が切れたのだろう。今度は先ほどよりも深い眠りで、美咲が薄い毛布を掛けても起きなかった。
「この人、本当に無茶するんだから」
美咲は呆れたように言いながら、毛布の端を七海の肩へ丁寧に掛け直した。
その仕草を見ながら、ノルンは静かに答える。
「美咲さんを助けたかったのでしょう」
「分かってます」
美咲は少しだけ七海の寝顔を見つめる。
「私も、逆だったら同じことしたと思います」
「予知夢を見られたら?」
「はい」
「三日間眠らず?」
「……そこは寝る努力します」
「その方がよろしいかと」
美咲は小さく笑う。
けれど、すぐにその表情が柔らかく沈んだ。
「怖かっただろうな」
「はい」
「何回も私が死ぬところを見たんですよね」
「そう伺っております」
「その上、私には言えなくて」
「はい」
「一人で何とかしようとして」
美咲は少し俯いた。
「私、昨日だったら七海さんのこと、ちょっと怖いって思ってたと思います」
「急に帰り道を変えようとされたから?」
「はい。理由も言わずに」
一度苦笑してから、美咲はノルンを見る。
「ノルンもついてくるし」
「私は別件では」
「分かってます」
少し笑って。
美咲はもう一度七海を見る。
「でも、話してくれてよかった」
「はい」
「怖くても」
一度、自分の胸元へ手を置く。
「知らないまま、周りの人に全部決められるより」
少しだけ考えて。
「知って、自分で決められた方が私はよかったです」
ノルンの胸が動いた。
それは。
観測者へ聞かせたい言葉だった。
けれど。
勝手に伝えてはいけない。
「美咲さん」
「はい」
「今のお言葉を」
一度確認する。
「観測者さんへお伝えしてもよろしいでしょうか」
美咲の目が少し大きくなった。
「聞くんですね」
「はい」
「前だったら勝手に言ってました?」
「……」
ノルンは真剣に考える。
「可能性はございます」
「あるんだ」
「申し訳ありません」
「いいですよ」
美咲は笑った。
「伝えてください」
「ありがとうございます」
「ただ」
「はい」
美咲の表情が少しだけ真面目になる。
「一つ、付け足してください」
「何でしょう」
「人の人生を」
一度。
「面白いかどうかで決めないでくださいって」
ノルンは静かに頷いた。
「承知致しました」
「お願いします」
「必ず」
◇◇◇
午前零時三十一分。
ノルンは窓際へ移動した。
部屋の中では七海が眠っている。
だから、声をできるだけ抑える。
「観測者さん」
呼びかけると。
すぐに。
淡い光が浮かんだ。
『いるよ』
「美咲さんから、あなたへ伝えてよいと許可をいただいた言葉がございます」
『聞く』
ノルンは一度美咲を見る。
美咲も頷いた。
「美咲さんは、怖くても、何も知らないまま周囲の方にすべて決められるより、知った上で自分で決められた方がよかったと仰っております」
光が止まった。
返事はない。
ノルンは続けた。
「それから」
『うん』
「人の人生を、面白いかどうかだけで決めないでほしいと」
今度は。
少し長い。
沈黙。
『怒ってる?』
「美咲さんが?」
『うん』
ノルンは少しだけ考える。
「少しは、当然ではないでしょうか」
『そっか』
「ですが」
『うん』
「あなたが、美咲さんの意思を受け入れたことについては」
一度言葉を選ぶ。
「私は、よかったと思っております」
『ノルンが?』
「はい」
『何で?』
「美咲さんが、ご自分の意思で今日を越えられたからです」
光が少し揺れる。
『僕、何もしてないよ』
「はい?」
『美咲を助けたのは、ノルン達』
その言葉に、ノルンは少し黙った。
『僕は』
一度。
『死んだ後、異世界へ行くか聞いただけ』
「……」
それは。
その通りだった。
観測者は、美咲の死を作ったわけではない。
助けたわけでもない。
ただ。
美咲が亡くなった後。
次の人生をどうするか。
それを聞こうとしていた。
『だから』
一拍。
『ありがとうは違うと思う』
ノルンは目を細めた。
少し前なら。
そんな言葉を。
観測者が言うとは思わなかった。
「では」
『うん?』
「美咲さんの意思を、勝手に変えなかったことについて」
一度。
「そこは、よかったと思っております」
しばらく。
光が揺れなかった。
『……それなら』
「はい」
『うん』
妙にぎこちない返事だった。
それでも。
ノルンには少しだけ。
相手が本当に何かを学び始めているように思えた。
「明日」
『うん』
「伺います」
『待ってる』
「主様もご一緒でよろしいですね」
光が一瞬。
止まった。
『主様も来るの?』
「当然です」
『ノルンだけじゃ駄目?』
「駄目です」
『何で?』
「安全確認のためです!」
『僕、何もしないよ』
「その言葉だけで信用できるほど、まだお付き合いは長くございません」
『……』
「何でしょう」
『ノルン』
「はい」
『慎重になったね』
「誰のせいですか!」
また声が上がった。
「ノルン」
美咲から即座に注意される。
「七海さん寝てます」
「……申し訳ありません」
『怒られた』
「あなたのせいです」
『僕?』
「そうです」
『おもしろい』
「そこです!」
今度こそ声を上げそうになり、ノルンは自分で口を閉じた。
美咲が肩を震わせて笑っている。
「……明日」
ノルンは改めて光へ向き直った。
「きちんとお話し致しましょう」
『うん』
「逃げないでくださいね」
『逃げない』
「本当に?」
『約束』
ノルンは少し黙ってから。
「分かりました」
と答えた。
『じゃあ、また明日』
「はい」
光が消える。
今度こそ。
部屋に静けさが戻った。
◇◇◇
午前一時を過ぎた頃。
ノルンは美咲の部屋を出ることにした。
今日という危険な時間を越え、因果固定も完全に消失している。
七海も泊まる。
なら。
これ以上。
観察官が居続ける理由はない。
「では」
玄関で。
ノルンは小さく頭を下げた。
「私は管理領域へ戻ります」
「はい」
美咲も少し眠そうだった。
それでも。
顔には。
穏やかさが戻っている。
「今日は、本当にありがとうございました」
「こちらこそ」
「だから何でノルンがお礼言うんですか」
美咲が笑う。
「色々、学ばせていただきましたので」
「観察官なのに?」
「観察官だからこそです」
「そっか」
美咲は少しだけ考える。
「また会えます?」
ノルンは一瞬。
言葉を止めた。
美咲はもう。
緊急観察対象ではない。
異世界転生も望んでいない。
本来なら。
今後。
定期的に会う理由は。
ほとんどない。
でも。
「はい」
すぐに答えた。
美咲が少し驚く。
「即答ですね」
「明日、観測者さんとお会いした後」
一度。
「ご報告へ伺ってもよろしいでしょうか」
「私に?」
「美咲さんのお話も関係しておりますので」
美咲は少し考えて。
「じゃあ」
一度笑った。
「来てください」
「はい」
「ただし」
「はい」
「会社には来ないでください」
「……」
「目立つので」
「承知致しました」
「あと」
美咲が少し言いにくそうにスマートフォンを持ち上げた。
「普通に連絡できないんですか」
「連絡?」
「はい」
「スマートフォンで?」
「そうです」
ノルンは。
止まった。
自分は。
持っていない。
「主様」
『聞こえてる』
「私」
『買う?』
「買えるのですか?」
『地球で働いた分のお金あるでしょ』
「……」
一瞬。
洗濯場で働いている自分の姿が頭へ浮かぶ。
あれはタリウス王国の仕事。
ただし管理領域側で、各世界の通貨や必要経費へ変換できる仕組みはある。
「買えます!」
思わず声が弾んだ。
「何でそんなに嬉しそうなんですか」
「初めて自分用のスマートフォンを持てます!」
「そこから?」
「はい!」
美咲は額へ手を当てた。
「観察官って、思ってたより普通ですね」
「普通でしょうか」
「少なくとも、スマホ買えるって喜んでるところは」
ノルンは少し考え。
「では、購入できましたら」
「はい」
「連絡先を交換していただけますか」
美咲が笑った。
「もちろん」
「ありがとうございます!」
また少し声が大きくなり、ソファの七海が僅かに動いた。
「声」
「……申し訳ありません」
美咲はもう笑いを堪えられなくなっていた。
「本当に変な人」
「否定しづらくなってまいりました」
玄関の扉を開き。
美咲が言う。
「じゃあ」
一度。
「また明日」
ノルンは。
その言葉を聞いて。
少しだけ動きを止めた。
昨日。
同じ人から。
『ついて来ないでください』
そう言われた。
今日。
今は。
『また明日』
それだけで。
大きな違いだった。
「はい」
ノルンも笑う。
「また明日」
扉が閉じた。
◇◇◇
管理領域へ戻った時には、地球時間で午前一時二十二分を回っていた。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
主様はいつもの机の前にいた。
ノルンは椅子へ座ると、しばらく姿勢を保っていたものの。
やがて。
少しだけ。
机へ額を近づける。
「……疲れました」
「うん」
「とても」
「うん」
「本当に」
「お疲れ様」
主様が温かい飲み物を差し出した。
ノルンは両手で受け取る。
「ありがとうございます」
一口。
温かい。
ようやく。
身体まで。
今日が終わったことを理解した気がした。
「美咲さんは」
「うん」
「今日を越えました」
「うん」
「七海さんも、ようやく眠れました」
「うん」
「因果固定も」
「完全に消えてる」
ノルンは。
もう一口。
飲む。
少し。
肩の力が抜けた。
「そして」
「明日」
主様が続ける。
「観測者へ会う」
「はい」
ノルンは顔を上げる。
「主様」
「何?」
「本当にご一緒くださいますね」
「行くよ」
「絶対ですか」
「絶対」
「私だけ置いて」
「行かない」
「途中で帰ったり」
「しない」
「危険な時は」
「ノルンを先に逃がす」
「主様も逃げてください!」
「分かった分かった」
「大切なことです!」
主様が少し笑う。
ノルンは温かい飲み物をもう一口飲んだ。
「それから」
「うん?」
「スマートフォンも」
「そっちも忘れてなかったんだ」
「もちろんです」
「観測者に会う日だよ?」
「美咲さんとの約束も大切です」
「そっか」
「はい」
ノルンは少しだけ笑った。
けれど。
その表情は。
すぐに真面目なものへ戻った。
「主様」
「何?」
「観測者さんは」
一度。
「何者だと思われますか」
主様は。
珍しく。
すぐに答えなかった。
机の上の世界記録を見つめ。
少し考えてから。
「分からない」
「主様でも?」
「うん」
「神様ではない」
「本人が否定した」
「世界管理者でもない」
「うん」
「人でもない」
「そう言った」
「では」
ノルンは眉を寄せる。
「世界の外側で存在している、何か」
「可能性は高い」
「……」
「ただ」
主様は少しだけ目を細めた。
「今日までのやり取りを見る限り」
「はい」
「少なくとも」
一度。
「ノルンと話すこと自体は、かなり望んでる」
ノルンは少し驚いた。
「私と?」
「うん」
「なぜでしょう」
「明日、本人に聞こう」
その言葉に。
ノルンは少し黙って。
「……そうですね」
と答えた。
もう。
文字越しに推測する必要はない。
明日。
本人と。
会える。
二十五年前。
九人の魂を選び。
世界を変え。
器を変え。
前世物品を持たせ。
その後の人生を長い間眺め続け。
そして今。
ノルン達へ自分から接触してきた存在。
聞きたいことは。
山ほどある。
「主様」
「何?」
「眠れそうにございません」
「寝て」
「ですが」
「明日、観測者に会うんでしょ」
「はい」
「寝不足で行く?」
「……」
三日間ほとんど眠らなかった七海を思い出す。
「寝ます」
「よろしい」
「主様も」
「僕も?」
「はい」
「まだ仕事が」
「寝てください」
「ノルン」
「何でしょう」
「今日だけで、随分言うようになったね」
ノルンは少し考えてから。
「誰か一人が全部を抱え込まない方がよいと」
一度。
笑った。
「今日、学びましたので」
主様も。
少し笑った。
「そっか」
「はい」
ノルンは立ち上がる。
自室へ向かい。
扉の前で振り返った。
「おやすみなさいませ、主様」
「おやすみ、ノルン」
扉を閉じる。
その夜。
眠りへ落ちるまで。
少し時間がかかった。
怖いからだけではない。
ようやく。
会える。
ずっと追ってきた。
正体不明の観測者。
何を考えているのか。
なぜ二十五年前に九人を選んだのか。
なぜ世界を変え。
器を変え。
人の人生を長い間眺め続けてきたのか。
そして。
なぜ今。
ノルンへ。
自分から会おうとしているのか。
聞きたいことは尽きない。
それでも。
眠りへ落ちる直前。
最後にノルンの頭へ浮かんだのは。
観測者の文字ではなかった。
『また明日』
美咲の言葉だった。
今日。
死ぬはずだった人が。
明日。
誰かと会う約束をする。
その当たり前が。
こんなにも嬉しいものだと。
ノルンは今日。
初めて知った。
そして。
明日。
ノルン自身も。
一つの約束を果たす。
二十五年前から世界の外側に留まり、誰にも正体を知られないまま人の人生を見続けてきた存在。
観測者。
今度こそ。
文字越しではなく。
同じ場所で。
真正面から。
その相手と向き合うために。




